「シンちゃーん,朝よ.もう起きなさい.アスカちゃん,来ているわよ.」
「うーん,あと5分〜.」
中秋のとある日曜の朝,今日は幼稚園で運動会がある日だった.ここ碇家ではユイがまだ夢うつつの息子シンジを起こそうとしていた.ユイに抵抗するシンジ.…いつもならここでユイが布団をまくり上げるところなのだが,今日は少しだけ様相が異なっていた.
「シンジ!さっさとおきなさーいっ!」
アスカがシンジの布団を持ち上げる.それは,5歳児とは思えない力の入りようだった.布団を上げた勢いでシンジは布団の中から放り出される.
「うあああああ.」
突然起きた出来事に,シンジは悲鳴をあげる.布団から追い出されたシンジは目をしばたかせた.
「めはさめた?シンジ!」
寝ぼけ眼のシンジの前に体操着姿のアスカが立っていた.いつも元気元気のアスカだが今日はなお一層気合の入った様子である.
「…ひどいよ…アスカぁ.」
「アンタがさっさとおきないからでしょっ.」
シンジがか細い声でアスカに抗議するが,アスカはそれを一言の下に却下する.いつものこととは言え,今朝のアスカの所業はシンジにとって少しばかりご無体だったかもしれない.
「うう…おか〜さ〜ん〜.」
「はいはい.泣かないで,ね.顔洗ったら食事にするから.洗面所に行ってらっしゃい.」
「はーい.」
母親に泣きつくシンジ.ユイは苦笑いを浮かべながらシンジを慰め,洗面所に行くよう促がした.
「んー,いい天気.ねえ,あなた.」
「ん?そうだね,メグミ.」
その頃,綾波家ではメグミが留守録セット中のマサツグに話し掛けていた.
「レイ,早く起きなさーい.」
「…ふああ…い.」
布団から起き上がる寝間着姿のレイ.おかっぱの髪がちょっとぼさついている.レイは自分の枕を右の小脇に抱えながら左手で目を擦っていた.まだ寝ぼけているようだ.
「おはよう,レイ.」「おはよう.」
「(ふあ)…おはよう…おかあさん,おとうさん.」
両親に朝のおはようをしたレイはようやく枕を手放して寝間着をはだける.そして,昨日の夜枕元に畳んでおいた体操着を手にゆっくりと着替えていった.
「よっしゃあー,いくでえ.」
洗面所から唐突に大きな叫び声があがる.ここにもアスカに負けないくらい気合の入っている園児がいた.「かきつばた組」のトウジである.今日の運動会は赤組と白組に分かれて勝負を決するわけだがトウジ達の「かきつばた組」は「あやめ組」と共に白組,一方シンジ達の「さくら組」は「つばき組」と共に赤組に属していた.
「トウジ!静かにしいやっ.ハルカが起きてしまうっ.」
洗面所に入ってきたトウジの母が小声で言いながら彼の耳を引っ張る.トウジの母は今の大声で下の娘ハルカが起きてしまわないかハラハラしていた.
「…あいたたた…か,かんにんや.」
鈴原家の運動会当日朝の光景だった.
「…カメラは置いていきなさい,ケンスケ.」
「そうよ,ケンちゃん.今日は運動会に専念しなさい.」
「う,うん….」
両親の言葉に従うケンスケ.ちょっと残念そうだ.
「今日はパパが撮ってやるからな.」
「うん….」
ケンスケは父の持つ小型ビデオカメラをじっと見上げていた.
「ヒカリちゃん,今日は手伝わなくてもいいわよ.」
洞木家では朝食と弁当の準備に取り掛かっていたヒカリの母が娘に優しく諭す.遠足以来ヒカリは毎朝欠かさず朝食の「お手伝い」を行っていた.
「ううん,おかあさん.てつだわせて.わたし,やりたいの.」
「はいはい.ヒカリちゃんは本当にお料理が好きなのね.」
ヒカリの母は苦笑いを浮かべながら娘の好きなようにやらせることにした.
「うん!」
母の言葉にヒカリは満面の笑みを浮かべてうなずいた.
「ぜーったい,みにきてよねっ♪パパ!ママ!」
楽しげにポーズを取りながら両親にアピールするショートカットの女の子.シンジ達と同じクラスのマナだ.
