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外 伝
EPISODE:00 / At a night
「うああぁぁぁ……っ!!」
先程から治まらない悪寒。
意識が消えそうな感じ。
そしてその先にあるのは…死の匂い。
シンジは、自分でも知らぬ間に叫んでいた。
叫んだらこの恐怖が無くなるのではないか、そんな事を思いながらシンジはただひたすら叫び続けた。
ちょうどその時の、覚醒したエヴァ初号機のように。
プラグ・システムの電源は既に限界に達しているため外の景色は見えない。
そのこともシンジの恐怖をより高めていた。
狭いエントリープラグのあちこちで叫びが反響し、大合唱となる。
その明らかに耐えられないほどうるさいであろう空間にいるシンジだったが、当の本人は全くお構いなし。
いや、もう耳から聞こえる音に気を配る余裕など無いのだ。
しかし、そんな内に身体がしびれ、頭がしびれ。
意識が次第に遠のいていく。
わずかな抵抗も空しく、シンジはついに意識を失った。
ふと気づくと、辺りは黒い空間が支配していた。
(ここは…どこなんだ?)
辺りを見回す。だが、何も見えない。
足下を見ても闇があるばかり。
身体の感覚も全くといっていいほど無く、なんとなくぼやけたものとしてしか感じられなかった。
唯一感じられるのは、自分の意識がまだはっきりしないと言うことぐらいだ。
(僕は…死んじゃったのかな…)
少しうつむいて考え込むシンジ。
今までの思い出が蘇ってくる。
辛かったけれど楽しい日々が、いくつもいくつも頭をよぎる。
それらは全て鮮明なイメージで還ってきた。
(いやだ…死ぬのは、いやだ…)
どれくらい経ったのだろうか。
シンジはすわり込み、膝を抱えていた。
額を膝に付け、シンジは全てを拒絶するようにぴくりとも動かない。
(いやだ…まだ、死にたくない…)
なぜか、昼間見た風景が思い出されてきた。
侵攻する第14使徒。
出撃するエヴァ弐号機。
落ちてきた、弐号機の首。
避難途中で見た、加持の姿。
N2爆雷を抱えて走る零号機。
そして無我夢中で走った森の中。
逃げちゃだめだと決心したあの時。
本部に帰り着き、乗り込んだ初号機。
すべてが鮮明に還ってくる。
特に、傷つき倒れた弐号機と零号機の姿が頭にこびりついて離れない。
(アスカ…)
(綾波…)
そのイメージが脳裏に浮かんだとき、シンジは2人の仲間のことを思い浮かべた。
弐号機が、そして零号機が使徒に倒されるシーンが克明に蘇る。
まるでスローモーションを見ているように。
(2人とも…大丈夫かな…)
シンジは、2人の無事を祈る。
そして、願わくば自分をどこかへ導いて欲しい、と。
恐らく無理な願いであろうと思いながらも、シンジはただひたすら呼び続けていた。
そうする以外になかったから。すれしかすがるものが、無かったから。
(綾波… アスカ…)
レイが病室で目を覚ましたのは、その時だった。
誰にも聞こえない声が、レイの頭に響く。
悲しげな声が。
声の主に思い当たるレイ。
そしてレイはゆっくりと起きあがった。
「碇君が…呼んでる」
傍らのスリッパを履くと、痛む身体をひきずって病室を出ていく。
カチャ……バタン…
ドアが静かにしまった後には、誰もいない、暗い病室のみが残った。
(寂しい…怖いよ…)
いくら呼んでも、返事もなし。
シンジはまだ座ったままだった。
こんなところにたった1人でいるということがいやだった。
早く、抜け出したい。
けれど、どこまで行けば出られるのかすら分からない。
ここから出る方法があるのかどうかさえも。
(誰か…助けてよ…お願いだよ…)
その時。
シンジの前で、誰かの気配がした。
誰もいるはずのない空間に、確かに気配がしたのだ。
ビクッとなるシンジ。
おそるおそる顔を上げてみる。
すると、そこには…
「母…さん…?」
明らかに驚きの表情。
目の前の事実が理解できない、といった顔で、シンジはユイを見ていた。
無理もない。
10年も前に、ユイはシンジの前から姿を消したのだから。
それ以来、行方はシンジにはようとして知れなかったのだから。
「シンジ、一緒に行きましょう」
ユイは、シンジの記憶の奥底にのみ眠っているその姿で言った。
その表情は、柔らかで優しい。
そしてユイは、手をシンジに向けてさしのべた。
「母さん…」
シンジは、思わず呼ぶ。
いきなりのユイとの再会に、シンジは戸惑っていた。
(ど、どういうことなんだ?)
だがあまりはっきりしていない頭では苛立つほど遅くしか考えられない。
しばらく沈黙するシンジ。
「…大丈夫?」
驚きの表情を続けるシンジを前に、ユイは笑顔を消して少し心配そうな顔をした。
「え?…あ…う、うん。」
「そう、良かった。」
そう言うと、ユイは再び前の表情に戻る。
「…さ、行きましょう。みんな、あなたを待ってるわ。」
そしてシンジの手を取り歩き始めるユイ。
シンジは、ただそれに従った。
「ま、待ってよ母さん。…どこに行くの?」
「言ったでしょ? あなたを待っている人達がいるところよ。」
半ば引きずられるように歩いていたシンジだが、その答えを聞くと自分からユイの歩みに合わせて歩くようになる。
ユイは、シンジと手をつなぎながら真っ直ぐ進んでいく。
シンジは、それを追いかける。
こんなことが、しばらく続いた。
ユイがシンジのために配慮しているのか、この場所だからかは分からないが、歩き通しでも全く疲れはしない。
(どうなってるんだろ?)
シンジは思った。
(やっぱり、僕は…)
死んじゃったのかな…?
