第十話
「好きってなんだろう」
「碇、君は友人であり同士であり、良き友人であった。こういう形で再会するのは残念だよ」
自然の日光が全く刺さない漆黒の闇が支配する空間に、無機質な声が響きわたった。床と天井に描かれた赤い魔法陣から漏れる僅かな光だけが、闇の中に漂う2つの影を映し出している。
1つはデスクに腰掛けている男、もう1つは黒い巨大なモノリスであった。机に肘を突き口の前で指を組んだ方は、背筋が凍るような冷たい声で返した。
「今更気取ることもないだろう?財団ゼーレ議長、キール・ローレンツ」
しばらくの間、沈黙が走った。
闇に包まれた空間は沈黙を一層重く、そして長く感じさせる。やがて沈黙はモノリスから流れてくる重々しい声によって打ち破られた。
「レベルAまで達したらしいな。今のところそちらが優勢ということになるな」
「さすがに情報が早いな、キール議長」
「ケース14ーβが要請されてきた。君のほうにも好ましい事態ではないと思ったのだが、あまり派手に介入するわけにもいくまい。断っておいた」
「感謝する」
「そのかわりといってはなんだが、とびきりのプレゼントを用意した」
「彼かね?」
簡潔な返答か返されるまで少しの間があった。しかしその声は、驚きや恐怖といった成分を含むものではない。むしろ期待感と高揚感に満ちあふれた声のように聞こえる。
「あと1週間ほどでそちらに届く。君のE計画にどうからんでくるか見物だな」
「闘いに不確定要素はつきものだ。こちらもE計画の本格的発動までに彼の実戦投入を要請するつもりだった」
その言葉と同時に男は口元だけで器用に笑みをつくってみせた。それを合図のようにしてモノリスが消える。どうやら立体映像であったらしい。
コンコン
「誰だね?」
「加持です」
「入り給え」
必要最小限の会話のみを残して財団ネルフ特別調査室室長・加持リョウジは入室してきた。加持はゲンドウの前まで来ると小さなディスクを差し出した。
「先日の映像です」
ゲンドウは満足げな表情でディスクを懐にしまうと淡々とした調子で告げた。
「冬月コウゾウの凍結を解除したまえ。ヤツが必要になった」
「まさか?・・・」
「彼が来る。対抗するには冬月が必要だ」
加持は多少ひきつったようなような顔をしていたが、一礼すると部屋を出ていった。「彼が来る」、好奇心も強かったが疲労感もまた強かった。加持ほどの男であっても、碇ゲンドウの狂気につきあうのは神経を多大に使う。
「なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだろ?・・・」
独白を自分の心の中だけに留めた加持は歩き出した。この第3新東京市で碇ゲンドウの目が光っていない場所など存在しない。自分の生活とささやかな趣味のためには用心が必要だった。
碇シンジは傾きかけた日の光で赤く色づきはじめた街中を走っていた。
「あと、20分。ここまで来れば十分間に合うかな?」
時計を確認したシンジは走るのをやめた。かなり急いで走っていたので、傷がないか心配になってチェロのケースをあけてみる。
損傷はない。壊れやすい楽器をいれるためのケースが、ちょっと走ったくらいで中身を傷つけてしまうような構造ではないことは、シンジも承知している。しかし中身は母親から譲り受けた大切な品だった。安堵したシンジは大きく息を吐き出し、音楽教室にむかって歩き始めた。
シンジは毎週火曜日にチェロを習いにいっている。第一中バスケ部の練習日は月・水・金・土が通常である。大会前などはそのほかの曜日に練習が入ることもあったが、今はまだいつも通りだった。
火・木にも外で筋力トレーニングやランニングなどの自主練習をこなす部員もいる。シンジも木曜日にはトウジと一緒に練習をしているが、火曜日は彼が音楽家になる日だった。
「シンジ君!」
帰りに時々寄り道をするコンビニエンスストアの角を曲がったところで声がした。電柱に寄りかかるようにして立っていたのは、長い髪をポニーテールに纏めた少女である。
「暁さん、どうしたの、こんなところで?」
「ん、なんとなくシンジ君がもうすぐ通りかかるような気がしたから・・・」
カスミの顔がほんのり赤いのは、夕日が当たっているせいだろうか、それとも違う理由からだろうか?
