第二十話
「選択は君に」
バラバラバラバラッ
黄昏に染まり始めた一帯にけたたましい機械音が響きわたる。
不釣り合いな騒音だった。数千年、いや数万年という時が創り出した静かな山並みと、存在感を過剰に誇示するようなヘリコプターの音。耳を済まさなければ聞こえてこない自然の声は、人間が作りだした鋼鉄の物体によって圧殺された。
傾き始めた太陽は辺りをやや黄色みがかった色に染めている。うっすらと山吹色の衣を纏った白き峰々は冷たい空気によく映える。飛来してきた機械音に雰囲気をグチャグチャにされなければの話だが。
「民間向けの物じゃないな。軍用ヘリか?」
轟音の主はまだ山陰に隠れていたが、次第に大きくなってくる音はその到着が近いことを告げている。ケンスケは眼球はキラキラと輝いていた。豆電球でも仕込んでいるのではと思わせるくらいに。
一人だけ機械音を追いかけているケンスケの横には、腕組みをしたままじっとしているトウジがいて、右隣には心配そうなヒカリ、三歩下がったところには相変わらず意味不明の微笑を浮かべるカオル、その5m後方にはリツコが駐車場をしきるガードレールに軽く腰を委ねている。
車がまばらな駐車場には雪はない。隅々まで施されたロードヒーティングは、何ヶ月も続く降雪をものともしなかった。だだっぴろい駐車場の中央部に立っているケンスケ達は、何だか取り残されているようにも見える。アスファルトの孤島。
彼らはじんわり伝わってくる熱を靴の裏で感じることで時間を潰しながら、空を見ていた。重さも長さも不揃いな思い思いの視線で。
遠間に見えるロッジに横付けされたバスには、青とオレンジの集団が見える。学校側が用意したスキーウェアは、男子は上が青で下は白、女子は上がオレンジで下は男子と同じ。学校が用意したにしてはましなものかもしれない。
ポツポツと自分で持ってきたスキーウェアを着ている生徒もいたが、常夏の国となった関東でウィンタースポーツの装備を自前で揃えている中学生は希であった。
「アスカと碇君大丈夫かな?怪我とかしてないかな?」
「なんや、さっきミサト先生が通信で大丈夫やって言っていたやろ。イインチョは相変わらずやな」
ヒカリは少しだけ目尻に力を込める。ややきつい視線の先でトウジは素っ気なさすぎる欠伸をした。無意識の欠伸。悩みも意図もない、ただ本能が欲した行動。トウジはヒカリの視線の意味を理解しないばかりか、気づきもしなかった。
ヒカリの頬には淀んだ空気が押しつけられた。混ざり合うのは不揃いな視線、ばら売りの心、実気温よりも冷え切った空気、脇役の不満。溜息が出た。
どうやらトウジはつき合いでいるだけあったし、ケンスケは自分の趣味が先行しているようである。カオルの考えていることはさっぱり分からないが、意味不明な微笑は心配や危惧とは無縁に見えた。
そしてリツコの機嫌は背筋がゾッとするほど悪かった。ヒカリがそばに寄るのがはばかれるくらいに。
保健医として遭難したというシンジとアスカの健康チェックするために来ているリツコは、さっきから銀色に光るシガーレットケースを手のひらで弄んでいる。何度か蓋を開けては閉め、その都度表情を険しくしていった。
リツコは昨晩ほとんど寝ないでいた。様々な細工が施されたリフト、特殊磁石を埋め込んだシンジのスキー板とその誘導システム、偵察衛星をフル稼働した監視装置、罠がたっぷりの雪道に陰謀に満ちた避難小屋。
これらを準備するために多大なる時間と労力を費やしたリツコにしてみれば、半分くらいの機能が眠ったままの結果は許せないことであった。
彼女の自称”素晴らしい装置”は完璧であるはずだ。それにも関わらずレイとミサトの急速な接近を阻止できなかったのは実行部隊に問題があるに違いない。加持を中心とするネルフ特別調査室の責任は重い。
(出番が少ないせいかしらね?加持君もMissが多いわ。おしおきが必要ね)
リツコはついに煙草を取り出すと火を付ける代わりに握りつぶした。細い指の間からほのかに立ち上るメンソールの香りはリツコの怒りの匂いであった。
シュンシュンシュンシュン・・・・・
