「まるで冥府の底ね」
レイがEVA00で力を集めて”門”を作り、シンジがそれをEVA01という名の”鍵”で開けはなった先には、漆黒という表現でもまだ深みが足りないような闇が横たわっていた。
ジオフロント世界、地上界、そしておそらくは神界の間にたゆたっている虚数空間はディラックの海と呼ばれている。命名者はネルフの前身ゲルヒンの副所長を務めていた人物、つまりリツコの母親である。
広大無辺なその空間にはまだ謎が多い。と言うより謎だらけで分かっていることが全体の何%に当たるのか、ということさえ不明のままだ。
リツコは細い指でコンソールを操るとスキャンを開始した。本来ディラックの海で捜し物をすることは、砂漠で一粒の砂金を見つけることと似たような確率の作業だ。奇跡が何回か重ならない限り達成できることではない。
それでもリツコには成算があった。
一つは探すべき「砂金」がとてつもなく大きく目立っているということ。そしてもう一つは座標位置がおおよそであるが特定できること。最後に目標にはスペルラインと言われる一種の魔法の縄がくくりつけられていることである。
だが、もし何らかの要因でスペルラインが切れてしまっていたらほとんどお手上げになる。やはり一回くらい奇跡を起こさない限り目標にはたどり着けないのだろうか?
「魔力探知波を座標2,3,8方向に拡張して。それから探知機の出力を最大に。磁場固定装置の出力は落として、探知波の邪魔になるから」
リツコは眉をひそめながら部下に指示を出した。
座標2,3,8に探知波を拡大したのはほとんど勘の世界である。その方向に流されている可能性が比較的高いという概算は出ているのだが、計算式が大ざっぱすぎて信用するに値するかどうかは疑問だ。
(何だかミサトの方が得意な分野のような気がするわ・・・・)
リツコは一向にはかどらない作業に苛立ちを隠せない。それでも詳細を知らない部下に愚痴るわけには行かないし、後ろの司令席に鎮座しているゲンドウにそんなことを言えるわけがない。
リツコは眼球だけ動かして自分の背後を見た。もしかしたら苛立っているかもしれないゲンドウの顔を見ておきたかったからだ。
(あれ?いないわ・・・・。碇司令はいつの間に?・・・・)
先程までいたはずの髭面の男はそこにはいなかった。リツコの背後には主をなくしたデスクが空しく置かれているだけであった。
(どこに行かれたのかしら?・・・・・いや、まさか、でもあそこしか考えられないわね、彼女の元にしか。私が必ず見つけるものだとでも思ってるのかしら?)
「赤木博士!」
リツコが数瞬であるがモニターから注意をそらしていた時、部下のオペレーターが素っ頓狂な声を上げた。普段の声が教科書のような謹厳な調子なので、裏返った時の声はガラスを爪でひっかいたような耳障りな声になる。だが、それだけに事の重大さを物語っていた。
「座標2,4,6方向に膨大な質量を持つ光が・・・・・」
探知機にかじりついて精神波分析機での照合を行ったリツコは、一瞬だけ満足げな笑みを浮かべた。
「あったわ。これが・・・・・」
リツコは目指していたものを見つけた。いや出会ったといった方が正確なのだろうか?生まれたばかりの星のように目映く輝くそれが、10年前にディラックの海に残された彼女の魂だったのだから。
第23話
開かれし門、そして
「なんだ。君たちだけなのかい?てっきりゼルエルが来るものとばかり思っていたのに。本当に残念だよ」
空天使サハクィエルを一撃の元に葬り去った自由天使タブリス、いや渚カオルはそう言うと肩をすくめて見せた。力天使ゼルエルが来れば自らも消滅の危機を迎えるというのに心底残念そうに見えるから不思議だ。
「久しぶりだね、マトリエルにシャムシェル。会えて嬉しいよ」
会えて嬉しい。
その言葉は嘘でも皮肉でもカオルの本心であった。彼は使徒全員から裏切り者と呼ばれようと、彼らを憎んだことも蔑んだこともない。悲しみと哀れみに満たされた瞳で彼らを見つめたことはあったけれども。
シュワッ
百万分の一秒前までカオルの頭部があった空間が裂ける。使徒を思うカオルの心情は報われることがないものだった。二体の使徒はカオルに挨拶を返すことなく攻撃を仕掛けてきた。
