最終話
私はあの日の流血の事故を鮮明に覚えている。
「ほらそこ! もたもたするな!」
「はい!」
もたもたしたくてしてる訳じゃ、ないんだけど…
苦笑いのような物を顔に浮かべ、私は森の中、慣れない道を全速力で走っていたが、案の定木の根に足を引っ掛けた。
あっ
初日から転倒。膝、腕に外的軽傷。右膝は打撲傷、右上腕は擦傷。
痛さもあるが、まず情けなさや恥ずかしさが先にたった。足を引きずりながら木陰になる部分で座り込む。
右上腕より、流血を確認。これは流血事故ね。
…何言ってるんだろ、私。
「おい、大丈夫か。」
この間昼食の時同席した長髪の男の人が、こっちに気付いて近寄って来る。
「ああ、こりゃひどいな。」
彼、確か青葉君…は私の腕を取った。
「ああ、いえ! 別に大丈夫ですよ。」
少しオーバーな反応だったかしら。
「いや、大丈夫じゃないよ。」
彼は木の枝に擦って軽く血の滲んだ私の右腕に携帯用の消毒スプレーを吹きかけた。彼の反応こそオーバーだ。私も当然それは携帯しているけど、あえてやるほどの事でもないと判断して何もしなかったのに。
私がそんな事を思っている間も、彼は迅速にガーゼを千切って、テープで貼ってくれた。
「本当に、別に良かったのに…こう見えても私、子供の頃は毎日こんな傷作ってましたから。」
「本当かい?」
彼は少し笑ってくれた。
「全く、俺達院生の研究者なのに、いきなり軍事訓練なんて無茶させるよな。」
「しょうがないですよ。一応、軍事組織ですから。」
「超法規的特務機関に入った訳だしな。」
ふざけた調子で彼は言う。
彼は私が訓練用パンツの上から膝を押さえている事に気付いた。
「あ…そっちは、大丈夫なのか?」
「あ、ええ、大丈夫ですよ。全然。」
「…そうか。…あ、やばい教官にどなられる! じゃあ、またな!」
彼は慌ててフィールドランニングを再開した。
「ええ、又後で。」
私も笑った。
変な事を思い出すな。
私は回想を中断した。
私は苛立っていた。雨は止む事なく降り続いている。既に日付が変わり午前0時30分だ。雨で足音が聞こえず、深夜で明かりも少ない。人を探すには絶好のコンディションとは言い難かった。
北境、新、新松本。街区表示が変わる中、走り続ける。
「アスカちゃん、アスカちゃーん」
呼びながら雨の中を行く。しかしどこに行けば良いのか、私には見当がつかなかった。
彼女の行きそうな場所の見当が付かない。彼女が急に消えた原因も全く分からない。
私は、アスカちゃんの事は何一つ分かってあげられないのか。
私はやはり葛城さんにはなれなかったのだ。
でも、あの街のあの組織で、一番臆病者だった私が大人で只一人生き残ったのだ。シゲルも、先輩も、葛城さんも、副司令も、日向君も、司令も、レイちゃんも、皆行ってしまった。
アスカちゃんやシンジ君を守るのは私の責任だ。
私は無我夢中で走っていた。走る事で思考を停止させているようだった。
この付近は基本的には住宅街で、大通りとはいえ既に通りに人影は殆ど無い。たまにトラック等が高速で走り去って行く。
ぽつぽつとある街灯とコンビニ、ジュースや煙草の自販機が唯一の明かりだ。
私は雨に濡れた自分の服を重く感じ始めていた。ジャケットは一応撥水加工されているのだが、それ以外の服が水を含むのは避けようがない。
「アスカちゃん、アスカちゃん!」
私はアスカちゃんとシンジ君の通っていた中学校に行く事にした。全ての音は雨音にかき消されていた。
誰もあたしを見てくれない。
何故ならあたしは見る価値の無い人間だから。
誰もあたしを救ってくれない。
何故なら誰もあたしを救えないから。
でも、誰が悪い訳でもない。悪いのは全部あたし。種を蒔いたのも、それで罰を受けるのも、全部あたし。
これがあたしの世界なんだわ。
これが、全てあたしの望んだ世界。
…でも、願いが叶ったはずなのに、何でこんなに胸が痛いの。
あたしはどこへ行こうとしているの。
まだ、どこかへ行こうとしているの?