考えても分からない疑問。
それが今シンジの頭のなかを渦巻いている。
歩きながら、シンジはその最大の疑問を口にした。
「…ねぇ、母さん。一つ…聞いてもいい?」
「なに?」
「ここは、どこなの?…僕は、どうなっちゃったの?」
ユイがふと立ち止まる。
シンジもつられて立ち止まる。
(来るかとは思ってたけど…どうしよう…。言えばきっと動揺するに違いないわね。でも、言わなければ…)
ユイはしばらく考え込んでしまった。
そのため、立ち止まったのだ。
「母さん?」
「・・・」
シンジが呼びかけても、ユイはまだ背中を向けたままで考え込んでいる。
「ねえ、母さん。」
「・・・」
次の呼びかけで、無言のまま、ユイは振り返った。
その顔には、さっきまでの笑顔は無く、少し真剣な表情が浮かんでいた。
そしてシンジの肩に手を置くと、言い聞かせるようにゆっくりと話し出した。
「いい? シンジ。…びっくりしないで、冷静に受けとめるのよ。」
「う、うん。」
そう念を押した後、ユイは一息ついてから主題を話し始めた。
「まず、シンジがどうなったか。…結論から言うと、シンジはね、今は魂だけの身体になってるのよ。」
「え? 魂…だけ?」
「そうよ。つまり、肉体を伴わない存在、っていうこと。」
「…じゃあ、僕の身体は?」
「実は、それなんだけど…もう、ないのよ。」
「そんな…」
「…詳しい話は抜きにするけど、身体は魂を宿すことで生きていけるようになるわ。だけど、それは逆に言えば魂が無くなれば身体は死んでしまう、ということなの。」
「そんな…。僕は、やっぱり死んじゃったの?」
「いえ、違うわ。ここは初号機の中。」
「エヴァの?…じゃあ僕は…初号機に…取り込まれちゃったの?」
「まあ、そういうことね。ただ、魂だけをね。」
「…どうして…そんな…」
思わずつぶやくシンジ。
「…『彼女』が目覚めたからよ。」
「え? なに?」
「…外に出れば、分かるわよ」
「・・・」
ふと、ユイが中空を見上げた。
シンジも、なんだろうと見上げる。
「さあ、来たわ。」
すると、そこには眩しい光を放つ球体がどんどん2人に向かって降りてきていた。
2人は、言葉もなくその光景をただただ見つめていた。
それからシンジの体感で数分が経った頃。
シンジとユイは、大きなゲートらしきモノの前に立っていた。
そう。このゲートこそがあの光の正体だったのだ。
ゲートの向こうでは、まるで水面が揺れているような風景が広がっている。
その色が青・赤・黄色…と様々に変化し、まるで生きているようだ。
「シンジ、私はここまで。」
ユイは、シンジに向き直ると言った。
「あとは、ここに飛び込めばそれでいいの。そうすれば、外に出られるわ。」
「飛び込むって…母さんは?」
「私はね、ここにいなければならないのよ。だから、残るわ。…大丈夫、すぐ会えるわよ、また。」
「う…うん。」
「じゃあね、シンジ」
「母さん…」
お互いに手を振り合うシンジとユイ。
「飛び込むだけ…か。」
シンジは、ゲートを眺めながらつぶやいた。
相変わらず、ゲートの向こうでは光が揺らいでいる。
七色に変わり、それが繰り返されている。
(僕は帰らなくちゃだめなんだ。だから…逃げちゃ、だめだ)
そう言い聞かせると、シンジは目をつむり思い切ってゲートに飛び込んだ。
その瞬間、ふとユイが辛そうな表情をしたが誰も気づくものはなかった。
「…何の役にも、立たなかった。」
薄暗い非常灯の明かりの中で、少女は呻いた。
「また、アタシは負けた…」
唇をかみしめ、歯ぎしりの音さえ聞こえてきそうな状況である。
肩を小刻みにふるわせ、やり場のない怒りを抑えようとしている。
その怒りの対象は、自分。
何の役にも立たない、用済みの自分。
そこへ、発令所から通信が入る。
ミサトが、叫んでいる。
『アスカ、早く撤収して!』
「…わかったわ。」
精いっぱい強がってそう言うと、アスカはエントリープラグを出て本部へと走っていった。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
一刻も早く戦闘地域を抜け出すため、アスカは全力疾走していた。
エヴァに乗っている時はさほどでもないのだがさすがに降りて自分で歩いてみるとエヴァとのサイズの違いがはっきりと分かった。
本部入り口へと到着するアスカ。
アスカはふと後ろを振り返った。
そこには、首を無くした弐号機。
辺りの木々はその体液で青紫色。
思わず、その光景に眉をひそめる。
そして、背筋が寒くなった。
(…あの時シンクロが解除されてなかったら…)
そう思うと、自分が生きていることが何となく安心できる。
と同時に、使徒への激しい恐怖がわき起こる。
そんな呪縛から逃れるため、アスカは戦場に背を向けた。
バシュッ…
アスカの目の前で扉が開いた。
アスカは中に進んでいく。
「ミサト」
画面を食い入るように見つめているミサトに、アスカは声をかける。
しかし、ミサトは反応すらしない。
まるでアスカの声が聞こえていないようだった。
それもそのはず。
メインモニターには、片腕だけでN2爆弾を抱えて使徒に突進する零号機の姿。
そして、零号機は使徒のコアに爆弾をぶつけようとする。
使徒はATフィールドで防ぐ。
零号機もATフィールドを展開、だんだんとその手がめり込んでいく。
少しずつ、少しずつ…。
そしてついに爆弾が使徒のコアに触れた、その瞬間。
コアにカバーが掛かり、それから爆発が起きる。
世界が一瞬全て白くなった。
ものすごい熱、炎、衝撃波が辺りを襲う。
「レイ…」
「ファースト…」
全ての人が、その光景に見入っている。
もうもうと立つ煙の中に、2つの影を人々は見た。
そんな中で使徒の影の腕が伸び、零号機の頭を貫いた。
ただ、倒れる零号機。
零号機は、頭を真っ二つに割られて、沈黙している。
「そんな…」
ミサトが、つぶやいた。
「後は初号機だけね…」
リツコも険しい表情で言った。
しかし、その最後の望みの初号機はダミープラグでも起動しない。
何度やっても、ダミープラグを初号機は受け入れようとしなかった。
「ダメです! 初号機、起動しません!」
そして、ゲンドウの声。
「もう一度108からやり直せ。」
それにかぶるように、シンジの声が。
「乗せて下さい!」
これが、その日のおおかたの経緯だった。
アスカは発令所に戻った後検査を受け、異常がないことが確認されると1人で家へ帰った。
レイは初号機停止後に救出、意識不明のためすぐ病院に収容された。
ミサトやリツコには後始末の仕事がある。
そんなわけで、アスカは今1人で家にいた。
(使徒…そういえば、前にシンジに聞かれたっけ。あの時も、今も結局何なのか結論が出てないわね。でも、ほんとに一体何なのかな…)
居間で、電気もつけずにただ寝転がっているアスカ。
(…あの使徒は強かった。アタシの弐号機でも歯が立たないくらい)
その目はただ天井を見つめている。
戦いを思い出してしまい、アスカはうつ伏せになる。
ふと、あることに思い当たるアスカ。
(そういえば…シンジは帰ってきたみたいね。ちょうどアタシが帰る時に、放送が入ったっけ…。『初号機起動しました』、とか…)
アナウンスが入った記憶が、確かにあった。
ダミープラグでも起動しなかったらしいから、多分シンジが帰ってきたのであろう。
そう考えると、アスカは複雑な気持ちになってきた。
(シンジ…前と比べるとずいぶん立派になったわねぇ。自分で行動を決めるようになったんだもの…って、何考えてんのアタシは!?)