鋼鉄の恐竜を連想させるようなフォルムを持ったヘリコプターは、空気を切り裂きようなローター音を最後に発すると大地に身を委ねた。
ロッジ脇にある駐車場は臨時のヘリポートに早変わりした。周囲を威圧するように身を横たえたヘリの他には車影はまばらである。スキー客は第一中学校林間学校一行しかいないので駐車場はガラガラであった。
「UN軍も使っている極地使用じゃないか。しかもレーダーサイトは改良が加えられてるみたいだな。武器を取り付ければ最新鋭装備になるぞ」
ネルフのロゴが入ったヘリを見たケンスケは興奮気味だ。
1997年時点ではたとえ武器を取り外していても日本国内での軍用ヘリの飛行は禁じられているのであるが、細かい事は抜きにしておくのがProject Eのセオリーである。勿論そんなことを危惧している登場人物はどこにもいなかった。
「・・・・・・・・・・・」
頑丈そうな扉が開いて出てきたシンジ達を目撃した五人は、それぞれの仕草で一瞬顔をしかめて沈黙した。彼らの視界に飛び込んできたのは両脇を美少女二人に捕まれてゲンナリしているシンジと、やたら嬉しそうにしているミサトであった。
何が原因でそうなったのかは分からないが、今の状況はすぐにわかる。元々機嫌が悪かったリツコなどはつきあってられないとばかりに身を翻す。カオルは端正な眉をひそめ、トウジは腕組みをしたまま低くうなり声をあげ、ヒカリは深く息を吐いた。
ケンスケは仕方なさそうにカメラを取り出すと、レイをフレームに入れないようにしながら撮影を開始する。どんなにくだらないことであっても記録するのはジャーナリストの義務感と商売人としての性であろうか?
「ところで皆さん、先程ネルフ特別調査室から届いたばかりの惣流のお着替えビデオはいかがですか?高画質なDVDで十七話の水着シーンもセットにして3800円でのご奉仕価格!アスカな人は必見ですよ!」
「・・・・・・おい、ケンスケ。どこ見て言っとるんや?」
「いや、まあいいじゃないか。今月は苦しいんだよ。見逃してくれよ、トウジ」
トウジは意味不明なことを口走るケンスケにパチキをかましてやろうかと思った。だがトウジが決心する前に、甲高いアスカの怒号と氷のようなレイの声が響きわたった。毒気を抜かれたような格好になったトウジは渋い顔で頭をかいた。
「何をやってるんや?アイツらは・・・・・」
苦々しげなトウジの一言に全てが集約されていた。
ヘリから降りる時でさえシンジを取り合っているアスカとレイは、一応出迎えた人間をしばらくの間完全に黙殺した。疲れ切った表情をしているシンジを挟んでで睨み合う二人の目には、他のことは映っていないらしい。
「ちょっとアンタ!その手を離しなさいよ!!」
「あなたには関係のないことだわ。これは私と碇君の問題よ」
「シンジは嫌がってるわ!こんなに疲れた顔してるじゃない!」
「それはあなたと長時間二人きりになっていたからよ。あなたは碇君を摩耗させるだけの存在だわ。Project Eの世界から消えてなくなるべきよ」
「な、何言ってるのよ!アタシがいなくなったらこんな小説終わりだし、大家さんにUPしてもらえなくなるに決まってるでしょう?!アタシを消すことはエヴァ世界では超A級の犯罪よ!打ち首獄門の上、全てのエヴァHPから抹殺されることは間違いないわ!!」
「どうせもうすぐこの連載は終了よ。あなたの登録抹消と私と碇君のハッピーエンドでもって」
「終了間近って言ってからどのくらい経つと思ってるの?実は作者の頭の中にはエンディングシーンがまだ描かれてないそうよ。それにハッピーエンドですって?不幸が服着て歩いているような存在のアンタには似つかわしくない言葉だわ」
「薄倖の美少女と言ってくれないかしら。清楚で神秘的な超絶美形ヒロインと言い換えてもいいわ」
「何度も言っているでしょう!ヒロインはア・タ・シ!!」
顔をしかめていたケンスケ達はシンジがなぜあんなに疲れた表情をしているのか理解した。おそらくヘリに乗っている間中、アスカとレイはつきることのない口喧嘩を続けていたのであろう。シンジは肉体的にも精神的にも疲労のピークだった。
