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僕はインターホンのボタンを押す。何度も押す。これでもか、これでもかと押す。




 激しい雨が降っていた。雷鳴が鳴り響いていた。夕立、夏の終わりにはよく出来事だ。あんなに厳しい日差しを照り付けていた太陽が分厚い雲に隠れて今はもう見えない。僕の服からは水滴が絶え間なく落ちる。濡れた体が冷える。ひどく寒い、夏なのに凍えそうだ。




僕はボタンを押し続ける。寒さで指が震える。




 今日、姉さんが消えた。きれいさっぱり消えてなくなった。残った物は焦げたカルシウム片だけだった。誰かが言った、「煙になって天国に昇って行った。」と。 ふざけるな!!姉さんを燃やした煙があんなに黒いはずがない!あんなに汚いはずがない!あんなに…… 僕はその場から逃げ出した。あんな事を言う連中の顔を見たくなかった、同じ空気を吸うのもいやだった。




僕はボタンをさらに押す。雷の音で聞こえないのだろうか、僕は不安になる。




 どのくらい走っただろうか、どこをどう走ったかさえ憶えていない。気がついたら激しい雨が降っていた。気がついたら雷が響いていた。そして、気がついたらここに来ていた。僕にはここしか残されていなかった。……結局、僕は誰かに頼っている。




僕はボタンを押し続ける。押し続けた指が痛い。




 僕の足元には水たまりができていた。それが夕立特有の激しい風に吹かれて奇妙な形に広がる。僕にはそれが人の形にみえて仕方なかった。恐ろしい、誰かが僕を追ってきたんだ、あの火葬場から。あんなに走ったのに逃げられない。




僕は何十回、何百回とボタンを押す。中からの返事はない。




 どうしようもなくなった僕は叫ぶ。

「アスカ、いるんだろ。」

「雨がたくさん降っているんだ。」

「寒いんだ、とても。」

「凍えそうなんだ。」

「暖めてほしいんだ。」

「君のぬくもりがほしいんだ。」

「ねえ、聞こえてるんだろ。」

「ここをあけてよ、お願いだからさ。」

「君の顔を僕に見せてよ。」

「僕に優しい言葉をかけてよ。」

「聞こえてるんだろ。」

「何か言ってよ。」

「何か言ってよ!!」

僕は最後の言葉とともに拳をドアに突き立てた。ミシリ、派手な音と同時に右手で嫌な音がした。痛い、僕は自分の右手を抱える。

一瞬の沈黙の後、

ギィーという古臭い音とともに玄関のドアが開いた。

その光景はこの世の終末に起きると言われている奇跡を僕に思い起こさせた。









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                                   written by TITOKU


 人の性格は3歳までの体験によって形成されるという学説を聞いたことがあるだろうか。つまり、3歳までの体験が人の性格の核となるというわけである。その学説の真偽のほどは僕にはわからない。なぜなら僕には3歳までの記憶が無いからだ。無い、というと語弊があるかもしれない。もちろん、僕も3歳までに様々な体験をしたはずだ。ただそれが思い出せない。

 僕が持っているもっとも古い記憶は4歳からのものだ。確かそれは幼稚園の入園式の時だった。僕は母さんのスカートにしがみついて離れなかった。母さんのスカートの生地の感触を今でもよく憶えている。それが僕のもっとも奥底にあるものである。しかし、なんて甘えん坊だったのだろうか、自分でもそう思う。それが僕の3歳までの体験によって形成されたとしたら、よほど僕はスポイルされて育てられてきたのだろう。もっとも、それは中流階級と呼ばれる家庭で育てられた人間には共通して言えることなのかもしれないが。

 幼稚園への入園、それは僕にとって社会生活への第1歩ということを意味していた。単純な世界と単純な人間。ある作家によるとこの世はすべてそれらで構成されていると言う。だが、世界と人間は無数にある。したがって、その関係も無数にある。だから世の中は複雑だ。すべては世界と世界、世界と人間、人間と人間の無限にも続くと思われる関係によって支配されているというわけだ。考えてみると人間の進歩というものはその関係性の把握ではないだろうか。人間の成長という言葉も同義だ。僕にとっての成長の第1歩、それは幼稚園という社会における関係性の把握であったのかもしれない。やがて、もっと大きくて複雑な社会へのステップアップの場としての幼稚園。素晴らしい、考えついた人に思わず拍手を送りたくなる

 入園当初の僕を表すよい言葉がある。それはたった一語、泣き虫、これだ。僕は昔から順応性というものが他人より劣っていた。あるいは関係を把握するのが下手だっただけか。考えてもみよう、母親のスカートにしがみついて離れなかった人間がまったく知らなかった人々の間に1人残されてうまくやっていけるはずが無い。今まで居心地も良かった社会から誰も自分を知らない社会への移行。関係性を把握する訓練を受けてきた大人でもある種の苦痛を伴うのに、当時たった4歳だった僕に耐えられる訳が無い。そこで僕ができたのはただ泣くことだけだった。僕はどんな些細なことでも泣いた。かけっこでつまずいては泣き、絵が上手く描けないと言っては泣き、服がほんの少し濡れたと言っては泣いた。そんな僕を幼稚園の保母たちは流石に扱いかねたようで、彼女たちは僕が泣き出すと僕を家に帰すようになった。こうなると幼い子どもはその学習能力を最大限に発揮する。僕は当時、おそらくこう思ったのだろう、泣きさえすれば家に帰れる、泣きさえすれば母さんのところに行ける、と。僕は別段悲しいことが無くとも泣くようになった。最終的には幼稚園の登園途中で泣き出して帰るようになった。まったくどうしようもない。ソ連の犬と同じだ、パブロフの犬。あるいは京大のチンパンジーか。

