昼下がりの校庭。
普段なら昼食を済ませた生徒達であふれ返る時間だが、今は人の姿は見当たらない。
何故なら今日は日曜だから。
そして遊ぶ者がいないのをこれ幸いとこの場所を占拠し、練習に明け暮れる熱心な運動部員も学校に訪れる事はなかった。
何故なら今日は雨だから。
空全体を灰色で被い尽くした雲が、朝からずっと大降りとも小降りともいえない中途半端な雨を変化なく降らせ続けていた。
今、この第壱中に生徒が寄り付く理由は何もない。
そう、生徒に関しては。
陽光を閉ざされ雨に煙る校舎に、不必要な照明が灯される事はない。
そんな中唯一、一階のとある部屋の窓から明かりが漏れ出ていた。
職員室だ。
窓から向き合った二つの人影がのぞいている。
二人とも背筋をぴんと伸ばして立っていた。
一人は威厳をにじませつつ、一人は緊張を隠しきれず・・・・
人影はそのしなやかなラインから両方とも女性のものと分かる。
今日この学校にいる人間は彼女達だけだ。
彼女達にはこんなぐずついた天気の休日にわざわざ学校に来なければならない理由があるのだろうか・・・・?
「伊吹さん」
「はい!」
「明日から伊吹先生ですね」
「はい!」
「そんなに硬くならなくてもいいのよ」
「あ、はい・・・」
伊吹と呼ばれた女性は肩を落とした。
本人は力を抜いているつもりだが顔に浮かぶ緊張感は消える気配がない。
彼女の姿は清潔感のある白いブラウスに紺色のタイトスカート。
やや細身のボディに少しふっくら目の顔が乗っかっている。
先生と呼ばれるには違和感を感じるくらいのあどけなさの残る、いわゆる童顔だ。
ナチュラルな色の黒髪はこれも清潔感のあるショートヘア。
彼女のフルネームは伊吹マヤ。
年令は24才。
マヤに相対する紫のスーツをぴしりと着こなした中年の女性。
実際には50を越えているのに、その姿から発散される雰囲気は実に若々しい。
仕事に情熱をそそぐ者特有のエネルギーを感じさせる人だ。
彼女はこの第壱中の教頭であり訳あって不在の校長の代行も勤める、つまりこの学校の実質最高責任者である赤木ナオコ教頭である。
ナオコは明日からこの学校に数学教師として採用される事になったマヤを呼び出していたのだ。
彼女の人間性を確かめるため、そして彼女に教師としての心構えを伝えるために。
ナオコはマヤの緊張感を和らげるために出来るだけ穏やかな口調で話し掛けた。
「伊吹さん、知っての通りあなたには2年A組の副担任をやってもらいます・・・・これだけは言っておかねばならない事だけど、教師はただ生徒に授業を教えればいいというものではありません。教科書に書かれている事が全てではない。時には人生の先輩として生徒を教え導かねばならない時もあるのよ。わかっていますか?」
「・・・はい!」
マヤは目を輝かせて返事した。
自分の身体が感激に打ち震えているのが解る。
この人は教師という仕事をただの生活の糧と考えている輩ではない。
真剣に生徒と接する覚悟を持ち合わせた本物の教師なのだ。
(やっぱり思った通り素晴らしい人だわ!なんてったってセンパイの母親なんですもの!)
いとも簡単に感動の世界にトリップするマヤの心をナオコの声が現実に引き戻した。
「伊吹さん。生徒はまだ子供とはいっても一人一人が人格をもった人間です。あなたはそんな生徒達にどのように向き合い教えようと思っているのか、聞かせてもらえないかしら?」
ナオコの問いかけにマヤの表情が再び緊張に引き締まる。
今日ここに呼ばれたのはそれを聞くためだったのだろうか?
急な質問のためマヤはすぐに考えをまとめる事ができなかった。
どう答えればいいのだろう?
とにかくいい加減な事は言えない。
「・・・・・あの、私は、」
緊張が頂点に達した時、うわずった声が漏れ出た。
自分でもよく分からぬまま、夢中で彼女は言葉を紡ぎ始めた。
「私は、教師としての有り方を、これから学ばねばならない立場です・・先輩の先生方の様な、経験もありません。自分がまだまだ未熟なのは分かっています、教師としても、人間としても・・・・でも未熟なら未熟なりにがんばらなきゃいけないと思うんです!私のような未熟者が生徒を導くなんておくがましいと思います、だけど、だけど何か問題が起きた場合には、生徒のみんなと一緒に考え、悩み、答を探す事はできると思います!生徒と同じ目線に立って物事を見てみる事も必要かと思います、というか、若輩者の私にはそれくらいしかできないのかもしれません・・・」
一気に喋り終えたマヤは切れかけた酸素を補給するため、出来るだけ気取られないように小さく息を吸い込んだ。
呼吸を整えつつ目の前の教頭の顔色をうかがう。
毅然とした表情でナオコはマヤを見据えていた。
「・・・・伊吹先生!」
「はい!」
ナオコの両手がマヤの両肩に添えられた。
びくんとするマヤを見るナオコの口元が僅かに微笑んだ。
「あなたの考えは分かりました。あなたはとてもピュアな心の持ち主のようね。その気持ちを忘れないように。明日から一生懸命頑張りなさい!失敗など恐れる必要はないから」
「は、はい!・・・有難うございます!」
折りたたむようにおじぎをするマヤの心はすでに舞い上がっていた。
(やった!なんとか認めてもらえたみたいね!よかったぁ〜・・・)
ピンク色のビニール傘を広げるとマヤは校舎を出た。
うっとうしい空模様も気にならないほど彼女の心は浮き浮きしている。
明日からこの学校に毎日通えるのだ。
そう、あの人と同じく。
自然とにんまりと顔がほころぶマヤの脳裏に、あの人、の姿が浮かぶ。
(待っててください・・・・センパイ!!)
空を振り仰ぐ。
半透明のビニール傘にぽつぽつと跳ねる雨粒・・・そして灰色に広がるよどんだ雲。
「今日はあいにくの天気だけど、明日はきっといい天気になるわ。私とセンパイの久しぶりの再会の日なんだから。そう、明日は素晴らしい日になるのよ・・・・スバラしいい日に!!」
大ぼけエヴァ
第八話
ハズカ・しいい日
青々と広がる空にはカラっと輝き渡るお日様だけが陣取り、雲のくの字も見当たらない。
昨日までの雨模様がまるで何かの気の迷いだったかのように。
僅かに路面の所々に残った小さな水たまりが前日の雨の名残りを残していた。
恐らくこの街に住む人の大部分が今朝はさわやかな朝だと感じているだろう。
そして今、街路樹の連なる壱中への通学路を足取りも軽く歩いている彼女にとっても・・・・
「やっぱり晴れたわよね、私の初出勤の日だものね!」
笑みを隠し切れないマヤは昨日と同じく清潔感のある格好だった。
白の半袖ブラウス、そしてスカートは若草色。
初夏の朝に似つかわしい、さわやかな着こなし。
ただ、右手にぶら下げているのはピンク色のカバン。
角の丸っこいデザインで端っこには数年前流行ったキティマウスのプリントがある。
とても可愛いカバンだが教師が持つには、かなり幼いと言わざるを得ない。
「・・・・もうすぐね」
マヤは十字路を右に曲がった。
視界に校舎が入る。
マヤの胸が徐々に高鳴っていく。
やがてマヤは二車線の道路を挟んで校門の前まで辿り着いた。
一旦足を止めて、校舎を見上げる。
暫く見続けた後、彼女は大きく息を吐いた。
「ふ〜、やっと来れたわね・・・長かったあ〜・・・・」
やけに言葉に実感がこもっていた。
無理もない。
大学を卒業してから二年もの間待ち続けて来たのだから。
尊敬する先輩と同じ学校に勤めるために。
そこまでする程マヤにとって赤木リツコという先輩は偉大な存在だったのだ。
マヤがリツコと初めて出会ったのは彼女が大学に入学して間もなくの事だった。
その頃リツコは大学院生だった。
この大学は院との交流が活発なためマヤとリツコが接する機会はいくらでもあったのだ。
初めてリツコに出会った時マヤはその人並みはずれた才能に衝撃を受け、リツコに心酔してしまった。
ことわっておくがその初対面の時、リツコは実験をしていた訳ではない。
幸か不幸か実験の時の狂喜の入り交じったリツコの姿をマヤは最初に見なかったのだ。
一度心酔してしまうとマヤは盲目的になる傾向にあり、後で実験の際のリツコの物凄さを見てもそれらをことごとく好意的に解釈してしまう。
実験中のリツコの危機迫る表情を見ても、
(センパイはそこまで研究に打ち込んでいるのだわ・・・素敵!)
と、いった有り様だった。
そんな訳でマヤはリツコにいつも金魚の糞のように付いて回る大学生活を送っていた。
マヤが三回生になった頃リツコは院を出て、とある研究所に就職した。
一年後リツコが中学校の教師に転職したと聞いた時、マヤは自分も教師になろうと心に決めたのだった。
しかもリツコと同じ中学校の教師に。
すべてはセンパイと一緒にいたいがゆえの決意だった。
元々教職過程は取っていたので教師の資格はたやすく取れた。
しかし、たやすくなかったのは卒業後に自分の希望する学校に勤められる保証はない事だ。
先輩であるリツコのつてを頼ってなんとかしようとしたが、事はそうはうまくはいかない。
結局壱中にマヤは行く事ができず、かといって他の中学に勤める気持ちになれなかったマヤは就職浪人をするハメになった。
採用されるあてもなく、ただ数学教師の空きが出る事を願い待つ毎日。
卒業と同時に家族の仕送りも無くなり、マヤは生活に窮した。
バイトをしながら切り詰めた生活を送り、そのためマヤは体重が数キロ減ってしまった(の割に顔は相変わらずふっくらした童顔のままだったが)。
精神的にも追い詰められながら、それでもマヤはじっと待ち続けた。
そして遂にそんな辛い暮らしに終わりを告げる時がやって来た。
壱中の数学教師の一人が一身上の都合で退職する事になったのだ。
マヤはその教師が抜けた代わりに採用が決定した。
こうしてとうとう彼女は念願の学校に勤める事がかなったのだった。
交錯する思いを胸に感無量といった表情で学校を見上げるマヤ。
「・・・・・いけない、突っ立っている場合じゃないわ。早く先生方に挨拶しないと。センパイ、今行きます!」
マヤは歩道から足を踏み出そうとした。
その時マヤはつま先に何かが接触するのを感じた。
かつんっ
「?!」
驚いて足下を見ると自分の片足が銀色の金属製の物体に引っ掛かっているのが見えた。
それが脚立の足だという事を認識する前にマヤの身体に衝撃が走った。
がたんっ
「きゃっ」
足を引っ掛けた脚立が倒れて来たのだ。
しかも脚立の上には雑巾のかかったポリバケツが乗っかっていた。
脚立からずり落ちたバケツがマヤの頭に降ってきた。
ごんっ
「うっ」
更にバケツには濁った水が入っていた。
ざば〜っ
「ひいっ」
脚立とバケツと水の三段攻撃を食らい、マヤはその場に倒れ込んでしまった。
ばたっ
「うう・・・」
地面に倒れ伏したマヤの視界は真っ暗になり、次第に意識が遠のいていく。
それでも僅かに残った意志でマヤは必死に声を絞り出していた。
「センパイ・・・・早く学校にいかなくちゃ・・・早く!・・・」
声が途切れるとマヤはアスファルト地面に顔を埋めた。
慌ただしくドアが開かれ、中から中年のおやじがかけ出て来た。
身の丈180cm位のごつい身体、顔は濃い眉毛がつながり、団子っ鼻の両脇に幅の広いもみあげがついている。
彼は店の看板を拭き終わり一服していたのだが、外でけたたましい音が聞こえたので様子を見に来たのだ。
そして今彼の目の前にはさっき看板拭きに使った脚立とバケツ、その上見知らぬ女の子まで転がっている。
「え、えらいこっちゃ!」
あまりの事にうろたえるおやじの後ろで声がする。
「あんたどうしたんだい?」
背の低いかなり太ったおばさんが出て来た。
割烹着姿で料理の途中だったらしく、片手におたまを持っている。
おばさんはおやじの見ている方に目を向ける。
「あ、あんた、これ・・・」
「置いといた脚立にぶつかったらしいな」
「なんてこと・・・」
「ど、どうする?」
すこんっ
おたまがおやじのおでこを直撃した。
「どうするってこんなとこに放っておくわけにゃいかんでしょが!早くうちに入れるんだよ!」
「あいてて・・わ、わかった」
マヤの両脇を二人がかりでかかえると彼等はずるずると引きずっていく。
そして彼等はドアを開けて店の中へと入っていった。
ドアのすぐ上にはさっきおやじが脚立に乗って拭いていた横長の四角い看板が見える。
看板に書かれていた文字は・・・・・・
学生服のオサナイ
暗闇に包まれ、何もない場所にマヤは一人で立っていた。
いったい自分はここで何をしているのだろう・・・・
そうだ、学校へ行かねばならないんだった!
そう思った時彼女の前に学校の校門がぼうっと浮き上がった。
不思議に思う間もなく校門に向かって走り出す。
しかし走れば走る程校門は近付くどころか逆に遠ざかっていく。
(どうして?私はセンパイのいる学校へ行かないといけないのに!)