「二人ともシンジ君の取り合いはそのくらいにしてバスに乗り込んでくれない?A組は先頭車両だから、後がつかえると他クラスにも迷惑がかかるでしょ。それでなくても出発予定時刻をもう五分すぎているわけなんだから」
愉しそうな顔をして舌戦を見ていたミサトは時計を見ると少しだけ教師としての顔を覗かせた。
ミサト個人としてはしばらくの間このまま続けて欲しいのであるが、救出作業が手間取ったこともあってホテルへ戻る時間になっている。他クラスの生徒はほとんどがバスに乗り込んでおり、あとはシンジ達を残すのみであった。
アスカとレイは少し不満そうな顔をしたが、視線で闘いを続けながらバスに向かって歩き出す。セリフもろくに与えられないまま無視されたケンスケ達も半ばあきらめたような表情でそれに続く。
アスカとレイに長時間はさまれたことで気力を根こそぎ使い果たしたシンジは引きずられるような足取りでバスに向かう。
ほとんど奴隷のようなシンジは気が付かなかった。ヘリから降りてくるシンジを、おそらくはもっとも心配そうに見ていた視線があることを。
少し離れたB組のバスからもシンジ達の様子は見えた。車がまばらなことで邪魔するものはないし、色彩豊かなアスカとレイに挟まれたシンジは目立つ。
「・・・・・シンジ君・・・・・」
鼓膜が震えないほど微かな声。隣の座席にいる三笠ヨウコにすら聞こえない。誰にも気づかれることなく、豊かな黒髪に流れ落ちる。いつもはポニーテールにしている髪はヘアバンドで纏められて首筋から肩、肩から背中へとなだらかな河を作っていた。
黄昏が差し込む車内。転がり落ちた心。一日中滑っていたというのにまだまだ元気がありままっているクラスメイトの喧噪の中、カスミの声は溶けていった。ざわめきに消えた淡雪。
「ほら、カスミの番だよ」
言葉と共に軽くつつかれた肘の感触。カスミは上の空だった自分にようやく気が付いた。あわてて床に積み重ねられたトランプと自分の手元を見比べたカスミはエースの3枚組をきる。
「いきなりエースかよ。序盤戦から強気だね、カスミちゃんは」
隣に座っていた男子の声にカスミはハッとした。ほとんど考えることなく出してしまった3枚のエース。カスミの手元にはもう強いカードは残されていなかった。
その後カスミは運も手伝って平民に残ることができたが、ぼんやりと視線を踊らせては下を向いて溜息をついていた。
夜の自由時間に入ったHOTEL・SEELEの一室。カスミとヨウコは別館の大浴場から出てきた後、B組の男子に誘われてトランプをしに来ていた。
待ち伏せるかのように風呂場の出口にいた男子生徒。本人達は隠しているつもりであったが、カスミに集中する視線の意図は明らかだった。
「いきなり勝負に出るなんて、カスミちゃんて意外と大胆なんだね」
馴れ馴れしい声。隠しきれない下心。ヨウコは眉をひそめた。カスミの横に座る男はさっきからモーションをかけてははずしっぱなしだった。
的外れな意見に対して、カスミは自動人形のように細い顎だけで頷いてみせた。憂いを帯びた瞳は下を向きっぱなしで、落ち込んだ心はこの部屋にはない。
「実はカスミちゃんてさ・・・・・」
戯言が始まった。おそらく本人以外の全員を不快にさせているような言葉。先を越された他の男子生徒も、カスミの一番の親友であるヨウコも、苦虫を噛みつぶしている。積み重なるトランプの音だけが彼らの気を紛らわしていた。
「んぅ・・・・」
カスミはゲームが一段落すると小さく鼻を鳴らした。耳を済まさなければ聞こえないようなかわいらしい音量だったが、くだらない話をしながらも、常にカスミの動向を気に掛けている周囲の人間は聞き逃さなかった。
「どうしたの、カスミ?」
「んん、何でもないよ。少し疲れちゃただけ」
控えめに取り囲んでいた男子生徒の目が輝く。彼らの脳裏にはどこかの雑誌で仕入れてきた気の利いた風な言葉が浮かんでいる。
「あ、それならカスミちゃん、俺が・・・・」「疲れをとるのにいい方法を教えてあげようか」「枕を貸すよ」
「それなら部屋に戻ろっか、カスミ」
不協和音をたてる声。ぶつかり合う稚拙な恋心。それらは全てヨウコの大きな声に遮られた。
「明日もあるんだし、今日は早めに休もうよ」
