当然、そんなことが出来る者はこの世界にはいまい。もしも出来るとしたら、それはおそらく神と呼ばれる存在なのだろう。
しかし、神ならざる身とて少しでもその視界を広げようと努力することが出来る。だからこそ人は古代より天を貫くがごとし尖塔を作ろうとするのだろう。
ここから見渡すことの出来る帝都の街並みの中にも、ちらほらと高く低くいくつかの塔が見える。それらはあるものは住居であり、またあるものは学校であり、あるものは無数の商店をそのうちに抱えている。その中でも一際高くそびえる尖塔が、帝都の中央に地に対して誠実な鉛直さでそびえていた。
細長い円錐形に近いその塔は、先端に近い部分が球体になっており、そこが常に淡い青色の光を放っている。壁面にはびっしりと紋様が刻まれているため、ここからみるとまだらの黒い模様が敷き詰められているかのようにも見えた。
『天魔の塔』と呼ばれるそれは、この偉大なる魔法帝国ジオフロントに生きる者の魔力をあまねく統べる、まさに魔法民の支配の象徴とでもいうべきものだった。もちろん、今この小高い丘から街を見渡している彼女ですらその例外ではない。
丘の頂上に近い、すこし開けた一角。彼女はそこに佇立していた。知らない者が見れば、誰かが高価な石像をそこに置いていったのかと思っただろう。彼女の体は金属の人形だった。
形状で言うならば、蛮族たちの用いる金属鎧にこそ最も近いのだろう。もしも中が空洞であれば、威風堂々とした大男が身につけることも十分にできたかもしれない。特殊な金属と特殊な製法――もはやそれを知る者はこの世界に残ってはいないが――で作られた流線型の全身は、人間の筋肉以上に強くしなやかに動く。それに加え、帝国の上位魔術師にすら匹敵する魔力と自らに向けて放たれた全ての魔法を無効化する能力を持つ彼女は、まさにこの魔法帝国ジオフロントにおいて最強の名を冠するにふさわしい存在だった。
葉の微かに擦れ合う音に上を見上げると、一羽の小鳥が枝の合間を縫うように飛びながら、すと彼女の肩に降り立った。頭から背にかけて美しい青色の走る小鳥だった。くちばしの周りはやや黄色がかっている。
彼女は何も言わずに腕を上げ、前に向かって心持ち指を伸ばした。彼女の意を汲んだのか、小鳥は細い二本の足で飛び跳ねるように、彼女の体を移動して指の先端にとまった。何度か足を置き換えるとようやく安定したのか、少し羽を振るわせ、顔を心持ち上向けた。嘴から漏れるさえずりは、人間たちが好んで愛でるほどに美しくはなかったが、そんなことは関係ないとばかりに小鳥は一心にさえずっていた。
やがてそれを聞きつけたのか、同じような柄をした小鳥が何羽か集まってきた。小鳥たちはそれぞれ思い思いのところに――すなわち、彼女の頭、肩、腕、胸、指――降り立つと、まるで演奏会でも開こうといわんばかりにさえずり出す。いつしか無数の鳥たちが集まってきて、彼女の両腕と両肩、頭、それに体の上に乗ることが可能であるような場所全ては色とりどりの羽に覆われてしまった。
それぞれが競い合うかのように騒がしく鳴きわめくなか、彼女はただ何も変わらない様子でそこから帝都を見下ろしていた。『天魔の塔』の輝きは、毛一本ほども変わることなくいつも同様に街を照らしている。その真下に位置する宮殿。そこに安置されているはずの槍のことが、ふと頭をかすめる。
反逆者の血で染め抜かれたかのように禍々しく赤い二股の槍が、皇帝以外に入ることの許されない静寂の一室の中で、悠久の時を静かに眠っている。かつて彼女たちを造った者、彼女たち兄弟の父が作り上げたものである。
「これは鎖なのだ」
父はそう言った。彼女たち五人を自らの前に並べ、それを片手で地面に立てて見せながら。
「これはお前たちを戒める。わかるな。お前たちが持っている、その強すぎる力……このわしですら凌駕するほどの力。それは帝国に刃向かう者どもへと向けられるべき最強の刃だ。決して、その刃が我が帝国へと向かうようなことがあってはならない。すなわち……わかるな。これは鎖なのだ」
そのときから、彼女にひとつの幻影がつきまとい始めた。それは決して離れず、消えることも薄まることもその存在を忘れることもない。ただ、焼き付けられた刻印のように彼女に付随し続ける。