もう疲れたよ…
僕は今日は色々あって大変だった。楽譜の入った紙袋を置いて、靴を脱ぐ。久々に門限を破って怒られるかと思ったら、マヤさんはどこかに出かけてていないみたいだ。でも、こんな夜遅くにどこに行ったんだろう。マヤさんが夜遊びするって話は聞いた事無いし、図書館にこんな夜遅くまでいるなんてそれこそ有りえないし…何か足りない物があってコンビニにでも買いに行ったのかな?
僕は急な雨で全身がずぶ濡れになっていた。とにかく、シャワーだけでも浴びておかないと。
僕は風呂場に歩いて行った。
今日はつくづく疲れた。でも、悪い一日じゃなかったよな。藤川さんには、やっぱり凄く失礼な事をしたと思う。…でも、あそこで僕は何とか踏みとどまったんだ。
僕はシャワーの水滴を浴びる自分の右手を見つめた。
アスカ…いつか、君とまた一緒になる。僕はそう信じるよ。
アスカ…
マヤは中学校までの道を走っていた。昔から決してスタミナの続く方ではなかったので、既に走る事が精一杯で叫ぶ力は無くなっていた。マヤはやや自宅方向に戻るコースを、ただ走り続けていた。
夏の夜、雨の中を走るのはとても疲れるが、同時に何だか気持ち良かった。
人間余りに危機的な状況になると、却ってどうでも良い事を考え出すのかもしれない、とマヤは思った。
マヤは境中学校の門まで来た。
鉄骨製の門は閉まっていた。
マヤはやや躊躇したが、その1m40cmほどの校門に何とかよじ登り、校内の敷地に入った。
舗装された校庭の水たまりの中心に見事に着地したマヤは、自分の履いていたのが安物のパンツで良かったと少し思った。
「アスカちゃん、アスカちゃん!」
かなり暗さに慣れた目にも、映るのはただ水の跳びはねるアスファルトの校庭と、鉄棒や雲梯、花壇のひまわりだけであった。
「アスカちゃん、いないの?」
マヤは校舎入り口まで来たがもちろん鍵が掛かっている。マヤはまだ諦めきれず、裏手の駐車場やプールのそばも回る。
「アスカちゃん!」
しかしどこにも人影は無く、中学校は闇の中眠りについていた。
「…高校かしら?」マヤは呟く間もなく走りだしていた。
アスカちゃん、私はあなたを守る義務がある。マヤは頭の中で繰り返した。
どこか行ける場所はあるの?
何故まだ歩いてるの?
あたしは何処を歩いてるの?
あたしはどこへ行こうとしてるの?
警備員は、1課の研究室にまだ明かりがついている事にやや驚いた。研究室はスケジュール等によっては徹夜が続く事ももちろんあるので、深夜に明かりがついていても決しておかしい事ではないのだが、彼の記憶では1課は最近そういう事は珍しかった。もちろん彼は業務の具体的な内容や進行状況を知っている訳ではないので、それ以上疑問を脹らませる事もなく、こんな時間になるまで居残りのかわいそうな研究員に軽く挨拶をした。
「夜遅くまで、御苦労さまです。」
難しい表情で、腕組みをして立ち上がっていた女性研究員は、警備員の言葉に振り向いた。
「申し訳ありません。そちらこそ御苦労さまです。」
微笑んで会釈をした。
「お互い様ですね。一人で頑張られてるんですか?」
「ええ。ちょっと、問題が発生しまして。」
警備員はその女性が何故椅子を離れて立ち上がっているのかやや不思議だった。
「大変ですね。頑張って下さい。」
「ありがとう。」
警備員が去って、ミモリは素の表情に戻った。再び苛立たしく自分の机の前を行ったり来たりする。マヤからの連絡は何も来ていない。
やっぱり今からでも第二東京に行くべきだろうか。長野高速を使えば自分のEVトゥデイでも20分弱でつく。しかし下手に接触がばれたら自分やアスカがどういう事になるか…
松代は小雨がぱらついていた。
シンジはシャワーを浴び終えて、一息ついていた。扇風機の前に陣取り麦茶を飲む。後はもう寝てしまえば良いのだが、マヤが何の連絡も無く消えてしまったのが、やや引っ掛かっていた。彼女が無断外泊なんて、今まで一度も無かった話だ。
「どうしちゃったんだろ、マヤさん…」
更におかしいのは、明らかに一旦ここに帰って来た跡があるという事だった。彼女のいつも使う白いポーチがテーブルの上に置いてある。…一体、どうしたんだろう?