最初に襲いかかってきたのはシャムシェルの手刀であった。両手がゴムのように伸びた後、更に細かく裂ける。10本余りに分裂したシャムシェルの腕はカオルの退路を断つかのように動きながら大気を割った。その腕の一本一本が鞭のしなやかさと鋭利な刃物の切れ味、そして鋼鉄をも打ち砕く破壊力を併せ持つことをカオルは知っていた。
蜘蛛の巣のように張り巡らせたシャムシェルの腕が、カオル目がけた収束する。獲物に襲いかかる猛禽のごとき速さで。カオルの動きを封じるつもりなのか、あるいは切り刻むつもりなのであろうか、それともその両方を同時に行おうとしているのであろうか。
勿論カオルはおとなしく叩きのめされるつもりは毛頭ない。
手首を軽く回して長大な槍を回転させ、小さな竜巻を槍の周囲に発生させる。カオルは綿飴をつくるかのように、あらゆる方向から殺到してきたシャムシェルの鞭をかき集めた。そして気合いを槍に込めて吹き出す光の刃を全開にし、かき集めた鞭を一瞬にして切り裂いた。
ギシャッ
シャムシェルの体液が飛び散る。カオルは瞬きを一回するかしないかの時間で最初の攻撃をやりすごすと姿を消した。本当はシャムシェルに向かって突進したのだが、余りの速さに消えたようにしか見えない。
だがシャムシェルはカオルが消えたことが何を意味するか分かっていた。シャムシェルは全速で後退した。
それでもカオルの槍を完全にかわすことはできない。カオルの姿をようやく視界に捕らえた時には、シャムシェルの肘から先の左腕は所有者の手から放れていた。さらに続けざまにカオルが放った杖の部分での回転撃と後ろ回し蹴りをまともに受けたシャムシェルは、ネオトウキョウのはずれにある荒野まで吹き飛ばされた。
それでも地表に激突した後、すぐに立ち上がって戦闘態勢を整えることができたのはさすが使徒とということであろう。
「どうしたんだい?冴えがないじゃないか。ゼルエルが来るまで待ってあげようか?」
「我ら使徒に課せられた崇高な使命を忘れて、人間どもに味方する貴様に無用な心配を受ける筋合いなどない!」
「崇高なる使命?ただの残務処理じゃないか。神々は自分たちの手にも余るアダムとリリスを、この世界ごと僕らに押しつけただけさ」
ジュバッ
返答はマトリエルの口からなされた。しかし次の瞬間、口から吐き出されたのは言葉ではなく、濃硫酸のように全てを溶かしてしまう溶解液であったが。
シュンッ
数百、数千のカオルが空を埋め尽くす。
ゼルエルとの戦いで見せた光を操るEVA08と残像攻撃の合わせ技である。二人の使徒はこの技のことをゼルエルから聞いていた。やや気が薄い方が光の幻影であり、濃い方が残像であるはずだ。
マトリエルは今まさに襲いかかってこようとしている四人のカオルを注意深く観察した。頭上から槍で斬りかかってくる二人と正面にいるカオルは少し気が弱い。
(下から斬り上げてくるタブリスが本物か!!)
カッと目を見開いたマトリエルは全身から噴出させた体液を自分の下方に集中させた。鍛えられた鋼鉄さえ瞬時に溶かしてしまう彼の体液をくらえばカオルとてただではすまないはずであった。
だがマトリエルの予測は完全にはずれた。
溶解液を浴びた下方のカオルは塵のごとく消え失せ、実際に襲いかかってきたのは正面にいたカオルの微笑と突きであった。カオルほどの腕になれば気に強弱をつけることなどわけはない。カオルは故意に実体の気を幻影と同レベルにまで落としておいて、普通のものより少し存在感が強い幻影と織り交ぜて攻撃してきたのだった。
マトリエルが九死に一生を得たのは彼自身がかわしたわけでもなく、カオルがしくじったからでもなかった。大気を切り裂いたEVA08が届く前に、マトリエルを取り巻いた黒い海のおかげであった。
「遅いお着きだね、レリエル。戦力の逐次投入は避けるべき戦術だって学校で習わなかったのかい?」
絶対の自信をもって放った攻撃が思わぬ横やりで失敗に終わった数千体のカオルは、同時に肩をすくめておどけて見せた。カオルは分身を元に戻して視線を転じさせた。
振り返った視線の先には戦線に復帰してきたシャムシェルと槍に貫かれたはずのマトリエル、そして黒い海で転移させることによって瞬時に仲間を救出した夜天使レリエルの姿があった。
(これはちょっとまずいかな?)