小鳥たちのさえずるその下に、幾重にも巻き付けられた重い鎖に戒められた自らの姿を彼女は見た。それは甘美な誘惑にも似た、緩やかで、しかし締め付けられるかのような絶対的束縛。
鎖の幻影は、今は亡き父の声と姿に重なって、途絶えることなくその精神を縛り続ける。あの槍が存在する限り、それを使う者がいる限り、それは消して消えることはないのだろう。あるいは、彼女が存在してる以上存在し続けるものなのかも知れない。もはや彼女とその鎖とは同一のものであり、境界線は非常にあやふやで、どこからが彼女でどこからが鎖なのか誰にも判別することなど出来ないのかも知れないのだ。
「これは鎖なのだ」
父の声が、休む間もなく押し寄せる小鳥たちの泣き声の合間に、浮かび上がっては消える。彼女は動かない心で、静かにそれを聞いていた。
不意に、草を踏む音が聞こえる。
その音に驚いたのか、彼女の体に止まっていた鳥たちは一斉に飛び立ってしまった。いちどきに木々を揺らし、やがて森の懐へとそれぞれが吸い込まれていく。
彼女は体が軽くなったことを感じながら、背後へと振り向いた。そこにはまるで誰かが姿見をおいたかのように、彼女と全く同じ姿があった。あえて相違点をあげるのなら、その肩に刻まれた魔法文字。『3』を現すそれは、このかりそめの体と彼女たちの本体である精神体をより強固に繋ぎ止める働きを持つ。彼女の肩には、それとよく似た『1』の文字が刻まれているはずである。
「ファースト」
彼女と同じ姿を持つそれは、抑揚のない声で彼女の名を呼んだ。
「こんなところにいたのか」
その声には感慨などない。ただ、現実をそう認識したということを示すだけのものに過ぎない。
彼女は答えず、ただ空を見上げた。鳥たちの去っていた方向を見たかったのだが、どれもてんでばらばらに散らばっていってしまったので、方向を特定することが出来ない。
「……鳥が、逃げたな」
それは、彼女の視線を追うかのように顔を上げた。彼女はやはり何も答えなかった。
サードと呼ばれるそれも、特にそれ以上の会話を成立させようという意欲もないのか、ただそこにそのままの姿勢で立っている。動くなと言われれば、彼女たちは例え何百年間であろうと毛ほども動かずにいることが出来た。
「鎖が……」
彼女は呟いた。
その声に、サードが空を見上げていた顔を下ろす。
「鎖が、もしも消えたなら……あなたはどうする?」
人間であれば、その問のあまりの唐突さに驚愕し、答に詰まったかも知れない。しかし、サードの答はよどみなく、また予測できたものでもあった。
「ありえない事象についての推定は無意味でしかない。価値のない問だ」
彼女はもはや本当に何も言わず、静かに魔力を練った。足の裏から音もなくそれを放出し、自らを空中へと、より高く押し上げる。
(それでも……)
高く、さらに高く。やがて地面からこちらを見上げているであろうサードの姿も見えなくなるほどまで高く。
(それでも、私は……)
体にまとわりつく鎖が、徐々にその重さを増していく。彼女の体を地面に繋ぎ止めようとするかのように、下向きの力が全身に負荷となってかかった。天に向かって一直線に進んでいた体が――邪魔な体が、徐々にその速度を落としていく。
そして、彼女は体を捨てた。
唐突に浮力を失ったかりそめの体は、なすすべもなく地に落ちていく。たとえ地面に激突したとしても、傷一つ負わないのだろうが。
無骨な人形から抜け出た彼女は、少女の姿となってさらに高くその身を押し上げようとした。しかし、鎖の幻影は、例えその本来の姿を取り戻したとて消えることはない。むしろ、より濃く明確にその姿を具現させてすらいる。
一糸まとわぬ姿で空中から帝都を見下ろす少女の精神体は、自らの細く白い腕を、何か異質なものでも見るかのような面もちでじっと見つめた。
(私は、問いかけることをやめることができない)
螺旋状にからみついた鎖が、明確な重さを持って彼女の全身にのしかかっていた。上空の強く冷たい風が自分自身の中を通り抜けていくのを感じながら、彼女はその腕を――その鎖を、凝視し続けた。
(父よ。私をただ戦いのためだけに作ったのなら……何故、私をこんな姿に作られたのですか?)
