written by TITOKU
なぜトウジはこんな店を知っているのだろうか?碇シンジはその店に足を踏み入れた時まずそう考えた。ガード下の場末の居酒屋、ブルーカラーの人々が多い町なら必ず一軒はあるような店だ。客層はすこぶる悪い。浮浪者のような身なりをした中年から老人の客ばっかりだ。大して金を持っているようには見えない。それでも浴びるように酒を飲んでいるという事はこの店の料金はかなり安いのだろう。
「なあ、トウジ、他の店にしないか。」
安っぽい演歌のBGMに調子をあわせて傍らに立っている男にシンジは話しかけた。
「んなこと言うなや、けっこう美味いんやでえ、この店は。おーい!大将!お二人様御入店やでえ!!」
トウジと呼ばれた男は不安そうな面持ちで店の中を見回している男にそう答えると自分はさっさと唯一空いている二人掛けのテーブル席に腰を落ち着けた。しかたなくシンジもトウジの後に従った。小汚いテーブルの上には割り箸立てとおそらく開店した時から一度も代えられていないと思われる吸い殻で山盛りになったアルミ製の灰皿が置いてあった。壁はヤニで黄ばんでいた。
「なあ、トウジ、なんか臭くないか?」
シンジがそこはかとなく漂う異臭に気づいてそう言った。煙草の臭いでもアルコール臭でもない、何なんだ?この臭いは。
「ああ、これか?シンジの後ろや。」
後ろ、と言われたシンジが振り返るとドアが目に入った。そのドアを開けてみるとそこはトイレだった。和式便器には大便がこびり付いており、その周りは吐瀉物で汚れていた。
「小便の臭いや。」
シンジはげんなりといった顔をした。
「気にすんなや、すぐ慣れる。なあ、それよりも飲もうや。」
そう言ってトウジは熱燗とつまみを何品か注文した。
「ここの煮込みは美味いでえ。」
あれを見た後ではあまり食べたくはない。シンジはそう思った。
「はいよ!!」
早い、すぐに注文した品が運ばれてきた。安っぽいガラス製のコップに入った熱燗が二つ、トウジが美味いと言う煮込み、冷やっこ、もろきゅう、それに何本かの焼き鳥。シンジは熱燗に口をつけた。まずい酒だ、悪酔いしそうだ。シンジは一口だけ熱燗を口に含むとすぐにコップをテーブルの上に置いた。トウジは何の肉だか分からない煮込みを美味そうに頬張っていた。
「何や、シンジ。飲まへんのかいな。」
トウジはなかなか噛み切れなかったらしい煮込みをゴックンと飲み込むとシンジにそう言った。シンジはトウジを睨み付けた。もうちょっとましな店が良かった。シンジの目はそう語っていた。
「何や、えらい機嫌悪そうやのう。ん?もしかしてあれか?わいが煮込みを一人占めしとるのを怒っとるんか?」
トウジはシンジの方へ煮込みの器を突き出した。シンジは突っ返してやろうかと思ったが、先ほどトウジが余りにも美味そうに食べていたのが気になって取りあえず箸をつけ、一口食べてみた。
「・・・美味い。」
思わず呟いた。
「な、そやろ。おまけに安いときとる。大坂人のわいにとっちゃあ天国みたいな店やで。」
「安いって、いくらなの、これ?」
「聞いて驚くなや、何と150円や。」
ひゃ、150円?いくらなんでもそれは安すぎる。もしかしたら、シンジの頭にある考えがよぎった、そこらへんの野良犬の肉かもしれない、いや、ひょっとしたらチェルノブイリ産かもしれないぞ。シンジは箸を置いた。怪しすぎる、もう食うもんか。