 しかし、大人はこんな子どもの嘘を見抜く。父さんは打開策として姉さんを指名した。僕の送り迎えを姉さんにやらせる。言わば僕がちゃんと幼稚園に途中で帰ってこずに行かせるためのお目付け役だ。普段近しい家族が付いて行けば泣いて帰ってくることはないという打算でもあったのだろうか。だとしたら、その父さんの考えは少し甘かった。姉さんが初めて僕を送って行った日、僕はいつもどうりに泣いた。別に悲しかったわけではない。ただ僕にとってそれがルーティンだっただけのことだ。僕が母さんのところに戻るための日課。

突然泣き出した僕を見て姉さんは少し困った顔をして言った。

「悲しいの?」

僕は大きくうなずいた。

「行きたくないの?」

僕は2度ほど頭を上下に大きく振った。

「そう、ならいいわ、行きましょう。」

姉さんはそう言って僕の手を引いて幼稚園とは反対側へと足を向けた。上手くいった、今日も母さんのところに帰れる、僕は姉さんの手を握りながらそんなことを考えていた。

だが、僕の目論見は上手くいかなかった。姉さんが僕を連れてきた場所は河原だった。




 僕の生まれ育った街は河口にある。昔は洪水が多かったという話だが僕は一度も経験した事はない。あの無意味に思える公共工事も何らかの成果を挙げる事はあるのだ、決して無駄なものではない。大きな川だ。対岸までおそらく150メートルはあるだろう。向こう岸の土手の上で婦人用の自転車に乗った老人がのんびりと走っていた。風が微かな潮の香りを運んでくる。海の方を見やるとカモメが何羽か戯れているのが小さく見えた。

 河原には春が溢れていた。陽射しは柔らかく、風は雲をその場にとどめるほど穏やかだった。川が上流から運んできた肥沃な土の上ではレンゲと白爪草とタンポポが所狭しと咲いていた。穏やかな季節の到来を告げる南方よりの使者――ツバメだ――がアクロバティックな飛行を見せびらかしていた。その春の中で姉さんは土手に座って何か文庫本を読んでいた。僕はひとつの遊びに夢中になっていた。投げた石が川面で何回跳ねるか、そんな事を目的とする遊びだ。

 僕は飽くことなく何度も何度も石を投げた。肩が痛くなるほど投げた。しかし、僕の投げる石は決して3回以上跳ねる事はなかった。ほとんどが跳ねることなく川の中に沈み、たまに1回だけ跳ねた。2回跳ねたものは2、3個しかなかった。僕は何としても4回跳ねさせたいと思っていた。当時の僕は自分の歳の数と同じだけ跳ねさせる事に何らかの意味を見出していたのかもしれない。子供という生き物はくだらない事に執着するものだ。その点で僕は典型的な子供だった。

 しかし、僕の投げる石はその何度もの試みにもかかわらず3回以上跳ねなかった。肩の痛みは耐えられないほどになってきた。おまけに肘も痛み出した。もうこれで最後にしようと思い、足元にあった石を拾った時、隣に人の気配を感じた。見上げると姉さんが僕の横に立っていた。

「いい、よく見てるのよ。」

姉さんはそう言うと、プロ野球のピッチャーみたいに大きく振りかぶった。そして、横手投げで石を投げた。シュッという風を切る音が聞こえたような気がした。 姉さんが投げた石は確か1、2、3、4、5、6、7、8と8回ほど跳ねたのを憶えている。

「すごい。」

僕は思わず感嘆の声をあげた。僕の声を聞いて姉さんは少し照れくさそうな顔をした後、僕にコツを教えてくれた。

「石はなるべく薄いものを選ぶこと、大きすぎても小さすぎてもいけないわ。」

僕はうんうんと頷いた。

「それから投げる時には横から投げること、なるべく水面と平行になるようにね。」

僕は平行という意味がよく分らなかったけれども、これも大きく頷いた。

「わかった?じゃあ、やってみなさい。」

姉さんは僕に石をひとつ手渡した。その石は先ほど姉さんが言ったように大きくも小さくもなく、まだ小さかった僕の手にしっくりと馴染む大きさだった。

「えい!」

僕は掛け声とともに姉さんが渡してくれた石をサイドスローで思いっきり投げた。その石は先ほどまでの放物線とは違う軌跡を描き水面で1、2、3、4と4回ほど跳ねた。4歳で4回、語呂がいい。

「やったー!!」

僕は大きく叫んでいた。それほど嬉しかったのだ。隣を見上げると姉さんも嬉しそうに微笑んでいた。

「よかったわね。」

姉さんはそう言うと僕の目の高さまでしゃがんで僕の頭を髪の毛を梳くようにして撫でてくれた。さっきと同じように嬉しそうに微笑みながら。

僕は何だか照れくさくなって、へへへと笑った。



 だが、姉さんの笑顔はその日の夜には涙に変わった。

 夕方、僕たちが家に帰ってくると母さんが玄関先に立っていた。母さんは僕たちの姿を見つけると慌てた様子で駆け寄ってきた。

「シンジ!!」

母さんはいきなり僕を痛いほど抱きしめた。

「どこに行っていたのよ!心配したのよ!」

母さんの瞳から涙が溢れ出した。

「ほんとにもう、この子は……」

あとは声にならなかった。母さんの鳴咽のみが僕の耳に届いていた。

「…ごめんなさい、お母さん…」

僕もそれ以上何も言えなかった。母さんが泣いているという事柄が僕を悲しくさせてしまったから。姉さんは僕の後ろに立って僕と母さんを見下ろしていた。

 僕たちがいた夕焼けの光の中に不意に影がさした。僕がそれに気づいて顔を上げると父さんが母さんの後ろに立っていた。父さんは家の中から走ってきたのだろうか、息を切らしていた。そして、右手にはなぜか親子電話の子機を握り締めていた。