焦りながら走るマヤの口から呻くような声が漏れ出る。
「学校に・・・遅れちゃう・・・早く学校に行かなくちゃ・・・・・・・はっ!」
マヤは大きく目を開いた。
まず目に入ったのは木目模様の見知らぬ天井。
「ここは・・・・?」
驚きつつマヤは上半身を起こした。
いったい何がどうなったのか。
「おお気が付きましたか!」
いきなり聞こえた声のほうを振り向くとそこには見知らぬ中年の男女が正座している。
事態の飲み込めないマヤに女性のほうが心配そうに話し掛けた。
「大丈夫ですか?すみませんねえ、うちの亭主が脚立を起きっぱなしにしてたもんだから・・・」
何を言っているのかマヤは全く理解できていない。
呆然と話を聞くのみ。
いや、それより何か大事なことがあった筈ではなかったろうか?
「・・・あっ」
マヤの脳裏に学校の二文字が走り抜けた。
「そうだ!学校に行かなきゃ!」
すっとんきょうな声をあげると慌ててマヤは腕時計を確かめた。
バッグとお揃いのピンクのバンドのキティマウス腕時計。
そんなことはどうだっていい、マヤは液晶画面の時刻を食い入るように見る。
「はちじにじゅっぷん!!」
狼狽の叫びと共にマヤはぴょこんと跳ね起きた。
もう時間がない。
早くしないと初出勤早々遅刻してしまう。
「どうしました?」
急に立ち上がったマヤに驚いたおばさんが問いかけた。
しかしマヤはそれどころではない。
床に置かれたバッグを見つけると素早く拾い、二人に向かってぺこっとおじぎした。
「すいません、失礼します」
「あ、あの、お嬢ちゃん」
おやじの声も今のマヤの耳には入らない。
出口のドアを視認すると靴をつっかけ走り出した。
がちゃっばたんっ
あっけに取られる中年夫婦にドアの閉まる音が響く。
二人は怪訝そうに顔を見合わせた。
「いいのかい、あれで?さっきまで気絶してたんだよ」
「いや、あれだけ慌てる元気があるんなら大丈夫じゃないのか?」
「そうかねえ・・・それでこれはどうすんの?」
そう言いつつ彼女は手に持った服を見つめた。
汚れた水でびしょぬれのブラウスとスカート。
マヤがここに運び込まれた時、さすがにこのままではまずいと服を脱がせて着替えをさせたのだ。
「返そうにも名前も聞いてないしねえ・・・・」
「なに、そのうち取りに来るだろうよ。自分の持ち物なんだから」
「そう・・それじゃあ洗濯して取っておくよ」
「ああ、そん時着替えも返してもらおう」
「あんなのはもういいんだけどねえ・・・・」
そう言うと彼女は立ち上がり、洗濯機のある風呂場へと歩き出した。
「ふう、あっという間の出来事だったねぇ〜・・・・」
外へ走り出たマヤの目に入ったのは脚立でもバケツでもなく学校の校門のみだった。
マヤは心を踊らせた。
「やった、こんなに近くじゃない!これならなんとか間に合うわ」
後は道路を渡るのみ。
八時半の授業開始までにこれから職場を共にする先生方に挨拶をすませねばならない。
だからマヤにとって今はぎりぎりの時間なのだ。
マヤは全速力で走り出した。
たったったったった・・・
(間に合うわ、絶対!)
彼女が道路の真ん中辺りまで来た時、異変は起きた。
くらっ
「あっ・・・・」
突如マヤの視界がゆがんだ。
走るスピードがにぶり足がもつれる。
「どうしたの?・・・」
歩を止めたマヤはふらりと道路にへたり込んでしまった。
視界がぼやけ、意識が混濁していく。
さっきの気絶がまだ尾を引いていたのだ。
(そんな・・・あと少しなのに・・・)
立とうとしても身体が意志通り動いてくれない。
彼女は今日二度目の失神を経験しようとしていた。
薄れる意識をマヤは必死に保とうと抵抗を試みる。
しかしそれもどれだけ持つか分からない。
「そんな・・学校に行かなきゃならないのに・・・誰か・・・・・・・誰か助けて!!」
決死の思いで声をしぼり出し、マヤは助けを求めた。
もう余力はない。
今の声がもし誰にも届かなかったら?
マヤの意識がフェードアウトしていく・・・・
・・・・うしたの?」
「どうしたの?しっかりして、大丈夫?」
消えかかったマヤの意識が何者かの声に揺り動かされた。
マヤの上体は、その何者かによって支えられていた。
声からいって女の子らしい。
とにかく今のマヤにとっては誰であれ救世主に等しい存在だ。
マヤは蚊の鳴くような声で自分を支える女の子に頼んだ。
「お願い・・・学校に連れてって・・・・」
「えっ?」
おぼつかない視線でマヤは彼女の顔を見た。
今の状態では顔の輪郭すらはっきり見えない。
少女から困惑に色取られた声が返ってきた。
「でもそんな状態じゃ学校どころじゃ・・」
否定的な言葉にマヤは焦る。
このままでは遅刻どころか欠勤にもなりかねない。
なんとしてでも彼女を説得しないと!
追い込まれたマヤは必死で唇を震わした。
「おねがいだから・・・行かなきゃ・・・いけないの・・・・お・おねがい!」
今にもすがり付きそうな切ない表情を浮かべマヤは哀願していた。
対する少女は黙りこくってしまった。
マヤにとって永遠とも思える沈黙の時が流れてゆく・・・・・・
・・・・・・ぼやけた顔が縦に振られ、その両脇に下がった物体が揺れた。
それがお下げ髪らしいとマヤはぼんやりと思った。
「わかったわ、連れて行ってあげる」
少女の了解の言葉を聞くと同時にマヤの意識は途切れた。
「全くどうなっているのよ!?」
ミサトは不機嫌そうに呟くと職員室の戸を荒々しく閉めた。
廊下に出たミサトは腕時計を睨む。
もう授業が始まる時間だ。
なのに未だに目当ての人は来ない。
「教頭直々にしっかり指導してやってくださいと頼まれたっていうのに・・・」
ミサトは今日来るはずの新任教師を待っていたのだ。
自分のクラスの副担任になると決まり、あのナオコ教頭に頭を下げられ指導を一任された。
それがプレッシャーになり、ミサトは必死で早起きして学校に来ていた。
遅刻常習教師の異名を取るミサトが始業前に職員室で人を待ちくたびれる、などという現象を起こしたのもそのためだった。
と言っても三分しか待ってないのだけど。
しかしミサトのいらだちの理由はそれだけではなかった。
「転校生が来るらしいけど、そっちのほうも来てないじゃない!」
教師も生徒もそろって遅刻。
いったい何が起きたのやら。
ミサトは頭を振った。
「もういらつくのも阿呆らしくなってきたわ。なるようになるわよ!」
気持ちを切り替えながらミサトは新任教師と転校生の情報を思い返した。
両方女性。
教師のほうは自分の大学の後輩。
彼女が入学した頃にはミサトは卒業していたため顔は知らない。
しかしリツコは大学院に残っていたので面識がある、どころかかなり慕われているらしい。
(リツコを慕う・・ちょっと普通じゃないわね・・・)
リツコと親友をしている者が言えた義理ではないが。
(名前は・・・いぶき・・マヤだっけ?)
自分が今日から指導するというのに名前はうろ覚えだ。
ミサトらしいいい加減さというか。
ちなみに転校生の名は全く思い出せない。
ピ〜ンポ〜ンパ〜ン・・・
授業開始のチャイムが鳴り渡った。
「タ〜イムリミット!遅れたほうが悪いのよ〜ん。それじゃ行っちゃおうっと」
一時間目は担任のクラスの2ーAだ。
ミサトは新任教師と転校生が揃って遅刻と聞いて、生徒達がどんな顔をするか思いを巡らせながら廊下を歩き出した。
「やっぱブーイングかしら?文句の一つも言ってくるだろな・・・ええい、私のせいじゃないって!」
・・・・・・ンポ〜ン
(・・・・ん・・・何の音?)
鳴り響くチャイムの音がマヤをまどろみの世界から目覚めさせた。
「・・・・はっ」
意識を取り戻したマヤは両目をぱちりと見開いた。
真っ先に視界に入ったものは壁一面に広がる濃い緑色のボード。
右端に白い文字で年月日が縦書きされている。
(これは・・・・黒板?という事は・・・ここは学校?)
どうやら自分は学校にたどり着けたみたいだ。
その事にほっと息をつくマヤ。
(よかった・・・・・え?でも・・・)
ここは学校には違いないけど、黒板があるという事は職員室ではない。
(ここは・・・教室。どうして私が教室に?)
マヤは視線を黒板から少し手前に引いた。
教壇が有り、そして生徒の机が縦横に列を成して並んでいる。
当然の事だが机には生徒達が座っていた。
マヤは更に視線を手前に引いた。
目の前に机がある。
机の上に自分の両腕がのっているのが見える。
つまりマヤはこの机の席に座っている事になる。
(わ、私なんでこんなとこに座ってるの?)
うろたえつつマヤは更に視線を引き、真下を見た。
座ってる自分のスカートが見えた。
緑っぽい青色のスカート。
マヤの心に疑問が膨らむ。
(私こんな色のスカート持ってないわ。ましてやジャンパースカートなんて・・・)
膨らむ疑問は不安と変わり、マヤの身体が小刻みに震え出した。
(このスカートどこかで見たような・・・・なんなの?・・・何があったの?!)
マヤは視線をスカートから這い上がらせた。
白いブラウスが見えた。
これも自分の物でない、しかしスカート同様どこかで見たブラウス。
不安が恐怖に変わり、胸の鼓動が早く、激しくなってゆく。
(これって、まさか・・・・)
恐る恐るマヤは視線を襟元まで上げた。
あざやかなまでに真っ赤なリボンタイ、そしてセーラー風の襟。
マヤの心臓が爆発した!
(・・・・・なんで・・・・・・・・・・なんで私、制服着てるの〜〜?!)
「大丈夫?」
自分の身に起こっている余りに異常な事態に体を凍りつかせ、動けないマヤの傍らで声がした。
気づかう様な優しい声だった。
しかも前にも聞いたような気がする。
声の主がマヤの顔をのぞきこんだ。
マヤの目の前に髪をお下げに結んだ少女の顔が現れた。
ほっぺのにきびが愛嬌を感じさせる可愛い少女。
彼女は心配そうにマヤをじっと見つめていた。
制服姿のマヤを!
どきっ!
(やだ、見られてる・・・こんな格好の私を・・じ〜っと!どうしよう、ハズカしい・・・)
硬直したまま赤面するマヤ。
お下げ髪の少女はマヤを元気づける様ににっこりと笑った。
「心配しないで、あなたはちゃんと学校に着いたんだから。学校に連れて行ってと言ってたでしょ?」
少女の言葉にマヤは思わず声を漏らした。
「えっ・・?」
「あなたは学校の前の道にへたり込んでたの。覚えてる?それを見つけて私が大丈夫って聞いたら、あなたが学校へ連れて行ってって・・・それでここまで連れて来たのよ」
少女の言葉を唖然と聞き続けるマヤ。
よく覚えていないが、それで自分がここにいる訳が分かった。
(そうだったの・・・って制服着ている理由が分かんな〜い!)
惑うマヤに向けて更に少女の言葉が続く。
「本当に学校に早く行かなきゃってうわ言のようにくり返していたのよ。それで学年とクラスは?って聞いたら2のAって・・・・」
(に、2ーAって私の担当するクラスじゃない!私そんな事言ったの?)
「ちょうど私のクラスだったから良かったわ、今日来る転校生ってあなただったのね!」
ぎくっ!!
赤面していたマヤの顔から血の気が高速ですぅーっと引いてゆく。
(私・・・・・わたし・・・・・・・・・・・・・中学生だと思われているう〜!!)
ハンマーで殴られたようなショックを受け、もはやマヤ頭の中は真っ白け、胸の内では恥ずかしさが灼熱のマントルのように渦巻いている。
そんなマヤの様子を異様に感じたお下げ髪の少女は表情を曇らせた。
「大丈夫!?」
「はっ」
少女の声にかろうじて正気を取り戻したマヤは、うろたえつつ少女を見た。
不安と疑惑に曇らせた顔。
気を動転させながらマヤは思った。
なんとかこの場を取りつくろわねば!
マヤはぎこちなく笑みを浮かべて見せた。
「だ、大丈夫よ。助かったわ・・・・あなたのおかげだわ。ありがとう」
マヤの感謝の言葉に少女の顔から陰りが消える。
「よかった!私、洞木ヒカリっていうの。よろしくね。あなたは?」
どきっ
名前を聞かれ躊躇するマヤ。
しかし聞かれたら答える意外の事を思いつかない。
「私は・・・・伊吹・・マヤよ」
「そう。ヒカリと呼んでね!」
「ええ、私もマヤって呼んで・・・」
今、ヒカリという名前だと分かった少女は、嬉しそうに微笑むと右手をマヤに差し出した。
マヤもおずおずと手を出した。
二人の手がしっかりと繋がり、握手が成立した。
「お友達になりましょうね!」
「ええ・・」
ヒカリの手の温もりを感じながら、笑顔の裏側でマヤは思う。
(生徒とお友達になっちゃった・・・どうしよう〜)
がらがらっ
教室の戸が勢い良く開け放たれた。
その音にどきりとしたマヤはそちらを見る。
「はあ〜、ミサトはまだ来てないみたいね」
「ふう、ふう、間に合った」
「ミサト先生また遅刻かあー」
現れたのは栗毛のロングヘアー、抜けるような白い肌、青い瞳、整った顔だちの見事なスタイルの外人美少女。
きゃしゃな体つきで中性的な顔だちの黒髪の少年。
そして水色っぽいショートヘアに赤い瞳、か細い身体に異様なまでの白い肌という、人種の判別に悩みそうな少女。
彼等は息を切らしながらも会話を続ける。
「今日は新しい数学教師と転校生が来るんでしょ?ミサトもこんな日くらいちゃんと来ればいいのに」
「私の時も遅刻して来たよ。私職員室で待ってたんだからー」
「まったく!こんな調子じゃ新任の先生にもバカにされるんじゃない?」
(そんな場合じゃないのよぅ〜)
マヤは外人少女のよく響く声に心の中で突っ込んでいた。
ミサト先生が来たら自分はいったいどうなるのだろう・・・・
「誰がバカにされるですってぇ?」
外人少女の背後で凄みのある声がした。
「へ?、あっ!ミサト」
振り向いた少女の顔が強張る。
腕を組み、険しい表情で睨むミサトの姿があった。
「ちゃんと来てるわよ、新任教師にバカにされたくないから!」
「あはは・・・」
「早く席に着きなさい!」
怒鳴られて三人の生徒は蜘蛛の子を散らすように席に走っていった。
厳しい表情のままミサトは教壇に立った。
「起立!」
(えっ?)