カオルは愉悦感を含んだ溜息を漏らした。一対三で、しかもくせ者のレリエルがいるとなると状況は不利だ。これで力天使ゼルエルでも現れたら絶体絶命と言っても過言ではない。
だがこの日、ゼルエルは姿を見せることはなかった。本当は自ら出向く予定だったゼルエルには、急遽やらなければならないことができたのであった。
「さあ、誰から相手をしてくれるんだい?」
虚勢を虚勢に見せない意味ありげな微笑でカオルは言い放った。
「戦況はどうなっておる?」
発令所最上部にある司令席専用の扉から一人の男が入ってきた。壮大な巌を思わせるような体躯を持ち、静けさと厳しさを半々に浮かべた表情をしている。白い髭と片袖を垂らしているのが印象的だ。
冬月は六分儀ゲンシュウの姿を認めると立ち上がって頭を少し下げ、警備兵に視線で席を外すように命令した。普段から無口な冬月の所作に慣らされている三人の屈強な保安部職員は、ゲンシュウと冬月に敬礼を施し立ち去った。
「現在のところ想定の範囲をでてはいません」
「南門が少し押されているようじゃの。ミサトだけでは荷が重いか・・・・」
冬月は司令席を勧めたが、ゲンシュウは軽く首を横に振った。そしてモニターをのぞき込むと左手で髭をさすりながら呟いた。
「サルベージ作業の方は?」
「現時点では何も連絡が入ってきていません。地上とは隔離してやる予定なので連絡がないのは順調に進んでいることかと」
ゲンシュウはまだ髭をさすっている。それが考え込むときの彼の癖なのだが、何十年も右手でこなしてきたことを左手でしているので何だか不自然に見える。
「ゲンドウは地下か?」
「はい。おそらくユイ君のところかと思います。先程次元が割れるのを感知いたしましたので・・・・」
ゲンシュウはそれを聞くと感慨深そうに息を吐いた。10年前と同じ事が行われようとしている。ゲンドウの目的は過去の計画とは全く違うものだが、次元の門が開かれたという報告にゲンシュウは感慨を覚えずにはいられなかった。
なにしろ過去に計画の指揮を執ったのはゲンシュウ自身であったのだから。ただし計画の名は人類補完計画ではなく人類帰還計画であった。
(あの時は熱病に冒されていたようなものじゃの・・・・)
10年前、ゲンシュウを含めたUN首脳部はある熱病に侵されていた。それはジオフロント世界から地上界へ行くという狂気がかった病だった。
地上界からジオフロント世界に漂着してくる人間はいるが、逆の例はない。地上界で調査したことはないのだからはっきりしたことは言えないのだが、少なくともジオフロント世界側の調査ではそういう事例は報告されていなかった。
当然のことながら人には回帰願望というものがあり、地上界に帰ろうとする試みは様々な人間が様々な方法を使って行ってきた。その全ては帰る方法の糸口すら見つけることができずに終わっていたが。
ただしこの時ゲンシュウは知らなかった。自分自身が何千年という歴史の中で二つしかない例外の内の一人であることを。
状況を変えたのはセカンドインパクトの五年前、つまりジオフロント暦2000年に起こった大量の地上人の漂着である。その中には多数の有能な学者が含まれており、今まで不可能と言われていたことを地上界の最新の知識をもって可能にした。
そして漂着した学者の一人で言語学の世界的な権威である葛城ヒロシが大変なことをやってのけた。それまで謎に包まれていた最も古い本の一つである死海文書の解読に成功したのである。
地上界ではシャンポリオンの再来とまで言われたヒロシは、それまでジオフロント世界にはなかった解読法を持ち込み、ただの記号の配列にすぎなかった死海文書を意味のあるものに変えた。そして死海文書に記されていたことはジオフロント世界全体を変えることになったのだ。
ジオフロント世界と地上界をつなぐ方法の発見
そのことを知る人間はほんの一握りであったが、彼らは狂喜乱舞した。UNは人工進化研究所という機関を作って具体的な方策の検討を始めた。その時責任者となったのが葛城ヒロシなどと一緒にジオフロント世界にやってきた天才科学者赤木ナオコであった。
ナオコは卓越した頭脳で難問を次々と解決していき、死海文書解読から三年後のジオフロント暦2003年には計画の発動段階までこぎ着けていた。
だがここで大問題が発生する。
計画の肝心要であるEVA00とEVA01の適格者が見つからないのである。”全”を司るEVA00はジオフロント世界の全ての物から力を集めて異界への門を作り、”無”を司るEVA01は全てを断ち切るその力をもって門を開ける、と死海文書にはあった。