「レイ!!」

父さんは姉さんに歩み寄るといきなり姉さんの頬を殴った。ひどく鈍い音がした。よほど強い衝撃だったのか姉さんは膝から崩れ落ちた。僕と母さんは呆然としてその光景を見つめていた。父さんは姉さんのその崩れ落ちる様子を見た後、子機に向かって話しはじめた。

「ええ、見つかりましたので。はい、どうやら姉の方が連れまわしていたようで。それでですね、捜索願いの方は取り消しという事で…大変申し訳ございません。ご迷惑をおかけ致しました。それでは失礼致します。」

父さんはそこまで言ってしまうと電話を切った。そして、姉さんを威圧するように見下ろした。

「レイ!お前は自分が何をしたのかわかっているのか!!」

姉さんは何も言わなかった。ただ強い光を込めた瞳で父さんを睨み上げるように見つめ返していた。

「何か答えたらどうなんだ!」

父さんの怒気が僕にも伝わってくる。僕は母さんにしがみついている腕に反射的に力を入れた。

「………」

姉さんはそれでもなにも答えなかった。父さんと姉さんの間の視線の遣り取りが見えたような気がした。

「聞いているのか!レイ!!」

父さんの苛立ちを孕んだ言葉から少し間を置いて姉さんが口を開いた。

「…行きたくないのを無理に行かせる必要はないわ。」

姉さんのその言葉を聞いた途端、父さんが手を大きく振り上げた。姉さんが体をビクッと震わせた、しかし、決して目は閉じようとしなかった。やめてっ!父さんの意図するところを悟った僕は母さんの腕を強引に振り解くと慌てて父さんの脚にしがみついた。

「お姉さんは悪くない!!」

「悪いのは僕なんだ!」

「僕が行きたくなかったから…」

「だから、悪いのは僕なんだよおー!」

「だからだから、お姉さんをぶたないで…お父さん!!」

僕は泣き出してしまって後は声にならなかった。

「シンジ……」

父さんは振り上げた手を所在無さげに下ろした。そして再び姉さんを見下ろした。姉さんはまだ父さんを見つめ返していた。

「…レイ、後でわしのところまで来い。」

父さんはそれだけ言って僕を母さんに預けると玄関の中へと消えていった。

「レイ、後できちんと説明してもらいます。」

母さんも涙を拭いながらそれだけ姉さんに言うと僕を抱き上げて家の中へと入っていった。

玄関先には姉さんだけが残された。



 その日の晩に父さんたちと姉さんの間で何があったのかを僕はよく知らない。僕が知っているのはその後に姉さんが泣いていたという事実だけ。姉さんの涙を見たのはそれが初めてだった。姉さんは自分の部屋で床に座り込み、すすり上げるようにして泣いていた。僕は姉さんの痛々しく赤黒く腫れた頬が心配だった。そんなものは姉さんの顔には相応しくない、あってはならないものだ。そう思った僕は台所に急いで走っていった。

 僕は台所に着くと冷凍庫を開けようとした。しかし、悲しいかな僕の背では冷凍庫には手が届かなかった。そこで僕は椅子を引きずって来て、それによじ登りなんとか冷凍庫の扉を開けた。そして、製氷皿から何とか氷を取り出すとそれをビニール袋に入れた。途中、氷に引っ付いた手の皮が剥けたがそんなことは気にならなかった。僕はビニール袋を持って姉さんの部屋へと慌てて舞い戻った。

「お姉さん、…これ。」

僕は姉さんにビニール袋を差し出した。姉さんは少し驚いたような顔をしたが黙ってそれを受け取った。

「…痛い?」

僕は姉さんの頬が気になってそう尋ねた。姉さんはゆっくりと首を左右に振った。

「ううん…」

姉さんは腫れあがった頬にビニール袋を当てた。そして、その冷たさを感じるかのように目を閉じた。

「…私ね、父さんに殴られたの初めてだった。」

僕は姉さんを黙って見ていた。

「だから、泣いてるの。痛いからではなくて、少しショックだったから。」

姉さんが閉じていた目を開いた。

「でもね、もう大丈夫。シンジが優しくしてくれたから。」

そう言って姉さんは微笑んだ。その笑顔は僕が生きてきた中で(それはたった4年間のことだけれども)もっとも綺麗なものだった。赤黒く腫れた頬も気にならなかった。今でも目を閉じると瞼の裏にその笑顔が浮かんでくる。 その笑顔が僕にひとつの決意をさせた。この人をもう2度と泣かせるものか、と。


 その出来事があった次の日から僕は幼稚園に通いはじめた。 そして、泣かないように頑張った。僕は泣きそうな事があると、まばたきをしないように目を大きく開いて奥歯に力を込めて歯を食いしばり涙がこぼれないようにした。最初の内はそれでも溢れ出てくる涙を押えることは出来なかったが、何度も繰り返すうちに涙がこぼれてくることはなくなった。僕にとってはたいした進歩だ。僕は幼稚園からの帰り道によく姉さんに自慢したものだった。

