閉め切られた窓の内側には分厚い暗幕が張られ、一条の光の射し込む隙はない。
出入り口であるドアには以前あったであろう覗き窓の部分に、分厚いチタン合金製の鉄板が物々しく張り付けられていた。
更に鍵の部分は何重ものセキュリティーシステムでロックされ、部屋の主以外にはおいそれと出入りが出来ないようになっている。
この部屋は外界から完全に遮断されていた。
そうしなければならない理由がこの部屋の主にあったから・・・・・・
天井に吊るされた裸電球が鈍い光を放っている。
今室内を照らしている明かりはこれだけしかない。
部屋の広さは教室の半分程なので世間一般の常識では明らかに光量不足だ。
室内はまるで黄昏時のような薄暗さとなっている。
しかしこの部屋の主にはそれが一番適度な物と感じられる明るさだった。
彼女は場の雰囲気に彼女なりのこだわりを持っているのだ。
部屋の壁にずらりと並んだ棚にはビーカー、メスシリンダーなどの計量器の類い、ガスバーナー、様々な化学薬品の入った容器、電池やモーター、放電機器等等のいわゆる実験用の道具が納められていた。
棚の向い側の壁には骸骨の模型と人体模型が向き合って立っていた。
骸骨のほうは誇らし気に胸を反らし口を大きく開いて、人体模型のほうはやや俯き加減で固定されている。
骸骨の手がチョキを出して人体模型の手がパーを出していた。
部屋の奥には大きさからいってウサギ小屋らしきものが2つ並んで設置されていた。
その手前に置かれた机にはホルマリン漬けの標本の瓶がひしめく様に立ち並んでいる。
机の横には金属製のバケツが数個置かれてあった。
バケツには緑色の葉が山盛りに詰め込んである。
と、その時一本の腕が差し伸べられバケツから葉っぱを一握り分すくい取った。
葉っぱを持つ手は彼女の目元まで運ばれた。
しばらく葉っぱを見つめると、やがて彼女の紅く塗られた唇が無気味にニヤリと歪んだ。
「今度は・・・・うまくいくわよね・・・・」
彼女は白衣をひるがえすと小屋のほうに向き直った。
「こっちのほうは相変わらずね」
リツコは向かって右側の小屋の中を覗き込んだ。
小屋は金網で覆われているので中の様子は丸見えだ。
そして中にいるのはウサギ小屋だからといってウサギである訳がない。
ウサギに相当する大きさのものだからウサギ小屋を利用したに過ぎないのだ。
小屋の中にはもぞもぞと蠢く数個の物体が見える・・・・・当然ウサギに相応する大きさの。
それは本来このような大きさではあり得ない生物だった。
全長数十cmにも達する白い芋虫!
桑の葉の敷き詰められた小屋の中で、彼らはその異形の姿を無気味に這いずり回らせていたのだ。
カイコとよばれる生糸の元となる糸を吐く品種だ。
本来なら恐怖と生理的嫌悪をもよおすような光景だが、この部屋に出入りするたった一人の人間にはそんな感性は微塵もない。
冷静な研究者としての瞳が彼らを観察していた。
「元気がないわね、サキエル13世、ガギエル11世、サンダルフォン9世・・・・もう寿命かしら・・・・」
普段より緩慢な動きの彼らを見てリツコは小さくため息をついた。
やはりカイコの巨大化にはどうしても無理がかかる。
リツコの今やっている実験を具体的に説明するとこうなる。
カイコの幼虫は約40日間に4回脱皮し、1齢から数cm程の大きさの5齢まで成長後、繭を作り始める。
この間カイコの脳の後方にあるアラタ体からアラタ体ホルモン(幼若ホルモン)が、前胸部からは前胸線ホルモン(エクジステロイド)が分泌される。
アラタ体ホルモンは幼虫形態を維持させる働きがあり、カイコが5齢になると分泌されなくなる。
だからカイコは5齢まで成長すると繭を作るのだ。
だがもし、5齢になっても人為的にアラタ体ホルモンをカイコに注入すれば・・・・・・
カイコは更に脱皮をくり返し、6齢になるのだ。
前世紀には高校の授業にも実際にあった実験だ。
当然カイコのサイズは大きくなる。
普通なら無理がかかりその時点で死んでしまうのだが、リツコは長年の研究の末10齢まで脱皮をくり返したカイコを生かす事に成功していた。
リツコはその時点でアラタ体ホルモンの注入を止め、繭を作らせようとするのだが八割のカイコはその前に死んでしまう。
残り二割は繭を作った時点で死んでしまう。
リツコはその繭から生糸を作り、その生糸で自分の着る白衣等の絹製品を作っていたのだ。
しかし八割は使えないのだから効率はとても悪い。
リツコは小屋の上方を見た。
そこには30cm程の乳白色の繭が一個金網に張り付いていた。
まるで昔あったモスラという蛾の怪獣が出て来る映画の撮影用ミニチュアのような繭だ。
繭になったのはこれだけだった。
リツコは机に置かれたホルマリン漬けの瓶の一つに目を移した。
瓶の中には体長30cm位の芋虫が浮かんでいたが、その色はカイコと違い緑色をしていた。
カイコの近縁種、ヤママユという蛾の幼虫だ。
「あれは・・・結構見かけ倒しだったわね。カイコとあまり育て方を変えなかったのがいけなかったかしら?」
ヤママユガは結局一匹も繭を作らず討ち死にしてしまった。
「カイコのほうがマシだったわね。でも・・・・・・カイコじゃだめなのよ、人の作りし品種だから!私の実験を成功させるには・・・・」
呟きながらリツコは左側の小屋に目を向ける。
小屋の扉にはクワゴ専用と書いた張り紙がセロテープでとめてあった。
「色々試してみたけどやっぱりクワゴよね。種類も育て方もカイコとほとんど変わらないし・・・」
小屋の様子を覗き見るリツコの瞳がギラギラと輝き出した。
小屋には蛾の幼虫らしきものは一匹も見当たらなかった。
だがそのかわり・・・・・・・・
・・・・・・・金網の壁を白一色に覆い隠し、ひしめき合う巨大な繭の群れ!
「ほ〜ほっほっほっほっほっほっほっほっほ・・・・・」
狂笑が理科準備室に木霊した。
大ぼけエヴァ 第九話
震撼!!心が裂けて
「バカシンジ!起きろ〜!!」
いつものように威勢の良い声が部屋に響き渡った。
まどろみの世界にどっぷり浸かる少年を無理矢理現実に引きずり出そうとする、肉声の目覚まし時計。
いつものように眩しそうにうっすら目を開け、シンジは決まり文句を呟いた。
「なんだ、アスカか・・・」
いつも通り痛烈な言葉が返ってきた。
「なんだとは何よ!毎日起こしに来る者の身になってになさいよ!」
勢い良く布団がひっぺがされた。
観念したシンジは寝ぼけ目をこすりながら起き上がり、のろのろとアスカに向いた。
「アスカ・・・?」
栗色の長い髪が垂れ下がったアスカの背中が見えた。
シンジはアスカから自分の下半身に視線を移した。
彼の目に入ったものはいつも通りに・・・・・
「ああ・・・そうか」
「早く着替えなさいよ!」
背を向けたままアスカは部屋を出て行った。
細かい部分はともかく、ほぼいつも通りの日常的な出来事だった。
ピンポーン
どきっ
(来た・・・)
マヤはうろたえつつ、いそいそと呼び鈴の鳴ったほうへ走った。
チェーンをはずすと鍵を開け、ドアノブをそっと引いた。
はたしてそこには制服姿のお下げ髪、頬のにきびが愛嬌を感じさせる少女がにっこり笑って立っていた。
「おはよう!」
「おはよう・・・・」
ヒカリの笑顔に合わせて口元に控えめな笑みを作るマヤ。
と、その時ヒカリの笑顔に変化が起きた。
「・・・・・?」
ヒカリの視線はマヤの身なりに移っていた。
それに気付いたマヤの肩がぴくっと上下に揺れる。
マヤの格好は薄黄色のブラウスに灰色のロングスカート。
地味な感じだが学校へ出勤する24歳の女教師ならごくありふれた格好だ。
しかしヒカリは明らかに違和感を含んだ表情でマヤを見ている。
なぜならヒカリは制服姿のマヤしか見た事がないから。
昨日壱中に教師として赴任してきたマヤは、考えられない様なアクシデントにより制服姿になり生徒と間違われるという事態に陥り、あまっさえヒカリと仲良しになってしまった。
(うう、制服じゃない私ってそんなに変なの?いけないの?)