いきなり隣にいるヒカリが大きな声を出したのに驚くマヤ。
立ち上がるヒカリにつられて思わずマヤも立った。
「礼!」
生徒達がお辞儀する。
何が起きたのかこの時点で理解したマヤだが、状況を考えれば自分だけ頭を下げない訳にはいかない。
「お早うございます」
生徒達と一緒に挨拶の声を出してしまうマヤ。
(なんで私が・・・うう・・)
「着席!」
生徒達と同時に着席したマヤの目に今だ不機嫌そうな顔のミサトが映る。
ミサトは抑えた口調で喋り出した。
「え〜、みんな・・・聞いてるだろうけど今日、このクラスの副担任になる数学の先生と転校生が来る予定よ。両方女性、喜べ男子!と、言いたいところだけど・・・実はまだ二人ともこっちに来てないのよ!」
「ええ〜!?」
生徒の驚きの声が教室に響き、次いでざわめき出した。
「なんでやねん、いったい?」
「新型カメラ用意してたのに・・」
「二人とも遅刻って事?」
「ねー、このクラスを受け持つ教師とこのクラスの転校生って遅刻する義務でもあるのー?」
「な訳ないでしょ!」
「どうしたんだろう」
思い思いの無責任な発言が聞こえ、マヤの心を締め付ける。
(ど、どうしようどうしよう)
考えのまとまらぬマヤがチラリとヒカリを見た。
さっき会話を交わした彼女の反応が気になったのだ。
マヤの視線に気付いたヒカリがにっこりうなずくと、手をさっと上げた。
(えっ?何をする気?)
慌てるマヤの横でヒカリがミサトに発言した。
「先生!転校生なら来てます、ここにちゃんと!」
ヒカリは上げた手をマヤの背に回した。
ぎくっ
ミサトの視線がマヤに突き刺さる。
そして生徒達の視線も一斉に向けられる。
マヤの心臓が跳ね上がった!
(いやあ、見ないでぇ〜!)
恥ずかしさの余り顔をふせるマヤにミサトの声が飛んだ。
「なんだ、そうだったの。直接教室に来るとはねえ。ま、とにかくこっちに来て」
「・・・・」
「ん?・・早く来て!!」
びくっ
「は、はい」
マヤは仕方なくごそごそ席を立つとのろのろとミサトのほうに歩き出した。
自分を睨むミサトの顔が一歩ごとに接近する。
しかし彼女にどう事情を説明すればいいか全く頭に浮かばない。
そうこうしてる間にマヤはミサトの前までたどりついてしまった。
低い声でミサトは問いかけた。
「あなた、名前は?」
どっきんっ
(名前!名前を言ったら、私が教師だと分かってしまう・・・でもこんな格好で教師と知れたら!)
迷い焦るマヤに力強い声が響く。
「名前を言いなさい!」
言いたくなくても黙ったままでいる事など許されない。
マヤの口がたどたどしく声を漏らした。
「伊吹・・・マヤ・・です」
「え?」
ミサトの眉がぴくりと動く。
(伊吹マヤ?確か教師のほうの名前のはず・・・)
マヤの顔が引きつった。
(ああ、気付いたのね・・・もうお終いだわ!)
ミサトは気難しい顔で考え込んでいる。
審判の時が来るのをマヤは身の凍る思いで待ち続けていた・・・・・
・・・・・突然ミサトの顔がにやりと崩れた。
(な〜んだ、教師と転校生の名前を取り違えてたわ)
笑いながらミサトはマヤの両肩に手を添えた。
「そう、伊吹マヤっていうの。よおっし!」
ミサトはマヤを180度ぐるんと回転させ、生徒達の方に向けた。
(ひっ??)
「喜べ男子〜!うわさの転校生を紹介する!かなりの上玉よ〜ん」
(えっ・・・気付いてないの〜!?)
あっけに取られるマヤにミサトが促す。
「さあ、みんなに挨拶して」
マヤの全身に生徒全員の視線が集中した。
好奇の目にさらされるマヤの身体が震え出した。
冷えきった汗が首筋をつたい落ちるのを感じる。
さっきから激しく打ち続けられていた鼓動は最大限に高鳴り、精神的にもマヤには後がなくなっていた。
(どうしようどうしようどうしよう・・・)
「あら、固まってるわ。そんなに緊張しないでいいのよ。ほら、力を抜いて挨拶しなさい」
気持ちを和らげようとするミサトの声も、もはやマヤには聞こえない。
自分を見る生徒達の視線に押しつぶされそうになった時、マヤの耳に声が飛びこんで来た。
「マヤ!しっかりぃ!」
はっとしたマヤは声のしたほうを見た。
心配そうな顔をしてじっとマヤを見つめているお下げ髪の少女がそこにいた。
(ヒ、ヒカリ・・・?)
その表情から本気で自分を気遣い、励ましの声をかけたという事が分かる。
しばらくマヤはヒカリだけを見つめ続けていた。
彼女を見ていると不思議と気持ちが落ち着いていくのをマヤは感じた。
硬直していた身体が幾分緩まり、動けるようになった。
「さ、早く」
ミサトの催促に今度はマヤは応えた。
「は、はい・・・伊吹・・マヤと言います・・・・宜しくお願いします」
おお〜
生徒達が歓声をあげた。
主に男子の声が中心だ。
恥じらいながら途切れ途切れに声を出すマヤのたたずまいが余りに可憐だったからだ。
ミサトが満足そうにマヤの肩をたたいた。
「よっしゃ〜!伊吹さん、あなた今ので男子の心を掴んだわよお!それじゃあこれから自己紹介を始めるわよん」
「は、はい?」
自己紹介をするというミサトの言葉を聞いた時、マヤは気付いた。
なんとか挨拶はクリアすることができた。
(でもうまく挨拶できても・・・・なんの解決にもならないじゃない〜!!)
白いチョークで伊吹マヤと大きく縦書きされた黒板の前に立たされ、制服姿の少女?が身を小さくして遠慮がちに声を発していた。
男子生徒の大部分はマヤのその慎ましやかな様子に見入っている。
「・・出身は横浜です・・・それから・・・・・」
言う事につまったマヤにミサトが聞いた。
「好みの男の子のタイプは?」
「えっ?!」
「付き合ってる人いるの?」
ただでさえ恥ずかしいのにそんな事を聞かれ、ますます縮こまるマヤ。
ヒカリが血相を変えて席を立つとミサトに叫んだ。
「先生、ふざけないでください!転校したての生徒をおちょくって面白いんですか!」
「あら〜私はただこの子が話のネタに困ってるみたいで助け舟だしただけよん」
「だったら他にあるじゃないですか!趣味とか・・・」
「あ、そうね。趣味は?」
ミサトの問いに一瞬マヤは躊躇したが、結局話し出した。
「・・・・お菓子作りです・・・ケーキやクッキーとか・・」
「ま〜、女の子らしいわねえ〜。でも似合ってるわ。あなた同様可愛らしい趣味だわ」
ぐさっ
(うう、可愛らしいって・・・言わなきゃ良かった)
「う〜んと、そんじゃこんどはうちの生徒の自己紹介といきましょか!」
「相田ケンスケです。趣味はカメラ、そして軍事関係の事なら右に出る者はおりません!以後宜しく!」
「綾波レイだよ〜ん!私も転校間もないけど、この学校面白いよー!いろいろと。仲良くしようねー」
「碇シンジです。趣味というか特技はチェロが弾けます・・・よろしく」
一人づつ順に席を立ち、マヤの前で次々と生徒達の自己紹介が進んでいく。
しかし彼等の話もほとんど上の空で、マヤの頭の中には素朴かつ深刻な疑問が膨らみまくっていた。
(どうして?これだけ沢山の生徒がいて、どうして一人も私が転校生だという事に疑問を抱かないの?私24よ・・・誰も違和感を感じないの?そりゃ時々高校生に間違われてお巡りさんに補導されかけた事もあったわ・・・・だけど、いくらなんでも中学生だなんて!おかしいと思わないの!?)
「鈴原トウジや。以後、よろしゅうに」
「惣流アスカ・ラングレーです。アメリカとドイツと日本のクォーターよ。日本には十年いるからあまり外人だって構える必要ないわよ。気楽に話し掛けてね」
疑問をよそに淡々と自己紹介は続いてゆく。
確かに本人が疑問に思う通り、マヤは見かけより若く見えるといっても高校生に間違われる程度だった。
しかし彼女のように高校生に間違われる24歳がいる一方、高校生に間違われる中学生だっている。
むしろそっちのほうがずっと数が多いだろう。
彼女の身につけている制服が、高校生に見える24歳を高校生っぽい中学生にすり替える魔法のアイテムと化していたのだ。
しかもマヤは教師に採用が決まるまでぎりぎりの生活をしていたため体重が数キロ減り、胸回り、尻回り、太股の肉が落ち幼児体形に近付いていた。
それでいて顔は全く痩せこける事なく、ふっくらした童顔のまま。
ありとあらゆる事象が重なり、それがマヤを中学生と信じ込ませる事に味方をしていた。
しかしそんな状況をマヤ自身に分かろうはずもない。
「洞木ヒカリです」
(はっ)
別の所に行っていたマヤの意識が引き戻された。
視界の焦点が自己紹介中の生徒に合わされる。
彼女は好意の目でマヤを見つめていた。
「趣味は料理です。クラスの委員長をやっています。ここで分からないことがあったら私に聞いて。よろしくね!」
にっこり微笑む。
好感の持てる笑顔にマヤもついつられて口元に笑みを浮かべてしまった。
(私何してるんだろう・・・笑ってる場合じゃないのに・・・)
自己紹介もつつがなく終わると、ミサトは時計を見た。
「あ〜、まだこんなに時間が残ってる。仕方ない、授業始めるかあ!伊吹さん、あなたはえーと・・・洞木さんの隣が空いてるからそこに座りなさい」
「はい・・・・」
言われるままに席に向かうマヤをヒカリが笑顔で出迎えた。
「教科書まだでしょ?私のを見せてあげるわ」
「あ、ありがとう」
マヤが席につくと教科書を並んだ机の真ん中に広げるヒカリ。
二人は仲良く教科書を見ながら授業を受け始めた。
(まさか・・・この年になって隣の子に教科書見せてもらう事になるなんて・・・これからどうなっちゃうの?)
1時間目の授業が終わると同時に生徒達はわらわらとマヤの席に群がってきた。
「伊吹さん、うちのクラブに入らない?」
「わが野球部のマネージャーに・・・」
「付き合ってる人いるの?」
「俺なんかどう?」
(ああああ・・・・)
矢継ぎ早に飛んでくる言葉に狼狽え、声も出ないマヤをヒカリ両手を広げてガードした。
「ちょっといい加減にしなさいよ!いっぺんに聞かれても答えられるわけないでしょ、マヤが困ってるじゃない!」
「そうよ、特に男子!下心丸見えの質問なんかするなってのよ!」
いつの間にかヒカリとともにマヤの前に回り、アスカが凄んでいた。
マヤに振り向くとアスカは男子に発揮していた凄みを消して話し掛ける。
「アンタもこんなのにいちいち答える事ないわよ、ね!」
「はーい、それじゃー質問!」
突然、過剰なまでに元気な声がマヤの耳を直撃した。
見ると何が可笑しいのか顔中で笑っている水色髪の少女。
「レイ!アンタアタシの話聞いてんのか〜!」
アスカの手が伸びるとレイのこめかみを鷲掴みにした。
あっけに取られるマヤの前でレイの頭を左右にシェイクする。
それでもレイの明るい声は止まらない。
「ねー、ちゃんとした質問だよー。ほんとに」
「なんですってえ?」
「ねー、マヤ。どうして転校したばかりなのに、うちの制服着てるの?」
びくっ
「私の時は転校してから5日程かかったのに」
レイの素朴な問いに焦るマヤ。
(ど、どうしてって聞かれても・・・・私が聞きたいわ、なんで私は制服着ているの?)