計画は頓挫寸前に陥った。
UNは二年の歳月を費やして、ジオフロント世界にいる力のある人間全てを検査したが適格者はようとして見つからなかった。だが失望があきらめに変わり、あきらめが絶望へとなり始めた頃、事態は急展開を見せる。
ジオフロント暦2005年初頭に漂着してきた一組の夫婦が適正を見せたのである。その夫婦は短期間でEVAの使用法を修得し、計画は再び軌道に乗ったかに見えた。二度目の急展開は使徒の来襲によってもたらされた。ここ数十年蠢動していなかった神の名を冠する天使達は、一斉に暴れ出した。
諸施設が破壊され、計画は再び無期限に頓挫するのではと思われた。それほど使徒達の攻撃は凄まじかったのである。だがある日を境に使徒の攻撃はピタリと止んだ。神々が現れて助けてくれたとか、使徒が内部分裂を起こしたとか様々な憶測が流れたが、真相は闇に葬られた。
こうして人類帰還計画は発動の初につく。ジオフロント暦20005年、晩秋のことであった。
グワッシャン
ゲンシュウが発令所で感慨にふけっていた頃、ミサトが守備する南側では激闘が続いていた。
「葛城少佐!Eー2地点の城壁が突破されました!!」
ミサトはすでに険しい顔の眉を更にひそめた。
マコトが律儀に報告を入れなくても城壁が破壊されたのは分かる。南門の上の城壁で指揮を執っていたミサトの目には、南西部の城壁に象の10倍くらいはある巨大な地龍が突っ込んだのがはっきりと見えた。
短気な妖魔達が門を突破することに固執していたおかげで今までは比較的楽に戦えたわけだが、城壁を壊されると背後に回り込まれる危険性が高い。
「本部まで後退するわよ」
ミサトの決断は早かった。グズグズしている暇はない。迷っていては包囲されて殲滅されるのが関の山だ。
「ミサト、ここは捨てるの?!」
アスカが不満げな声を上げた。別にミサトの決断に異を唱えているわけではない。戦いが始まってからかなり経っているというものの、南門には使徒が出現していないためアスカは一度も剣を振るっていない。アスカは高見の見物をしているような自分に苛立っているようだ。
「そうよ。もうここにいても仕方がないわ。どうせ奴らの狙いは本部なんだし」
アスカの苛立ちを理解していながら気にも止めていないようなことを言った顔は、自称保護者のそれではなく、冷徹な指揮官としての顔だった。
「日向君。戦術G−5で引くわよ。準備して」
ミサトの強固な意志を受けたマコトは自動人形のように飛び出していき、全軍に司令を出した。引くといっても退却戦は戦いにおいて最も難しいとされるものである。だがミサトは魔法の一斉発射で敵を退らせると二つに分けた剣士部隊を交互に叩きつけることによって時間を作り、両翼の剣士部隊を陽動のようにヒラヒラと展開させて敵軍の足を止め、集団転移魔法の準備を整えると犠牲らしい犠牲も出さずに退却を完了させた。
真っ先に退却した補給部隊と一緒にいたアスカは、教科書に出てきそうなミサトの退却戦に驚きを含んだ賞賛を送りながら本部に引き上げた。
(ミサトもやるわね)
アスカの不遜な呟きは心の中だけのものだった。だがアスカ後でこのことを思い出して恥じ入ることになる。いくら才能があるとはいえ、戦いに出始めて半年にも満たない自分がミサトの用兵にあれこれケチをつけるのは恐れ多いとまではいかないが、まだ早いことだけは確かだった。
「シンジはどうしているかな?」
実際にアスカが言語化したのは地下遺跡で怪しげな実験に従事している幼なじみについてであった。アスカは地下で行われていることについて何も説明を受けていなかったから今シンジがどうしているのか皆目見当が付かなかった。
南門でミサトの部隊が撤退を完了した頃、ネオトウキョウ東側に異変が起こった。だが現在のところこの異変に気が付いているネルフ側の人間は一人しかいない。そう、全神経を町中に張り巡らせるようにして発令所にいる冬月コウゾウである。
冬月より勘の鋭いシンジとカオルはそれぞれ自分の目の前にあることで手一杯であり、東側の異変には気が付いていない。
「閣下、少しここをお願いできますか?」
ゲンシュとの短いやり取りの後、瞑想するように目をつぶっていた冬月は、静かな決意を瞳に宿らせていた。
ゲンシュウは冬月の方に顔を向けると眉を少しだけしかめる。冬月はこの僅かな動きが説明を促しているのだということを理解していた。それは知性ではなく人生における長い経験のみがもたす洞察力である。
「旧知の者達が来たようです。私が千の守護者を率いて出ます」
旧知の者?