その時電話が鳴った。
「はい、伊吹ですが。」
「えーっと、碇君ね?」
「…はい。」
「アスカちゃんの方はどう?」
「え? アスカ…が何か? どちらさまですか?」
ミモリは受話器の前で怒ったように深呼吸をした。
「私は補償委員会の佐藤という者です。さっき伊吹さんにも言ったんですけど、アスカちゃんが行方不明なの。…ああ、知ってるでしょうけど、通常、あなた達には委員会で護衛を付けています。彼等がアスカちゃんを見失ったのよ。午後11時20分、場所は北新2丁目。あなたの家のすぐ近くよね。」
「…ホントですか?」
ミモリは森がアスカを託したこの少年がどうも判断力や理解力に欠けているように思えてならなかった。ミモリは自分のこめかみを押さえた。
「本当です。伊吹さんから連絡は来なかった?」
「いえ、別に…」
「そう。私はちょっと事情でそっちには行けないんだけど、アスカちゃんの事お願いするわ。…ああ、それから、出来たら連絡して貰えるかしら。番号は、大丈夫ね?」
「あ、ええ。出てます。」
シンジは電話機の画面を確認する。
「それじゃ。」
電話は切れた。
シンジは首を傾げた。どうしてアスカがここに? 何故いなくなった? マヤさんはどうして連絡してくれなかった?
シンジは思いきってマヤの部屋に入った。
点けっぱなしの端末に、シンジへのポケベルのメッセージが入っていた。
シンジは自分のポケベルを見た。画面の表示が消えていた。電池切れだ。
シンジは自分の物の管理の悪さを反省する暇は無かった。走って自分の部屋に向かい、手近な上着を着込む。アスカが自分でここに来た時の為にテーブルに置き手紙をして、彼もアスカを探しに部屋を出た。
ここはどこだろう。…どこでもいいや。
あたし、一体何してるんだろう。
…何してるんだろう。
何をしたいんだろう。
何か出来るんだろうか。
何かする事を許されているんだろうか。
何かしてもいいんだろうか。
誰も怒らない? あたしがいても…
怒らないか。誰も見てないもんね。
見る価値無いしね。
何であたし、ここにいるんだろう…
私は生まれて初めて、と言って多分間違っていない位の長い距離を走った。車もバイクも持っていないから仕方が無い…が、考えてみれば自転車に乗れば良かったのだ。しかし3km程高宮方向に走った時点で、自分の行こうとしている地点に彼女がいる可能性が非常に低い事にようやく気付いた。私は何も言わず、自分の走っていた道をまた戻っていた。通行人の男の人が、怪訝そうな顔でずぶ濡れの私を見る。私は雨が降りつける中を無言で走っていた。
雨の音と時々通りを走るタイヤ音、自分の息遣いだけが耳に伝わる全てになっていた。
あの日も、私はパニックだった。一生に一度有るか無いかの神経のすり減る日で、辞められて嬉しい、というような感情は数週間経ってから実感として涌いて来た。でもその日はそんな事を感じる余裕はとてもではないが無かった。
だから、まさか第二東京への道を用意して下さった副司令に数秒でも会えるなんて思ってもいなかった。
「有難うございます。」
「私は、感謝されるような事は何もしていない。」
あの時副司令は、私が今までに見た事も無いような厳しい表情を垣間見せた。一瞬だから良く分からなかったけど、そのお顔は私と言うよりは御自身に対して向けられた感情の現われのように思えた。
「さあ、行き給え、もう時間が無いぞ。」
そして冬月副司令は、いつも以上の穏やかな表情を見せた。
「君だけでも生き残りなさい。」
私は無言で深く頭を下げた。
私は監視の目をかいくぐって、特急リニアに乗り込んだ。
それが私が、人の住んでいる第三東京を見る最後の日だった。
私は生き残った。
私だけが生き残ってしまった。
私はあの時、自分の事しか考えていなかった。シンジ君もアスカちゃんも事実上見殺しにしていた…
自分勝手な贖罪かもしれない。でも私は、こんな形でしかあなたたちに謝る事が出来ない…
アスカちゃん、何処にいるの。
僕は自分がアスカなら、どこに行くだろうと考えた。
そもそも行方不明といっても、色々種類があると思うのだが…もし彼女が何かから逃げているのだとすると、伊吹家には当然行かないだろう。そのうえ他にも彼女と関係のありそうな所は寄り付かない…違う、そんな訳は無い。彼女は第二東京の北新には来ていた訳だから…でも、そこで何かに追われて…何に?