じゃらり、と鎖が揺れた。
何故かそれは、彼女には答を知る者の嘲笑のように思えた。
●
奇妙な空間が崩壊するその一瞬に浮かび上がったものは、彼女の遠い記憶だった。
それは一瞬の閃きのように鮮やかによみがえり、そしてすぐに彼女の心から去っていった。
白昼夢が終わった後には、亀裂の入った空間から外に投げ出されている自分たちという現実だけが残される。
自分たち。
そう、自分だけではない。気の弱そうな瞳の少年――驚いたように大きく目を見開いている――が、彼女の目の前にはいた。自分に心はあるのだと言ってくれた少年。共に暮らそうと言ってくれた少年がそこに――いない。
「…………?」
一瞬、訝しく思って、すぐに彼女は足下に目を向けた。
特に意識せずとも空中に静止していられる彼女とは違い、地面にしこたま打ち付けられたらしい少年は涙目で腰をさすっていた。
無数の視線が、様々な思惑と共に彼女に向けられていた。しかし、そのどれをも塵ほども意に介せず、彼女はゆったりと少年の目の前へと下降した。
「……大丈夫?」
「え?」
少年は驚いたように顔を上げた。彼女はその瞳をのぞき込むように、もう一度尋ねた。
「大丈夫?」
「え、あ……う、うん! 大丈夫だよ、いや、多分、ほら、多分」
少年は慌てて立ち上がり、なにやら手を無意味にわたわたと振りながら答えた。顔が紅潮している。
その様子を見て加速度的に不機嫌度を増していく姿もまたそこにあったのだが、やはりそれも彼女の認識の範囲外だった。先ほどまで少年がさすっていた場所、すなわち腰にそっと手を伸ばす。
「うわっ!?」
少年のうわずった声があがる。彼女は少年の両脇から腕を回すようにして、少年の腰をさすっていた。
「痛いの?」
「あ……いや、痛いって言うか気持ちいいって言うか、じゃなくて、あのだからその、その痛いんじゃなくて気持ち、でもなくてえとあと、そのこれがだから……」
顔を紅潮させた少年の言葉は、だんだんと意味不明になっていく。彼女はその顔をじっと見つめていた。それに呼応するかのように、少年の顔面にはさらに血液が集まっていく。
「え、エヴァ……その、あのね、それは……」
少年が何かをいいかけようとしたとき。
「いつまでやっとるかこのエロガキぃぃぃぃぃぃっ!!」
ごす。
と、かなり本気の踵が少年――シンジの頭頂部にたたき込まれる。
頭から煙を出すように倒れたシンジの向こうからは、憤怒の形相に彩られた赤毛の少女が現れた。
エヴァは、何も言わず、ただその少女を見つめた。少女も同様にエヴァを見つめ返してくる。
「本当に、籠絡したのね……わが弟ながら、たいしたもんだわ」
ふたりの間に渦巻く緊迫した空気とは全く関係なしに、彼女たちの頭上からは脳天気な声が響いてきた。
それに誘われるかのように、同時に上を見上げる。少女ふたりの視線を受けながら、ふわふわと降りてきたのはレイだった。
発動しかけていた魔法はいつの間にか中和したらしく今はもう彼女の腕の中にはない。頭から煙を出したままのシンジの頭のそばにまで降りてくると、その耳元に口を近づけ、
「で、どうやって口説き落としたの?」
とささやく。アスカのこめかみに、ぴしと血管が浮かび上がった。
「姉さん……人聞きの悪い言い方をしないでよ……」
脳天のダメージはもうどうでもいいのか、シンジは倒れたまま妙に疲労したような声でうめいた。
「だって、魔法生物のエヴァンゲリオンをあんな短時間で味方に付けるなんて、なかなか大したものよ。やっぱりあんたもお父さんの息子だし、ジゴロの血が流れてるのかしらねぇ」
「どっか別の世界の話をしてない?」
そんな二人のやりとりの中で、加速度的に機嫌を傾けていくのはやはりアスカである。
