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P.notebook 

 B5版の何も書かれていない無地のノートがあった。2Bの黒鉛筆を取り出して僕はそのノートの最初のページに一本の線を縦に引いた。そして線の左側に僕と父さんの名前を書き、右側に姉さんと母さんの名前を書いた。さらに僕は縦線の上に左から右への矢印と右から左への矢印を書いた。しばらく迷った後、僕は右から左への矢印の上に大きく×印をつけた。可逆性はあるが不可逆性はない。それは少なくとも今の僕にとって何かしらの真実を指し示しているように思えてならなかった。
 

 左から右への矢印。それが僕を魅了していた。これを書くのは恐ろしく簡単だった。2画で済んでしまう。時間にしても1秒かからない。この矢印を実行に移すとしても、1秒とは言わないがおそらく簡単な事だろう。でも、それは僕にその移行の際に生じるだろうと思われる苦痛に耐えられるだけの精神的な強さがあるとしたらの話だが。ここまで考えた後、僕は可笑しくなって声を立てて笑った。精神的に強い人間ならばこんな事は考えない。そう思えたからだった。そう、僕は強い人間なんかじゃない。3歩進んで3歩下がる。そんな人間だ。何時まで経っても僕が立っている場所は変らなかった。従って同じ風景、同じ物しか見えていない。

 
 忘れるべきなのか?僕はノートを見ながらそんな事を考えた。忘れてしまえば少しは楽になるかもしれない。だが、それが僕にとって可能なことなのかどうか、その判断がつかなかった。その場所は確かに今の僕を支えているのだ。その地平を失ったら、ただ落ちていくしかない。もしかしたらその地平の下には新たな地平が広がっているかもしれない。それなら何か別の風景、別の物が見えるかもしれない。でもその保証はない。今僕が立っている地平の下には何もないとしたら、僕は底無しの井戸をただ真っ直ぐに落ちていくだけだろう。それはとても恐かった。僕は絶叫マシンが嫌いなのだ。高所恐怖症でもある。
 

 僕はノートの次のページを開いた。そこには何も書かれていなかった。無地のノートだから当たり前だ。何かを書こう。そう決めた僕は姉さんを描いてみる事にした。姉さんの顔を思い浮かべる。それはいつかの夢とは違い僕の頭の中ではっきりとした形をとった。それがなんとなく嬉しく思えた。だが、いざ描く段となると手が動かなかった。僕は高校時代の美術の成績が3だったのを思い出した。これじゃあ姉さんに失礼だ。
 

 僕はふとノートを見ていた顔を上げた。窓の外には隣の家の花壇が見えた。そこには色とりどりの花が競うように咲いていた。パンジー、チューリップ、そして名前の知らない何種類かの花。もう、春なんだ。何時の間に来ていたのだろうか?少なくとも僕が知らない内に春は訪れていた。僕とは関係なく時間は流れ、季節は巡る。歳を重ねるに連れてそれは加速度を上げていくように思う。時間に関しての一つの説がある。確かそれは密度の濃い所ほど時間はゆっくりと流れ、薄い所ほど速く流れるというものだった。もしそれが真実なのだとしたら、僕の人生はだんだんと中身を失い空虚なものになっていっているのだろう。それは不思議と悲しくはなかった。むしろ、そうであることが自然であるようにさえ思えた。
 

 隣家の花壇から少し離れた所に一輪のユリが咲いているのが目に入った。そのユリは毅然とした態度で立っている一人の女性を僕に思わせた。それが姉さんの姿と重なるのにと時間はかからなかった。気がつくと僕はそのユリの花のスケッチを始めていた。注意深く観察して正確にその姿をなぞった。絵を描く事に熱中したのはそれが初めてだった。僕は納得がいくまでスケッチを続けた。消しゴムが半分になり、太陽が傾いてユリが見えづらくなったころそれは完成した。僕にしてはいい出来だった。この位描けていればもう少し美術の成績も上がっていただろう。
 