思わず、暗闇の中で頬が赤くなる。
(アタシを追い越して、一番になったシンジ…追い越されるのはくやしいけど…でもこの気持ちは、何? やっぱり、アタシはシンジのことが…)
「シンジ…」
暗闇の中、星空に向かって、アスカはつぶやいた。
自分が今一番心配している、そして一番好きな人の名前を。
窓から離れ、アスカは電気をつけた。
目の前が一瞬真っ白になり、徐々に感覚が戻ってくる。
「シンジ…大丈夫かしら」
電気をつけた後一番に出たのが、それだった。
いつもなら「な、何てこと言ってるのかしら!」と自分で戸惑うところだが、今回ばかりはそれはなかった。
この自分でもあの使徒には負けた。
だから、シンジに勝って欲しい。自分の仇をとって欲しい。
しかし、使徒の強さから考えると初号機でも勝てるかどうか。
全くの未知数的存在であるエヴァに関して「確率」などというモノがあてはまるのかどうか分からないが、確率的には明らかに使徒の優勢だろう、とアスカは踏んでいた。
もう、自分が帰ってきてからしばらく経つ。
ふと、時計が時刻を告げる。
「…11時、か…」
シンジ、遅いな…早く帰ってきてよ…
ガコ…ン…
エントリープラグのハッチが開かれたとき、ミサトは信じられないものを見た。
シンジがぐったりして動かないのだ。
「シン…ジ…君…?」
呼びかけてみるが、ぴくりとも反応しない。
「シンジ君、シンジ君!?」
あわてて揺さぶっても、シンジはただミサトの為すがままに首を揺らしていた。
「…だめです…心停止です。」
「脳波…停止…」
「…完全に、死亡しました。」
ICUの中に、重苦しい声がこだまする。
そして、その場にいた全員の心の中にも。
…シンジの死…
受け入れられない、受け入れたくはない事実。
誰もがそんな状況に直面していた。
そしてそう言うときに限って人間はほのかな望みを抱く。かなわないとは分かっていても。
ミサトにしても例外ではなかった。
(シンジ君…生き返って…!)
シンジの寝かされているベッドにすがって泣き崩れるミサトの口からは、その願いは出ない。
シンジは、ただぴくりとも動かないで横たわっていた。
「ミサト。」
リツコが呼びかける。
「・・・」
ミサトは、反応しない。
「ミサト。」
再び呼びかける。
「・・・」
だが、また反応しない。
「…シンジ君の遺体、処分することになったわ」
部屋に戻ってきたリツコがミサトに告げたのは、悲しい決定だった。
瞬間、ミサトの身体がぴくんと反応して、ミサトは顔を上げた。
「リツコ…今、なんて…」
「シンジ君の遺体は、これからすぐ処分されるわ」
「そう…。」
ミサトは、再びうなだれた。
「…お別れをしに行かないの?」
「…いいの。会えば、また辛くなるだけ。もう戻ってこないと分かっているのなら、なおさらよ…。」
「そう…じゃあ、いいのね?」
「ええ…」
「そう…」
リツコは、ミサトに背を向け、椅子に座った。
たまっていた仕事を片付けるべく、コンピュータを起動する。
「…リツコ、こんな時に良く仕事ができるわね…」
「…こんなときだからよ…仕事でもしないと、押しつぶされてしまいそうだわ…」
その時、起動が終了した、というメッセージが無機的に発声される。
リツコは、ちらとミサトの方を見てから仕事に没頭した。
その頃、シンジの身体は。
シンジの身体は、再び暖められていた。
火によって。
火が、踊る。シンジの身体を、焦がす。
それでもシンジは目覚めない。
魂を失った抜け殻は、何も感じずただただ焼かれていくだけ。
その表情は。
シンジの顔は、これ以上ないという位に安らかなモノだった。
だが、空っぽの心を象徴するかのように、その顔はひどく人工的・無機的だった。
表情は安らかで。
でも、どこか悲しげで。
シンジの口元は、少し微笑んでいるかのよう。
ただ無言で、シンジは状況を受け入れていった。
その身体に、心は存在しない。
だから、「痛み」も「苦しみ」も何も存在しない。
そんな中、そのまるで良い夢を見ているような顔が、ひときわ大きな炎に飲まれた。
そしてそれ以降、シンジの顔が火の中から再び外にさらされることはなかった。
プルルルルルル…
電話が鳴っている。
アスカは、しばらくしてからはっとして受話器を取る。
「はい、もしもし。」
『アスカ…』
「ミサト?」
『…ええ…』
受話器の向こうから聞こえてくるミサトの声は、やけに弱々しい。
『アスカ…ごめんなさい…』
「ミ、ミサト!?」
『ごめんなさい…』
「い、一体どうしたって言うのよ?」
『シンジ君…シンジ君が…』
「シンジが?…どうしたの?」
不安が、アスカの心に渦巻く。
『…死んでしまったの…』
「…え?」
一瞬、アスカの耳は理解を拒んだ。
「な、なんて言ったの?」
『シンジ君が…死んじゃったの…』
「う…うそ、でしょ? シンジが死んだなんて…」
『残念だけど…本当なの。…ごめんなさい…私たちがもっと頑張ってれば…』
「う…そ……」
ミサトの謝罪も、もはや聞こえない。
受話器が、手から滑り落ちる。
そして、床にたどり着く直前で動きを止めた。
シンジが、死んだ。
シンジが…
待ってたのに
まってたのに
マッテタノニ
いや!
