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姉弟〜あるいはなぜ僕と彼女は傷つけあったか〜


                                              written by TITOKU


 僕がその知らせを受け取ったのは西日が厳しい、それでいて奇跡的な美しさを見せるある夏の日の夕暮れだった。その日僕は何か不吉な予感を抱いていた。左手の小指にある古傷が妙に痛むのだ。今思えばそれはいわゆる虫の知らせと呼ばれるものだったのかもしれない。

「この夕日の所為だ。」

僕は呟く。

「こんなに赤くて、奇麗だなんて何処かおかしいよ。これじゃあまるで、」

僕は言いよどむ。

「これじゃあまるで、血の赤じゃないか。」

そう、あの日に流した僕と僕の大切な人の。そして、その言葉が僕の中の不安に現実的な形を与え始めたとき、僕はその考えを振り払うように駆け出して家路を急いだ。抱えたチェロのケースがひどく邪魔だった。

 家に到着すると、父さんがいた。いつも研究で帰りが遅い父さんが午後四時という早い時間に家にいたことが僕の不安にいっそうの拍車をかけた。父さんは僕の姿を確認するなり言った。

「行くぞ、シンジ。」

「行くって、何処にさ。」

僕は僕の中の不安を見透かされないように極めて簡単に答えた。

「お前の姉さん、レイのところだ。」

その言葉が先ほど具体的な形を持ち始めた僕の中の不安に、より現実的な事柄を示唆し始めた。

「…じゃあ、もう長くはないんだね。」

「多分これが最後になるだろう。」

父さんの声はこんな時も冷静だった。その冷静さが僕を少しだけいやな気分にさせた。でも僕は何も言わなかった。父さんのその冷静さの裏には深い悲しみが隠れていることに漠然と気づいていたからだった。もっともそのことをはっきりと確認したのはもう少し後のことだったけれども。

 病院は嫌いだった。でも、僕はここにいる。本当にあの時の状況に似ている。あの母さんの最後の日と。僕に対して無限の愛情を降り注いでくれた母さん。とても笑顔の優しかった母さん。でも、もう絶対に会う事ができない人、僕が死んで天国に行かない限りには。









 『病院と母親』 この二つの単語が重なる時、それは僕に絶望という言葉を連想させる。初めて人前で恥じも外聞もなくわめき散らした日の事を。そんな僕を慰めてくれたのが姉さんだった。姉さんは家に帰ってきてもいっこうに泣き止まない僕をただ優しく抱きしめていてくれていた。僕が眠ってもずっと。翌日、目を覚ますと姉さんが添い寝をしてくれていた事から僕はその事実を知った。姉さんの頬には二本の涙の通った跡があった。姉さんも悲しかったんだ。僕はその二本の筋を見てそう思った。自分の悲しみより僕の事を気にかけてくれた事が嬉しかった。と同時に少しだけ恥ずかしい気分にもなった。でも、それは僕の大きな悲しみを癒す事はできなかった。母さんの事を思い出すと、僕の腫れぼったい目からはまた大粒の涙がこぼれ始めた。泣いちゃだめだ。泣いたらまた、姉さんに心配をかける。そう思えば思うほど僕の眼からは次々と涙が溢れ流れ、ついにはしゃくりあげるような鳴咽まで漏れ始めた。

「どうしたの?」

姉さんはそんな僕の様子で目を覚まして尋ねた。

「そう、悲しいのね。」

そう言うと、姉さんは昨日と同じように僕を優しく抱きしめてくれた。僕は姉さんにこうして欲しかったからまた泣いたのかな?姉さんの暖かさを感じながら、ふと僕はそんなことを考えていた。

 こんな事があってから、僕の中には姉さんに対する一つの変化が起きていた。少しずつだが確実に。それは姉さんに母さんを重ねて見ているという事だった。もっとも当時はそんなことには気付かなかったけれども。僕はなにかにつけ姉さんを頼った。ただかまって欲しかった。姉さんには僕だけの姉さんでいて欲しかった。そんな僕の気持ちを知っていたかどうかは分からなかったけれども、姉さんは優しい微笑みを僕に向けてくれた。まるで母さんのような。その笑顔を見るたびに僕は無条件に嬉しくなった。母さんがいなくても僕は姉さんがいる限り幸せだ。そんなことを僕は考えていた。

 しかし、その幸せも永久に続くものではなかった。その話を父さんから聞いた時、僕は人生二度目の絶望を味わった。いても立ってもいられなくなって姉さんのもとに走った。直接姉さんの口から確かめるために。