答えようがないマヤに大きく見開かれた紅い瞳が問いかけている。
その瞳に気押され、マヤは分からぬままに口を開く。
「て、転校前に注文しておいたの(わ、私何言ってるの?)」
「ふ〜ん、そうなの。用意がいいんだねー」
納得するレイの前でマヤは力なく俯いた。
実は教師だとばれる恥ずかしさを恐れる余り、転校生を演じてしまった。
(ああ・・・私ってこうも流されやすい性格だったかしら?こんなことをいつまで続けなきゃいけないの・・・)
かしゃっ
(はっ)
いきなり聞こえる機械音にマヤは驚き、顔をあげた。
マヤの瞳に男子生徒が自分に向けてカメラを構えているのが映った。
かしゃっかしゃっ
「ひぃっ」
心臓が喉から飛び出そうな衝撃を感じると同時に、マヤは顔を両手で隠して机に突っ伏していた。
(いやああ!撮らないで〜!こんな格好写真に撮らないで〜!ハズカしい〜!!)
恥ずかしさの余り机上で打ち震えるマヤの頭越しに、会話が交わされる。
「こら、相田!アンタ何してんのよ!」
「いや、転校生を歓迎する意味で記念写真を・・」
「勝手にとるな〜!マヤがびっくりしてるじゃないの!?」
「それにしてもえらい驚きようやな」
「鈴原、何言ってるの!」
「ちょっとおおげさやで」
「冗談じゃないわよ、アンタまた撮った写真をスケベな男子共に売り付ける気でしょ!」
どきっ
(売り付ける?制服着た私の・・・やめてえ〜!!)
「落ち着いて、マヤ」
ヒカリがいたわりの声をかけながらマヤを抱き起こした。
アスカはケンスケに猛然と飛びかかると持っていたデジカメを強引に引ったくった。
「うわっ」
「没収!!」
「何するんだ!返せよ」
「アンタの金もうけにこの子の写真は使わせないわ!返して欲しけりゃ写真を売らないと約束なさい!」
「う・・分かったよ(ってここは分かったふりしとこ)」
ヒカリがおびえるマヤの耳元で言い聞かすように囁いた。
「ね、もうこれで安心でしょ。マヤ」
「・・・・」
無言のマヤを懸命にいたわるヒカリ。
その甲斐甲斐しい様子にアスカは目を奪われた。
(あら、まだほんの少ししかたってないのに二人とももうこんな仲良くなっちゃって。まてよ、転校記念写真か・・・いいかも!)
アスカは持っていたカメラをケンスケに突き返した。
「相田!後でディスクを渡すってのなら写真撮っていいわよ」
(えっ!?)
意外なアスカの言葉にマヤの身体がびくりと反応した。
アスカがマヤとヒカリに向き直る。
「純粋に転校記念のために撮るんなら構わないでしょ?ディスクはマヤとヒカリに渡すから」
「えっ私にも・・・?」
怪訝そうなヒカリにアスカはにっと笑って見せた。
「いつの間にかアンタ達ずいぶん仲良しになってるじゃない。だから一緒に撮ってあげようって言ってるの。いけない?」
「そう・・・私はいいけど・・・」
ヒカリはそっとマヤの顔を見た。
「マヤはそれでいい?」
ぎくっ
(いい訳ないわ!断らないと・・・でもどう断れば・・・・ううん、とにかく断らなきゃ!)
葛藤の末、やっとの思いで意を決するとマヤは口を開いた。
「私・・」
言いかけた時、ヒカリがつつみ込む様な優しい笑顔を見せて囁いた。
「いいでしょ?」
どきっ
「・・・・・・ええ(そんな・・・・どうして断れないの〜?!)」
そして転校生を歓迎する為の撮影会が始まった。
まずマヤとヒカリのツーショット。
カメラに向かって自然に笑顔を浮かべるヒカリに対し、マヤの顔はまるでゴルゴ13に狙われているみたいに張り詰めている。
マヤにとってカメラを構えるケンスケはもはや狙撃者でしかない。
「お〜い伊吹、笑ってくれなきゃシャッター押せないよ」
(そんなこと言われても・・・今、私は笑ってる場合じゃないのよう・・・)
「緊張しないで。気を楽にしてりゃいいのよ」
ヒカリのフォローの言葉に促され、マヤは仕方なく笑顔を試みる。
しかしカメラに制服姿を写される羞恥心が胸から顔にまでせり上がっている状態で、笑うのは至難の技だ。
悲愴感さえ漂うマヤの様子を見かねてヒカリは手を差し伸べた。
気遣う様にマヤの腕を取ると、さっと自分の腕にからめた。
「!?」
はっとするマヤにヒカリはウインクして見せた。
「肩の力を抜いて。大丈夫よ私がついてるから!」
マヤと腕を組んだままポーズを取るヒカリ。
組んだ腕から温もりが伝わるのをマヤは感じる。
ちらりとヒカリの顔を伺い見た。
カメラ目線のヒカリの笑顔には輝きさえ感じられる。
(私と写るのが本当に嬉しいみたい・・・いい子ね・・ヒカリって)
マヤの身体を縛っていた緊張が幾分和らいだ。
ヒカリを横目で見るマヤの口元がすぅっとゆるみ、笑みを生み出してゆく。
笑顔がそろった時、二人のポーズが自然と決まった。
かしゃっ
びくっ
シャッター音で我に返ったマヤに助平混じりな声が飛んだ。
「今の、良かったよ〜お!伊吹のほうの恥じらい気味の笑顔が特に!」
(えっ!?)
思わぬ絶賛に唖然とするマヤににぎやかな声が覆いかぶさった。
「ねー、次私も!」
「こらレイ割り込むな〜!」
「アスカもいっしょに写ろーよ、ね!」
(ま、まだ撮らなきゃならないの?)
かしゃっ
ぎくっ
「シンジ、入りなさい」
「え、僕も?」
「いいから早く!」
「うん」
(お、大掛かりになってきちゃった・・・)
かしゃっ
ぞくっ
「鈴原も、ほら」
「わしまでかいな?」
「よし全員で!」
(あ、あははは・・・)
かしゃっ
ぴくんっ
盛況の内に撮影会は終わった。
カメラから引き抜いた直径3cm程のディスクを手のひらに乗せ、アスカが呟く。
「一枚で済んじゃったわね」
「当たり前だ、光ディスクだぜ!二枚も三枚もいるか!」
ケンスケの突っ込みにアスカが口をへの字にむすぶ。
「これはマヤの分としてヒカリやアタシらの分どうするのよ?」
「俺は一枚しかディスクを持って来てない」
(そ、それじゃあ私以外にディスクは渡らないの?・・・)
「だけどプリンターならあるぞ」
ずるっ!
「あらマヤどうしたの?」
「な、なんでもないわ・・・」
「カメラに接続したまま持ち歩ける携帯タイプだ。葉書サイズの専用用紙にプリント出来る」
「OK、それじゃ用紙のあるかぎりじゃんじゃんプリントしまくるのよ!」
(そんな、いやん!)
泣きそうな顔のマヤの目の前でケンスケはプリンターを取り出すとディスクを差し込んだ。
プリンターを起動させ操作を始めた。
・・・・・・じじじじじ〜・・
機械音と共にプリンターから用紙が吐き出されていく。
ゆっくりと、しかし確実に、そしてどうしようもなく。
皆が期待の目でプリンターに視線を集中させている中、マヤはただおろおろと見守るだけ。
その間にも用紙はスカート、胴、胸、顔の順で排出されていく。
(ああ、出てくる・・・・神様、お願いだから時間を逆行させて!)
じじじ・・ぴっ
悲痛な願いもむなしく用紙が完全に排出された。
目を伏せて視線を写真からそらすマヤだが、こんな不自然な様子をヒカリに見られたら気遣われ、元気づけられ、結局写真に目を向けさせられるだろう。
そうなる前に仕方なくマヤは写真にそ〜っと視線を合わせた。
写真にはヒカリと仲良く腕を組んでいるマヤ自身の姿が鮮明に写っていた。
もちろん制服で。
(わ、私、今こんな格好してるのお!?いやぁ、ハズカしいい!)
「あら可愛いわ、マヤ。良く撮れてるじゃない!」
「いいねー、これ」
「当たり前だ、俺の腕からすればな!」
「被写体がいいからよ!それよりアンタは次のをプリントして!」
恥ずかしさのあまり金縛りになるマヤをよそにプリントはサクサクと進んでいった。
結局用紙全部使いきり、無事にマヤとヒカリ、そして写真に写った者全員に行き渡る事になった。
「はい、マヤの分」
ヒカリが差し出した数枚の写真を震える手で受け取るマヤ。
「ありがとう・・・(うう、こんな恥ずかしい写真が記念として残ってしまうの・・・)」
べそをかきながらマヤは渡された写真を見た。
一番上にヒカリと腕を組んだものがあった。
明るく笑うヒカリとその横でポーズをとる制服姿の自分。
恥じらい気味に・・・口元にはなぜか笑みまで・・・
本当は24なのにその笑みからは少女特有のあどけなささえ感じられる。
きゅんっ
一瞬マヤの心臓が踊った。
(な、何?今のきゅんって・・・・)
当惑しつつも結局マヤは気付かなかった。
心臓が踊った瞬間、写真に写る自分の制服姿から感じる違和感が消失していた事を。
二時間目の授業が終了するとマヤはあたふたと立ち上がった。
授業中にずっと考え続けていた事を実行に移す時がきたのだ。
「あらマヤどうしたの?」
隣の席から問いかけるヒカリにマヤは無理矢理笑顔を作って答えた。
「あの、ちょっとお手洗いに・・・」
「あらそう、どこか知ってる?付いてってあげようか」
「い、いえ、いいわ。それくらいの事でわざわざ・・」
「そう・・・廊下を出て突き当たりを曲がってすぐの所よ」
「あ、ありがとうヒカリ。それじゃ・・・」
そそくさと歩き出し、教室から出ていくマヤ。
廊下に出ると息を大きく吐いた。
ヒカリがもしついて来たら予定が狂うとこだった。
マヤは早足で歩き出す。
めざす場所はトイレではなく職員室だ。
とにかく今のどうにもならない状態から抜け出すためにはそうするしかない。
マヤはトイレの手前にある階段まで来た。
ここを降りてすぐの所に職員室がある。
階段に足を出そうとしたその時。
「あー、マヤ!どこいくのー?」
「ひっ」
出しかけた足がびくりと引っ込む。
おっかなびっくり振り向くと、そこにははちきれんばかりの笑顔がこちらを見ていた。
「あ、綾波さん・・」
「レイでいいよー、んでどこ行くの?」
にょきっとマヤの顔をのぞき込むレイ。
うろたえながらマヤはとりあえず適当に答える事にした。
「その、お、お手洗いに・・」
「それならこっちじゃないよ、そっち」
「あ、ああ、そうね・・」
言われてマヤは仕方なくトイレに足を向ける。
とにかく今はレイをやり過ごさないといけない。
職員室はその後だ。
「んじゃ私も行くね」
「えっ!?」
レイは驚くマヤの手を引っ張ると歩きだした。
(なんで、なんでそうなるの?)
二人はトイレに連れ立って入っていった。
じゃ〜・・・がちゃっぎ〜ばたんっ
「あー、すっとした!」
ドアを開閉する音の後、にぎやかな声が聞こえてきた。
洋式トイレの便座に腰掛けているマヤはほっとため息をついた。
さっきからレイは用をたしてしる間ずっとマヤに喋りかけていたのだ。
聞かされるマヤにとっては苦痛でしかない。
(ふう、これでやっと・・)
「ねー、マヤ!まだ?」
「えっ?ええ、まだよ」
「じゃ、待ってるね」
ぎくっ
「い、いえ、いいわ。さきに行って」
「どーして?」
(どーしてって・・・どうして行ってくれないのよ〜)
「あ、そーか!おっきいほうなんだ!!」
お手洗いの外まで響き渡りそうな声!
恥ずかしさに身体を丸めて固まるマヤ。
(うう、なんなの?この子)
おっきいほうどころか用を足す気もないというのに。
「ねー、どうなの?」
まだ聞くか。
(違うと言ったら待たれてしまう・・・)
そう判断したマヤはしようがなしにか細い声で答えた。
「そうよ(ううっ)・・だから先に・・」
「そーか、じゃあ先行ってるね」
「ええ・・・」
たったたったったた・・・・
明らかにスキップと思われる脳天気な足音がした。
足音が次第に小さくなっていくのを確認すると、マヤはドアをそ〜っと開いた。
辺りを見回し用心深くトイレを出る。
律儀に手を洗い、花模様のハンカチーフで拭くと出口を見た。
(早く行かないと・・・)
マヤは出口に足を踏み出そうとした。
「!!」
突然マヤは足を引っ込め壁に身を隠した。
息を止めて廊下に視線を集中させる。
廊下の向こうから足音が近付いてきた。
マヤの身体が震え出し、額に汗がにじみ始めた。
足音の主が通りすぎてゆく。
壁に張り付きながらマヤはその姿を盗み見ていた。
食い入る様に見つめる瞳に映るのは、白衣を羽織り髪を派手な金色に染めた三十路前後の女性。
そう、彼女は・・・・・
やるせない表情でいやいやをするマヤ。
(ああ・・センパイ・・・こんな形で再会するなんて)
足音が遠のき、マヤはリツコの背を悲し気に見送っていた。
「センパイにこんな恥ずかしい姿見せられない・・・・」
マヤの頬に涙がするりとこぼれ落ちた。
(ああ〜ん、こんな格好で職員室に行ける訳ないじゃない〜!センパイに会ったらどう説明するのよ〜!!)
