今は四時間目終了直後。
廊下の端っこを俯き加減にこそこそと歩くマヤ。
職員室に向かう途中だった。
途中楽しそうに会話をする生徒達とすれ違うが、彼等はマヤには何の興味も見せずにいってしまった。
その後も何人かとすれ違ったが、殆どの生徒がマヤを校内の景色の一部くらいにしか思ってないようだった。
(もう、当たり前になってしまってるの?・・・)
マヤがこの壱中に来てから二週間近くが過ぎようとしていた。
最初は騒いでいた生徒達も彼女の制服姿に既に慣れてしまったみたいだ。
むしろ慣れていないのはマヤのほうかもしれない。
今だに恥ずかしさがなくなる事はなかった。
(でも・・・・なんだか前より恥ずかしさが小さくなってるような・・・・時々こんな格好してる事忘れちゃうし・・・私、順応してしまってるの?)
自分を取り巻く環境に慣れてしまう事にマヤは怯えを感じる。
このまま誰も自分が制服を着ている事をとがめず、放置してしまうのだろうか・・・・
もちろん今でもマヤの制服姿に突っ込みを入れ、からかう生徒もいる。
しかしそんな生徒の声を黙らせるようにヒカリやアスカが尽力し、マヤを守ってきたのだった。
そんなヒカリ達に素直に感謝できない現状がマヤを更に悩ませる。
思い悩むうちにマヤは職員室の前にたどり着いていた。
いつものようにそっと戸を開けて中の様子をうかがいながら入る。
無言で自分の机まで歩くと音を立てずに座った。
中にいた教師達はマヤに一瞥をくれただけで興味なさそうに自分の用事に戻る。
いつもの通り。
ナオコ教頭が認めてしまったがためマヤをとがめられなくなった彼等は、何も言えぬままいつしか違和感を風化させてしまった。
もっとも制服姿のマヤにあまり接触したがる教師はいない。
そのため教師間でマヤが浮き上がった存在になっていた。
「マヤちゃん~、ちょっちお願いがあるの~!」
唯一の例外が気楽そうに声をかけてきた。
背後からマヤの両肩に手を置き、背にもたれかかってくる。
「は、はい?」
「今度のHRねえ、私都合悪いからマヤちゃんがやってちょうだい!ね、お願い!」
「はい・・・・・」
「ありがとね~、マヤ。制服似合ってるわよ~!うらやましいなあ~っと」
ぐさっ
(うう・・・・私に抵抗なく接してくれるのはいいけど、思慮が浅すぎるわ。苦手な人種・・・こんな人がなんでセンパイの親友なの?)
リツコの親友をやってるからこんな人、という発想はマヤにはないようだ。
こんな人、葛城ミサトは2ーAの担任でありマヤは副担任である。
だから新米の自分をミサトが指導する立場にあるから、他の教師のように自分を避けたりはしないのだ・・・・とマヤは思っているが実体は違った。
巨大蛾事件を隠ぺいしようとしたナオコをヒカリが脅していいなりにさせた時、ミサトはその場にいて一部始終を見ていた。
今マヤが制服を着ていられる真の理由を知っているミサトは、それを楽しんでいるのだ。
あのナオコさえ手が出せない・・・・・考えようによってはこれ程面白い状況は滅多にない。
「わったっしも制服着てみったっいな~」
(はあ~・・・人の気も知らないで・・・)
げんなりと肩を落とすマヤ。
その時、沈んだマヤの心を叩き起こす様な厳しい声が部屋中に響き渡った。
「皆さん、集合して下さい!!」
教師達が一斉に振り向く。
職員室の中央にナオコが立っていた。
この時間恒例である教師達のミーティングの号令をかけたのだ。
教師達は蜜に群がる蟻のごとくナオコの周りにぞろぞろと集まっていく。
全員集合したのを確認するとナオコは威厳のこもった声で話始めた。
「そろそろ期末テストの時期が近付いて来ました。先生方にはそれぞれ受け持ちのクラスのテストを作成して頂く事になります。既に作成を始めている方もおられると思いますが、作成期限はテスト期間に入る5日前までです。それまでに必ず完了しておいて下さい。作成したテスト問題は一応チェック致しますが、基本的にテスト内容は先生方の裁量に任せる方針ですので、これは形式的なものと考えて下さい」
中間、期末テストが近付くといつもナオコは同じ台詞を言っていた。
お決まりのパターンである。
「さて皆さん、何か御意見はありますか?」
そして教師達がナオコの問いに誰一人意見を述べる事がないのもお約束になっていた。
普段なら。
「教頭・・・」
ナオコを取り巻く教師の中から一本の手が上がった。
パターン破りの行為に教師達の間で軽い当惑の空気が広がる。
「実はお聞きしたい事がありまして」
白衣姿の教師がナオコの正面に進み出た。
冷静な目でナオコが白衣を見返す。
「なんでしょうか?時田さん」
時田と呼ばれた教師は中肉中背の中年男だった。
やや細面の顔の造作は良くも悪くもないがあまりぱっとしたものも無く、要するに冴えない感じだ。
しかも今、彼の目つきはすこぶる悪かったのだ。
時田は白衣の上に更に負の雰囲気をまとっていた。
「期末テストはいいですが、ちょっと問題が・・・・」
時田の勿体つけた言い方にナオコの目がきらりと光る。
「問題とは?」
「ここにいる教師の中にまだこの学校に来てまだ十日ちょっとしか経って無い、しかも新任の方がいます」
ぎくっ
突然自分の事を持ち出され驚くマヤ。
「彼女が授業をした部分はテストの範囲のほんの一部でしかありません。これでテストの作成は重荷ではありませんか?」
「では貴方はどうすべきだと?」
「伊吹さんの受け持つクラスは一つだけ。残りは僕が受け持ってます。ならばいっそテストの作成は僕に全部任せてもらえないでしょうか?そうすれば全クラス統一のテストが出来ます」
目の前で繰り広げられる教頭ともう一人の数学教師の会話。
その内容にうろたえ、マヤは身を硬くしていた。
「しかし教師が受け持っているクラスのテストを作成するのが原則です」
「確かに。しかし・・・・彼女で大丈夫なんですか?」
ちらりとマヤを見やる時田。
自分を見る時田の口元が歪んでいるのを見て、マヤは思わず視線をはずし縮こまってしまう。
「ここにいる教師の殆どが伊吹さんの教師としての能力を判断つきかねているのは事実です。正直言って信用に足るには至ってません。それは彼女の教師としての仕事に対する取り組み方に皆が疑問を持っているからではないでしょうか?」
背筋に寒気すら感じ、身を小刻みに震わせながらマヤは確信した。
(この人、私の制服姿を批判してるんだわ・・・)
今まで無かったのが不思議なくらいだが、いざ批判されるとこんなに心辛いものだとは・・・
次第に饒舌になってきた時田をナオコは厳しい目つきで見つめていた。
「時田先生、貴方は何を言いたいのですか?」
「要はこのような格好で授業をしている彼女をこのままにしていいのかという事です。教頭はなぜこんな非常識を容認なされているんです?まともに考えれば分かるでしょうに」
「・・・・」
ナオコは顔を強張らせて沈黙してしまった。