「姉さん!」

僕の声は知らず知らずのうちに大きくなっていた。

「ほんとなの、あの話。」

「…そう、お父さんから聞いたのね。」

「僕の質問に答えてよ。姉さん!」

僕の質問に対する姉さんの答えは僕がもっとも聞きたくないものだった。

「本当よ、私来月お嫁に行くわ。」

僕は姉さんのその答えを聞いた時、目の前が真っ暗になった。母さんが死んだ時と同じ、いやそれ以上の喪失感が僕を襲った。そして、僕の目からはあの時と同じように涙がこぼれ始めた。そんな僕の様子を見て姉さんは僕を抱きしめようとした。そうあの時のように。

「やめてよ!」

僕は叫んでいた。その言葉に少し驚いたように姉さんは僕の背中に回しかけていた手を止め、僕から離れた。

「姉さんが僕をそうやって抱きしめるのは僕がかわいそうなだけなんだ!決して愛してくれているわけじゃないんだ!愛してくれているふりをしているだけなんだ!愛してくれているふりだからこそ、僕を簡単に捨ててしまえるんだ!」

姉さんは僕の言葉を聞くと少し悲しそうな顔をした。でも、視線は決して僕の目から逸らさなかった。その瞳は今思うと少し潤んでいたのかもしれない。その視線にいたたまれなくなった僕はある種決定的な言葉を吐いた。

「姉さんが僕を愛してくれないのなら、全部僕のものにならないのなら、姉さんなんていらない!」

僕はそう言うと階段を駆け登り自分の部屋に閉じこもった。悲しくて悲しくて何もしたくなかった。たださっき姉さんにぶつけた言葉だけは猛烈に後悔していた。

「なんであんな事を言ってしまったんだろう。」

僕はそんなことを呟いていた。分かっていたはずなのに、姉さんがやがては何処かに行ってしまう事を。永遠に僕だけの姉さんでいてくれることがない事を。分かっていたはずなのに、姉さんが僕を愛していないわけがない事を。そうでなければ決してあんなに優しく抱きしめてくれるわけがない。そう、分かっていたんだ。…でも、でも、何でこんなに悲しいの?これが大人になるって事なの?誰か答えてよ!誰か!僕は自分でしか始末の付けられない事を僕でない誰かに押し付けていた。当時の僕にはそうする事しかできなかった。そのままその夜は更けていった。僕の気持ちをその場所に貼り付けて。そして、僕はいつしか眠りについていた。









 夢だった。確かにそこは夢の世界だった。僕はそう認識していた。でも違う。何かが違う。僕はその違和感に導かれるまま一通り周りを見まわしてみた。360度見回した後に僕はその違和感の正体に気がついた。

「そうだ色だ。色があるんだ。」

夢の中にもかかわらず、僕は言葉を発していた。僕は自分の覚えている限り、初めて色付きの夢を見ていたのだ。

「でも何か寂しいな、何でこんなにくすんだ色ばっかりなんだろう。」

僕の見渡す限りには茶色、灰色、えんじ色といった地味な色ばっかりだった

「せっかく色付きの夢を見ているんだから、もっとぱあっと明るくてもいいのに。」

そう言った瞬間だった。僕の周り地味な色が次々と極彩色の色に変化していったのだ。オレンジ、スカイブル−、レモンイエロ−さらには蛍光色まである。その光景は目が痛くなるほどだった。僕は無条件に楽しくなった。この世界では僕の望みは全て適うのかもしれない。もしそうだとすると、そうだとすると……

「母さんに会えるかもしれない、いや、会えるはずだ、ううん、会いたい。」

僕は自分の願いを言葉にしてみた。さっきのように。すると、僕の目の前に白いもやのようなものが現れ、それが徐々に人の形を取り始めていった。しかし、いつまで経ってもそれははっきりとした母さんの形をとるには到らなかった。

「これは、どういう事なんだろう?」

僕は疑問に思った。まさか、僕は忘れかけているのだろうか?あんなに好きだった母さんなのに。僕はその考えを振り払うように目を閉じ、自分の記憶の中にある母さんを次々と思い浮かべていった。優しい母さん、いつも微笑みを絶やさなかった母さん、奇麗な声をしていた母さん。しかし、その姿は僕の中で何故か姉さんの像を結び始めていた。

「シンジ。」

突然僕に声がかかった。優しい声だった。僕はその言葉に驚いて目を開けた。母さんがいるのではないかと思ったのだ。しかし、僕の目の前にいたのは母さんではなく、姉さんだった。姉さんはいつも着ている白いワンピ−スを身につけていた

「姉さん。」

僕は眼の眼にいる人物に軽い失望を抱きながら、そう言った。

「いえ、違うわ。私はあなたの姉さんじゃない。」

姉さんの姿をした人は極めて冷静にそう答えた。

「じゃあ、ひょっとしたら母さんなの?」

僕は母さんの姿がうまく思い浮かべる事ができなかったから 、代わりに姉さんの姿で現れたのじゃあないか、と思ったのだ。それほど僕の中で二人はよく似ていたのかもしれない。

「それも違う。私はあなたの母さんでもない。」

僕は訳が分からなくなった。じゃあ、僕の目の前にいる姉さんによく似ている人はいったい誰なのだ?