正直いうとマヤは朝起きて着替える時、一瞬制服が頭にちらついてしまった。
ナオコ教頭は最初マヤが制服で生徒の中に混ざっていた事を追求しまくってたのに、何故かおとがめ無しになり最後には激励じみた言葉までかけられたからだ。
マヤはそれがヒカリがリツコの実験をネタにナオコを脅した(ヒカリ自身に自覚はないが)からだという事に全く気付いてなかった。
気まずい視線で見つめあう二人の間に淀んだ空気が広がっていた。
「・・・・・そ、それじゃあ行こっか!マヤ」
気を取り直すとヒカリはマヤの腕を取り、ドアの外へ導いた。
「え、ええ・・・」
ヒカリはマヤの事を先生とは呼ばず、呼び捨てにしている。
もし先生と呼んだらせっかく仲良しになったマヤとの間に距離が出来てしまうから。
マヤもヒカリのそんな気持ちをそれとなく感じ取り、先生と呼んで欲しいとは言えなくなっていた。
微妙なバランスで成り立った信頼関係。
外に出ると二人は並んで歩きだした。
ヒカリは朝の日射しにさらされたマヤの姿を見つめる。
ヒカリの目には私服を着て歩くマヤには精彩がなく、何故か痛々しささえ感じられた。
(なんだかこの服装野暮ったくないかしら?・・・・第一らしくないわ・・・なんだか無理して本来の自分を押さえ込んでる様な感じ・・・・)
実際はどうなのかはともかく、少なくともヒカリにはそう見えた。
(私がなんとかしてあげなきゃ・・・・)
そんな思いを胸に抱くヒカリの手が、いつの間にかマヤの手をしっかりと握っていた。
「?!」
驚くマヤにヒカリは溢れんばかりの笑顔を見せる。
「元気出して!さあ、行こ!」
「え?、ええ・・・」
仲良く手を繋いで通学路を歩くヒカリとマヤ・・・・これからはこれが二人の日常となるのだろうか・・・・
「ふふふ、終わったぞ!」
50インチ大型モニター画面、コードがややこしく接続された数台のパソコン、おびただしい数のカメラ、本棚から溢れている軍事関係の書物、モデルガン、壁を埋め尽くさんばかりに張り付けられた写真の数々・・・・それらが雑然とカオスのごとくひしめく部屋。
ケンスケはプリントし終わったばかりの写真の塊を抱えて無気味にほくそ笑んでいた。
写真は何種類かのバージョンがあったが、どれも一人の制服姿の女性が被写体だ。
ケンスケは徹夜で彼女の写真のプリント作業をしていたのだ。
「伊吹マヤ・・・・かなりの上玉だ。しかも教師でありながら制服姿でそれがまた可愛い。もうこんな格好するはずないだろうからかなりのプレミアになる。その手のマニアなら喉から手が出る程欲しいに違いない!昨日も売ったけど別バージョンもプリントしたし、まだまだ需要は尽きないはずだ!・・・・ふふふ、売りまくるぞ〜!!」
勢い良く立ち上がるとカバンを引っ掛け、勇んでケンスケは部屋を出て行った。
「行くぞ!我が戦場へ!!」
こんないかがわしい商売に燃える事こそが彼の日常であった。
とてとてとて
「ほな、いってきまーす」
玄関でしゃがみながらスニーカーの靴紐を結んでいるトウジの傍らを、赤いジャージに身を包み赤いリュックを背負った女の子が運動靴を突っかけつつ、すり抜けた。
ドアにもたれながら右足の靴の爪先をコンコンと床に打ちつける。
今度は左足を打ちつけようとした時、もたれていたドアが外に開き出し、少女の体が傾いた。
ぐきっ
「おおうっ!」
女の子にしては太い悲鳴と共に赤いジャージが外に倒れ込んでいった。
目の前で妹のしでかした事の一部始終をトウジは漫然とながめていた。
「何やっとんねん、お前は」
「痛〜、やってもたー」
「何がや?」
「ぐねった!・・・・足首内側に45度ひん曲がったわ」
「そそっかしいやっちゃな、どないやねん」
「あかん、もう再起不能や」
「言いながら立っとるやないか」
「二度と走りで一等取れんわ」
「いつもベベやがな」
「この足で学校行けるやろか」
「走っとるがな〜!」
突っ込みながら走り去る妹の背を見送るトウジ。
ぼけと突っ込みが体の一部となった関西人の日常であった。
たったったったったったった・・・・
両端をブロック塀に挟まれた細道を一直線に走り続けると、やがて街路樹の緑色が見えて来る。
そこまで来たら道路を曲がって街路樹沿いに行けば学校まで直線距離だ。
だけどその前にイベントを一つ消化しとかねばいけない。
街路樹まで走り付いた時、道路の向こう側をいつもの二人が自分に劣らぬスピードで駆け抜けていった。
道を曲がると道路を挟んで二人と並走しながら彼女は声をかけた。
「いふぁりふーん、アフハ、おっふぁよー!!」
二車線の道路の距離をもってしてもにぎやかすぎる声が二人に届く。
速度を落とさず声に振り向く少年と少女。
「やあ、綾波、おはよう」
「アンタ、今日はフランスパンか!しかも切ってないのを」
「ふぇへへへへ・・・」
パンを頬張りつつ満面の笑みを二人に見せる。
横断歩道にたどり着くとパン粉を振りまきながら彼らの待つ、(待つどころか全力で走ってるのだが)道路の向こう側にダッシュする。
家を出る時まるごとだったフランスパンは既に半分の長さになり、学校に着く頃には無くなる予定だ。
いつものように朝食片手に家を出て、遅刻ぎりぎりの時間を全力で走るシンジとアスカの更に後ろを追っ掛ける・・・それがレイの日常だった。
マヤは理科室へと続く廊下をぎこちない足取りで歩いていた。
何かを思いつめたような堅い表情をして。
まだ一時間目には少し時間がある。
そしてマヤは一時間目には授業はなかった。
あるのは理科室にいるはずのリツコのほうだった。
リツコは今日まだ職員室に姿を見せていない、というか随分早く学校に来て理科室に閉じこもりっきりらしい。
(センパイ・・・・なんとかしないと)
昨日の苦い記憶が胸に蘇る。
リツコの前で曝した醜態・・・その結果完全に突き放した態度を取られてしまった。
これではいったい何の為にこの学校に来たのか判らない。
だから僅かに残った気力を振り絞ってもう一度リツコと話し合うためにここまで来たのだ。
理科室の前に辿り着いたマヤはおっかなびっくり戸を開いて中の様子をうかがった。
(・・・・・いない?)
マヤは何度も室内をじっくりと見回してみたがリツコの姿どころか人の気配すらない。
(もしかしたら・・・準備室かしら・・・・・・)
マヤはまるで忍び込む様にそ〜っと理科室に入ると準備室のドアを見つめた。
覗き窓のあったらしい部分にメタリックに鈍く光る鉄板が張り付けられ、近寄りがたい雰囲気を発散しているドアにマヤの足がすくむ。
(ああ・・・・あのドアの向こうにセンパイが・・・・でもまた突き放されたらどうしよう)
不安な気持ちがマヤを縛り、動くことを許さない。
彼女は体を硬直させたまま、徒に貴重な時間を浪費していった・・・・・・
(・・・・このままじゃ何のために来たのかわかんない・・・・・・・行かなくちゃ!)
長い躊躇の末に覚悟をきめて一歩踏み出そうとした時、ふいに準備室のドアが音もなくゆらりと開き出した。
「!?・・」
突然の事に息を呑むマヤ。
がしゃんっ
ドアの影から激しい破壊音が響く。
「な、何?・・・」
ここに来た目的も忘れ恐怖に捕われるマヤは、それでも瞳をドアから引き離す事が出来ない。
立ち尽くすマヤの耳に異様なざわついた音が侵入してきた。
・・・・・・・ばさばさばさばさ
(なんなの〜・・・・この音・・・・こ、恐い・・・・・)
正体不明の音にマヤの恐怖が一気に肥大した時、ドアの背後からそれはいきなり出現した!
「ひいいいいい〜!!」
「ふう、一時間目は理科か」
シンジはため息を漏らしながらカバンから教科書を取り出していた。
今教室に着いたばかりなのに早速理科室に向かわないといけない。
今日は実験の授業だから。
「やだなあ・・・・」
「仕方ないじゃない、誰だってやよ!」
「どーして?楽しいよー」
「アンタだけよ!実験で喜ぶのは!」
せわしなくシンジとレイに突っ込むアスカにヒカリが声をかける。
「早くいきましょ、時間がないわよ」
「ええ、わかってる」
「お〜いセンセ、行くで」
トウジとケンスケはすでに廊下に出てシンジを待っていた。
「あ、待ってよ」
急ぎ足で教室を出てゆくシンジ、そしてアスカ、レイ・・・・
ありふれた学校での日常風景。
彼らはまだ知らない。
この日常がすでに破られつつあるという事を・・・・・・
シンジは眼前の階段をけだるそうに見上げていた。
ここを一階分登って後は廊下を真直ぐ行けば突き当たりが理科室だった。
しかし理科の実験に行くと思うと登るのがおっくうになってしまう。
それでも何故か先頭にいるシンジは後ろがつかえるのを避けるため、重い足をのそりと持ち上げた。
その時。
「ひいいいいい〜・・・」
「えっ?!」
異様な音声にシンジは持ち上げかけた足を引っ込める。
一瞬何の音か判らなかったが、どうやら人の声らしい。
「何?あの悲鳴は・・・」
アスカが引きつった表情で呟く。
はっきり言って不気味だ。
何故なら声そのものだけならともかく、彼らがこれから行こうとしてる方からそれが聞こえてきたからだ。
嫌でも実験との関係を想像してしまう。
不安に満ちた雰囲気が流れた時、一人の生徒が勢い良く階段を駆け上がりだした。
「ヒカリ!どうしたの?!」
アスカの声を無視してヒカリは階段を猛スピードで登っていく。
彼女にはさっきの悲鳴に聞き覚えがあった。
(もしかして・・・・・マヤ!?)