「お姉さん、僕ねえ、今日もねえ、泣かなかったよ。」

「そう、えらいわね。」

姉さんはその言葉の後、決まって頭を撫でてくれた。

僕はへへへと笑った。




 以上がまだ幼かった僕に起こった出来事の中でもっとも印象に残っているものである。この出来事が今の僕の性格にどのような影響を及ぼしているのか僕にはよく分らない。おそらくは何かを僕の中に残してはいるだろう。だが、それを具体的にこれだとは言えない。しかし、ただひとつだけ僕にも言えることがある。それは幼い僕の心に姉さんという存在が深く刻み込まれたということである。それは今に至るまで変わってはいない。いや、変わりたくなかった。








○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●








 彼女と出会ったのは高校に入学して間も無い頃だと記憶している。当時の僕は、何と言うか、もし誰にでも人生の中でもっとも良い時期が一度はあるとしたらまさしくそれに当たっていただろう。勉強においてもスポーツにおいても、そして5歳の頃から始めたチェロにおいても何もかもが上手くいっていた。 特にチェロに関しては全国に手が届くところまで来ていた。僕はそれを「傷」のおかげだと信じていた。姉さんと僕の絆。

 音楽室には夕日が差し込んできていた。器楽部の全体練習も終わり、残っているのは僕一人だけだった。コンクールが近い。ソロの練習をするのにはこの状況はちょうど良い。僕は左手を目の前に持ってきてじっと見つめた。僕が何かする時に決まって行う儀式だ。何もかもが上手くいく、僕にそんな気持ちを抱かせてくれる儀式。実際、僕はこの儀式によって左手の小指の傷の痛みを思い出すことができた。そして姉さんが僕の横に立って僕を見ていてくれるように感じられた。姉さんが見ていてくれれば全てが上手くいく。

 僕は10分ほど左手を見つめた後、チェロの弓を手に取った。そして弾きはじめる。曲はコダーイの無伴奏チェロ・ソナタ作品8、チェロを弾くものにとってはかなり有名だ。今度のコンクールの課題曲でもある。G線とC線が半音ほど下がっているのが特徴で、これに慣れるのには大変だった。それに全てを弾こうとすると有に30分を超える長さになる。コンクールは体力勝負になるだろう。

 僕は曲の流れに入り込んでいた。僕が曲となり、曲が僕となる。弓を持った右手は何かに操られるかのように正確に音符をなぞり、そして僕の頭の中にはまるで目の前にあるかのように楽譜が浮かんできていた。案外、一つのことにのめり込むという事はこういう事を言うのかもしれない。自分と対象が溶け合って一つになる、そういうこと。

 やがて曲は最後のパートにさしかかった。ここまではノーミスだ。技術的なだけではなく、感情的な表現も今回はかなり上手くいっているように思う。久々に満足のいく演奏だ。もしこの演奏が本番でもできればコンクールでは上位に食い込めるかもしれない。僕は最後の音をゆっくりと弾き終えると弓を置き、大きく一つ息をついた。その時だった。


パチパチパチパチパチパチパチ


 音楽室の入り口から拍手の音が聞こえた。振り返ると女の子が一人拍手をしているのが目に入った。顔は夕陽で逆光になってしまっていてよく見えない。ただその夕陽を反射して背中辺りまで届いている髪が淡く金色に輝いているのがとても印象的だった。まるで彼女自身が金色に輝いているようだ。

 彼女が一歩踏み出した。彼女の顔が見えた。綺麗だ、と思った。僕は思わず見とれてしまった。そんな事は姉さん以外では初めてだった。

「ブラーヴォー。」

彼女が言った。

「ど、どうも。」

情けないことに僕はどもってしまった。彼女は僕の受け答えが不満だったようで日本人にしてはいささかオーバー過ぎる動作で肩を竦めて言った。

「あんたねえ、演奏者は観客の拍手に応えるものよ。」

僕は仕方なく右手を挙げ左右に大きく振った。どこか滑稽でぎこちない。当たり前だ、そんな事は一度だってしたことがなかったんだから、一礼してそのまま退出するのが今までは関の山だった。そんな僕にプロのような対応を求めたって無理な話だ。

「はあー」

彼女は僕のその動作を見て大袈裟なため息を吐いた。僕はそれにカチンときた。君が望んだからやってやったんだろ。

「まったく、あんたねえ、もうちょっとましな応えかたがあるでしょうが。」

「仕方ないだろう、やったこと無いんだから。」

「そういう問題じゃないでしょう。あんたのセンスの問題よ、センスの。」

センス?これのどこにセンスがいるって言うんだ?