ヨウコは言うが早いかカスミのか細い腕を引っ張り上げた。カスミはまばたきを二回した後、小さく頷き立ち上がる。
かすかに濡れている黒髪がほどけ、まとわりついたシャンプーの香りが部屋一杯に広がった。
「じゃ、またねー」
明るく尖ったヨウコの声は巨大な壁に等しい。何か気の利いた声をかけよう、あわよくば二人きりで送っていこうともくろんでいた男子生徒達。ちっぽけな自尊心を保つためにはひきつった笑顔で答えるしかなかった。小さく頭を下げたカスミが残していった匂い立つ空気は、敗北の香りを漂わせていた。
シンジは寝込んでいた。避難小屋にいたとはいえ、北海道の寒さは並み大抵のものではない。骨まで冷やされたシンジはアスカとレイの舌戦で神経をすり減らし、ついには熱を出して部屋で休むはめになった。
ホテルに戻ってきたシンジは夕食をパスしてベットに直行した。さきほどリツコが不機嫌そうにやってきて抗生物質とビタミン剤を注射してくれた。
軽い風邪。
道ばたに転がっているような病名。いくら医学が発達しても最も根絶が不可能な病。アスカとレイは看病する席の取り合いでしばらく騒いでいたが、「明日もシンジ君をベットに縛り付けたいの?」と、リツコに睨まれたのですごすごと退散した。
部屋の中は静かだった。規則的な寝息と布団のずれる微音、それ以外に音はない。完璧な防音加工が施されたスィートルームでシンジはまどろんでいる。
ケンスケとトウジはいない。シンジを気を使ってか他の部屋に遊びに行った。アスカとレイはお風呂の時間。あと小一時間は静かに眠れそうだ。
別館から本館に戻る通路を歩きながらヨウコの頭の中は活発に活動していた。”失恋を振り切るための7つの秘訣”、”落ち込んだ時のストレス解消法、ベスト10”。雑誌で読んだ情報が脳裏を踊る。
横を歩くカスミは床とにらめっこしていた。着替えとバス用品を小脇に抱えてうつむくカスミは、”憂いの少女”を絵に描いたような顔をしている。
男子の部屋からここまで歩いてくる僅かな時間に、ヨウコは3回話しかけようとしていずれも失敗していた。
「私、ふられちゃった」
林間学校の前日に電話で出てきた一言。相手が誰であるかは確かめるまでもない。その直後に聞こえてきた嗚咽とすすり泣きは今でもヨウコの耳に残っている。
「頑張れ・・・・」
それしか言葉は思いつかなかった。頭の中では言葉が氾濫しているのだが口から出せるものはない。あの時も、そして今も。
総ガラス張りの廊下はこの世とあの世をつなぐ道のようだった。ヨウコはそう思った。頭の上には陰り気味の星空。暗くて雲は見えないが、きっと空には灰色のヴェールをかけられているのだろう。
両脇をはさむのは雪明かり。ホテルの窓から漏れる光があまり入り込まないように設計された通路では、白く冷たく輝く雪明かりが照明代わりだ。左手に植え込まれた木々は光への防波堤。
ヨウコには目の前の本館ロビーの光が妙に遠く見えた。神様がくれたつかの間の永遠。二人だけの静寂。夜の谷間。
「そう言えば、碇君寝込んでいるんだって」
ロビーの眩しいばかりのシャンデリアを浴びた時、ヨウコの口からは自然と言葉が出た。さっきまではシンジのことは口にしない方がいいかな、と考えていたに。
時々誰かを捜すような視線を見せていたカスミがそう言わせたのだろうか?タブーとも言える言葉を聞いたカスミも嫌な顔はしなかった。
「それ、本当?シンジ君はどこが悪いの?大丈夫なの?」
カスミは顔を跳ね上げた。
「そこまでは知らないよ。部屋にお見舞いにいってみれば?」
嘘である。ヨウコは知っていた。シンジが軽い風邪で寝ているだけのことを。熱も微熱程度であることも知っている。分からなかったのは、カスミが今でもシンジをどのくらい想っているかということだ。
「で、でも・・・・・」
「会うのが怖いの?」
「そういうわけではないけど・・・・・」
カスミは視線をそらした。床とまたにらめっこを始める。綺麗に磨かれただけの大理石の床。つるつるしていて冷たい感じ。
目の前にはゆっくりと降りてくるエレベーターのランプがある。ヨウコの体の中にはランプとは逆に腹の底から胸に、胸から喉にこみ上げてくるものがあった。