時田の言う通りだったからだ。
しかし本当の理由は言えない。
まさか巨大蛾騒動を隠ぺいしようとして、ヒカリに脅されマヤの制服を認めるしか無かったとは。
ナオコが言葉につまるのを見て時田の声は勢いに乗る。
「伊吹先生のやり方ではたして本当に生徒のためになっているのか確かめてみようじゃないですか!今度の期末テストで。学年共通のテストで彼女の受け持つ2ーAがどれだけの成績を上げるか?それではっきりと分かると思います。もし成績が芳しく無い様なら、もうあんな格好で学校に来ないでもらいたい。いかがです、教頭先生?」
自信たっぷりな時田の問いかけにナオコは追い込まれていた。
時田の意見を受け入れれば隠ぺいした不祥事が暴露されかねない。
逆に却下しようにも正当な理由がみつからない。
思いあまったナオコはマヤに目を移した。
自分で答を見出せないから、この際本人に下駄を預けようとナオコは考えたのだ。
「伊吹さん、貴方はどうなのですか・・・・・?」
ぎくっ
マヤの心臓が跳ね上がった。
ナオコや時田はもちろん、教師全員の視線が制服に降り注いだ。
(あ、あ・・・・・)
襲いくる重圧感に締め付けられ、マヤは身動きすら出来ない。
(ど、どうしよう・・・・どうしたら・・・どうすれば・・・・)
混乱し何も考えられなくなったマヤにナオコの声が響く。
「どうします?」
「は、はい、おまかせします!」
「・・・・・分かりました。それでは数学の期末テストの作成は時田先生にまかせます。伊吹さんに関する時田先生の御意見はテストの結果を見てから考えます」
ナオコの出した結論が思い通りだったのか時田の口元がにやりと笑った。
「それではこれで解散します!」
緊迫した空気から解放された教師達はそれぞれの持ち場に戻っていった。
その場に立ち尽くしたままのマヤを残して。
(おまかせしますって言っちゃったけど・・・・結局・・・どうなったの?期末テストは私は作れなくて・・・・もし私のクラスの成績が悪かったら・・・・私の仕事のやり方が否定されるの?)
よくは分からないがそういう事らしい。
自分の受け持つクラスのテストを作れないのは屈辱的な事だ。
その上自分のクラスの成績が悪かったりしたらどうなるのだろう。
(もしそうなったらどうしよう・・・・今までの私の仕事が、授業のやり方が否定されて・・・制服を着られなくなる?・・・・・えっ!制服着なくて良くなるの??)
大ぼけエヴァ
第拾壱話 切実、悩みの中で
発端編
「ひどい!許せないわ!!」
憤りに満ちた声が昼休みの教室に響き渡る。
口に入れようとしたコロッケを挟む箸を止めてヒカリは叫んでいた。
向いの机に座るマヤは怒りまくるヒカリをおろおろと見つめていた。
いつものように昼御飯を一緒に食べようとしたのだが、マヤの表情が冴えないのをヒカリが目敏く見て取り、問いただしたのだった。
本当は黙っているつもりだったのだが、ヒカリに対して隠し通す事などマヤには到底無理な話だった。
結局マヤは事の次第を包み隠さずヒカリに吐き出す事になってしまったのだ。
「何よ!あの時田は!マヤの仕事を横取りするなんて!なんでマヤの作ったテストじゃなくてあんな奴のテストを受けなきゃなんないの?私前からあの先生嫌な奴だと思ってたのよ!!」
実際にはヒカリが時田を嫌な奴と思ったのは今が初めてだった。
「マヤのやり方のどこがいけないのよ!こんなに私達と仲良くやっているのに・・・こんなのひがみよ!いじめよ!セクハラよ!!」
だんだん過激になってくるヒカリの言葉にマヤはもちろん周りに座るアスカ、レイ、そして少し離れた場所にいるシンジ、トウジ、ケンスケまで引いてしまっていた。
普段の彼女からは考えられない怒りようだったからだ。
アスカがうろたえつつ、ヒカリをなだめにかかった。
「ヒカリ、落ちついて!とにかく落ちついて話しましょ、ねっ」
「これが落ちついてられるっていうの?こんなの・・・マヤが可哀想だわ!」
「あの、ヒカリ・・・」
「マヤ」
「心配してくれてありがとう・・・・でも、私はいいのよ。私なんて新米だし、まだ未熟なんだし。だから・・・」
「よくないわ!マヤ、私決めた」
「え?」
「私マヤを助けるわ。絶対!もしテストの成績悪かったらこれまでマヤのやってきた事がだめって事になるんでしょ?そんな事にはさせないわ!」
ヒカリは立ち上がると険しい表情で周りをぐるっと見回した。
「みんな、手伝ってくれる?」
ただならぬヒカリの様子にアスカが問いかける。
「手伝うって・・何を?」
「とにかく手伝って!アスカ、私達親友でしょ?!」
「え?ええ・・・」
「ありがとう、アスカ。みんなもお願いね!」
「うん、いーよー!」
脳天木な明るい、つまり事態をまったく分かってないような声でレイが答えた。
「なんだか面白そーう!」
「アンタ分かって返事してるの?」
「アスカは分かってるの?」
「うっ・・・まあいいわ」
アスカは思う。
もはや成りゆき上、全面的に手伝うしかないと。
覚悟を決めたアスカは隣でぼけっとしているシンジを見た。
「アンタも手伝いなさいよ」
「えっと何を?」
「なんでもいいから!分かった?」
こういう時は反論の余地はないのをシンジは身に染みて分かっていた。
力なくうなずく。
「・・・・・分かったよ」
「よ~っし!で、アンタらも手伝うのよ!」
アスカの強要はトウジとケンスケにまで及んだ。
当然彼らは当惑する。
「なんや、なんでわしらまで・・・第一何すんのんか全然分からんがな、痛っ!」
いつの間にかヒカリがトウジの耳を引っ張っていた。
「鈴原!マヤがピンチなのよ!大切な仲間のピンチに何もしなかったら男がすたるわよ!!」
「ど、どういう理屈や~」
ぐいっ
「いたっいたっいた~!」
「とにかく協力しなさい!!」
「分かったから離してくで~!」
「よろしい」
「お~、痛かった・・・」
トウジの耳を離すとヒカリは最後の獲物を睨んだ。
「相田~」
「な、何だよ?!」
「あなたにも手伝ってもらうわよ~。あなた最近マヤの写真で稼いでるそうね~」
ぎくっ
「そ、そんな事は・・・」
「あるわね?」
「う・・・・・」
「手伝うわね?」
「・・・・・分かった」
「よかった、これでみんなOKって事ね」
急に声のトーンが明るくなったヒカリはマヤに振り向くとにっこり微笑んだ。
「時田なんかに負けないわ!みんなで力を合わせてマヤを助けるわ!」
「ええ・・・」
ヒカリの勢いに押され、よく分からずにうなずくマヤ。
「大丈夫よ、安心して・・・・・マヤに制服は絶対脱がさせはしないわ!」
「ありがとう、ヒカリ・・・・・・・えっ?」
二人は制服姿のままベッドに腰掛けていた。
今さっき学校から帰って来たばかりだ。
肩を落とし思いつめた表情のマヤ。
少し心配そうにマヤを見るヒカリ。
沈んだ雰囲気を吹っ切るように努めて明るい声でヒカリが聞いた。
「それで話ってなあに、マヤ?」