「そんなの関係ないだろ。そもそも君はどこの誰でどうしてこんな所にいるんだよ。」

おかしなことに僕の言葉を聞いて彼女は少し驚いた顔をした。そしてその顔はすぐに怒りのものに変わった。

「このあたしに向かって、『君はどこの誰?』ですってえー!!」

なんだ?なんで怒るんだ?まったく訳がわからない。

「あんた本当にあたしのこと知らないの?!!」

僕は彼女の勢いに押されてうんうんと頷いた。

「本当に本当?」

「知らないものは知らないよ。」

彼女は僕の言葉を聞いていささか落胆したようだった。そしてドスの効いた声で言った。

「…いいわ、教えてあげる。あたし名前は惣流アスカ、ちなみにあんたとは同じクラスで席はあんたのななめ後ろ。」

惣流アスカ?その名前が僕の海馬に引っかかった。聞いたことがある。確か帰国子女で成績優秀でかなり可愛いとか、そんな事を級友達が噂していたような気がする。でも、まさか僕と同じクラスだったとは…それなら彼女が怒る理由もわかる。僕の方に非がある。

「ごめん…本当に知らなかったんだ。惣流さんが同じクラスだなんて。」

「謝っても許さないわよ。さて、この落とし前はどうつけてもらおうかしら。」

「そんな…落とし前なんて大袈裟な。」

まずい、今の彼女の勢いなら何を要求されるかわかったもんじゃない。彼女を見ると何か考えているようだった。今日、いくら持ってきていたかな?僕は財布の中身が気になった。

「そうだ!」

彼女が声を上げた。僕は動悸が速くなるのを感じながら彼女の次の言葉を待った。

「あんた、これからあたしのことを『アスカ』と呼びなさい。」

「へ?」

なんだ?そんなことでいいのか?僕は拍子抜けしてしまった。

「何よ、あんた何か不満でもあるっていうの。」

「あ、いや、別に不満はないけど…」

「じゃあ、他に何があるって言うのよ。」

「あの、僕の彼女でもないのに呼び捨てだなんかしてもいいのかな、なんて思ったから。」

「なっ、何を言ってるのよ!!」

彼女の顔が赤らんで見えたのは夕陽のせいだったのか。

「あたしはただ堅苦しいのが嫌いなだけよ!それ以外に理由は何もないわ!」

「そうなんだ。」

「とにかく、あんたはあたしのことを『アスカ』と呼びなさい。わかったわね!!」

「わかったよ、今から惣流さんのことは『アスカ』と呼ばせてもらうよ。」

「よろしい、忘れるんじゃないわよ。」

これだけ強烈な印象を植え付けられればいくら海馬の働きの弱い僕だって忘れることはない。

「はいはい、仰せのままに。」

彼女は取りあえず満足したようだった。その彼女の様子を見ていて僕は一つ気にかかった。彼女は僕のもう一つの質問に答えていないんじゃないか、と。

「ところで、」

僕は話題を転換した。

「さっきも聞いたけどなぜ惣流さんはこんな時間にこんなところにいるの?」

うっ、やってしまった。30秒前に聞いたばかりだというのに。つくづく自分の海馬の弱さが嫌になる。でも、忘却は幸福への唯一の道だ、と言ったドイツの哲学者もいたんだし……そんな事を考えていた僕に彼女は無言で蹴りを入れた。天井が見えた。

「…あんたねえ、本当にあたしの話を聞いてたの?」

「ごめん…悪気はなかったんだ。」

僕は天井を見たまま答えた。

僕は起き上がるとまずチェロを確認した。よかった、無事なようだ。一安心だ。

「…でも、蹴ることはないだろ。」

「あんたは体に教え込まないと憶えられない体質のようだからやったまでよ。感謝して欲しいわね。」

なんて女だ。可愛い顔して性格ババ色だ。

「チェロが壊れたらどうするんだよ、まったく。」

「男のくせに細かいことにこだわるのねえ。そんな男はもてないわよ。」

いいんだよ、僕には姉さんさえいれば。

「そんなことより答えろよ、なぜこんな時間にここにいるのかをさあ。」

「…それは…」

彼女が言いよどんだ。あれっ、なんだ?一気に形勢逆転か?

「それは?」

僕は今までの鬱憤を晴らすように聞き直した。彼女は少し言いにくそうにした後、一気に言い放った。

「それは、あたしがたまたま音楽室の前を通ったら、たまたまチェロの音が聞こえて、たまたまそれを綺麗な音だなあ、と思って、それでたまたま覗いて見たら、たまたまあんたがいただけよ。別にあんたがここにいると聞いたから音楽室に来たわけじゃないわ。」

はあ、たまたまねえ。でも、たまたま音楽室の前を通ることなんてあるのだろうか。特別教室棟の最上階のもっとも端にあるというのに。

「つまりは全ては偶然だった、そう言いたいわけ?」

「そうよ、偶然というのは恐ろしいわねえ。」

そう言って彼女はそっぽを向いた。僕は彼女をそれ以上追求するのを止めた。何となく野暮じゃないかと思ったからだった。ふーん、なるほどねえ。

「あ、あたし帰る。」

彼女が慌てた様子で言った。これ以上話すとぼろが出るとでも思ったのだろうか。そんな彼女を見ていると少しいじめてみたくなる。さっきはヤクザキックまで食らったんだ、それくらいは許されるだろう?

「送っていこうか?」

「え?」

彼女は今の僕の言葉を理解できなかったようだ。

「だから、送っていこうか?」

「い、いいわよ、あんたなんかと一緒に帰ったらどんな噂を立てられるかわかったもんじゃないし…」

彼女が顔を赤らめてそう言った。今度は夕陽のせいじゃないのがわかった。

「そう、残念だな。アスカのことをもっと知りたかったのに。」

「えっ、そ、それって本当?」

「何が?」

性格が悪いのは僕の方なのかな、何を彼女に言わせようとしているんだろう。

「だ、だから、あ、あたしのことをもっと知りたいって。」

「あれ?僕、そんな事言ったっけ?………って、アスカぁあ?!!」

彼女の背後に真っ赤に輝くオーラが見えたような気がした。

「…からかったのね、このあたしを。」

う、や、やばい。

「あ、いや、ほんの冗談だよ、冗談。」

彼女が僕に一歩ほど歩み寄った。まずい、さっきと同じ体勢だ。

「問答無用!!」

本日2発目のヤクザキックが僕の顔面に炸裂した。視界がホワイトアウトした。それでも自分が床にゆっくりと倒れていくのが不思議とわかった。

なんて女なんだよ、本当に。

そのまま僕は意識を失った。









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 世の中というのは不思議で複雑だ。掛け値無しにつくづくそう思う。特に人間という存在は謎が満ち満ちている。今、僕の目の前で起っている二つの出来事もそれを象徴する良い事例であろう。


