此所は実際にはどうであれ、見かけ上はミサトのマンションのダイニングキッチンだった。
少年は部屋の真ん中で立ちすくんでいた。
足下を小刻みに震わせながら。
彼の向かいには圧倒的な迫力で自分を見据える少女の姿。
憤怒の表情の中にぎらつく青い瞳から発する強烈な視線は、彼を拘束し身動きする事を許さない。
彼女の足下には彼女と同じ姿をした少女がうつ伏せに転がっていた。
二人の少女の違いは着ている服が学校の制服と私服ということ。
そして激情を体中から漲らせて仁王立ちしているのと、生命感のない抜け殻のように倒れているのとの違いだった。
彼女の背後の壁は人型に近い形で穴があいていた。
何故そうなっているのかは考えるまでもない。
さっき飛んで来た破片はこれが原因だったのだ。
少女は少年に向かって地の底から響き渡るような凄みのある声を発した。
「シンジィ〜・・・・」
身体がびくりと反応すると同時に赤い半袖シャツ姿だった少年は、彼女に合わすかの様に制服姿に変わった。
彼の顔は恐怖に強張っていた。
さっきまでの自分が一人になってしまう、誰からも必要とされなくなる恐怖ではなく、目の前の少女に過激に意識されている恐怖によって。
質が変わってしまった恐怖に混乱した少年の口から洩れたのは・・・・・
「はっ・・・はは・・・・アスカ・・・・」
恐怖を通り越して少年の口から出た笑いに、少女の感情が頂点に達し爆発した。
「このおおおお〜バカシンジィィィ〜！！」
シンジアスカの大冒険？
その１１
「あっかんべぇ〜！」
発令所の主スクリーンに映し出されているのは衛星軌道上の視点からの映像。
画面の端から端まで緩やかな青い弧を描いた地球を背景に、黒い球体が浮かんでいた。
ジオフロント・・・・またの名を人類の生命の源たるリリスの卵、黒き月。
外からの視点で見ているにもかかわらず、彼等は現在この黒き月の中にいる事になる。
「パイロットの反応が限り無くゼロに近付いていきます！」
「エヴァシリーズおよびジオフロント、Ｅ層を通過。尚も上昇中！」
「現在高度２２万キロ。Ｆ層に突入」
「エヴァ全機健在！」
「リリスよりのアンチＡＴフィールド更に拡大！物質化されます！」
「アンチＡＴフィールド、臨界点を突破！」
矢継ぎ早に飛んでくる報告を聞きながら、冬月は無言で画面上の黒き月を食い入るように見つめる。
黒き月を中心にして地球に白い輝きが広がり、更に立体的に盛り上がり始めていた。
輝きは次第に人の形を取ってゆく。
その有り様に顔をしかめる冬月の傍らには、涙で顔をくしゃくしゃにして頭を抱え込むミサトの姿があった。
俯きながら彼女のつぶやく言葉は悲しみと苦悩、そして怒りに彩られていた。
「シンジ君はこんな事をやらされるために生きてきたの？・・・・酷いわ！」
命がけで戦っていたシンジに対して何の手助けもできず、見ているだけだった自分。
そしてこの不毛な状況はこれから最後の時まで続くのだろう。
あまりに無力な情けない自分に、遂にミサトは恥も外分も無く喚き始めた。
「渚カヲル！私に力を貸して！どこにいるのよ、シンジ君があんなになっているのに・・・助けてよ、御願い・・・・私に、私に力を！！」
隣で騒ぎ出したミサトに冬月は仕方無さそうに目を向けた。
だからと言って彼女にかける言葉など冬月は持ち合わせていない。
何もできないのは彼も同じなのだから。
結局騒ぐミサトをほったらかしにしておく事にした冬月が、画面に視線を戻そうとした瞬間に異変がおきた。
「うあっ！」
叫びと共にミサトの身体が後ろに引っ張られるように反り返り、次いで見えない何かにめり込むようにして消えていく。
驚愕する冬月の目の前でミサトの姿は跡形も無く消失した。
しばらくの間唖然としてミサトの消えた空間を凝視していた冬月に青葉シゲルの声が聞こえた。
「アンチＡＴフィールド拡大・・・・止まりました！」
「何？」
混乱しながらもシゲルに振り向く冬月にマコトの報告が続いた。
「パイロットの反応も弱小化止まりました」
「・・・・・」
言葉を失う冬月。
いったい何がおきたのか。
ミサトの消失にアンチＡＴフィールドの拡大の停止。
冬月には結びつくものを思い付く事がなかった。
（彼女が消えたのが人の形を失ったからだというのなら、アンチＡＴフィールドの拡大が停止したのはおかしい。どうなっているのだ？・・・・）
原因が分からず困惑する冬月は再び主スクリーンを見上げた。
そこには地表から強大な身体を生やしたリリスが黒き月に両手を包み込む様にかざしていた。
エヴァ＞
「わっ」
どすん！
「むぎゅっ」
悲鳴と共にミサトは地面に勢い良く尻餅をついた。
もっとも間に何かクッションのようなものがはさまっていたようで衝撃は小さい。
仰向けになったミサト視界に広がったのは所々に鱗雲が走っている青空だった。
発令所にいたはずの自分がどうしてこんなものを見ているのだろう、といぶかりながら起き上がろうとするミサトに尻の辺りからくぐもった声がした。
「の、のひへふははい〜ミハホは〜ん」
ぎょっとして尻の下を見下ろそうとするミサトに灰色の地面が目に入った。
「？！・・・」
見覚えのない、ざらついた質感のコンクリート地面・・・・しかも上は空だ。
どう考えてもここは発令所とは違う。
何がどうなってしまったのだろう？
事態が飲み込めないミサトの背後で激しい声がした。
「いつまで乗っかってんのよ！」
声の主に腕をつかまれ強引に体を引き起こされると、尻の下から呼吸困難で顔を真っ赤にした少年が現れた。
「えっ！シンジ君！？」
ミサトは両目を倍程の大きさにむいて驚きの声をあげた。
地球上空でサードインパクトの生け贄になってたはずのシンジが自分の尻の下に敷かれていたのだ。
驚かずにはいられない。
しかも彼は紫色のプラグスーツ姿だった。
サードインパクト直前のシンジは何故か分からないが制服姿だったのに。
シンジを呆然と見下ろすミサトの腕をつかんだ手が、ミサトの身体を回転させた。
くるんと真後ろに向いたミサトが見たものは赤いプラグスーツ姿で睨み付けるアスカだった。
「えっあ、アスカ？！」
「アスカじゃないわよ！あんた驚いてる暇ないのよ！」
「なっ？」
「ねー、ミサトさん」
「レ、レイ！？そんな、どうして？？」
「事情は説明します、落ち着いて」