 この絵は姉さんなんだ。僕は確信を持ってそう思った。姉さんの事を考えながらこの絵を描いたんだ。そうでなければおかしいじゃないか。「傷」を失ってしまった僕にとってそれは当然のことに思われた。僕はその絵を丁寧にノートから切り取って胸ポケットにしまった。
 

 僕は立ち上がり、ダッフルコートに袖を通した。この陽気には必要ないかもしれないが、そのコートの重みをを感じると僕は少しばかり安心する。デジタル表示の腕時計をポケットの中に突っ込み、財布の存在を確認した。何処でもいい。僕は自分の部屋のドアを開け廊下に出た。何処かに行こう。
 

 
 
 できれば姉さんの居るところまで。

 
 
 
 
 
 
 
 
          
       


    ミレーコ
 
 
                                               written by TITOKU 
      

1.hambargarshop 
 

「こちらでお召し上がりになりますか?」

「・・・はい。」

 コーヒー一杯だけだから当たり前だろう、と思いながらも僕は不自然な笑顔を浮かべるアルバイトの店員にこちらは努めて自然に答えた。午後7時過ぎのハンバーガーを売りにしたファーストフード店は多くの人々でごった返えしていた。その多くが僕が去年までそうだったティーンエイジャーのようで、妙に画一化された制服をそれぞれにアレンジしながらその身にまとっていた。僕は何やら楽しそうに談笑する彼ら、あるいは彼女らを横目に見ながら喫煙席へと向かった。
 

 僕が煙草を吸い始めたのには特に理由はない。強いて理由を挙げるなら「何か悪いことをしてみたかった」これだけだ。その日の僕はどうにかして自分を傷つけたかっただけかもしれない。妙に自虐的な気分になる日があるものだ。二十歳になる前日に僕は自分の部屋に閉じこもって初めて煙草に火をつけた。何の銘柄だったかは憶えていない。もちろん最初の一口目で激しく咳込んだ。こんなものを美味そうに吸う大人の気持ちが知れなかった。だが、何本か吸う内に肺が煙に馴染んできたようで咳込むことはなくなった。でも決して美味いとは思わなかった。ただ、今の僕を見たら姉さんはどう思うだろうか、そんなことが気になった。絶対に有り得ないことだというのに。誰かに止めて欲しかっただけかもしれない。もちろん、誰も止めはしなかった。父さんも何も言わなかった。そして、僕は煙草が止められなくなった。
 

 窓の外では何かに引かれるように人が流れてゆく。何をそんなに急いでいるのか分からないサラリーマン、熱っぽい視線を互いに交わしている若い女と中年の男、母親に強引に手を引っ張られている幼稚園児とおぼしき子供などなど。みな何かの目的があって何処かに行こうとしている。うらやましい、と思う。僕は何処に行けばいいのか?誰が導いてくれるのか?そもそも僕に目的地などあるのだろうか?もしあるとしてもどうすればそれが見つかるのだろうか?・・・全てが疑問だらけだった。答があるのかさえも分からない疑問。だから僕は人々の流れる様子を見ていた。何処かに行こうとしている人々を見れば僕にも彼らの一人と重なる部分があるかもしれない。
 

 ひとしきり外の様子を眺めた後、僕は煙草を一本口にくわえ百円ライターで火をつけた。ゆっくりと煙を肺に吸い込む。こうすると眩暈に似た感覚を味わうことができる。僕はこの感覚が好きだった。自分が何処かに連れ去られるような感覚。この感覚を味わうためだけに僕は煙草を吸っているのかもしれない。段々とニコチン量の多い銘柄を選ぶようになってきたのもそのせいだろう。 僕は煙草の煙を吐き出すとコーヒーの紙コップを左手で手に取った。小指が立っている。
 