「あ、ヨウコ?」
カスミの細い手首はヨウコに鷲掴みにされていた。まるで手錠を掛けられたかのようになったカスミは、エレベーターの中に引きずりこまれた。
「お見舞いに行くだけでしょ。大したことないわ」
「で、でも・・・・・」
「A組の女子はお風呂の時間だよ。アスカも綾波さんもいないよ」
ヨウコは手を離さなかった。固く握った指がカスミを締め付ける。エレベーターのランプは無情にもどんどん上がっていった。
チンッ
スチール製のドアは冷たく開いた。カスミとヨウコは放り出されるかのようにエレベーターから出た。無機質な音を立ててドアは閉まる。すぐに降下していくエレベーターは逃げ場を断っていた。
トントンッ
右手でノックする間にも、ヨウコの左手はカスミを離さなかった。少し痛かった。中指と薬指の爪が食い込んで。滑らかに磨かれた爪は、深く打ち込まれた杭のようにカスミを逃がさなかった。
「いないのかな?」
「やっぱり私たちの部屋に戻ろうよ」
「駄目」
ヨウコは右目だけをつり上がらせた。
「碇君?相田君?いるのー?入るわよー」
鍵はかかっていなかった。カスミはついにシンジの吐き出した二酸化炭素を吸える距離までやってきた。同じ空気を共有するのはふられた日以来。踊り出す心臓。
部屋は薄暗い。部屋の片隅にある赤いテーブルランプが唯一の光だ。入り口脇には電灯のスイッチがあったが、ヨウコは気にせず中に足を踏み入れた。
赤と黒の陰影に支配される部屋。横殴りの赤光は室内用品の影を長く伸ばす。ヨウコは窓際のベットで横たわる人影が一つ。薄暗い照明でもそれが誰であるかはすぐに分かった。
「じゃあね」
部屋の奥で一人だけ寝ているシンジを確認したヨウコは、カスミの背中を押した。頭の中が空っぽになっていたカスミはいきなり押し出されてバランスを崩す。
「あ、ヨウコ・・・・」
「外にいるから」
言葉をなくしたカスミに向けられる背中。
「けじめつけなきゃ駄目だよ。あきらめるにしてもあきらめないにしても」
振り向きもしないでヨウコは言った。カスミに突きつけられたナイフ。続けざまに鳴ったドアの閉まる音はカスミに逃げ場がないことを意味していた。
締め切られたドアをしばらく眺めた後、カスミはシンジの枕元に座った。息が苦しい。規則的に寝息を立てるシンジがこの部屋の酸素を全て吸ってしまったように感じる。
「・・・・シンジ君、起きてる?」
答えはない。分かっている。手を伸ばせばすぐに届くところに居るシンジは、まだ夢の国の住人だった。
すっきりとした耳元かた尖った顎に至る輪郭。小さい鼻と唇が創り出すなだらかなカーブ。首もとまでかかった布団の影が映る横顔。カスミは恐る恐る触れようとしては、ためらいがちに手を引っ込める。
触れてしまうと何かが終わる気がする。始まるものもあるが、失ってしまうものは何なのか?カスミの心は揺れ動いた。
お互いを欲し合う二つ岸辺。だが両岸がないと川にはならない。川が川であるためにはお互いが離れていなければならない。二つの岸が触れ合えばそれは、もう、川ではない。
「この気持ち・・・・、よく分からない。でも、知りたい」
眠っているシンジの横顔は淀んでいたカスミの心を洗い流した。露わになったものがある。しかしカスミの言語ファイルには洗い出されたものに相当する単語はなかった。自覚できたのは息苦しさだけだ。
カーテンの隙間から蒼白い星が一つだけ見える。曇り空の隙間。孤独な一等星。どんよりとした夜空に一点だけの蒼が映える、そんな夜だった。
「んんっ・・・・、ふはぁーーー」
シンジは唐突に目が覚めた。寝ぼけてはっきりしない視界には髪の長い人影。
「誰?アスカ?」
腰まであるような長い髪。即座に連想されたのはアスカ。赤い間接照明のせいかもしれない。
「あっ・・・・・、ごめんなさい・・・・・」
カスミは泣き出したくなった。消え入るような声。アスカの名前を聞いてがっかりしている自分がわかった。
「あれ?その声は暁さん?」
シンジは眠い目をこすりながら枕元においていた照明のリモコンスイッチをひったくった。電灯が灯ると同時に色づき始めた視界には、身を細めているカスミが映っていた。