行くべき場所を見失ったマヤは結局とぼとぼと教室に帰って来た。
ヒカリと共に三時間目、四時間目と授業を流されるままに受けていた。
その間マヤを取り巻く状況はまるで進展する事はなく、ただ不安と恥ずかしさに圧迫された時間を過ごすしかなかった。
そして昼休み。
「マヤ、一緒にお昼を食べましょう」
「ええ・・・」
ヒカリの誘いにマヤは即答した。
他に選択肢がない事はもう身にしみて分かっている。
ヒカリがマヤの机に向い合うように自分の机をくっつけた。
アスカやレイも当然のようにマヤの隣に机をくっつける。
(うう、生徒と仲良く机をくっつけて食事する事になるなんて・・・センパイと一緒に食べたかったのに・・・)
今朝はリツコと一緒に食べる事を夢見つつ、気合を込めて弁当作りに励んでいたのだ。
もはやそれはかなわぬ夢となり、現実は生徒達とお昼御飯・・・しかも自分も生徒の一人として。
非現実的な現実だった。
ヒカリは普段アスカとレイの三人で食べていた。
アスカはヒカリの親友だし、そしてレイはアスカの親友だ、とレイは言っている。
アスカは否定しているけど。
ヒカリはそんな二人をそれなりにうまくいっていると思っている。
一方シンジはトウジ、ケンスケの三人でかたまっている。
一応2グループになっているようだがシンジとアスカは隣同士に座るため、グループ同士は接続されており1グループと言えない事もなかった。
何故二人が隣同士に座るかというと、アスカがシンジの弁当を横取りするためだった。
アスカはシンジの母ユイのお弁当が大好物なのだ。
もちろんシンジに拒否権はない。
というような事情で現在の机の並びは次の通り。
マヤ レイ ケンスケ
ヒカリ アスカ シンジ トウジ
マヤは周りを気にしながらプラスチック製の弁当箱をそっと机に置いた。
角の丸い、やや縦長で桃色の弁当箱。
ふたにはぬり絵のような絵柄の少女のイラスト。
音を立てないようにふたを取った時、マヤは自分の弁当箱に注がれる視線を感じた。
視線をそろそろとたどると興味深そうに観察しているヒカリと目が合った。
怪訝そうなマヤの目に気付くとヒカリはにっこり微笑んで、再びお弁当を楽しそうにながめる。
ヒカリの注目を浴びるマヤの弁当はどんなものかというと・・・・・
まず半分の面積を占める御飯にちりばめられた黄色い錦糸卵。
薄く均一に焼かれた卵をとても細く同じ太さにきざんであり、彼女の腕の確かさと性格の細やかさを感じさせる。
残り半分の右端に白いポテトサラダと赤く熟れた輪切りのトマト、緑色のホウレン草のゴマ和え。
まん中にきつね色のエビフライとイカリング。
左端に薄緑のレタスが敷かれた上に立つ赤いタコ足ウインナーとウサ耳のリンゴ。
それらが丁寧に配置されている。
見た目がカラフルで、それでいて清楚な感じの弁当だ。
期待感のこもった声でヒカリが聞いた。
「あら〜、綺麗なお弁当。もしかして・・・マヤが作ったの?」
「ええ・・」
「まあ、やっぱり!趣味がお菓子作りだから料理もきっと上手だと思ったのよ!」
「そ、そう?」
「私も自分で作って来るのよ」
「えっ本当?」
思わずマヤもヒカリの弁当を覗き見た。
銀色のアルミ製で長方形の弁当箱。
まず目に入ったのはコンビニでは絶対お目にかからない可愛いサイズの三角おにぎりが六個立ち並んでいる所。
海苔を巻いたもの、ごまのかかったもの、タラコの粒が御飯に一様にまざったもの・・・・
同じものは一つとしてなく、しかもどれも見るからに美味しそうだ。
そして残った場所の半分にエビ、三ツ葉、茄子、三度豆の天ぷらが集合していた。
どれもカラッとした仕上がりが美しい。
天ぷらを桃色のかまぼこで仕切り、桜の形に切り抜かれたニンジンと銀紙に乗ったミートボール。
最後に卵焼きが角にちょこんと収まっていた。
(この子・・・私よりずっと上手だわ・・・・)
これだけの料理を目の前の少女が毎日作っている。
その事実にマヤはある種の感動すら覚えていた。
「すごいわ・・・・まだ中学生なのに自分でお弁当作っちゃうなんて」
「何言ってるの、マヤだって中学生じゃない」
ぐさっ
「う・・そ、そうだったわね(うう・・・墓穴を掘ってしまった)」
ヒカリの弁当に見とれていて、自分の置かれている状況を忘れてしまっていた。
話に花を咲かせている場合じゃないのに一体何をしているのだろう?
心の中で葛藤するマヤ。
ヒカリが屈託ない声をかける。
「ねえ、このポテトサラダちょっともらっていい?」
「え?ええ」
ヒカリは箸でマヤのポテトサラダを一摘みすると、笑みを浮かべた口に入れた。
「うふっおいしい!手作りのおいしさね」
「本当?、ありがとう・・・(うう、ヒカリに言われるとついうれしい気分になっちゃう)」
ヒカリは自分の弁当箱を差し出した。
「代わりに私のからどれか一つ取って」
「え?うん・・・」
ヒカリに促されたマヤは弁当箱の角にきっちりと収まっている卵焼きに目がいった。
小ぶりだが色といい形といい見事な出来で、マヤの食指をそそるに十分なものだ。
でもこれは弁当箱の中に一つしかない代物で、取ったらヒカリの分がなくなってしまう。
(美味しそう・・だけどヒカリの分まで食べたちゃったら・・・)
心の中で葛藤するマヤ。
ヒカリが屈託ない声をかける。
「あら、これ?遠慮しないでどうぞ召し上がれ」
悪戯っぽく笑うと卵焼きを箸で摘みマヤの口元に出した。
「あ、でも・・」
断りの言葉を言おうと開いた口に卵焼きがするっと入り込んだ。
驚くマヤの口の中に卵焼き独特の温かい甘味が広がった。
「!・・・・・」
驚きながら口をもぐつかせるマヤの顔を楽しそうにながめながらヒカリが聞いた。
「どう?お味は」
「・・・・・・・おいしい・・・とっても!」
「そう、良かった・・・・うふ・・うふふふふ」
「?・・・・」
急に笑い出したヒカリを卵焼きを飲み込みながらマヤは唖然として見つめていた。
「うふふ・・マヤったら食べながらびっくりして・・・おかしな顔するんだもの・・・ふふふふ」
「そんな・・・ひどーい」
そう言いながらもマヤは笑い続けているヒカリを見ていると気持ちが和んでいくのを感じていた。
知らず知らずにマヤも口元に笑みを浮かべ、ヒカリにつられて笑い出した。
「うふ・・・うふふふ」
「うふふふふふ・・・」
仲良く笑い声を重ね合わすヒカリとマヤ。
それは昼下がりの学校によくあるのどかな日常の一コマだった。
その裏にどんな突拍子も無い真実が隠されていようとも。
「ねー、なんで二人とも笑ってるのー?」
それまでひたすら食べる事に集中し、もう御馳走様してしまったレイが不思議そうに訊ねた。
楽しそうにヒカリが答える。
「ふふっなんでもないのよ・・なんでも」
「ふーん」
(本当に仲が良いわね、二人とも・・・・波長が合うのかしら?)
ヒカリとマヤのそれまでのやりとりを横目で傍観しながらアスカは箸を持った右手を横に伸ばす。
箸はシンジの弁当箱から獲物を摘み取り、アスカの口元へと帰還していく。
全く弁当に目を向けずに摘み取れるのは、長年の経験の為せる技だ。
ヒカリの親友であるアスカはたった半日であれだけ仲良くなったマヤをどう扱うか考えていたのだ。
このまま二人は親友になるのが自然、という気がする。
そうなると自分とヒカリの関係はどうなるのだろう?
(しまいにマヤにヒカリを・・・・・・も〜アタシ何てつまんない事考えているんだろ!バッカらしい〜)
同性相手に嫉妬する趣味はアスカにはない。
まして女同士の三角関係など想像するだけでも気色悪い。
(要するにアタシがマヤと仲良くすればすむ話じゃない!)
自らを納得させたアスカは口元に待機させたままの食べ物を頬張った。
「む?!・・・・・何よこれ、ゴボウじゃないの!!うげ」
叫びながらアスカはゴボウ巻きをぽろっと吐き出した。
いくら見ないで摘めるといっても何を摘んだかまでは確認しないと分からない。
アスカは自分の弁当の上に落ちたゴボウ巻きを拾うとシンジの弁当にポイっと落とした。
「あ?!なにするんだよアスカ!」
「シンジ、アンタアタシがゴボウ嫌いなの知ってるでしょが!!」
「アスカが勝手に取ったんだよ」
「う・・・え〜い、とにかくいらないの!」
「こんな食べかけどうするんだよ」
「知らない〜」
「アスカは碇君にアスカの口に入れたものを食べてもらいたいのー?」
「!!」「!!」
突如割って入ったレイの突っ込みにアスカとシンジは絶句してしまった。
「・・・・・・そ、そんなわけないでしょが〜!!」
顔を真っ赤にしたアスカは持ってた箸でレイの鼻を思いきりつまんだ。
「わはしの鼻はふまんでもふぁべられないよ〜」
「え〜い、アンタはいつもいつも・・・・」
「ほんまに毎度毎度飽きもせんと、伊吹がびっくりしとるやないか」
呆れはてたといった調子の関西弁が飛んだ。
シンジ、アスカ、レイはトウジの言葉を聞いて揃ってマヤに振り向く。
トウジの言う通りマヤは彼らの方を見てかなり引いている様に見えた。
「気にしぃなや、伊吹。これはあいつらの日課みたいなもんや。特にシンジと惣流のは俗に言う夫婦喧嘩っちゅうやっちゃ」
「夫婦・・・喧嘩?」
「ち、違うわよ!マヤ、アンタも真に受けないでよ!シンジとアタシはただの幼馴染みよ!た・だ・の」
「おぼえときや、この二人いつもこんな調子やねん」
「は、はい・・・」
「だから真に受けるな〜!」
「伊吹も早よう慣れなあかん。これからず〜っとこのクラスにおらんとあかんのやから」
ぎくっ
(ず〜っと・・このクラスにいなきゃあかんの?・・・うう・・)
「マヤ、食べましょう」
がっくり落ち込むマヤにタイミング良くヒカリが声をかけた。
彼女の明るい声にマヤはうなずくしか術を持たない。
「うん・・・」
二人は食事を再開した。
その間ヒカリはマヤに話し掛け、会話をはずませるように努めた。
主にヒカリが話してマヤが返すというパターン。
会話は和やかに進行していった。
「・・・・・姉も妹も料理はだめなのよね。妹は小学生だからともかく姉は高校なんだから少しは自分でやったらいいのに」
「そう・・・?ヒカリが上手すぎるんじゃないかしら」
「あら、そんなぁ・・・ありがとう」
「・・・・・じゃあ今度一緒にクッキー作りにチャレンジしてみたいわね。材料選びから二人でしっかりやって」
「ええ、やってみたいわね・・」
「・・・・・商店街から少しはずれたとこな訳。そこの八百屋さんが安くていい品揃えなのよ〜」
「そうなの・・・要チェックね」
「・・・・・可愛いのよ〜そこの服はどれも。マヤもきっと気に入ると思うわ」
「うん・・・ヒカリが言うならきっと・・・」
「実はそこのとなりのお店が本命なの!リリスっていうんだけどなんとエプロンの専門店なのよ」
「えっ、エプロンの?」
「すっごい品揃えで素敵なデザインのエプロンが山程あって、いっぺん入ったら何時間でも見ていられそうな・・・こんど一緒に行きましょ!」
「ええ、ぜひ行きたいわ!(はっ何浮き浮きしてるの私!?でも行ってみたい・・・)」
さっきから感じていた事だけど、ヒカリと話しているとマヤは自分の置かれた状況をつい忘れてしまいそうになる。
教師なのに生徒と間違えられ、そのままいつばれるかと怯えつつ生徒として振る舞わざるを得ない悲惨な状況を。
どういうことかヒカリの親愛の情のこもった言葉と笑顔がマヤの不安に満ちた心を癒してくれるようだった。
会話がはずんでくるとマヤが笑う回数も増えていった。
作られたものでなく自然な笑みが。
もっとも時々思い出したように落ち込む表情をする事があったが。
食事が終わった後も会話は続き、その輪にアスカが、そしてレイも加わっていた。
「ねえ知ってる?この前の体育の授業の時、相田がまた狙ってたのよ!跳び箱だったでしょ?マヤ、うちは夏場はブルマーなの。で、アタシらが開脚で跳び箱を跳ぶ瞬間を撮ろうとしてたのよ!男子も授業中だったから撮る直前に連れ戻されたそうだけど」
「不潔よ!」「不潔!」
二つの声がユニゾンした。
声の主であるヒカリとマヤがはっとして顔を見合わせる。
この時を逃すまいとレイが突っ込んだ。
「あれー、同時に同じ事言ってるー」
レイに言われて顔を見合わせたまま仄かに頬を赤らめる二人。
そんな二人の様子を見てアスカは吹き出してしまった。
「ぷっ、もしかしてアンタ達似た者同士じゃないの?感じ方が同じとか」
「そ、そうかしら・・・・」
言いながらしげしげと自分を見つめるヒカリにマヤは更に顔を紅くする。
(ヒカリと似た者同士?・・・嫌じゃないけど・・・それって私の感じ方が中学生並みって事?!)