 僕の左手の小指は第二関節から上と下とで色が違う。千切れた小指は繋がらなかった。今、僕の左手にくっついているものは元は右足の中指だったものだ。神経と血管は一応繋がってはいる。だが、その小指は僕の意志を伝えることなくただ存在しているだけだ。それは決してまがることはなかった。そのために僕はチェロを捨てた。あんなに夢中になっていたのに捨てることになってもあまり未練はなかった。元々、自分から望んだのではなく人から言われて始めたものだ。そんなものはいらない。
 

 僕はこの小指が嫌いだった。その他とは違う奇異な姿形もその理由な当たったが、僕が最もこれを忌み嫌うのはその存在そのものだった。ただ在るだけ、そこに在るだけ。何の役にも立たない。存在はしているが実存はしていないその存在。それが今現在の僕自身を思い起こさせる、それがたまらなく嫌だった。その小指を見ていると僕自身を鏡で見ているようで、それも白雪姫に出てくる真実を答える鏡を見ているようで僕をたまらない気持ちにさせた。こんな自分がなぜ生きているのだろう。生きていても何の役にも立たないのに。立たせようともしていないのに・・・。
 

 ・・・止めよう。こんなことを考えていても気分が鬱に落ち込んでいくだけだ。僕はコーヒーを一口も飲まずにテーブルに置いた。そして、煙草の煙を再び肺一杯に吸い込んだ。軽い眩暈が僕を襲う。そのような状態で僕はそれを見たから、そう見えたのかもしれない。あるいはいつかのように僕の願望がそれを僕に見せたのかもしれない。そんなことはどうでもいい。確かに僕はそれを見たのだ、そう認識したのだ。
 

 姉さんがいた。姉さんが窓の外にいた。姉さんが歩いていた。後姿だけだったけれどもそれは確かに姉さんだった。周りの人々と同じように何処かに向かって歩いていた。確かな意志を持って歩いていた。僕は弾かれるように立ち上がり、急いでハンバーガー屋を出た。客が不思議そうな顔で僕を見た。店員の「ありがとうございましたー」という声の小さくなっていく語尾が微かに耳に入った。僕は外に出ると慌てて周りを見回す。右、いない。左、いない。どこだ?どこにもいない。そんなはずはない。僕は見たんだ。確かにあれは姉さんだった。姉さん以外の何者でもなかった。僕はふと大通りの向こう側を見た。いた。姉さんだ。行き交う車の合間から街灯の光に照らされて歩いている姉さんが見えた。

 
 姉さんが僕に逢いに来たんだ。そして何処かに連れていってくれるんだ。僕は何の疑問もなくそう思った。「傷」という絆を失ってしまった僕に最後のチャンスを与えようとして来てくれたんだ。そうも思った。でもその割には姉さんは小走りのようなスピードでどんどん僕から遠ざかっていく。待って!!焦燥感が僕を襲う。このままでは僕はここに置いていかれる。何処にも行けないここに置いてかれてしまう。もうここにはいたくないんだ。ここにいてもどうしようもないんだ。
 

 僕はガードレールを跨いだ。そして車が多く行き交う車道に出た。激しいクラクションが前後左右から聞こえてきた。その場所で僕が最後に見たものはきらめくネオンサインとそれに汚された星のない星空だった。
 
 

 
 
2.riverside
 

 光が満ち溢れている。目を閉じていても瞼の裏の毛細血管が透けて見えるようだ。熱いとさえ感じるような光芒の中に僕は立っていた。僕はゆっくりと目を開けた。痛い。そんな感覚が僕の双眸を貫いた。僕の視覚は何の役にも立たなかった。見えないということはそのまま恐怖につながることが多い。だが、その場所は僕にその感情を催させることはなかった。逆に自分でも不思議なほど落ち着くのがわかった。