踊り場まで駆け登ると慌ただしく体を反転させ、あっという間に姿が見えなくなったヒカリをあっけに取られて見上げるシンジ達。
数秒の沈黙の後、レイがアスカに尋ねた。
「ねー、ほっておいていいのー?」
「あ、そうだ、追い掛けなきゃ!いくわよ!」
ピ〜ンポ〜ンパ〜ンポ〜ン・・・・
授業開始のチャイムの音が彼らの階段をかけ昇る足音にかぶさった。
階段を駆け上がり廊下へ出たヒカリは理科室のほうに振り向いた。
ヒカリの探している悲鳴の主が理科室の前にいるのが見えた。
一体どうすればこんな顔になるのかと聞きたいくらいに恐怖に表情をゆがめ、今にも転んでしまいそうな不安定な足取りでいながら異常なまでの速さでこちらに向かって疾走してくる。
そのただならぬ様子にヒカリもマヤのほうへ走り出した。
「マヤ!どうしたの?」
ヒカリの目の前まで近付いた時、マヤの体はつんのめりながら廊下に倒れ込んだ。
マヤの背後にある景色ががヒカリの目に映る。
「?!」
廊下には灰色っぽい何かが溢れかえっていた。
宙に浮かぶそれは沢山の物体の集まりのようだった。
それらの物体の集まりが、こっちに向かってどんどん接近してくる。
「ひぇっ!」
思わずヒカリはマヤに折り重なるように身を伏せた。
廊下にうつ伏せになった二人の上空を灰色の集まりが通過してゆく。
マヤの背中をきつく抱き締めながらヒカリの体全体が痙攣するように震えていた。
一瞬彼女は灰色の物体の正体を見たのだ。
それは・・・・・・・
「ヒカリ!」
階段を登ったアスカが廊下に出た。
その後ろからシンジ達が続く。
彼らは理科室のほうに一斉に振り返った。
「きゃあ〜!!」「うわあ!!」「うおっ!」「わっ!!」「はひゃ?」
凄絶な悲鳴が廊下に乱れ飛んだ。
彼らの視界一面に広がる灰色の物体。
一つ一つの大きさは数十cmはある。
数にして百近いだろうか。
それらは空中を悠然と羽ばたいてこちらへ接近してくる。
「ガ!!蛾よお〜!!」
それは見るもおぞましい光景だった。
常識を疑う程巨大な蛾が群れを成し、ばさばさと無気味な音をたてながら飛んで来るのだ。
「いやあ〜!!」 「うぎゅっ」「ごわっ」「ぐへ」「ふぎゅっ」
悲鳴をあげながらアスカは回れ右すると後ろにいるシンジ達を順々に押し倒し、踏んづけて逃げ出した。
「あ痛っ!アスカ、待って・・・うわああああ〜!!」
やっとの思いで起き上がったシンジの眼前に巨大蛾の群れが迫っていた。
バネの様に飛び起きるとシンジはアスカの後を物凄い勢いで追い掛けていった。
レイ、トウジ、ケンスケも続く。
その後を蛾の群れが飛んでいく。
だだだだだ・・・・ばさばさばさばさ・・・・・
真直ぐに続く廊下を必死をこいて走る足音と薄気味悪さを伴った鈍い羽音の二重奏が響き渡った。
鬼気迫る形相で走りつつ、アスカがヒステリックに声をあげた。
「な、なんなのよ!あれは」
「が、が、が、蛾だ〜」
「わかってるわよ!なんであんな大きい蛾が飛んで来るのよ〜」
「リ、リツコ先生の仕業や〜!!」
「なーんだ、そーなのかー。例のカイコの育ったのだねー」
「アンタ、のんびり言ってる場合か〜!!」
「い、いやだ、もういやだ・・・何で僕が」
「なんでアタシらがこんな目に〜」
「ねーアスカ」
「何よ!こんな時に!」
「どーしてみんな逃げてるの?」
「アンタバカァ?!あんなの来たら逃げるに決まってるでしょ!!」
「そーなの?」
「アンタどういう神経してんの!あわっ」
レイにがなるアスカの目の前に廊下の曲り角が見えた。
慌てて直角にスピードを落とさず曲がっていくアスカ、そしてシンジ、トウジ、ケンスケ。
しかしレイは角をまがらず、急停止するとくるりと後ろに向き直った。
紅い両の瞳に迫り来る巨大蛾の群れが映った。
「うわあー、すごーい!!」
歓喜の声とともにレイの瞳が輝く。
突っ立っているレイの体に灰色の塊が触れ、一瞬後には飲み込んでしまった。
遅刻ぎりぎりに学校に駆け込む時すら上回る物凄いスピードで激走するアスカとシンジ。
それに遅れまいと必死に走るトウジとケンスケ。
たちまち廊下の突き当たりが彼らの目の前に接近する。
突き当たりの横側には階段があった。
最初にそこまでたどり着いたアスカは迷わず階段を下りていった。
猛然とした勢いで三段とばし、五段とばし、十段とばし!
落ちるようにして階段をかけ下り、一階下までたどり着いたところでアスカは後ろを振り返った。
階段を転げるように下りて来るシンジ達の姿が目に入った。
あのおぞましい巨大な蛾の群れは追ってきてはいない。
身の安全を確認したアスカは大きくため息をついてその場にへたりこんでしまった。
「はあ〜・・・助かった」
アスカに追いついたシンジ達も同様に座り込んだ。
「はあ、はあ、恐かった〜・・・」
「ふう、ふう、な、なんやったんや、あのカラスみたいにごっつい蛾は」
「ひい、ひい、いくらなんでもあれは撮りたくない」
「・・・あのマッドサイエンティストめ〜、こんなろくでもない事やって済まされると思ってるの!?」
「あのアスカ・・」
「なによ!」
「綾波がいないみたいなんだけど・・・」
「えっ?」
シンジの言葉にアスカは周りを見回してみたが確かにレイの姿がない。
「あいつ・・・どーして逃げるの?って聞いてたわね。なに考えてるのよ?」
今日に始まった事ではないがレイの言動は理解に苦しむ。
眉をつり上げるアスカの耳に階段を下りる足音が聞こえた。
たかったかったか・・・
「誰?」
近付いて来る軽快な足音に階段を見上げるアスカ達。
窓からの日射しを逆光に浴びて一人の少女が階段の踊り場に出現した。
両手を誇らし気にかかげて。
「みんなー、見て!捕まえたよー!!」
かかげられた手には羽の両端をびろ〜んとつままれた巨大な蛾が一匹。
「レイ!アンタなに考えてんのよ〜!!」
満面の笑みを浮かべ軽い足取りで階段を下りて来るレイに立ち上がりながら後ずさりする四人。
「ねー、すごいでしょ」
「く、来るな〜!」
「うわわわわ・・・」
「堪忍してくで〜」
「?、みんなどーしたの」
「アンタ!そんなの捨てなさいよ!!」
「なんで?」
「気色悪いからに決まってるでしょ!!」
「こんなスケールでかい蛾なんてめったに見られないよ。見ないと損だよー」
「な訳ないでしょ〜!!」
ばさばさばさ・・・・・
会話に割って入る様に階上から無気味なざわめきが聞こえた。
はっとするシンジ達の目にくすんだ灰色の集まりが踊り場まで雪崩れ込む光景が映る。
「うわ!!」
「また来た〜!」
慌てふためきながら再び廊下を走り出すシンジ達。
「あ、みんな待ってー」
手に蛾を持ったまま後を追い掛けるレイ。
「バカ〜!ついてくるな〜!!」
突っ込みつつレイに振り返るアスカ。
その時アスカは迷惑にも後をついて来るレイに異変が起き始めているのに気付いた。
「なっ!?」
驚愕に震える青い瞳に映ったのは背筋も凍る光景だった。
笑顔で追っかけてくるレイの体に次第に蛾の群れ達が集まり出したのだ。
瞬く間にレイの体は蛾に覆われてゆき、遂には人の形をした灰色の塊と化してしまった。
「うぎゃ〜!!」
「なんだか上が騒がしいわねえ・・・」
ナオコは職員室の天井を見上げながら眉をひそめて呟いた。
一時間目のチャイムは鳴ったというのに大きな声が幾度となく聞こえてくる。
しかも声の種類が叫びというか悲鳴みたいなものばかりというのはどういう訳なのだろう?
ただの生徒達のおふざけにしては度が過ぎている。
「様子を確かめておいたほうが良いかしら?」
今職員室にいるのは教頭である彼女のみだった。
一時間目の授業がない教師が二人いたがここにはいない。
一人はどこかへ行っているし、もう一人はまだここに来ていない。
「仕方ないわね」
ナオコは本来なら校長の使用する豪華な卓から立ち上がると、つかつかと歩き始めた。
戸の前まで来ると無駄のない動きでさっと開け放った。
開けられた戸の向こう側には一時間目の授業がない教師が、驚きに顔を強張らせて立っていた。
「!っ・・・・」
ナオコが冷静な声で挨拶する。
「おはようございます、葛城先生」
「お・・おはようございます。教頭先生・・・」
向かい合う二人に緊迫した空気が流れる。
いくら遅刻を完全に日常としているミサトでも教頭が恐くない訳ではない。
以前にも生徒に示しがつかないと、遅刻を止めるか昇給を諦めるか二拓を迫られた事があったのだ。
もっともミサトが昇給のほうを諦めたのはナオコの誤算ではあったが。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
無言で睨むナオコの目に威圧され、ミサトも無言にならざるを得ない。
乾いた沈黙にミサトの心が耐え切れなくなった時、ふいにナオコの口が開いた。
「葛城先生」
「は、はい!」
「丁度良いわ、ついて来なさい」
「は、はい?」
戸をくぐり出るナオコに押される様に後ずさるミサト。
そして廊下をつかつかと歩いて行く教頭に訳の判らないまま追従するのだった。
だだだだだだっ・・すたたたたたっ・・ばさばさばさばさ・・・
恐怖に追い立てられ自己の能力の限界を遥かに越えて激走するシンジ達四人を、人型をした巨大蛾の群体が追っかけ、更にその後ろを飛行する蛾の群れが追っかけている。
「きゃはははは、面白ーい!」
蛾の羽と羽の隙間からのぞくレイの顔から笑みがこぼれている。
「わー、着ぐるみみたーい!ねー、どうしてこんななったんだろ?」
もはやレイの問いに誰も突っ込む余裕はない。
頭の中は100%逃げる事以外考えていないからだ。
先頭を息せき切って走るアスカの視界に戸が開いたままの教室が入った。
「あそこだ!」
アスカは走り幅跳びの要領で跳躍すると一気にその教室に飛び込んだ。
中にいる生徒の驚きの声も気にせず開いた戸を猛然と閉めにかかる。
戸が閉まる直前にシンジとトウジが滑り込んだ。
ぴしゃりっ!