地面にうつ伏せに倒れているシンジの背中を思い切り踏みつける彼女と、潰されたカエルのような悲鳴を上げるシンジを、エヴァは無表情に見つめていた。
少年の助けを求めるような瞳に彼女が腰を下ろしかけた瞬間、ある感覚が、彼女の全身を突き抜ける。それは、記憶の彼方に残る太古より途絶えることなく繰り返されてきた感覚。非常に特殊でありながら最も普遍的な、潮騒にも似たある必然。
金属のこすれる音が、彼女の脳髄のさらに奥深くへと届いた。悠久の時を経ても赤錆びることも崩れることもない鎖が、今もまた彼女の全身を戒めている。
「あ、ああ……」
うめき声が、漏れる。
エヴァの異常に気づいたのか、シンジの両足の関節を極めていたアスカも、すでに三割ぐらい死にかけていたシンジも、それを妙に楽しそうに観察していたレイも彼女へと視線を向ける。
「くくく……とうとう解放されたか、『エヴァンゲリオン』よ……」
声の主は、全身がぼろぼろになりながらもなんとか槍を杖にして立っているトキタだった。結界の崩壊した隙にアスカから逃げ出したらしいオオツキと、いつの間にか姿を現しているツキオカも両脇にいる。
エヴァは、こめかみのあたりに不必要なほど力がこもっているのを自覚しながら、それへと向き直った。彼女が見つめていたのは、トキタよりもむしろその槍。彼女とその兄弟たちを、すべての時間と空間を越えて束縛し続ける絶対不変の鎖だった。
深紅の槍が、ゆっくりと円を描くように彼女の視界の中を動く。それに誘われるかのように彼女の右手が徐々に上がっていった。
肩のあたりまで上がったところで、彼女は再び少年たちへと向き直った。すでに全ての思考が頭からは消失して、ただ槍を媒介として伝えられた命令だけが彼女の精神を満たしている。
まっすぐに伸ばした右腕に、わずかな熱が発する。それと同時に広げられた掌に、ごくわずかなエネルギーが発生した。それは一瞬で膨れあがり、絶対的な破壊力を秘めた拳大の光球となる。
赤い瞳に、青ざめる標的の顔が映った。
鎖に引き上げられた右腕に灯る破壊を、彼女は解き放とうとした。
瞬間、全身に鋭い痛みが走る。
「!!」
それは、まさに一瞬だった。しかし、その一瞬で彼女の手から放たれた『神の槌』は大きく狙いをはずれ、よく晴れた蒼穹へと吸い込まれていった。
壮絶な光と熱の余波だけが、その場にしばし残り、そして消える。
「な……」
背後から聞こえた声は、明らかに驚愕のものだった。
「なにをやっている!?」
槍の主の悲鳴にも似た絶叫が聞こえる。
エヴァは、ただ無表情にたった今最強の武器を用いた自分自身の右手を見つめていた。
命令に従わなかったわけではない。しかし、それを放とうとした瞬間、自分自身の中のなにかがそれを押しとどめたのだ。それは、かつて一度たりとも経験したことのない感覚だった。
「エヴァ……」
標的の、否、標的であった少年の声がきこえる。呆然としたような、安堵したような、そんな声。
その声が、彼女の中の何者かを目覚めさせた。
彼女の精神からは一瞬で槍の命令が追い出され、再び思考が、そして少年の記憶が戻ってくる。
「私……は……」
さらに何かを言いかけようとしたとき、鎖が再び音を立てた。
はっと息を呑み、背後を振り向く。
「貴様……槍の命令に刃向かう気か?」
真っ赤な戒めを手に持ったトキタが、その両目を怒りの色に輝かせている。それに呼応するかのように、鎖は彼女の全身を締め上げた。
「く……」
苦しげな声を上げる彼女にはかまわず、トキタは槍を突きつけるかのようにその目の前へと突き出した。
「もう一度命令してやろう……『エヴァンゲリオン』! やつらを、殺せ!」
鎖が、鳴った。