「はいはい,ちゃんと行きますからね.マナちゃん.」
「頑張れよ,マナ.」
「はーい!きりしまマナ,がんばりまーすっ!」
両親の返事にマナはくるっと弧を回りながら応えていた.
「位置について.用意…」
(ぱあん)
「かきつばた組」の担任シゲルがスターターとしてラインに並んだ園児達を次々と走らせる.ここ私立第三新東京幼稚園の中庭では運動会第一種目の徒競走が行われていた.年少組から始まったレースは背丈の順に次々と行われ,アスカの番となった.
「位置について.用意…」
『アスカ…いくわよ.』
シゲルの呼び出しに合わせてスタートラインに就いたアスカは気合を入れる.
(ぱあん)
号砲と共に園児達が一斉に走り出す.年少組の中には状況が分からずに立ち止まったままの子もいたりしたがさすがに年長組とあってその辺の要領はみな得ていた.1レース赤白4人ずつの計8人立ての中でアスカはスタートから段トツで他の園児達を引き離しそのままゴールした.
「いっちば〜ん♪」
ゴール直後,アスカは保護者席の方に向かってポーズを取る.保護者席にいた母キョウコがアスカに手を振って応える.キョウコは碇夫妻と共に会場に足を運んでいた.ちなみにアスカの父ゲンイチロウは出張中でこの場にいない.それはともあれ,アスカは自分の「活躍」を母親に見て欲しいとばかりに気合が入りまくっていた.
「すごいね!アスカちゃん.」
1番の旗の下に並んでいる列の中で前組1位のおさげの女の子がアスカに話し掛ける.「かきつばた組」つまりは白組のヒカリだった.
「うん!ヒカリもすごいじゃない.でもリレーではまけないわよ.」
「わたしだってまけないわっ.」
運動会最終種目,「紅白対抗リレー」について話すアスカとヒカリ.隣のクラス同士で普段から仲の良い二人だが今日ばかりは赤と白に分かれて競い合う状況にあった.ちなみにヒカリもアスカもクラスの代表選手に選ばれていた.
(ぱあん)
「よっしゃあっ!」
「ふえーん.」
競争の結果に一喜一憂する園児達.「かきつばた組」のトウジは1着,ケンスケは「さくら組」カズヒロとの僅差で2着,「さくら組」のマナは1着でそれぞれゴールに入った.シンジ・レイは振るわずそれぞれドベ2・ドベの結果に終わっていた.
『はあ.どうしてぼくってあしがおそいんだろ.』
7番の旗の下に並んでいたシンジは独りごちる.足が遅いだけでなく運動神経もあまり良くないシンジは去年の運動会では3位入賞すらかすりもしなかった.
『アスカはすごいなあ.みんな1とうしょうだもん.』
シンジの心の呟きの通り,アスカは去年の運動会で自分の出た個人全種目1等賞の快挙を成し遂げていた.常に7〜8位争いを行ってきているシンジとはえらい違いである.
入賞を果たしてメダル…金紙銀紙製だが…を貰って喜んでいる園児,入賞から漏れて指をくわえてそれを眺める園児,思いはそれぞれに競技は終了して次のプログラムへと進んでいった.
「そおーれっ」×多数
「あかがんばれーっ.」
「しろまけるなあ.」
次の種目は年少組による綱引き.競技の無い年長組の園児達や保護者達から応援の声が飛ぶ.可愛らしいながらも力の入った勝負にみんな一生懸命になっていた.
「みんなーっ,いくでー.」
「おーっ.」×多数
年少組の勝負が終わって今度は年長組の園児達がフィールドで勝負に入る.
「用意…」
(ぱあん)
「そおれっ.」×多数
「とおりゃっ.」
「てやああっ.」
気合の声,歓声,応援の声,地面を擦る音,様々な音が入り混じる中,園児達は綱を引き合う.両組とも力は拮抗している.戦いが長引くかと思われたが勝負はあっけなくそれも土砂崩れ的に着いた.
「わっ.」
「きゃっ.」
「のわったっ.」
赤組,「さくら組」の園児達の中で誰からかは分からないが足と足とが絡み合って将棋倒しに隊列が崩れて転んでしまったのであった.結果として力の均衡は崩れこの勝負,白組の勝利となった.