激しい音とともに閉まる戸の向こう側から悲惨な絶叫が響いた。
「あけてくれ〜!!」
どんどんどんっ
「おねがいだ〜!!」
戸を叩きながら訴えるケンスケの声にシンジが悲し気に呟いた。
「ケンスケ・・・・」
呟きながらシンジはアスカ、トウジと一緒にしっかり戸を押さえ付けていた。
「ごめん、ケンスケ・・・」
「堪忍や、お前の事は一生忘れん」
「絶対開けちゃダメよ!」
「そんな、人でなし〜!!」
「わーい、相田君めっけ!」
「うわわわわあ〜!!」
無惨な悲鳴が轟き渡るのを沈痛な表情で聞くシンジ達は、それでも戸を押さえる手を緩める事はなかった。
一応の安全を確保したものの、今だ緊迫感の消えない彼らの背後で声が聞こえた。
「シンジ君どうしたの?!」
「はっ」
突然名を呼ばれ、驚き振り返るシンジ。
そこにはよく知った茶色がかったショートヘアの少女が怪訝そうな顔で立っていた。
「あ・・霧島さん」
「やだあ、マナって呼んでよ」
シンジの言葉を聞いて破顔一笑するマナ。
その手にはパレットと絵筆を持っている。
室内の中心には机に置かれたスイカやバナナなどの果物があり、それを取り巻く様に画板を持った生徒達がパイプ椅子に座って写生をしている。
ここは美術室だったのだ。
マナをはじめとして教室の生徒、そして美術の教師も突然の侵入者に視線を向けていた。
「ねえ、何があったの、シンジ君?」
事情を知らないがゆえの明るさで問いかけるマナにシンジはどんよりしたトーンで口籠った。
「それは、その・・・」
いらついた声でアスカが突っ込んだ。
「え〜い、今とんでもない非常事態なのよ!呑気な会話してる場合か!外は地獄よ、地獄!!」
「地獄?なにそれ?」
話が良く見えず、首を小さく傾げるマナ。
「詳しい話は後!とにかく今は絶対中に誰も入れないこと!だからこうやって戸を押さえてるの!アンタも手伝いなさい!」
「どうしてよ?」
「どうしてもなにももし中に入って来たら・・・」
「あの・・・・」
マナの背後から控えめな声が聞こえた。
声の主はきゃしゃな身体つき、長いストレートの黒髪、眼鏡が大人しい雰囲気の顔に良く似合った少女。
「マユミ」
「山岸さん」
「セイトカイチョ」
皆の視線を受けてやや恥ずかしそうにたたずむマユミはそっと右手を持ち上げ指差した。
「あっちのほうの戸は・・・・・」
「えっ?」
指差すほうに一斉に皆が振り向く。
そこには無造作に開けられた戸があった。
そう、普通教室には出入り口は二つあったのだ。
「ああ〜!!」
大口開けて驚愕の声をあげるシンジアスカトウジ。
その声を待っていたかの様に開け放たれた戸に灰色の、少し輪郭が雑な人影が現れた。
「おじゃましまーす!」
ハキハキした挨拶とともにおぞましい蛾の塊が生徒達の前に走り込んできた。
しかも背後に飛び交う蛾の群れを従えて。
うおおおおおんん・・・
教室内の人間全員の悲鳴が合わさり轟音となって爆発した。
一瞬にして恐慌状態に陥った生徒達の輪に蛾で覆い尽くされたレイが飛び込んだ。
「うわ〜!」「きゃ〜!!」「ひえ〜」「ぎえええっ」「助けてえ〜!」
今度はバラバラに悲鳴が飛び交う。
教室の隅っこに退避する者、ひっくり返るもの、画板に身を隠そうとする者、パレットを盾にして筆を振り回す者、ただとにかく逃げ回る者、絵の具を洗う水をぶちまける者、パイプ椅子をぶん回す者・・・・恐怖に踊らされる生徒達に飛び回る巨大蛾がシャッフルされ美術室は地獄絵図と化した。
混迷を極める中、シンジ達はさっきまで押さえ付けていた戸を開けると廊下で倒れているケンスケを踏み越え一目散に逃げ出していた。
彼らに気付いたレイもその後を追い掛け、更に後を蛾の群れがばさばさと追い掛ける。
蛾の大群は美術室からまるで暴風雨が通り抜けるように飛び去ってしまった。
・・・・・・後に残されたものは散乱する絵の具、画材道具、パイプ椅子、果物、そして放心状態で倒れてる生徒達・・・・
時間にしてほんの一分足らずの出来事だった。
「・・・・・うん・・・・・私、どうしたのかしら」
マユミは目を開くと身体をゆっくり起こした。
どうやら気絶していたらしい。
だがいったい何があったのかよく思い出せない。
画板を片手に立ち上がるマユミの目に入ったのは廊下にボロ雑巾のように転がるケンスケの姿だった。
マユミはケンスケの元にそろそろと近付くと声をかけた。
「相田くん、大丈夫ですか・・・?」
声にぴくりと反応するとケンスケは目を開けた。
「ううん・・・・酷い目に・・・」
呻き声を漏らすと身体中にきしむ様な痛みを感じつつ、のろのろと上体を起こす。
「うう・・・蛾はどうなったんだ・・・?」
「が?・・・・・」
「ああ、蛾の化け物・・・」
「はあ?・・・・」
今一つ分かってないマユミはふと、小脇にかかえていた画板を見た。
画板にセットされたまっ白な画用紙がある・・・・はずだった。
しかし画用紙には描いた覚えのない物が描かれてあった。
「これ・・・どうみても果物じゃない・・・?」
大きすぎて分かりにくかったが果物というより羽という感じだ。
「これは・・・・これは!」
ばさばさばさ・・・
画用紙に張り付いていた巨大蛾が羽ばたき、廊下を飛び去っていった。
鱗分によって印刷された羽模様をくっきりと画用紙に残して。
漫然と版画のような灰色の羽模様を見つめ続けるマユミ。
数秒後、いきなりマユミは空気が抜けたように廊下にへたり込んだ。
「お、おい山岸、大丈夫か!」
慌てて身体を支えるケンスケの耳に俯いたマユミが微かに声を漏らすのが聞こえた。
「くくくく・・・・・??」
「な、なんだ?!」
「ぶつぶつぶつ・・・・・」
「ど、どうしたんだ山岸?!」
聞き取りにくい小さな声で呟くマユミにケンスケは当惑する。
取り敢えず巨大蛾の恐怖の消え去ったこの場で、呟き続けるマユミを見下ろしながらケンスケはただ立ち尽くすのみだった。
「ぶつぶつぶつ・・・・蛾?・・・・・・・鈴原君のほうが・・・・くくく」
「きゃはははは」
背後から何が楽しいのか脳天気な笑い声が響き飛んで来る。
結局シンジ達は再び廊下を必死に逃げ走る事になっていた。
身体中に蛾をまとったレイが追い掛けて来るのだから、そうする以外どうしろというのか。
「いや〜!なんで私が〜!!」
走りながらマナが悲痛な叫びを漏らす。
襲い来る巨大蛾から必死に逃げていたら、気がついた時にはシンジ達と一緒に走っていた。
なんだか分からない内に最悪の選択をしてしまったらしいが、その事を後悔する余裕すら今のマナにはない。
「みんな待ってー」
「こないで〜!!」
レイの呼び掛けを拒否しながらマナはちらりと後ろを見た。
赤白黄青黒茶ぐんじょ色、様々な色の絵の具が降りかかり毒々しい模様に染め上げられた蛾の集まりが手足を大きく振って追っかけて来る。
「いや〜!!」
見てしまったのを後悔しつつ、大急ぎで視線を前に戻すマナの目にシンジの背中が見えた。
マナはすがる様にその背に訴えかけた。
「シンジ君助けて!!」
返事などない。
「なんとかして〜、シンジ君!!」
またしても無言。
「なんとか言ってよ〜シンジ君!」
シンジの代わりにアスカが突っ込んだ。
「喋る暇あるなら走れ〜!!」
「だって恐くて黙ってられないのよ〜!」
「知るか〜!」
(あ、あかん、もう限界や!)
トウジは既に息が完全にあがっていた。
スタミナがガス欠状態になっているのに気力だけで今まで走り続けてきたのだ。
しかしそれもあとどれだけ持つか分からない。
(どないしたらええんや・・・・・おお、あれは!)
真直ぐ続く廊下の左側に階段が見える。
(このまま廊下を走るか、階段を昇るか下りるかや・・・・そや!)
トウジの頭にある考えがひらめいた。
かなり自己中心的な考えが。
(ワシだけ別の方向に逃げれば・・・綾波もワシよりボケ突っ込みの関係が出来上がっとるシンジや惣流のほうを追っかけるやろう。そしたら助かるやないけ!それしかない!このままやったら皆廊下を突っ走るやろか・・・いや階段を行きよる可能性もある・・・・・一番誰も行きそうにないのは・・・・・そや、今の状態やと昇りの階段はきついからわざわざ行かんやろ。よっしゃ!)
決意をしたトウジの目が近付いて来る階段に釘付けとなった。
逃げ走る四人の内、一番左側に移動する。
そして階段を通過しようとするその瞬間。
(今じゃ!!)
トウジは昇りの階段めがけて身体を左に90度方向転換させた。
気合を込めて大きく足を踏み出そうとした時!
「うお!?」
トウジは右側から思いきり突き飛ばされた。
べしゃっ!
「ぐわっ!」
昇り階段に体全体をぶっつけるトウジ。
その上を三人分の足が次々に踏んづけていった。
「ぐげ、ごげ、ぎげ!」
人のものとは思えない声を発しながらトウジは心の中で突っ込んだ。
(なんで皆昇るねん?!)
「鈴原くんー、大丈夫?」
ぎくっ!
背後からのレイの声にトウジの心臓が跳ね上がる。
思わず頭を抱えてうずくまると身体を震わせ始めた。
(わわわわわしはどうしたらええんやあああ??)
このままもし蛾に触れられでもしたら・・・・
恐怖に取り付かれたトウジはいつの間にか大声で叫んでいた。
「ワシにかまうな〜!!」
「ほよ?鈴原君?」
「わしにかまわず早ようシンジ達を追わんかい〜!追い付いて抱擁の一つもせんかい〜!お前のやらなあかん事はそれやろ〜!!」
「えっ?そ、そうだったのかあ!」
「綾波〜、・・・・・・わしの屍を越えてゆけえ〜〜!!」
「鈴原君、分かったよ、ありがとう!」
トウジの口からでっちあげられた言葉にあっさり感動してしまったレイは階段を昇らんと足を踏み出した。
ずんっ
「うげっ!!」
言われた通りトウジを踏み越えて。
その後を蛾の群れが階上へと通り過ぎていった。
・・・・・・やがて階段にうずくまるトウジは頭をそっともたげて回りの様子を用心深く確かめた。
「・・・・・助かったんか?ほんまに?」
蛾のいない事を確認するとトウジは肩で大きく息をして体を起こそうとした。
「あ痛っ!お〜背中が・・・・」
散々踏んづけられた背中がうずき、思うように起きあがれない。
トウジは背中に手を回し、撫でさすろうとした。
「ん?」
ジャージ越しに背中に触れるつもりだったが感触が何か妙だ。
「なんや?」
どうもジャージと背中の間に何かあるらしい。
トウジは手探りでそれが何なのか確かめようとする。
感触ではかなり大きい。
「・・・・こいつは・・・??・・・・い!!」
トウジの脳裏にある考えが浮かぶ。
それは絶対考えたくない考え。
トウジの心が一気に凍り付いたその時、ジャージの中でそれが動き出した。
ばたばたばたばたっ
「うわわわああああおおお〜!!」
階段を駆け上がりながらアスカは後ろの二人に怒鳴った。
「なんでアンタらも昇って来るのよ〜!」
「僕はアスカについて行ったんだよ〜!」
「私はシンジ君についてっただけよ〜!」
はっきり言ってアスカもトウジ同様一人だけ別方向へ行けば助かると考えたのだ。
しかし他人を見殺しにしても助かろうとするアスカの邪な目論みは、二人の依存心の高さによってもろくも崩れてしまった。
心の中で歯噛みしつつ、上階にたどり着いたアスカは後ろを振り向いた。
まだレイも蛾の群れも来ていない。
脱落したトウジの相手をしているのだろうか?