赤面したまま表情を複雑なものに変えるマヤ。
雑談は更に弾みがついていく。
「・・・・・ミサトもひどいけどもっとヤバいのは理科の赤木リツコなのよ!」
どきっ
「実験の時は危険よ。ホント危ないんだから。口で言っても分かりにくいだろうけど」
「あ・・あは・・・そんな大袈裟な」
「アンタは知らないからね。アイツマッドサイエンティストとか理科室の魔女とか言われてるんだから。ねえ、ヒカリ?」
「そうよね。実験は恐いわね。マヤも気をつけて」
(ひど〜い、ヒカリまで・・みんなしてセンパイのことを・・)
「ねー、私リツコ先生好きだよ」
ぴくんっ
「え?本当(この子とてもいい人かも!)」
「だっておもしろいもん!カエルをたのしそーに解剖するし、放電の実験は一桁ボルトが多いし、その放電の機材で電気分解の実験するし・・・」
「・・・(もうセンパイったらぁ〜・・・)」
「レイ、そんなことでおもしろがるな〜!」
「ま、まあ綾波さんの・・」
「レイだよ」
「レイの言う事も一理有るんじゃ・・・たしかに面白いかも・・」
「マヤ!アンタそれは無謀な考えよ!ねえヒカリ」
「そうよ、マヤ。あの先生はね、理科準備室で怪しい研究してるのよ」
「研究!(センパイ、教師になってもやっぱり研究への情熱は燃え盛っているんですね!)・・・どんな研究なのかしら?」
「それは・・・・・(言えない!マヤが聞いたら卒倒するわ!)分からないけど関わっちゃだめよ」
「でも・・・・」
「お願い!あなたを心配して言ってるの」
「(ああ・・あんな神妙な顔して・・・ヒカリにはセンパイを理解して欲しかった)・・・ええ・・分かったわ。忠告ありがとう(うう、センパイごめんなさ〜い!)」
という調子であっという間に時間が流れ過ぎていった。
ピ〜ンポ〜ンパ〜ンポ〜ン・・・・
どきっ
会話を続けていたマヤはのんびりと響くチャイムの音にはっとする。
この日何度目かの忘れかけていた現実に引き戻される瞬間だった。
「あら、もうこんな時間」
ヒカリが言いながらカバンから教科書を引っぱりだそうする。
「え〜と、次は・・・・・・理科ね」
ぎっくうっ!!
ヒカリが教科書とノート、筆記用具を机に並べ終え、マヤに振り向いた。
「あのね、マヤ・・・マヤ、どうしたの?!」
彼女の隣に座るマヤは下を向いて身を強張らせていた。
顔は真っ青に変色している。
「大丈夫?マヤ!気分が悪いの?」
「う、ううん・・・大丈夫よ」
そう言う声に覇気はちっとも感じられない。
ヒカリの表情が狼狽混じりの心配顔になり、マヤの腕を取った。
「何かあったんなら隠さずに言って。どうして急に・・・あ!さっきの話?」
思い当たった様な顔をしてヒカリは言葉を続けた。
「リツコ先生の事?確かにさっき話した通り危ないしマッドとか理科室の魔女とか言われているけど、心配ないわ。少なくとも実験じゃなく普通の授業の時はまともだから」
「・・・・・・・」
「だから安心して」
気遣うようににっこり笑うヒカリにマヤの表情が複雑に引きつる。
(センパイ・・・・・いったいここの生徒達にどう思われているんですか〜?)
などと先輩の心配をしている場合ではない。
このままでは制服姿で生徒と混じっている自分の姿を尊敬する先輩の前にさらさなければならない。
(ああ・・・・どうしたら・・・・・)
しかしこれまでがそうであったようにマヤの脳裏には良い方法など全く思い浮かばない。
席についたまま動く事もできず、いたずらに時間を消費するだけだった。
と、その時生徒達の雑談に混じって廊下のほうから微かに響く足音がマヤの耳に入った。
こつっこつっこつっこつっこつ・・・・
近付く足音は教室の戸の前で止まった。
びくっ
胸の鼓動がどんどん高鳴るのをマヤは感じていた。
これも今日何回目の経験か。
戸がゆっくりと開いていく。
水をうった様に静まる教室。
そして現れたのは当然のごとく・・・・・
どっくん!
白衣を着た金髪の女教師。
余りの緊張に小刻みに震え出すマヤの前で彼女は教卓へと歩を進める。
どくんっどくんっっどくんっどくん・・・
教卓につき、リツコは正面を向いた。
ヒカリの声が響く。
「起立!」
「礼!」
「着席!」
生徒の着席後、数秒の沈黙が教室を包んだ。
どくんっどくんっどくんっどくん・・・
出席簿を開いていたリツコが生徒のほうを見ると抑揚のない声を発した。
「今日は・・・・欠席者はいるのかしら?」
リツコは見回しながら生徒達、というより生徒の座っていない席を探し始めた。
どくんっどくんっどくんっどくん・・・
左側から順に確認していくリツコ。
一列確認するごとにリツコの顔の向きがマヤの座る席に近付いてゆく。
(ああ、センパイ・・・・)
どくんっどくんっどくんっどくん・・・
・・・・・・マヤの座る列にリツコの顔が向いた。
どくんっどくんっどくんっどくん・・・
無感動に空席を確かめるリツコの目がマヤと合った。
どっくん!!
仮面のようだったリツコの顔が驚きの表情を作った。
「マヤ・・・・・・あなたそこで何をしてるの?」
マヤは立ち上がり、悲鳴に近い絶叫をあげていた。
「センパァイ、助けてくださ〜い!!」
昨日と同じ職員室で昨日と同じ様に向き合って立つ二人の女性。
しかし一方は昨日同様背筋をぴんと伸ばして立っているのに対し、もう一方はいかにも恥ずかし気に身をちぢこませている。
背筋をのばした方が圧するような声で問いかけた。
「いったい、何があったんです?伊吹さん」
教頭の声にマヤはますます身をちぢこませ、体を震わす。
返事がない事に顔をしかめ、ナオコはもう一度問いかけた。
「どうしてそんな制服を着て学校に来たのか聞いているんです!」
強い口調に体をびくりとさせると、マヤは俯いた顔を恐る恐る上げた。
ナオコを見るその瞳はすでに涙目となっていた。
蚊の鳴くような声でマヤは話し始めた。
「それが・・・それが・・・・・・・・・私にも分からないんですう〜・・・」
やるせなく歪むマヤの頬に一筋の涙がつたい落ちていった・・・・・
五時間目の授業はマヤを職員室に連れて行ったリツコが戻ってから再開されたが、生徒達の心は全く別の所にいってしまっていた。
マヤが実は教師であった事が判明し、授業に集中するどころではなかったのだ。
はっきり言ってその風貌からして生徒に見えても教師にはとても見えなかっただけに、彼等は今だ半信半疑だった。
表向きは静かに淡々と授業は進み、そして終了した。
授業を終えたリツコがさっさと退室した途端、それまで保たれていた静けさは一気に崩れ去り教室は異常なまでの騒がしさで膨れ上がった。
話題はもちろん制服を着て転校生として現れた、とんでもない教師の事だった。
それらの騒々しい会話が全然聞こえていないみたいに、両手で顎肘ついてぼーっと一点を見つめているおさげの少女。
まるで憑き物が落ちたかのようなヒカリに近付くと、心配そうにアスカがそっと囁いた。
「どうしたのよ、ヒカリ」
「・・・アスカ」
ヒカリはけだるそうにアスカに振り返った。
かなりのショックだったんだろうとアスカは思う。
友達になった転校生が実は先生だったなんて普通あり得る話じゃない。
制服姿のマヤを見てもなんの疑いもせずクラスメートとして迎え入れていたのだ。
しかも半日であれだけ仲良くなっちゃったのに・・・・
あまりに異常な事なのでどう言ってなぐさめればいいのか分からない。
それでもアスカは親友を元気づける言葉をかけようとしていた。
「ヒカリ、なんて言えばいいかわかんないけど・・」
「アスカ」
「え?」
「アスカと私は親友よね?」
ヒカリの唐突な問いにアスカは戸惑いながら答える。
「え・・ええ、もちろん」
「性格がまるで違うほうが親友になれるっていうでしょ?アスカと私は性格全然逆だからそういうものなんだろうって思っていた・・・」
押さえた口調で淡々と語るヒカリ。
アスカはただ聞き入るしかなかった。
「だけどあの子は・・・・すぐ友達になってすぐ仲良くなれた。それにあの子と私は趣味も近かったし、性格も似たタイプと思った。同じ事に揃って不潔って言ったりしたし・・・感性が合ってたんだと思う。アスカ、性格が似てても親友になれるのかしら?」
「ヒカリ・・・・」
アスカは知った。
まだヒカリは気の合う友達で、そして近い将来の親友のマヤという存在を捨て切れないでいるのを。
教師だという事で割り切ってしまうのは今のヒカリには到底無理なのだろう。
事実ヒカリはマヤが教師と知ってから、自分と彼女の距離が急に開いた様に感じ、気弱になっていたのだ。
ちょっと引っ掛かるものがあるけどヒカリを励ます言葉をアスカは見つけた。
「ヒカリ・・・・なれるわ・・・性格が似てても。ううん、似てるからこそ親友になれるって事あると思う。中途半端はダメ!逆か似てるかどっちかよね!」
「アスカ・・・・」
「マヤがなんであろうと関係ないじゃん!あんなに仲良くしてたじゃない?その時の気持ちを信じりゃいいのよ!仲良き事は素晴らしい事よ。ハズカしい事じゃないわ!」
「そう・・・・そうよね・・・やっぱりアスカは私の親友ね」
ヒカリは少しだけ笑顔を取り戻した。
そんなヒカリにアスカも微笑んでいた。
ピ〜ンポ〜ンパ・・
六時間目のチャイムが鳴り終わる前に教室の戸が慌ただしく開け放たれた。
何事かと振り向く生徒達の前に現れたのは硬い表情をしたミサトだった。
早足で教卓につくとおもむろに声を張り上げた。
「みんな!知っての通り六時間目は数学よ。でも事情があって自習にします。訳はだいたい分かるわね?そこで頼みがあるの。今日着任した先生、伊吹マヤがなんで、その・・・あんな事になったのか、何か少しでも知っている人がいたら職員室に来てもらいたいの。本人に聞いても泣いたりして要領を得なくて教頭も困ってるのよ!だから誰かちょっちだけでも知ってたら・・・・あたしも教頭に説明を求められたけど、初対面の時点ですでに教室で制服着て座ってたから答えようがなくて・・・お願い、手を貸して!!」
両手を合わせてお願いポーズをとるミサトに生徒達は呆れ返る。
こっちが聞きたいくらいなのに。
ただ一人ヒカリだけが真剣な表情でミサトを見つめていた。
「ヒカリ」
アスカがヒカリの肩をぽんとたたく。
「アスカ」
「行ってあげなさい。友達のピンチよ」
にっこり笑うアスカを見てヒカリは大きくうなずいた。
ミサトの方を振り向くと力強く手を上げた。
「私、知ってます!ちょっとどころか色んな事を。行かせてください!!」
「失礼します。事情を知っている生徒を連れて来ました。さあ・・・」
言いながらミサトはヒカリを職員室に招き入れると戸を後ろ手に閉めた。
中に入ったヒカリは室内を見渡す。
窓際にナオコ教頭と向かい合い、弱々しくたたずむマヤの姿があった。
他に人の姿は見当たらない。
教師達は六時間目の授業に出ているか、教頭のただならぬオーラに圧倒されこの場を退散したかのどちらかだった。
そんな圧迫感漂う室内でミサトはヒカリを伴いそろそろと教頭に近付いていった。
「・・・・洞木さんね、クラス委員の」
「はい」
ヒカリは視線をマヤのほうに泳がせながら返事した。
うつむきながら微かにヒカリのほうに瞳を動かすマヤの頬には涙の通過した軌跡がくっきり残っていた。
(マヤ!なんてこと・・・・私がなんとかしなきゃ!)
「それでは!もう一度最初から事の次第を確かめます」
ナオコが声を張り上げマヤをにらむ。
「伊吹さん、先日私がどのように生徒と接し教育していくのかと聞いた時、貴方は生徒のみんなと一緒に考え悩んで答を探すとか、生徒と同じ目線に立って物事を見てみる事も必要とか言っていましたね?その時はそれなりに貴方の一生懸命さが伝わり好感が持てたけど・・・・・貴方の言っていた事とはそのような格好で生徒の中に同化する事なのですか?」
ナオコの問いにびくりと震え、マヤはおずおずと声を漏らす。
「・・・・そ、そんなつもりでは・・・」
「ではなぜそんな制服で転校生として教室に潜り込んでいたんです?」
「・・・それは・・・その、よく分からないんです・・・・意識が途切れて・・・気が付いたら制服着て教室にいたんです!それで・・・・いつの間にか転校生という事になっちゃって・・・それで実は先生だと言い出すきっかけ失ってしまって・・・・」
「どうして最初に本当の事を言わなかったんです!?」
追い込むようなナオコの問いにちぢこまるマヤ、その様子を見かねた様にヒカリの声が飛んだ。
「本当のことを言っても私達、信じなかったと思います!どう見ても教師には見えないですから」
ぐさっ!
ヒカリの懸命のフォローにかえって傷付くマヤ。
苦虫噛み潰した表情でこめかみに手をあてるナオコ。
「・・・・では、質問を変えましょう。伊吹さんが意識を失ったのはいつ、どこでですか?