 
 目が見えない時に人間はどのような行動を取るべきか。答えは簡単だ。他の五感に頼ればいい。僕は聴覚に意識を集中した。ゆったりとした水音が聞こえる。どうやら川が近くに流れているようだ。それも大きな川だろう。川よりも河と言えるような滔々とした流れを僕は想像した。他には穏やかな風が草々を薙ぐような音と小鳥が戯れる時に発するさえずりが聞こえてきた。不意に微かな潮の香りが鼻を突いた。・・・ああ、そうなんだ。僕は思った。僕は戻ってきたんだ、幼い頃に姉さんとひとときを過ごしたあの河原に。
 

 徐々に光に目が慣れていく。回りの景色が薄い靄のような光の中から輪郭を取り戻してきた。僕は目を閉じ、再び開いた。そこにはあの頃の風景が広がっていた。変っていない。音も色も匂いさえもあの頃のままだった。そこにしばらく立ち尽くした後、僕は一歩踏み出した。河を見ようと思ったのだ。
 

 河辺りも何も変っていなかった。小さな波がそこを撫でるように洗っていた。僕は足元に視線を落とし、傍らに落ちている石を手に取った。薄っぺらく大きくも小さくもない石。姉さんの教えのままの石だった。僕は肩を軽く2、3度回し、大きく振りかぶって横手投げで石を河に向かって投げた。それも姉さんの教えのままだった。僕は石の行方を目で追った。その石は当時の僕の最高記録だった4度を軽く超え、何度も何度も跳ねていった。それこそ150メートルはあろうかと思われる対岸に届くほど。僕は石の動きにつられるままに対岸に目をやった。そこに人影があった。その人は僕をじっと見つめていた。・・・間違いない、あれは姉さんだ。僕と姉さんはしばらくの間見つめ合った。
 

 遠かった。姉さんへの距離があまりにも遠かった。僕は眼に力を込める。そうしなければ見失ってしまうような気がしたから。そうやって実際に視覚に意識を集中すると不思議なほど姉さんの姿が鮮明に見えた。どこか現実ではない、そんな思いが頭の中によぎった。だが、その思いをかき消すように河を渡る風に乗って微かな音が耳に届く。
 

「・・・久しぶりね、シンジ・・・」

 それはまごうことなき姉さんの声だった。河の向こうの姉さんと同じくらい小さな声が確かに耳に届いていた。あんなに距離が離れているのにかかわらずはっきりと僕の聴覚はそれを認識していた。

「花を・・・ありがとう。」

 花? よく見ると姉さんの傍らに一輪のユリの花が咲いていた。風に吹かれて微かに揺れている。あれは僕が姉さんにあげたものなのか?ふと思い出して胸ポケットからノートの切れ端を取り出した。それはただの白い紙切れになっていた。僕が描いたはずのユリの花は跡形もなく消えていた。

「ねえ、シンジ。この花は幸せかしら?」

 ユリの花びらの一片をそっと撫でて姉さんが僕にそう訊ねた。僕は・・・何のことだか分からなかった。姉さんのいきなりの問いの意図もその内容も、そしてその答も。

「この花だけではないわ。すべての花、そう、野に咲く花のすべては幸せなのかしら?」

 姉さんはさらに質問を重ねた。・・・見えない、姉さんの考えていることがさっぱり見えてこない。何のためにこんな問いを僕にぶつけてくるのか?それに答えることによって何があるというのか?僕は姉さんに逆に質問を返した。

「姉さん、なぜ? なぜ、そんなことを聞くの?」

 姉さんは花びらを軽く持ち上げ、ふっと短い息をついた後に言った。

「シンジがこちらに来るためにはこの問いに答えなければいけないから・・・。」

 僕がそこに、姉さんのところに行くためになぜその問いに答えなければならないのか?・・・分からない、分からない。でも、答さえすれば姉さんのところに行ける。また姉さんを取り戻すことができる。もう問いの意図などはどうでも良かった。今僕に必要なのはその問いの答を姉さんに言うだけだった。そうすれば失ってしまったあの日々を過ごし、僕には行くべき場所ができる。答えさえすれば・・・。
 