父さんが笑っている。


その隣にアスカがいる。


 陽気な父さんを見たのは初めてだった。僕の父さんはいわゆる前時代的な父親でいつもムスッとして黙り込んでいる事が多かった。そして何を考えているのか解らない事が往々としてあった。そうなると当然、僕は父さんと会話する事が少なく、父子間の交流はほとんど無いと言ってもよかった。僕は父さんが苦手だった。だが、嫌いなわけではない。ただ苦手なだけだ。この辺りの心の機微は微妙である。


その父さんが笑っている。


 これはアスカの起こした奇跡かもしれないな、僕は楽しそうに談笑する二人を横目に見ながらそんな事を考えていた。まさか二人がこんなにウマが合うなんて思いもよらなかった。父さんは若い女の子には弱いのかな?まあ、それは僕も同じか。…いや、違う。正確には僕はアスカにだけ弱かった。あの出会いから今に至るまで何故かアスカには逆らえない。

 あの時だってそうだ。僕は彼女に告白させられた日の事を思い出した。僕はクラスのみんなの前で告白させられた。全てがアスカによって仕組まれていた。クラス全員の突き刺さるような視線の前では逃げ出す事は出来なかった。もし、あの場で逃げ出していたら、僕は最低の男というレッテルを貼られていただろう。それは考えるだけで恐い。

 そして今、アスカが僕の家に来ている。まあ、それもいいかと僕は思う。実際にアスカと付き合ってみると彼女は他と比べて少しだけ(?)気の強い女の子だというのがよくわかった。今ではその気の強さが可愛く思える事もある。だが、初めて会った時には僕ら二人がこんな関係になるなんて思いも寄らなかった。まったく人間は不思議な存在だ。

「どうしたシンジ?気難しい顔をしおって。」

父さんが黙り込んで二人を観察していた僕に話し掛けた。その顔はにやにやとした笑いを浮かべていた。父さん、何がそんなに可笑しいのですか?

「そうよ、シンジさん。せっかくこのあたしが遊びに来ているんだから、もっと楽しそうな顔しなさいよ。」

シ、シンジさん?アスカ、それは僕の事なのかな?

「ねえ、おじさま。」

アスカは父さんに向かって微笑みかけた。

「そうだぞ、シンジ。」

父さん、その不気味な笑顔をあまり見せないで下さい。あなたの息子は卒倒しそうです。

「ところでアスカ君、」

「何ですか?おじさま。」

な、何だ?父さんの顔が少し真剣な物になったぞ。

「わしはシンジの父親として一つ心配な事があるのだ。」

「何でしょうか?」

「それはな、」

父さんが僕の方をちらりと見た。

「アスカ君、君はシンジと何処まで行っておるのだ。」

なっ、父さん、あなたは真面目な顔をして何を聞いているのですか?

「えー、どうしようかなー、ねえ、シンジさん、言ってもいいかしら?」

アスカ、君と僕が何をしたって言うんだ。何もしていないだろう?これ以上二人を暴走させるのはまずい。僕は慌てて口を挟んだ。

「アスカ、もう帰らないと家の人が心配するよ、さあ、」

僕はアスカの腕を掴んだ。

「きゃあー!シンジさんに襲われる!!」

アスカ、頼むからその言葉遣いは止めてくれ。

「シンジ、お前と言う奴はよりにもよって親の目の前で!!」

あーもう、父さん、いい加減にしてくれ!!









○●○●○●○●○●○●○●○●○










 深夜に近い時間帯のバス通りは車も人もほとんど無かった。ポプラ並木が夜の空にその威容を見せていた。こうして眺めてみるとかなり不気味な物に見える。古い吸血鬼の映画を思い起こさせる。昼と夜とではその姿はかなり違う。いや、ポプラ並木自体は何も変わってはいない。ただ光と闇とがその姿を別な物に見せているに過ぎない。

 僕とアスカはその並木の下を二人並んで歩いていた。僕は家まで送るという条件で何とかアスカに帰る事に同意させた。アスカの家は僕の家からは2Kmほど距離がある。もうすぐ日付も変わる。これで送らなかったら何を言われるか分かったものじゃない。

 僕は歩きながら左手の小指の傷を見つめていた。そして、父さんの言葉を思い出していた。先ほど僕らが家を出る前に父さんが僕を呼び止めた。

『シンジ、ちょっと話がある。』

『帰ってから聞くよ。』

『まあ、待て。すぐに終わる。』

『…わかったよ、それで何?』

『わしは嬉しかったぞ。』

『…何だよ、唐突に。』

『お前も成長した、と思ってな。』

『何だよ、それ。』

『いやな、わしがお前にレイの嫁入りの話をした時を思い出すとな、どうしてもそう思わざるをえん。』

『…もう、2年も前の話だよ、それは。』

『そうだったかな。』

『そうだよ、あの頃とは違うよ。まだ中学生だったし。』

僕は自分の言葉と裏腹に考える。あの頃と比べて僕は変わったのだろうか?父さんにはそう見えているのだろうか?