「こんなときになんでアンタがこけてくるのよっ.」
「しょーがねーだろっ.うしろからおされたんだからっ.」
「それぐらい,こんじょーでなんとかしなさいよっ.」
「めちゃくちゃいうなよっ.このきょーぼーおんなっ.」
「ぬあんですってえ〜.」
敗れた赤組の中で口論が始まっていた.「さくら組」のアスカとタカシである.アスカとタカシ・ツヨシ・カズヒロの3人組はことあるごとに対立していた.
「きょうというきょうはまけないからなっ.」
「かえりうちにしてやるわっ.」
「やめてよぉ,アスカぁ.」
「…やめて,アスカちゃん….」
「シンジとレイはだまってて.」
「いくぞ,ツヨシ.カズヒロ.」
「おう.」
「ああ.」
「こらっ,止めないかっ.」
まさに実力行使が始まらんとした時,審判役のシゲルが両者の間に割って入る.騒ぎはすぐに静まったが,一部始終を見ていたアスカと3人組それぞれの保護者が顔を真っ赤にしたことは言うまでもない.
あまりも唐突に決着したため,この競技で転倒した園児が大量に出た.転倒して怪我した園児が行く先は…当然保健の先生のもとである.リツコはフィールドの方を見てため息を一つつくと多めに用意した消毒薬とガーゼを取り出しこれから行うであろう手当ての準備を開始した.
…リツコの迅速かつ手荒い「治療」による園児達の「阿鼻叫喚」が始まったのはそれから間もなくのことだった.
それから競技は年少組・年長組交互に行われてプログラムを次々と消化していく.障害物競走,玉入れ,百足競走,玉転がし等々…個人競技はおおむね組み合わせの運と当人の運動神経が反映され,団体競技は赤が勝ったり白が勝ったりで点数も大した差がつかないまま午前の部最後の競技に入った.競技は借り物競争である.
(ぱあん)
スタートの合図と共に園児達は運動場のトラックを走り出す.スタート地点から25mの所に来て先に着いた園児から封筒を持っていく.それから,50m地点まで走っていく.そこにはミサトが待っていた.一応,「研究者」の彼女だがこの日は職員と同じ立場で駆り出されていた.1番に着いた園児がミサトに封筒を渡す.
「(ひそひそ)・・・・・.」
「え〜!?」
封筒の内容…借りるべき物…をミサトは園児に耳打ちする.ミサトの言葉に驚きの声をあげる1番乗りの園児.
『「ほうたい」って…あの「はくいのあくま」のところにあるあれ?』
「それじゃ,頑張ってね〜.」
ごくごく軽い調子で園児を送り出すミサト.ちなみに借り物のネタ作りを担当したのはミサト本人である.結局…その園児は足の速い子だったにもかかわらずリツコの所で泣き出してしまってゴール地点の借り物チェック係のマヤのもとまで辿り着けなかった.
「なにこれ〜.」
「だれももっていないよ〜.」
「らっき〜.」
ミサトのもとに来る園児達から悲喜こもごもの声が響き渡る.ミサトの作ったネタ集は難易度の差が大きいというか妙に極端な物ばかりで完走できない園児が続出した.この件で後にミサトは園長先生からお小言を受けるのだがそれはまた別の話である.
『「かつら」ってどうやってかりるの〜?』
『「もんつきはかまのおじさん」ってどこにおるんや?』
『「カメラ」だって.らっきい!』
それぞれ,シンジ,トウジ,ケンスケの「借り物」である.3人の中で入賞できたのはケンスケだけだった.
「用意….」
(ぱあん)
走り出す園児達,この中にはレイもいた.今まで出た個人種目,レイは1つも上に上がれずにいた.この借り物競争も最後方をてくてくと走っていった.
「ひえ〜.」
「なにそれえ?」
「わかんないよぉ.」
悲鳴をあげるレイの前方の園児達.この組は「変な物」の当たり組だったらしく先に着いた園児達は運動場のあちこちをうろうろしていた.
「…はい.」
8番目に着いたレイがもじもじしながら控え目な声でミサトに封筒を渡す.
「はい,ありがとう.」
ミサトがレイに応えるとおもむろに封筒の中身…書き付けを取り出す.そしてレイの耳元にその内容を告げる.
「・・・・・・.」
「!」
ミサトの言葉を聞いてレイはちょっと困ったような表情を浮かべてミサトの顔を見る.それに対しミサトはにっこりと微笑む.それを見てレイはミサトのもとを離れて再び走り始める.