 だが、何をどう答えたらいいのか見当もつかなかった。難解な哲学の問題を突き付けられたようだった。僕は以前、そう、姉さんが嫁ぐ前日の夜のことを思い出した。その夜も姉さんは僕に一つの問いをぶつけてきた。その時はその答は僕の中にあった。でも、この問いに関してはそれすらも分からない。
    
 
「・・・分からない?」 
 
 姉さんが僕に訊ねる。その声は微かな悲しみが混ざっているように聞こえた。その間も僕は考え続ける。だが、答らしきものは何も僕の脳裏には浮かんでこなかった。

「そう・・・分からないの。」

 答える様子を見せない僕に姉さんは話を続ける。

「なら、シンジはまだこちらに来ることはできないわ。」

 その言葉と共に河から霧が立ち昇る。姉さんの姿が急速に霞んでいく。また・・・なのか、また僕は姉さんを失ってしまうのか?もう二度と姉さんとまみえることはできないのか?・・・嫌だ。せっかくここまで来たのにこれで終わりなんて・・・。そんなのは嫌だ。嫌なんだ!! 

 
 僕は河に飛び込んだ。行けるっ!!河は腿の深さしかなかった。これなら泳げない僕でも河を渡ることができる。周りは霧に包まれて白い色しか見えなかった。上下も左右も分からないような空間を僕は脚に感じる水圧を頼りにして進んだ。あちらが上流だからこのまま真っ直ぐ進んで行けばよい。この河を渡りさえすれば、僕は・・・。
 

 順調に進んでいた僕の歩みが止められた。足が動かない。僕は不自然なほど透き通った水の中を見やる。

「父さん?!!」

 水の中に父さんがいた。僕の足首をしっかりと握りしめ、激しい怒りを眼に湛えて僕を睨み上げていた。

「離して、離してよ!!父さん!!」

 父さんの手に力がこもる。僕の足首を握り潰そうかとするほどに。痛い、骨が砕けるような痛みを僕は感じた。

「父さん!!止めてよ!!姉さんが、姉さんが向こう岸にいるんだ!!姉さんがいるんだよ!!」

 父さんが足を異常なほどの力で引っ張る。僕は河の中に倒れた。口から鼻から大量の水が流れ込んでくる。このままでは溺れてしまう。僕は激しく暴れて抵抗した。しかし、それでも父さんの力は弱まることはなく僕を河の中へと引きずり込む。僕は水の中で叫んだ、姉さんに助けを求めて叫んだ。だがそれは声という具体的な形をとることなく無意味なうめきにしかならなかった。それが最後だった。そこで僕は力尽き河底へと沈んでいった。足を引っ張られる感触だけをいつまでも感じながら・・・。
 
 
 

3.hospital
 

 定期的な電子音が部屋に鳴り響く。その音はニュートリノが原子核を突き抜けて行くかのように朦朧とした頭蓋内を右耳から左耳へと通過していく。そして、僕の深く潜行した意識を徐々に刺激して呼び覚ましていく。
 

 僕は頭に軽い鈍痛を感じながら眼を開いた。見覚えのない天井が目に入った。・・・ここは、どこ?
 

「気が付いたか、・・・シンジ。」

 声の方に顔を傾けると父さんが安物の椅子に座っていた。父さんは髪を乱れさせ、目が赤く充血し、その下にはくっきりとした隈ができていた。

「・・・父さん、ここは?」

「・・・病院だ。」

「病院?」

「・・・憶えてないのか?」

 僕は返事の代わりに軽く顎を引いた。なぜ病院にいるんだろう?僕は確か・・・頭の中心から疼くような痛みが広がる、・・・確か・・・痛っ、思い出そうとすると痛みが靄となってそれを妨害する、・・・確か、ハンバーガー屋にいて、それから河に行って、それから姉さんに会って、それから・・・父さんが・・・。父さん?!! 父さんが僕をここに連れてきたのか?あそこから連れ戻したのか? 僕は口を開いた、それも責めるような口調で。