「実は・・・・・・私・・・・うちに帰ろうと思うの・・・・」
「ええっ?!」
驚きに満ちた声が部屋中に響く。
信じられないといった表情でヒカリは慌ただしくマヤに問いかけた。
「そんな、どうして?!どうしてここを出るなんて言うの?どうして!!」
マヤの両肩をつかむと冷静さを失った目で見つめるヒカリ。
「お、落ちついて、ヒカリ・・・聞いて」
「・・・・ええ」
「もうすぐ期末テストが始まるわ・・・・私考えたんだけど、テストを前にして私がヒカリと一緒にいるの、良くないと思うの」
「どうして?」
「テストを作る側の人間と受ける側の人間が一つ屋根の下にいちゃいけないでしょ?ヒカリが不正をしてないかと疑われるわ」
「でも、マヤはテストを作れなくなったんでしょ?」
「ええ、今回はね。でもだからと言ってテスト前に私達が同じ部屋で生活してるのを、人が知ったら良くは思われないんじゃないかしら・・・・それにいつか私もテストを作るのを認められるようになりたい。もしそうなったらなおさら一緒にいられないわ。だからうちに帰ろうと思ったのよ・・・」
「マヤ・・・・」
「ごめんなさい、もう決めたの。だからお願いヒカリ・・・わかって!」
いかにもつらそうに声を絞り出すマヤを見てヒカリは引き止めるべき言葉を思いつく事が出来ない。
まるで合わせ鏡のようにマヤと同様に苦情に満ちた表情になったヒカリは微かに首を縦に動かした。
「・・・・うん」
「ありがとう。ヒカリ・・・・」
マヤの頬に一筋の涙がつたい落ちた。
マヤの涙にシンクロするようにヒカリの目からも涙がこぼれ落ちた。
「マヤ・・・うちを出るのは明日になってからでいいでしょ?それとうちの家族にもちゃんとあいさつしてね」
「ええ」
涙を拭うとヒカリが笑顔を作って見せた。
「それじゃ夕飯の支度をしましょ!」
夕食の席でマヤが家に帰ると話した時のヒカリの家族の反応は、ほぼヒカリと変わらないものだった。
「どうして?マヤねえ!」
「なんでなの!マヤ?」
「待ちなさい!」
驚きながら大きな声で問いかけるコダマ、ノゾミを制する母。
肩までの黒髪を後ろに束ねた彼女の顔はコダマよりもヒカリとノゾミに似ている。
少しふっくら気味でなんとなく暖かみを感じさせる雰囲気があった。
「帰るってマヤちゃんは一人暮らしなんでしょ?御両親がカナダに転勤していて。私達心配なのよ、まだ年端も行かない女の子一人ぼっちで生活させるのが。やっぱり無理だわ!どうして御両親は可愛い娘にそんな無茶を・・・」
「お、親の事は関係ないですから・・・」
「あ、ごめんなさい・・・」
しまったという顔をする母を複雑な表情で見つめるマヤ。
(うう・・・確かにパパもママも私を残して行ったけど・・・・・それは転勤する時には私が大学卒業して社会人になってたからなのよ~!!私が中学生なら間違いなく連れて行ったわ。でも・・・)
自分の本当の年令を言える訳もないマヤだった。
とにかく適当に理由をでっち上げて納得させねばいけない。
「私、自分の家を空けっぱなしにしておくのが不安なんです。家を管理する責任があるから・・・だから分かってください!」
「そうか、そこまで言うなら仕方ないな・・・・」
それまで無言で御飯を食べていた父が穏やかな声でつぶやくと、静かに箸を置いた。
細身で長身、少し白髪の混じった髪をオールバックにした彼はコダマとよく似た落ち着きのある顔つきだった。
「本人の意志なら仕方ない。ほんの僅かの間だったが私達は君を家族の一員のように感じていた。君が来てくれて本当に楽しかったよ」
「は、はい。この御恩は一生忘れません」
「気が向いたらまたおいでなさい。いつでも大歓迎だよ」
「ありがとうございますぅ~・・」
頭を垂れるマヤの瞳から再び涙が流れ落ちる。
(なんていい人達なの!こんな家族の暖かみを感じる生活って何年ぶりだったろう・・・)
ぞくっ
感動の涙を流していたマヤの心に一瞬寒気が走る。
(だけどここを出ればまた一人ぼっちの生活に戻る・・・・・・耐えられるのかしら・・・?)
ベッドの枕側に群れを成す小さなぬいぐるみ人形。
動物の人形と少女の人形の数が半々くらいだった。
その横にある少女漫画が敷き詰められた木製の本棚。
隣にある勉強机の上にある本棚にまで少女漫画は侵食しており、教科書の類いは雑然と卓上にうっちゃられていた。
木目の美しい五段の和式ダンスと大きな白の洋服ダンス。
そしてヒカリの部屋のものより大きな長方形の鏡台。
四畳半の部屋をこれだけのものが取り囲み、しかも四人も人がいるとかなり狭く感じられる。
マヤはコダマの部屋で三姉妹に囲まれておっかなびっくりと立っていた。
「さあ、こっちきて!」
「はい・・・」
コダマに手を引かれ鏡台の前に立つ。
いったいこれから何があるのだろう。
「ここを出て行く前にぜひマヤに渡しておきたいものがあるの」
楽しそうに微笑みながらコダマは洋服ダンスのドアをかちゃっと開いた。
怪訝そうな顔をして様子をうかがうマヤの前でコダマは洋服を取り出して見せた。
そそくさとマヤの背後にまわり、後ろから洋服を合わせるコダマ。
驚くマヤの目に鏡に映った洋服が飛び込んだ。
「!」
紺色のワンピース・・・大きな白のレースの襟に紅いリボン、胸元に広がる清楚な雰囲気のフリルに紺の小さな半球状のボタンが並ぶ。
袖は半袖でしかもちょーちん袖、スカートは可愛さを強調する様にふわっと広がったミニ。
いかにも美少女御用達といった感じの服にマヤは目を奪われる。
(可愛い服・・・でも、これってもしかして・・)
「さあ、着てみて」
ぎくっ
「あ、あの、これは・・・」
「とにかく着て、ね!」
言いながらコダマは背後から回した手でマヤの制服を脱がせ始めた。
「あ、なにを!・・・」
「いいからいいから!」
「あんっ」
うろたえ身を硬くするマヤをヒカリとノゾミも一緒になって脱がせていく。
三人掛かりの力でたちまちマヤは下着姿に剥かれ、あれよあれよという間に着替えさせられてしまった。
「似合うわ~とっても!」
鏡の前にはいかにも中学生が着そうな紺のワンピースを身にまとったマヤが唖然として立ち尽くしている。
恥ずかしさに鏡をまともに見れず、声も出せないマヤの背後からコダマが優しく囁く。
「マヤ、どうしたのぉ?ほら、よ~く見て」
なだめる様に促され、恐る恐る顔を上げるマヤ。
その瞬間にタイミングを合わせて、後ろからコダマがマヤの頭に帽子をすっと被せた。
「ほら、可愛い」
大きな真っ赤なベレー帽を乗せた美少女がマヤの目に飛び込んだ。
きゅんっ
心臓が縮み上がり、身体中の毛という毛が鳥肌立った。
鏡に映るのは真っ赤なベレー帽と紺のミニのワンピースの取り合わせが過激なまでに可憐で清楚な少女の姿。
しかも本人の目から見ても今、身にまとっているこの少女用の衣装が似合って見える。
(・・・・・可愛い?・・・そんな・・・・どうしてこんなに似合っちゃうの~!?)