その時、突然物凄い叫び声が階下から轟いた。
「うわわわああああおおお〜!!」
アスカは更に階段を駆け上がりつつ手すりに寄り添うと、階下の様子を覗き込んだ。
シンジとマナも同じ行動をとった。
「!!」
息を飲む三人。
彼らの目に階段を転げ落ちた黒ジャージが支離滅裂な動きでのたうち回る姿が見えた。
しかもジャージの背にはいかにも怪しい出っ張りがあり、それがもぞもぞとお腹へと移動していった。
まるで前世紀の某モンスター映画のワンシーンみたいに、黒ジャージの腹上で出っ張りが脈打つ様に蠢いている。
あまりの恐怖に尻餅をついた状態でトウジは金縛りになってしまった。
「おおおおおお、お助け・・・」
腹のふくらみが次第に上に移動していく。
「ういいいいいい・・・」
そして遂にジャージの襟元から灰色の巨大蛾が頭を出し、恐怖に歪みまくったトウジの顔面とはち合わせした。
「おおおおおおおわあ!!」
ジャージから脱出した蛾が宙を舞った時、トウジの体は反り返りながらスローモーションの様に後ろに倒れていった。
凄惨なトウジの憤死場面を目撃してしまった三人に戦慄が走る。
「あ、あわわわ」
「いやあ〜シンジ君〜!」
「こらマナ!なんでこんな時にシンジに抱きつこうとすんの!」
「だって恐いのよ〜!」
「そんな場合・・うあ!」
アスカは言葉を飲み込んだ。
いつの間にか蛾まみれのレイがその姿を再接近してきたからだ。
トウジの断末魔に気を取られて走る早さが鈍っていたらしい。
「しまった!」
大慌てで全速力にギアチェンジし、階段をかけ上がるアスカ、そしてシンジ、マナ。
遂に最上階まで来た事にも気付かず、更に上へと階段をかけ昇っていった。
踊り場まで来た彼らの目に入ったのは屋上に続くドアだった。
「あ〜!もうてっぺんまで来たの!?」
叫びつつも、アスカはもはや屋上に出るしかないと悟った。
ドアに目掛けて階段を駆け上がるとノブに手を伸ばし、一気に開けようとした。
がちゃっ!・・・・
・・・・ドアはびくとも動かなかった。
「そんな!!」
アスカの表情が悲痛なまでに引きつった。
狼狽しつつドアを必死に押し続ける。
もちろん引いて開くドアではない。
「あああ、開かない!!」
「えええ!!」
「そんな!!」
絶望的な言葉にうろたえるシンジとマナにアスカが怒鳴る。
「こら〜!アンタらも押しなさい!!」
慌ててドアを押し始める二人だが、三人がかりでもドアが開く気配は全くない。
どんどんどんっ!!
「なんで、なんでよお〜!!」
ヒステリックな叫びとともにドアをど突きまくるアスカだが状況は変わりはしなかった。
「きゃはははは」
ぎくっ
脳天着な笑い声にドアを押す六本の腕が止まった。
三人そろって恐る恐る後ろを見下ろす。
踊り場に人型の蛾の塊が、はつらつとして駆け上がって来るのが見えた。
「お待たせー!」
明朗活発な声を張り上げる醜悪な蛾の集まり。
逃げ場を失った三人はドアに背をくっつけて硬直してしまった。
レイは両手を広げると彼らに向かってゆっくりと階段を昇り始めた。
「あああああ・・・」「くるなあ〜!!」「いいいやあああ!こないで〜!」
震える体で絞り出した叫び声にもレイの動きを止める力はない。
少しずつ、着実に近付いて来る、絵の具で毒々しいまだら模様に色取られた蛾の塊。
その動作は実に喜々としたもので、羽で隠されたその表情は絶対に笑っているに違いない。
怯える三人の目に更に身の毛もよだつ光景が形成され始めた。
レイの背後をついて来た蛾の群れが彼女の体にどんどん取り付いていったのだ。
ただでさえレイの全身を覆っていた蛾が更に取り付く事によって、雪だるま式に膨れ上がったその姿は人の形を失い始めた。
なんとも形容のし難い物体に変わりつつある蛾の塊を目の当たりにして、三人の恐怖は加速をつけて肥大化してゆく。
耐え切れなくなったマナがシンジに飛びつこうとした。
「シンジ君〜助けて〜!!」
「アスカ助けてよ〜!!」
飛びつく前にシンジがアスカにすがっていた。
「アタシに頼るな〜!!」
「シンジ君〜!」
「綾波にアスカの必殺技を使ってよ〜!!」
「できるか〜!!」
「シンジ君って!」
「いつも毎日綾波を極めているじゃないか〜!」
「あれのどこがレイなのよ〜!!」
「シンジ君〜、聞いてよ」
「アンタ男でしょ!アンタがなんとかしなさい!!」
「うわっ」
アスカが強引にシンジの体を前に押し出した。
シンジを盾にして隠れようとするアスカ。
「わわわわわあ!!」
「アスカ!シンジ君に何をするの!!」
「と言いつつアンタもシンジの背後に回ろうとしてるじゃないの!」
「シンジ君、私を守って!」
「うわあああ〜!助けてよ〜〜!!」
三人がもめている間にも、もはや手足の形も曖昧になりまさに一塊という感じに膨れ上がった物体は、階段の最後の一段を昇り切ろうとしていた。
「みんな楽しそうだねー、私も仲間に入れてね」
愉快そうな声とともに蛾の塊はじわじわとシンジ達に向かって前進を開始した。
前進しながら太い腕らしきものが二本伸びる。
「うわあああああ〜!」
「ぎぇ〜〜!!」
「ひいいい!!」
大きな悲鳴とは裏腹に、彼らは小刻みに震えるだけで全く動く事が叶わない。
伸ばされた腕がシンジの鼻先まで接近した。
シンジの目に、わらわらとひしめき合った数十cmもの蛾のけばけばしい羽模様の細部までがはっきりと見えた。
その羽達が呼吸をするようにゆっくりと開いたり閉じたりをくり返している。
「ひっうあっああああ・・・・」
恐怖が臨界点を越え、シンジの精神はあっちの世界へ引きずり込まれようとしていた。
半ば意識を失いかけたシンジに蛾の塊から誘惑的な甘い声が囁かれた。
「私とひとつになる?・・・それはとても気持ちのいいことよ」
「気持ち悪い〜!!」
突っ込みと共にアスカはシンジの背中を突き飛ばしていた。
吹っ飛んだシンジの体が蛾の塊の中にずぶりと飲み込まれていった。
ひとつになってしまったシンジの絶叫が塊の中から轟き渡る。
「うっぎゃああああ〜〜!!」
物凄い勢いで蛾の塊から這い出ようとするシンジの腕がすがるべき物を探し回り、マナの足に絡まった。
マナの体が大きく傾き、すってんと地面に伏した。
「きゃあっ!いやっいやっいやいやいや〜!!」
必死で腕を振払おうとするマナの目に蛾の塊が再びシンジを侵食していく光景が映る。
じわじわと体を覆い、頭を飲み込み、最後にマナの足を掴む手だけが残った。
「ひいいっいや〜!離してシンジく〜ん!!」
「助けて・・・アスカ・・・」
「わ、わたしアスカじゃな〜い!!だから離してよお〜〜!!」
「助け・・・・」
ずずっ
シンジの腕が塊の中に引きずり込まれた。
同時にマナの足先が蛾に接触する。
「いやああ〜!!」
悲鳴に声を震わすマナのに蛾の塊ががばっと覆いかぶさる。
マナの身体が一瞬引きつけをおこすとぐったり動きが止まり、後はされるがままに蛾の塊に飲み込まれていった。
まるで星の王子様に出て来るゾウを丸のみにした大蛇みたいな形に膨れ上がった蛾の塊は、最後に残されたアスカの眼前で更に無気味に変型を始めた。
塊がむくむくと起き上がったと思うと、次第に左右に伸びていく。
まるで羽を大きく広げるように。
「ああああああ・・・・」
血の気を失った顔で魅入られたように蛾の塊を見つめ続けるアスカ。
そして羽を広げきった巨大蛾の塊は、更に巨大な一匹の蛾の形へのメタモルを完成させた。
自分の背丈ほどもある超巨大な蛾のおぞましい姿を眼前に、アスカの心は崩壊寸前まで震撼していた。
直立する超巨大蛾が、羽を震わしながらレイの声で甘く囁く。
「ねー、アスカ。アスカも私とひとつになる?」
超巨大蛾がずりずりと前進して来る。
身体中の血液が物凄い勢いで逆流しているのをアスカは感じていた。
「それはとても気持ちのいいことよ」
目と鼻の先まで近付いた超巨大蛾は、アスカの顔を挟み込む様に両翼を接近させた。
超巨大蛾の羽がアスカの顔に触れた。
その時、アスカの心が真っ二つに裂けた。
「うぎぇえええええええ〜〜〜〜!!!」
アスカの右手がマッハのスピードで射出され、超巨大蛾の頭部に張り手の砲弾を炸裂させた。
超巨大蛾を形成していた蛾の群れが吹っ飛び、胴体部分からレイの姿が、羽の部分からレイが両脇に抱えたシンジとマナの姿がむき出しになった。
四散した何十匹もの蛾が宙を漂い、落ち葉の様にひらひらと舞い落ちていく。
レイ、シンジ、マナの体がゆっくりと沈んでいった・・・・・・・
「はあっはあっはあっはあっはあっはあ・・・・・」
荒い呼吸音が響く。
アスカは右手を突き出したまま大きく肩で息をして立ち尽くしていた。
突然、彼女の充血しまくった青い瞳が真上にぐりんと移動すると白眼だけになった。
糸の切れた操り人形のようにアスカはその場にくず折れていった・・・・・・・
・・・・・・それまでの騒ぎからは信じられない位の静寂があたりを包み込んだ。
ぱたぱたぱた・・・・・
静寂が小さな羽音に破られた。
レイの背中に落ちていた一匹の蛾が弱々しく羽ばたき始めたのだった。
上昇を試みるもののレイの制服にどこかが引っ掛かったらしく、彼女の背中から離脱する事ができないでいる。
ぱたぱたぱたぱた・・・・
それでもあきらめずに羽ばたき続ける蛾に引っ張られるかの様にして、レイの身体が音も無く起き上がり出した。
その有り様は背中に羽の生えた天使の姿を連想させる。
羽の形と模様は置いておくとして。
完全に起き上がったレイの表情がいきなり彼女特有のにぎやかな笑顔になった。
「あー面白かった!!」
満足そうな声に合わせて背中の羽がぱたついている。
レイは周りを見回した。
見るも無惨な表情で倒れているシンジ、アスカ、マナ。
そしてそこらじゅうに散乱している巨大蛾。
「あや?」
首をひねるレイの耳に異音が響いた。
がたんっ
「?」
音のした方を振り向くとドアのノブが回転しているのが見えた。
がちゃりっ
ドアが開いていく。
興味深そうに見ているレイの前に、射し込む外の光を背に人影が出現した。
「騒がしいわねえ。こっちはこれからって時に・・・・何があったのかしら?」
「何があったのかしら?」
階段を昇りながら警戒の表情を作るナオコ。
後ろには浮かない顔をしてナオコに続くミサト。
事情も教えられず連れ回されているミサトにすれば今の状態は居心地がよろしくない。
かといって嫌とは絶対言えやしない。
ナオコは二階まで来た所で一端足を止めた。
慌ててミサトも止まる。
この階あたりから生徒達のざわめきが大きくなっている事をナオコは感じ取っていた。
「さてどうしようかしら・・・」
背筋をぴんと伸ばしたまま辺りを見回しながらナオコは呟く。
この辺りの教室へ行って事情を聞いてみるべきか。
考えつつ回りの様子を観察するナオコの視界に異様な物体が入った。
「!?」
それは三階に続く階段の踊り場近くに落ちていた。
迷わず階段を駆け上げるナオコ。
訳も分からず追うミサト。
「教頭、いったい・・」
「!・・・・これは!!」
ナオコはしゃがみ込むとその物体を拾い上げた。
後ろから覗き込むミサト。
「ひっ!!」
常識を疑うその物体の正体にミサトは階段から落っこちそうになった。
ナオコの持っていたのは見るも無気味な灰色の巨大な蛾。
「ななななんですか!?」
ミサトの声にも答えずじっと手に持った蛾を見つめるナオコ。
表情がどんどん険しくなっていく。
ばさばさばさっ
突然手に持った蛾が羽ばたき出し、宙を舞った。
そのまま階下へと飛んでいってしまう巨大蛾。
呆然とその有り様を見送るナオコとミサト。
しばらくの間の後、ナオコが声を漏らした。
「これは・・・・リツコ?」
突如ナオコは立ち上がると階段を駆け上がり出した。
もちろん目指すのは三階にある理科室だ。
ミサトがうろたえながらあたふたと追い掛けた。
(あ〜ん、リツコ・・・またやっちゃったの?)