「渚カヲル！！」
「ミサトさん」
次々にあちこちから声をかけられミサトは、訳も分からず慌ただしく振り返りまくった。
そしてここにいる筈のない四人に取り囲まれている事実に気付き、混乱が頂点に達してしまった。
「あああああ、どうなってるのよおおお！！ぐむっ」
混乱のあまり大声で叫ぶミサトの口をアスカが拳を突っ込んでふさいだ。
「うんむむむっ」
「この〜静かになさいよ！！」
それでも暴れるミサトの手足を残る三人が必死に押さえ付けた。
カヲルはそれでもなお動こうとするミサトの顔を覗き込むと諭すように囁いた。
「落ち着いて。今から事情を説明します。時間がないんです。了解なら頷いてください。手を離しますから」
ミサトはカヲルの紅い瞳をじ〜っと見つめると、やがてゆっくりと頷いた。
平和＞
どすっ
アスカ爪先蹴りが鈍い音をたてて脇腹に突き刺さった。
シンジの身がびくりと縮こまる。
脇腹を蹴られてアスカの足下にうつ伏せになっていた物体はごろりと仰向けに転がった。
自分に蹴りが飛ばなかった事に対して安堵と当惑を感じつつ、シンジは視線をそーっとアスカに向けた。
いかにも不快そうに自分そっくりの物体を見下ろしているアスカ。
その瞳が上目使いになり、ジロリとシンジを睨んだ。
アスカの右手がびしりと真下を指差す。
「こいつはなによ？！アンタこんなもの作ってどういうつもりよ！！」
「えっ？」
恐れの中に惑いが芽生える。
シンジはアスカの足下のアスカ、のようなものを自分が造り出したという自覚は全くなかったからだ。
ついさっきまでこれが本物と思い込んでいた程だ。
「えっ？、じゃな〜い！アンタアタシをこんなろくでもない奴だと思っていたの！？なによ、こんなの！こいつはアンタの悪夢が作ったアタシとは似ても似つかない出来損ないよ！！」
「あ、悪夢・・・？」
「そうよ！アタシもここに来るまでここいら辺に充満した陰湿な空気におかしくなりそうだったわよ！サードインパクトってこんなやな雰囲気作り出すの？アンタに趣味の悪い夢を見させる程！」
アスカの言葉にシンジはあらためて自分の悪夢が作ったというアスカを見た。
外見は頭のてっぺんから爪先まで同じだが、顔に表情がまるで無く青い瞳に生命感のかけらもない。
体は作り物の人形のようにぴくりとも動かない。
シンジがこれは本物ではないと認識した時が、彼女が動きを止める時だった。
本物のアスカが現れた時点で彼女の存在意義は無くなってしまったのだ。
「サードインパクト引き起こしたあげくこんなものに振り回されて・・・・バカシンジなんだから！！」
「・・・ごめん・・・・」
普段のようにシンジはあやまってしまった。
こんな普通でない状況でもいつもの習性が働いてしまう。
アスカもいつものように腰に手をあてシンジを睨んだ。
「あやまってる場合じゃないわよ！」
「だって・・・・恐かったんだ・・・・・独りが・・・・」
独り・・・自分の言った言葉にシンジの心が震えた。
自分の心がアスカを作り出したのも独りが恐かったからだろう。
澱んだ空気がそれを悪夢にした。
もう独りにはなりたくなかった。
恐怖に怯えるシンジの目が再び何かに取り付かれたように濁る。
シンジはさっき自分の作った悪夢に訴えた言葉を繰り返していた。
「アスカ、僕を一人にしないでよ！アスカ、助けてよ・・・僕を・・・・殺さないで！！」
「・・・・・アンタ・・・・ふ・・・・・ふざけるなあ〜！！」
どか！！
アスカの足がシンジの作った悪夢のアスカの顔面を踏んづけた。
「独りが恐いのは・・・・・・・アンタだけじゃないわよお〜バカシンジイイイ〜〜〜！！」
げしっげしっげしっ！
怒りにまかせて悪夢のアスカの顔面を連発で踏みつけるアスカ。
手加減など微塵も感じられない。
踏まれる度に悪夢のアスカの顔が、無表情なままひん曲がる。
ひとしきり踏んづけたところで、アスカは足を悪夢のアスカの頬に乗っけたままシンジを見つめ直した。
怒りだけではなく、悲しみの入り混じった表情で。
「殺さないで、ですって？・・・・何でアンタが言うのよ・・・・それアタシのセリフじゃない！！人のセリフを横取りするな〜！・・・・アンタ自分ばっかり辛そうな事言って、アタシだって・・・アタシだって！アンタに出会うずっと前から・・・・独りだったのよ！どんなに勉強できても、エヴァのパイロットになれても・・・ひとりだった！！・・・」
激情に身を任せて言葉を吐き出し続けるアスカの青い両の瞳から涙がこぼれ頬につたい落ちていた。
「ア、アスカ？・・・」
そのあまりに意外なアスカの有り様に、シンジは独りの恐怖も忘れてひたすら狼狽していた。
自分の知っているアスカとあまりに様子が違う。
本物である事は間違い無いのに。
シンジの困惑をよそに涙で声をかすれさせながらアスカは訴えかけた。
「どんなに強がっていても独りになるのが恐くて仕方なかった・・・・アンタ分かってるの？アタシの悲しさを・・・・ひとりがどれだけつらいことか！どれだけ泣いたことか！！」
泣き濡れた顔を苦渋にひきつらせてアスカはうつむいた。
言ってしまった。
今まで誰にも言ったことがなかったのに。
加持にすら明かさなかった心の内をよりによってバカシンジに吐き出してしまった。
ぐりぐりっ！
やりきれぬ思いを込めてアスカは悪夢のアスカの頬を靴底で踏みにじり出した。
何をされても反応を示さない自分そっくりの物体は、アスカの怒りをぶつける格好の標的になっていた。
「このこのこの！」
靴底を擦り付けるアスカの怒りに満たされた心の中に、小さな違和感が芽生える。
誰にも言ったことがないはずなのに・・・・・
（なんで前にも言ったような気がするの・・・・？）
エヴァ＞
「解っていただけたでしょうか？・・・」
コンクリート地面に律儀に正座したカヲルが向かい側でどっかとあぐらをかくミサトに静かに問いかけた。
「う〜ん・・・」
ミサトはカヲルとその背後に体育座りするシンジ、アスカ、レイ、そしてその後ろに浮いている二つの八角形の窓を一通り見回した。
今まで聞いたカヲルの説明。
二つの世界、もう一人のシンジやアスカ、カヲル、レイ・・・窓の力・・・実物を見てもああなるほどと納得できる話ではない。
大きく息をついてミサトは答えた。
「とても信じられない話だけど・・・・・疑ってる時間もないのよね？」