抗いがたい、絶対的な力が彼女の体と心から自由意志を奪おうとする。
しかし、彼女の中で目覚めた何者かが鎖の支配を否定した。それに従ってはならないと、頭の中で声が鳴り響く。
エヴァは頭を押さえ、その場に立ち尽くしていた。
彼女の精神の最も奥深いところに組み込まれている機構が、波のように彼女へと命令を送り込む。しかし、何かがそれを押しとどめている。それは少年の笑顔であり、言葉だった。
魔法空間の中で少年が語った言葉が、見せた笑顔が、そして自分自身が生まれて初めて感じた欲望が、再び槍の道具となることを彼女に拒絶させていた。
命令と芽生えかけた自意識との狭間で、エヴァはひとつの幻覚を見た。
そこに立っているのは、全身に鎖の絡みついた長い黒髪の少女。体から解き放たれた彼女自身の姿が、エヴァの目の前に立っている。その顔にはただ無感動のみが浮かび、吸い込まれるような瞳はじっと彼女を見つめている。
少女は何も語りはしなかった。ただ、重そうな鎖を身にまとったまま、無表情にこちらを見つめてくる。
エヴァは、その少女を見つめ返した。父が彼女に与えた姿を、それとは別の姿の中から凝視する。
少女は歩み寄り、エヴァの身を戒めるその鎖を手に取った。細い指先で、エヴァの体から鎖をひとつひとつほどいていく。
エヴァを戒める鎖が半分ほどになったとき、少女はそれを持ったまま彼女から離れた。
今し方エヴァの体からほどいた鎖を、今度は自分自身の身にまとう。
何かを言いかけたエヴァを制するように、少女は、初めての微笑を見せた。エヴァはその微笑に、少女と自分がもはや別の物になってしまったのだということを悟った。
少女の姿は、エヴァの鎖の半分を身にまとったまま、薄らいでいく。エヴァが見つめる中、やがて少女は消えた。透けるような微笑だけがその場に残っているかのような気さえした。
エヴァは、自らの両腕を見つめた。そして、そこに絡みつく鎖を見つめた。それは以前よりも軽くなったような気がしたが、それでもなお彼女を強力な力で戒めていることに変わりはなかった。
「『エヴァンゲリオン』!」
不意に、絞り出すような金切り声が聞こえる。
「槍の命令に従えと言っている! 貴様、聞こえないのか!?」
同時に、彼女の全身に今までの数倍もの負荷がかかった。滝のように押し寄せる絶対的な強制力が、彼女の意思を何度も押し流そうとする。
エヴァは全力でそれに抗っていたが、限界はすぐに訪れた。
(もう……駄目……やはり、私は……)
彼女の未熟な意思が、膨大な命令に飲み込まれようとしたその瞬間。
乾いた音が、響いた。
その場に流れていた時間が、一瞬止まったかのような錯覚に陥る。それほど、その瞬間に誰もが動きを止めた。
エヴァが自分の顔が横向きになっていることを理解すると同時、左頬がほのかな熱を帯び始めた。
ゆっくりと顔の向きを元に戻す。視界いっぱいに見えたものは、彼女の頬を張った姿勢のままでじっとこちらを睨んでいる赤毛の少女の顔だった。
エヴァは、その少女の瞳を見つめた。彼女自身は気づいていなかったが、無意識のうちに左手は頬を押さえ、驚いたような表情がその相貌に浮かんでいる。
「ア、アスカ……」
少年のうろたえた声が聞こえた。それは空気をふるわせただけで、誰の反応を得ることもなかったが。
赤毛の少女は、じっとエヴァを見つめていた。深海の色をたたえる瞳には強固な意思がみなぎり、口元はまっすぐに引き締められている。たった今エヴァの頬を張った手をその眉間に突きつけ、ゆっくりとした、しかし確固とした口取りで告げる。
「うっとおしいのよ、あんた」
「…………」
「はっきりしなさいよ。あんたはあたしたちの敵なの? それとも味方なの?」
「…………」