「・・・父さん、なぜ僕をここに引き戻したの?」

「・・・何を言っておるのだ。」

「もう、すぐそこだったんだ・・・。もう少しで姉さんのところに行けたんだ。」

「・・・・・」

「でも、父さんが・・・、父さんさえいなければ・・・、僕は・・・。」

「・・・・・」

「何でだよ、何でだよ、父さん。なぜ僕をここに引き戻したんだよ・・・。」

「・・・・・」

「答えてよ・・・、答えてよ!! 父さん!!」

「ふざけるな!!」

 部屋全体が振動するような大きな声が響いた。父さんは髪を振り乱し、目を血走しらせて叫んだ。僕がそこから読み取ったものは今まで感じたことのないような激しい怒りだった。

「わけの解らないことを言うな!!お前は・・・、お前は何も分かっていない!!」

 父さんが力いっぱい僕を殴った。二十年の人生の中で父さんに殴られたのはそれが初めてだった。

「親より先に死ぬということがどういうことかまるで分かっていない!!」

 何度も何度も父さんは拳を振り上げ、下ろした。僕はされるがままに殴られ続けた。

「レイも・・・、お前も・・・、とんでもない親不孝者だ!!」

 父さんが涙を流す。初めて見る父の涙。姉さんの嫁入りの時も死んだ時も、そして母さんが死んだ時さえも涙を見せることがなかった父さんが泣いている。

「このままではわしは・・・、わしは・・・ユイに申し訳が立たん!!」

 その間も父さんは繰り返し僕を殴りつけた。だが、それは突然の闖入者によって妨げられることとなった。

「止めて下さい、碇さん!!」

 騒ぎを聞きつけた看護婦が後ろから父さんを羽交い締めにしていた。

「うるさい!!」

「きゃあっ!」

 所詮、女である看護婦は父さんの力にかなわなかったのか壁に向かって突き飛ばされた。そしてかわいらしい悲鳴と共に床に倒れた。看護婦の額から血が流れる。
 

 その看護婦の様子を見て父さんは我にかえった。しばらくの間、荒い息が木霊する。僕は為す術もなくそんな父さんをベッドから見上げていた。

「・・・すまん。」

 その謝罪の言葉と共に父さんはふらふらとした足取りで病室から出ていった。

 そして、その後ろ姿が僕が見た最後の父さんだった。
 
 
 

4.notebookU
 

 セミが鳴いている。季節はやはり移り変わっていた。春はとうの昔に過ぎ去っており、梅雨ももう明けようとしていた。日差しがいやに厳しい。太陽が自分を崇めることを強いるような強烈な光を大地に打ちつけている。だが草木はそれに抗うかのように青々とした生命力を誇示していた。僕はその光景を箱庭という言葉を思い出しながら自分の部屋で眺めていた。エアコンのない部屋は異様なほど蒸した。
 

 僕は机から一冊のノートを取り出した。いつか2ページだけ使ったノート。その1枚は既に白紙になって失われている。僕は最初のページを開く。そこには僕と父さんと母さん、そして姉さんの名前、他には1本の縦線、矢印、×印が書き込まれていた。僕は新しく買ってきたHBの鉛筆を丁寧に削った後、縦線の左側にあった父さんの名前に×印を書き、新しく右側に父さんの名前を書き記した。
 

『お前に先を越されるぐらいなら、わしが先に行く。』
 

 父さんの部屋に残された日記の最後のページにはこう書きなぐってあった。おそらく遺言だろう。遺品を整理していた時にこれを見つけた。この言葉を見つけた後、僕は日記を抱きしめて泣いた。父さんの苦しみと絶望を思い、泣いた。そして、自分が一人になってしまったことに泣いた。それは悲しみと後悔と孤独の涙だった。家族を失い天涯孤独の身になってしまった僕の泣き声は誰も聞くことはなく広すぎる家に響いただけだった。
 