「はい」
あっさり言ってのけるカヲルにミサトは観念したようにかぶりをふった。
「わかったわ、それで具体的にわたしはどうしたらいいの？」
「さっき言った通りシンジ君に僕らの気持ちを伝えてください。もう一度会いたい。人の姿のままで。君がいなくなると僕らは悲しくてしかたないと・・・・」
「人と人の境界がなくなった時に？」
「そうです。今はそれしかない。それがシンジ君に人のカタチを取り戻す意志力となれば・・・サードインパクトを阻止できなかったのは僕のせいでもあります。だけどまだ諦めるのは嫌です。ミサトさん、あなただってそうでしょう？あなたの意志もシンジ君に伝えたくはないのですか？！」
「それはそうだけど・・・・・ワラにもすがるような方法ね・・・」
「・・・・ですね。実は僕も向こうの世界へもう一度いこうかと考えたんです。だけど彼等は連れて行けない」
カヲルは後ろを振り返った。
そこには三人の少年少女の神妙な顔があった。
「危険で勝算の薄い手段だけに彼等にはここに残って欲しい。だけど僕だけ行くのを彼等が許す筈がない。だから・・・」
「わたしに頼もうと考えたのね」
「はい。結局自分の安全を確保する形になってしまった。情けないことに」
毅然とした声がカヲルに飛んだ。
「情けなく思う必要はないわ！」
ミサトは立ち上がった。
カヲルを見下ろし言葉を続ける。
「わたしらの世界の事はわたしらがやるわ！これ以上別世界の貴方達に負担をかけるわけにはいかない。これはわたしの世界の問題なのよ！」
見栄を切ってみせたミサトにカヲルも立ち上がり、問いかけた。
「いいのですか？ここにこのまま残ればあなたは無事でいられる。自分の世界に戻れば溶けてしまうんですよ？」
ミサトはカヲルの問いかけに対して窓を指差した。
「わたしの世界はここじゃなくてあっちなのよ！わたしは自分の世界で全力を尽くすほうを選ぶわ！」
「・・・分かりました。僕らはミサトさんにまかせる事にします。いいね、みんな？」
カヲルの声に三人は立ち上がりながら頷いた。
ミサトがカヲルの窓に歩み寄る。
アスカがミサトの腕をつかんだ。
「ミサト、御願い！シンジを助けてやって」
「ふ〜ん、こっちのアスカはシンジ君に気持ちをストレートに出すのね」
「な、なによそれ！」
真っ赤になるアスカの横からシンジが顔を出す。
「ミサトさん、僕からも御願いします。みんなを・・・」
更に深刻そうにはとても聞こえないにぎやかな声がかぶさってきた。
「ミサトせんせー、じゃなかった、ミサトさん！私からも頼むよねー！碇君達を助けてあげてよー！」
感情溢れるレイの喋りっぷりにミサトは半ばあっけに取られながら答える。
「あなた全っ然違うわね〜、うちのレイと」
「そーでもないよ、手本を見せたらちゃんと私みたいに笑えるようになったし」
「え・・・？」
「ほらこれ」
にこっ
「ああっそれ！」
ミサトはサードインパクト直前のリリスの大口開けた笑顔を思い出した。
「じゃ、あの時レイが・・・・あんたの仕業？」
うろたえるミサトにカヲルがせかす。
「とにかく急いでください、時間は残り少ないんです！」
窓に近付くとカヲルはミサトを促した。
窓には発令所が映っていた。
ミサトをこっちへ引っぱり込んだ時と変わった様子はまだ見当たらない。
「さあ、どうぞ」
数十センチの窓をしゅんっと扉サイズに拡大するとミサトに目配せした。
「ええ、また会いましょう・・・必ず！」
自分を見送る四人を今一度見回してにっこり笑うと、ミサトは扉に向かって跳躍した。
ミサトの身体がするりと飲み込まれ、扉の向こうへ消えていった。
（・・・これでまた見ているだけに逆戻りか）
思いながらカヲルは扉を窓サイズに戻そうと手をかざした。
縮小する窓から向こうの世界へ戻ったミサトの様子を確かめようとした時！
「！！・・・これは！」
カヲルはたった今向こうの世界に異変が起き始めた事を知った。
平和＞
「いったい、いったいどこに消えたんです！？」
オペレーター席からたったマコトが冬月に向かって問い質していた。
眼鏡の奥でぎらつく瞳には非難の色が見て取れる。
オペレーター席はミサトの立っていた場所の前にあった為、背後で何があったか彼は気付かなかった。
その上冬月は何も言わなかったのでマコトがミサトの消失を知るのが遅れたのだ。
「私にも分からんのだよ・・・・」
冬月はそう答えるしかなかった。
彼女が人の形を失ったとしたなら自分達もそうなっていいはずだ。
なのに何故彼女だけ・・・・？
しかも痕跡すらなく。
納得しないマコトが冬月ににじり寄ろうとした時、突如二人の間に異様な空気の揺らめきが起こった。
「なんだ？」
冬月に驚く暇さえ与えず忽然と出現したのは制服姿の少女だった。
まるでさっきからここにいたかの様にたたずむ少女は、冬月を見つめ仄かに笑みを浮かべている。
彼女が現れた事の意味に冬月は当惑した。
「レイ！・・・・何故だ、アンチＡＴフィールドの拡大は止まったはずなのに・・・・・・遅すぎたというのか？」
沈痛な面持ちとなった冬月の前に立つレイが突然別の姿に変わった。
それは彼が一番会いたいと望んでいた女性の姿だった。
冬月の表情が明るく変化する。
「・・・碇、お前もユイ君に逢えたのか」
ぱしゃっ
歓喜の言葉と共に彼の身体は形を失い、オレンジ色の液体となった。
マコトも自分に向かい合うレイの姿に見入っていた。
驚きと恐怖で硬直したマコトの前で、レイの姿がいきなりミサトに取って代わった。
「ミサトさん！・・・・」
ミサトの顔がマコトに近付いてきた・・・・・
ごちんっ！
「あ痛たっ！」「うっ」
おでことおでこをぶつけ合い、マコトとミサトは互いに尻餅をついてしまった。
「あ痛たたた・・・・マコト君なんでこんなとこに・・・・」
「ミサト・・さん・・・うっ」
マコトはそのまま後ろに倒れ気絶してしまった。
「な、なんなのよ、戻って来たとたん・・・わっ！！」
ぱしゃっ
ミサトの眼前で失神したマコトが突如ＬＣＬの液体に変わってしまった。
「こ、これは・・・・溶けた・・・？」
仰天しながら自分の手についたマコトだった液体を凝視するミサト。
慌てて周りの様子を見回すと、ほどなく彼女の真後ろに立っている少女に気付いた。
「レイ！」
レイの姿が一瞬にして、ミサトがこの世界に戻ってまで会おうとした少年に変わった。