「あら,レイ.どうしたの?」
メグミは競技中の娘レイが来た事に驚いていた.
「…いっしょにきて.」
『ああ,借り物って私のことね.』
メグミはレイの言わんとしていることを理解した.メグミはレイについて行こうと立ち上がる.だが,レイは運動場に戻ろうとしなかった.
『?』
メグミはレイが動こうとしないことを訝った.レイの方を見るとレイは父マサツグの袖を引っ張っていた.
「…おとうさんも.」
「ん?父さんもか?」
マサツグの問いかけにレイはこくんとうなずく.マサツグはそれを見て取るとすっくと立ち上がる.それを見てようやくレイは運動場へと戻っていった.後ろから綾波夫妻が続く.レイの足取りは遅々としていたが他の園児全員が「借り物」でてこずっていたため1番手に上がっていた.
(てくてくてくてく)
(たったったったっ)
レイの後方からようやく目的の物を借り出した園児が迫ってくる.ゴールのマヤのもとまであと20m,レイの足で逃げ切るのはほぼ不可能と思われた.メグミもマサツグもそのことを感じ取っていたが黙ってレイの後をついていった.
(たったったったっ)
マサツグとメグミの予想に違わずレイは一人の園児に抜かされて2番手に転落する.後ろから二人の園児が迫って来ていた.
(てくてくてく)
((たったったっ))
逃げるレイ,追いかける二人の園児.レイは不格好なフォームながらも顔を真っ赤にして必死に走っていた.メグミとマサツグはそれに静々とついて行く.
…詰められたものの,レイは2番目でマヤのもとに到着した.レイは封筒をマヤに渡す.1番の子はチェックを受けて既に順位が確定していた.マヤは封筒を開いて中身を検める.
『・・・・・.』
『・・・・・.』
レイはマヤをじっと見つめていた.マヤは書き付けを見てちょっと困った表情を浮かべる.だが,それは一瞬のことですぐに微笑みに変わる.
「…OKよ.レイちゃん.2番の旗の列に並んでね.」
マヤの言葉にレイは微笑みで返すとてくてくと指示された場所に向かっていった.それを見てマサツグとメグミは保護者席に戻ろうとする.
「あ,待ってください.」
「「はい?」」
マヤの言葉にメグミとマサツグは同時に振り返る.
「あ,あの,競技が終わるまで『借り物』は『借り主』のもとになければならないことになっているのですけど….」
マヤは几帳面にも競技の「規定」を持ち出す.さすがのマヤも二人を引き止めることには苦笑いを禁じ得なかった.が,彼女の性格上とりあえず一言は言わずにいられなかった.
「(くすっ)わかりました.」
メグミはちょっと吹いた後,にこやかに応える.マサツグは苦笑いを浮かべていた.それから二人してレイのもとへと歩いていった.「借り物」に囲まれてレイはその白い顔を真っ赤にしてメグミに抱きついていた.その光景にマヤは笑みを浮かべる.
レイの持ってきた書き付けには「ここに居る人で一番大好きな人」と書いてあった.
それからも競技は行われ,予定より30分遅れで午前の部は終了した.この競技でアスカとマナは1着,ヒカリはミサトの所で顔を真っ赤にしてリタイアとなっていた.ここまで,アスカは出場した個人種目全部で1等賞を取っていた.
午後の部が始まるまでの間,園児達は教室に戻って昼食を摂る.普段通り自分の手で持参するかあるいは保護者席に行って弁当を渡してもらうかは別の話だがとりあえずは「さくら組」も「かきつばた組」も他の組も園児全員教室に戻っていた.
「おれ3つ!」
「ぼく2つ!」
弁当を食べながら園児達は午前中に挙げた「戦果」を口々に話し合う.メダルを沢山とって得意げな子,思った通りに取れなくて不服な子,思わず取れて嬉々としている子,それぞれ一喜一憂していた.
「すごいわっ,レイっ.」
「レイちゃん,すごーい.」
「…ありがとう.」
シンジ達の所でも午前中の「戦果」が話題に上っていた.アスカの全種目1等賞はもちろんだが,レイの思わぬ「成果」にシンジとアスカは驚いていた.レイもまた思わぬ入賞に嬉しそうだった.