ゲンシュウは新雪のような眉をもう2ミリだけしかめた。冬月自身と旧知の者なのか、それとも彼に宿っている影の部族の頭領と旧知の者なのか?そして冬月が千の守護者を率いる必要がある敵。
ゲンシュウは眉を2ミリ動かす間に考えをまとめた。そして不快感をこめて言語ファイルの中から一つの単語を引っぱり出す。
「バルバロイの民か?」
物々しい一言に冬月は頷いた。
そして通信マイクでこれから発令所の指揮はゲンシュウが執ることを全職員に通達すると、厳粛な一礼をして出口へと向かう。急ぐ様子もなくいつものように退出していく冬月は、これから凄惨な場に赴く人間にはとても見えなかった。
「冬月」
頑丈な扉に冬月が手を伸ばそうとした瞬間、ゲンシュウが声をかけた。そして振り返ろうとした冬月を制するがごとく次の言葉が飛んでくる。
「武運を」
ただ静かにゲンシュウは言った。冬月はモニターを凝視したまま顎髭をさすっているゲンシュウに一礼をすると部屋を出ていく。
司令専用出口の脇で待機していた保安部所属の警備員は冬月に敬礼を施すと、開け放たれた扉越しに司令席に佇むゲンシュウを少しだけ怪訝な目で見た。ゲンシュウはネルフの一員ではないから厳密には指揮権はない。生真面目さが軍服を着ているようなこの警備員にはそのことが気に入らなかったようだ。
しかし実際に口にすることは絶対にない。
ネルフにおいて、ゲンドウと冬月の命令は絶対のものであった。そしてゲンシュウは引退したとはいえ、前のUN軍最高司令官で、階級は元帥。曹長である警備員とは階級が10以上も違う。
それに加えてゲンシュウは圧倒的なまでの存在感と貫禄を持っていた。下級軍人にすぎない一保安部職員にとっては雲の上の人間である。屈強な警備員がゲンシュウに優っていたものといたら、胸板の厚さと腕の数くらいのものであった。
「ご苦労様。大丈夫かな?」
レイが集めた力をもって次元を切り裂いたシンジはすぐに転移魔法によって別の場所に移された。10年前のように”鍵”の役を負うEVA01の適格者がディラックの海に吸い込まれてしまうようなことは絶対にさけなければならなかった。
リツコは母親が残した資料を元に、安全な転移の仕方を研究していた。これが無数にある改良点の一つである。シンジを介抱したのは医療班に属する女性で、過去にも何度か治療を受けたことがある。
(あれ?この声は確か山城少尉かな?)