三階にたどり着いた二人の目にまず入ったのは、所々にくすんだ灰色の粉が擦り付けられた壁だった。
さっきの蛾の羽の色と同じもの。
更に床一面には粉だけでなく千切れた羽のかけらと思われるものがぱらぱらと落ちていた。
当惑の表情で羽のかけらを辿りながらナオコは呟いた。
「いったい・・・何匹いるの?」
(な、何匹って!・・・あんなのが何匹も?)
心の中でナオコに突っ込みつつミサトは理科室の方を見た。
「あら?あれは・・・」
「いや・・・いや・・・うう・・」
今だ錯乱状態から抜けきっていないマヤは廊下で泣きじゃくっていた。
正座しているヒカリのヒザに顔をうずめながら。
ヒカリ自身恐怖で混乱状態だったが、マヤにここまで取り乱されると嫌でも冷静にならざるを得なかったのだ。
「マヤ、もう大丈夫だから・・・私がついているから・・・・」
「うううう・・・うぐっうえっ・・・」
泣き止む様子のないマヤを見下ろし後頭部を母親のようにヒカリは撫で続けている。
その時ヒカリの耳にうろたえ気味の声が聞こえた。
「あ・・あなた達どうしたの!?」
振り向くと声の主であるミサトとナオコがこちらに駆け寄って来るのが見える。
ヒカリの元にたどり着くと、開口一番ナオコは問いかけた。
「いったい何があったの?!」
ヒカリは俯いたままでマヤの頭を撫でながらぽつりと言った。
「物凄く・・大きな・・・蛾の・・・・・・大群です」
「たいぐん?!」
1オクターブ上がった声で聞き返すナオコの表情が驚愕に引きつっていた。
どうやら娘は母の予想を遥かに上回る事をしでかした様だ。
こんな事件を娘が引き起こしたのが表ざたになったらえらい事になる。
その責任は自分はおろか学校全体にも及ぶのは間違いない。
ナオコの額に冷たい汗がつたい落ちた。
(お、お、落ち着いて・・・・まだ詳しい事情は聞いてないわ。リツコがやったという具体的な証拠があるのか確かめないと!)
努めて冷静を装い、問い続ける。
「その蛾の・・・大群を見た時の事を教えてちょうだい」
「理科室に行くため・・・階段を昇ってたら・・マヤの悲鳴が聞こえて・・・それで急いで三階まで来たら、マヤが廊下を走って来て・・・そうしたら後ろから蛾の化け物が物凄い数で飛んで来たんです!・・・もう、びっくりして床に伏せて・・・蛾がいなくなるまでそうしてました」
「そうだったの・・・」
話を聞き終わったナオコはヒカリの証言では、この事件がリツコの仕業であるという決定的な証拠にならないと判断した。
もちろんこんな事しでかすのは娘以外いないと確信していたが。
理科室のある階に行くと蛾の大群に出くわしたというだけだ。
となると問題はマヤの方だろう。
彼女がどれだけ知っているかが重要になる。
「伊吹さん、何があったか教えてくれないかしら」
問いかけながらナオコがうずくまっているマヤの背に手を置いた。
ぱしんっ
置かれた手が勢い良く弾き飛ばされた。
驚くナオコをヒカリが怒りに満ちた瞳で睨み付けていた。
ナオコの手をはじいた手をマヤの背に置き、優しい手付きで撫でながらヒカリは声を荒げる。
「こんな状態のマヤに何を聞くんですか!誰のせいでこの子がこんな目にあったと思うんです!?」
「いえ、だ、だからそれをはっきりさせる為に・・・」
「誰だかはっきり分かってるでしょ!」
「洞木さん、何事も推測だけでは結論は出せないの。だから具体的な裏付けが必要なのよ・・」
「そんな事言ってリツコ先生をかばう気なんでしょ!?自分の娘だから!!」
「う・・・そんな事は・・」
遠慮のないヒカリの追求にたじたじになってしまうナオコ。
その様子をあっけに取られてながめているミサト。
(洞木さんって・・・なんでこうも教頭に対して強く出れるの?しかも教頭びびってるじゃない!あの泣く子も黙るナオコ教頭よ?)
怒りにまかせてヒカリが更に責めの言葉を言おうとした時、膝元から呻くような声が聞こえてきた。
「うう・・・どうして・・・あんな事を・・・」
「マヤ!」
自分の膝の上で涙をこぼしながら苦悩に表情をゆがめているマヤに、心配そうに顔を近付けるヒカリ。
ヒカリを警戒しながら後ろからそお〜っとナオコが聞いた。
「伊吹さん、何があったの?」
「・・・・・・センパイに・・・会って・・・話をしたかった・・・・なのに・・・うう・・・・・理科室に行ったら・・・・準備室から・・・・・・・・蛾が!蛾が!いやあ〜〜!!センパイ、どうして・・・いやああああ〜〜!!」
悲鳴をあげるマヤをヒカリは必死に抱きとめ落ち着かせようとした。
「マヤ!しっかり!大丈夫、大丈夫よ」
一方ナオコは動揺しきった表情で床にひざまずいてしまった。
マヤの証言はこの事件がリツコによって引き起こされた人災だという事を証明してしまったのだ。
証拠さえなければなんとかごまかし切る可能性もあるかもと思っていたのに・・・・
このままではリツコや自分が責任を取れば済まされるレベルではなく学校全体の汚点となってしまう。
来年の遷都に向けて流入して来る生徒の受け入れ口として、この学校のはたす役割は重要という今この時に、こんな事件で世間のさらしものになったら・・・・
精神的に追い詰められたナオコは完全に気が動転してしまっていた。
「伊吹さん、お願い!この事は誰にも言わないで!内緒にしておいて、お願い!!」
その瞬間ミサトは信じられない光景を目撃していた。
ナオコがマヤに対して廊下に額をこすり付けていたのだ。
(ど、土下座・・・・教頭が土下座してるぅ〜!!)
