これが口の重い綾波レイから聞き出した、今現在の彼女の居場所
だった。
ずいぶんと近い場所にいたものだ、とシンジは思わずにはいられ
なかった。電車に揺られて一時間ほど。降り立った駅の周囲は遷都
による都市開発の波が届き始めていた。建設中の高層ビルがそびえ、
あちらこちらに道路工事の看板が並んでいる。ショベルカーのうな
り声、ダンプカーの排気ガス、がりがりとアスファルトを削る音。
不透明な空気は青黒い空に阻まれて逃げ場を失ってしまったようだ。
バスに乗って一〇分。大学病院前のバス停で降りると、シンジは
塀の奥に見えるやけに古めかしい建物を見上げた。
「綾波、いるかな」
正門をくぐり正面玄関から中に入った。広いロビーには診察待ち
の患者が大勢いる。昨日聞いた限りでは、彼女がここで何をしてい
るのかはわからなかった。
看護婦なのかな。医師かな。
そう思案しながらインフォメーションで尋ねると、「少々お待ち
ください」という答えが返ってきた。ガラス窓のあちら側で受付の
女性が電話を取る。
……綾波先生。碇様がご面会にいらっしゃってますが……。
レイはどうやらいるらしかった。
はい…はい……。
受付の女性は電話を置いた。
「先生がお会いになるそうです。お部屋はH棟の地下4階、1204
号室になります」
シンジは礼を言ってH棟へ向かった。
一般病棟から入院病棟を経てH棟はかなり奥にある。
床のラインを目印に歩いていくとH棟は研究棟だということがわ
かった。
「研究医か……」
シンジは妙に納得してしまった。あのレイが、患者の胸に聴診器
を当てている姿は想像しがたい。
病院特有の、清潔であるがゆえの臭いがだんだんと濃くなってき
た。カートが移動する音も、看護婦の足音も、押しつぶされたよう
に壁に吸い込まれ、耳が遠くなってしまったかのような感覚を覚え
る。
下りのエレベーターに乗って、シンジはもたれ掛かった。
軽い浮遊感。密閉された空気。小さな気圧の変化。そしてわずか
な重圧感。
ドアが開くと、ひんやりとした空気が流れ込んできた。地下四階。
シンジはエレベーターの中で寄りかかったまま動かなかった。ドア
が閉じ始めるとそれに反応して手をはさみ、体を重そうに引き上げ
た。
不意な既視感を残してドアは閉じた。地下の廊下には人の気配が
しない。上とは異なる、秘密めいた空間。かかとの床を蹴る音が薄
明るい通路の奥へ消えてゆく。
シンジの目に「1200」の札がかかった部屋が見えた。その向
こうには1201。一部屋ごとの間隔がやけに広い。曲がり角を曲
がり、細い通路の行き止まりに1204の部屋があった。
「ここか」
一度ためらい、シンジはドアをノックした。
返事はない。
ノブをまわすと、鍵はかかっていなかった。
「綾波、入るよ」
部屋の中は静かだった。明かりは、部屋全体を照らし出すには不
十分な、二本のうちの一本が切れた蛍光灯だけ。ちぐはぐに置かれ
た机の上には行き場所を失ったかのような書類の山。黄ばんだ端末
はホコリをかぶり、あらぬ方向を向いている。どこもかしこも乱雑
で、整理されたのがいったいいつなのか、まるで見当がつかない状
態だ。
部屋は一つではないらしく、奥に別の扉がある。
シンジは足下を確認しながらその扉の前まで歩いていくと、そっ
と押してみた。
綾波レイはそこにいた。白衣を着込み、顕微鏡を覗き込んでいた。
「綾波?」
「何しに来たの?」
レイはそのままの姿勢だった。
「昨日せっかく会えたのに、すぐ帰っちゃうから」
音を立てないようにシンジは扉を閉ざした。
「綾波がどうしてるか、気になって。……ほら、もう10年近く会っ
ていなかったじゃない。今までどうしていたのかとか、いろいろ聞
きたくてさ」
シンジは近くにあった椅子に腰を下ろした。試験器具の向こうに
いるレイを見ながら、言葉を探してそれを口に出した。
「綾波は、元気にしていた?」
「別に」
レイは興味なさそうに答えた。
「最近、みんなと会えたんだ。トウジに委員長に、ケンスケも日本