全身の力を使い切り意識が朦朧としていたシンジは、はっきりしない頭でそばにいる職員の名前を思い浮かべた。意識が戻ると視界も色彩を帯びてきた。さきほど莫大な光量を扱ったせいか、シンジは目を開けているのに視界は白一色であった。
ぼやけていた視界が元通りになったシンジは上半身を起こした。右手首に目をやると大剣となっていたEVA01が腕輪の形状に戻って収まっている。シンジは地下遺跡に臨時に設けられた一室に横たわっていた。
「意識はしっかりしている?さっき身体をスキャンしたけど異常はなかったわ。意識があるなら大丈夫だと思うけど、どう?」
「あ、あの僕はどのくらいここに?」
「ほんの二,三分よ」
「あ、綾波は?」
シンジは唐突にレイのことが聞きたくなった。実験の前のレイのはかなげな背中が思い出される。実際に口に出してしまったことに関しては自分でも驚いていたが、レイのことが妙に気になった。
「綾波?ああ彼女ね。彼女は少し疲労が酷いようだったから赤木博士の指示で奥の部屋に移されたはずだわ」
シンジの声は少し裏返っていた。さっきまでシンジを介抱していた女性は、医療キッットをしまう手を止めて目を細めた。
「ど、どこにいるんですか?」
「確か地下のB−3ブロックにある部屋だと赤木博士は指示しておられたけど・・・」
シンジはリツコに渡された地下遺跡の地図を思い浮かべた。シンジの記憶が正しければB−3ブロックは実験場の通路の一番奥の区画だ。頭の中から地図を消したシンジはベットから飛び降りた。
「ちょっと、どこに行く気?」
「えっと、綾波のところに・・・・」
「気が付いたらすぐに赤木博士のところに出頭しなさい。ああ、場所は臨時司令所、そこのドアを出たらすぐ右手に見えるわ」
山城少尉は少し不機嫌そうに右手のドアを指さした。B−3ブロックに行くには左手のドアから出なければいけないが、あの様子では行かせてはくれないだろう。シンジは後ろ髪を引かれるような重いだったが、リツコに会った後会いに行けばいいと思い直して右手のドアに手をかけた。
「魔力が強すぎるわ!牽引装置の出力を2%下げて!魂だけの精神体がどれだけ壊れやすいものなのかは知っているでしょう?気を付けなさい」
臨時司令所に入った瞬間、シンジは驚きで肩を振るわせた。
扉を開けると共に耳に飛び込んできたのは怒号と悲鳴を足して2で割ったようなリツコの声であった。ネルフの中で最も冷静な人間であるリツコが興奮している。本人は押さえているつもりなのだが、普段のリツコを見ている人間が見ればすぐに分かる。
司令所の空気は息苦しいほどに張りつめている。
シンジは地下だから酸素の残有量が少なくなってきているのではと勘ぐったほどだ。入室からリツコの剣幕に出くわしてしまったシンジは声をかけるきっかけを摘めないまま立ちつくしていた。
「あ、シンジ君。具合はどう?」
リツコは幸いにもモニター画面に反射していたシンジに気が付いた。うざったそうに首だけシンジの方に向けた顔は、強ばって見えた。
「は、はい。大丈夫です」
「意識ははっきりしてる?」
「はい」
「脱力感や倦怠感もない?」
「え、大丈夫ですけど」
シンジの体に異常がないことを確認したリツコは少し大きめの息を吐いた。だがシンジはいつもよりしつこく聞いてきたリツコに漠然とした不安を覚えた。もしかしたらもう一人の担当者であるレイの具合は芳しくないのかもしれない。
「あ、あの、リツコさん・・・・」
「シンジ君、悪いけど今手が放せないの。それからシンジ君はすぐに地上の発令所に行って冬月副司令の指示を仰いで頂戴。上では戦闘が始まっているわ」
リツコはシンジの疑問を遮るように言った。理知的で隙のないその言葉はシンジを黙らせるには十分だった。そして地上では戦闘が始まっているという事実はシンジを驚愕させた。
「し、使徒が来ているんですか?!」
「詳しいことは発令所で聞いて。私もよく分からないの」