「それじゃあ、あなたは何処のどなたなのですか?何故僕の名前を知っているのですか?」

僕の口調は僕の知らない他人かもしれないという認識から幾分丁寧になってきていた。

「そう、知りたいのね。」

姉さんによく似ている人は姉さんの口調でそう答えた。

「でも、あなたがそれを知ったら、あなたは後悔するかもしれないわよ。」

僕は迷った。でも、無性に知りたくなった。それは僕の知らない人が僕の姉さんの姿をしているという事に軽い怒りに似た感情を感じていた所為かもしれなかった。

「はい、それでもいいです。教えて下さい。」

姉さんによく似た人は軽く微笑んだ。それは姉さんの優しい微笑みそのままだった。そしてその人は僕の方へ一歩二歩と近づいてきた。僕のほんの数十センチ前で立ち止まると、その人はおもむろに着ている夏向けの白いワンピ−スを脱ぎ始めた。とてもゆっくりと。まるで僕に見せ付けるように。

 僕はその光景を黙って見ていた。いや、正確に言うと何も言う事ができなかったのだ。僕の脳は思考を停止していた。ただ下腹部にある熱い疼きだけを認識していた。まるで別の生き物のようだった。

 その人は全て脱いでしまうと、僕の服のボタンに手をかけた。その手に触れられた時、僕の機能を失っていた脳は再びその活動を再開した。僕は二つ目のボタンを外そうとしていた手を振り払うと、一歩跳び下がった。

「や、やめてよ!」

僕の声は焦りのあまり震えていた。

「何でこんなことするんだよ!こんな事をする事とあなたの正体といったい何の関係があるんだよ!」

僕の口調は先ほどのものとはすでに変わっていた。姉さんの姿をした人はあくまに冷静に僕の質問に答えた。

「私がしたいと思ってうるわけではないわ。あなたがそう望んでいるから、私はそれに従ったまで。ここはあなたの夢の世界、あなたの望みは全て叶えられる。心の底に押し隠しているあなたの欲望まで全て。そして私は…」

その人は眩しいほどの白い肌を隠そうともせず、そこまでいうと言葉を切った。そしてその後を続けた。

「私はあなたの理想の女。」

姉さんの微笑みをその顔に貼り付けたまま、その人はそう言った。そしてさらに続ける。

「そう、あなたは自分の姉さんを抱きたいの、それも男として。それだけではないわ、あなたは自分の母さんまで抱きたいと思っていた。私がここに存在する事が何よりの証拠。あなたは最初に自分の母さんを思い浮かべた。でも現れたのはあなたの姉さんの姿をした私。…そう、私はあなたの欲望の対象。」

その人はそう言うと、再び僕の方へと手を伸ばしてきた。僕はその手から逃れて叫んだ。

「違う!!僕はそんな事は望んではいない!そんな事考えるわけないじゃないか!」

そう叫んだ後、僕は考える。本当に今の自分の言葉に嘘がなかったのか、と。この下腹部でその存在を主張しているものは何なのか、と。その人は僕のその考えを見透かしたように言う。

「私は知っているのよ。あなたの事は全て。あなたが毎晩のように自分の部屋で何をしているのかを。あなたがその行為の最後に何て言うのかを。私はあなたが造ったものだから。だから、自分の欲望に素直になりなさい。素直に私と楽しみましょう。あなたのしてほしい事は全てして上げるわ。それに、ここなら誰にも迷惑はかからないのよ。」

僕は全く動く事ができなくなっていた。今の言葉に僕は決定的なダメ−ジを受けていた。涙が眼からこぼれ出ていた。その人はそんな状態の僕を満足そうに見ると、僕を極彩色の床の上に仰向けに寝かせ、服を脱がせ始めた。シャツを脱がされ、ズボンを脱がされ、そしてブリ−フに手がかかった時、僕の心にほんの少しだけ正気が戻った。その正気を総動員して僕はやっと一言だけ言葉を発した。

「…やめろ。」

その人は驚いたようにして僕の顔を見た。その姉さんの顔をした女の瞳がひどく淫靡な光を宿しているのを見て僕の中に強烈な不快感が湧きあがってきた。そしてその不快感に触発されるように僕は叫んだ。今まで発した事のないような大きな声で。