「何や、もう食わへんのかいな、やったら、返してんか。」
トウジはひったくるようにして煮込みの器を奪うと再び箸をつけた。食う時だけは本当に幸せそうな顔をする男だ。きっと家でもそうなのだろう。シンジの頭に鈴原家の夕食時の一家団欒の光景が浮かんだ。実際に見たことはないがやはり家族全員がこんな表情をするのだろう。かつて同級生だった妻と二人の子供。まだ子供のいないシンジには正直それが少しうらやましかった。シンジには子供をつくる意志はあった。だが、現実的な理由と精神的な理由がそれを妨げていた。現実的な理由とは自分と自分の妻の仕事が忙しすぎること。精神的な理由は以下の妻の言葉に集約されていた。『ねえ、幸せな子供時代を知らないあたしたちが子供をつくっても幸せにできると思う?・・・あたしは思わないわ。』シンジはそれを言われると何も言い返すことはできなかった。
「なあ、トウジ。ひとつ聞いてもいいかな。」
「何や?」
「トウジはどんな子供だった?」
「何や、やぶからぼうに。」
「ん、ああ、いや、中学で出会う前の話をほとんど聞いたことがなかったなあ、と思ってね。」
シンジの狙いは別のところにあった。この幸せそうな顔をして飯を食う男の原風景とも言える子供時代の話を聞けば子供を幸せにできる方法が判るのではないだろうか。そんなことを考えたからだった。もし、その方法が少しでも判れば妻を説得できるかもしれない。
「んー、そやなあ。一番好きな食い物は粉物やった。」
「それで、」
「二番目は関西風のうどんやった。」
「それで、」
「三番目はカレーライスやった。」
「・・・それで、」
「四番目は・・・・・」
「・・・もういいよ。」
シンジはトウジの言葉をさえぎった。食べ物の話ばかり聞いてもあまり参考にはならない。シンジはトウジにその話をふったことを少し後悔し始めていた。
「何や、自分から聞いといて。好物の話はもうええんか?やったら、別の話をしよか?」
そうそう、それだよ。シンジは思った。食べ物の話はもういい。結構だ。御遠慮申し上げたい。
「納豆が一番嫌いやった。今でもあれだけは食えん。考えただけで寒けボロがでるわ。・・・ん?どうしたんや、シンジ。何でテーブルに突っ伏しとるんや?」
「・・・何でもないよ。」
「気分悪いやっちゃなあ。自分から話せ言うといて、わいの話には聞く耳もたんとは。」
トウジの所為だろうが!シンジは心の中でそう思ったがもちろん口に出しては言わない。それがシンジらしいところである。
「せっかく、とっておきの話をしたろか、と思っとったのになあ。」
「何だよ、そのとっておきの話ってのは。」
トウジはわざとらしく腕を組んで考えるふりをした。
「んー、どないしたもんかなあ。・・・そや!!シンジがここの払いを持ってくれるんやったら話してもええで。」
また上手いところに話を持っていったな、とシンジは思った。だが、あんなに料金が安かったら二人分もったとしても大したことはないだろう。
「オーケー、わかったよ。で、何だよ。その話ってのは。」
「それはなあ、」
トウジは意味ありげにニヤリと笑った。うっ、生理的に嫌な笑い方だとシンジは思った。
「何でわいがこの店に来るか、っちゅう話や。」
「はあ?」
シンジは疑問に思った。それが子供の頃とどんな関係があるんだ?