とにかく僕としては、彼女と関係のある所位しか探しようはないかもしれない。
僕はアスカがよく佇んでいた公園に向かった。雨の中を走って行く。
シャワーみたいな雨だ。アスカ、風邪ひかなきゃ良いけど。
「アスカ、アスカー」
じゃばじゃば鳴っている道を駆けて行く。変な話だが、良い景色だ。でもひどい雨だ。後で又シャワー浴びなきゃ。
「アスカ!」
僕は公園に着いた。しかし公園はいつも通りの深夜の児童公園で、人の気配は全く無かった。
僕は正直、ちょっとショックだった。
アスカなら、ここに来ると思ったんだけど…
いつものアスカなら…
空がよく見えない。雲に隠れてる。
今日は星がよく見れない日のようね。
誰もいないんだな、この街。
…あたし、まだ生きてるのかな?
死んじゃうような事、したっけ?
だーれもいないの、この街。
あたしだけ。あたし一人だけなの。
あたしがこの街の女王様なの。
公園が駄目だったので、僕はやや自信を喪失しつつ、中学校に行く事にした。
それしても、酷い雨だ。ただでさえ真夜中の上に、視界が遮られてよく見えない。
僕は段々焦り始めていた。
「アスカ、アスカ、何処だ?」叫びながら走る。
中学校までの道筋、僕は誰とも会わなかった。
中学校は当然既に校門が閉まっていた。気のせいかもしれないけど、汚れ等から人が入った形跡があるように見えた。僕はその校門を飛び乗って乗り越えた。
「アスカ、いないの? アスカ!」
しかし中学校にも人は全く見当たらなかった。
「どこ行ったって言うんだよ…」
僕は誰に聞かせるでもなく呟いた。
水が降ってる。当たって痛い位。一つ降り終わると、その次の水が降って来る。水はあたしを嫌ってる。だからとても痛いの。
光る物が行き交ってる。2つ目の怪物。音を巻き散らして、現われたかと思うと消えてしまう。
道を歩いているのはあたし。あたしさえ生きていれば、この世の中は…
あたし、まだ生きてるの?