「あ、そうなんだ。ありがとう。じゃあ一緒に行こうか?」
シンジの返答が思ったよりそっけなかったので、カスミはチョットだけガッカリした。昨日の学年集会と含めて二度も、勇気を出した発言をしているのに、シンジ何も感じていない様子である。
もしかしたらシンジ君、私のこと嫌いなのかな?不安な考えがカスミの頭をよぎる。しかしカスミは知らない。この鈍感な少年は、いつも一緒にいる茜色の髪をした少女の切実な思いにすら気づいていないことを。罪作りな性格は、どちらの親から遺伝したのだろうか?
「あ、そうだ。これ、昨日言ったチケットだよ。渡しておくね」
「う、うん。ありがとう」
予定ではここで「二枚あるのね。シンジ君良かったら一緒にいってくれないかな?」と言うはずだった。しかしシンジの先ほどの反応が、あまりにもあっけなかったのでカスミは想定していたセリフを言えずにいた。
なんとか機会を見つけて言い出そうと、カスミが悩んでいると目的の場所に到着してしまった。もっと音楽教室から離れたところで待ち伏せすれば良かった、カスミは少しだけ後悔した。
「あ、じゃまたあとでね、暁さん」
シンジが自分の個室にはいるまで、カスミはずっとその背中を眺めたいた。
(シンジ君誰か好きな人いるのかな?陰で結構人気あるしね・・・。でもほとんど告白した人いないのよね。惣流さんがいつもそばにいるから。惣流さん。とっても綺麗な人。スタイルとかは抜群にいいし、勉強もスポーツもよくできる。シンジ君もしかして惣流さんのこと好きなのかな?今日も随分噂されてたし)
「・・・・つきさん?」
「暁さん?!」
「・・・は、はい!」
「もっと集中してやっていただかなくては困りますよ!」
カスミが我に返った時、フルートの先生がそびえ立っていた。ちょっととんがっった言い方である。カスミは専属であったけれど、この女の先生があまり好きではなかった。もっともこの教室に通ってくる人は、金持ちの子供か本格的にやっている人のどちらかなので教える腕は確かだったが。
「す、すいません・・・」
「では、第三楽章の始めから、もう一度いきますよ」
「どうしたの暁さん?!溜息なんてついちゃって」
練習を終えて出てきたシンジが、廊下のソファで少しうなだれていたカスミに声をかける。「あなたのことばかり考えていたから・・・」そう声に出せればどんなにいいだろうなぁ、とカスミは思った。
目の前の少年はそんな気持ちも知らずに、無頓着に微笑みかけてくる。シンジが無意識につくるその表情に、ポニーテイルの少女がどれだけドキドキしているかも知らずに。
「あ、うん。今日ちょっと失敗しちゃったの・・・。それで怒られちゃって・・・」
「気にしない方がいいよ。嫌なことは早くれてしまったらいいし」
忘れられたらどんなに楽だろうか、カスミは少しうつむき加減になってしまった。
「カスミ!!こっちよ!!」
カスミの母親が呼ぶ声がする。教室に来るときにはまだ残っていた太陽は、とっくに西の彼方に沈み辺りはネオンの光が支配する時間帯になっている。カスミには社長令嬢だけあって、帰りは母親の送り迎えがあった。
「じゃあね」
シンジはそう言うと家路へと歩き始める。カスミはその後ろ姿をもっと見ていたかったが、夜の街の喧噪はすぐにシンジを包み込んでしまった。
「彼は?」
「・・・学校の友達・・・」
友達という響きに微妙な加減があることをカスミの母親は感じ取っていた。
「名前は何というの?」
「・・・碇シンジ君・・・」
「そう、あれが碇シンジ君ね・・・」
「お母さん、知ってるの?」
「まあね。碇君もご両親も何かと有名だからね」
カスミはしばらく母親の含みのある表情を眺めていたが、やがて車のドアを開けて中に入った。足取りはいつもより少しだけ重かった。
「ただいま」
シンジが帰宅したとき家には、母・ユイしかいなかった。父・ゲンドウは仕事が忙しいのでわかるが、アスカがいないことは珍しいことだった。いつもは夕飯のあとリビングでテレビでも見ていることが多い。
「遅くなるの分かっていたから、アスカちゃんと夕飯済ませちゃったからね。シンジの分は今用意するから着替えてらっしゃい」
ユイはそう言うと、洗い物の手を止め、地鶏のクリームシチューの鍋に火を付けた。ただシンジの様子がいつもと違うことは見逃さなかった。
8時近くに帰宅する火曜日は、いつもならさっさと着替えて夕飯に飛びつくのに、この日のシンジはちょっと変わっていた。4つおかれている椅子の食器棚側の右の椅子、アスカの椅子をしばらく見続けている。ニッコリ微笑むユイの視線に気がつくと、シンジは照れたような表情をうかべ、足早に自分の部屋に入っていった。
(おかしいわね。今日のアスカちゃんも珍しく無口だったし、シンジの話をすると顔を赤くしていたわ。ひょっとして日曜のデートで何かあったのかしら?・・・ふふっ、これから楽しみね)