「やめろーーー」

その言葉とともに極彩色の空間はその派手な色を急速に失いながら消え、それと同時に僕は遠い場所に引き戻される感覚を味わっていた。











 最初は何が何だかわからなかった。僕が何処にいて今が何時なのかさえも。だが、すぐに思い当たった。何てことはない、僕はあの夢で最後に発した自分の声で目が覚めたのだった。

「ええと、ここは」

僕は自分の存在を確かめるために声を出してみた。

「僕の部屋で、そして今は」

次に僕は目覚し時計に目をやった

「午前3時か。」

嫌な汗をかいていた。汗だけではなく、自分の中にある何か嫌なものも汗腺を通して排出したように感じた。シャワ−を浴びたかったが自分の部屋出る気にはなれなかった。ただ何もしたくなかった。このままもう一度眠ってしまおうと思ったが、下腹部の疼きが気になって眠れなかった。眠る事が不可能だと分かると僕はベッドから上半身を起こした。そして、少しの間迷った後、僕は、




「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、」




「うっ、姉さん 。」




毎晩のように行っていた行為を繰り返していた。その行為の最後に言う言葉もいつものままに。

「最低だ、俺って。」

その言葉は僕の理性を代弁したものだった。













「…シンジ。」

「シンジ。」

僕は何処か遠い場所でその声を聞いていた。

「シンジ、起きなさい朝よ。」

僕は自分の体が揺れているのを感じた。僕は決して夢は見る事はできないだろうと思われるほど深い睡眠から徐々に引き戻されていった。そして僕はゆっくりと閉じていた目を開けた。視界には僕を揺さぶっている姉さんの姿があった。

「姉さん?」

僕は寝ぼけたままそう言った。

「おはよう、シンジ。」

姉さんはいつもと同じだった。昨日あんな酷い言葉をぶつけたのに、姉さんは優しい笑顔を僕に向けていた。しかし、その無垢ともいえる笑顔が僕に昨日の夢を思い出させた。その後に一人で行った行為も同時に。その一連の記憶は甘美なものであると共に最も嫌悪すべきものであった。そのまま目の前にいる姉さんが夢の中の姉さんの姿をした人と重なる。まだ決して誰も触れたことがない万年雪のように白い肌、体自体は華奢だが意外なほど豊かな胸、そしてあの淫靡な瞳。それらが僕の脳裏に浮かぶと顔が紅潮し、心臓が早鐘を打ち、脇の下に大量の汗をかき始めるのを感じた。

「どうしたの?顔が赤いわよ。体調が悪いの?」

僕の様子にいつもと違うところを感じた姉さんは心配そうに僕に尋ねた。そして僕が風邪を引くといつもやってくれるように顔を近づけ額と額をくっつけた。姉さんは正確に熱を測るためか目を閉じていた。

 違う!僕は心の中で叫んでいた。これは姉さんが僕を心配してやってくれているんだ。熱があるかどうか確かめるために。違うんだ!姉と弟という関係だからこそなんだ。そう自分に言い聞かせたにもかかわらず僕の視線は白い肌に良く映える姉さんの赤い唇から外せなくなっていた。そして僕は、姉さんの唇にゆっくりと自分の唇を近づけてゆき、そして僕は、不器用なキスをした。僕のくらい欲望そのままに。

 唇と唇が触れ合った瞬間、姉さんは大きく目を見開いた。その瞳は今起こった事が理解できないといったような表情をしていた。そして唇を強引に引き離すと、いつもの姉さんの動作とは思えないほど素早く僕から離れた。姉さんは僕から1メ−トルほど離れた場所に立つと唇に手を当て、僕をじっと見詰めた。昨日の僕の言葉を思い出しているのかもしれない。その瞳はいつもの優しいものとは違い、僕が初めて見るものだった。僕は姉さんが次に発するだろう言葉を待った。願わくばそれが断罪の言葉であるように、そうであれば僕は許される。その時僕は真剣にそんなことを考えていた。しかし姉さんの口から紡ぎだされた言葉は僕にとって全く予想外のものだった。

「朝御飯できてるから。」

姉さんはそれだけ言うと僕の部屋から出ていった。それから一月、姉さんが嫁ぐ日の前日まで僕と姉さんは必用最低限の事しか話さなかった。いや、話せなかった。









「お前の考えている事は大体分かる。」

姉さんが嫁ぐ日の前日の夜、父さんはノックもせず僕の部屋に入って来るなりそう言った。僕はベッドに横になり、白い天井を見つめたまま父さんの言葉を聞いていた。

「お前は自分の事しか考えておらん。少しはレイの幸せの事も考えてやれ。」

弟として、だろ。その考えは僕の口から出る事はなかった。

「それに、あれの旦那になる男はなかなかできた人間だ。お前も直接会ってそう思っただろ。」

そう、あの男、加持リョウジとか言ったっけ、確かにいい人だと思った。背が高く、なかなかのハンサムで、一流企業に勤めていて、そこでは将来を嘱望されていると聞く、家は僕の家とは比べほどもない資産家で、それに何よりも姉さんを愛している。という気持ちがその体から発散されていた。一言で言えば姉さんの結婚相手としてこれ以上の人間はいない。そう思えるような男だった。そして僕にも優しかった。それは決してうわべだけのものではないという事がその態度に表れていた。でも僕は好きにはなれなかった。頬を赤らめて楽しそうにあの男と話す姉さんを見た時、その気持ちは僕の中で決定的なものになった。