「ぼくも『メダル』ほしいなあ.」
これはシンジの言葉.言うまでもないがシンジは午前中の種目で一つも入賞にかすりもしないでいた.徒競走のような運動能力の差が結果に反映される種目はシンジにとって望み薄かったし,借り物競争のような運が順位に大きく影響する種目においてはシンジは幸運に恵まれなかったからである.
「がっかりしないの!シンジ.ごご,アタシがとらせてあげるから.」
これはアスカの言葉.午後の部の個人種目に二人三脚があってシンジとアスカはこの種目でペアを組むことになっていた.
「でもアスカ,あしはやいからぼくあわせられないよ〜.」
「そんなのきあいでカバーしなさいよっ.きあいで.」
「え〜.」
「…がんばってね,シンジくん.」
「う,うん….」
アスカが激を飛ばし,レイが励ます.休憩時間に入った「さくら組」の一コマだった.
「あ〜スパイだあ,スパイ.スパイ.」
「な,なによぉ.ただ,あたしは…あたしは….」
一方「かきつばた組」では一騒動が起こっていた.ことは「さくら組」のマナが落とし物を届けに隣のクラスに入って来たのがきっかけだった.
「ちょっと,やめなさいよっ.」
ヒカリが騒ぎの中心であるクラスの男の子達を鎮めようとする.が,園児達は揶揄を止めようとしない.たかだが今日一日の話で赤と白に分かれているのに過ぎないのだが男の子達は雰囲気に完全に浸ってしまっていた.
「トウジもなんとかいってよっ.」
「そないなこといわれてもなあ….」
ヒカリはトウジに助けを求めるがトウジは気乗りのしない様子だった.トウジもまた運動会に入れ込んでいる園児の一人だったからである.
「ス・パ・イ.ス・パ・イ.」×多数
リズムを整えて一連合唱する男の子達.揶揄している男の子達も本気でスパイと思っているというよりはからかっているという感じだった.しかし,マナにはそうは取れない.マナは両耳を塞いでいた.
「みんな,やめろよっ.」
男の子の大きな声が教室に響く.騒いでた園児達も一瞬沈黙しその声の主の方を見て意外な顔をする.ケンスケだった.
「なんだよっ,ケンスケ.」
騒ぎの中心の子の一人がケンスケに文句を言う.その顔には明らかに「生意気だ」と書いてあった.
「とにかくマナちゃんのいうことをきいてみようよ.スパイというのはそれからでもおそくないよ.」
「…わかったよ.」
ケンスケが一応理屈の通ったことを言ったので,その男の子もおとなしくマナが話すのを待つことにした.
「どうしたの?マナちゃん?」
「これ….」
ケンスケがマナに問いかける.すると,マナは手に持っていた物を差し出した.運動帽である.ケンスケはそれを検めるとさっきの騒ぎの中心の男の子の一人を呼んだ.
「…マナちゃん,これをとどけてくれたんだよ.」
「あ.」
気まずい表情がその子の顔に表れる.マナの届けものはその揶揄していた子の物だったからである.
「ご,ごめん.」
「もう,いいわよっ.それじゃあねっ.」
ばつの悪そうな顔でマナに謝るその男の子.だが,マナはお冠のようでつんけんとした口調でその男の子に言い返すとそくさくと教室を出ていってしまった.…「かきつばた組」での休憩時間の一騒動だった.
午後の第一種目は二人三脚だった.内容はペアになった二人の園児が右足と左足を布で結び付けてゴールまで走るといったシンプルなものである.
「「いっちに,いっちに,いっちに.」」
「わっ.」
「ひゃっ.」
声を掛け合わせて歩調を合わせる園児達.徒競走の時と違ってスピードが出ない.いや,出せないでいた.少しでも無理をするとたちまち転倒という事態になるからである.
「前日のうちにストックを多めにしておいて良かったですね.」
「そうね…使わないに越したことはないんだけど.無いと困るし.」
「…そうですね.せん…赤木先生.」
園児達の光景を眺めながらマヤとリツコは話していた.
「いい,シンジ.さいしょはみぎあしからだすのよ.」
「う,うん.」
「とにかくアンタはアタシについてけるようにぜんりょくではしりなさいっ.」
「そんな〜むりだよぉ,アスカぁ.」
「とにかくやるの!いい?」
「う…うん.(アスカにおいつけるこなんていないよぉ.)」
「わ・か・っ・た?」
「は,はい….」
アスカはシンジにあれこれと指示を出していた.それにうなずくシンジ.シンジはアスカについていくのは無理だと感じていたがとにかく全力で走ることに決めた.