イヤ!
嫌っ!
シンジ、帰ってきて!
もう一度、顔を見せてよ!
この気持ち、伝えたかったのに…
シンジ…
シンジ…!
「うっ!」
ゲートに飛び込んだ瞬間、白い光が辺りを覆ったかと思うと、何かがシンジに絡みついてくる。
あっと言う間に「何か」にがんじがらめにされてしまったシンジ。
その「何か」は、客観的によく見ると白い糸というか紐のようなものなのだが、主観的には背景と同化してしまって見えない。
(な、なんなんだ!?)
そう思う間もなく、シンジの頭にイメージが流れ込んでくる。
まるで滝が流れているかのごとく。
(これは…)
最初に流れてきたのは、ゼルエルの最期の光景だった。
身体の数カ所をちぎられ、最後の力で目からビームを放とうとするゼルエル。
だが、そんなゼルエルの顔を突如紫色の手がつぶした。
それで、ゼルエルの映像は消えた。
次は、参号機だった。
手を伸ばして、首を絞めてくる参号機。
これまた突然、紫色の手が逆に参号機の首を締め上げる。
…そして、参号機の首は、折れた。
(これは…エヴァの記憶だ)
その次に見えたのは、第12使徒。
次に第10使徒。
それから、第9使徒。
第8使徒。
第7使徒。
第6使徒。
第5使徒。
第4使徒。
そして、第3使徒。
シンジが初めて遭遇した使徒だ。
しかし、使徒・サキエルは、もうぼろぼろ。
手は完全に折られ、顔もひびが入っている。
その上、コアに打撃を加えられてコアが割れる寸前となった。
サキエルがとりついてくる。
そしてサキエルは、自爆した。
(ここで、終わりかな?)
今までの戦いの記憶が流れ込んできたのだった。
だから、シンジはてっきりこれだけで終わるものと考えていたのだが…しかし。
(あ、あれ? なんだこれ?)
次々と流れてくる映像。
どうやら、実験中の映像らしい。
窓のところに、小さな黄色いシャツの男の子が見える。
その後ろには冬月副司令らしき人。まだずいぶん若い。
そして映像は更に進み、赤ん坊を抱いているイメージが出たとき。
(これは…母さん?)
シンジは確信した。
(…そうか…。やっぱり、母さんもこの中にいたんだ…)
「ふぅ…。私の役目も、終わりね。」
ユイは、シンジの消えた後のゲートをただ見ていた。
その顔には、心なしか寂しげな表情が宿っている。
(シンジがこれになれば、私の魂は…もういる場所もないわね)
ふう、と溜息一つ。
ユイは自分の手を見た。
だんだんと、肌色が闇にとけ込んでいく。
色が薄くなっていく。
(始まったわね…)
そしてユイは目を閉じると、状況に全てを任せた。
このまま消えるのもまあいいかな、と。
「それじゃシンジ、さよなら」
その一言を残し、ユイの姿は、完全に消えた。
それからしばらくの間、シンジは頭に流れ込んでくるイメージを漠然と見ていた。
使徒との戦い。
実験。
ユイの記憶らしきもの…
最後に、全ての真実が入ってきた。
エヴァとは何か。
使徒とは何か。
セカンドインパクトの真実。
ゼーレ。
人類補完計画。
そして、人間とは。
その他諸々の膨大な情報が頭の中に一時に流れ込む。
しかし全てをシンジの頭の中に入れると、シンジを拘束していた「何か」はするするとほどける。
「何か」は実際に見えたわけでは無いので「ほどける」というのは少し語弊があるかも知れない。
とにかく、シンジは自由になったのだ。
だが息をつく暇もなく、シンジは代わりに粘性の大きな何かが身体にまとわりつくような感じを覚える。
再び光が、シンジの身体を覆っていた。
光の空間の中で、シンジは更に光に包まれていた。
だんだんと、自分を包む光が濃くなっていく。
自分の手が、足が、だんだんとかすんで見えなくなっていく。
そして自分の身体が溶けていくように、シンジは感じた。
その光の中で、シンジは再びユイと対面した。
『母さん…』
『シンジ、がんばって生きていくのよ。』
どこか悲しげな笑みをたたえながら、ユイはシンジにそう呼びかける。
『母さん…母さんは…』
『…分かってるんでしょ?』
『・・・』
『シンジが知ってるとおり、この中に2つの魂が同時に存在することはできないわ。だから、私の方が消えることになるの。』
『母さん…』
『そんな悲しそうな顔しちゃダメよ、シンジ。私の記憶はここに残ってるから。だからいつでも会えるじゃない。』
『・・・』
『…それに、シンジは若いわ。シンジには、まだまだ未来が必要よ。』
『・・・』
『いい? あなたは、精いっぱい生きるのよ。人として、そしてその次にエヴァの身体を持つモノとして。』
『人…』
『そう、人としてね。確かにこの身体になってしまったからには、果たさなければならない役割もあるわ。』
『・・・』
『だけど…いえ、だからこそシンジには人間として生きていって欲しいの。終わらない戦いにただ導かれるよりも、自分から平和を追い求めて、築いていって欲しいのよ。』
『・・・』
『私の魂は、あの時からずっとここにいるのよ。だから…もう、疲れちゃったわ。』
『母さん…』
『私はね、十分満足したわ。あなたがこんなに大きくて立派になってるんだもの。』
『僕が…』
『まだ人生はこれからよ、シンジ。私は結局コントロールしきれなかったけど、あなたならきっと出来るわ。』
『・・・』
しかし、そんな再会は長くは続かず、ユイの身体は光にとけ込んでいく。
『…そろそろ、お別れの時間が来たみたいね。』
『母さん…』
『シンジ、ちゃんと生きていって。母さんから、最後に頼むわ。』
『…母さん!』
シンジは、思わずユイに抱きついた。
後から後からこらえていた涙が抑えきれずに溢れ出す。
ユイは自分の腕の中で泣きじゃくるシンジを優しくなだめた。
『母さん、消えないで! お願いだよ! 母さんも、一緒に生きていこうよ!』
『シンジ。それはね、無理なのよ。分かってるはずよ、そのことは。』
『でも…』
『現実は、辛いこともあるわ。だけど、辛いからと言ってそれから逃げ出しちゃダメなのよ。』
『・・・』
『ずっと、戦うあなたを見てきたから、辛いのは良く分かる。けどね、シンジはいつもちゃんと乗り越えてきたじゃない。毎回それを見る度に私は嬉しかったわ。』
『・・・』
『だから、今回も乗り越えていって。…すぐには無理かも知れないけれど、いつかきっと。』
『母さん…』
『…そろそろ、限界ね…。』