「どうした、何を黙っている。」

父さんはベッドの上で身じろぎ一つしない僕に焦れたように言った。

「・・・・・・・・・・・」

それでも僕が何も言わないと知ると、父さんは溜め息を一つついて少しの間僕の方を見つめ、やがて決心したように言った。

「お前には黙っていたが、レイの結婚話を進めたのはわしだ。」

僕はその言葉を聞くやいなや、ベッドから跳び起きた。

「やはりな、これには反応すると思っていた。」

僕は父さんを憎しみのこもった目で睨んだ。父さんは僕のそんな視線を気にせず話を続けた。

「結婚話を進める際にまず第一に考えたのはレイの事だ。あれには母さんが死んでから色々な苦労をかけた。幸せになる権利も資格も十二分にある。それにわしも幸せになって欲しいと思っていた。そして次に考えたのはシンジ、お前の事だ。お前はさまざまな面でレイに頼り過ぎている。傍から見ていると、お前はレイがいないとまるで何もできないように思える。シンジ、お前はもう15だ。いいかげん乳離れしてもいい年齢だろう。わしはお前に自立して欲しいのだ。わかってくれるな。」

父さんはそこまで一気に喋ってしまうと、反応を待つかのように黙って僕の顔をじっと見つめた。しかし、僕は何も言わなかった。そのまま一分間ほど見つめ合った後、僕の返答がない事を知ると父さんは言った。

「いいか、シンジ。明日はレイを笑って見送ってやれ。男なら見苦しいところを決して見せるんじゃないぞ。わしがお前に言いたい事はそれだけだ。今日は早く寝ろ。」

父さんはそこまで言うと僕の部屋から出ていった。僕は糸の切れた人形のように再びベッドの上に倒れ込んだ。そして何もない白い天井をじっと見つめ、そのまま僕は深い思索の海に沈み込んでいった。

 父さんの言っていた事は分かる。確かに正論だ。でも頭ではそれを理解していても、気持ちがそれを拒否している。このどうしようもない気持ちは何処に向ければいいのだろうか?誰に向ければいいのだろうか?以前はこのような気持ちは姉さんに向けていた。でも、もうそれはできない。姉さんは明日あの男のものになってしまうのだから。結局、自分で処理をつけるしかない。それはもう決定してしまった事なのだ。それは分かる、十分に理解できる。でも、でも、それは僕には、自分の中で決着をつけるのには、とても苦しすぎる。そして、悲しすぎる。僕の心の許容量を遥かに越えてしまって、僕という一人の人間はとても耐えられそうにない。

「だからあんな夢を見たのかもしれない。」

僕は一月前に見た未だに忘れられない夢のことを思い出して、そう呟いた。あの時、姉さんの結婚話を聞かされた僕はその急激に加えられた重圧に耐えられず、そこから少しの間逃れるために、言わば、ガス抜きのためにあんな夢を見たのかもしれない。結果としてそれは、僕をさらに苦しめる事になってしまったけれども。次に僕は夢の中に出てきた姉さんの姿をした人のことを思い出す。一月も経つとさすがに僕も幾分冷静にあの人の事を考える事ができた。心の中にわきたつさざなみは完全に押さえる事はできなかったが。

『あなたは自分の姉さんを抱きたいの。』

夢の中であの人はそう言った。確かにそうかもしれない。毎晩のように行っていた行為の対象は姉さんだった。それは間違いない。ここまで考えた後、僕の中に何かがひっかかるのを感じた。あれ、何か変だな。何か気持ち悪い。何かを僕は見落としている。それが分かれば全て決着がつく。そして僕の中に確実にその答えは眠っている。僕の中でその考えは確信と言ってもいいものにまで膨らんでいた。