「まあ、そんな変な顔するなや。わいがガキの時にあったことと関係しとるんやから。」
トウジは口を湿らすために冷めかけている熱燗を一口含んだ。
「・・・ぬるいな、まあ、ええわ。・・・そうやなあ、あれはまだわいが小学校に上がるか、上がらんかの頃やったな。うちの近くに国鉄のローカル線が走っとったんや。今は第三セクターとやらになっとるらしいんやがな。珍しく雪が降った日にそこの踏み切りで事故があったんや。」
「まさか、トウジが跳ねられたの?」
シンジが口をはさんだ。
「いや、わいやあらへん。事故に遭ったんはわいの家の近所の高校生の兄ちゃんやった。即死やったらしいわ。わいも顔見知りやったんやけどな。そやけど、わいがその話を聞いた時の感想は、ああ死んだんか、っちゅうくらいのもんやった。やから、わいがあないなことを言ったんは正義感でも何でもあらへん。」
「『あないなこと』って?」
「まあ聞けや、これから話したるさかい。・・・その事故があってから何日か経った後やった。雪がきれいさっぱり溶けとったから一週間は経っとったんやないかな。暖かい日やったわ。日向ぼっこしたくなるくらいの日やった。何でかは憶えとらへんけどわいは一人で駅まで行ったんや。その時は事故のことなんかすっかり忘れとったわ。ところでシンジはローカル線の駅がどないなもんか知っとるか?」
シンジは首を左右に振った。
「まあ、簡単に言うたら、小さくて汚い。そして暇なんや。その日も気だるそうな顔をした駅員が何人かホームに出て煙草を吸いながら日に当たっとったわ。そのおっちゃんらを見たら急に事故んことを思い出してなあ。わいはおっちゃんらに声を掛けたんや。『おーい、おっちゃん!!』って具合にな。おっちゃんらは電車好きのガキが来たとでも思ったんやろうなあ、ニヤニヤしながらわいに手を振っとったわ。そんな人のええおっちゃんらにわいは言うたんや。」
店の前を大型車が通ったらしく店内が細かく震えた。すっかり冷め切ったシンジの熱燗に細かい波紋が走った。
「『おっちゃんらは悪い奴や!! おっちゃんらは人殺しや!!』ってな。ガキっちゅう生き物は残酷やな、思ったことをそのまま言いよるからな。それでまた悪いことをしとるっちゅう自覚がないから始末が悪い。」
トウジは視線を宙に走らせた。幼い頃の思い出に浸るかのように。
「時が止まるっちゅうのはああいうのを言うんやろな。わいの言葉の後におっちゃんらの笑顔が凍り付くのがわかったわ。しばらく気まずい空気が流れてなあ、その後やったわ。おっちゃんの中の一人が急に泣き出したんや。びっくりしたで。大の大人が泣きよるなんて思いもよらんかったからな。『お前みたいなガキに何がわかるんや、お前みたいなガキに・・・』て言うてオイオイ泣きよるんや。どうもそのおっちゃんが高校生を跳ねたらしいんやけどな。そのおっちゃんを見とったらわいは急に怖くなってそこから走って逃げ出したんや。」
シンジは黙ってトウジの話を聞いていた。何を言ったら良いかわからなかった。
「その日の夜やったかな、そのおっちゃんが死んだんや。わいは風の噂で聞いただけやから詳しい話は知らへんのやけど、どうやら自殺やった、っちゅう話や。酒を浴びるほど飲んで首を吊ったらしいわ。・・・多分、わいが背中を押したんやろな。」
「それは・・・」
違う、という言葉をシンジは飲み込んだ。その言葉の根拠が見つからなかったから。
「なあ、ところでシンジ。あのおっちゃんらをどう思う?」
トウジはカウンター席で酔いつぶれている汚い身なりをした何人かの初老の男を横目で見てそうシンジに訊ねた。
「どうって・・・」
「わいはなあ、あのおっちゃんらを見ると自殺したおっちゃんのことを思い出すんや。多分、あのおっちゃんも死ぬ前にあんな風に酔ってくだを巻いたんやろうなあ、と思うんや。だが、この店に来るおっちゃんらは何度わいがここに来てもいつも同じように酔って寝とる。そして、生きとるんや。わいはあの生きとるおっちゃんらを見ると訳もなく安心するんや。やから、わいはあのおっちゃんらを見るためにこの店に来る。・・・欺瞞やろうけどな。」
トウジは喉が渇いたのか残っていた酒を一気に飲み干した。シンジもそれに付き合った。シンジにはその酒がいやに苦く感じられた。トウジはどんな味を感じているのだろうか、ふとそんなことが気になった。
−了−
1998.2 TITOKU