思いも寄らぬ自らの可愛さを目の当たりにして、恥ずかしさと怯えにマヤの身体がぷるぷる震えだした。
しかしそんな震えとは裏腹に胸の奥底から奇妙な感覚が芽生えると、じんじんと湧き上がってきた。
(な、なんなの?この感じって・・・どうしちゃったの私?!)
湧き上がる感覚はマヤ自身が当惑ほど快く、そして甘美なものだった。
その微妙な感覚にますます困惑してしまうマヤをコダマは満足そうに見下ろしている。
「良かったわぁ、ぴったりで。去年私が着てた服よ。そのころから私、急に育っちゃって一年で7cmも伸びちゃったのよね~。おかげでこういう可愛い系の服が好きだったのに似合わなくなって・・・」
確かに今のコダマは立派なオトナの体つきである。
一緒に並んだ姿を見ても、どっちが24才でどっちが女学生か分からない。
「一年前はマヤみたいな背格好だったのに・・・ちょっと寂しいわ・・・でも、マヤには似合ってるわ!」
(ううう・・・似合ってるけど、似合ってるけど~・・・・)
いくら似合っていてもそれはマヤにとって困惑の材料でしかない。
そんなマヤの事情には関係無く今度は白のフリルがどっさり付いたブラウスと、真っ赤な細いリボンがちりばめられたピンクのフレアスカートを取り出すコダマ。
「よし、次はこれ着てみようね」
びくっ
(えっ、また?!そんな・・・・でもこれも可愛い服・・って何考えてるの、私!?)
拒絶したいはずなのに心のどこかでその可愛さに引かれ、コダマの見せびらかす服にマヤは見入ってしまう。
そんなマヤをコダマは悪戯っぽく見つめ返した。
「うふふふ、とっても着たそうねえ、マヤ?」
ぎくっ
「えっ?!そ、そんなこと・・」
「焦らなくてもすぐ着せてあげる」
「あ、ああっ」
またもやマヤは三姉妹掛かりでてきぱきと着替えさせられていった。
「うわぁ、これも可ぁ~愛いぃ~!」
ぞくっ
次は黄色いキャミソール。
「素敵~い!」
どきんっ
青いエプロンドレス。
「いいわぁ~」
どぎまぎっ
ピンクのフリフリワンピース。
「最高~!」
ふるふるっ
壱中の冬服。
「ちょっと季節外れだけどいいわぁ!」
汗々っ
完全に三人姉妹の着せ替え人形となり、取っ替え引っ替えさせられ続けるマヤ。
しかも着せられた服がどれもマヤにとても似合っていた。
本人の意志に関係無く。
着せ替える服がやっと品切れになった所でコダマが満ち足りたため息をつくとマヤに笑いかける。
「ふ~・・・ふふ、なんだかマヤのために買った服みたい。こんなに似合うなんて・・・マヤ!」
「は、はいっ」
コダマの凛とした声にマヤの背筋がのびる。
満面の笑みをたたえてじ~っと見つめるコダマに、戦々恐々とするマヤ。
「マヤ・・・・・この服、全部あ・げ・る!」
ぎくっ
(やっぱりぃ~!!)
予想通りの言葉に戦慄が背筋を走り抜ける。
口をぱくぱくさせながらマヤはなんとか言い返そうとした。
「で、でも、でも・・・・」
「あら、気を使わなくていいのよ。そりゃお下がりだけど、状態もいいし・・・・何よりマヤに似合ってるし。この服、もう私には着られないのよね。だけどマヤにはぴったりだし・・・・・だからマヤにもらって欲しいの!マヤがここを出て行く前にこれをお土産にして持って行ってくれない?」
自分よりずっと大きなコダマに見下ろされ、しかも心のこもった懇願をされてしまいマヤは言葉も出せない。
「そうよ、マヤ。おねえちゃんの気持ち、受け取ったら?」
「マヤねえ、もらってあげてよ。コダマねえは本当にマヤねえが可愛いんだよ~」
二人の妹が援護射撃に加わりマヤは更に追い込まれて行く。
(いくら誠意でも受け取れないわ。もらったら・・・・・着なきゃいけない~!!)