「シンジ君！・・・・・始まったのね・・・シンジ君、今行くわ！」
ぱしゃっ
シンジに手を差し伸べたミサトの身体がＬＣＬに変わった。
「ＡＴフィールドが・・・みんなのＡＴフィールドが消えて行く・・・」
マヤは床に座り込みキーボードを叩き続けていた。
それは単なる惰性としか言い様のない行動だった。
「これが答なの？私の求めていた・・・・」
その時彼女は背後に気配をを感じた。
慣れ親しんだ一番大切な人の気配を・・・
「！！」
マヤは振り向いた。
「センパイ！」
リツコがいた。
何故か上下逆さまになった両足を前後に動かしている、かなり鬼気迫る表情のリツコが。
しかしマヤはそんなリツコの状態など気にも止めなかった。
歓喜の表情で逆さまのリツコの胸に飛び込んで頬を擦り付けた。
「センパイ、センパイ、センパイ、センパイ、あっ」
ぱしゃっ
リツコを抱き締めながらうれし涙をにじませるマヤの身体が溶け落ちた。
シゲルはマヤの溶け落ちる様子を見守っていた。
彼女がリツコと共にＬＣＬと化すのを確認した後、ため息をついて正面を向いた。
そこには裸のレイがこちらを見ていた。
うらめしそうにレイを見ながらシゲルはぽつりと呟いた。
「マヤはリツコさんと行っちゃった・・・・俺は誰と行きゃあいいんだ？・・・」
レイは何者にも変わる様子はない。
しばらく二人はじっと見つめ合ったまま動かなかった。
・・・・・・ぱしゃっ
やがてシゲルは一人ＬＣＬへと還元された。
「シンジィ〜・・・・・」
アスカは泣き腫らした目でシンジを睨み付けながら獣のように低く唸った。
「ここまでアタシに言わせてしまったからにはアンタ、分かってるでしょうね〜・・・」
分かっているかと聞かれててもどうすればいいのだろう。
第一今はアスカの視線に射すくめられて身動きもままならない。
人と人の境界が曖昧になったこの空間。
シンジはアスカの膨大な怒り、悲しみ、寂しさなどの入り混じった感情にさらされていた。
その勢いに圧倒されつつもシンジはアスカの感情に対して奇妙な親近感を感じていた。
さっきアスカの言った言葉が頭から離れない。
独りが恐いのはアンタだけじゃない・・・・
アスカもずっと自分と同じ辛さをかかえて生きてきたのか・・・
そう思うとアスカの視線による縛り付けが心持ち緩くなったような気がした。
硬直から脱しつつあるシンジにアスカは問いかけた。
「アンタも言いなさいよ・・・・これからどうする気よ！！」
「これから？」
「そうよ！このままでいい訳ないでしょ！！サードインパクトは進行してるのよ！しかもこれからの事は引き起こしたアンタにしか決められない。アンタ何を望むのよ！？」
「そんな、何をって・・・」
「時間がないの！早く考えなさいよ！！」
そう言われても急には答えられない。
シンジがサードインパクトの引き金を引いてから、自分が何を望むかなど考える余裕すらなかった。
ただただ淀みきった空気に流されるままにこの空間を彷徨っていただけだった。
アスカに出会うまでは。
「ええ〜い、どうなのよ！！」
アスカの顔つきが更に険しくなる。
今にも噛み付きそうだ。
早く答えねば・・・・・
焦れば焦る程、考えが出てこない。
うろたえるシンジの脳裏をよぎったのは、とにかくアスカが怒るようなことは望む訳にはいかないという事だった。
それならいっそ・・・・
シンジは控えめに喋り出した。
「アスカ・・・・アスカは何を望むの・・・？」
「なんですってえ？」
「僕はアスカの望む通りの事を望むよ。アスカがどうしたいかを言ってくれたらその通りに・・・アスカだって望みたい事があるはずだろうし・・・僕なんかよりアスカの望みをかなえたほうが・・・・」
言い終わるとシンジはアスカの顔色を窺った。
アスカはシンジから視線をはずし、うつむいていた。
乾いた沈黙が流れ過ぎて行く。
「・・・アンタ・・・・・・・・・アンタには自分の意志ってもんがないのかあ〜！！」
どぎゃっ！！
跳躍したアスカの両足が悪夢のアスカの胸を踏みつぶした。
びっくりしたシンジの体が合わせる様に数センチ上下する。
ろっ骨がめりめり軋む感覚を足裏で感じながらアスカはびびるシンジに怒りの叫びを浴びせた。
「バカシンジ！アンタまだ此所の空気の毒気に当てられて、いいように動かされてるの？！さっきアタシの出来損ないやアタシに言った事がアンタの本心なの？違うでしょが！！そりゃアタシの望む通りにアンタに望ませる事だってできるわよ！だけど・・・・・・・アンタがアンタでなきゃ意味ないでしょバカシンジ〜！！」
どごっどごっどごっ
アスカの身体が大きくジャンプして悪夢のアスカに両足ストンピングの雨を食らわせ始めた。
そのあまりに容赦のない攻撃にシンジの身体が再度凍り付いてしまった。
アスカの心の叫びの意味を考えるより前に・・・・・
エヴァ＞
「くうっ」
アスカは自分の胸の真ん中を片手で押さえ、顔をしかめていた。
「やっぱりほっとけない！」
窓に突っ込む姿勢をとるアスカを慌ててシンジとカヲルが押しとどめた。
それでも諦める素振りを見せないアスカにシンジが耳もとで叫ぶ。
「だめだよ！アスカ！！」
「だってだって！・・・」
苦痛に顔をゆがめるアスカの瞳から涙が零れ出した。
尚も暴れるアスカに半分振り回されかけているカヲルが、努めて冷静に話し掛ける。
「アスカ君、向こうに行ったら今見たように君も溶けてしまうんだ」
「向こうのシンジも溶けたんでしょ？！なんとかしなくちゃ！！」
「だから溶けたら元に戻れる保証はないんだ」
「じゃあ向こうのシンジや、あたしやミサトは・・・・戻れないの？いやよ、そんなの！！」
アスカは胸を押さえていた片手にもう一方の手を重ねると前屈みになった。
流した涙がコンクリート地面にぽたぽたと滴り落ちてゆく。
「アスカ・・・・・苦しいの？」
自分の窓から目を離してレイがアスカに聞いた。
苦痛に満ちた顔を上げるとアスカが声を絞り出した。
「痛いのよ！胸が！向こうの事を考えると・・・・締め付ける様に・・・・・とても！シンジがあんな酷い目にあってるのをどうする事もできずにいるのが辛くて・・・・どうして止められなかったの？こうなるのを・・・」
「・・・・すまない、僕のミスだ・・・・」
頭を下げるカヲルに見向きもせずアスカは呟き続ける。
