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………機内は閑散とし、正確には僅か二人の人影しかない。
本来なら不自然な光景なのだが無制限に広がる同じ色の瞳を持つ女の子は、何の疑問も抱かずに飽きることを知らず窓の外を眺め続けている。
此処三十分ほど海と空だけの景色は何の変化もなく、だがそれは旅程が順調であるからだろう。

「何か面白い物見えた?」
「……あれ……あれは何?」
「……船……タンカーかしら、荷物を沢山積んでどこかの国へ持っていくのよ」

白く小さな指で差された遙か水平線に浮かぶ船影が何処の国へ向かうのか、女の子と共にこの機の乗客となった彼女に知るすべはない。
恐らくは実年齢より若く見られるであろう、着ているワンピースも明るい色を基調とし、ショートカットの髪も活動的に見える。
二十代後半といったところに見えるが、地上に降りればとなりに座る女の子と同じ歳の息子がいる。

「……あたしが今度住むところはどんなところ?何か面白いものあるの?」
「そうね、色んな人が沢山いて車がいっぱい走って……もう……あんな狭いところにいることはないから安心して……」
「じゃあ広いところなのね、ねえ、さっきのクウコウよりずっと広いの?もっと色んな物があるの?」
「そうよ、色や音、これから色んな物を覚えながら一緒に暮らすのよ」

蒼い瞳がより一層煌めきだした。
灰色だけの世界、それが二年と少しの時間彼女を覆っていた単色の世界だった。
そしてこれからは色彩に満ちた時間が自分の中を過ぎて行くはずだ。

どんな色が流れていくのか……窓から消えようとしている船の行き先のように二人に知る由もない。








26からのストーリー


第二十五話:無色透明(前編)





窓を覆う遮光カーテンの僅かな隙間から白い光が筋となってアスカの枕元を照らした。
闇に隠れていた室内のオブジェは淡く浮かび上がる。
鞄、本棚、机、枕元の風邪薬……
時計は本来なら彼女が起きていなければならない時間を差していたが、日差しから逃れるように寝返りを打っただけだ。
長針が五つほど目盛りを移動すると光だけでなく、窓の外の雑音も室内に侵入し始めた。
自動車の音、自転車の音、バイクの音、人の話声……

全てはうっすらと開いてしまった蒼眼と、閉じようもない耳に入り込んできた情報だった。
まだ夢の中で寝ころんでいたいのに、アスカの情報収集器官は持ち主をいとも簡単に裏切っている。
染み込むように入り込んでくる見慣れた部屋の景色は、彼女の意識で滲みすぎた水彩画を描く。
目と耳は活動を始めたが他の部分は持ち主の意志を尊重してか、全く動こうとはしなかった。
砂を詰め込まれたように動かない手足、鉛をくくりつけられたように起きあがらない上半身。
掛け布団から抜け出すのにも心身共に途轍もない労力を必要とする有様だ。
それでも何とか羽毛布団の魔手から逃れる。

此処四日ほどアスカの部屋の様子は何一つ変わっていない。
机の横に置かれた通学鞄は全く動かされた様子はなく、床に慎ましく積まれた三冊のファッション雑誌は四日前と同じ順番でページが開かれるのを待っていた。
ハンガーに掛けられた冬の制服が、開け放った扉から流れ込む冷たいが新鮮な風に音もなく揺れる。
彼女の部屋からは家のすぐ前の通りがよく見えた。
四日ぶりに目にした外の景色は嫌味なほどに晴れ渡り、連なる屋根の向こうには空に半分ほど溶け込んだ山が見え隠れしていた。

軽く首をひねり、小さな両肩を回す。
加速度的に覚醒を始めた意識は、この四日間殆ど動くことのなかった身体に暖機運転させるよう命じていた。
時計の針は午前十一時半を差しており、彼女が十分睡眠を貪ったことを告げた。
平日のこの時間は奇妙なほど静かで、何処か非現実的な感じがする。
中学生の彼女にとって自宅の午前十一時は未知の時間だった……いや、ごく数回しか経験したことのない時間だ。
何れも風邪で熱を出しこうして学校を休んだ時だった。
アスカは律儀にもほぼ毎年十二月に風邪で熱を出すのだ。
程度は重いときでも二日目にはケロッとして動き回るのだから、風邪と言ってもごく軽いものだろう。
そもそも原因と言えばこの時期から降り始める雪に、毎年律儀にはしゃぎ回り熱を出すのだからある意味自業自得である。