…寂しいよう…
誰も、あたしの事を見てくれないの。
誰も、あたしの事なんか気にしないの。
誰も、あたしを必要としていないの。
誰も、誰も、誰も、誰も、誰も…
マヤは走る事に夢中でしばらく胸ポケットの自分の携帯電話が鳴っている事に気付かなかった。立ち止まり、しばらく呼吸を整える。いきなり完全に止まるのもおかしくなるので、やや歩きながら話す事にした。
「もしもし?」
「マヤさんですね?」
「ああ、シンジ君。今、何処にいるの。」
「中学校に来ましたけど…いないみたいです。」
マヤは一旦電話機を離して溜め息をついた。
「ええ…さっき私が見た時もいなかったわ。」
「あ! さっきここに来たんですか! …すいません。」
「謝る事じゃないわ。私は今、」マヤは店の看板を確認して「北新5丁目。それにしても、アスカちゃん何処に行ったのかしら…心当たりのある場所とか、ある?」
「あの…そもそも何でアスカは急にいなくなったんですか?」
「ああ…私も良く分からないんだけど、えっと、北新の街道から少し南の場所で急に走りだしたとか、言ってたけど…あの、委員会の…」
「佐藤さん。」
「そう、佐藤さん。あ、彼女から何か連絡があったの?」
「ええ、でも特にそれ以上の話は…」
「そう。それで、私が知ってる情報もそれだけなの。…シンジ君も、行方不明になるような原因は分からないか。あら」
マヤは、通りの遥か向こうに女性らしき人影を見付けた。
「シンジ君、又後で。」
マヤは携帯を折り畳んで人影に向かって走って行った。
真っ直ぐな街道の一番高い部分に人影が見えたような気がしたのだが、すぐ、近い地平線の向こう側に消えてしまった。
マヤは少し元気を回復したのか、進行方向に向かって叫び続ける。
「アスカちゃん、アスカちゃん!」
マヤは自分が予想以上に長い間走り続けられる事に自分の事ながら驚いていた。もはや服の重さも気にならなくなって、一心不乱に走り、呼びかけていた。
道の遥か先の小さな人影がまた見えて来た。
あたしはこの世界の女王様だ。だってこの世界には、あたし一人しかいないんだもの。
イヤ、あれは多分人間じゃないの。だから関係ないの。
誰か人の名前を呼んでる…
ヤダ、こっちにコナイデ…
…恐い!
来ないで、来ないで、来ないで、来ないで!
ここはあたしの世界なの!
○○○も、○さんも、○○○も○○○も○○も○○もいないの!
○○○もいないの!!(だから、私はもう生きてないの)
来ないで!
雨が強く降っている。深夜である。街道沿いの街灯は少ない。
つまり目標の姿が良く見える訳ではない。
それでも、マヤは、自分が近付きつつある人影がアスカである事をほぼ確信しつつあった。髪の色ははっきりと確認できないが、髪飾りで上げている髪型はアスカそのものだ。顔もはっきりとは見えないが、服装や全体の姿形から女性であることは間違いなかった。
問題は、彼女がしきりにこちらを振り返り、走って逃げている事であった。決して速いスピードとは思えないが、こちらもかなり疲れているのでなかなか距離が縮まらない。
「アスカちゃん、聞こえる? アスカちゃんでしょ? どうして逃げるの? アスカちゃーん!」あるいは、アスカは今マヤに会ってはいけないのだろうか?
何か委員会で問題があったのか?
「アスカちゃん!」
アスカはマヤから逃げていた。
シンジは突然切られた電話を思わず見つめた。
マヤさん、どうしたんだろう…まさか見付けた?
シンジは全速力で北新5丁目に向かって東進していた。
アスカ、何があったんだ。何で急に走りだしたんだ。行方不明になったのは、11時20分、北新2丁目…
まさか。
まさか、僕と藤川さんを見た?
…関係ないか。アスカが僕の事を好きだったりしたら、そんなドラマみたいな仮定も出来るんだろうけど。
やっぱり、仕事で何かあったのか。
そうだ、委員会を辞めたって聞いた時に、もっとちゃんと聞いておくべきだったんだ。こんなんじゃ友人としても失格だ。彼女は仕事はかなり打ち込むから、もし自発的でなく「辞めさせられた」のだったら大変な事だ。アスカ、僕は君を助けたいんだ。
待っててくれよ。
シンジは無我夢中で走り続けていた。青と黒ばかりの夜の道を、ただひたすら走り続けた。
2人を見付けた。
シンジは恐怖した。
恐いの。
恐いの、恐いの、恐いの、恐いの、恐いの。
追いかけて来ないで!
雨は嫌い。顔が水に当たる。
皆あたしの事が嫌いなの。
皆あたしの事を気にしないの。
この世界はあたし一人だけなの。
あたしはこの世界の女王様なの。
あたしはもうこの世にはいないの。
この世界には○○○もいないの。
だけど一人は嫌なの!!
だけど、あたし以外の人間はここにいてはいけないの! だからあたしもここにいてはいけないの!
来ないで!