リツコはそう言い放つと再びモニターに視線を移した。リツコらしくない言い回しだが、緊張に包まれていた司令所の職員と少し動転していたシンジは気が付かなかった。リツコは出入り口にいた警備員にシンジを発令所まで送るように指示を出すと、自分に課せられた作業に集中し始めた。
「精神転移装置を機動準備。座標1,4,6まで牽引したら直接転移させるわよ。急いで」
リツコは保安部に護衛されて地上へ向かうシンジの背中をもう一度だけ見た。リツコがシンジを追い払うようなゲンドウをしたのは何となく後ろめたさが募ったからである。母親の魂をサルベージする現場からシンジを遠ざけたかったのだ。
理由はリツコ自身にもよく分からない。魔術や科学には長けているリツコだが、人間関係については少々苦手であった。
その頃使徒と魔族を迎え撃ったネルフ側で、もっとも苦戦していたのは本部ビル上空で
使徒三人を相手にしている渚カオルであった。機先を制してサハクィエルを葬り去ったカオルだが、レリエルが戦列に加わって以来防戦一方に追い込まれている。
夜天使レリエルは黒い海のような結界を自在に操ることによってマトリエルとシャムシェルを巧妙にサポートし、隙のない攻撃を構築していた。遠距離からカオルを追いつめるように鞭を伸ばすシャムシェルと近距離から溶解液を浴びせてくるマトリエルは、レリエルの結界によって自由自在に移動しながら攻撃を仕掛けてくる。
カオルは必死になって身を守ることに専念しなくてはならなかった。とはいえ、レリエル達にも余裕があるわけではない。彼らの目的はカオルの殲滅ではなかった。神の世界への扉を開く可能性をもった者の抹殺が彼らの任務である。
とりわけ碇ユイが最大の標的であった。ゼルエルを中心とする正統派使徒は、綾波レイに関しては所詮はコピーである見ている。碇シンジに関しては”鍵”という役割の他にもう一つ重要な宿命を秘めていることから、まだ使い道があるのかもしれない。ただしユイは、ゼルエル達にとっては危険以外の何者でもなかった。
それぞれに必死になっている上空の天使達は、自分たちを見つめる視線があることに気づく由もなかった。
「タブリスは苦戦しているわね。まったく口ほどにもないんだから」
「そうかな?タブリスだからこそ使徒三体相手に何とかやり合えるのだ。なんならおまえが代わってやったらどうだ?ラミエル」
ネルフ本日ビルの遙か上空で気配を消しながら佇んでいた雷天使ラミエルは、大げさに首を振って皮肉たっぷりの言葉に答えた。彼女が首を振るのに連動して、中学生くらいの身体の四方を取り巻いている自身の頭くらいの黒い正八角形が揺れた。
その八角形の物体が攻守両面の機能を兼ね備えたものであることをアルサミエルは知っている。そしてアルサミエルは、子供のような身体と愛らしい顔のラミエルに少しでも油断した者は、死を持って自らの油断を償うことも知っていた。
「で、どうするの?アルサミエル。ちょっかい出しに行くの?」
クラリネットのような軽快な声に、アルサミエルは少し考え込んだ。状況はまだ一進一退と言っていい。それだけに隙を突くこともできそうだが、今出かけていったらネルフと正統派の使徒両方の攻撃を引き受けることにもなりかねない。アルサミエルは両者を同時に敵に回して立ち回れるほど自分の能力を過信してはいなかった。
「もう少し様子をみよう。どちらかが有利になれば必ず攻勢に出る。その時が我々にとっての最大の好機になろう」
アルサミエルは突如として背後から聞こえてきた冷静な声に身をすくめた。音もなく忍び寄ってきたのが鳥天使アラエルでなかったらと思うと背筋に冷たい物が走る。
「脅かさないでくれ、アラエル。来るなら来ると言ってくれればよかったのに」
アルサミエルは抗議めいた言い方になっていた。自分の思っていたことを横取りされた挙げ句に、三倍くらい重々しい口調で言われては二の句を継ぐこともできやしない。
「悪かったな、アルサミエル。しかし”門”と”鍵”を奪取するには私の”歌”が必要になるのではと思ったものでな」
冷静な声で返したアラエルは高い知性が宿った瞳を戦場に向けた。
ドゥバッ!!