「こんな事なら・・・・あいつとも仲良くしとくんだった！あいつだって好きであんなやな奴になったんじゃないのに・・・あたしとケンカした時、あいつ言ってた・・・・・ひとりがどれだけ辛い事か・・・どれだけ泣いたことか！・・・あいつの心の悲しみを聞いていたのに・・・なのにあたしはあいつに腹を立ててばっかりで・・・ううっ」
胸にそえられたアスカの手がプラグスーツにシワを作るくらいにきつく握られた。
「・・・・つぅっ」
平和＞
どすっどすっどすっ！！
（あー、どうして、どうしてコイツを踏んづけてるとこんなに気持ちいいの？）
エヴァ＞
「行かせてよ、あっちのシンジを助けなきゃ！」
再び窓に向かってアスカは飛び込もうとした。
レイとカヲルがアスカの腕を捕まえて阻止しようとする。
更にカヲルが窓を消そうとした時、シンジがアスカと窓の間に立ちはだかった。
「だめだよ！！」
シンジらしくない力強い声だった。
驚いたアスカは動きを止め、シンジを見た。
そこにあった彼の顔は普段とは比べ物にならない位、厳しいものだった。
「僕はアスカに向こうへは行って欲しくない・・・・」
「・・・・シンジ？」
「あっちの世界の僕を助けたいのは分かるよ・・・・だけどアスカが溶けちゃったら・・・いやだ！」
「でも・・・」
「僕の言うことも聞いてよ！！」
「！！」
「僕だってシンジなんだ・・・・・」
アスカは息を呑んだ。
シンジの言葉に宿る感情の強さに気押されて。
窓をくぐってしまえば自分の世界のシンジに会えなくなるかもしれないのだ。
それはシンジも同じ。
ましてや二人で窓をくぐる事はアスカには出来ない・・・・シンジに溶けてなど欲しく無い。
アスカは向こうの世界へ行くのを諦めざるを得ない事を知った。
それは自分の世界のシンジを優先させる事であり、向こうの世界のシンジに手を差し伸べるのを断念する事でもある。
「・・・・・」
苦悶の表情を浮かべながら、アスカは無言でシンジを見つめていた。
結局自分の世界のシンジのほうが大事なのか・・・だからといって向こうの世界のシンジを見捨てるなんて・・・・
アスカの乾きかけた頬を再び涙が濡らしていった。
「くうう、シンジ〜！！」
やるせない表情をシンジの体に埋めると、アスカは両の拳で彼の胸を叩き出した。
シンジはそんなアスカをしっかりと、
どすどすどすっ
「うぐっぐっぐっ！」
抱きとめきれなかった。
アスカの遠慮ない拳の連打に息をつまらせ思わず仰け反るシンジ。
拳の一発ごとにずるずる後ろにずり下がっていく。
二人のやり取りを見ていたカヲルがシンジに激を飛ばした。
「シンジ君、そこは後退しちゃダメだよ。男なら・・・」
「うっぐっぐっ」
「碇君、アスカをしっかり受け止めてあげなきゃ。でもアスカのパンチって強烈だもんね・・・・」
人事のようにシンジに一声かけるとレイは再び自分の窓を覗き出した。
シンジはアスカのパンチに顔を真っ赤にして耐えながら、必死に踏みとどまろうとしていた。
平和＞
「ふー、ふー、ふー・・・」
アスカは飛び跳ねるのを止めて、息を整えていた。
かなりの運動量だったが、アスカの体には本人が不思議に思う位の爽快感が満ちあふれていた。
足の下に自分と同じ姿の物体があった事が無関係ではなかろう。
（さてと・・・・）
あらためてアスカはシンジを見た。
相変わらずシンジは気弱そうな様子で自分を見ていた。
（こいつ、まだ・・・・）
アスカはため息をついた。
偽物とは言え人の姿をしたものにあれだけ派手にストンピングをくり返せばびびるのも無理はない、という所までアスカは気がまわっていない。
とにかくシンジをなんとかせねば。
「アンタ・・・・アタシはアンタが望むことを正直に言ってみろと言ってんのよ！誰の意志でもない自分の望みを・・・カヲルも言ってたでしょ！自分を見失うなって・・・なのにサードインパクトのせいでできたこの不快な空気・・・こんなのの意志に流されて訳分かんない事望んで欲しくないのよ！たとえアンタの望みがアタシの望みと違っていようが・・・・まずアンタの、シンジの望みを言ってみなさいよ！！」
アスカは一旦言葉を切って息を吸った。
段々気が落ち着いてくるのが分かった。
いろいろと喋っている内に自分の言いたいことが見えてきたのだ。
人と人が溶け合い始めたこの世界・・・それでもまだ分からないシンジの心の中・・・・
アスカは表情を穏やかなものに変えるとシンジに言った。
「アタシはアンタのホントの気持ちが聞きたいのよ・・・・・バカシンジ？」
「・・・・」
「アタシだって言っちゃったんだからアンタだって言えるでしょ？隠さずに吐き出しなさいよ」
「アスカ・・・」
「受け止めてやるわよ、アンタの本音の一つや二つ！」
どんと胸をたたいてみせるとアスカはシンジの様子をうかがった。
シンジは無言で立ち尽くしている。
暫くの沈黙が続いた。
その間にアスカは流れ来るシンジの感情の波が大きくなってゆくを感じていた・・・
心臓が大きく鼓動を打っているのを感じる。
身体全体が鳥肌立ち、震えが止まらない。
胸元から熱い塊がこみ上がり、出口を求めて目元まで上昇した。
両目からこれでもかとばかりに涙が溢れ出した。
シンジの魂の激情が叫びとなって吐き出された。
「ごめん・・・ごめんよアスカ！・・・う・・うあああああ」
涙にくぐもった声が部屋中に響き渡った。
シンジの様子を静かに見守っていたアスカは乗っかっていた自分の偽者から降りた。
声をあげて泣くシンジにゆっくり近付きながら手をそっと伸ばす。
指先が肩に触れた。
シンジの心の震えが指先から這い上がり、アスカに伝わった。
不快感はない。
触れられたシンジが泣き濡れた顔をアスカに向けた。
彼の顔にはそれまで見当たらなかった意志が宿っていた。
「アスカ、僕は僕の意志で望みを決めるよ！どんな物にも流されずに、自分で！ごめんよ、今まで何もできなくて・・・・だけどアスカのおかげでやっと自分を取り戻せた気がする。ありがとう、アスカ・・・」
「ふ〜、ホントにやっと、ね・・・」
アスカの口元が自然に笑みを作った。
なんだか一仕事終えたという気分だ。
まだやらねばならない事はあるにせよ。
アスカは肩に触れていた手を離すと今度はシンジの手を握った。
「じゃあシンジ、いくわよ」
「え？」