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
熱い。
何、あれ? 光。
迫るもの。
アスカはその時、全ての記憶と意識を取り戻し、全てを理解した。
「でも、終わりなんだ…短かったな。」
イタイあついヒカリガあついみちソラ雨雨雨雨雨みちイタイイタイイタイソラあガヒソめめイタラちガガガガ
えっ?
あったかい…人のぬくもり…あたしを守ってくれたの? 有難う…
あ…
なんだ…
シンジじゃ、ないのか…
僕は貰ったタオルでひとまず雨と汗を拭き終え、廊下の長い椅子に一人腰掛けていた。夏なのだが、ここの中は充分冷房が聞いているのでこのままだと風邪をひくかもしれない。機械がかちゃかちゃ触れ合うような音がかすかにするし、恒常的に空調か何かの機械音もする。でも、ここは基本的にかなり静かだった。自分の腕時計の秒針の音がはっきり聞こえる。
雨はようやく穏やかになりつつあるようだった。
僕はその状況に似合わないかもしれないけど、欠伸をもらしてしまった。もう…午前3時近い。こんな時間に僕がまだ起きている事自体が信じ難い奇跡だ。
僕は出来るだけ物を考えないようにしていた。今何かを考えたら、自分がどうなってしまうのかとても不安だった。
秒針は普段の毎日と全く同じに1秒1秒を刻んでいる。
多分、これが病気の手術中とかならもっと2人の事を心配したりするのだろうと思う。でも、その場の事を目の前で見た後では…事故の瞬間を見た後では、少しでも2人の事を考えただけで僕は恐怖の余り絶叫してしまいそうで…だから、僕は何も考える事が出来なかった。
そして、「手術中」のサインが消え、医療班の人達が慌ただしく出入りしだした。
主治医らしき人がこちらにやって来た。僕は何をどう喋ればいいのか、分からなかったが、その人の前に立った。
主治医の人は、自分のマスクを取った。見えて来た顔の表情は、固く引き締まっていた。
「あの…」
「惣流さんは、未だ危険な状態ですが、最悪の自体は免れました。」
「…」
「…ですが、伊吹さんは…」
秒針は普段の毎日と全く同じに1秒1秒を刻んでいる。
「最善は尽くしましたが…」
「…はい。」
後から振り返れば、何だか変な返事だった。僕は主治医の人を突き飛ばして、手術室のマヤさんの寝台に駆け寄ったりはしなかった。
僕は何故かこの時、それまである事にすら気がつかなかった廊下の紙コップ形式の自販機が目に留まり、コーヒーが飲みたくなった。ただ、このままの状態で飲むと涙と混じってしまいそうで汚ないので、自分のポケットティッシュで涙を拭き取ってから飲む事にした。
コーヒーは温かくておいしかった。
その後シンジは、医師に自分の見た事を改めて話した。彼がマヤとアスカを道で見た時、アスカは横を確認せずに道を横断した。そして走って来たバンに跳ねられた。ただ、跳ねられる瞬間、後ろから追いかけて来たマヤがアスカを後ろから護る形で飛び出し、結果バンが直接衝突したのはマヤだった。そして2人は約3mほど飛び、シンジの殆ど目の前で赤黒い血の海を作ったのだった。
アスカの身体的な外傷はその後順調に回復して行った。骨折した骨は手術で接合された。
しかし彼女は眠り続け、数ヵ月の間、集中治療室のカプセルに入ったまま、意識が戻る事が無かった。
数ヵ月後、アスカは起きた。彼女は集中治療室を出て一般病棟に移されるようになった。シンジは毎日一日も欠かさず見舞いに来ていた。働かないでも生活が出来る自分達の身分を彼はこの時ほど感謝した事はなかった。
ある日、アスカの主治医はシンジにアスカについて彼等が分かる事を説明すると言った。
「…繰り返しますが、今から話す事は、あくまで推定です。各種の検査や心理調査、委員会のファイルから得られたデータに基づく、一つの仮説としての話です。」
シンジは頷いた。
「惣流さんはあの晩、何かとてもショッキングな体験をしました。それが何であるかは分かりませんが、特にあの晩、何らかの、自我が崩壊する程の強いショックを受けたのです。」
「まさか…暴行?」