 結局、僕はここにいる。まだ左側に僕はいる。他の家族はみんな右側に行ってしまった。できれば僕も右側に行きたかった。だが、父さんのことを考えるとどうしてもそれはできなかった。もし今僕が右側に行ったとしたらそこでまた父さんを悲しませることになるだろう。そんなことはできなかった。父さんを絶望させるような真似は二度とできない。たとえ会話が少なくても僕を愛してくれた父さんを・・・。
 

 生暖かい汗が背中を伝った。気持ち悪い、一瞬そんな情動が僕の中に湧き上がった。だがそれもすぐに消えていく。僕はまだノートを見つめていた。迷っていた。新しく×印を左から右への矢印の上に書き記すかどうかを。それは生きていくという決意を示す行為に他ならなかった。鉛筆を持つ手が震える。怖かった。一人で生きていくということがこんなに怖いものだとは思いも寄らなかった。・・・孤独が怖い。
 

 熱い風が頬を撫でた。僕は顔を上げる。開け放った窓から太陽に熱せられた風が入りこんできていた。その風が嫌な汗を熱で乾かした。気持ちいい、僕はしばらく目を閉じて肌に風を感じる。風が止んだ後に再び目を開くと僕の視界の中に隣家の花壇が飛び込んできた。春もまだ浅い頃に僕がその横にあった一輪のユリの花をスケッチした花壇。僕は無意識の内にユリの花を探していた。
 

 奇跡だと思った。真剣にそう思った。ユリが咲いていた。あの日と同じ位置にあの日と同じ様子でユリが咲いていた。ユリの花の季節を正確には僕は知らない。春だったか、夏だったか、はたまた秋だったか分からない。だが、そんなことよりも実際にこうして咲いているという事実の方が遥かに大切なように思われた。そして、否応無しにそのユリの花は姉さんと姉さんが僕に突きつけた問いを思い出させた。
 

『この花は・・・、野に咲く花のすべては幸せなのかしら?』

 
 僕はユリを見つめ続けた。それは直感だった。この花が答を与えてくれる。そんな確信が僕の中にあった。そう、答は問いの中にある。僕は飽くことなくユリを見つめ続けた。そして、答に至る。僕はその答を声に出して呟いた。
 

「幸せだよ・・・。」
 

 そう、幸せなんだ。そして、姉さんも幸せだったんだ。
 

 僕は今度は迷うことなく左から右への矢印に大きく×印をつけた。そしてそのページを破り、久しく使っていなかったライターで火をつけた。それは灰皿の上でただの灰になった。僕は立ち上がる。行かなくては。今日は父さんの月命日に当たっていた。ついでに母さんと姉さんにも会いに行こう。
 

 外は相変わらず厳しい日差しが照りつけていた。
 
 
 
 

E.father,mother,sister,and me
 
 
 「久しぶりだね、姉さん。」

 墓石から伸びた長い影が僕の脚にかかっていた。太陽はとうに傾き、涼しい風が心地良かった。僕は姉さんの墓の前で姉さんに向かって語りかけていた。

「分かったよ、あの答が。」

 アブラゼミからバトンタッチを受けたヒグラシのカナカナという声が辺りを包み始める。

「幸せ・・・だよね。」

 その瞬間、姉さんが微笑んだ顔が僕の脳裏に浮かんだ。その笑顔が僕の答に確信を持たせる。

「最初は直感だったんだ。でもね、すぐにその理由が分かったよ。・・・野に咲く花、そしてあの花は問わない、そうでしょ。」

 姉さんの頷く顔が見えたような気がした。

「なぜ問わないのか、それは僕はその花が幸せだからだと思うんだ。幸せだから問わない、だから花は幸せだ。・・・そうだよね。そして、姉さんにあげたあのユリの花は僕が姉さんを想って描いたもの・・・。」