 そのようにして、僕は答えを追い求めていた。そんな時。

「コン、コン。」

最初は音がしているという認識しかなかった。それほど僕の思考は深いものだった。

「コン、コン。」

・・・・・誰かが僕のドアを叩いている。次は歌のタイトルのような事を考えた。ん、叩いている?ノックじゃないか、それって。

「は、はい、開いてるよ。」

僕は少しばかり慌ててそう答えた。

「少し、お邪魔してもいいかしら。」

その言葉と共に僕の部屋に入って来たのは姉さんだった。











「今、父さんのところに行って来たわ。」

そうか、それで目が赤いのか。僕は姉さんの顔を見てそう思った。

「あの、あれ?最後の挨拶ってやつ?」

僕は結婚前日に行われる一連の儀式のようなものを思い出して言った。

「こういう事はきちんとしておきたいから。」

姉さんらしいや、何事に関してもきっちりと最後まで行う。それが僕の姉さん。

「それで僕のところにも?」

僕はこんな風に姉さんと話すのも一月ぶりだな、と思いながら尋ねた。

「それもあるけど…」

姉さんは少し話しにくそうにこちらを見た後、いきなり核心に触れた。

「何故、私にあんなことをしたの?」

姉さんのその言葉が一月前の朝の出来事を指していることはすぐ分かった。

「そ、それは…」

僕にはその答えが浮かんでこなかった。しかし、姉さんのその質問が先ほど僕が考えていた事と根本の部分で繋がっているのではないか。ふと、そんなことを思い付いていた。

「言えないような事なの?私に?」

姉さんの目は真険そのものだった。

「私、家族に祝福されてお嫁に行きたいの。このまま嫁いでしまったら、多分、一生後悔する。だから、これだけはどうしても答えてほしい。」

姉さんの喋る様子はもはや懇願に近いものだった。 僕はいたたまれなくなっていた。どうしても答えなくてはならない。でもどう答えたらいいんだ?中途半端な答えは姉さんを苦しめるだけだ。考えろ、考えるんだ。さっきの問題を。その答えを言ってしまえばいい。それが僕の姉さんに対する全てだ。それが僕の中にある真実なんだ。

 ・・・・・・わからない、わからない。ごめん、姉さん。僕は、また姉さんを……ん?姉さん?何で、姉さんなんだろう?何で僕の行為の対象は姉さんだけだったんだろう?他にも魅力的な女性はいっぱいいる。学校一の美人だと評判のクゥオ−タ−の女の子でも、少しがさつだが抜群のスタイルを誇る担任の先生でも、行為に対象にしても良かった筈じゃないか。それにもかかわらず、僕は姉さんだけだった。そうか、そういうことなのか。やっと、分かった。決して性欲の問題ではなかったんだ。

 姉さんは黙ったまま、じっと僕の返答を待っていた。僕は姉さんの方に自分の体を向き直すと自分の中にある言葉を整理し直して、答えの最初の一言目を発した。

「姉さんだからだよ。」

姉さんは分からない、という顔をして言った。

「何故、私だからなの?」

当たり前だ。こんな簡単な一言で理解できる訳がない。僕はさらに答えを続けた。

「僕はいつの頃からかずっと姉さんを抱きたいと思っていた。でも、誤解しないで欲しい。それは決して性欲から来ているものではないんだ。僕は姉さんを愛している。そして僕は、姉さんも僕を愛している、と思っている。その証拠が欲しかっただけなんだ。何故なら、僕が考えている最も純粋な愛のかたち、言わば究極の愛のかたちが、その、することだったんだ。だからあの時はこの衝動に突き動かされてあんな事をしたんだ。」

僕は恥ずかしい台詞で顔が真っ赤になってしまったが、言いたい事を言ってしまった事ですっきりしたという思いの方が強かった。姉さんの方を見ると、何か考えているようだった。そして、決心がついたかのように言った。

「そう、証拠が欲しいのね。少し待っててくれる?」

その言葉と共に姉さんは部屋を出ていった。何かを思い付いたようだった。

 ほぼ5分後、今度はノックもなくいきなりドアが開いた。姉さんは何故か裁縫箱を持って部屋に入って来た。そして僕の前に座ると、裁縫箱をあけ一振りの大きめのはさみを取り出した。