ユイは、シンジと目線を同じくすると、目をしっかりと見つめて言った。
『お願い。最後に約束して。さっき言ったこと。』
『うん…わかったよ。』
『・・・』
『母さん、僕は…頑張って生きていく。今までと同じように、人間として。』
『ありがとう…シンジ…』
そう言ってユイは極上の微笑みをシンジの記憶に残し、消えた。
『母さん…母さ…!』
叫びかけて、自分を抑える。
さっき、約束したばかりだから。
母さんと、約束したばかりだから。
一方、シンジにまとわりついている光は、ゆっくりとうごめいていた。
それは色を変え、形を変え。
そしてだんだんと色が、形が決まってくる。
白から紫へ。
霧のような無定型から、シンジの身体と同じような人型へ。
…結局、光はある存在の形となって変化を終えた。
エヴァンゲリオン初号機の姿になって。
変化の終了と同時に、辺りも闇を取り戻していく。
周囲に張られた光の膜が一斉に落ちるように、辺りは再び闇に包まれた。
(…ん)
再び暗闇の中で、シンジは気づいた。
(ここは…)
そして同時に、ここがケイジであることを知る。
今、明かりのついていないケイジでは、その金属で作られた枠組みが闇の中でただひたすら黙っていた。
誰も、いない。
動くものは何もない。
だが、誰かがいたのならすぐ異変に気づいたであろう。
なぜなら、さっきまでケイジに光るものは無かったはずなのに、今は初号機の目が再び光を放っているからだ。
そして、初号機…いや、シンジは。
身体が動かないことを確認すると、ぽつり、とつぶやく。
「やっぱり僕はエヴァに…」
一瞬、ユイの記憶がプレイバックする。
(母さん…)
シンジも、ユイが消えたことは知っていた。
エヴァのシステム上2つの魂が同時に存在することはあり得ない。
そして、自分がこうして存在しているという事はユイが存在を放棄したという事に他
ならない。
(母さんは、もう帰らない…)
落胆すると同時に、結局こうなっては何もしてやれない自分が恨めしかった。
これで父さんの目的の内の一つが達せられることは無くなったのだ。
それは実のところ自分も望んでいたことであり、シンジの心にも絶望が生まれる。
しかし、シンジはそれをすぐに捨てた。
(…でも、記憶はちゃんとここにあるんだ。だから…いつでも会おうと思えば会える
から…)
自分の中には、自分の記憶とエヴァの記憶、そしてユイの記憶が存在している。
だから、ユイの考えていたこともだいたい分かる。
それに、母さんと約束したから。このことを、乗り越えて行くって…。
だから…
そしてふんぎりがついたシンジは、少しうつむき加減になり、元の自分の姿を強くイメージした。
瞬間、眩い光がケイジの設備を照らし、消える。
「ふう。」
そして、自分の身体をあちこち触って何事か確認すると、シンジは軽く地を蹴った。
タンッ
…という小さな音がケイジに反響する。
しかし、その後には全くの静寂がやってきた。
再びその足が同じ場所を踏むことはない。
シンジの身体は今、宙に浮いていた。
上を見上げるシンジ。
その身体が、更に上昇を開始する。
暗闇の中を。
10秒とかからずに、シンジは通路にたどり着いた。
ゆっくりと、そこに降り立つ。
そして出口へ向かうシンジ。
出口の扉の脇には、電子ロックの「LOCKED」という赤い表示が点灯している。
電子ロックの小さなディスプレイの明かりが、シンジの顔をほのかに照らし、シンジの赤い瞳を闇に浮き上がらせていた。
シンジは歩きながら手も、首さえも動かさず視線だけを向ける。
ピッ!
すると、短い電子音がした後で表示が「OPEN」に変わる。
「ガコッ」という音がして、ケイジの扉のロックは外れた。
シンジは、今度は手を使って扉を開けると、外に出た。
「…待ってたわ。」
表に佇んでいたレイが、口を開いた。
「綾波…来てくれたんだ。」
「呼ばれたもの…」
「そうだね…。さ、行こうか。」
「ええ、碇君…」
4つの赤い瞳が交錯した。
「…行きましょ。」
レイが、きびすを返してゆっくり歩き始める。
病室を出た頃よりはずいぶん足どりがしっかりとしてきているが、まだ少しおぼつかない。
シンジは、そんなレイのすぐ後をついていった。
いつレイが転んでも、支えられるように。
「・・・」
ふと、シンジは歩きながら自分の右手のひらを見た。
「・・・」
無言のまま、ゆっくりと握ったり、開いたりを繰り返す。
肌色の手のひらは、以前と全く変わり無く見える。
手だけではなく、足も、身体も、顔も。
赤い瞳を除いて、全て外見は変わりがなかった。
その、瞳が赤いことも、かなり近くによらなければ分からないことだ。
シンジは手を降ろし、少し辛そうな顔をした。
どう見ても、僕は人間と同じに見えるけど。
だけど。
実際、今の僕は人間とは違う。
だから…
(いつか、嫌われちゃうんじゃないかな…)
そう思ったのも、致し方無いところではあった。
ただ、唯一の救いは、それでも信じてくれる人が少なくとも1人いるであろうことだった。
「…綾波」
その「信じてくれる」だろう人の名前を、シンジは呼んだ。
「なに?」
いつもの感情のこもらない声。
レイは、立ち止まって振り返った。
「綾波は…僕と同じなんだね…」
「ええ…」
「…僕のこと、どう思う?」
「…どうしてそんなこと聞くの?」
「僕は…怖いんだ。みんなに会うのが。」
「・・・」
「見た目は変わらない、って…分かってるんだけど…でも実際に会ったら、みんなに知られて、嫌われちゃうんじゃないか、って…」
「…大丈夫よ。」
「え?」
「私が、碇君を守る。だから、大丈夫。」
「綾波…」
「碇君は、私と同じだから。碇君のこと、よく分かると思うわ。」
「・・・」
「だから、碇君は心配しないで…。」
「ありがとう、綾波…」
「…さ、もう少しよ」
レイは、再び歩き出した。
ミサトさん達のいる部屋は、もうすぐだ。
(ミサトさん、驚くかなぁ…驚くな、きっと)
そう思うと、シンジは心が少し軽くなったように感じた。
コン コン…
シンジは、部屋のドアをノックした。
この部屋に、ミサトとリツコはいるはずだ。
案の定、すぐ返事が返ってきた。
『誰?』
どうやら、リツコらしい。
それを聞くと中の人が開けるのを待たずして扉の脇にあるスイッチを押す。
プシュッ!