 僕の体に何かが触れた。・・・姉さんだ。

「幸せなんだよね。」

 唇に何かが触れた。

「でもね、姉さん、僕はちょっと思うところがあるんだ。今からそれを知らせに父さんのところに行ってくるよ。・・・じゃあね、近い内にまた来るよ。」
 
 僕は姉さんの前を後にした。
 
 
 

「父さん、そちらの生活はどうですか? 母さん、父さんの面倒をしっかり見てますか?今日は一つお話があります。」

 二つの墓石が仲良く並ぶ前に僕は立っていた。太陽が山の陰に入り始め、空が完全に綺麗な茜色に染まった。

「それは僕が行くべき場所が見えてきた、ということなんです。」

 それは僕の決意の表明。

「姉さんに教えてもらった、ううん、姉さんにヒントをもらったと言うべきかな?」

 僕は語り続ける。

「姉さんには幸せがどういうことか教わりました。でも、それは僕にはまだ早いことなんです。幸せだから花は問いません。しかし、僕はそれが怖いんです。人間は問うから人間でいられるんだと思うんです。問わなくなった人間は既に人間ではない。だから僕はあの河の向こうに行けなかった。でも、僕は今はそれで良かったと思っています。だって、僕は生きている人間だから。」

 父さんと母さんが僕を優しげな目で見つめているような気がした。僕は何か暖かいものに抱かれる。

「だけど、僕はいつか決定的にあの向こう岸に、父さんや母さん、そして姉さんのいるところに行くことになると思います。それは生きている以上変えられない事実ですから。そう考えると、あそこは行くところではなくて帰るところであるのかもしれませんね。」

 不意に涙が零れる。僕は涙を流しながら話し続ける。それが話に僕の真実の心を附与する。

「だから、僕はそこに決定的に帰るまで、行こうと思います。今の自分の生を徹底的に生きようと思います。それは他ならぬ自分へ向かう旅になると思うんです。だから、僕の旅を見守ってくれませんか、お願いします。・・・すいません、話が長すぎましたね。それでは暗くなってきたようなのでこれで・・・。」
 
 僕は父さんと母さんの前を後にする。夕陽がすっかり山の陰に消えた。闇が急速に辺りを包む。僕は一度も後を振り返らずに真っ直ぐ歩いた。もう迷いはなかった。行くべき場所は見えている。多分、行き着くことはできないだろうけど。
 

 僕の旅は長くなりそうな、そんな予感がした。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
                                                                                               −完−


                                                 nextはないかも
                                           ver-1,00 1998+03/12日公開
                              ご意見・感想・誤字情報などはaaa47760@pop01.odn.ne.jpまで  

後書き
 書きたいことの半分も伝わっただろうか?心配です。つくづく自分の文章力の無さに嫌気がさす。
はあー、おまけにまんま△△ △に× ××だもんなあ。待てよ、× ××ということは○○ ○○でもあるわけか。
なんか最低だな、自分。

 この記号の意味が分かった方はメール下さい。もちろん、御意見、御感想も大歓迎です。

 
 
 
 
                                                                        1998,3  TITOKU


 TITOKUさんの『ミレーコ』、公開です。
 
 

 『姉弟』『へへへ』と続いた3部作、
 決まって、完結〜 ですね(^^)
 

 グググと引き込まれて
 堪能させていただきました。
 
 

 振ったり張ったり
 流したり繰り返したり・・

 再読、再々読が平気

   いえ、まだ、再読の段階です(^^;
   じ、時間が欲しい・・
 
 
 

 答えを出して
 先を見つめたシンジ。
 

 その過程も−−

 皆さんにも伝わってきたでしょうか。

 いいよね♪
 
 
 

 さあ、訪問者の皆さん。
 完結をみせたTITOKUさんに感想メールを送りましょう!


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