「位置について.用意…」
(ぱあん)
シンジ達の組がスタートする.アスカに引っ張られる形でダッシュをかけるシンジ・アスカ組.シンジは顔を真っ赤にしてアスカの足に合わせていた.いや,シンジは気が付いてなかったがアスカもまた彼女の全力に比べれば相当に加減してシンジをリードする形で走っていた.
「「いっちにぃ,いっちにぃ.」」
「「えっさ,ほいさっ.」」
掛け声を合わせて走る園児達.シンジとアスカは先頭に立っていたが無理しているためか次第にシンジの方の足の動きが鈍ってくる.
『・・・・・』
シンジの動きを感じ取ったアスカは1等賞を取るのを諦めた.速度を落とすシンジ・アスカ組.たちまち,後方から一組,二組と抜かされていって4番手にまで落ちる.
『ううっ…』
上位に次第に引き離されて行くのを見ながらシンジは歩を進める.入賞できそうにないこと,アスカの足を引っ張っていること,自分の足が言うことをきかないもどかしさ…様々な思いがシンジの中で渦巻いていた.
『・・・・・』
アスカは肩を組んでシンジの左肩に乗せている手に力を入れてぐいっと引き寄せる.シンジのペースに合わせる形で二人はゴールまで辿り着いた.
…結局,シンジ達は3位入賞を果たした.先を争って走っていた組のうち1組が転倒して順位が繰り上がったのである.シンジは初めてメダルを獲得したのだが・・・シンジは泣いていた.
「…もうなくのはやめなさいよっ.シンジ.」
「ううっ…ヒック…だあって〜アスカぁ…ぼく…ぼくの….」
アスカがシンジを泣き止ませようとするがシンジは何が言いたいのか分からない状態でただ泣くばかりであった.
「ああっ,もうっ.はずかしいったらありゃしないっ.」
「だあって…わーん!」
アスカではどうしようもないくらいにシンジは泣きじゃくっていた.
「…そんなに泣いてばかりだとアスカちゃんに嫌われちゃうわよ.」
「!?」
「!」
二人の間に何者かが割って入った.その言葉にシンジもアスカも声の方に顔を向ける.ゴール地点で整理係をしていたミサトだった.
「ううっ…いやだあ〜そんなのぉ.」
「だったら…ね?」
「う,うん….」
ミサトの言葉は魔法の様に働いてシンジをたちまち泣き止まさせた.
「それじゃ,列に並んでおとなしく待っててね.」
「「はーい.」」
二人三脚で3番の旗の列に向かうシンジとアスカ.その途中,アスカがミサトの方を振り返った.
「ミサト…おねーちゃん!」
「ん?なにかな?」
「ありがとう….」
「…どういたしまして.」
いつもより少しだけ素直なアスカにミサトは微笑み返す.それからアスカとシンジは列の方に並んでいった.
『見てて飽きないわね…この子達.何でかしら?』
園児達の「通行整理」をしながらミサトはシンジ達の行動を思い返していた.
それからも競技は進行し,実力以上の力を発揮して喜んでいる子,力の半分も出せなくてがっかりな子,色々な様相を見せながらプログラムを消化していった.そして,赤組5点のリードで残り2種目を迎えていた.残り2種目のうち1種目はダンスなので点数に変動が無い.
…勝敗の行方は最終種目の紅白対抗リレーにかかっていた.それはともあれ,最後の種目の前に年少組・年長組の園児達全員がフィールドに出てきた.全員参加種目「ダンス」の始まりである.
(ずんちゃっちゃっ♪ ずんちゃっちゃっ♪・・・)
イントロが始まってペアになった園児達が前後に手をブンブンと振り始める.
「(ぼそっ)さっきは,かばってくれてありがとう.」
「(ぼそっ)いや,その,あの….」
「(ぼそっ)でもリレーはてかげんなしよっ.」
「(ぼそっ)こっちだって.」
これはマナとケンスケのペア.普通,他の組同士で(ましてや今は敵同士)組むことはないのだが両組とも欠員が出ていたので余った二人が組んでいた.ちなみ二人共リレーの代表としてエントリーしている.
