森から見て、アスカは子供ではなかった。
少なくとも年齢は子供だし、精神的にもそうなのかもしれない。しかし森は、自分は人間の心理が良く分かっていない、と自覚しているので、彼女の心が子供なのかどうかはやっぱり分からない。彼にとって少なくとも分かるのは、彼女の研究へのひたむきさが立派な物であるという事だ。また科学技術に関しての知識は分野によっては―主に純粋な生物学や量子学だが―彼女の方が森などより豊富ですらあった。
森は、あの時自分は雰囲気に流されて「良い」と言ったのかも、と最初は思ったが、すぐにその考えを改めた。
僕は研究のパートナーとして彼女以上の相手を思い付かない。彼女は大人びている、と思う、けど、時々寂しそうな表情が表に出る事がある。データによると、使徒戦の際は一度は精神が崩壊し、命も危ぶまれたという。現在の彼女の肉体・精神の健康は、奇跡の上に築かれた物なのだ。
僕が彼女の心を全部掬い取るなんておこがましいけど、もし糸の絡まっている所があったら、ゆっくりと、それをほどいてあげたいと思う。
僕は今までそれ程不自由なくやって来た。ここに来たのも、より良い研究環境を求めてであってそれ以上の拘りはない。でも、彼女を見て、初めて僕は自分の生活環境に幾らか固執するものが生まれたような気がする。
これを、恐らく恋と呼ぶのではないだろうか。
アスカは僕の何が好きなのだろうか。普通に尋ねたら、「あんたバカぁ。」と相手にしてくれなかった。普通、そういった事は恥ずかしくて言えない物らしい。あるいは、付き合っている相手なら言わなくても分かるのが当然なのだろうか?
僕は、その辺の常識は良く分からないので、何とも申し訳ないと思う。
僕は、アスカは非常に素晴らしいと思う。知性とそれを支えるひたむきさは僕も頭が下がる。しかし一番重要なのは、僕がふざけると一々生真面目に対応する事だ。これは見ていると楽しい。
アスカは手が止まっている。考え事をしているようだ。…僕は、残っている打ち込みでもするか。
ヤツは身体を向き直して言った。
「何か御用ですか? マイプリンセス。」
一瞬あたしは椅子を転げ落ちそうになって、あわてて立ち上がった。顔から蒸気が出るわ!
「な、ななななな何言ってんのよ!」
「何かお気に召さないことでも?」真面目な顔で言うなっ!
「ぶ、ぶぶばぶぶっ殺すわよ!」
「いやあ、アスカちゃん憧れちゃうわあ! 彼氏に「プリンセス」だなんて、しかもなんて可愛い反応!」こ、こら!
佐藤ミモリ27才! 手を組むな! 何か突っ込め! あんたがこの中じゃ一番まともな方なのよっ!
「可愛いでしょう? 御機嫌斜めの時も、また格別…」はあ…まったく、馬鹿馬鹿しくなって来たわ。仕事仕事。
ヤツが何か思い出したように鞄をごそごそしてる。
「あ、そう。思い出したんだけど…今度の週末、開いてる?」
「え? あ、はい。」
「いや、2人で映画にでも行こうかなと思ったんだけど…月並?」
「2人って、私と森さんですか?」
「他に誰がいるって言うんですか…」
「川辺君は黙ってて。」そうよ川辺、こういう時は分かってても聞くもんなのよ。ナイス、ミモリ。
「大丈夫だよね?」
「あ、はあ…」
「良かった。有難き幸せにございます、マイプ…」
「いい加減にしろっ!」
ったく、このままじゃ誰も仕事が進まないみたいなんだから、あたしは仕方無く、チケットを受け取ってやったわ。ペンで走り書きしてある…「金曜日の夜9時」ね。しかし大人なんだから、もうちょっとちゃんとした字書きなさいよね。あんたは帰国子女じゃないんでしょ?
「また、ずーっとチケット見入ってニヤニヤしてるじゃないですか。」
「まあまあ。可愛くて良いじゃない。」
川辺と佐藤はアスカに聞こえない音量で苦笑していた。
ミサトさんの場合、何かちょっと不満があるとその場で放出しちゃうから、却って後腐れが無いと言えるだろう。でもマヤさんの場合普段はため込んでいるらしくて、本当に爆発したら、実はマヤさんの方が怖いのかもしれない。お説教をされながら僕はそんなことを考えていた。
「あのね、シンジ君。私は何も絶対に高校に行けって言ってる訳じゃないの。例えばもし他にどうしてもやりたい事があって、そのためには高校へ行くのは不必要だと考えるのなら、私も納得できるかもしれない。でも理由も無しに一週間も無断欠席されたら、私も困るのよ。」
僕は今日夕飯を食べ終わってからマヤさんに呼び止められて、座らされていた。
「すいません。」
「その言葉は昨日も聞いたわ。…言葉じゃなく、行動で示してよ。一体どうしたっていうの?