崖っぷちに追い込まれたマヤは最後の抵抗を試みようと蚊の鳴くような声を絞り出した。
「でも、でも、私・・・」
「だ~め!」
にっこり笑ってマヤを見下ろすと、コダマは人さし指をマヤの鼻先にぴとっとくっつけた。
「おねえちゃんの言う事は聞くものよ、マヤ!」
指先でマヤの鼻先をつんつんとたたくコダマ。
「・・・・・」
マヤはもう無駄な抵抗を諦めるしかなかった。
コダマにとって自分は聞き分けのない妹くらいの存在でしかないのだろう。
力なく肩を落としマヤは声を漏らした。
「はい・・・・・」
翌朝。
今日は土曜日なので学校は無い。
洞木一家に盛大に見送られ、マヤは帰途についた。
コダマのお下がりの服の入った大きな手下げの紙袋を両手にずっしりとぶら下げて。
余りに重そうなのでヒカリが紙袋を一つ持ってマヤの家まで送る事になった。
そして・・・・
がちゃっ
ドアが開き部屋に入ってきたヒカリとマヤは紙袋をずしっと置くと仲良く座り込んでしまった。
「ふう、着いたわねえ~」
「重かったわ・・・ヒカリ、ありがとうね」
「ううん、いいのよ!」
さっきまでのしんどさを忘れたようにすっくと立ち上がるとヒカリは室内を見回した。
四畳半の部屋の北側の壁に目当ての物が見つかる。
桃色に塗られた木製の洋服タンスと鏡台を挟んで透明プラスチックの収納ケースが四段に積んである。
「可愛い洋服タンスね。それでは・・」
ヒカリは紙袋をタンスの前に置くと戸を開いた。
コダマのお下がりを袋から取り出しタンスに入れようとする。
そんなヒカリの様子を目で追うマヤが声をかける。
「あ・・・・ヒカリそこまでやらなくても・・・」
「いいのよ、ついでだし・・・あら、けっこう入ってる。これじゃ全部は入り切らないわねえ、どうしようかしら?」
言いながらタンスに入っていたマヤの服を一着取り出して見るヒカリ。
それはマヤにしてはボディーラインを強調した大人っぽい灰色のスーツだった。
ヒカリはスーツをしげしげとながめた後、マヤの姿と見比べた。
「なにこれ?・・・野暮ったいわ。おばさんくさい服。これホントにマヤの?」
怪訝そうな顔のヒカリにマヤの顔が引きつる。
「ええ・・・(そんな、大人の着こなししようと買ったのに~)そうだけど・・・」
「信じられないわ。第一これ、サイズが合うの?」
「それは・・・・・」
マヤは口ごもってしまった。
壱中に教師として採用される直前までマヤは職がなく、ぎりぎりの生活をしていた為この二ヶ月の間に数キロ以上痩せてしまっていた。
結果バストとヒップの肉はそげ落ち、ボディーラインの強調された服はだらしない弛みができて着れなくなっていたのだ。
「その・・・・最近かなり痩せちゃって合わなくなったのよ・・・」
「そう、じゃ他の服も?」
ぎくっ
「えっ?で、でも体重が戻ればまた着れるんじゃ・・・・」
「私が見た感じではマヤは今が丁度いいくらいだと思うけど・・・それにかなり痩せたんでしょ?じゃあまたかなり太らなきゃ着られないんじゃない?」
どきっ
(太るぅ!?)
太るという言葉に女性は当然敏感だ。
しかも自分の事となると尚更に。
「そ、それは・・・・」
「マヤがかなり太ったら・・・50の大台までいきそう」
びくっ
(50!そんな、そこまで太った事ないわ!最高で49までよ!)
この1キロが女性には大きいのだろう、たぶん。
ちなみに今の体重は43、4程。
「ねえ、マヤ。今ならコダマおねえちゃんがくれた服がぴったりなのよ。それでいいじゃない」
「ええ、でも・・・・・」
「それとも太りたいの?」
ぞくっ
「い、いいえ、そんなことないわ!」
「そう、じゃあこの服はもう必要無いわね」
ぎくっ!
(えっ?必要ない!?)
驚くマヤの前でヒカリは安心したように笑うと持っていた服をぽんと置いた。
「他の服も同じサイズな訳だからっと・・・」
洋服タンスから別の服も取り出してゆくヒカリ。
「あ・・・・」
思わぬヒカリの行動に唖然として声も出せないマヤ。
そんなマヤをよそにヒカリは大人っぽい感じの服から順々にタンスの外に排除していく。
マヤはてきぱきと取り出し作業をするヒカリをどうする事もできずにおろおろと見守っていた。
「よっし、こんなもんかしら」
そう呟くと今度は紙袋から取り出したコダマのお下がりをどんどんタンスに入れるヒカリ。
タンスが一杯になると収納ケースに入ったマヤの服を出して代わりにお下がりを詰め込んだ。
マヤの気持ちに関係無く順調に作業は進み、やがて紙袋は空っぽになった。
「は~、できた!」
額の汗を気持ち良さそうに拭うヒカリ。
作業を完了したヒカリはマヤに振り返りにっこりと笑いかけた。
「これでもうサイズの合わない服着る必要ないわ。良かったわね、マヤ?」
ヒカリの笑顔の向こうには抜け殻のようになって正座しているマヤの姿。
(うう・・・・私の服が・・・・タンスの外に山積みに・・・・)
その山積みになった服をヒカリが見下ろした。
「この服はどうしようかしら?」
どきっ
(どうしようって・・・どうするの?)
「このまま置いておいても邪魔なだけだし・・・」
(そんな!私の服が邪魔だなんて・・・)
「そうだ!」
どっきんっ
「こんどお母さんがフリーマーケットに出店するの。ちょうど良いわ。それに出しましょ!」
ぞわわ~っ
(そんな!私の服をみんな売っぱらうの~?!)
ショックの余り金縛りになるマヤの眼前でヒカリは鼻歌まじりにマヤの服を紙袋にしまい込んでいった。
程なくマヤの服は紙袋に完全に収納し終わった。
「さて、マヤ・・・・」
ヒカリはマヤに向かい合う。
その目が優しさと寂しさの入り交じったものになる。
「これでしばらくお別れだけど・・・・きっとまた一緒にいられるようになるわ。私マヤのために頑張るつもりよ」
金縛り状態のマヤはただ耳でヒカリの言葉に聞き入るのみ。
「じゃ、帰るね」
そういうとヒカリは両手に紙袋を持ち、すっくと立ち上がった。
優しく微笑みマヤに顔を近付けた。
「マヤも頑張ってね」
目の前まで接近したヒカリの息がマヤの頬を撫で、それまでの金縛りは嘘のように解きほぐされてしまった。
二人の間に心地よい空気が流れ、マヤはヒカリに穏やかに答えた。
「・・・ええ、ヒカリも頑張って・・・」
「それじゃあまた学校で会いましょう!」
元気な声で別れの言葉をマヤに投げかけると、ヒカリは名残惜しそうに背を向けて部屋を出て行った。
後には一人残されたマヤが座っている。
そのままの状態でしばらく時間が流れていった・・・・
ふとマヤは立ち上がると、洋服タンスに手を伸ばし開いて見た。
中には今まで身に付けていた物とはまるで違った可愛らしい服の数々・・・・・・
それらの服を凝視しながら呆然と立ち尽くすマヤの口からか細い声が漏れ出る。
「入れ代わっちゃった・・・・・私の服が・・・・・・・お下がりの・・・中学生の服と・・・・・・・」
その後マヤは何時間もの間タンスの中を覗いたまま立ち尽くしていた。
「なんでわしらこんなとこにおるんや?」
質問とも突っ込みともとれる言葉をトウジが漏らした。
