ばっしゃーんっ!!
災難は突然やってきた.
一列に歩いていたシンジ達の脇を乗用車がすれ違いざまに水溜まりを踏み通っていった.乗用車によって跳ね上がった水しぶきは運悪く先頭を歩いていたシンジを直撃した.
「…(ひっく).」
シンジは油と土埃で汚れた水を全身にかぶって今にも泣き出しそうな顔になっていた.
「…だ,だいじょうぶ?…シンジくん.」
「なかないのっ!シンジっ.」
我に戻ったレイとアスカがシンジにかけた言葉は対照的だった.シンジをいたわるレイと泣かせまいとするアスカ.二人の働きの甲斐あってシンジが泣き出す事態は回避された.
「でも,どうしよう?おかーさんまだかえってきていないし….」
シンジが落ち着いた後,三人は別れる場所まで来て思案していた.シンジの両親は今日は仕事の都合で帰りが遅い.ずぶ濡れになったシンジに服を洗ってあげたり風呂に入れてくれる人は今の碇家にはいなかった.
「アタシんとこも,きょうはおそいし…そうね….うん!アタシがシンジをおふろにいれてあげるっ!」
「…で,でも….」
「なによっ.ふまんでもあるわけっ!?」
「…そ,そうじゃなくて….」
「じゃあなんなのよ?」
「…あぶないよ…おゆとかやけどするかもしれないし….」
「だいじょうぶよっ.アンタじゃなくてアタシがやるんだから.」
「でも….」
アスカが自分が風呂を入れることを主張し,シンジはそれを引き止める.客観的に見ればアスカの提案は5歳の幼児にはいささか無謀であった.が,アスカとシンジではアスカの提案が通るのは火を見るより明らかであった.
「…あ,あの….」
「なに?レイ?」
言い合っていた二人にレイが声をかけた.それにアスカが反応する.
「…あの,うちに…わたしのうち,…おかあさんいるから….」
レイは二人に自分の家にくるよう提案する.レイの母メグミはシンジ達の所と異なって専業主婦だった.
「…でも,だいじょうぶ?わたしたちがいくにはもうおそいじかんよ?」
「…ちゃんとわけをはなせば…だいじょうぶだとおもう….」
「そう?でも,いいわよ.アタシがなんとかするからっ.」
「で,でも….」
「きにしなくていいよ,レイちゃん.ぼくとアスカでなんとかするから.」
確かにレイの申し出はありがたい.が,二人共レイの家に押しかけることをためらっていた.シンジはアスカが風呂を沸かすことに危惧を感じていたがそれ以上にレイやその家族に気を遣わせたくなかった.
「.....」
「それじゃ,レイちゃん.」
「じゃあね,レイっ.」
シンジとアスカがレイに別れの言葉を言った.
「レイっ.」
シンジとアスカが家路に就こうとした時,レイを呼ぶ声がした.三人は声の方向に向きを変える.そこには右手に傘をさした20代後半のセミロングの黒髪の女性が立っていた.左手にはイエローの子供用の傘を持っている.レイを迎えに来たメグミだった.
「「こんにちはっ.」」
「はい,こんにちは.」
メグミの姿を認めたアスカとシンジが同時に挨拶する.二人はレイの家に何度か遊びに行っているのでメグミとは顔見知りだった.メグミは挨拶を返した後,腰を落としてレイ用に持っていった傘を二人に渡してさすよう促がした.そしてレイを自分の傘の下に入れた.
「その格好はどうしたの?シンジくん?」
泥水をかぶって全身濡れネズミ状態のシンジを見たメグミは当然の疑問を口にした.
「くるまのはねたみずをかぶったんです.」
シンジが口を開くより早くアスカが答えた.
「…そう.それは大変だったわね.傘は後でいいから早く家に帰ってお風呂に入れてもらいなさい.…それじゃ,気をつけてお帰りなさい.」
メグミはそう言って傘をシンジ達に預けたままにするとレイの手を引いて帰ろうとした.
「…あ,あの,あのね,おかあさん….」
「なあに?レイ?」
レイの言葉にメグミが反応する.メグミは再度腰を落として視線をレイと同じ高さに持ってきた.
「…シンジくんのところ,きょうだれもいないの.」
「…そうなの….」
「…アスカちゃんのところも,いないの.」
「…そう.それで?」
メグミはレイが言わんとしていることを察したがあえてレイの次の言葉を待った.
「…それでね,あの,あのね….」
レイは言葉を続けようとしたがうまく次の言葉が出ない.メグミは静かに助け船をだすわけでもなく急かすわけでもなくただ黙ってレイの言葉を待った.