何か理由があるならまだしも」
「理由は」
僕は思わず反抗したくなって彼女の言葉を遮った。
マヤさんは一瞬眉を潜めたように見えた。それから僕の方をしっかりと見据えて言った。
「有るのね、何か理由が。」
「あ、いえ、無いです。」
「本当に?」
「すいません。…明日からは、ちゃんと行きます。」
「シンジ君…」
マヤさんは深くため息を付いた。僕の手を握って、彼女の胸のあたりに持って行く。うつむいたままだ。何だか息がかかって暖かかった。
「もし、何か悩みが有るのなら、いつでも言って。…嫌な言い方になったら、ごめんなさい。私達は、あの時の唯一の生き残りなの。特にあなた達2人は、私達大人と違って何にも悪い事してない。命をかけて地球を守ったのよ。それなのに周りの人はいなくなってしまって…だから、少なくともあなた達2人は、他の人の分まで幸せになって欲しいの。いえ、ならなければいけないの。私はシンジ君の役に立ちたい。自己満足かもしれないけど、私に出来る罪滅ぼしはこれ位しかないの!」
彼女は自分の言葉にはっとなった。
「あ、ごめんなさい…言い過ぎたかもしれない。でも、これだけは分かって。私はシンジ君とアスカちゃんには幸せになって欲しいの。何か悩みが有ったら、いつでも言って。もしかしたら力になれないこともあると思うわ。でも、人に打ち明けるだけでも、大分心が落ち着くものよ。」
マヤさんは顔を上げた。僕は彼女の精一杯の笑顔に吸い込まれそうだった。
でも、同時にその場にはとてもいずらい空気があって、僕は「分かりました。」とだけ言ってすぐに自分の部屋に戻った。
手は少し濡れていた。
自分の部屋に戻って、僕はベッドに寝転がった。音楽の無い一日に慣れて、もうどれくらい経つだろう。
頭をフリーにして、ふと浮かんで来る映像はマヤさんではなかった。それどころかその時僕はマヤさんの事なんて一秒も考えていなかったと思う。
それって、どういう事なんだ。
何だ、簡単な事じゃないか。
僕が学校を休むようになった理由が今分かった。
そうだ、僕の「悩み」ってそういう事なんだ。
今まで気付かないほど、僕は頭が悪かったのだろうか。
いや、気付かないように無意識に心掛けていたのだろう。だって、そうしないとつらいんだ。
ほら。
涙が出て来た。目の前が見えなくなって来ている。何だか自分で自分がおかしい。鼻水が突然たまりだした。ティッシュ取らなきゃ。
僕は涙まみれになりながら、自分にまだ感情があった事と、答えが分かった事とでとても嬉しくなっていた。
何か楽しい歌が聞きたい、そう思って僕はラジオを付けた。
翌日の松代。
アスカはシンジを見て驚いた。
「あ…あんた、何でこんな所にいんのよ。…良く、分かったわね、場所。」
今日の仕事が一段落ついてそろそろ帰ろうか…という時に、部屋の入り口に見慣れた少年がいたのだ。
「受付の人に聞いたら、あっさり教えてくれたよ。」
何だか随分大人っぽくなった気がする、シンジは思った。僕とはあまりに違う世界に行ってしまったのか。
アスカ以外にもう一人若い男の人がいる。眼鏡を上げてこっちを見てる。
「あ、そうか…あんたなら、別に教えるわよね。…まあ、それはともかく、どうしたのいきなり。」
不機嫌を隠しきれないアスカ。
「あ、うん。その…」
シンジは向こうで微笑んでいる男性が気になるようで、ちらちら見た。しばらく言うべき言葉を選んでいるようだったが、やがてアスカの方を向いた。
「言いたい事が有るんだ。」シンジは息を吸った。「アスカ。愛してる。僕はやっぱり君の事が好きだ。その、アスカが僕の事をそう言うふうに見てないのは知ってる。今彼氏がいるのも知ってる。でも、知っていて欲しいんだ。僕は君に好かれるようになるまで、良い男になるよう努力するよ。だから、ええと、今すぐ好きにならなくても良いんだ。ただ、知っていてくれ。僕は君が好きだ。」
彼の言葉を聞くアスカは驚いてもいた。不愉快そうでもあった。しかし何より、悲しそうな目をしていた。 シンジに目を会わせようとはしなかった。
低い声でゆっくりとアスカは言った。
「な、何、言ってんのよ。」
「好きなんだ。昨日、気付いたんだ。その…最近、会ってなかったから、何か胸がきりきり痛くって、何なんだろうって考えたら君がいないからだったんだ。」
シンジは向こうの男性を見た。何か考え事をしているようだった。
「あんたね。」
アスカは顔を上げた。普段の声だ。そして彼女の表情には喜びが一欠片も無かった。それどころか憎悪に満ち溢れていた。
「ハン。言って良い事と、悪い事が有るわ。あたしは彼がいるって、言ったでしょ?