「一生のお願い!こんな事が公になったら・・」
必死に哀願するナオコだが相変わらずマヤはヒカリの膝でむせび泣くだけで周りの状況など全く見えてはいない。
「何を言ってるのよ!!」
激しい怒号がナオコの頭上に落っこちた。
ナオコが顔を恐る恐る上げると、激情に身を震わせるヒカリの魔神の様な形相が見下ろしている。
その目は完全にイっていた。
「マヤがこんな酷い目にあってるのに黙ってろですって!?犠牲になれって言うの?リツコ先生を守るため?ふざけないでよ!!」
ヒカリの怒濤の口撃にナオコは縮み上がり成す術もない。
「昨日だってそうよ!マヤが制服着ていただけであれだけ怒ってたくせに!リツコ先生の実験の事は何もとがめないで・・・・」
「そ、その事はもう不問にしたでしょ・・・」
「それで済んだと思ってるの?!見てよマヤを・・・昨日の事とっても気にしてたのよ・・・だからこんな格好して来たのよ!こんな野暮ったい不似合いな服着て・・・・なのにリツコ先生はやりたい放題で・・・今日だってあんなとんでもない事しておいて、またこの子に犠牲になれなんて・・・不潔よ!マヤが可哀想すぎるわ!!」
「わ、分かったわ・・・伊吹さんには悪い事をしたわ。もうとがめたりしないから。伊吹さんのやりたいようにやって良いから。制服でもなんでも着て来てかまわないから・・・」
媚びた口調で哀願するナオコの言葉にヒカリの表情が一瞬揺らぎを見せた。
「だから!この事を口外しないで!お願い!!」
「・・・・・今の言葉本当ね?!」
低い声で念を押すヒカリ。
「ええ、もちろんよ!」
「・・・・・・・分かったわ、今回だけは許してあげる」
「あ、有難う〜洞木さん〜!!」
コメツキバッタのようにへこへこ頭を下げているナオコをどっしりと腕を組んで見据えているヒカリ・・・・その様子を傍観しながらミサトは投げやり気味に呟いていた。
「この二人・・・・自分が今何やってるのか分かってるのかしら・・・二人とも蛾の毒にでも当たって正気を失っちゃったんじゃない?知〜らないっと!」
屋上に出たレイの目にまず入ったのは、ドアの付近に転がっている長さ2m程の赤茶けた数本の鉄骨だった。
随分前から屋上に置きっ放しにされていた物で、この錆び付いた鉄骨をつっかえ棒にしてドアをふさいでいた事は容易に想像がつく。
「あんまりやかましいからちょっと様子を鍵穴から覗いたのよ。そうしたら蛾と一緒に貴方達が倒れてるのが見えてね。それで仕方なくドアを開けたの」
喋りながら前を歩く白衣の背中にレイは向き直った。
彼女の歩く方にとことことついて行く。
ぱたぱたぱた・・・
背中の羽はまだ付いたままだ。
リツコが給水塔の前で足を止めた。
そこにある物を見てレイが驚きの声をあげた。
「あー、それ!」
給水塔には直径1mちょっとの金色の玉がぶら下げられていた。
「くす玉だー!!」
冷静な口調でリツコは答える。
「そうよ。体育館の倉庫から取って来たのよ。これだと屋上まで転がして運べるからカゴを使って運ぶより楽だしね」
「?」
首をひねるレイ。
「ええ。ただ全部は入り切らなかったけど。残りは置いてきたけどまさか逃げ出してたとはねえ。そう言えば戸締まり忘れてたわ。もうそんなのどうでもいいと思ったから・・・・」
リツコは空を見上げた。
抜ける様な青空には雲一つなく、朝の太陽がぽっかりと浮かんでいるだけ。
リツコの瞳が憂いを込めたものに変化した。
「いい天気ね・・・・・・・・小学生の頃運動会の開幕式の時にくす玉が割れて中から鳩が飛んで行くのを見た事があるわ・・・・今日みたいな良い天気でね・・・・空に吸い込まれる様に飛んで行った。その後位ね。カイコを6齢にする実験があると母から聞いたのは・・・・・その時ね、私が夢を抱いたのは・・・・・」
レイはくす玉に再び目をやった。
良く見ると風もないのにくす玉は微妙に振動していた。
まるで生きてるみたいに。
「・・・・・あー!!もしかしてそのくす玉の中に・・・カイコが!!」
「違うわ。カイコじゃないの。クワゴよ」
「クワゴ?」
「そう。カイコの原産種。言わば親戚ね。カイコじゃ私の夢が叶えられないからクワゴにしたの」
「ほえ?」
「・・・・・カイコってのはね・・・人が生糸を欲するために作りし品種なの。ただ糸を吐き続けていればそれでいい。そのために品種改良が続けられ、その結果カイコは自力で生きて行けなくなった。人に飼われてないと餌も食べる事が出来ない。そして成虫になっても羽があるのに・・・・・飛べないのよ!!」
リツコの顔に微かに痛みの表情が浮かんだ。
「わー、なんだかひどーい」
「・・・だからクワゴを使う事にしたの、私の研究に」
リツコはくす玉に歩み寄ると玉の下に垂れ下がっているヒモに手をかけた。
「さあ、お行きなさい」
ヒモがぐいと引っ張られた。
がばっ
金のくす玉が真っ二つに割れると、中から灰色の塊が爆発的に吹き出した!
ばさばさばさばさばさばさばさばさばさばさばさっ
閉鎖された空間から解き放たれた巨大蛾の集まりは天を目指して一直線に伸び上がっていく。
その有り様をリツコは瞬き一つせず見上げている。
さっきレイを追い掛けまとわり付いた蛾の群れの何倍もの量の蛾が、屋上から空へと灰色の柱を作っていった。
「うわー、すっごーい!!」
感嘆の声をあげながら紅い両の瞳を輝かせ、レイは巨大蛾達の柱を見上げていた。
呼応するように背中の蛾もぱたぱた羽を動かしている。
その時、空に伸びる柱の先端に異変が生じた。
「あれーなんだろ?」
先端が二つに別れ出したのだ。
二つに引き裂かれた蛾の群れの片割れがUターンしてこちらに向かって引き返して来た。
「これは・・・何が起きたの?」
いぶかるリツコをよそに、戻って来た蛾の群れはレイめがけて襲い掛かった。
ばさばさばさばさばさ・・・・・
「ありゃー?・・・・」
レイの体がどんどん蛾の群れに埋め尽くされていく。
あっという間にレイの体は膨れ上がり、巨大蛾で出来た着ぐるみが出来上がってしまった。
興味深そうに観察するリツコに蛾の着ぐるみが体をわさわさ揺らせながら問いかけた。
「リツコ先生、私さっきも蛾がいっぱい体に集まってきたんだよー!もしかして私好かれているのかなー?」
「う〜ん、どうなのかしら・・・」
リツコは目の前に突っ立っている蛾の塊を注意深く調べる。
「この蛾達・・・・なんだか貴方というより貴方の背中を中心に放射状に群がってるわ。そう言えば貴方背中に蛾が一匹ついてたわね?」
「え?うん」
蛾の塊が太っとい腕を背中の中に突っ込み、ごそごそし出した。
やがて一匹の蛾が背中から取り出された。
残る手で顔に張り付いた蛾をぬぐい取り、レイは持っていた蛾をじっと見つめた。
レイはこの蛾に見覚えがあった。
「あっこれ私が最初に捕まえた蛾だー」
蛾の尾っぽが潰れて黄色い体液が漏れ出ていた。
「私が捕まえた時、強く握り過ぎてお尻が潰れたんだよねー」
レイが喋る間にもその蛾に他の蛾がわらわら群がろうとしている。
その様子を見てリツコがぽつりと言った。
「その蛾・・・・・・・メスね」
「えっ?」
「羽化したばかりだというのに、もうフェロモン出してるのね。その蛾・・・」
「ふぇろもんってなーに?」
「オスを引き付ける匂いを発する物質よ。お尻が潰れて体液が出てるから、体液に含まれたフェロモンも沢山体外に出ちゃった訳ね。それでオスが群がったのよ」
「ふ〜ん・・・・じゃあ私が好かれてた訳じゃないんだー・・・・・」
少しがっかりとした表情になるレイだが、それでも自分の体にいじらしいまでにまとわり付いている蛾の群れにまんざらでもない気分だ。
リツコは再び視線をレイから空を飛び去って行く蛾の群集に移した。
たぶんその殆どがメスなのだろう。
「・・・・・これを見るために・・・・二十年もの時を費やしたのね・・・・」
感慨深い表情で呟くリツコに嬉しそうに言うレイ。
「ほんっとに凄い研究だよねー!先生の言う通り夢があるよ、夢が!!」
「・・・・・夢、か・・・そう、私にとってはね・・・・クワゴは人の都合で生糸を吐く以外の事を必要とされなくなり、カイコに作り替えられた。そして今度は巨大化させておいて飛べないからってまたクワゴに乗り換えて・・・・全部人の、私の勝手な都合・・・・彼ら自身の都合など考えない・・・・・利己的な夢なのよね・・・・・・・それでも・・・」
空に消えて行く蛾の群れをはかな気な眼をして見送り続けるリツコの目に一筋の涙が零れ落ちた。
「これで終わったのね・・・・・・ありがとう・・・・そしてさようなら・・・・」
「ほえ〜・・・」
白衣を身にまとった金髪の女教師と灰色の巨大蛾を身にまとった少女は、しばらくの間身動きひとつせずに空を見上げているのだった・・・・・・
この後、午前中の授業は校舎に残っていた巨大蛾を駆除するために潰れてしまった。
その間保健室は精神的なダメージを受けた生徒達が大量に運び込まれ、混乱状態になった。
誰もが犯人をリツコと認識していたがナオコはこの事件を原因不明の天災とし、そのためにナオコは証拠隠滅に奔走する事となった。
結局巨大蛾騒動はうやむやの内に終結を見たのだった。
第九話完
おまけ
「本当にごめんなさいね・・・」
「ううん、私はいいのよ。遠慮なんかしないで!水臭いじゃない」
ヒカリは伏し目がちのマヤに努めて明るく笑って見せた。
二人は今ヒカリの部屋のベッドに肩を並べて腰掛けていた。
ヒカリはチャイナ風の襟元が可愛いピンクのパジャマ姿だった。
「ありがとう、ヒカリ・・・」
弱々しく感謝の言葉を漏らすマヤもヒカリとおそろいのパジャマを着ていた。
ヒカリの姉のコダマが去年まで着ていたものを譲り受けた、いわゆる『お下がり』だった。
その割にはまるであつらえた様にマヤにぴったりのサイズ。
見た目も可憐で実に似合っている。
巨大蛾に襲われた時の恐怖と、それが尊敬するリツコによるものだというショックのダブルパンチでマヤは今だ精神的に立ち直れていなかった。
ヒカリに付き添われてやっと下校してきたものの、一人になるのが恐ろしくて結局ヒカリの家までついて来るしかなかったのだ。
「でもヒカリの御家族にまで御迷惑かけちゃって・・・申し訳なくて・・」
「だから気にしないで!うちのみんなもマヤの事とても気に入ったみたいだから。マヤが手伝ってくれた夕飯、みんなお世辞抜きでおいしいって言ってたじゃない」
「うん・・・」