(なんか昨日からアスカちょっと変だったな。学校でも妙によそよそしいし、家ではあまり口聞いてくれないし。ひょっとして日曜のあのこと、嫌だったんだろうか?僕だって最初はKissなんてする気はなかったけど、あの雰囲気じゃ・・・。それにアスカだって目をつぶっていたじゃないか。どうだったんだろう?・・・。でも面と向かっては聞きずらいしな・・・)
ライ麦パンにクリーム煮のもも肉をのっけて食べながらシンジはそんなことを考えていた。つけあわせのカリフラワーのマリネが妙に酸っぱく感じた。
こんな日にかぎってそう感じるのはなぜだろう?ユイの味付けはいつもと同じはずなのに。黙々と食べ続ける息子の横顔をユイはほほえましく見守っていた。
「シンジ、宿題は済ませたの?」
夕飯を終えてリビングでボウーーとしていたシンジの前にユイが仁王立ちしている。
「い、いやまだだけど・・・」
「それなら、早く済ませちゃいなさい!」
シンジは大きな溜息でユイに返答すると、やる気がないようにゴロンと寝転んだ。
「もう、しょうがない子ねぇ。そうしていても片づかないわよ!仕方ないからアスカちゃんの所に行って教えてもらってきなさい、いいわね?」
アスカという単語にシンジの肩はピクリと反応した。いそいそとリビングを出ていくと教科書とノートをもって家を出ていく。
(ほんとに手の掛かる息子ね・・・。まああの人の子供だからしょうがないか)
ユイはクスッと笑うとシンジの後ろ姿を見送った。自分の夫も昔はシンジのように優柔不断な男だったのだろうか?今のゲンドウを知る人間が卒倒しそうな考えを抱きながらユイは夕飯の後始末を再開した。
ピンポーーーン
惣流家のインターホンが急に鳴った。それまでソファで寝転んでいたアスカは飛び起きた。この時間に尋ねてくるような人物は限られている。その中でもアスカが今最も気になっている少年である確率が最も高かった。
「は、はい!」
「あ、アスカ?僕だけど・・・シンジだけど・・・。数学の宿題で分からないところがあるから教えてくれないかな?」
「全くバカシンジはしょうがないわね」
アスカはいつも通りの口調をするのに、少なからず意識が必要だった。ドアを開ける前に洗面所の鏡を覗き込み、髪を整え、リップクリームをてばやく薄く塗った。大急ぎで玄関にいくと、なるべくさりげなくドアを開ける。
シンジはアスカを見た瞬間、変に意識してしまって、すぐには言葉を出すことができなかった。肩をビクッとさせた後、アスカを見つめている。ただしそれはアスカも同じだった。2人は互いに顔を紅潮させて見つめ合ったまま、しばらく突っ立っていた。
「な、何よ。早く入りなさいよ。用事があって来たんでしょ?」
先に口を開いたのはアスカである。クルリと身を翻すとリビングの方に歩き出す。
「う、うん。お邪魔します・・・」
シンジはいつもよりためらいがちな声を出すと靴を脱いだ。
「リビングでしましょ」
アスカはそう言うとシンジを居間のテーブルに座らせ、自分はシンジの横に座った。
「ここは?アスカ」
「あ、ここはね、これをX、こっちをYと置き換えて・・・、こうすれば連立方程式ができるでしょ?全くこんな簡単な問題も解けないの?」
「ご、ごめん。・・・でも、分からないから来たんだよ・・・」
いつもと同じ様なやりとりを続けながら、シンジは妙にアスカを意識してしまっていた。隣り合った肩がふれあう度に心臓の鼓動が高鳴っていくような気がする。シンジが平静を装うには少なからず努力が必要だった。
「じゃあ、アスカこっちは・・!」
「あっ・・・!」
別の参考書をとろうとしたシンジと、消しゴムをとろうとしたアスカの身体が不意に交錯する。偶然ではあるが、アスカはシンジの腕の中に飛び込むような体勢になってしまった。
アスカの顔はちょうどシンジの心臓にあった。シンジは躍動する心音を聞かれているのではないかと思ってドキリとした。アスカは顔を上げると目を閉じる。身体はシンジの胸に預けたままで。
シンジは一瞬躊躇した。
日曜と比べてなんだか違和感があった。でも自分の腕の中に身を預けて目をつむっている少女をほっておけるほど、シンジの神経は太くなかった。ややためらいがちながらシンジはアスカの唇に自分の唇を重ねた。柔らかい感触が全身を包み込む。シンジの掌にはアスカの肩が触れている。
女の子の身体ってこんなに柔らかかったんだ・・・、シンジは素直に感激しながらも、少しだけ胸の奥につかえを感じていた。
シンジは不意に唇を離す。これ以上Kissを続けていると自分の理性が吹き飛んでしまうようで怖かった。だが立ち上がろうとしたシンジは、テーブルにしたたかに足をぶつけた。自分が正座して座っていたのも忘れていた。
「い、痛っ!」
シンジはバランスを崩し、結果的にアスカを組み伏せてしまった。アスカは驚いて目を見開くが、恥ずかしそうに微笑むとそっと目を閉じて顔を横に向ける。
(ア、アスカ!どういうつもりなんだよ?!この体勢で抵抗しないっていうことは、そ、そのつまり・・・何をしてもいいてことなのか?!)