「そうではないと思います。体の傷に、それらしき物はありませんでしたから。ただし断言は出来ません。」
シンジは、ふと思い付いたかのように医師に聞いた。
「それじゃ、例えば、彼女の好きな男の子が他の女の子と付き合っているのを見たとか?」
医師は困ったように微笑んだ。
「恐らく違うでしょう。もしその理由でここまでショックを受けるとしたら、彼女のその人への想いは信じられないほど強い物になってしまいます。」
「そうですか…」
医師は手を合わせ、厳しい顔つきになった。
「惣流さんはあの夜、何らかの理由でショックを受けました。しかしそれはきっかけにすぎなかったのです。」
「きっかけ?」
「ええ。…これは、碇さんには言いにくい事なのですが…」医師はシンジの意志を試すかのように彼の目を見た。
「惣流さんは、幼い頃に性的虐待を受けていた形跡が見られます。」
シンジは息を飲んだ。
「アスカ、が…」
「…はい。しかし彼女はこの記憶を封じ込めていました。また、その後の思春期においても、何らかの自我が崩壊しかねない衝撃的な経験があったようです。これが一体どういった物だったのかは私達には全く分かりません。しかしこの記憶も同じく封じ込められていたと推定されます。」
医師はシンジが自分の言葉に付いて来ている事を確認する。
「これらの記憶の凍結が、彼女が無意識に自発的に行なった物なのか、外部から人為的に引き起こされた物なのかははっきりしません。彼女の調査結果には、両方の特徴が見受けられます。」自分のPDAのモニタを見返す。「あるいは、一方が無意識的な物で、もう一方は外部から人的に操作した物だったのかもしれません。」
「はい…」
シンジは医師の話を聞きながら、第三東京が爆発する直前、弐号機の中で笑い続けるアスカの頭に、多数の白いコードが繋がっていたのを思い出していた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、とても解かりやすいです、続けて下さい。」シンジは話を促した。
医師は微かに微笑んだ。
「はい。先程、あの夜惣流さんが受けたショックがきっかけにすぎなかったと言いました。つまり、あの夜のショックで、封じ込めていたはずの記憶が一気に蘇ったのです。これが、彼女の自我を更に根本的に破壊しました。…もっとも、」
医師はやや溜め息をつきながら言った。
「仮に記憶を外部から人的に操作したのだとしたら、彼女の記憶が蘇ってしまうのは時間の問題だったというのも事実の一面ではありますが…」
「そうですか…」
「今の所、私達が分かるのはこれ位です。碇さんも、何か気付かれた事があったら私達に何時でも教えて下さい。」
「はい。」
医師は、すぐに彼からそれ以上の答えを強要しようとはしなかった。
「それじゃ、また明日。」
早朝6時。
いつも通り彼は目覚めた。
彼は家で朝食は取らない。服を着て、歯を磨き、顔を洗い、髭を剃って、今日のノートを準備する。
彼は彼女のもとへと向かう。
彼は彼女の部屋に到着する。
彼女は彼を確認してにっこりする。
彼女はやりかけの算数ドリルを閉じる。
今日も暑くなるのだろう。
陽が彼女の顔に当たる。
彼女は窓からの光に眩しそうにしている。
「ごめん。暑い?」
彼はブラインドをやや閉じて、尋ねた。
「そんな事ないよ。」
彼女は嬉しそうに答えた。
「朝食だよ。」
彼はトレイをベッド備え付けのテーブルの上に置く。
「ありがとう。」
彼女は無邪気にそれを食べる。
彼女の食事も意外においしそうだ。
食事が終わって、どこから持って来たのか、彼はマグカップのコーヒーを飲む。
彼女はブリックパックのオレンジジュース。ストローで一心にちゅー、ちゅーと吸う様が可愛らしい。
彼はそんな彼女を細い目で見つめる。
彼女は満足気に彼に言った。
「ふう。今日もごちそうさま。お兄ちゃん。」
「どういたしまして。」
彼はいつものように微笑んだ。
「算数ドリルを、やってたの?」彼は窓際に近付いて、それを手に取ろうとした。
「あ、だめ! それ、恥ずかしいもん!」彼女は顔を赤らめて、ドリルを奪う。
