う。部屋に入り真新しいベッドに倒れ込むと、慣れない枕に小さな
顔を押しつけて、アスカは重いため息をついた。
ドイツでの二日目が終わった。
「まだ二日かぁ……」
会社からあてがわれた部屋は、アスカ一人には十分すぎる広さだっ
た。
ペントハウス並のスイートルームで、生活に必要なものはすべて
そろっている。日本で利用しているマンションの倍以上の広さだ。
日本で長く暮らしていたせいか、こう広いと少し落ち着かなかっ
た。豪華な分厚い一枚板の机の上はすでに資料やら契約書類やらで
散らかり放題。開いたままのスーツケースに、散らばった化粧水の
瓶。いつも通りの部屋になりつつあったが、広いおかげで部屋はま
だまだきれいな部分が多い。
「はぁ」
仕事は忙しかった。有機コンピューターの規格分裂は思っていた
以上で、提携を結んだウィーラント社も乱立する権力の一つに過ぎ
ないのだ。対立陣営は全部で三つ。今日はそのすべてと対面した。
どこも言い分は同じだった。自陣営規格。
自分たちの開発技術がメインになれば莫大な利益と権利を手にす
ることができる。アスカたちもそれは同じだ。だからこそ負けるわ
けにはいかない。
規格を統一し、なおかつ自陣規格を可能な限り多く取り入れる。
それがアスカに与えられた仕事だった。
「つかれたぁ……」
明日も予定はぎっしり。手帳は隅から隅までタイムスケジュール
で埋め尽くされている。
体全体にまんべんなく行き渡った疲労感。それが時差や仕事の厳
しさだけでのせいではないかもしれなかった。アスカはその理由を
ふと考えてしまい、慌てて忘れようとつとめた。
「シンジに電話しよ」
いま日本は夜中だが、そんなことは関係ない。のんきに寝ている
だろう頼りない恋人をたたき起こして、愚痴をたらたらこぼしてや
ろうと電話を取った。
と、ドアをノックする音が聞こえた。
「だれよ」
よいしょと立ち上がり、ドアの魚眼レンズをのぞくと、スーツ姿
のケンスケが立っていた。
「アスカ?」
寝くずれしたスーツを整えると、アスカはドアを開けた。
「どうしたの?」
「アスカ、食事は? まだだろう? 良かったら下で一緒にどう?」
「わるいけど、疲れてるの」
そう言った途端、アスカのおなかが可愛らしく音を立てた。
「……」
ケンスケは笑みを浮かべた。
「食べないと、もたないよ」
アスカは自分のうなじのあたりをなでた。
「うーん」
「ゆっくり話、していないじゃないか」
「……仕事の話は、ナシよ」
「ああ。わかってる」
「ロビーで待っていて。着替えるから」
ドイツ国営のホテルというわりには地味な、しかし品のあるレス
トランで、アスカとケンスケは円卓に向かい合ってグラスを合わせ
た。
「それにしても、おかしかったよ。日本で、俺を見たときのアスカ
の表情」
「びっくりしたわよ。見覚えのある顔が、テーブルの向こうにいる
んですもの」
「てっきり知っているものだと思っていたよ」
「うちの社長が意地悪くて、何も言わなかったのよ。それにしても
あんた、今まで何していたの?」
「高校に入ってすぐ留学してね。それからずっとこっちさ」
「ドイツ語もずいぶん上手ね」
「そうか? Danke!(ありがとう)」
会話しながらの食事は、空腹感もあってか、おいしかった。ソー
セージの味付けも懐かしく、ついついグラスのワインに手も伸びる。
「あんたって、むかしはなんかこう、得体が知れなくて怪しい感じ
だったけど、ずいぶんとサマになったじゃない」
ケンスケは眼鏡の奥の目を丸く見開いた。
「ひどいな! アスカは俺のことそんな風に見ていたのか?」
「まーね」
アスカは首をすくめて舌を出した。
「アスカはもう、ずっと日本?」
「そうよ。帰化したの」
「シンジとは?」
「ああ、あいつね。…まあ、なんかね、クサレ縁てやつ?」
それを聞いた、ケンスケは少し落胆の色を見せた。
「トウジと委員長が結婚して、俺だけ仲間外れか。あ、そういえば、
綾波はどうしてるか知ってる?」
思いがけない名前を耳にして、アスカは手を止めた。
「…さぁ? どこでどうしてるのかしらね。あの優等生」
「なんか不思議だったよ。偶然に再会したら、他の連中とまだつな
がりがあったんだから」
「日本に来るんでしょ? また。そのときに会ったら?」
「そのつもりだよ」
注文した料理が皿の上からなくなる頃、アスカの口から大きなあ
くびが飛び出した。ワインが眠りのツボをいい具合に刺激している。
「ふぁ。眠くなっちゃった」
「そろそろ出ようか。明日も早いし」
「あ、ねえ。ケーキ食べていい?」
アスカは上目使いで両手を合わせた。
ナプキンをたたんで立ち上がったケンスケは、しょうがないな、
と笑って再び椅子に座った。
翌日から仕事は順調に進み始めた。アスカの手腕はもとより、パー
トナーであるケンスケの仕事ぶりは他人を認めないアスカでさえ目
を見張るものがあった。
相手を巧みにやりこめる話術、頭の回転の速さ、状況判断の正確
さ、知識。どれをとっても一流で、アスカの方がサポートにまわる
場面も多々あるくらいだ。言葉も流暢で、東洋人であることを感じ
させない。
これならば自分は必要なかったのでは?