ガラス戸の向こうにバルコニーが見え、夕闇の迫る空には半月が鈍く輝いている。
洋風の室内に不似合いな足の低い長方形の和式机が置かれている。
急場しのぎの物のようで本来のテーブルと椅子は部屋の片隅にうっちゃられていた。
彼らはこの机の周りに座布団も無しに直接若草色のじゅうたんの上に座っていた。
「今さら何言ってんのよ、鈴原!」
机から身を乗り出してヒカリが突っ込んだ。
「もうすぐ期末テストなのよ!」
「そんなん分かっとるがな」
「そのためにみんなで勉強会をしようと集まったんじゃない!」
「な、なんや、そうやったんか?」
「そうよ!」
口泡飛ばして喋るヒカリに押されっぱなしのトウジの他に座っているのはシンジ、アスカ、レイ、ケンスケ。
そしてこの部屋はアスカの家の応接間だった。
ヒカリが音頭を取りいつものメンバーを集め、勉強会を行おうとしたのだ。
半ば強引に集めたので事情を飲み込めない者もいるようだ。
「みんな聞いて!」
ヒカリは立ち上がると皆を見回した。
「期末テストは一学期の成績を決める大事なものよ!だからみんなで団結して勉強して良い成績を出しましょう!」
「わし今まで勉強会なんちゅう大層なもんしたことないで。わざわざそんな事せんでもええやんけ」
「なにを言うの!!鈴原!」
「うわっ!!」
「鈴原が数学でどんな成績を取った知ってるのよ!この前の中間テスト何点だったの?!」
「うっそ、そんなもん・・・・」
「30点だったでしょ?」
「げげ、なんでわしまで忘れてる点数イインチョが・・・」
「はいはい~そこまで!」
しびれを切らしたアスカが割って入った。
「とにかくそういう事よ。成績上げて困る人なんていないんだから覚悟を決めて勉強すんのよ!分かんないとこはアタシが教えてあげるから」
「なんやそれは。皆納得して集まっとるんか、ほんまに?シンジはどやねん?」
「え、僕?」
トウジにふられ、慌てるシンジ。
「僕は・・・」
言葉を濁すシンジをアスカが睨みつけた。
「シンジ!よくテスト前にはアンタに散々勉強を見てあげてたじゃない?人数増えただけでやる事一緒よ!何か不満でもあるの?」
「う・・・・」
「ねー、碇君はアスカと二人っきりでなきゃ嫌なのー?」
突如飛んできたレイの言葉にアスカの目がぎらりと光る。
「え~い、また話をややこしくする!」
矢のように伸びた手がレイの顔面を掴み、左右にねじり倒した。
「アンタはどうなのよ!やる気はあんの?!」
「うぇえええー、わらひはみんられやるららいいりょー!らのひろうらひー」
「よし、よく分かんないけどOkね!」
「おーへいおーへい」
「なんや、無理からにやないけ。わしそこまでして点数稼がんでもええわっわわ!」
ぎゅうう~
往生際悪くごねるジャージには上方45度の方向に耳を引っ張るのが習わしである。
「あたたたたっイインチョやめてくで~わかった、わかったから・・・」
休み時間の教室での光景を再現している二人を、眼鏡の奥から冷静にケンスケは見ていた。
ため息をつくとけだるそうに声を発する。
「やれやれ、嫌とは言えそうにないな。俺はいいぜ、記念写真の一つも撮れるならな」
「そう、これで全会一致ね」
何が全会一致だと思う者もいるはずだがヒカリに対する文句の声は当然なかった。
「それじゃさっそく始めましょう。まずは数学よ!」
「なぬ、数学!なんでよりによってわしの一番苦手なんを・・・・」
「鈴原!苦手だから頑張らないといけないんでしょ!私だって数学苦手よ!」
「何点だったのー?」
タイミング良く質問するレイ。
一瞬ヒカリは躊躇したがトウジの点数ばらしといて自分が言わない訳にいかない。
「・・・42点」
「ねーアスカ。42って悪いの?」
「そ、そうね(遠慮がないのかコヤツは!)・・・中間の平均が確か58だったから・・」
「んじゃアスカは?」
「アタシに苦手な教科なんてないわよ!ちょっとミスって満点取りそこねたけど、91点あったわ」
「ふーん、すごいねー」
「全然凄そうじゃないじゃない!」
「で、碇君は?」
「だめ、全然。シンジはいくらアタシが教えてもからっきしなんだから」
「なんだよ、アスカ」
「だったら41点なんて取らないでよ!教えたかいが無いじゃない!」
「うう・・・」
「まあ、数学苦手な人が多いみたいだから重点的にやらないとね。アタシがまとめて面倒見るわ!」
「俺は別に数学悪くないぞ」
ケンスケの言葉にアスカがぴくりと眉を動かし振り返った。
勉強会と言ってもヒカリにはまず数学をして欲しいと頼まれている。
そう、この勉強会は実は数学の平均点を引き上げるために計画したものなのだ。
マヤを助けるにはクラスの成績を上げるしかないとヒカリが考えたからだった。
ゆえにケンスケの言葉は聞き捨て鳴らない。
「なんだか点数のばらし合いみたいだから言うけど72だ。まあだからと言って数学は勉強しないって事じゃないがな。ただ・・・」
「何よ」
「まだ一人点数を言って無いというか、言えないのがいる」
ちらりと見やるケンスケ。
他の者もケンスケの視線を追った。
そこにはみんなの視線を心地良さそうに受け止める満面の笑顔があった。
「えへへへー」
そう、レイは中間テストの後に転校して来たのだから点数を言える訳がない。
「数学もそうだが俺達は綾波がどれだけ勉強できるのか分かってないんじゃないか?そう思うと興味が湧いてな」
「そう言えばそうね・・・・」
と言いつつアスカはいかにも脳天気に笑っているレイを見て不安が急激に広がるのを感じていた。
どう見ても出来そうな雰囲気はない。
「ねえ・・・レイ、アンタ前の学校の数学の成績ってどうだったのよ?」
「んー?、他の教科とたいして変わらないよー」
「だから!・・・そう、通知簿の成績はどうだった?」
「うーんとね、アヒルの行進って言われたよ」
(・・・・2か)
アスカはため息をついた。
まあ仕方ない。
数学についてはシンジもトウジもヒカリだってそんなものなのだから。
第一普段のレイを見てそれくらいの事は予測できている。
気を取り直してアスカは真剣な目でレイに語りかけた。
「大丈夫、アタシがみっちり教えてあげるわ。アンタの成績必ず上げてやるから・・・」
「ホント?」
「ええ!」
「んじゃ7とか8とかになるかな?」
「7?なによそれ?」
「だめ?じゃ5か6でいいや!」
「・・・・・・・・・アンタ・・・・・アンタの学校・・・・・・10段階評価か~!?」
「うん!」
瞬間、笑顔でうなずくレイの後頭部をアスカの平手が張り倒していた。
こうして勉強会はいきなり暗雲がたれ込める事になったのだった。
ヒカリは勉強会でクラスの平均点を上げようと画策しているわけだがこれは結構大変な事だった。
壱中の生徒数は各クラスで30数人である。
なのでクラスの平均点を1上げるとすると、テストの総合計点に30数点上乗せしなければならない事になる。
6人がかりで行っても何点上げられるか・・・
しかもアスカは中間で91点、ケンスケで72点である。
100点取っても平均点を1点上げる事さえできないのだ。