「…それでね….」
「レイちゃ…(むぐっ)」
シンジはレイに助け船を出そうしたが,アスカに口を押さえつけられた.アスカはメグミの意図を察していた.
(なにするんだよっ,アスカ.)
(アンタ,バカァ?おばさまはレイにいわせたがっているのよ?アンタがくちをはさんでどうするのよ!?)
(どういうことだよ?)
(わからないならいいわよっ.アンタはとにかくだまってなさいっ!)
以上のやり取りがメグミとレイの所から引きずられたシンジと引きずったアスカの間でメグミ達に聞こえないように行われた.
『ぼくのときはアスカがさきにいっちゃうのに….』
アスカの行動が理解できないシンジは少しいじけた.
「…それでね,それでね….」
レイはまだ次の言葉が出せずにいた.レイの白い頬は真っ赤に染まっていた.
『レイ….』
表情こそ変えていなかったが,レイをずっと見続けていたメグミは内心不安になった.メグミは助け船を出すべきかどうか迷っていた.
「レ…」
「…シンジくんたちをうちのおふろにいれてほしいの.」
レイの様子に見かねたメグミが助け船を出そうとした時,レイは次の言葉が出た.その言葉の後,レイは不安の混じった表情でメグミの顔を見ていた.
「わかったわ.いいわよ.」
メグミはレイに微笑み,レイの頭を撫でながら応えた.レイの表情が和らぐ.メグミは少し離れた所にいたシンジとアスカに声をかけた.
「シンジくん,アスカちゃん,家に来て一緒にお風呂にお入んなさい.」
アスカはすぐに承諾した.シンジはためらっていたが,メグミとレイ,先に承知したアスカに説得される形でシンジは綾波家におじゃますることになった.
−夕刻 綾波家−
「シンジくんは先に入っててね.」
帰宅するや否やメグミは浴槽にお湯を張り,シンジの服を脱がしていった.メグミは風呂場でシンジの頭からお湯をかけて汚れを落とすとそう言って風呂場から出た.それからメグミはシンジの汚れた服をお湯を張ったバケツに入れて揉み出した.
「アスカちゃん,レイ.あなたたちもお風呂に入りなさい.」
シンジの服をひと通り揉み出し洗いするとメグミはアスカとレイに風呂に入るよう促がす.アスカとレイはそれぞれ自分のペースで服を脱いでく.メグミは二人の脱いだ服を集めるとこちらは簡単に手洗いして先程のシンジの服と一緒に洗濯機の中に放り込んだ.
「アタシがかみをあらってあげるっ.」
「い,いいよぉ…じぶんでできるよぉ,アスカ.」
シンジの髪を洗おうと世話を焼くアスカ.それを断るシンジ.メグミが三人の服を洗濯機に入れている時,風呂場ではシンジとアスカの間でそんなやりとりがあった.レイは浴槽の中でお湯に浸かっていた.
「アスカちゃんは浴槽の中に入っていなさい.シンジくんの髪は私が洗うから.」
二人のやりとりをメグミが中断した.メグミは両そでをまくって素足で風呂場に入ってきた.
「で,でも,これはアタシが…」
「アスカちゃん,浴槽の中に入っていないと風邪ひくわよ.まだ十分に暖まっていないんだから.」
「…はい.」
メグミの言い分はもっともだったのでアスカは大人しく浴槽の中に戻った.それからメグミは洗面器とシャンプーの入ったボトルを手にした.
「それじゃ,シンジくん.目をつぶって.」
「はい.」
メグミはシンジを風呂用の腰掛けに座らせる.シンジはメグミの言葉通りぎゅっと目をつぶった.力を入れて目をつぶっているシンジにメグミは苦笑いを浮かべた.
「シンジくん,もうちょっと力を抜いて.そんなに強くつぶっていたら疲れちゃうわよ.」
「は,はい.」
シンジは顔を朱に染めながら応える.メグミは微笑みながらシャンプーのボトルから洗髪剤を手にとった.そして,シンジの髪を優しく洗いだす.
「痛かったらすぐに言ってね.」
「はい.」
メグミの手際は良くシンジは気持ちよさそうに髪を洗わせるに任せていた.それをアスカは浴槽の中からちょっと面白くなさそうに見ていた.レイはそんなアスカをきょとんとした目で見ていた.
「はい.それじゃシンジくん,さっきのように力を入れて目をつぶって.お湯かけるから.」
洗髪が終わりメグミはシンジの頭からお湯をかけた.その時,洗濯機の方から電子音が響く.それは全自動洗濯機の脱水完了をメグミに知らせていた.メグミはシンジに浴槽に入るよう,レイとアスカに浴槽から出て体を洗うよう指示すると風呂場から出ていった.