「(ぼそっ)…よかったね.シンジくん.」
「(ぼそっ)うん,ありがとう.レイちゃん.アスカのおかげだよ.」
「(ぼそっ)…うん.ダンス,がんばろうね.シンジくん.」
「(ぼそっ)うん!レイちゃん.」
シンジとレイのペア.レイの首から下がっている銀紙のメダル,シンジの胸に輝く銅紙のメダルが誇らしい.
「(ぼそっ)リレー…あしひっぱんじゃないわよっ.」
「(ぼそっ)それはこっちのセリフだいっ.」
「(ぼそっ)まったくなんでアンタなんかと…」
「(ぼそっ)おれだってごめんだね…」
殺気立っていて剣でも持たせたら斬り合いでも始めそうな二人.「さくら組」のアスカとタカシだった.
「(ぼそっ)…おひたし,うまかったで.」
「(ぽっ)え?あ,ああ,そう?」
「(ぼそっ)ひるまは…すまんかったな.」
「(ぼそっ)ううん….」
昼間の出来事について話すトウジとヒカリ.ちなみに「おひたし」とはトウジがヒカリの弁当から失敬したものを指している.
…和気あいあいの組,殺気立っている組,それぞれめいめいに音楽に合わせて踊り踊って時間はあっという間に過ぎゆき残すは紅白対抗リレーのみとなった.
「がんばってー,アスカ.」
「…がんばってね.アスカちゃん.」
「もっちろんよっ.このアタシにまっかせなさいっ.」
ポンと胸を叩くアスカ.ちなみこれまでアスカが勝ち取った「戦果」はシンジとレイの二人が預かっていた.
「まっけるなよーっ.」
「おう.まけせとけっ.」
同様の光景が各クラスで見受けられていた.クラスの足自慢が代表としてフィール
ドに集合する.
私立第三新東京幼稚園は年少組4クラス,年長組4クラスから構成されている.紅白対抗リレーは各クラスから男女各2名の代表を出して年少組と年長組一クラスずつまとまって8人構成のチームを作る.すなわち,赤組2チーム白組2チームで競うわけだ.得点は1位50点,2位30点,3位20点,4位10点.現在の時点では赤組の5点リードに過ぎず,1位を取ったチームの組がこの運動会の勝者となる状況だった.
「位置に着いて.用意…」
シゲルが今大会最後のスターターを務める.身構える年少組の園児達.
(ぱあん)
号砲一発,園児達はスタートを切って一斉に走り出す.それと共に園児席・保護者席から歓声があがる.
年少組とは言ってもクラスの代表に選ばれたとあってその走りはしっかりとしたものだった.赤と白とで順位がころころと入れ替わる首位争いに応援席の園児達はわいのわいのと声をあげていた.
『よっし.いちばん!』
年少組の最終走者から1番目にバトンを受けたのは「かきつばた組」のケンスケである.眼鏡をかけ顔立ちも一見鈍そうに見えるケンスケだったが足の方は存外速かった.ケンスケだけでなくトウジもヒカリも代表としてこのリレーに出場していた.
『ちっ,さんばんかぁ.』
「さくら組」のカズヒロが年少組のランナーからバトンを受け取ったのは3番目,「つばき組」の次である.現在,赤組が2位・3位を占めているのだがもちろんこのままでは白組に逆転される.カズヒロは「つばき組」の第一走者をパスして2位に浮上した.
「タカシ!たのむぞ!」
「おうっ.」
第2走者のタカシにバトンを渡すカズヒロ.「かきつばた組」の第2走者は女の子でタカシは差をぐいぐいと縮めていく.この紅白対抗リレー,走者順は自由に決めてよいことになっていた.
「ヒカリちゃん,おねがいっ.」
差を縮められた「かきつばた組」の第2走者が第3走者のヒカリにバトンを渡す.ヒカリはおさげの髪を揺らしながら疾走を始める.それから程なく,「さくら組」もタカシからマナにバトンが渡されて追走が始まった.3,4位を大きく引き離し1位争いはこの2チームに絞られてきた.
「マナちゃーん,がんばれーっ.」
「マナぁ,ファイト!」
「ヒカリ,しっかり!」
「ヒカリちゃん,がんばって!!」
二人の女の子の争いに保護者席・園児席から応援の声が飛んでくる.逃げるヒカリに追いすがるマナ.ヒカリはマナにわずかに差を縮められて最終走者のトウジにバトンを渡した.