彼女は泣きそうな顔になっている彼を見て、不安になって聞いた。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
自分まで泣きそうな顔になる。
「あ、うん。何でもないよ。…グァバ食べようか?」彼は果物ナイフとグァバを出す。
「うん!」
彼女は彼がグァバの皮を剥くのをじいっと眺めている。その目はどこまでも純粋無垢な子供の目で、それが彼には辛く感じられた。
日本語の文字は殆ど書けなくなったのに、ドリルには、凄く綺麗な筆記体で「Asuka Ikari」って書いてあった…
シンジは「妹」、碇アスカのベッドでグァバを切り終えた。皿に揃える。その内の一きれをフォークで刺して、彼女に渡す。
「じゃ、今日もいい子にしてるんだよ。」シンジは立ち上がった。
「もう行っちゃうの?」アスカは不満気に口をとがらせる。
「もう行かなきゃ、大学に遅刻しちゃうよ。」
シンジは穏やかに笑った。
「はーい。早く帰って来てよ。」
アスカは食べかけのグァバの刺さったフォークを振り回してシンジを指す。
何時から僕は病院に住むようになったんだよ。
シンジは心の中で言い返した。
「うん。夕方には、ちゃんと来るよ。」
「約束よ。」
「う、うん。」
毎日夕方も来ているはずなのだが、アスカの真剣な顔に思わず真面目に返事をするシンジ。
事故の時に物理的に脳に損傷を受け、アスカは完全に記憶喪失になった。同時に精神退行が起き、現在彼女の精神年齢は8才前後だと考えられている。彼女の記憶が戻る、精神年齢が回復する可能性はほぼゼロパーセントだそうだ。委員会の要請もあり、警備上、偽装上の理由から、アスカの唯一の民間人の知人であり保護者でもあるシンジは彼女の兄を名乗っていた。
彼女はまだ療養は必要だったが、精神的にはむしろ安定しつつあったのでもう少しすれば試験的に通院に切り替えられるかもしれない、とシンジは医師から聞いていた。
アスカはベッドから身を起こし、突然シンジの手を取り、キスをした。
「ど、どうしたの?」
アスカはこの前アニメで見た事の真似をしていた。
「ヨーロッパ風のあいさつだもん。あー、お兄ちゃん赤くなってる。エッチな事考えてるんでしょう。」
「からかうなよ、もう…じゃあね、アスカ。」
「お兄ちゃん、いってらっしゃい!」
アスカは上機嫌で手を振った。
シンジは心なしか顔を紅潮させて、京都大学付属病院の病室を後にした。
アスカは彼が、クリアケースに入ったノート、楽譜を忘れている事に気付いた。
「もう、お兄ちゃんって本当にぼけてるんだから。」
鼻息を荒くして、勝手にクリアケースを開ける。何か見た事の無い物が手のひらに落っこちてきた。金具のメッキが剥げている。
「何だろう、これ…」
彼女は窓のブラインドを少し開け、それを光に照らしてみた。
「うわあ、きれい、キラキラしてる…」アスカは目を見開く。
彼女は少し眉をひそめ、考え込んだ。
「何か、これ前に見た事があるような気がする…何か、とても楽しい、嬉しい思い出があったような気がするんだけど…」
彼女は口許を緩めた。
「気のせいか。」
アスカはそのキーホルダーをクリアケースに戻した。
終わり
アダルティーな入りにドキドキし、
「真綿で首を絞める世界」に苦しみ、
森の登場にヤキモキし、
その森とアスカが、に慟哭し(^^;
再び”失う”アスカに心乱され・・・
キーホルダー最終回です。
このキーホルダーのおかげで、
私は『Air:まごころを君に』でダメージを受けずにすみました。
それが1番の想い出かも(^^;
徐々にアスカ不幸に耐性を作っていけたので、
最終回でもチョーOK。 たぶん (;;)
沢山の想い出を
ありがとうフラン研さん。
もう会うことはないでしょう。
私は貴方を忘れない・・・・
なんてね(^^;
「未だかつてない人が主人公」の新連載、期待してます!
さあ、訪問者の皆さん。
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