「それは・・・・・」
言葉につまるマヤをかばうようにヒカリが答える。
「通学時間の校門前の道路です。前を走っている人が急にへたり込んじゃったので駆け寄ったんです。様子を見たら意識がもうろうとしていたみたいで・・・どうしたのって聞いたら学校へ連れてって言うから肩を貸して連れてったんです。本当に必死にお願いされたんです!」
「そう。それでその時伊吹さんはどんな服を着てましたか?」
「制服です」
どきっ
「それでは伊吹さんは気を失う前から制服を着ていた事になりますね」
「はい」
ぎくっ!
ヒカリは正直に答えているだけだが今の所マヤを追いつめる事にしかなってない。
ナオコがじろりと目を向ける。
「伊吹さん!貴方は意識を失って、気が付いたら制服着ていたんじゃなかったみたいね。校門前で倒れる前はいったい何をしていたんですか?」
「それは・・・・・」
声にだんだん凄みが加わるナオコの問いに、うろたえまくりながらマヤは自分の記憶をたどり出した。
(ええっと、気が付いたら教室で制服着ていて、その前は・・・意識がはっきりしてなくて、その前は・・・・その前は・・・・・・・・・・・・覚えてない?・・・・全然覚えてない!!)
マヤは自分の記憶がごっそり抜け落ちている事に気付いてしまった。
余りの事に両頬を手で挟み、茫然自失状態に陥るマヤ。
「わからない・・・覚えてないんです・・・・どうして?・・分からな〜い!!」
人間何らかの事故で気絶した時、その前後の記憶を失うケースはよく有る。
マヤの場合今朝、脚立に足を引っ掛け気絶し、校門前で倒れて二度目の気絶をした。
マヤは二度目の気絶の時にそれ以前の記憶を、つまり学生服屋の中年夫婦に助けられた事も一度目の気絶の事さえも忘れてしまっていたのだ。
一人パニクりまくるマヤの醜態に呆れるミサト、心配顔のヒカリ、そして益々険しい顔になるナオコ。
「伊吹さん、落ち着きなさい!!」
「ひっ!は、はい・・・」
「それでは一体どこから覚えてるの?・・・・そうね、まず朝起きてからどうしたか思い出しなさい」
「はい・・・確か、朝起きて・・・顔を洗って、歯を磨いて、おトイレにいって・・・」
子供のように指を折って記憶をたどっているマヤに顔をしかめつつ、それでも辛抱強くナオコは待っていた。
「今日はパジャマのままエプロンつけて朝御飯とお弁当を作って・・・朝御飯食べて・・・それから着代えようと洋服ダンスを開こうとして・・・・・??」
そこから記憶が抜け落ちていた。
「そ・・そんな・・・分かんない・・・・私、わたし・・・・・・何着て家を出たの〜?!」
混乱のどん底に落ち込んだ末にマヤの叫んだ言葉が、マヤ自身にとどめを刺してしまった。
ナオコは両手で頭を抱え、大きくため息をついた。
もはや聞く事は何もない。
「伊吹さん」
「へっ?は、はい」
「もうよろしい」
ぎくっ
「私は貴方のような若い人が意欲を持って教育に当たるのに期待をしていたのですよ。それがどういう意図かは知らないけれど制服着て生徒に混じって授業を受けて、そんな行為が許されると思うのですか!」
ナオコの追求にさらされ、返す言葉もなくマヤは怯え震えていた。
弁解の余地を失ってしまった事を知り、残されたものは恥ずかしさにまみれた絶望だけ。
もはやマヤには希望の光は見えないのか。
ナオコの追求は続く。
「どんな考えを持って教職を全うするのか、教師一人一人でやり方も違うでしょう。しかしどんな方法であれ、教師としてやってはいけない事があるでしょう!貴方のやった行為は教師として認められる事ではありません!」
「やめて!」
叫び声と共にマヤの眼前に少女が張り付いた。
(ヒカリ?)
そこには驚くマヤをかばう様に両手を左右に広げたヒカリが立ちはだかり、ナオコをにらみ付けていた。
ナオコもその思いつめた目に一瞬気押される。
「やめてください、教頭先生!これ以上責めないでください」
「ほ、洞木さん、どういうつもりです?」
「聞いてください!私、この人と会ってからとても仲良くなれたんです。私だけじゃない、アスカや、他の生徒のみんなとも仲良く・・・・いろんな事をしたんです!記念の写真を撮ったり、いろいろな話題で楽しくお話したり、給食をいっしょに食べたり・・・今日初めて会ったばかりなのに・・・・・ホントに楽しかったんです!」
「洞木さん、あのね・・」
「聞いてください!!」
「う・・」
「それだけじゃありません!話したり食事をいっしょにしたりする内に・・・なんていうか・・・私達の間に信頼感がでてきたんです。この子と私達をつなぐ・・・絆みたいなものが!・・・・これって、とっても大切なものだと思います・・これがいけない物だなんて絶対思わない!せっかく築き上げた物なのに・・・・・認められないんですか?心を通わす事が!!」
(ヒカリ・・・・)
おさげ髪がマヤのすぐ目下で怒りにうち震えている。
マヤは自分の事を一生懸命に守ろうとするヒカリの姿にただただ圧倒されていた。
どうして本当の事を言えなかった自分にここまでしてくれるんだろう?
何時の間にか胸に熱いものが込み上げていた。
(ごめんなさい・・・・ヒカリ。本当は教師だってこと言えなかった私をここまで守ってくれて・・・ごめんなさい!)
感情的に訴えかけるヒカリに毒気を抜かれ、冷静になってしまったナオコが諭すような声で言った。
「洞木さん、貴方達が伊吹さんにどんな好感を持とうと仲良くなろうとね、教師にはやっていい事と悪い事があるの。それを許しておく事はこの学校の教頭として絶対出来ない事なのよ」
「やっていい事と悪い事?どこがですか、そんなにいけないって言うんですか!!だったらリツコ先生はどうなるんです?いつも理科準備室で怪し気な研究して!!」
「な、なんですって?」
ナオコの顔色が急変した。
いきなり娘の名を引っぱり出され、ふいを突かれた形になったナオコは一気にひるんでしまったのだ。
心当たりがない訳ではないだけに。
「洞木さん、お、落ち着いて・・」
「なんでマヤがいけなくてリツコ先生がほったらかしなんです?とんでもない研究してるくせに!教頭の娘だからですか!?」
「!!・・・」
ナオコはヒカリの追求に言葉をつまらせてしまった。
はっきり言ってほぼ図星である。
一線を越えかけているヒカリの話をマヤはきょとんとした顔で聞いており、ミサトはというと、あちゃー、といった感じで額に手を当て天を仰いでいる。
感情が暴走したヒカリはついに禁断の言葉を口にしようとした。
「私、リツコ先生が準備室で何やっているか知ってるんだから!リツコ先生はあそこでカ・・」
「やめてええええ!」
金切り声と共に目にも止まらぬ早さで伸ばした手がヒカリの口を塞いでいた。
「うんむ、もが・・・・」
思いも寄らぬ教頭の行為に驚き、もがき声をもらすヒカリ。
ミサトが大慌てでヒカリに張り付いたナオコの手をひっぺがした。
「教頭、何をなさるんですか!気をしっかり持ってください!」
ヒカリから強引に引き離されて、やっとナオコは我を取り戻した。
「はっ、私なんという事を・・・・」
ナオコはヒカリの口を塞いだ我が手を呆然として見つめていた。
娘のリツコが理科準備室で得体の知れない実験をやっている事は勘付いていた。
それは自分が理科教師だった頃に通って来た道だ。
しかし教頭の職に付く今、娘の研究は母の頭痛の種でしかない。
なまじ研究に熱をあげる娘の気持ちが理解できるから余計始末が悪い。
とにかくもし、この事がばれたら母娘共々教師としての経歴に汚点を残す事になるだろう。
(ああ、もしそんな事になったなら・・・・リツコ、30過ぎてまだ親を困らせるの〜?!)
彼女の思考は普段の聡明さから考えられないくらい混乱しまくっていた。
そうしている間にも三人分の視線がナオコに向けられている。
ヒカリの険しい視線、マヤの事態を今一つ理解出来てない視線、ミサトの弱り切った視線。
うろたえながらナオコはなんとかこの場を取りつくろわねばと考えた。
ナオコはとってつけた様に背筋をぴんと伸ばすと、気を落ち着けようと咳払いをした。
「え〜、コホン・・・伊吹さん。貴方の言い分、そして教師としての生徒との接し方、良く分かりました。今回の事は不問とします。しかし伊吹さん、貴方が今後も今のような形で生徒とかかわっていきたいと言うのなら・・・・・・・・覚悟を決めて、最後までやって見せなさい!!」
威厳をもって言ってみせたつもりだが、混乱しているナオコは自分が並べた言葉の意味さえろくに分かっていない。
とにかくナオコは締めの言葉を言った。
「今後貴方のやり方をじっくり拝見させてもらいます!さがってよろしい」
「は、はい、失礼します」
マヤはぺこりと頭を下げた。
よく分からないが許してもらえたようだ。
教頭の気が変わらないうちにと、マヤはこそこそと出口に向かって歩き出した。
「良かったわね!」
一緒に歩きながらヒカリが声をかけてきた。
さっきとはうって変わった明るい笑顔。
マヤもつい微笑んで答える。
「ええ、あなたのおかげね・・・ありがとう!」
「そんな、私はただ必死で・・・・でもホントよかった!教頭先生も認めてくれたのね、今のマヤを」
「えっ、今の私を?」
一瞬考えるマヤ。
(待って・・・今の私って・・・・・・・・・制服着た私の事ぉ〜?!)
「あらためて紹介するわ。今日付けでこのクラスの副担任となる伊吹マヤ先生よ」
やや疲れ気味な声が教室に響いた。
マヤは生徒達と向かい合って立っていた。
一時間目同様容赦ない生徒達の注目の視線に彼女はさらされている。
しかも今の彼らはマヤが先生だという事を知っている。
なのに相変わらず制服姿のまま。
一時間目の時と負けない恥ずかしさが体をかけめぐり、頬を真っ赤に染めあげる。
制服の青いスカートから伸びた細い脚が小刻みに震えていた。
そんな彼女の右脇にミサトが立ち、左脇にはヒカリが寄り添っていた。
ミサトがマヤを促す。
「さあ、挨拶して」
耳の先まで真っ赤になった顔でマヤは恐る恐るおじぎをした。
「・・い、伊吹マヤです・・・・よろしくお願いします」
恥じらいつつ挨拶するその姿は十分すぎる程愛らしいのに生徒達の反応はない。
どうリアクションしていいか分からないのだ。
しばし気まずい沈黙が教室を包み込んだ。
淀んだ雰囲気を変えようと、ミサトは裏返りそうなくらい高いトーンで声をあげた。
「そ、そ〜ねぇ、みんなも色々聞きたい事あるだろうから、何かマヤに質問があったら言って〜」
ぞくっ
ミサトの言葉にマヤの全身が鳥肌立つ。
質問される事は一つしか思いつかない。
「ねー、んじゃ質問!」
ぎくっ
「どーしてマヤは制服着て転校生として現れて私らと一緒に授業受けてたのー?」
どきんっ
明朗な声でいきなり確信を突くレイの問いにマヤは硬直する。
胸から喉元までつまった恥ずかしさに声もろくに出せない。
「・・・そ・・それは・・・・うう」
言葉を出せずに泣きそうな表情を作るマヤを見かねたヒカリが口を挟んだ。
「レイ、あなたはマヤがここに来て楽しかった?」
「え?なーにそれ」
「一緒に話したり写真撮ったり食事したりして楽しかった?」
「うん、とっても!」
「私もよ。マヤがこのクラスに来て、私達とすぐ仲良くなってすぐ溶け込んで・・・とても楽しかったわ。たった半日で信頼関係ができたのよ。これってとっても尊い事だと思う。マヤは私達と一緒に考え悩んだり、私達と同じ目線に立って物事を見てみる事がとても大切な事と考えてたそうよ。そこまで私達の事考えてくれて、実行している人っていた?私さっき職員室へ行ったけど、あのナオコ教頭もマヤのやったことを認めてくれたの。それどころか最後までやり通して見せなさいって激励までしたのよ。だから、だから・・・・みんなマヤと仲良くやっていきましょ!・・・・いままで通り仲良く・・・・・お願い・・だから・・・・・お願い!!」
いつの間にかヒカリは涙を流しむせび出していた。
正直言って生徒達にとってヒカリの言ってる事は今一つ理解に苦しむ内容だった。
ヒカリ本人も実はよく分かってない。
しかしヒカリの泣きながらの必死の訴えかけは、妙に説得力をもって生徒達に伝わっていた。
それに理由はどうあれ目の前に立つ制服姿のマヤは非常に可愛く好感がもてる。
少なくとも彼女を責める気持ちを生徒達が持つ事はなかった。
「分かったわ、ヒカリ!」
き然とした声と共にアスカが立ち上がった。
親友の援護をするために。
「せっかく仲良くなったんだから、ずっと仲良しでいなきゃウソよね。みんな、これからもマヤとよろしくしてあげて。い・い・わ・ね!?」
同意を求めながらアスカはぐるりと生徒達を見回した。
反論は許さないといった雰囲気の迫力ある鋭い目つきで。
当然誰も抗弁はしなかった、いやできなかった。
何の文句も出ない事にほっと胸を撫で下ろしたヒカリがマヤの肩に手を置いた。
「みんなありがとう。よかったわね、マヤ!」
「えっ?ええ・・・(何が・・・何がよかったのかしら・・・?)」
「これでこれまで通り仲良くやっていけるわね!」
「ええ・・・」
にっこり微笑みかけるヒカリにマヤも取り敢えず微笑み返した。
(これまで通り・・・・・これまで通り??・・・・・・・・・・そんなのいやぁ〜〜!!)