むしろ点数が低い者達のほうに頑張ってもらうしかない。
2ーAの数学の成績は学年のほぼまん中だった。
最高は時田のクラスで中間テストでも学年の平均点の数点上だ。
これをひっくり返すのだから無謀とも言える計画だった。
カンニングでもしなければできそうにない。
しかしクラス委員であるヒカリのまじめな性格からして、ずるをして点数を稼ごうという発想はまるでなかった。
ひたすら愚直に勉強する方法以外浮かばなかったのだ。
すべては窮地に立つマヤのため。
なお、勉強会における各自の位置は次の通り。
シンジ トウジ
_________________
|
|
レイ |
|ケンスケ
|_________________|
アスカ ヒカリ
「この線とこの線が平行なんがここの角で解るちゅうんか?」
「だからまずこっちが55°。それでここが125°だからここは180-125=55でしょ!するとここも対頂角だから55°よ。だから同位角で直線mとnは平行なのよ、解る!?」
「な、なんで180ひく125なんや?」
「アンタ直線の角度は180でしょが!」
「そうなんか?」
「基本でしょうが~!」
「アスカ、怒らないで・・」
「アンタもこんな例題ぱっぱと解きなさいよ!」
「シンジ、いつもこんな教え方なんか?」
「うん・・・」
「きつ~」
「なんですってえ?!」
「落ちついて、アスカ。そんなに急に理解できないわよ。みんな数学そんなに得意じゃないし・・・」
「そうね、つい力んじゃって・・・」
「ねーアスカ」
「何よ」
「たいちょうかくってなーに?」
「それ知らなくてどーすんのよ!!この直線と直線の交わった向かい合った角同士が対頂角!対頂角は角度が同じになるの!60°なら60°、120°なら120°!」
「180°なら・・」
ぽかっ
「ボケなくていい!!」
「直線の角度は180やから今のはボケになるんか?」
「アンタどういう理解の仕方よ~!!」
かちゃっ
「あら、何だかにぎやかねえ」
ドアを開けて入って来たのはコップを乗せたお盆を持ったアスカの母キョウコだった。
柿色のノースリーブシャツと白のスラックスという姿。
すらりと伸びた背に、40前でありながらアスカの母であるという事を納得させられる見事なプロポーションの身体。
黒と茶の間位のショートヘアは地の色だった。
彼女は東洋的ななだらかさを持った顔と青い瞳で、娘とその友人達に笑みを投げかけていた。
「はい、どうぞ飲んでください」
八分目まで注いだコーラに氷を浮かべたコップを机に並べていくキョウコ。
「どうもありがとうございます」
丁寧にお辞儀するヒカリに合わせて他の者も頭を下げる。
「どうですか、勉強のほうは?はかどってます?」
「まだまだこれからです・・」
「ぼちぼちでんな」
「はーい、快調に進んでるよー!」
「アンタが言うな~!」
アスカがレイの両のこめかみの肉をひねり、振り回した。
学校ではありふれた光景だが、それを見なれていないキョウコが血相を変える。
「アスカ!何をするの!?」
「いいのよこんなの!全然堪えてないんだから」
「へへへへへ、アスカは毎回同じ突っ込みしないねー」
「満足か!この・・・」
「アスカ、殴らないで!キョウコおばさん見てるのに・・」
ぼこっ
「ふげっへへ」
「いいのよ!この前散々我慢して、いい事何もなかったんだから!」
「アスカ!いい加減になさい・・」
叱りながらキョウコがアスカに手を伸ばそうとした時、盾にするようにレイの顔が突き出された。
「あ、・・・あらあなたユイにそっくり?」
「へへへ、隠し子でーす!」
ぽかっ
「誰がよ!赤の他人の空似でしょが!ママ、騙されちゃだめよ、おばさまとは似ても似つかぬお笑い芸人なんだから!」
「アスカが相方でーす」
ばしっ
「な訳ないでしょ!」
「おお、見事など突き漫才や」
「どこがよ~!!」
「きゃははは」
ぐわしっ
「アンタが笑うな~!」
「シンジ君、学校ではいつもこんな調子なの?」
「はい・・・」
「大変ね・・・」
「はい・・・」
「何言ってんのよ、二人とも!大変なのはアタシよ~!!」
「にぎやかやのう~」
「平和だね」
「今日は勉強しに集まったのよ!!」
し~ん・・・・・
き然としたたたずまいで見下ろすヒカリに全員(キョウコを含む)が縮こまってしまった。
がちゃっ
「おい、なんだ、今の騒ぎは?」
沈黙を破ってドアが開くと、ややバタ臭い訛りの声と共に絵に描いた様な外人顔が覗いた。
金髪をオールバックにした彫りの深い顔に、キョウコ以上にアスカそっくりの青い瞳を向けている。
重苦しい空気を背負ったまま皆が振り向いた。
「?・・・・」
場違いな外人と化したアスカの父。
「およびでない?こりゃまた失礼致しました」
がちゃっ
父は戸を閉めて自らの出番を早々と終了させてしまった。
それを追い掛けるようにそそくさとキョウコもドアへ向かった。
「そ、それじゃ勉強しっかりね」
がちゃっ
大人達が退散した後、気を取り直すようにヒカリが声を張り上げた。
「さあ、それじゃあ続きをやりましょ?」
「ち、ちょっと待ってえな、飲みもんくらい飲ませてくれや・・」
「いいわよ、みんなも飲みましょ。飲み終わったら一生懸命勉強しようね~、鈴原?・・・」
トウジを見据えるヒカリの顔に凄みのある笑みが浮かんだ。
「・・・・・・」
コップを持とうとするトウジの手が僅かに震え出し、氷がカチカチと細かい音を鳴らした。
(びびるわ、こんなん・・・・)
「どこをどうしたら三角形のこの角Cの角度がわかるっちゅうねん?」
「そんな事もわからないの?角Aの外角が160°で角Bの外角が72°じゃない!外角からまず三角形のAとBの角度が求められるでしょ!」
「そうかいな」
「外角が160°だから角Aは180から160引いた20°よ!」
「なんやまた180から引くんか」
「鈴原君、直線の角度は180だよー」
ぼこっ
「アンタ何偉そうに言ってんのよ!!」
「ほんで答はどうやって求めるんや?」
「角Aは180-160で20、角Bは180-72で108、合わせて20+108=128よ!だから残り一つの角Cは180-128=52°になるの!」
「な、なに!またしても180から引くんか?!」
「直線の角度は180だびょよよよ・・」
むぎゅうううっ
「その180とは違う!三角形の3つの角は合わせると必ず180°になるのよ!だから2つの角度が解れば180からその2つの角度を引くと残り一つの角度が出るじゃない!」
「お、恐るべし、180・・」
(トリオ漫才みたいだ・・・・)
シンジは三人のやり取りを漫然とながめながら心の中で呟く。
アスカがトウジとレイにかかりっきりなのは二人の数学のレベルがこの中でも頭一つ抜けた低さだからと解るし、自分が口を出す気は更々ないがどうしてこのような会話になってしまうのだろう。
ただ勉強をしているだけのはずなのに、目に見えないどこかで笑いを取ろうという意志が働いているみたいだ。
(少なくとも僕がアスカに教わってる時はこんな事はない・・はずだ・・・よな?)