「これなんだか分かる?」

姉さんははさみを僕に見せながら、そう尋ねた。

「何って、断ちばさみでしょ。」

僕にはそれ以外の何物にも見えなかった。

「これはね、母さんがお嫁に来た時に持って来たものなの。そして、私への形見の品の一つでもあるわ。」

僕はそんなものがあるとは知らなかった。そういえば母さんは針仕事が好きだった。

「ものすごく良いものなのよ。高名な刀鍛冶が丹精込めて造ったものだと聞いているわ。もう20年以上も前のものなのに、ほら、こんなに良く切れる。」

姉さんはそう言うと、はさみを目いっぱい開き、自分の袖口にその刃を当てた。触れるか触れないかのうちに姉さんの服の袖は奇麗に切れてしまっていた。

「それをどうするの?」

僕は姉さんの突然の行動に訳がわからないまま尋ねた。

「これから儀式を始めるの。」

「儀式?」

僕はほとんど鸚鵡返しで聞き返した。

「そう、あなたの求めていたもの。さあ、左手を出して。」

僕は姉さんの幾分荘厳な雰囲気に気おされて、言われるまま左手を差し出した。

「少し痛いけど我慢してね。」

そう言うと、姉さんは僕の左手の小指の指紋の部分にそのはさみの鋭利な刃を押し当てた。『ザクッ』という音と共に刃が僕の指にのめり込み、血が吹き出し始めた。

「痛っ」

僕は痛みのあまり思わず声を漏らした。

「ごめんなさい、深く切らないと痕が残らないから。さあ、私も。」

姉さんはそう言うと、自分の左手にも同じように傷をつけようとした。

「待って!」

僕は声を出して姉さんを呼び止めた。

「待って、姉さん。僕にやらして。」

姉さんは黙ったまま僕にはさみを手渡した。僕は姉さんの左手を握り、少し躊躇った後、姉さんが僕にしたのと同じように、刃を小指に押し当てた。また『ザクッ』という音と共に姉さんの指から真っ赤な血が流れ出て、その白くて細い指を伝った。その赤と白のコントラストは神秘的なまでに美しかった。

「姉さん、大丈夫?痛くない?」

「んっ、大丈夫よ。」

姉さんはその端正な顔を少し歪ませて答えた。

「もう一度左手を出して。」

僕はその言葉に素直に従った。

「私も、」

姉さんは僕と同じように左手を差し出し、そして僕の左手の小指の傷と自分の左手の小指の傷を触れ合わせた。

「これが儀式、あなたと私の。そしてこれが証拠、私があなたを愛していることの、あなたが私を愛していることの……んっあっ、シンジの血が私の中に……」

気がつくと、僕は泣いていた。嬉しくて、泣いていた。これほど姉さんを身近に感じた事はなかった。傷の痛みはもう感じなかった。むしろ心地良いくらいだった。互いの血を交換する事によって姉さんは僕にとって、僕は姉さんにとって、特別な存在になったのだ。

「言葉は後に残らない、文字にすると過去のものになる。でも、この傷は一生残る。死んで骨にでもならない限り決して消える事はないの。この傷を見るたびに、この痛みを思い出すたびに、私たちは互いを感じる事ができる。これが絆、そして私たちの愛の形。」

姉さんの声は僕の心の奥深くまで染み込んでいった。













「嫌だ!!」

僕は叫んでいた。

「絶対に嫌だ!!」

そんなことをしたら、そんなことをしたら、消えてしまう。無くなってしまう。姉さんと僕の絆が。

「シンジ、お前の気持ちは分かる。だが、これはもう、どうしようもない事なんだ。」

父さんは姉さんの遺体にしっかりとしがみついて離れない僕に語りかけるようにそう言った。

「何を分かっているって言うんだよ!父さんが僕の何を!」

二年前のあの日、何があったか知らないくせに。

「確かにレイが死んだ事は悲しい事だ。だが、それは乗り越えて行かなければならない事だ。もちろん今すぐにとは言わん。だがな、お前ならできるとわしは信じている。」

できないよ、そんなこと。僕は父さんほど大人じゃないから。

「なぜならな、お前はレイが嫁いでいった日、笑って見送ったではないか。あの日にな、わしは思ったんだ、お前は自立への道に足を一歩踏み入れたと。」

違う!違うんだ、父さん。僕はそんなんで笑って見送った訳じゃないんだ。

「そして、この二年間お前は見違えるように成長した。半年前お前がチェロの全国コンク−ルに優勝した時、わしはそう確信した。」

だから、違うんだ!僕が頑張ってこれたのは姉さんをいつも感じることのできた、この小指の傷のおかげなんだ。

「それにな、この間お前が赤い髪をした女の子を家に連れて来た時思ったのだ、これでもう完全にレイからは自立したと。」

違うよ!あれはただの代わりなんだ。

「あとはこのわしを乗り越えていくだけだ。頼む、シンジ。わしに父親としての最高の喜びを味あわさせてくれ。」

できないよ、僕には。姉さんとの絆に依存しきっている僕には。

「話が少しそれてしまったが、わしが言いたい事は全部言った。わかるはずだ、シンジ、お前なら。だからもう、そんなにわがままを言うんじゃない。出棺の時間はとうに過ぎている。さあ、あの時のように笑って見送ってやれ」

 父さんの言葉はもはや、何処か遠くで響いていた。顔を涙と鼻水でくしゃくしゃにした僕は姉さんの顔をじっと見つめていた。その顔はあんなに苦しんで死んだのに、とても穏やかだった。まるで眠っているかのようだった。でも……でも……その目は二度と開かれる事はない。その口からは二度とあの優しい声が発せられる事はない。その顔は二度と微笑みを浮かべる事はない。その体は二度と体温を取り戻す事はない。