エヴァは、ただ沈黙を守っていた。突きつけられた問いが、頭の中で繰り返される。
敵か、味方か。
是か、否か。
不意に、エヴァは求められているものはただそれだけであることを悟った。
そして、答えはきっともうとっくに出されているのだということも。
少女が、かつての自分が肩代わりしてくれた鎖の残りが、いつの間にかほんの薄っぺらな、頼りない物のように見える。彼女の視線にすら耐えられないそれは、やがて紋様のような亀裂に覆われ、崩れ落ちた。それが二度と彼女を戒めることはないと、彼女は知っていた。
顔を上げて、赤毛の少女の顔を見据える。
赤毛の少女もまた、しっかりと見つめ返してきた。その瞳に浮かんでいる意思と感情は、きっと今の自分の瞳にもあるのだろうとふと思う。
「私は」
しっかりと、話す。迷いはない。
「彼の、味方よ」
と、少年を、シンジを指さす。
赤毛の少女もまた、その指の指し示す先へと眼を走らせた。
そして、エヴァに向き直る。その表情からはいつの間にか力が抜け、微かな、けれど強靱な意思を内包した笑みがそこに浮かんでいた。
エヴァはそれを美しいと思った。初めて抱く感情だった。
「……あたしもよ」
少女の言葉に、エヴァは顔から力が抜けていくのを感じた。
それこそが笑みであると彼女が知るのは、もう少し後のことである。
「馬鹿な……そんな馬鹿な……」
痴呆のように響くトキタの声には、もはやそれまでの傲岸さも自信も完全に消え失せていた。
手に持ったロンギヌスの槍を何度も振りかざすが、もはやそれはエヴァに対して何ら強制力を持ってはいないことは一目見て知れた。
中央にシンジ、アスカ、レイ、エヴァの四人を据えて、ゲンドウ、ユイ、マナ、カヲルもそれぞれ扇形に並んで彼らを取り囲んでいる。レイの猛攻に耐え続けたトキタはもちろん、オオツキとツキオカももはや体力、魔力共に限界に近づいているようだった。
「く……我が命に依りて目覚めよ、命無き僕よ!」
ツキオカの声と同時、それまで動きを止めていた土木偶たちがむくりと起きあがる。その手にはやはり微弱な魔法の光を発する長剣が握られていた。
土木偶たちはややぎこちない動きながらも、その長剣を振りかぶり、彼らに襲いかかろうとした。
しかし、次の瞬間、それらは再び動きを止めた。
「何っ!?」
「新たなる命令を下す――命無き物よ。土へと帰れ」
落ち着いた声と同時に、土木偶たちはみるみるうちにその形を崩し、数秒の後には完全に単なる土の塊となる。その手に持たれていた長剣が、落ちてかすかな音をたてた。
「強制的に命令を書き換えた、だと……?」
魔法技術における相当の実力差がなければできない技である。
「今まで黙っていたけれど」
声はかすかに笑みを含んで、彼の前方から聞こえてきた。黒ずくめの格好に身を包んだ銀髪の少年が、そこに立っている。
「付与魔術は僕の得意分野でね」
その顔には笑みが浮かんでいたが、額には汗が浮いている。先ほどまで巨大な魔法空間を、独力で長時間維持し続けたのだ、それも当然だろう。
そして、その状態でなおこの少年は彼の支配した土木偶たちの命令を書き換え、しかもそれらを全て一瞬で消滅させたのだ。
「化け物だ……」
あえぐように、声を絞り出す。もはや手駒はない。正直に言って、あの土木偶たちは彼の切り札とでもいうべき存在だった。
「チェックメイト、かしら?」
顔には笑みを浮かべたまま、精神体のレイ。やはり、感情のある方が魅力的だな、などと場違いな考えがふとツキオカの頭に浮かんだ。
「くぅっ……!」
トキタが、唇を噛む。
終わりだ。ツキオカはそう悟った。
もはや彼らだけの戦力では逃げることすら出来ないだろう。運命をこの者たちにゆだねるしかない。
(死ぬかな……?)