こんな調子で続いていくのだろうかと思っていると、突然トウジが声をあげた。
「おお、もうこんな時間やがな!早よ帰らな!」
「何言ってるの、鈴原?」
立ち上がろうとするトウジのジャージの襟をヒカリが引っ張った。
「なんやねん、こんな遅うなってもうていつまでもおられんやろ。イインチョもこれ以上遅うなったら夜道を一人で帰るのは危ないで」
「じゃあ帰らなきゃいいでしょ?」
「なぬ??」
「どうせ明日は日曜なんだからここに泊まればいいのよ」
「なんやと?そんなん聞いとらへんで~!」
「いいのよ!勉強するために泊まるんなら家の人も了解してくれるわよ」
「わ、わしに惣流の家に泊まれゆうんか?」
「何言ってるの、お隣が碇君の家でしょうに!男子はそっちに泊まればいいのよ」
「なんやて、そんな段取りが出来とったんか?!シンジどないやねん?」
「えっ?僕は・・・聞いて無いよ」
「そういう事になっているのよ!シンジ!!」
「そ、そうなの?」
「分かったら今日は帰りを気にしないで勉学に勤しむの!みんな家族に連絡しておいてね」
「そんなあほな~・・」
「わーい、泊まりだ泊まりだお泊まりだーっと!」
「アンタが喜ぶとなんか腹立つわ」
そんなこんなで夜遅くまで続いた勉強会が終わると、男性陣はシンジの家へ女性陣はアスカの家へ泊まる事になったのだ。
期末テストが始まるまで後9日である。
ベッドの上で大股を広げ豪快ないびきを響かせて寝ているトウジと、壁際に押しやられ窮屈そうな姿勢をとって眠っているシンジ。
シンジは普通の寝巻き姿だがトウジはやはりというか黒ジャージだった。
がちゃっ
勢い良くドアが開くと三人の少女が雪崩れ込んで来た。
「バカシンジ起きろ~!」
「鈴原、起きなさい!」
「ふぁ~・・・ん~と、相田君起きてーっと」
「とっくに起きてるよ。綾波のほうが眠そうだぞ」
傍らで聞こえる声にいかにも眠そうな目をこすりながら振り向くレイ。
そこには既に着替えを終えたケンスケが立っていた。
「ん~~、私朝弱いのー。おかーさんにいつも引きずり起こされて起きるの。今朝はアスカに首絞められて・・」
「そんなのどうでもいい!ヒカリ、やるわよ」
「ええ」
二人は呼吸を合わせるとベッドで惰眠をむさぼる男どもに声をぶっつけた。
「バカシンジ~!!」「すずはら~!!」
「うお!な、なんや?」
驚きの声とともにバネのように跳ね起きるジャージ。
一方シンジは体勢を変える事なく目だけを僅かに開く。
「う・・ん、なんだ、アスカか・・・」
「アンタ少しは状況の変化を感じなさいよ!ホントにいつもと全くリアクション同じじゃないの!」
「・・・何が?」
「この~!早く起きろ~!!」
思わずシーツを掴むと強引にひっぺがすアスカ。
そこに現れたものは・・・
「ひっ・・・きゃああ~不潔よ~!!」
けたたましい絶叫が部屋からはみ出す勢いで響き渡った。
ひっぺがされたシーツの下から現れたのは、テントが二つ男達の股間の上で立ち並んだ姿だったのだ。
(しまった、ついはぎ取っちゃった!)
赤面しながら自らの失敗を呪うアスカだが後の祭りだった。
ヒカリの叫びにさすがのシンジも目を覚ました。
起き上がりながらトウジと顔を見合わせ、次にゆっくりと互いの股間に目を移した。
「・・・・」「・・・・」
更に二人はアスカ達のほうを見た。
しかめっ面で顔を赤くしているアスカと顔を両手で覆いいやんいやんをしているヒカリと我関せずという風情であさっての方を向いてるケンスケと何故か嬉しそうに笑ってるレイ。
気まずい空気にシンジが何とか言い訳しようとした時、トウジが先に声を漏らした。
「しゃーないやんけ、朝なんやさかい・・・・」
しばらく全員沈黙・・・・
「そ、それじゃアタシらは出るから早く着替えを済ませて!」
言いながら左手でヒカリの背を押し、右手でレイの首根っこをひっつかむとアスカはせかせかとドアに向かった。
引きずられながらレイが問いかける。
「ねーアスカ。碇君と鈴原君でずいぶん大きさが違ったけど・・」
ぼこっ!
「やかまし!!」
「なんや朝飯食ったらすぐ勉強か?たまらんの」
トウジは愚痴りながら昨晩の状態のままになっている応接間にのろのろと入る。
背後からヒカリが背を突ついていた。
「それじゃ昨日の続きをやるわよ」
「なんや!また数学かいな!」
ヒカリが数学の教科書とノートを取り出すのを見てトウジの顔色が変わる。
「今日は他のんにしてくれへんか?」
「何言ってるの鈴原!昨日は結局問題を解けないまま終わったじゃないの!?解法を完全に理解しなきゃだめよ!!」
「なんでや~・・・なんやわしばかりきつい目におうとる気がするわ」
「鈴原くーん、元気だしてーえげっ」
ぎにゅっ
「アンタも気合入れて勉強せーい!」
そして午後。
「なんでπが3・14なんて細いねん?こんなもん3でええやんけ~!」
「いい訳ないでしょ!」
「ねーアスカ。なんとか3で手を打てないの?」
「だめ!昔からそう決まってるの!」
「そこをなんとか・・」
「アタシらが生まれた頃一度3にしたけどやっぱりまともな計算出来なくて元に戻したの!」
「戻さなくてもいいのに文部科学省・・・」
「問題に集中しろ~!」
夕方。
「もういやや~、家帰って風呂入って屁ぇこいて寝たい」
「あと少し頑張って、鈴原!」
「ふぁいとー、鈴原くーん!」
「アンタそんな元気なら少しは解法理解しろ~!」
「はあ、やっと終わりかい・・・」
疲弊しきった表情でトウジが呟いた。
教える側のアスカも他の者達も疲労の色が隠せない。
「あれ、終わりなのー?」
レイを除いての話だが。
「アンタそんな元気なのにどうして公式の一つも頭に入らないのよ!?」
「てへへへ・・・」
「と、とにかくこれで帰れるんやな?」
「ええ、そうよ。鈴原、今日はよく頑張ってくれたわね」
ヒカリのねぎらいの言葉も上の空でトウジはのっそりと立ち上がった。
頭の中はもう帰る事しかない。
「今度こそ家帰って風呂入って屁ぇこいて寝れるわ~」
帰り支度を始めるトウジ達に向けてヒカリが締めの言葉を言った。
「みんな、今日は御苦労様。それじゃあまたね」
「ほなな~」
期末テストまで後8日。