「アンタの望みを聞く前にまずここを出るのよ。ここはアンタのろくでもない夢が作った世界なの。見かけはミサトのマンションだけど出口のない閉じた空間よ。要するにアンタ心の殻に閉じこもってたのよ。さっきここに入ろうとしたたけど出入り口がないから無理矢理穴開けて入ったんだから！」
言いながらアスカはシンジの手を引き、アスカが壁に開けた人型の穴へと歩き出した。
穴の手前にはさんざ踏んづけられたにもかかわらず、しぶとく原形をとどめている肉塊が転がっていた。
アスカはそれを無造作に踏み越えた。
続くシンジの足が止まる。
「なによ？！」
「いや、いくら本物じゃないからって・・・・」
「向こうの世界のアタシと思えばいいのよ！」
それでは余計に踏みにくい。
じれたアスカはシンジの手を無理矢理ぐいっと引っ張った。
「わ〜！踏んじゃった踏んじゃった！」
「いいの！それで」
二人は穴をくぐり外へ出た。
彼等の眼前に薄暗い、何処から何処まであるのかはっきりしない淀んだ空間が広がっていた。
肌を生温い空気がなでる。
人の心を負の方向に向ける陰湿な空気・・・・
アスカの表情が険しくなった。
「む〜、この・・・シンジ、ちょっと待っててね」
アスカは再び穴を引き返した。
「アスカ？」
部屋に戻るとアスカは転がってる自分の姿をした物体を見下ろした。
その眼がぎらりと光る。
右足を振り子のように大きく後ろに振りかぶった。
「どぉりゃぁぁぁ〜！！」
どぐぁっ
脇腹を蹴っ飛ばされた悪夢のアスカが、まるで重力を失ったかのようにふわりと宙を浮遊した。
そのまま壁にぶつかると、彼女の形は音もなく塵と化し消滅していった。
「あ〜、すっとした！」
アスカは満足そうに笑いながら回れ右をした。
穴の外からシンジが引きつった顔をして覗いている。
気にも止めずアスカは軽い足取りで走りよっていく。
「お待たせ〜！」
アスカはシンジの手を取った。
一旦前に進もうとしたが、足を止めて後ろを振り向く。
淀んだ空間にマンションの一室だけが忽然と立っていた。
外側から見ると実に異様な光景だ。
自分にならってマンションをながめているシンジにアスカは囁いた。
「こんなものの中にいて自分の本当の気持ちが分かるもんですか！たとえこの空間がどんなやな空気を充満させても、もう絶対惑わされないわよ！ね、シンジ？」
「うん・・・」
アスカはマンションを睨み付けると、片足を浮かせた。
「えい！」
気合いとともに靴底を壁にぶつけた。
壁にぼこりと靴の形の穴があいた。
「こんなものか・・・そうだ、これアンタの作った悪夢なんでしょ。だったらアンタがぶっ壊したら？」
「え？僕が」
「そう。こんな無気味なもの消しちゃいなさい！アンタがおかしくなって作ったのなら正気に戻ったら消せるはずよ！」
「そうか・・・でもどうやりゃいいんだろう？」
「要は否定すりゃいいのよ、こんなものいらないって・・・・・あかんべえしてやればいいのよ！」
「あかんべえ・・・」
「そう、ほらやってみなさいよ！」
アスカは握った手でシンジを前に引っ張り出すと、自分は背後にまわった。
緊張した面持ちでシンジはマンションを見つめた。
「さあ、やって！」
「うん・・・僕はこんなものいらない・・・」
・・・・・数秒がたった。
マンションに変化はない。
アスカがシンジの背をたたく。
「もっと気合い入れて！」
「う、うん！・・・・・・こんなものいらない・・・・」
シンジは大きく息を吸った。
意を決すると人さし指を眼の下に添え、舌を突き出した。
「あっかんべえ〜！！」
その瞬間ミサトのマンションの形をした物体は、悪夢のアスカ同様一瞬にして塵と化し、かき消えてしまった。
「！！・・・・・・あら〜見事に消えちゃったわねえ・・」
アスカが感嘆の声をあげた。
それにしても『あっかんべ〜』は言葉のあやで言った事だったのに、シンジが真に受けて使ったのが意外な効果を生んだようだ。
「あっかんべえ〜か、結構使えるのね〜！」
感心しながらアスカはシンジを見た。
あまりに簡単に消えたことにシンジ自身あっけにとられている。
握った手を振り回し、シンジの正気を促した。
「ほらほら用がすんだら行くわよ、シンジ！」
「あっ、うん！」
アスカはシンジの腕を引っ張り走り出した。
彼は地べた仰向けに倒れたまま全く動こうとはしなかった。
眼鏡越しに天を見つめる瞳には生気はなく焦点もろくに定まってはいない。
彼の望みは見事なまでに崩れ去り、最早何もやる事など有りはしなかった。
そして何故そのような結果になったのか、原因は余りにも明白だった。
自業自得。
彼をここまで惨めな姿にしたのは彼以外の何者でもなく、それは彼自身が一番良く分かっていた。
それでも彼はこのやり方しか出来なかったのだ。
十年前に自分のシナリオを作ったその時からずっと。
今、このジオフロントの最下層で醜態をさらす彼の回りには誰一人いない。
ＬＣＬの泉で溺れている筈の人間は頭になかった。
独りであるからこそ彼は胸の奥底に封印していた言葉を叫んでみる事にした。
「息子に触れるのが、息子を傷つけるのが恐かったんだ〜！」
叫ぶ事自体が苦痛であるかのように彼は表情をゆがませた。
「息子に愛されていると信じられなかったんだ〜！・・・」
叫び終わった彼は僅かに残された可能性を待つ事にした。
自分の息子がサードインパクトを引き起こしてしまえばあらゆる人間が一つに溶け合ってしまう。
そうなれば会えるかもしれない。
たとえ他の多くの人間の一人としてであっても。
もし順番というものがあるなら彼女に一番最初に会えるかもしれない。
自分の息子が人類を救うのに失敗する事を期待するなど、とことん見下げ果てた父親だが今の彼はそうするしかなかったのだ。
ゲンドウは自分を見下ろす人影を感じた。
苦悩にゆがんだ彼の表情が和らぐ。
長きに渡って待ち望んだ瞬間が遂に来たのだ。
「この時を・・・ただひたすら待ち続けていた。ようやく会えたな。ユイ」
白衣をはおったユイが暖かい眼差しでゲンドウを見下ろしていた。
十年の時の経過を忘れさせる若々しい姿そのままに。
彼女の存在を感じるだけでゲンドウの心が安らいでいく。
これこそが彼の欲しかったもの、自分の邪さすら包み込んでしまう彼女の懐の深さ、そしてぬくもり・・・・・