そんなことを、ふと思った、その瞬間。
爆炎が、彼の視界を塗りつぶした。
「……え?」
思わず間の抜けた声を漏らす。あまりに急激な場面展開に、頭がついていかない。ただ、わかることは彼の目の前で――突如、レイたちを皆巻き込んだ大爆発が起こったということだけだった。
もうもうと立ちこめる粉塵が収まった後には……巨大な影が、そこに立っていた。
「ふっふっふ……」
黒ローブに包んだ体躯を揺らすように、不気味などす低い笑い声をあげる。
「味方のピンチに駆けつけ、一瞬にして戦局を逆転させる……まさに主役級にだけ許された」
「なんだ、グラシアスか」
「…………」
トキタがつまらなさそうに言うと、その影――というか、グラシアス――はぴたと動きを止めた。言葉も止まる。
ぎぎぎっ、と音がしそうな、ぎこちない動きで首をツキオカへと向ける。何となく嫌な予感がした彼は、こっそり後ずさった。
その瞬間。
「愚か者ぉぉぉぉぉぉぉっ!」
「うわあああっ!?」
グラシアスの拳が、ものすごい速さで飛んでくる。とっさに後ろに飛んだツキオカが立っていたところに、轟音と共に巨大なクレーターが現れる。
そのクレーターに腕を突っ込んだ姿勢のまま――グラシアスはおもむろに黒ローブを脱ぎ捨てた。その両目からは激しく涙が流れている。
「俺の見せ場……」
「……は?」
言ってることを理解しかね、思わず聞き返す。グラシアスはなおも涙を流し、あまつさえには天を見上げながら続けた。
「一生に一度の……俺の見せ場だった……名乗りのポーズだって考えていたんだ……」
かっ! と目を見開き――どびしっ! と指を突きつける。
「それを! それを貴様は! 台無しにしおって! 許せぇぇぇぇぇぇんっ!!」
「どわわわわわっ!」
滂沱の涙と共に、光球を手当たり次第に投げつける。あちこちで爆発を巻き起こすそれを必死にさけながら、ツキオカは何とかグラシアスを説得しようと手を振りながら叫んだ。
「待て! ちょっと待て! こんなことをするために来たんじゃないだろう! 助けに来てくれたのには礼を言うから、だから……」
ごいん。
彼が言葉を言い終わる前に。
何故か光球に混じって投げられていた子供の頭ほどもある石が、彼の顔面に命中して。
「がっ……」
そのまま、顔にくっきりと石の形を残したままでツキオカはゆっくりと後ろ向きに倒れた。
意識を失う直前に見えたのは、投げやりなほどにただ青いだけの空だった。
「ふぅ……」
ツキオカを撃沈したグラシアスは、それでいくらか気が晴れたのか、多少落ち着いた様子で辺りを見回した。爆発による粉塵はまだ収まっておらず、むしろ彼が暴れたことによりさらに激しさを増しているかに見える。
そっと額に手を当て、状態を上向けて天を仰いだ。空の青さが目に染みる。
「虚しいものだな……戦いとは」
こぼれ出た涙を腕で拭った、その瞬間。
「じゃかましいぃぃぃぃぃぃっ!」
ちゅどどどどがぁぁぁぁん!
無数の光熱波が雨あられと降り注ぎ、瞬く間にグラシアスの体を再び粉塵によって覆い隠した。
「この……忘れられたキャラのくせに私に攻撃を食らわせようなんていい度胸じゃないの、この変態アフロ!」
激怒の声と共に現れたのは言わずもがなのレイである。両腕を組み、豊かな胸を張って空中からその姿を見下ろしている。
「む、むぅ……? 確かに直撃させたと思ったんだが……?」
体中をあちこち焦がしたままで立ち上がって、グラシアス。見かけほどにはダメージは大きくはないらしい。
見てみると、他の者たちも少し離れたところで難を逃れているようだった。まあ、彼らはあえて照準に入っていたわけではないので、よけるなり逃げるなりしたのだろうが。
「理由については前話参照! とにかく、あんたもそこの連中と一緒に粛正してやるから、覚悟しなさい!!」
レイの両腕には既に特大の破壊魔法が宿っている。彼女が一声叫べばただちに確実すぎる死と破壊をもたらすであろうそれは、今はまだただの青白い不定形のエネルギー体として、彼女の手で渦巻いていた。
対するグラシアスの顔からは、未だ余裕が消えていない。その無意味なほどに筋肉のついた右腕を高らかに差し上げ、そのままで言葉を紡ぐ――余裕の笑みを浮かべたままで。
「ふっふっふ……この俺ともあろう者が、何の対策もなく貴様らを倒しに来たとでも思」
「<ポジトロン・カノン>!!」
こぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!