この時点で保護者の大人達の大半は「かきつばた組」すなわち白組の勝利を予想した.「さくら組」は男の子2人を先に持ってきてここで先行し残りは女の子で最後まで逃げ切る算段だと大半の大人達は考えたからである.だが,事態は大人達の予想に反した方向に動いた.
「とぉりゃあああ.」
マナからバトンを受けた栗色の髪の女の子が気勢を上げてトウジの背後に迫ってきた.言うまでもなく「さくら組」アンカーのアスカである.アスカはトウジを直線路で抜き去ると5mの差をつけて1着でゴールインした.
赤組の勝利である.
閉会式が終わって教室での諸連絡の伝達も終わった後,園児達の大半は待っていた保護者に連れられて帰っていく.手を引かれて帰る子,疲れて眠り込んで背中におんぶされて帰る子,それぞれ様々に家路へと就いていった.
「元気をお出し.トウジ.」
「ううっ…」
母親に慰められるトウジ.相手がアスカだとはいえ女の子に負けたとあってトウジは落ち込んでいた.
「きゃっ,きゃっ.」
「ほら,あんまり落ち込んでいるとおかしいってハルカも笑ってるよ.」
「う,うん.」
幼い妹を前にしてトウジはようやく落ち着いた.
「楽しかった?ヒカリ?」
「うん!」
「おひたし,鈴原くんに食べてもらった?」
「な,なんですずはらのことがでてくるのよっ.」
「あら?いっつもおかずを取られるのって話してたじゃない.」
「もうっ,おかあさん!」
ヒカリは顔を真っ赤にしながら母に抗議していた.
「ちゃんとビデオ廻しといたからな.」
「うん.ありがとう,パパ.」
「ところでダンスの時に一緒に踊っていた女の子,ケンスケの知り合いか?」
「う,うん.『さくらぐみ』のきりしまマナちゃんっていうんだ.」
ケンスケと父親との間ではマナのことが話題にのぼっていた.
「ねえねえ,パパ!ママ!マナのかつやくみてくれた!?」
「もちろん,見てたわよ.」
「凄かったね,マナ.」
「でしょ!でね…きょうね…」
マナは両親に今日あったことを機関銃の様に話し掛けていた.
「(すやすやすや)」
レイは父マサツグの背中で眠りに就いていた.
「…しかし,レイが2等賞取るなんてなあ.驚いたよ.」
「そうね.」
「それにしても『借り物』って何だったんだろうな?」
「さあ?後でレイに聞いてみましょ.」
「そうだね.ところで…」
正直な感想を述べるマサツグとメグミ.レイを背中に乗せ綾波夫妻は並んで歩いて家路に就いていた.
「アスカちゃんには感謝しないとな,シンジ.」
「うん!おとーさん.」
碇家ではシンジが嬉しげに今日勝ち取った「戦果」を首からぶら下げていた.
「シンちゃん,あなた,食事にするわよ.シンちゃん,『メダル』はしまいなさい.」
「え〜.」
「シンジ.」
「はーい.」
ユイとゲンドウに言われてシンジは「メダル」を自分のおもちゃ箱にしまい込んだ.
「ママー!きれいにとってよね!」
「はいはい,じっとしててね.アスカ.」
惣流家ではキョウコがカメラを持ってアスカの「今日の戦果」を記念撮影していた.これは,不在の父ゲンイチロウに見せるためでもある.アスカは首に両手に「メダル」を提げていた.
「あら?首から提げているのは3等賞のだけどいいの?」
「いいのっ.てにもつとはんぱになるからこれはくびからさげるの!」
「はいはい.」
キョウコは微笑みを浮かべながらアスカをカメラに収める.
写真には胸の3等賞と両手に沢山の1等賞を提げたアスカが誇らしげに写っていた.
VISI.さんの『私立第三新東京幼稚園A.D.2007』第十八話、公開です。
みんなみんな
シンジくんもアスカちゃんもレイちゃんも
トウジくんもヒカリちゃんもマナちゃんもケンスケくんも
みんなみんな。
生き生きとしていますね(^^)
ブラウザ上からみんなの声が聞こえてきますね。
画面の上でみんなの顔が輝いていますね。
悔し涙に
親子の会話、
父の背中に
喜びの成果。
山ほどの金メダルではなくて、
シンジと取った銅メダル。
みんなみんな(^^)/です〜
さあ、訪問者の皆さん。
VISI.さんに感想を送りましょうね!