今ここにいる彼が、あたしの付き合ってる人なのよ! あんたの勝手な一言であたし達の関係を壊されたら、たまんないわよ!
とっとと帰りなさいよっ!」
「そ、そんな…」
シンジは悲しくもあったが、まず意外であった。彼の記憶では、確かアスカの彼はスポーツマンの先輩だったはずなのだが…目の前にいる人が、先輩?
スポーツは、もしかしたら何かするのかもしれないけど…あんまりそういう雰囲気でもない。
ただシンジはもう一つ言いたいことが有って、そっちに気が取られていて頭が混乱していた。ここまでアスカにはっきり拒絶された場合の対応までは考えていなかったのだ。
目の前の男性…森はここで初めて合点がいったように手を叩き、シンジに微笑んで手を差し出した。
「初めまして。君が、碇シンジ君ですね。」
「え、知ってるんですか?」
「ええ、もちろんです。私は森ムネユキといいます。よろしく。」
「あ、はい。」戸惑いながらも握手をかわす。
「私は一目見て気付かなければいけない職業なんですけど、うっかりしてました。最近情報が多過ぎて。」
森は今までの会話を全く気にしない様子で、のんびりと頭をかいた。
アスカの怒りの矛先が変わった。
「も、森さんも! 何か言ってください。」
「アスカ。」シンジは、他の男性が彼女を呼び捨てで呼ぶのを聞くのはとても嫌な感じがした。「碇君は自分の真摯な気持ちを言葉にしたんだ。それがどれだけ勇気のいる行為か、君はよく知っているだろう?」
「だって、何も森さんの目の前で言うなんて、失礼にも程があるわ!」
「確かに僕と君は付き合っているけど、僕の事は碇君は知らなかったんだろう?
それにそもそも知っていても、僕の前で言うことは失礼でも何でもないよ。」
「そんな!」
「だって、君が誰から好きと言われて、君が誰を好きになるかというのは、全て第一義的に君の問題だろう?
僕は個人的な希望としては君に他の男性を好きになって欲しくはないけど、その選択を君に強制する権利なんて無いよ。」
「あ、有難うございます。」
「そんな。感謝される事なんか、何もしてないよ、碇君。」森は驚いて言った。「だって、当然の事でしょう?」
「も、森さんの言ってる事も分からないわ! とにかくあたしはあんたにここにいてほしくないの!」
「ご、ごめん。でも、後一つだけお願いが有るんだけど…」シンジは遮られないように早口で言った。「デートして欲しいんだ、今週末にでも。あ、もちろんアスカが森さんを好きなのは分かったから、あくまで友達としてで良いんだ。」
「何でそんなことしなきゃいけないのよ! 帰ってって言ってるでしょっ!」
「あ、アスカは…」まずい。今だけは泣きたくないのに。「アスカは、友達としても僕の事を嫌いになったの?」
ずっと興奮状態にあったアスカはここでようやく落ち着いた。水をかけられたかのように。
「あ、いや、別に、そういうことを言ってる訳じゃないわよ…あの…シンジ、でも今週末は駄目。今週末は、あたし、森さんとデートなの。だからシンジと外出する訳にはいかないの。」
「あ、そうなんだ…」
「いや、行けばいいじゃない。」
「森さん!」アスカは又悲しそうな目をしている。
「別に友達としてなら、構わないよ。それに僕達の約束は金曜日だから、土曜日や日曜日に何処かへ行く分には問題無いさ。」
「そ、それなら…アスカ?」
彼女は考え込んでいるようだった。
「あの、嫌なら、良いん、だけど…」
彼女は怒ったふうに立ち上がった。
「分かったわよ! 日曜日に新松本西口で10時、良いわね!」
「あ…有難う、アスカ!」
「ったく、男が涙使ってるんじゃないわよ!」
この時シンジは自分が人から見ても泣いてると分かる状態にあることに初めて気付かされた。
「あの、森さん、有難うございます。本当に失礼しました。」
何度も言われて森は不安になった。
「うん。いや、友達としてなんでしょう? 恋人としてだと、僕は嫌なんだけど…」
「あ、いえ、友達としてです。」
「ああ、なら良かった。」
本気で安心する森。
森さん、何だか面白い人だな。シンジは少し森に好感を持った。
つづく
それでは、「来週も、地味に地味に!」
なんだかシンジが怖い(^^;
森とアスカ。
恋人、ですよね。
そこに来たシンジ・・・素直な言葉なんでしょうが、怖いです。
職場に押し掛けて、人の前で・・・ストーカー
変なことになってきたぞ(^^;
一体どうなるんでしょ???
次回が楽しみで、怖くて、早く読みたいです。
さあ、訪問者の皆さん。
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