心地よさに身をまかせつつもゲンドウは、彼女に会った時にまずしておかなければならない事を言い始めた。
「俺が側によるとシンジを傷つけるだけだ。だから何もしない方がいい」
ゲンドウが始めたのは自分がこれまでシンジにしてきた仕打ちに対する言い訳だった。
ユイに会った時シンジの事をどう弁解するのか・・・・彼は十年間ずっと考え続けていたのだ。
ユイは優しい声で答えた。
「シンジが恐かったのね」
ゲンドウの言い訳は全く意味を成さなかった。
人同士が溶け合い始めた今、詭弁など通用しない。
もっともそうでなくてもユイならゲンドウの心の裏など簡単に読み切ってしまうだろう。
それでもゲンドウは用意しておいた台詞を性懲りもなく唱え続けた。
「自分が人から愛されるとは信じられない。私はそんな資格はない・・・・・・・それでもユイはそんな私を愛してくれた」
ゲンドウの前にもう一人の人影が現れた。
「ただ逃げているだけなんだ。自分が傷付く前に世界を拒絶している」
ゲンドウはそれが渚カヲルであると認識したが、それ以上の感慨は彼には必要なかった。
ユイがカヲルの言葉を引き継ぐ。
「人の間にある形もなく目にも見えないものが」
ユイの後ろにレイが立っていた。
「恐くて心を閉じるしかなかったのね」
隠し通してきた脆弱な自分の本心は全て暴かれてしまった。
そうなるのは分かっていた事なのに・・・・
「その報いがこの有り様か・・・」
ゲンドウはあと少し時間がたてばどんどん他の大勢の人間と混ざりあう事を知った。
すでにユイ以外の者が二人ここにいる。
そうなる事を望む気はない。
ユイに会えた事でゲンドウの心はこれ以上ないという位に満たされていた。
もはや思い残す事はない。
彼はすべての人と一つになる前に死ぬ事を望んだ。
ユイにこの願いを叶えてくれと思いつつ。
ゲンドウの気持ちに答えるかの様にユイが初号機の姿に変わると、巨大な手を伸ばし彼の身体を鷲掴みにした。
彼女は夫を自分の口元まで運んだ。
二人の間に微妙な沈黙が流れる。
自らの死を確信したゲンドウは、最後に謝罪の言葉を口にした。
「すまなかったな、シンジ・・・」
ゲンドウの視界に初号機の大きく開かれた口が広がった・・・・・・・・
「本人の前で言いなさいよ！！」
「え？・・・」「は？・・・・」
初号機の大きく開いた口とゲンドウの中間あたりの位置に、怒りの形相でゲンドウを睨む少女の首が浮かんでいた。
「・・・・・・レイ？」
ゲンドウはやっとの思いで自分を睨み付けている頭だけの少女の名を呟いた。
しかしそれ以上は何も言う事ができない。
あのレイが今まで見せた事のない迫力に満ちた表情で、しかも頭部だけで目の前に浮かんでいるのだ。
サードインパクトの最中であっても、こんな事態が起きるなど彼の理解の範疇を超えている。
初号機同様大きく口を開けて驚くゲンドウに、生首の口から鉄砲水のように言葉の塊が浴びせられた。
「ねーおっさん、すまなかったなって言うなら碇君の前で頭下げて言わなきゃだめでしょ！！本人のいない所でこそっと独り言みたいに言ってどーすんのよ！まず碇君に会いに行ってよ！そいでほんとーに心からごめんなさいってあやまってよ！自分が悪いと思うのなら・・・・そーすれば碇君の今まで受けた苦しみも和らげられると思うよ、きっと！なのにここで死んだらおっさんそれこそ死に逃げじゃない！碇君のことを思うなら会ってよ！会ってあやまってよ！もうこれ以上逃げないでよ！父親でしょ！顔全然似てなくても・・・・死ぬくらいなら死ぬ気になって自分の本心ばらして見せて！会ってよ、あってよ、あってよーお！！」
機関銃のようなレイ突っ込みを食らいまくったゲンドウは、放心状態で石像のごとく固まってしまった。
彼女の言葉を理解する余裕も持てず、ただその感情のほとばしりをサンドバック状態で受け続けたのだ。
溶け合い始めたこの世界においては、レイの魂の叫びがもたらす破壊力は今のゲンドウには強烈すぎた。
ＴＫＯ状態の夫を見てか、口をあんぐり開いたままの初号機から慌ただしくユイが姿を浮かびあがらせた。
正体不明のレイ（おかしな言い方だが）の出現とその言動に困惑したユイは、事態の収拾のためにとにかく会って話してみるしかないと思ったのだ。
宙に浮いた生首の後ろから、宙に浮いた女性がそっと声を掛けた。
「あの・・」
生首がぴくりと反応すると１８０度ぐるっと勢い良く回転した。
あまりの勢いに水色のショートヘアがぶわっと振り乱される。
「あんたもあんたよ！！」
叫びとともにユイに向けられた怒りの瞳は、燃え盛る炎のごとく紅くぎらついている。
思わずユイは空中を一歩引いてしまった。
こんな眼で睨まれればゲンドウが固まるのも無理ない。
標的を変えた生首は再び言葉の速射砲をぶっ放し出した。
「おばさんいったい何するつもりなのよ？！自分の夫を掴んで口に運んで、おまけにいただきまーすとばかりに菱形に口ひらいちゃって・・・・おばさん夫をおやつにするつもり？こんなまずそうなのを食べてヒゲ刺さったらどうするのよ！あんたカマキリか！？・・・・なんでよ、どうして食べるの？食べちゃったら・・・このおっさん碇君にあやまれないじゃない！せっかく仲直りできるチャンスなのに・・・・あやまったらきっと碇君も喜ぶのに・・・・・おばさんが二人を会わせなきゃいけないでしょ！？なのにどうして・・・・・どーしてそれをぶっこわそうとするのよー！！そんなことする人・・・そんなの人じゃない、母親じゃない・・・・・化け物よ！！」
「っ！」
ユイの身体が後ろに吹っ飛んだ。
生首少女は怒りの感情で作られた化け物という名のハンマーをユイにぶっつけたのだ。
ショックを受けるユイの思考が数瞬の間硬直した・・・・
・・・・やがて正気をなんとか取り戻したユイは、自分を睨むレイの生首から視線をはずすと背後にぎこちなく振り向いた。
今まさに我が夫を食らわんと口を広げる一本角の鬼の顔があった。
まるで鏡に写った自分を確認するかのように、手を顔に触れてみるユイ。
その表情に彼女に似つかわしくない不安と怯えの色が広がっていく。
一方、ユイを化け物呼ばわりした生首少女の瞳からはいつしか滝のように涙が流れ落ちていた。
怒りの形相に悲しみの表情を入り交じらせて。
頬をつたい滴り落ちた涙がきらめきながら、地面に向かって吸い込まれていった。