『そうだな、体もでかくなったし、背もお前に追いつかれてしまったしな。』

『そんな事が嬉しいの?父さん。』

『ああ、嬉しいとも。これでわしの願いも叶うかもしれん。』

『何だよ、父さんの願いって?』

『…秘密だ。叶ったら教えてやる。ほれ、さっさと行け。アスカ君が玄関で待っておるぞ。』

『…何だよ、まったくもう。』

僕は父さんに追い立てられるように玄関に向かった。その途中から僕はずっと考えていた。果たして僕は本当に変わったのだろうか?あの時の自分と比べて、と。



「ねえ、シンジ。」

アスカが僕の服の左袖の肘の部分を引っ張った。僕の視線は左手から逸れる事になった。

「ん、何?」

僕は現実のバス通りに引き戻された。

「…手、繋がない?」

アスカが僕の左手を取った。

「やめろよ。」

僕は彼女の手を振り解いた。反射的にとった行動だった。アスカは一瞬驚いたような表情をした後に言った。

「…やっぱり…」

「何だよ、突然。何がやっぱりなんだよ。」

アスカは僕の方を向いて俯いて言った。

「ねえ、あたしがそれに答える前に一つだけ教えて。」

「どうしたの?いきなり変だよ。」

「お願い、もう二度とこんな事聞かないから。」

「…分かったよ。」

僕はアスカの思わぬ真剣な態度に気おされるように答えた。

「それで何?」

アスカはしばらく迷っていたがやがて意を決して口を開いた。

「…どうしていつも左手を見るの?」

「えっ……」

意外な質問だった。僕は何も答える事が出来なかった。

「あんた、あたしが気づくといつも左手を見ている。それも愛しい人を見るような熱のこもった目で。あたし、あんたが左手を見るような目で一度も見つめられた事が無い。あたし、それがすごく悔しい。…時々思うの、あんたはあたしよりその左手の方が大切じゃないのかって、」

アスカの言葉が痛い。それは真実の一端を突いているなのか。

「…もちろん、あんたの体の一部だから大切なのはわかる。でも、それにしてもあんたが左手を見る目は異様よ。ねえ、その左手には何があるの?教えて、お願いだから。」

アスカは心の中を一気にぶちまけるように一息に喋った。アスカの肩が小刻みに上下している。

「…何も無いよ…」

僕はやっとのことでそれだけ言った。

「…嘘。」

「嘘じゃない、本当に何も無いよ。」

「嘘。」

「嘘じゃない!ただの癖なんだ。」

「嘘!」

「嘘じゃない!!アスカ!君は僕の言う事が信じられないのか?!! 」

「…………」

アスカは黙ってしまった。だが、やがて決心したかのように顔を上げ僕の目を見て言った。

「…なら、証拠を見せて。」

アスカは軽く顎を上げ、ゆっくりと目を閉じた。

 同じだ、あの時の僕と同じだ。目を閉じたアスカを見て僕はそう思った。確かなものが欲しいんだ。僕が姉さんに愛されているという証拠を望んだように、アスカは僕に今それを求めている。だが、僕は思う、そんな事でいいのか、と。姉さんは互いで互いを傷つけるという特別な証拠を「傷」という形をとって残してくれた。それで僕と姉さんは互いに特別な存在であると認識する事ができた。でも、今アスカが僕に求めている事は決して特別なものではない。むしろ何処にでもあるありふれたものだ。僕は考える、結局はアスカは姉さんとは違って僕にとって特別な存在ではないのか、僕とアスカはありふれた関係に過ぎないのか、そういう事なのか。

 僕の頭の中は混乱していた。どうしたらいいのだろうか。アスカは何かを待つかのように相変わらず目を閉じていた。僕はいつものように左手の傷を見つめた。だが、姉さんは何も答えてくれなかった。

 ええい、ままよ。

 アスカが望んでいるんだ、求めているんだ。それに答えなくてどうするだよ?そうだよ、アスカが望んでいるからしたっていいじゃないか、何の問題があるって言うんだ、何の問題もないだろう?少なくともアスカに関しては…

 僕はアスカの腰に手を回し軽く抱き寄せた。アスカが微かに震えているのがわかった。僕はアスカの前髪をかき上げゆっくりと唇を彼女のそれとあわせた。僕にとっては二度目のキス、彼女にとっては何度目になるのだろうか?

 唇と唇が触れ合ってしばらくした後、アスカが閉じていた目を開いた。そして僕の目をじっと見詰めた。探している、僕はそう思った、アスカは僕の中にある何かを探している。アスカの探るような瞳が僕を不安にさせた。やめてくれ、僕の心を覗くのはやめてくれ。僕の心の底から何も引っ張り出さないでくれ、アスカ、お願いだから。