エア音とともに、ドアは勢い良く開いた。
「シンジ君…。いえ、そんなはずは…」
リツコの明らかに動揺した声。
うなだれていたミサトが、その声に反応するのが見えた。
「シンジ…君…」
ミサトが目を見開いて、ふらふらとこっちへ近づいてくる。
そのまま、ミサトはシンジに抱きついた。
「シンジ君…本当に…シンジ君…なの?」
思わず、涙が再び流れてくる。
しかし、今度の涙は違った。
流れ出るのは哀しみの涙ではなく、うれしさの涙。
「ええ。」
シンジは、優しく答えた。
「ただいま、ミサトさん。…すみません、いろいろ心配かけて。」
「いいの…もう、いいのよ。だって、戻ってきてくれたんだもの…」
泣き声になりながらもミサトは声を絞り出す。
止めようとしても溢れ続ける涙を、こらえることは出来なかった。
「で、でもどうして?」
リツコがまだ困惑した表情のまま言う。
事実を受け入れることを、頭が拒否する。
あり得ないこと…。
だが、それは厳然たる事実だった。
(やっぱり、来たね…)
予想していながら、やっぱりその通りになった。
ある程度の心構えは出来ていたが、やはり実際にとなると少し辛い。
シンジは、表情をわずかに曇らせて言う。
「…この身体は、元の僕のものじゃないんです。」
「え?」
更に混迷の度を深めるリツコ。
ミサトも顔を上げる。
ミサトの顔には、涙の筋がまだ残っていた。
「…僕のこの身体は…初号機なんですよ。」
表情を曇らせたまま、シンジは再び言った。
言葉を告げなくなるミサトとリツコ。
その目は、ただぱちくりとしてシンジを見つめている。
シンジはどこか自虐的に微笑むと、右腕を横に突き出した。
ふっと手先に神経を集中する。
その瞬間、手のひらから更に数十センチ離れたところに、小さな光が生まれた。
オレンジ色で八角形の形をした、光の壁が。
「ATフィールド…」
ミサトが、つぶやくように言う。
一方、シンジはこうもあっけなく展開してしまう事にむしろ自分でさえ驚いていた。
まさか軽く意識を集中しただけで展開できるとは…
身体のコントロールにはまだしばらくかかるな、と思っていたシンジにしてみれば少し驚くべき状況だ。
まあ、コントロールが出来ているのならそれはそれで問題はないのだが。
「で…ミサトさん。僕、そろそろ帰ります。アスカも待ってると思いますし…」
「ええ…早く帰ってあげて。アスカ、泣いてたから…。」
そんなミサトの言葉を遮ったのは、リツコだった。
「あ、ちょっと待って。」
「はい?」
帰ろうとしていたシンジが振り返る。
「一応、簡単な検査だけさせてくれない…?」
「別にいいですけど…」
「では、着替えて第4実験室に行っていてくれるかしら。私は後から行くわ。」
「はい。分かりました。」
そしてシンジは実験室に向かおうとする。
「…碇君。」
今まで存在を忘れ去られていたレイが、シンジを呼び止めた。
「なに? 綾波。」
「…さよなら、碇君。また明日…」
「あ。…じゃ綾波、また明日ね…」
そう言うと、シンジとレイはお互いに微笑み、手を振った。
レイの微笑みは、シンジにとっては2度目。
だが、ミサトとリツコにとっては十分驚愕に値することだった。
(あのレイが…微笑んでる…)
シンジが見えなくなると、レイはいつもの無表情に戻って手を降ろす。
「赤城博士、私も帰ります」
「…それがいいわね。」
そしてシンジは実験室へと、レイは病室へと向かった。
NERV第4実験室。
普段ならオペレータが数人いて、各プラグをモニターしているのだが、今回は被験者がシンジだけ、ということでリツコが全てを行っていた。
「…いい、シンジ君。シンクロテスト、始めるわ。」
『はい。いつでもどうぞ。』
その返答を聞いたリツコがキーボードを軽快にタイプする。
ピッ!