超高密度の魔力が、特大の帯となって周囲の木々ごとグラシアスをなぎ倒す。地面の木の葉が数枚、その圧倒的な威力に吸い寄せられるように舞い上がり、帯に触れた瞬間に燃え上がって消えた。
一瞬の破壊が吹き荒れた後には、ただ静寂と道路のようにまっすぐと続く傷跡だけが残る。
「ふん」
唖然として見ている周りなど一向に気にもとめていない様子で、レイはぱんぱんと手を払った。
「さてと、私に刃向かった愚か者4号の粛正は済んだみたいだし、次は……」
「待てぇぇぇぇぇぇぇぇいっ!」
絶叫と共に、ものすごい勢いで傷跡の向こうから走ってくる人影がひとつ。その人影は見る見るうちに近づき、なにやら全身を黒こげにしたままでレイにびしと指を突きつけ、
「貴様! 台詞の途中で人をいきなり爆撃しやがって! 人の話は最後まで聞こうと教わらなかったのか!」
「教わってないわよ、んなこと」
わめくグラシアスを半眼で見据えて、レイ。
「それにしても、確かに直撃させたはずなのに……驚いたわ。シンジ並の耐久力ね」
「ふっふっふ……馬鹿な。この俺の力とはそんなものではない」
「……どういうことよ?」
その言葉を待っていたとでも言うように、グラシアスは唐突に無意味なほどのオーバーアクションで体をひねり、その右手をレイに突きつけた。
「知れたこと……魔法が直撃する瞬間、この鍛え上げた肉体を使ってガードしたのだ!」
「ガードって……そんぐらいで防げるようなもんじゃ……」
「十字受けだからな!」
「……いや、もーいいわ。なんとなく納得したから」
要するに、そういう人間なのだ。
「まあそれはそれとして! さっきの台詞の続きを言うと、この俺は貴様らに対抗するため、ぬかりなく手段を講じてきたのだ!」
両腕を大きく広げて宣言するように叫ぶ。ちらりとレイの様子を横目で伺い、半眼の彼女がとりあえず今度は邪魔を入れる意思はないようであることを確認すると、その右腕を再度高らかに掲げた。
「出ませい! ジオフロント魔法学院ソフトボールクラブ改め『アダム』の総メンバー254人(幽霊部員含む)!!」
――おおおおおおおおおっ!
歓声が、大地を揺るがす。
いったいどこに隠れていたのか、グラシアスの声と同時に辺りからは驚くほどの人数が現れた。
黒ローブをまとっている者や鎧を着込んでいる者、まるっきり普段着の者から何を勘違いしたのかウサギの着ぐるみをかぶっている者まで様々な格好の人間がそこにいた。老若男女もまちまちである。
「な……なんなのよこれぇ!?」
アスカが思わず叫び声をあげる。シンジたちもあっけにとられてそれを眺めていた。
「あー……どこにでもあるのよねぇ。なんか弱いくせに人数だけは妙に多いスポーツ団体って……」
どこか悟りきったようなマナのつぶやきも、『アダム』のメンバーたちの歓声にかき消される。
「おお……おおおお……」
その光景に感動の涙を流しているのは、トキタだった。両の拳を握りしめ、顔を上に向けたまま涙を流れるに任せている。
「ふっふっふっふ……やはり最後は物量戦。数をそろえた方が勝つ、これこそ世の真理!」
「…………」
目を大きく見開き、呆然としたようにそれを見回していたレイだが――グラシアスの勝ち誇った声にふと我に戻ったのか、そちらへとすばやく向き直る。
そして……その顔には、壮絶な笑みが浮かんだ。
「面白いじゃない……ちょうど暴れたりないと思ってたところよ……」
その目にはもはや恐れも迷いもない。ただ、戦闘に燃える意思があるだけである。
「姉さん……本気の顔だ……」
――シンジの引きつった声だけが、その周囲にいた人間を震え上がらせた。