ピ〜ンポ〜ンパ〜ンポ〜ン・・・・
六時間目終了のチャイムと共に教室の戸が開き、憔悴し切った足取りでマヤは廊下に出た。
彼女の虚ろな眼差しはもはや何がなんだか分からなくなってしまった挙げ句のものだろう。
心の中にはひたすら恥ずかしさが詰め込まれ、それがかえって空虚さすら感じさせてしまう。
(ああ・・何がどうなって・・・何をどうすればいいの?そもそも今の私って何なの・・・・・助けて・・神様、私に救いの手を!)
がら・・・・
追い詰められ、遂に神頼み状態になったマヤの前で戸が開いた。
隣の教室の戸だ。
廊下に出て来たのはもちろん神様ではなく、むしろ人によっては魔女とか言われていた人だった。
「セ、センパイ!」
マヤの漏らした声に振り向くリツコ。
しかし冷静な表情に変化はない。
(まさか隣で授業をしていたなんて・・・ああ、どうしよう)
五時間目の時にリツコに連れられ職員室に行く間、マヤは恥ずかしさの余り話す事ができなかった。
リツコも何も言わなかったので会話はなかったのだ。
それはマヤにはとても辛い事だった。
そして話すのが恥ずかしい立場なのは今もまるっきり変わらない。
(だけど・・・今話さないと、これからずっと話せないような気がする・・・・そんなのいや!言わなきゃ、センパイにここで今!)
意を決したマヤは恥ずかしさを必死に堪えて声を絞り出した。
「センパイ、私・・」
「マヤ」
さえぎる様に名を呼ばれ、はっとするマヤ。
「は、はい」
「マヤ、あなたが何をしでかしたのか、よくは知らないけど気にはしてないわ」
「えっ?ほ、本当ですか!」
声が浮き上がり、表情に明るさを取り戻すマヤ。
さっきまで空虚だった心に期待感が一気に膨らむ。
そんなマヤの変化にかまわず感情の希薄な口調でリツコは話す。
「私は関知しないから。あなたがどんな理由で何をしようとあなたのお好きにどうぞ。私は私でやっていくわ」
ぐっさあ!
(センパイ・・・・・そんな・・・センパァ〜イ!!)
マヤの心はリツコの冷たい言葉に一気にどん底に突き落とされ、肉体はフリーズしてしまった。
リツコはそんな立像の様になったマヤを気にも止めずに歩き出した。
マヤの脇をすり抜けようとしたリツコは、何事か思い出した様にふと足を止めた。
顔をマヤの耳元に寄せ、リツコはここで初めて表情を変えた。
ニヤリ
「マヤ、その制服とっても素敵よ」
びくんっ
凍り付いていたマヤの身体が痙攣し、反り返った。
リツコは再び無表情に戻ると、その場をすたすたと立ち去っていった。
後に残されたものは今だ動けぬまま反り返って立ち尽くすマヤと、突き放した言葉を投げかけたリツコが唯一誉めたのが彼女の制服姿だったという事実だった。
(センパイが・・・・・素敵だと言ってくれた・・・私の制服姿を・・・・・・どうしたらいいのぉ〜?!)
今更どうでもいいかもしれないが、今日転校するはずの少女は登校前に北海道の祖父が倒れたとの連絡が入り、家族共々急きょ北海道へ飛んだ。
その後入院した祖父の事業を父が継ぐ事になり、結局一度も学校に顔を見せないまま彼女は再び引っ越していった。
マヤの写真を撮るのをアスカに阻まれたケンスケだったがあれはダミーだった。
あの後別のカメラでマヤの隠し撮りに成功したケンスケは、昼休みのうちに写真を売りさばきかなりの収入を稼いだ。
結果、マヤの制服姿の写真は学校中に広まる事となった。
ただし彼女が教師であると知れわたったのは、彼らが写真を買った後の事だった。。
気絶したマヤを助け急場しのぎに商品の制服に着替えさせた学生服屋の夫婦は、本来マヤが着ていた服をきっちり洗濯して待ち続けていた。
しかしすでに二人の事はマヤの記憶から消失しており、その後彼らは二度とマヤと会う機会はなかった。
時刻は午後五時を回り、なお明るい初夏の日ざしを受ける校庭。
授業終了直後からずっと体育会系のクラブが活動してるので結構にぎやかだ。
彼らが学校を後にするのはもう少し先の事になる。
そんな生徒達の目を気にしながら、校庭の端をこそこそと小走りに進む人影。
一見女子生徒が下校しているごくありふれた風景にしか見えないが、当の本人の神経は張り詰めまくり、校門への距離を異常に遠く感じている。
ぽ〜ん、ころころころ・・・・
と、その時彼女の方にサッカーボールが転がってきた。
ボールを追いかけてきた二人のサッカー部員と彼女の視線があった。
(いやあ〜!)
彼女は逃げるように走り去って行く。
走りながらちらりと後ろを見ると、一方の部員がこちらを指差しながらもう一方に話していた。
「あれ、伊吹マヤだよな」
ぎくっ
(いやああ〜、私の事話知ってるぅ〜!もう学校中に広まってるの!?)
恥ずかしさがパワーとなり、マヤの走る早さが4倍速になった。
彼らはポケットから写真を取り出すと、すごい勢いで小さくなっていくマヤの背中と見比べていた。
ケンスケの売りさばいた写真は今やマヤの手配写真の役割をはたしていたのだ。
マヤの考える以上にマヤの顔は生徒達に知れ渡っていた。
「おい、あれが実は教師だとかいう噂知ってるか?」
「ああ、そんなのデタラメだろう、どう見たって普通の生徒じゃねーか」
漫然と話しながら彼らは校門に消え去るマヤの姿を見送っていた・・・・・・
校門をくぐり抜けたマヤは背を丸めて両膝に手を置き、荒い息を整えていた。
「はあはあはあはあはあ・・・」
取りあえず生徒の目からは逃れられたが今だ制服を身にまとっている事には変わりない。
早く家に帰らなければ。
しかし・・・・・
(ああ、今日は素晴らしい日になるはずだったのに・・・気が付いたら制服着てて、転校生と間違えられて、大恥かいて・・・・・センパイに見放されて!うう、唯一誉められたのがこの格好だなんて、それじゃ救いになんないわ・・・いい事なんて一つもないじゃない!!)
喪失感が身体に広がり、歩く気力も萎えかけてきた。
(ああ・・私、独りぽっちだわ・・・・誰か私を救って・・・お願い!)
喪失感の次は言い知れない孤独感が襲ってきた。
さっき神頼みしたばかりなのに、性懲りもなくすがる者を求めて俯く顔を上げるマヤ。
もちろん都合良くそんな者などいる訳が、
「マヤ」
「え?」
いきなり背後から聞こえた親愛に満ちた声にマヤは驚く。
後ろを振り返る僅かの時間にマヤは全てを理解してしまった。
これは偶然でなく必然なんだと。
そこに立っていたのは人なつこい笑顔でこちらを見ている良く知ったお下げ髪の少女だった・・・案の定。
「ヒカリ・・・・待ってたのね・・」
呆然として問いかけるマヤにヒカリは愛想を崩してコロコロと笑った。
「まさかあ〜、家に帰ってからすぐ夕飯の材料を買い物しに商店街に行ってたのよ。今、その帰りなの」
よく見るとヒカリは格好は制服のままだが、その手にはカバンの代わりに竹で編んだ買い物カゴがぶら下がっていた。
カゴからダイコンと白ネギが頭を出している。
「私、お母さんの夕飯の支度を手伝ってるから・・・だからマヤと会ったのはたまたまよ、たまたま!」
やけにたまたまを強調するヒカリ。
彼女の気持ちがマヤには手に取る様に分かった。
(買い物をして、その帰りにここに来て・・・・・私を待ってたのね)
偶然を装ったのはヒカリの気遣いだ。
どうしてここまでしてくれるのだろう。
いつの間にか喪失感も孤独感もどこかへ忘れてしまっていた。
あるのはなんとも微妙な、危うさと温かさの同居した心の揺らぎ・・・・
「ねえ、マヤの家はどこなの?」
「!・・・」
ヒカリのさりげない問いかけに息を呑むマヤ。
少し戸惑ったのち、マヤはそお〜っと指を差した。
「・・・・あっち」
ヒカリが目を輝かす。
「あら、私もあっちの方なのよ!」
(うう、きっとそうだと思った・・・)
「じゃ、一緒に帰りましょ!」
「ええ・・・」
ヒカリはカゴを持ち替えるとマヤの手を取った。
されるがままに手をつないだマヤはヒカリと並んで歩き出した。
ヒカリは軽い足取りで、マヤは重い足取りで・・・・
いつの間にか二人の歩く先に茜色の夕焼けが広がっていた。
一面朱に染めあげられた街路樹の連なる道を、仲良く手をつないで歩く二人の少女のシルエットが浮き上がっていた・・・・
畳敷きの四畳半部屋、北側の壁に洋服ダンスと収納ケースが置かれている。
その二つの間にちょこんと行儀良く鎮座している鏡台。
楕円形の鏡には気恥ずかしそうに立つ、この部屋の主の全身が映っている。
家に帰ったら真っ先に着替るつもりだったのに、マヤはこうして自分の恥ずかしい姿をじっと見つめていた。
そんな顔するなら見なけりゃいいのに、というくらい浮かない表情で。
鏡の中の生気の失せた顔を漫然とながめるマヤの脳裏に、ついさっき交わされた会話がリピートされる。
『へえ〜、マヤってここに住んでるの?、私の通学路の途中じゃない!』
ぴくっ
『知らなかったわぁ〜、私このアパートの前毎日通り過ぎているのよ!』
『そうなの・・・(な、なんだかこれって・・・)』
『そうだわ!』
ぞくっ
『今度から一緒に学校行きましょ!』
どきんっ
(やっぱりぃ〜・・・)
『私が誘いに来るから、ね!』
(うう・・)
『いいでしょ?』
『・・ええ、もちろんよ』
『よかった!じゃ、いつ頃がいいの?』
『ちょっと早いけど八時頃に来れる?』
『ええ、大丈夫よ』
『本当に?』
『うん!』
『きっとよ。約束よ』
『ええ。それじゃあ、またね。マヤ』
『またね、ヒカリ』
自分に断れる訳がないと分かってたせいか、最後のほうは妙にこっちが積極的になっていた。
(やけになってた・・わけじゃないわよね・・・もしかして・・・・・誘って欲しかったんじゃ?)
自分の心に矛盾を感じながら、マヤはあらためて鏡を見つめなおした。
鏡の中には制服を身にまとった・・・・・・
「・・・・?!」
制服を身にまとった少女が立っている。
ぞわっ
「え?・・・!」
身体中にざわついた疑惑が広がってゆく。
「これって・・・・もしかして?!」
マヤはざわつく気持ちを押さえながら、大きく息を吸った。
意を決した彼女は鏡の前で爪先立ち、くるんと一回転した。
スカートがふわりと舞い揺れる。
鏡の正面でぴたりと止まり、人さし指と親指でスカートの両端をつまむと、首を傾げてニッコリ笑い、可愛くポーズをとった。
きゅんっ
胸元に電気が駆け抜け、マヤは笑顔でポーズをとったまま硬直した。
鼓動が高鳴り身体じゅうに鳥肌が立っている。
鏡の中にはマヤと同様に笑顔で可愛いポーズをとる制服のよく似合う女子中学生がいる。
(・・私・・・・今年24なのよ・・・)
ぎこちない笑みを残したままマヤは堅く目を閉じた。
数秒後マヤはそっと目を開いた。
鏡には女子中学生が笑っている。
振り切るように目をつむる。
数秒後また目を開く。
鏡には女子中学生がいる。
また目をつむる。
数秒後目を開く。
女子中学生がいる。
目をつむる。
目を開く。
女子中学生。
「・・・・・・なんで・・・制服着た自分に違和感感じないの?・・・・自分が24だと知ってるのに・・どうして・・・・・・・・・・鏡に映った私が中学生にしか見えないのよ〜!?」
絶叫とともに畳にへたり込むと両手を目元に添え、マヤは子供の様にわんわん泣き出すのだった。
第八話完
とある休日のありふれた日常。
普段と変わらぬさりげない会話。
シンジの、アスカの、レイの、トウジの、ケンスケの、ヒカリの、ミサトの、リツコの、マヤの・・・
いつも通りであっても何もかも同じにはならない日常生活。
そしてそれは当事者に自覚のないまま何時しか喜劇となる。
次回大ぼけエヴァ第九話、
震撼!心が裂けて
日常の殻が破られ、解き放たれた非日常が怒濤の侵攻を開始した時・・・・「夢を見てたの・・・」
やっと書けました。
ギャグに徹するのが基本ですがなんだか妙な趣味性みたいなのが出てしまったようです。
その分これまでと毛色の変わった話になったと思ってますが・・・・
しかし終盤に近付くにつれ、話がくどくなった気がするのですがどうでしょか?
長くなったもんな〜。
この話のネタのヒントになったのは、『めぞん一刻』の一刻館の昼と夜、そして『いいひと。』の妙子先生です。
ただし、大ぼけではマヤに逃げ道を完全に無くす様に話作りしました。
はたしてマヤはこれからも制服着て学校行くんやろか?わしにも分からんわ。
こんな話でも感想をいただければ幸いです。
ver.-1.00 2001!02/23公開
御意見御感想(現在、というか前から返信率100%です。事故でもなきゃ)誤字脱字その他は、
m-irie@mbox.kyoto-inet.or.jp
です。