「ど、どうしたの?」
「あ、いや・・・・、その・・・・」
シンジは目をパチクリさせた二回ほど。まばたきしても目の前の光景は変わらない。うつむいてしどろもどろになっている少女が一人、幻ではない。
「シンジ君が寝込んでいるって聞いて・・・・」
「あ、心配して来てくれたんだ。ありがとう。でもそれなら起こしてくれればよかったのに」
「よく寝てたから・・・・・」
シンジは上半身を起こした。多少寝癖がついていることに気が付いて髪を押さえる。一度欠伸をした。
意識がはっきりしてくる。シンジはようやく気が付いた。先日、自分が目の前の少女の告白を断ったことを。急に気恥ずかしくなったシンジは話す言葉が見つからなくなった。
「お、お風呂入ったんだ」
「あ、うん・・・・・。さっきB組の入浴時間だったから」
「ここの温泉ってすごい匂いだよね。どんな病気にも効くんだろうね」
シンジはハハハッと乾いた笑いを立てて頭をかいた。自分でもまぬけだと思う。沈黙していたほうがまだましだった。
「でも、失恋には効かないさ」
軽やかな声にシンジとカスミは同時に振り向いた。僅かに濡れそばった銀髪と真夏のビーチのような香水を身に纏ったカオルはいきなり部屋に立っていた。髪をかきあげ、流し目を送るカオル。テレポーテーションでもしてきたのか?ドアが開いた気配はない。
「カ、カオル君!いつからそこに?・・・・・」
「今来たところだよ、お二人さん」
カオルはニッと笑った。音のない微笑。息づかいすら伝わってこない。
「ところでシンジ君。君は一体誰が好きなんだい?この前は暁さんの告白を無碍にしておきながらさっきはいい雰囲気。アスカとレイもさぞや悲しむだろうね」
「シ、シンジ君のことをそんな風に言わないで!」
「おやおや、でも事実だろう?アスカとレイを両天秤にかけた挙げ句、君にまで気を持たせるような行動を繰り返しているのは」
緋色の瞳に二人は射すくめられた。止まる時間。凍り付いた空気。その中でカオルだけが悠然と佇んでいる。
「そろそろ決めてもらわないと困るんだよ。アスカを取るか、レイを取るか、それとも暁さんを取るか」
「アスカもレイも暁さんも物じゃない!僕が勝手に取るなんてことはできないよ」
「それでも三人とも君に好意があることを表明しているのだろう?選択は君に委ねられているんだよ」
「ぼ、僕は・・・・」
「僕は?」
シンジは言いよどんだ。回答欄が空白の答案用紙。今のシンジに提出できるのはそれだけだ。
「今すぐ答えを出せとは言いたくないよ。でもこの連載の終了も近い。林間学校の最終日、つまり君の誕生日までに自分なりの答えを出すんだね」
カオルは言いたいことだけ勝手に喋ると身を翻した。登場するときは突然なのに、部屋を出ていく時の歩調はゆっくりだ。カーペットとスリッパがすり合う音。カオルの足音だけは妙に存在感がある。
「あ、一つだけ言い忘れていた。ってこれは盗作か、使うのはこれっきりにするよ。パロ小説にも一定の尺度は必要だからね」
カオル君は完結している、シンジはそう感じた。自分とは正反対。
「自分以外の人の心に重きをおかない人間は、いくら頭がよくても、顔立ちが整っていても、異性にもてても、所詮は愚か者なんだよ。大切なのは自分の心、選択を委ねられたのは君、確かにその通りだ。でもそれだけでいいのかな?」
カオルの言葉はシンジを迷宮へと誘った。ぐるぐる回り出す心のメリーゴーランド。もう訳が分からない。シンジに分かるのは自分の名前と年齢、それに連載が終わりに近いということくらいだった。
MEGURUさんの『Project E』第二十話、公開です。
ギャグノリが多いProjectEですが、
恋愛・恋心あたりでは実にシリアスですね。
アスカとレイ、
この二人だけでもややこしい事態・難しい判断を迫られるのに・・
ここでは更に+が。
カヲルの言葉は突いていますよね。
判断するのは自分だけど、
考えないと考えないと−−
選択権を持つ者の重み。
さあ、訪問者の皆さん。
更新ペースがまた上がってきたMEGURUさんに感想メールを送りましょう!