エンターキーが押された事を知らせる短い電子音が鳴ると、シンクロテストは自動的に開始した。
「…さすがMAGIね…」
ふっと、リツコは遠い目をした。
母である、赤城ナオコの事を思って。
幸い夜中のためMAGIの他からの負担があまり大きくなく、サポートに回しても大丈夫だったのでテストは実質数分で終了した。
そのデータをコピーすると、リツコはシンジにテスト終了を告げる。
「はい、終わりよ。帰って良いわ。」
『今日は、早いですね。』
「MAGIがサポートしてくれたからよ。」
『…じゃあ、とにかく上がります。』
視線を調整液の張られたプールに移すと、そこにはシミュレーションプラグが4本並んでいた。
その内の一本のハッチが開き、中からプラグスーツのシンジが出てきた。
シンジが出てきたことを確認すると、リツコは再びディスプレイに視線を戻した。
リツコは、MAGIに、データの解析を命令する。
文句も言わず、スーパーコンピュータは直ちに仕事に入った。
そんなところにシンジが帰ってくる。
「…じゃあ、帰って良いんですよね。」
「ええ。」
「…じゃ、リツコさん。さよなら。」
「さようなら、シンジ君。」
「はぁ…」
着替えながら、シンジは溜息をついた。
その表情には、憂いが見て取れる。
「266.5%、か…」
アスカが聞いたらひっくり返りそうな数値をいとも簡単に…というか自然に出てしまったのだ。
しかも、これでも抑えた方らしい。
つくづく、自分がとんでもないモノになってしまった事を感じてしまう。
まあ、まだ全身のコントロールが出来ているわけではないであろう事は否めないが。
「はぁ…」
またも溜息。
さっきから、何回ついたことか。
そして、自分のことから想像が発展して、またみんなに嫌われるという事に帰着してしまう。
シンジは、それでも何とか気を落ちつかせ、手を休めることなく着替えを済ませて帰っていった。
さて、一方電話を受けた後のアスカは。
膝を抱えてひとしきり泣いた後、それでもまだ満足せずに枕を寝室から持ってくると顔を押しつけ声を殺して泣いた。
アスカの中では、シンジがにっこりと微笑んでいる。
しかし、その笑顔はもう、帰ってこないのだ。永遠に。
そう思うと、心にぽっかり穴が開いてしまったような、そんな感覚にとらわれる。
心が、締め付けられるように痛い。
その心の痛みをいやすように、いつまでもアスカはシンジを想って泣き続けた。
いっそ、自分がシンジと替わりたいとさえ思った。
その頭には、もはや自分がシンジに負けたなどと言う事は微塵もなく、ただただシンジを恋って泣き続けるのみのアスカ。
しかし、いつまでもそれが続くわけではない。
アスカは、いつしか眠りに落ちてしまっていた。
そんなアスカが夢で会ったのは、もちろんシンジだった。
「・・・」
白み行く夜の空と自分の手のひらを交互に見比べながら、シンジは歩いていた。
まだ朝も早い。
次の首都とはいえ、もともと人口のあまり多くない街である。誰にも、会わない。
ただ、街路樹の林で蝉が鳴いている。
セカンドインパクトにより常夏となった日本では、蝉など珍しくもない。
一年中いるのだから、人々は何とも思わない。
セカンドインパクト前の季節があった頃の人達でさえ、もう慣れてしまっていた。
シンジは、荷物を持ちながら一歩一歩ゆっくりと歩いている。
相変わらず視線は空と手とを言ったり来たりしているが。
手を握ったり開いたりしながら、シンジは自分の手の感覚を確かめていた。
全ての身体の感覚が、今感じられる。
それはすなわち、シンジが生きているという事を意味していた。
たとえそれが人間の身体であろうとエヴァの身体であろうと、シンジが生きている、そのことは揺るぎもない事実だ。
ふと、シンジは空にその赤い瞳を固定し、自分の元の身体に思いを馳せた。
もう処分されてしまったと聞いたが、一体どんな風にして僕の身体は死んでいったのだろう。
そんな疑問が湧く。
ショックな事だろうとは思うが、好奇心がそそられる。
だが、今は聞くべき時では無いだろう。
おそらくその答えを知っているのはミサトとリツコ、そして一部の医療班だけ。
ミサトに聞くと、またショックに陥れて放心状態にさせてしまうのではないか、そん
な不安がある。
リツコは、なんとなく聞き辛い。
医療班は、誰なのかさっぱり分からない。
(…結局、もう少し落ちつくまで待たなくちゃダメだね…)
そう考えて、シンジは空に向かって軽く微笑んだ。
少し自嘲も含みながら。
「ミサトさん、おそらく僕のこと『死んじゃった』、とか言っただろうからなぁ…」
空が白む頃ようやくマンションに帰り着いたシンジは、「葛城」と書かれた扉の前で右往左往していた。
…果たして、死んだことになっている人物がいきなり現れてもよいものだろうか?…
シンジが考えていることは、それだった。
映画やドラマなどではよくある設定であるし、自分も昨日体験したばかりだが…。
あの、暗闇にいたシンジの前にユイが現れたときがまさにその状態だったわけだ。
こういう場合、だんだんと落ちついていくとその存在を受け入れられるようになっていくのが常道だ。
…しかし、ちゃんと落ちつけるだろうか?
ミサトの話からすると、アスカは電話口の向こうで泣いていたらしい。
そこまでショックだったのなら、むしろ逆効果になるのではないだろうか?
ホントに、ああいう風に上手くいくものだろうか?
それに…ちゃんと、受け入れてくれるだろうか?
シンジはアスカでは無いので答えを知る由も無かったが、ただそうやって悩んでいたわけだ。
静かな通路に、足音がしきりに響く。
だが、誰も、何も言わない。
ただ、周囲の木立から蝉の声が少し聞こえる。
ここ、コンフォート17マンションには、今の所ミサト・シンジ・アスカ・ペンペン以外は住んでいない。
そのためこうして早朝から悩み歩き回っていても誰も文句を言わないのである。
第一今はまだ夜も明けていない。こんな時間では、なかなか起きる人はいないことだろう。
しかも、辺りには木々もある。
木立からは、蝉の鳴き声が聞こえてきて、その足音を覆い隠していた。
それから更に10分ほど右往左往して、シンジはようやく決心をした。
「…よし。」
そういって、右の拳をぐっと握りしめる。
スイッチに手を伸ばしていくシンジ。
…が、スイッチに触れる数センチ前で、ふと力をゆるめる。
新たな不安が生まれたからだ。
(アスカ、僕のこと…)
自分の正体を知ったら、アスカはどうするのだろう。
すぐ拒絶するのだろうか。
それとも、レイのように受け入れてくれるのだろうか。
(会うの、怖いな…)
頭の中で、アスカに避けられている自分の姿が浮かんだ。
そして、だんだんと周りの人達も寄りつかなくなって…
…シンジは、1人になってしまう。
嫌われる。
それが、シンジが昔から最も恐れていたことだった。
その性格は、今も変わってはいない。
だが、今度のシンジは少し違った。
(…でも、逃げちゃダメだ。逃げちゃ…ダメなんだ!)
再び拳を握り直すと、シンジは今度は躊躇なくスイッチに手を伸ばした。
ピッ!