 やがてアスカの瞳に明らかな落胆の色が浮かんだ。触れ合わせていた唇ゆっくりとを離してアスカは言った。

「……いない……」

「あんたの中にあたしが…いない。」

突然アスカが僕を力いっぱい突き飛ばした。僕はそれに押されてその場にしりもちをついた。

「あんた、大嘘吐きよ!!」

アスカの怒声が僕の上に降りかかった。

「あんたの言葉も声も態度も表情も何もかもが嘘!!何よりもあんたの存在自体が嘘なのよ!!」

僕は何も言えなかった。黙っていることしかできなかった。

「あたしを騙し通せるとでも思っていたの?!! だとしたらあたしも甘く見られたものね。」

臀部に伝わってくる生暖かいアスファルトの感触が気持ち悪い。

「もう、あたしに近寄らないで!姿を見せないで!声も聞かせないで!!」

アスカの肩が激しく上下している。そして最後の言葉を言った。

「…さよなら。」

アスカは勢いよく駆け出してその場を去った。僕は急速に小さくなってゆく後ろ姿をいつまでも見ていた。

頭上の切れかかった街灯が僕の影を出したり消したりしていた。









○●○●○●○●○●○●○●○●○









 奇跡のドアがゆっくりと開いた。彼女の姿がそのドアの背後に確認できた。アスカだ。僕はすぐにでもアスカに触れたかった。そして抱きしめて欲しいと思った。しかし、アスカは決して玄関から一歩も踏み出そうとはしなかった。そこからアスカが僕にかけた言葉は僕の望んだものではなく酷く怜悧なものだった。

「…あんた、何しに来たのよ。」

痛い、彼女の言葉が痛い。さっき痛めた拳よりも痛い。

「姉さんが、姉さんが…死んだんだ。」

僕のその言葉を聞いてもアスカは顔色ひとつ変えなかった。

「そう、それで?」

それでって、わかるだろう、それくらい。僕の大切な人が死んだんだ。そして永遠に消えてしまったんだ。わかるだろう、わかるよね、わかってよ、お願いだから。

「むしの良い話よね。自分が辛い時だけ人に頼って、そのくせ人の真剣な気持ちには応えない。…本当に最低だわ、あんたって男は。」

何だよ、わかってるじゃないか。そうだよ、辛いんだよ、苦しいんだよ、悲しいんだよ。だから慰めて欲しいんだ、アスカ、君に。僕は手を伸ばしてアスカに触れようとした。その暖かいものに触れたいんだ。だが、僕の手はアスカによって激しく払いのけられた。

「変態!!触るな!!」

違う!!僕が聞きたいのはそんな言葉じゃないんだ。もっと優しいものなんだ。姉さんのような言葉なんだ。

「あたしはあんたに言ったはずよ、二度と近寄るな、とね。」

やめてくれ!!僕を拒否しないでくれ。

「帰ってよ。もう寝るから。」

アスカはドアを閉じようとした。僕は慌ててドアを掴んでそれを阻んだ。そこに暖かいものがあるのに何故触れさせてくれないんだ。しばらくの間二人の間でドアの引っ張り合いが続いた。

「ちょっと、離しなさいよ!!」

アスカがその言葉と共に僕の腹部を激しく蹴った。その衝撃と痛みに僕はドアから手を離してしゃがみこむ。何故かアスカと初めて会った日の事を思い出した。

「ふん。」

アスカは屈み込んだ僕を見てほんの少し罪悪感を伴った表情をした後、それを振り切るように激しい勢いでドアを閉じようとした。

「待って!アスカ!!」

僕は手を伸ばした。このドアが閉じられたらもう二度と僕はあの暖かさを感じられなくなる、そんな思いが僕の中にあった。激しく閉じられたドアに僕の手が挟まった。それは偶然にも左手の、それも小指だった。

 激しい痛みが僕を襲った。僕は声にならない声を上げた。そして、その痛みと同時に僕の中にある僕と何かを結んでいるものがプツンという音をたてて切れる音が確かに聞こえた。それは何だったのだろうか?

 そして、再びドアが開いた。アスカが青ざめた顔をして立っていた。玄関の中には千切れた小指が転がっていた。僕は再びアスカに手を伸ばした。やっと触れられる。僕は左手でアスカの頬に触れた。暖かい。アスカの顔に血飛沫が飛んだ。それは僕にはとても綺麗なものに思えた。アスカは震えていた、僕は左手の感触からそれがわかった。

 僕はアスカを安心させるために、へへへと笑った。












                                            −完−


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ver.-1.01 1998+01/16文字化け修正
ver.-1.00 1998+01/15公開
ご意見・感想・誤字情報などは aaa47760@pop01.odn.ne.jpまで。

後書き

 痛いですね、非常に痛い。「姉弟」もかなり痛かったんですが、この「へへへ」はそれに輪をかけて痛い。元々はこんな展開にする予定ではなかったんですが書き進めていく内にこんな話になってしまいました。痛い話が嫌いな方、どうもすいません。このまま終わらせてしまうのはあまりにあまりなのでこの話はもう一つ書いて三部作にしたいと考えています。タイトルだけは決めました。「ミレーコ」これでいってみよう。発表時期は未定です。でもここから救うのは大変だなあ。

それでは最後まで読んで下さった事に深く感謝します。ありがとうございました。

私信

 フラン研さん、年賀メールありがとうございました。議論が見えてこないのでどう言ったらいいかよくわからないのですができるだけ応援したいと考えています。それでは。







                                       1998,1 TITOKU


 TITOKUさんの『へへへ』、公開です。
 

 

 
 アスカ登場あたりから、

  お、明るくなるのか〜
   と言う期待と、

  う、何が起こってしまうのだろう
   と言う不安が

 加速しました。
 

 

 私が一番怖い”痛たい”ではなかったのですが、
 それでもなかなかに・・・
 

 続きで救われるといいなぁ (;;)

 まってます〜
 

 

 

 さあ、訪問者の皆さん。
 TITOKUさんに感想メールと催促(^^;メールを!


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