 僕は孤独というひどく高い崖の上に立ち、絶望という黒い海を見下ろしていた。姉さんを失った事、そして姉さんとの絆を失いかけている事が僕をそこに追いやっていた。突然、そこに、僕の目の前に希望が現れた。でも、それは、希望という名称を持っているのにもかかわらず、昏い、新月の夜よりも昏い光を放っていた。でも僕はそれにすがるしかなかった。そうしなければならないと感じた。それはその希望と同じくらい昏い僕の決意となった。

「わかったよ、父さん。」

僕は父さんの方を振り向いて言った。その時僕はどんな顔をしていただろうか。涙はもう止まっていた。声も普段のものに戻っていた。そして、おそらく僕は笑っていた。でも、その笑いは先ほど父さんが言ったものとは違うものだったろう。

「そうか、わかってくれたか」

父さんは安心したようだった。しかし、その安心はすぐに驚愕に取って代った。

 僕は姉さんの方に向き直すと、その左手をとった。そしてその小指にある傷を確かめると、それを口に含み……

・・・・・・・噛み切った。そして、嚥下した。








「いつも一緒だよ、姉さん。」









                                         −完−


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ver.-1.10 1998+01/15
ver.-1.00 1997-08/20公開
ご意見・感想・誤字情報などは aaa47760@pop01.odn.ne.jpまで。

後書きという名の言い訳

 これは僕が初めて書いたSSです。そのため、かなり文章が稚拙でお見苦しい点が多数あったと思います。大変申し訳ございません。本当はもう一つ考えていた事があったのですが、僕の文章力の未熟さ故に盛り込む事ができませんでした。(そのためにタイトルも変わってしまった。本当はそっちがメインだったのに…)

 このSSはいわゆるレイ×シンジものです。僕はどちらかというとアスカにんなので、最初アスカをシンジの姉さんにしていたのですが、あまりに無理が出てきてしまったので、結局レイをシンジの姉さんにしました。今ではそれが正しい選択だったと思っています。その代わりにアスカには別の役どころを考えていたのですが、結局、あんな中途半端なかたちでしか出す事ができませんでした。下僕の方、どうも申し訳ございません。

 あと、このSSには元ネタがあります。もしわかった方がいらっしゃったらメール下さい。

 最後にここまで読んでくださったことに深く感謝いたします。ありがとうございました。





                                    1997,8   TITOKU


バージョンアップに際しての追記

 この度、この『姉弟』の続編を発表に至る事になりましたのでついでに『姉弟』も2、3、手を加えてみました。と言っても変更を加えた部分はフォントサイズと2、3の文章だけなのですが。それにしても、久しぶりに自分の書いた作品を読むというのはかなり恥ずかしいですね。それも初めて書いた作品となると……

 ところで、後書きを読んで思い出したのですが『姉弟』の元ネタについて一言付け加えておきます。残念ながら正解者はいませんでした。(と言うか、これに関してのメールは一通しか来ませんでした。)と言う訳でここでばらしちゃいます。この作品の元ネタは…実は僕も知りません。これは僕がまだ中学生の頃にNHKの早朝ラジオで聞いた小説の朗読が基になっています。何分、昔の事なのでタイトルを忘れてしまい、内容も断片的な事のうろ覚えでした。そこで、できればもう一度読みたいと思い、めぞんを通して教えてもらえないかなあと思っていたのですが、叶いませんでした。 まあ、自力で探せって事ですかね。

 それでは続編の『へへへ』で。






                                      1998,1 TITOKU


 えーっと、何人目の入居者だろう(^^;
 と、頭が混乱するくらいの数になってきましたね。

 その63人目の新住人、
 TITOKUさんこんばんは!

 

 

 そろそろ新規募集を打ち切ろうかなと考えていたのですが、
 こういう上手い人はまだまだいるんですよね(^^)

 参号館をもう少し大きくしようかなぁ
 でも・・・
 これ以上の投稿は処理できそうもないしな・・・
 

 シンジの姉、レイ。

 ここはやっぱりレイでしょう(^^)
 レイの包み込む愛です。

 アスカじゃドロドロ重くなるか、明るく走っちゃうかでしょう(^^;

 あぁ・・・アスカ人として失格の発言です(^^;;;
 真のアスカ人ならば、何が何でもアスカ!と主張しないといけない・・
 精進します(笑)
 

 さあ、訪問者の皆さん。
 感想メールと、「元ネタは誰だ!」クイズの答えをTITOKUさんに送りましょう!


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