ぴちゃっ・・・
落ちてきた涙の雫が少女達の足下で跳ね飛んだ。
彼女らは跳ねた涙の雫に身じろぎもせず、上を見上げている。
左端の少女は制服姿で頭と腕に包帯を巻いていた。
まん中の少女は両端の二人の半分位の年令で赤の可愛らしいワンピース姿だった。
右端の少女は衣服を何一つ身にまとわず、白いか細い裸体をさらしていた。
三人は顔色一つ変えずに、上のほうで騒いでいる自分達と同じ顔を持つ生首を見つめていた・・・・・
・・・・・やがて右端の少女の口元に、他の二人とは異なった柔らかな笑みが浮かんだ。
「あなただったのね・・・・・」
後ろの初号機にまで突き刺さろうかという鋭い視線でレイはユイを見据えていた。
対するユイはさっきのゲンドウ同様動く事が出来ない。
返す言葉すら思いつかなかった。
もはや少女が何者で何で首だけなのかなどという疑問は関係なくなっている。
目の前の頭だけのレイの言葉が自分の心から自信を吸い取ってしまった・・・・自分の行いが正しいと言い切れる自信を。
惑うユイに涙にまみれたレイがとどめの一言を叩き込んだ。
「おばさんもしここでこのヒゲのおっさん食べちゃったら・・・・・身も心も正真正銘バケモノよ！！」
「うっ・・・」
小さく声をもらすと、ユイは力なくうなだれた。
精彩を欠いた表情はまるで敗者の様だ。
少女の生首が横回転を始め、動かぬ二人をじろりと見回した。
「わかったら二人ともこれから碇君にあやまりに行きなさい！！」
しゅんっ
言い終えるやいなや少女の生首は引っ込む様にして空中から消えてしまった。
中間に浮かんでた生首が消えた後、残された妻と夫は無言で互いの顔を見合わせ続けていた・・・・・・
エヴァ＞
シンジ、アスカ、カヲルの三人が横並びで地面に尻餅をついていた。
真ん中のシンジの上には更にレイが尻餅をついている。
レイの体には六本の腕がややこしくからみ付いていた。
三人がレイの身体を思いきり後ろに引っ張った結果が今の状態をつくったのだった。
「ひあ〜」
声をあげたレイの下でシンジが呻く。
「うぐ〜・・・あ、綾波・・・」
「あー碇君！ミサトさん時と同じパターン・・・」
シンジに振り向いたレイにアスカの怒号が浴びせられた。
「あんた！いったい何やってんのよ！！」
「あーアスカ」
更にカヲルが割って入り、声をうわずらせながらレイに叫んだ。
「レイ君なんて事をするんだ！」
悪びれる様子もなくレイは言い返した。
「だってあんまり腹が立ったんだもん！」
「今あっちは人と人が溶け合い始めた状態なんだよ！窓に首を突っ込んでいたら、君まで溶けてしまうんだ！分かってるのかい？」
「ああー、そーだった！！」
事を理解したレイは慌てて自分の顔を手で触りながら、三人に問いかけた。
「ねー、私の顔溶けてなーい？」
平和＞
ジオフロント最下層の時は止まり続けていた。
滑稽なまでに大きく口を開いたまま微動だにしない初号機。
その手の掴まれたまま呆然と硬直しているゲンドウ。
宙に浮いたままゲンドウを見つめているユイ。
いきなり出現して暴風雨のごとく喋るだけ喋り、消え去ってしまった生首から受けた衝撃から今だ抜けきれないでいる。
ぱしゃんっ・・・・
ＬＣＬの泉で何かがはぜる音がした。
白衣が水面でゆらいでいる。
沈黙が打ち破られた瞬間、時が再起動を始めた。
「・・・・・あなた・・・・」
やっとの思いで気を取り直したユイが空中を歩み寄り、ゲンドウに近付いた。
彼を掴む初号機の指をすり抜け、ユイの手が触れた。
彼女らしくない思いつめた表情がゲンドウを覗き込んだ。
妻のただならぬ雰囲気に異様な緊張を覚え、耐えきれずにゲンドウは声を漏らした。
「ユ、ユイ・・・・」
「あなた・・・・・・・シンジに会ってください」
びくっ
ゲンドウの肩が震えた。
表情が怯えにひきつる。
「ユイ、ま、まってくれ」
「私は取り返しのつかない間違いを犯す所でした・・・・」
「ユイ・・・」
「二人でシンジにあやまりましょう。きっとシンジはあなたを許してくれますわ」
「おおおお俺はシンジに許してもらう資格はない！」
「それはシンジが決める事です。たとえ許してもらえなくても・・・あなたの本心をシンジに伝えないと！」
「お願いだ！ユイ、このまま俺を殺してくれ！」
「だめです」
「たのむ、ユイ〜！」
初号機の手がゆっくりと胸元まで下がった。
大きく開かれた口がしぼむ様に閉じていく。
「行きましょう」
初号機はきびすを返すと歩きだした。
往生際悪く初号機の手の中で無駄なあがきをするゲンドウの傍らに、寄り添いながらユイが浮遊している。
「いやだ、ユイ、助けてくれ・・・・」
「あなたはシンジの父親なんですよ。親の使命を果たさないと・・・私はシンジの母です。もしここであなたを殺したら・・・私は人でも母でもなくなってしまう！」
「俺は・・・シンジが・・・・恐い・・・・」
「私は碇ユイです・・・・人です、シンジの母です・・・・私はバケモノにはなりたくない！！」
「ユイぃぃぃぃ〜！！」
ぱしゃっ
ゲンドウの身体がはじけ、初号機の手がＬＣＬの液体で濡らされた。
「シンジ君・・・・どこなの・・・・・」
上下の感覚がはっきりしない。
距離の感覚もはっきりしない。
自分と周りの境界もはっきりしない。
暗い、淀んだ、曖昧な空間・・・・・
ミサトは自らの身体が溶けてしまった瞬間から、この得体の知れない場所にほうり出されてしまった。
不快な空気が彼女の使命を忘れさせようとまとわり付いている。
「なによ、せっかく来たのに・・・あ〜気分悪い・・・シンジ君はまだ溶けてないの？」
ミサトはまだ誰の心とも溶け合った感触がない。
どんな感触かは知らないが、それでも溶け合えば何か感じるはずだろう。
と、その時ミサトは自分の心に直接触れる意志のようなものを感じた。
「ミサトさん・・・・」
ミサトはそれが誰の意志か即座に理解した。
「なんだ、日向君か・・・」
「なんだ、ってなんなんですか・・・」
落胆した意志をミサトから感じて落ち込むマコト。
「あ、ごめんごめん。シンジ君を探さなきゃ・・・日向君、ついて来る？」
「は、はい」
「センパイ、センパイ・・・」
「無様ね、私・・・・」
「ユイ君、どこだ・・・」
「どうでもいいや、俺・・・・」
離ればなれだった人の心と心は次第に引き合い、混ざり合おうとしていた。