に戻って来ていたみたい。トウジたち、結婚してツバサっていう子
供もいるんだよ。男の子。トウジはサラリーマンで、委員長は小学
校の先生。アスカが今働いている会社の取引先に、ケンスケがいる
んだ」
独り言のようだったが、シンジはそのまま続けた。
「僕は今、建築士の仕事をしている。独立して、小さいけど、事務
所もあるんだよ。……綾波は今までどうしていたの?」
「……留学して、医者になったわ」
「いつ日本に戻ってきたの?」
「半年前」
「研究医、だよね。何の研究なの?」
「そんなこと聞いてどうするの?」
「そ、そうだよね。ごめん」
レイは顕微鏡から目を離し、顔を上げた。
「細胞よ」
「細胞?」
「そう。ガン細胞」
シンジはそれを聞いて、何気なくテーブルの上に乗せていた手を
さっと引っ込めた。
「平気よ。移るものじゃないから」
「そ、そうなんだ」
レイは立ち上がると、何も言わずに別の部屋に行ってしまった。
しばらくして戻ってきた彼女の手には水の入ったグラスが二つ。シ
ンジは差し出されたグラスを受け取った。
「ガン治療の研究?」
「違うわ。生命力の研究」
「どういうこと?」
レイは顕微鏡を指差した。
「見ればわかるわ」
シンジはレイがさっきまでいた場所で顕微鏡をのぞき込んだ。
「見えないよ」
「かして」
レイが横から顔を出してピントを合わせると、さらさらと流れる
ように髪が揺れた。色素のない、繊細な髪の毛だ。陶器のような肌
は白くて、静脈が透き通って見える。
シンジはどぎまぎしながら再び顕微鏡をのぞいた。
「……これが、そう?」
「ヒトの細胞は老化してゆくけれど、ガン細胞にそれはないの。そ
の研究」
「それって……」
シンジはレイの赤い瞳をのぞき見た。
「これ以上は言えないわ。極秘なの」
「ここに僕を入れて平気なの?」
「関係ないわ。重要なものはここにはないから」
レイは殺風景な壁にもたれかかった。大きめの白衣は彼女の細い
肩に引っかかってようやく止まっているようだ。下に着ている若草
色のサマーセーターは首もとが開いて、きめの細かい肌が、手折れ
そうな鎖骨の成すくぼみがあらわになっている。
「なに?」
「う、ううん。何でもない」シンジは慌てて顔を背け、立ち上がっ
た。「帰るよ。邪魔したら悪いし」
ただ綾波と話をしたい。ここへ来た理由はそれだけだったはずだ。
なのに、シンジは何かを期待していた自分に気づいた。いけないこ
とをしている、そんな気分に背中を押されて急いで部屋から出よう
とした。
「碇君」
ドアを半分開けたところで後ろから名前を呼ばれ、シンジは振り
向いた。口からはすぐに取り繕う言葉が出た。
「いきなり来ちゃって、ごめん」
「……もう少し、いたら?」
赤い瞳に胸を射抜かれて、シンジは一瞬大きくなった鼓動を感じ
た。
後ろにまわされたシンジの手は半分開いたドアを押さえていたが、
迷い迷い力が抜け、やがてドアは閉じられた。
その日の深夜。アスカから初めての国際電話があった。
時差は8時間。ドイツはまだ夕方だ。
電話から聞こえてくるアスカの声は元気そうだった。
「いろいろ打ち合わせとかあって、今ホテルに着いたの」
「体は大丈夫?」
「うん。平気。でも、時差がちょっとつらいわね。もう眠くなって
来ちゃった」
電話口で大きなあくびが聞こえた。
「こっちはもう、日付変わってるよ」
「そうよね」
「そっちはどう? 久しぶりでしょ?」
「うん。でも、あんまりゆっくりできないのよね。遊ぶ時間もない
くらいだし。あーあ。明日から会議の連続よ。やんなっちゃう」
「無理しないでね」
「わかった。ふぁ……だめ。もう寝よっと。また明日電話するから」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
シンジは電話を切るとベッドに潜り込み、布団を頭までかぶって
小さく丸まった。
別に悪いことをした訳じゃない。
そう自分に言い聞かせて、シンジは眠りについた。