シンジの欲望は暴走しかかっていた。
多くの生徒の憧れの的である少女が自分の腕の中にいる。アスカの身体を上から凝視したシンジは自分が硬直するのを感じた。中学2年生としては発育のいい胸、くびれた腰、かわいらしい唇、全てが自分の手の中にある。シンジは手に力を込めた。アスカの肩が微妙に震えているのも気づかずに。
ドォーーン
アスカの家の柱時計が10時を告げた。
さほど大きい音ではなかったのだが、2人を我に返させるには十分な音だった。シンジは宙を時間にして一秒あまり見上げた後、アスカを起こすと無言で参考書の片づけを始める。
まだ宿題は全部済んでいないのだが、これ以上一緒にいると何かが壊れてしまいそうな気がした。アスカも全く声を発しない。まるで無声映画の中にいるような2人だった。
「シンジ・・・」
玄関まで出てきたシンジのシャツの裾をアスカが引っ張った。振り返るとうつむいて顔を真っ赤にしている少女が立っている。
「Kissして・・・」
アスカの声は消え入るくらいに小さかった。しかしシンジの耳には、実際の音量以上にはっきりと聞こえた。シンジは肩をそっと自分のそばに寄せると今日2回目のKissをした。唇と唇を軽くふれあわすだけのKiss。それが今の2人には限界だった。
「おやすみ、シンジ・・・」
「おやすみ、アスカ・・・」
短い挨拶を交わすとシンジは扉を開ける。外には見事な満月がでていた。満月にKissしたばかりの自分の顔が映っているような気がして、シンジは下を向いた。廊下の手すりに寄りかかったシンジに唐突な夜風が吹く。舞い上がった髪の毛を風に委ねたままシンジはそっと目を閉じる。さきほどの光景が頭の中に飛び込んできた。
(アスカは僕のことが好きなんだろうか?あんな風になってもなにも抵抗しなかったし、さっきだってKissしてって・・・。でも僕はどうなんだろう?今日のKissはなんだか嫌だったな、よく分からないけど、自分じゃないものに流されているようで・・・。アスカが嫌い?そんなことあるわけない。でも好きかって聞かれると・・・)
シンジの心は漆黒の虚空を彷徨っているようだった。夜風と月だけがシンジを見守っている。
「好きってなんだろう?・・・」
シンジの甘ったれた、しかし素直な独白は風にさらわれて消えてしまいそうなくらい小さかった。
同時刻、シンジと同じように月を眺めている少女が1人
「今回はラブコメね・・・。それもいいわ。でもなぜ私の出番がないのかしら?最近自分の存在が軽視されているような気がするわ・・・」
MEGURU さんの連載『Project E』 第十話公開です(^^)
今、トンでもない間違いに気が付きました(^^;
わたし、前回のコメントで「未登場キャラからいえば冬月」って言ってるんです・・
冬月は第一話から出てるじゃないいですかぁ・・・バカバカ! (;;)
ごめんなさい MEGURU さんm(__)m
シンジに思いを寄せる二人の少女・・・・
カスミは言葉に出来ない事への歯がゆさ、
アスカは一歩進んだことでの戸惑い。
シンジの鈍感さはこの状況にどういうレスを返すんでしょうね。
・・・「好きってなんだろう」
がんばれシンジ。
さあ、訪問者の皆さん。
快調に更新を重ねる MEGURU さんに貴方の感想を届けて下さいね(^^)