「じゃあ,シンジ.アタシとレイがあらいおえるまでよくそうからでちゃだめよ.」
「…うん.」
シンジの返事を聞いてアスカはレイと共に体を洗い始める.シンジは浴槽の中で暖まっていた.ひと通り体を洗い終えるとアスカはレイの髪を洗い始めた.
「レイのかみってきれいね.」
「…え?…そんなことない….アスカちゃんのかみのほうがきれいよ….」
「まあ,アタシのかみはじまんのかみだけど.レイこそもっとじしんをもつべきよ.」
「…そうなのかな?」
「そうよっ.このアタシがいうんだからまちがいないって.」
浴槽の外でアスカはレイの髪を洗いながらレイととりとめのない話をしていた.
「ねえ,まーだあ?アスカ?」
「まだよ.」
浴槽の中にいたシンジがアスカに尋ねる.シンジは体が十分に暖まって少しのぼせ気味になっていた.アスカはメグミがシンジにそうしたように丁寧にレイの髪を洗っていた.結果としてアスカがレイの髪を洗い終えるまでさらに3分かかった.
「もうだしてよぉ,アスカ.」
「だめよ.まだアタシのかみがあらいおわっていないもん.」
「もうふらふらだよぉ.のぼせちゃうよぉ.」
浴槽から出してくれるようシンジはアスカに懇願する.アスカはシンジの懇願を却
下しようとしたが別の考えが思い浮かんだ.
「じゃあ,シンジ.アンタがアタシのかみをあらいなさいよ.そしたらだして
あげる.」
「えーっ!?アスカのかみ,ながいからたいへんだよぉ.」
「いやならべつにいいのよ.おわるまでそこにはいっていなさいっ.」
「…わかったよ…レイちゃんにもてつだってもらうけどいい?」
「…いいわよ.アンタひとりじゃふあんだしね.」
シンジとレイ二人協力してアスカの髪を洗い始める.が,慣れない上に洗髪剤の加減を間違えたのかシンジとレイ二人は泡まみれになっていく.それでも二人は一生懸命アスカの髪を洗おうと奮闘していた.
「あいたっ.ちょっとひっぱんないでよっ.」
「…ごめんなさい.」
「レイはいいのよ….シンジ,アンタがきをつけなくてどうするの!?」
「ごめん.」
アスカの髪を洗うのに悪戦苦闘するシンジとレイ.アスカの文句の鉾先は全てシンジに向けられていた.
「シンジくん,もうそろそろでたほうが…ぷっ.なにやっているの?レイ?シンジくん?」
洗濯物を乾燥機に移しかえ終わったメグミが風呂場に入って目にした光景に思わず吹きだす.そこには泡まみれになった三人がいた.
「はい,はい.後は私がやるから.ちょっと暖まったらシンジくんは出ていいわよ.」
泡まみれの三人をお湯で洗い流すとメグミはそう言ってアスカの髪を洗い直し始めた.メグミの手際は良く,シンジが風呂場を出てまもなくメグミも出てきた.
「服が乾くまでちょっとこれでがまんしてくれる?」
ドライヤーで髪を乾かし,バスタオルで丁寧にシンジの体についた水滴を拭き取ったメグミが取り出したのは浴衣だった.もちろんレイ用のである.メグミは浴衣をシンジに着付けるとバスタオルを頭にかぶってリビングで待つよう指示した.
「さっきはよくじぶんでいえたわね,レイ.」
「…え?なんのこと?アスカちゃん?」
「アタシたちをおふろにいれてほしいってたのんだことよ.シンジにもちょっとはみならってほしいわっ.」
「…ありがとう….でも,そんなことない.あのときも,シンジくんわたしのことかばってれくたもん….」
「だ・か・ら,もうちょっとしっかりしてほしいのよ…バカシンジには.」
シンジがメグミに体を拭いてもらっている間,浴槽ではレイとアスカで先に出た仲良しのことを話していた.しばらくしてメグミが二人に出るよう促がし,シンジと同様アスカにも浴衣を着付けた.レイは自分で寝間着を身につけた.
「…困ったわね….」
乾燥機に入れた服が乾くまでの間,夕食の準備に取り掛かっていたメグミがつぶやいた.帰ってきた時よりもさらに雨足が強くなった上に風も雨粒が窓を叩きつけるぐらいに変わっていた.この雨と風では大人の足でもずぶ濡れになるのは目に見えている.また,メグミもまだ会社から戻っていない彼女の夫も自動車を運転しない人だった.