短い電子音。そして。
バシュッ…
エア音が響く。
(僕は…たとえ人間じゃなくても、人間として生きていきていかなきゃならない。母さんとそう約束したから…)
真剣な表情で決心を固めるシンジの前で、ドアは開いた。
(それに…僕もそうしていたいから…)
無言で小さく頷いて、シンジは中に入る。
中に入ると、ドアはひとりでに閉まった。
まだ、家の中の方は薄暗い。
「ただいまぁ…」
そう小さくつぶやくように言って、シンジは靴を脱ぐ。
そして、久しぶり(といっても丸一日も経っていないのではあるが)の我が家の床を踏みしめた。
「…ありゃ。」
居間に行ってみると、アスカが枕に顔をつけて寝ていた。
「しょうがないなぁ…」といいつつ、シンジは部屋から布団を持ってきてアスカに掛けてあげた。
(アスカ…無事で良かった…)
シンジは、かがんでアスカの頭を2・3回優しくなでる。
いつの間にか、心の中を埋め尽くしていた不安は吹き飛んでいた。
こうして無事に生きているアスカを見たら、不安などどうでも良くなってしまった。
生きていることの喜び…
2人は、生きている。だからこそ、再び会えたのだ。
ふとアスカの感情がシンジに流れ込む。
どうやら夢を見ているらしかった。
『シンジ、死なないで!』
アスカの心は、ただそれだけを繰り返している。
シンジは辛そうな顔をして、つぶやいた。
「…ごめん、辛い目に遭わせて…。」
それにも気づかないように、アスカは眠っている。
背中の上下が、健康状態も良好であることを示していた。
「…さて。」
シンジは立ち上がると時計に目をやる。
「僕も、寝ようか…」
そして、シンジは足音を立てないように自分の部屋へと向かった。
『アスカ…ごめん。』
シンジが、言った。
『いや…いや、死なないで!』
アスカはシンジに向かって行こうとする。
だが、間に見えない壁があるようで、阻まれてしまう。
ここは、アスカの夢の中。
何度も何度も、アスカは同じ夢を見続けていた。
しかも、相当リアルな夢を。
夢の中では、毎回シンジが出てきて毎回アスカに別れを告げる。
アスカは毎回それに涙し、そしてそれも空しくシンジは毎回どこかへ消えていく…。
何度、見ただろうか。
それでもアスカは、夢から覚めなかった。
辛い現実を受け入れるよりは、夢でもシンジに会えた方がよい、そう思ったから。
『…さよなら、アスカ…』
シンジの姿が、消えていく。
悲しそうな表情を浮かべながら。
『いや…いや、いやああぁぁぁっ!』
思いっきり、叫んだ。
心が締め付けられるようだ。
いつの間にか壁は消えており、アスカはシンジの元いた場所に立つことが出来た。
『シン…ジ…』
後には、何も残っていない。
シンジの跡は、何も。
まるで最初から何も存在していなかったかのように。
アスカは、ひざを折る。
地面に崩れ、泣き始める。
冷たい感覚が全身に伝わる。
そして涙が枯れるまで、アスカは泣き続けた。
…これで、また一度夢が終わり、また始まる。
終わりのない繰り返し。
無限に繰り返される夢。
だが、そんなところへどこからか音が聞こえてくる。
…ーーワ ジーーーワ…
それが蝉の鳴き声であると言うことに気づくのは、そう難しいことでは無かった。
「ん…」
アスカは、ゆっくりと腫れぼったい目をあけた。
シンジは、布団に入って天井を向いていた。
その目ははっきりと開いている。
シンジの赤い視線は、天井の一点を見つめていた。
眠ろうとは思うが、眠れない。
一度眠ったら、周りのモノが全て消えてしまいそうで。
そして、自分が自分で無くなってしまいそうで。
はっきり言うと、怖かったのだ。
そんなこんなのうちに、時間が経って。
ジーーワ ジーーーワ…
外から聞こえる蝉の声は、一段と大きくなっていく。
「…起きなきゃ…」
結局一睡もせずシンジは布団を出た。
「…アスカ、起きてるかな…」
願わくば、まだ寝ていて欲しいところだ。
首を回しつつ、シンジは扉に向かう。
「・・・」
一瞬の躊躇。
そして、シンジは扉を一気に開けた。
ガラッ!
「ふああぁ…あ…」
扉を開けてから、大きなあくびをするシンジ。
「あれ?」
だが、ふと視界に動くモノが入った。
明らかに、人。
赤い髪と、青い瞳…。
「アスカ…」
シンジは、その名前を呼んだ。
アスカの顔には、驚愕が浮かんでいる。
まあ、無理もないところだ。
「…起きたんだ…?」
少し、シンジが眉をひそめる。
アスカは、やっと言葉を口に出した。
「シ…、シン…ジ…」
「シンジ…どうして? 確か、ミサトは…」
「…僕は、この通り生きてるよ。」
「夢じゃ…ないわよね…?」
「うん。」
「ホントに…シンジなのね?」
「うん。ただいま、アスカ。」
シンジは、笑顔を作って見せた。
心とは裏腹に。
シンジの心には、再び「自分の事を知られて、嫌われるのではないか」という不安が生まれていた。
しかし、それは次のアスカの行動で早くも消え去る。
「…シンジ!」
アスカは、シンジの胸に飛び込んだ。
うれし涙を浮かべて。
夢の中でとは違う、本物の暖かさがアスカに伝わる。
堰を切ったように、アスカの目からはぽろぽろと涙がこぼれる。
シンジは、そんなアスカの肩を優しく抱いた。
(…もう、大丈夫。アスカを悲しい目には遭わせないから…)
シンジはアスカの様子を見ながらそう決心した。
(いや、アスカだけじゃない。みんなを、もう辛い目には遭わせたくない…)
ふとシンジが居間の方を見やると、薄暗かった居間に光が敷き詰められていくのが見えた。
辛く、長かった夜は、ここに開けたのだった。
あとがき
…というわけで、「エヴァンゲリオン パラレルステージ」外伝・その零でした。
気づいた方が多いと思いますが、これは第1話から第2話前半部分の補完みたいなものです。
でも、やっぱり僕が書くとこーなるんですねぇ。
繰り返される、涙々…。
ま、題材が題材なんでしょうがないと言えばそれまでですが。(^^;
…さて、この話は「第零」とついてる位ですからまだまだ進行していくと思います。
が、とりあえずは一話完結形式で行ってみようと思っています。
今回はキャラの心の中にスポットを当ててみました。
心情描写の訓練もかねて、前から書きたいと思っていたところなので、ちょっと書いてみましたが、いかがでしょう。
では、「外伝」のみならず「パラレルステージ」本編もお楽しみに!
Tossy-2さんの『エヴァンゲリオン パラレルステージ』外伝・その零、公開です。
『エヴァンゲリオン パラレルステージ』本編1話から2話を内面中心に捉えているんですね。
何が怖い?
死ぬこと。
もっと怖い物は、
拒否されること。
一人になること。
生き残った喜びと
生き返った恐怖。
内面から語られた『外伝』でしたね。
さあ、訪問者の皆さん。
Tossy-2さんにメールを送りましょう(^^)
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