アラエルの冷静な、アルサミエルの好奇な、ラミエルの天真爛漫な視線の先では激闘が続いていた。マトリエルが吐き出した溶解液がカオルに浴びせられる。レリエルの誘導でいきなり至近距離に出現したマトリエルの強酸性の液体は一見回避不能に思えた。
だがカオルは手に持ったEVA08を風車のように回転させて液体をはじき飛ばすと、そのまま槍を回転させてマトリエルの頭部を叩き割ろうとする。
シュルッ
カオルの一撃を阻止したのはシャムシェルの腕だった。しなやかに伸びた両腕の一部は槍の杖にからみつくと空気を切り裂くような動きを中断させる。カオルはすかさず槍に気合いをこめて光の刃をスパークさせてまとわりついてきたシャムシェルの腕を塵にさせると後方に退がって体勢を立て直す。
四人の使徒はもう長い間、そんな戦いを続けていた。相変わらず不利なのはカオルだが、それは戦術上のことに過ぎない。もっと大きな戦略的な観点から見れば不利なのはレリエル達の方であった。
カオルは時間を稼いでいれば実験を終えたシンジやレイ、リツコなどの来援が期待できるが、レリエル達に援軍はない。特に力天使ゼルエルの戦線不参加は彼らに大きな影を落としていた。しかも碇ユイが完全復活でもしたら目も当てられないような状況になる。
そのような状況下で膠着した状況に焦れたのはやはりレリエル達であった。
十何度目かの溶解液をかわされたマトリエルがカオルを無視して本部ビルへ突進したのである。
「マトリエル!焦るな!!」
レリエルの制止の声は完全に手遅れであった。
刃を交えながら注意深く使徒達を観察していたカオルにはマトリエルの焦りがありありと感じられていた。そしてその瞬間がレリエル達の連携が崩れるときであることも分かっていた。
カオルはレリエルが黒い海を展開させてサポートに入るより早く反応することに成功した。目にも留まらぬ動きでマトリエルの背後に回り込んだカオルは鋭い一撃を放った。カオルが速度を最優先にしたのと黒い海が間に合わないことを悟ったレリエルが危機を叫んだことが、雨天使マトリエルの命をかろうじてつなぎ止めた。
槍が触れる寸前に身体をよじったマトリエルは、コアを攻撃から守ることには成功した。しかし左肩口から袈裟に入ってきた光の刃は、首、右肩、右腕を胴体から切り落とした。自己修復が可能な使徒とはいえ、EVAで食らったダメージの回復には時間がかかる。マトリエルは一命を取り留めたが戦闘能力を完全に喪失した。
本部中央に降下し、強力な溶解液をもって穴を開けて地下に突入しようとしていたマトリエルだったが、甚大なダメージを受けた肉体は言うことをきかなかった。マトリエルの身体は傷口から溶解液を飛び散らせながらネルフ本部東側に落下した。
ジョウバッ!!
マトリエルの身体が衝突する音と、飛び散った体液が建物を溶かす音が重なった。ネルフ本部東側には凄まじい轟音と煙が立ちこめた。そしてその場には意外な人物がいた。
「な、なんだこれは?!」
シンジを地遺跡から護衛してきた保安部職員は動転した声をあげた。ネオドイツ支部から来たばかりの彼にとって、使徒は初めて目撃する物体であった。
地下遺跡からの直通エレベーターで地上に出たと思ったらいきなり屋根が崩れ、しかも得体の知れない者が倒れている。傷ついていても圧倒的な存在感を発するマトリエルを見た職員は明らかに狼狽していた。
マトリエルの溶解液によってむき出しにされた人間達の中で最も落ち着いていたのはシンジであった。ショウ=イロウル戦以来、すっかり自信をつけたシンジは動揺する護衛を押しのけるようにして前に出る。
目の前にいるのは何者であるかはすぐに分かった。
直感がそう言っていたし、右手に宿るEVA01の宝玉が蒼白く輝きだしたこともシンジに目の前の化け物が使徒であることを告げていた。シンジはすばやくEVA01を大剣の形態にすると四肢に力を入れた。
「シンジ君!!」
この事態は当事者全員にとって誤算であった。
シンジを送り出したリツコも、上空で激闘を繰り広げるレリエルとカオルも、それを監視していたアラエルも、誰一人としてこのような形でシンジが部隊に上がるとは予測していなかった。
真っ先に動いたのは、その場にいた者の中で最も冷静に戦いの推移を見ていた鳥天使アラエルであった。アラエルはカオルがシンジの名を叫ぶのと同時に飛び出していた。
ランランランランランランララッランランランランラララー
ランランランランランランララッランランランランラララー
アラエルの”歌”は一瞬にして辺りを覆い尽くした。
聴く者全ての心に入り込み、支配するアラエルの大音量は圧倒的な威圧感をもって登場してきた。その歌声はネオトウキョウにおける激しい舞台の最終楽章が始まったことを告げていた。
MEGURUさんの『ジオフロント創世記』第23話、公開です。
アラエルが歌っている〜!
アラエルがフォントサイズ+3で歌っている〜!
強烈な歌声が響くネオトウキョウ・・
みんな、頭を抱えてのたうつんでしょうか?
もっと違う効果がジオフロントのアラエルにはあるのでしょうか!?
「ランランラン」という文字列に、
ナウシカを思い浮かべた私って−−(^^;
さあ、訪問者の皆さん。
山場の感想をMEGURUさんに送りましょう!