「シンジくん,アスカちゃん,ちょっと来て.」
鍋の火を止めてメグミは二人を呼び出す.そして二人から御両親がいつ家に戻ってくるか聞き出した.シンジの両親もアスカの母もまだ帰っていないとのことだった.それを聞くとメグミは両家の留守電にこれまでの経緯と二人を預かっている旨を吹き込んだ.
「夕食,一緒に食べてきなさい.おなかすいたでしょ?」
メグミはシンジとアスカを夕食に誘った.二人は遠慮したがお腹の虫は正直だった.メグミはちょっと吹いた後,少しだけでいいから食べていきなさいと言って二人を食卓に上げた.
「いただきます.」×4
今晩の綾波家の夕食はカレーライスに野菜サラダだった.カレーは市販のルーをベースに玉ねぎ・にんじん・ジャガイモ・豚のばら肉を炒めて煮込んだものでジャガイモを溶かし込んだこってりとした舌触りに仕上がっている.野菜サラダはサニーレタスに輪切りのキュウリ・玉ねぎ,細長く切ったにんじんに缶入りみかんで彩ったもので市販のサラダドレッシングで味付けされていた.何てことのないごく普通の食事だったがシンジとアスカはよそられた分をまたたく間に平らげた.
「お代わり,する?」
「「いえ,いいです.」」
メグミはシンジとアスカにお代わりするか聞いたが二人ともそれは辞退した.レイは自分によそられた分をゆっくりと片づけていた.
「シンジくん,アスカちゃん,着替えて.アスカちゃんのお母さんが迎えに来るそうよ.」
夕食後30分ほどして綾波家に電話が入った.電話はキョウコからで今から車でアスカとシンジを迎えに行くとのことだった.シンジとアスカは浴衣を脱ぐとすっかり乾いた元の服に着替えた.
「本当に今日はありがとうございました.」
「「ごちそうさまでした.」」
綾波家の玄関先でキョウコとアスカ・シンジがそれぞれメグミにお礼を述べていた.にこやかに笑みを返すメグミに対しレイの表情は冴えなかった.
「それじゃーね,レイ.」
「ばいばい,レイちゃん」
「…さようなら.」
「あ,レイちゃん.あしたはれたらまたアスカと3人であのこうえんであそぼーねっ.」
「…うん!」
「それじゃね,レイ.」
シンジ達と明日遊ぶ約束をしてレイの表情は晴れやかになる.
「それでは,この辺で.失礼します.」
キョウコはそう言ってアスカの手を引き,アスカはシンジの手を引いて綾波家を辞去した.
−深夜 綾波家−
「ただいまあ.」
「お帰りなさい.」
メグミの夫,すなわちレイの父が帰ってきた時,レイは既に寝入っていた.レイの父は背広をハンガーに掛けてネクタイを外すと台所へ行き,夕食を物色し始めた.
「お,今日はカレーか?」
「会社で食べてきたんでしょ?太るわよ.」
「いいから,いいから.あれ?いつもより少ないような?メグミ,今日お代わりしたのか?」
「違うわよ.今日はレイの友達,シンジくんとアスカちゃんが来たのよ.」
「夕食一緒に食べたのか?それはまたどういうこと?」
メグミはこれまでの経緯を夫に話した.夫はカレーをぱくつきながらメグミの話を聞いていた.
「…あのレイがなあ….」
「そうなのよ.」
カレーを平らげた夫が鍋を洗いながら顔を和ませていた.メグミもまた柔らかな表情で食卓でお茶をすすっていた.
「そうだ.明日の土曜,久々に休みなんだ.レイと三人でどっか行こうか?」
「だめよ,あなた.明日晴れたらシンジくん達と遊ぶんだってレイ嬉しそうだったわよ.」
「じゃあ,明日は雨になれと祈ろうかな?」
「あ・な・た・」
「ごめん,ごめん.冗談だよ.そっか,レイにもそんな友達ができたんだなあ.」
レイの父は嬉しそうなそして寂しげな表情を浮かべて鍋を洗い続けていた.
翌日,第三新東京市は一日中晴れだった.
VISI.さんの『私立第三新東京幼稚園A.D.2007』第8話公開です。
おとなしくて自分の意志を出さなかったレイちゃん。
一生懸命出した一言。
一歩ずつ成長していく姿ですね。
シンジ君のために色々世話を焼こうとするアスカちゃん、
シンジ君の頭を洗う恵さんにヤキモチを焼くアスカちゃん、
女の子は小さいときから女なんですね。
シンジ君は相変わらず好意に包まれて優しく育っています。
さあ、訪問者の皆さん。
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