とアスカは思うこともあったが、それでは来た意味が無くなって
しまうので、負けじと能力全開。もてる情報・人脈をフル活用した。
もともとOPCOM・ウィーラント陣営の開発技術が最も優れて
いたこともあってか、交渉は有利に進めることができた。
三日間があっという間に過ぎ、金曜日、対立三陣営ともに仮契約
を結ぶまでに至ったのだった。
「お疲れ」
「お疲れさま。やった!」
ウィーラント本社内の会議室を出ると、アスカは差し出されたケ
ンスケの手のひらを勢い良く叩いた。
「これであとは規格の調整をして、本契約か」
「当分休めそうにないわね」
二人はエレベーターの前で止まった。ドアが静かに開き、乗り込
む。
「あたしは来週から日本での仕事になるけど、あんたは?」
「俺もだよ」
「ま、せーぜーあたしの足を引っ張らないよーにね」
「了解。本部長殿」
アスカに用意されたオフィスは八階にある。ケンスケを残して先
にエレベーターから降りた。
「明日は? 用事はあるのか?」
ドアを手で押さえながら尋ねるケンスケに、アスカは肩をすくめ
て見せた。
「まあね。いろいろと忙しいの」
「そうか。じゃあ」
ケンスケがドアの向こうに消えると、アスカはひとつ息を吐いて
壁にもたれ掛かった。
いつもなら仕事を終えた充実感が体中に溢れ返って足取りも軽く
なるのだが、ここ数日どうも自分の体の様子が違うことを感じてい
た。
自分のオフィスに入り、椅子に深くもたれるとあごを上げた。
明日の夜には飛行機に乗り、日本に帰らねばならない。そして月
曜日からはまた仕事。
自分で選んだとは言え、少々きつい。
アスカは別の命が宿るお腹に手を当てた。いまだその兆候は見ら
れない。
今からこれではこれから先、大きなお腹に、たまに街で見かける
あの歩くのも大変そうなアレ、になったとき、どれだけつらいか。
それを考えてアスカはますます滅入ってしまった。
土曜日。ドイツでの最終日。
今日をどう過ごすかはこちらに来る前から決めていた。
ゆったりとした白いワンピースを着ると、いつものスーツと違っ
てなんだか体が軽かった。
ロビーで車を頼みカギを預け、外に出た。今日も暑い。強い日差
しが東の方から降ってくる。
手をかざすと、ベンツの脇に立つ一人の男が目に入った。
ケンスケだ。こちらに気づき、やってきた。
「どこか行くんだろ。送るよ」
「なんなの? 誘ってるの?」
「仕事のパートナーともっと親しくなりたい、っていうのはダメか
い?」
自分よりだいぶ背の高いケンスケを下から上まで見やると、アス
カは両手を腰に当てた。
「ま、いいわ」
アスカは入口のボーイに頼んでいた車を断ると、ケンスケのベン
ツに歩み寄った。
「感謝しなさいよ。あたしの運転手をさせて上げるんだから」
ケンスケに開けられたドアから助手席に乗り込みながら、アスカ
は挑戦的な声を上げた。
「どこへ行くんだ?」
運転席に乗り込んだケンスケに尋ねられて、アスカは行き先を告
げた。