「だから遠慮なく泊まっていけばいいの!」
確かにマヤはヒカリの両親や姉妹に歓迎され、非常に好印象を持たれたようだ・・・・・ヒカリの級友として。
さすがに自分は教師だと言い出す根性はなかった。
家に帰って一人で夜を過ごす勇気もないマヤは、ヒカリの計らいで洞木家に泊めてもらう事になった。
「さあ、そろそろ寝ましょう。明日はうちから学校に登校すればいいわ」
「ええ(うう、通勤じゃなくて登校なのね)・・・」
ヒカリはマヤを促し、そろってベッドに横になるとシーツをかけた。
ベッドはヒカリ一人にはかなり大きめだったので、体を寄せ合えば二人でも十分だった。
壁際のスイッチに手を伸ばし、ヒカリは明かりを消した。
ぎくっ
マヤの体が一瞬びくつく。
暗闇が不安を呼び寄せ今朝の悪夢を蘇らせそうになる。
そんなマヤの気持ちを察してかヒカリがマヤの頭を自分の胸元に引き寄せた。
なすがままにヒカリの小さな胸の膨らみにマヤは顔をうずめた。
「ヒカリ・・・・」
「安心して。私がいるから・・・・」
慈愛を込めてマヤの首筋を撫で始めるヒカリの手。
ヒカリの情が穏やかに身体に流れ込み、マヤの不安が癒されるように縮小していった。
「・・・・・・ありがとう・・・ヒカリ」
小さく囁くとマヤはそっと眼を閉じた。
しばらくヒカリはそのままの状態でマヤを撫で続けていた・・・・
・・・・・やがてヒカリの胸元に微かな寝息が伝わってきた。
暗がりに慣れたヒカリの目が眠りについたマヤの顔を見た。
安らかな寝顔に彼女特有のあどけなさが浮かぶ。
「ふうっ・・・悪い夢は見ていないようね」
安心したヒカリに母親のような笑みが宿る。
「うふっ♪なんだか妹が一人増えたみたいな気分・・・・」
首筋を撫でていた手を頬に移動させ、しばらくそのふっくらした弾力を楽しむとヒカリは静かに目を閉じた。
やがて二人分の可愛い寝息が暗がりに小さく二重奏を奏でていった・・・・・
その後、マヤはしばらくの間ヒカリの家で寝泊まりする事になる。
レイは自分の部屋で畳の上に寝転んでいた。
両肘をつき顎を手に乗っけて、にやけた顔で前を見つめている。
「えへへへへ・・・・」
彼女の前にはそれまでこの部屋には無かった立方体の形をした鳥カゴが置かれてあった。
ここまで言えば中に何があるのかは説明するまでもない。
当然カゴの中には例の巨大蛾が二匹いた。
ただこの蛾の様子が少し普通の状態とは違っていたのだ。
二匹の蛾の尾っぽの部分同士がしっかりと繋がっている。
これがどういう意味をもつのかレイはリツコから聞いていた。
「交尾かー・・・」
二匹の蛾は雄と雌であり、本能に基づき子孫を作る作業を行っていたのだった。
レイはこれまでウシガエル、アカヤモリ、アメリカザリガニ、アオダイショウなど色々と生き物を飼ってきたが子供を作るまでに至ったものはなかった。
それだけに目の前で交尾中の彼ら対する期待感でレイの胸は踊っていた。
「どんなのが生まれるんだろ?楽しみだねー!くくくくく・・・・」
生まれて来る蛾の子供の姿に思いを馳せ、レイは笑いを噛み殺していた。
レイの期待に答えるかの様に尾っぽを接合させた二匹の巨大蛾は、激しく灰色の羽をばたつかせて子作りに励んでいた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
アスカは床に体育座りして視点の定まらない目を投げかけていた。
付き合うようにシンジも隣でぼんやりと座っている。
さっきからこの部屋は沈黙が支配していた。
学校での巨大蛾騒動の後、身体を引きずる様にして帰宅した二人だったが精神的ダメージは余りに深かった。
食事もろくに喉を通らず、だからといって自分の身に起きたとんでもない出来事を親に向かって吐き出す気にもなれず、結局事態を知ってる者同士で固まるしか思いつかなかったのだ。
そんな訳でアスカはシンジの部屋に訪れた。
しかし会話はない。
今日起きたおぞましい出来事について話すなんて絶対したくない。
だからといって全然関係ない話をするのは余りに空々しい。
頭の中は忘れようとしてもこびりついて離れない悪夢の記憶が占拠しているのだ。
だから二人は言葉を失ってしまった。
それでも一人で心を怯えさせているよりはいい。
二人きりでいて何の会話もしなくても、お互い特に気まずい気持ちにならない間柄である事が、シンジとアスカにとっては幸いだった。
蛾の大群に襲われた時アスカがシンジを捨て石にしてでも助かろうとした事も、シンジが情けなくアスカに頼ろうとした事も、気にするどころか記憶にとどめる価値すらなかった。
二人は何をするでもなく、ただただ時間だけが無造作に流れて行く。
時刻はいつの間にか十時を回っていた。
いつまでもこの状態でいる訳にもいかなかった。
そろそろアスカは戻らねばならない。
ヒカリとマヤのように部屋に泊まり込む事など出来るはずがない。
アスカが重い気持ちと身体を仕方なく持ち上げようとした時、沈黙が唐突に破られた。
がちゃんっ
はっとする二人はそろって音のした方向を見て、次に顔を見合わせた。
音はおそらくバルコニーの方からだろう。
アスカは様子を見に行ったほうが帰る時間を少しは遅らせる事ができると思った。
「・・・・いってみよっか?」
「うん・・・・」
二人は立ち上がると部屋を出て行った。
ダイニングキッチンに出ると流しで洗い物をしている母の背にシンジが声をかけた。
「なんか音したよね?」
興味なさそうな返事が返ってきた。
「さあ、何かしら?」
「見て来るよ」
「ええ。それよりシンジ、お風呂に早く入りなさい。アスカちゃん、まだいいの?」
「あ、はい、もうすぐ帰りますから・・・」
ダイニングキッチンを通り抜け応接室に入ると、風呂上がりの寝巻き姿で父がソファーにもたれ新聞紙を読んでいた。
ここのガラス戸の向こうがバルコニーだ。
一応声をかける。
「父さん、ここで音したね?」
「うむ」
生返事が返っただけ。
だめだこりゃ、と思いつつ戸を開いた。
外に出た二人はバルコニーの様子を見た。
まず目についたのはひな壇状に並べられた10を越える花壇の鉢。
「・・・・・あれ?」
シンジは最下段の鉢のひとつが倒れて割れているのを発見した。
「これの音だったのかな?でもなんで割れたんだろ?」
「さあねえ・・・・」
なんとなく相槌を打つアスカの髪にちょろちょろと触れる物があった。
「ん、なに?」
振り向くと取り込み忘れたのか物干竿に一枚だけTシャツがぶら下がり、ゆらゆらと揺れている。
これが髪に触れていたのだ。
アスカの見守る中、ハンガーに掛けられたTシャツは揺らめきながら横に回転を始めた。
Tシャツがアスカの眼前で裏側を見せた。
裏側なのに表より大きなプリント模様が・・・・・
いや、これはプリントではない。
Tシャツに張り付いていたのだ・・・・今アスカの一番見たくないものが!
「・・・・ぎゃ〜〜〜〜!!」
ばさばさばさっ
灰色の巨大蛾がシャツから身を羽ばたかせ、アスカとシンジに迫る。
「いや〜!!」
「うわ〜!!」
強烈な悲鳴をあげてアスカとシンジは部屋に駈け込んだ。
光を求めて巨大蛾も二人の後に続く。
「む?どうした」
ただならない騒ぎにゲンドウは新聞をさげて眼鏡を光らせる。
いきなり彼の視界に灰色の羽が広がった。
ばこっ
「うお!?」
眼鏡が吹っ飛んだ。
「な、なんだ〜!?」
「きゃ〜!!」
「うわあ!」
悲鳴の飛び交う中、蛾は鱗分をまき散らしながら部屋中を縦横無尽にばさばさ飛び回る。
「あら、何かしら?」
隣の部屋で洗い物をするユイはいぶかりながらもタワシでまな板を擦る手を止めない。
こういう時はこちらから首を突っ込まないのが得策だ。
ほっておこうと思った途端、こちらに踏み込む足音がした。
「ユ、ユイ!!」
「あら、あなた、何?」
仕方なく振り向く。
「が、蛾だ!でっかい蛾だ!!」
と叫ぶ夫の顎ヒゲに当のでっかい蛾が羽を広げてぶら下がっていた。
「!・・・・・きゃあああ〜!!」
絶叫と共にまな板とタワシが飛んだ。
ごんっ
「ぐおっ!」
命中直前に蛾は顎ヒゲを離れ、まな板がゲンドウを直撃した。
飛び立った蛾はユイに向けて突進する。
「い、いや〜!!」
取り乱したユイは置いてあった包丁を掴むと迫り来る蛾に向かって滅茶苦茶に振り回し出した。
「いや、いや〜!いやいや〜!!」
ぶんぶんぶんっ
ばさばさばさっ
「ユ、ユイ、言っておくがそれだけは投げんでくれ〜!」
びゅんっ!
言った途端に包丁が飛んで来た。
どすっ
「ぐわあああ〜!」
「ひい〜!」
「きゃ〜!!」
「うわああ!!」
ばさばさばさっ
この後騒ぎを聞いて駆け付けたアスカの両親も巻き込んで事態は混乱の極致を迎えるのだった。
この日第3新東京市のあちこちで巨大な蛾が出没し、市民を恐怖のどん底に陥れたという。
「ふふふふ・・・母さんは二度とこんな実験やるなって言ったけど、完成した実験をもうやるつもりはないわ。理科準備室ではね・・・・それに私は新しい夢を探さないといけないもの。そう、これまでよりもずっと凄〜い夢をね・・・・・・ほ〜っほほほほほほほほ」
おまけ完
次回予告
怒りが渦巻き怒号が響く。
それでも手を出してはいけません。
たとえそれが相手のせいでも。
どれだけむかっ腹が立とうとも、どれだけ神経逆撫でされようとも、どれだけ許し難い事を言われても。
ものには時と場合というものがあるのです。
ど突きた〜い!、ど突けな〜い・・・・・
アスカははたして怒りの拳を収めるだけの心の制御ができるのだろうか?
次回大ぼけエヴァ、
第拾話
殴らないでー
次回も、
「我慢、我慢・・・・・・って我慢できるか〜!!」
という事でかなりベタな話でした。
最初は話を日常編と非日常編に分けてやろうかと思いましたが、日常編がいいネタをひねり出せずこんな形となりました。
久々にレイを暴れさせたのですが巨大蛾という非現実的な話で・・・・
それなりにリアリティ持たせたかったのですがうまくはいかんなーこら。
クワゴの色は灰色としたけど実際は知らな〜い。
余談ですがどうもマヤとヒカリの不潔ペアに気がいってしまい、話に微妙に影響しております。
笑ってもらうための大ぼけっちゅう原点を忘れないようにせな・・・・・
ver-1.00 2001!05/06公開
御意見御感想その他諸々は、m-irie@mbox.kyoto-inet.or.jp まで。返信率十割のはずです。