今年の発熱もそれが原因ならどれほど気が楽だったろう……

若草色の寝間着を着ていることに彼女は気付いた。
自分の持っている寝間着は淡いピンク、ライトブルー、クリーム色の三色三着の寝間着で、今着ているのは違う誰かの寝間着だった。
恐らくは汗を掻き何度も寝間着を替えているうちになくなったので、やむなくこれを着る羽目になったのだろう。
自分のものでない寝間着の正当な所有者を考えたが、悩む間もなく思い当たった。

同居している同じ歳の紅い目をした少女ではなく、これといって変哲もないごく普通の少年のものだった。
身長は殆ど同じなので寝間着だけでなく大抵の洋服類は共用出来るのだ。
三歳の時から殆どの時間と空間を共用した、少し気の弱いだがごく普通の同じ歳の少年。
十年も見続けた同じ顔……その筈だった。
思い浮かんだ頼りなさげな笑顔に違和感を感じるのは四日間顔を見なかったからだろうか。

それとも雨の中で聞いた話が熱に冒されながらも、未だ記憶の中で色褪せないからなのだろうか。








今日を含め四日ほどアスカは38度を超す発熱、咳、鼻水、喉の痛みに食欲不振、頭痛に吐き気に腹痛と、およそ風邪薬の効用に書かれている症状ひとそろいと言った状態だった。
さして長くもないこれまでの人生の中で最も酷い風邪だったらしく、ベットの上にいた二日間の記憶は殆ど残っていない。
夕べ寝る前に体温を測ったところ、ようやく平熱まで下がったのだが大事をとり今日一日休むことにした。
寝間着の替えが無くなるほど汗を掻いたお陰か、こうして起きてみると体調がすっかり元に戻ったのを実感する。
食欲も回復し、ヨーグルトとすり下ろしのリンゴしか口に出来なかった胃袋は、ごく正当な要求を彼女に突き付けていた。

若干まだ頼りない足を動かし階段を下り、洗面所に向かうと髪留めを外した見苦しいまでにボサボサの髪と腫れぼったい目と浮腫んだ顔が自分を覗き込んでいる。
瞳も何処か淀んでいるように見える。

「……これじゃ中年のオバサンじゃない……」
鏡の中の自分に幻滅し思わずそう呟いた。
酷い有様だ、こう言うときは誰にも会いたくないと心底思った。
慌てて櫛を掴み髪を梳かし、冷たい水で顔を洗う。
毎日入浴を欠かさない彼女にとって三日も入浴していないと言うのは不衛生以外の何者でもない。
いっそシャワーだけでも浴びようかと思った矢先、彼女を呼ぶ声が壁の向こう側から聞こえた。

「アスカ、起きたの?具合はどう?」

声の主は尋ねなくても解る、シンジもレイもゲンドウも家にいる時間ではない。
このまま洗面所に閉じこもっていようと思ったがそういうわけにも行かず、何とかあちこち刎ねた髪を寝かしつけ、洗い晒しのタオルで顔を拭く。
洗面所の扉についている銀色の取っ手に手を触れたが、それを回し扉を開けるには少々ためらいがあった。
風邪の症状が落ち着きを見せ、熱も下がった昨日は、気持ち悪いと言い続け殆ど部屋から出ようとはしなかったのだ。
確かに治りかけていたとはいえ、多少気分が優れなかったのは事実だが大半の理由は他にあった。
今ドアのノブを回すのに心理的抵抗を感じるのもそれと同じ理由だろう。

軽く深呼吸し右手を捻る。

「おはようおばさま。具合はずいぶん良くなったみたい、明日には学校行けるわ」
「そう……顔色も良くなったみたいね、リビングにはんてんがあるからそれ羽織ってなさい。その分なら何か食べられるでしょ?」
「え……あ、うん……そうする……」

すぐ部屋に戻ろう、そう思っていたのだがそれを告げる前にユイの背中は台所に消えていった。
風邪の日はその背中について回り、彼女の作ってくれるおじやを楽しみに待ったものだ。
三時にはおやつにケーキを食べ……いつしか風邪を引いている身であることを忘れてしまいそうになる。
『独占』と言う言葉を実感できる、一年のうちでそう何度もない機会。
過去と言うには気恥ずかしいほどの時間しか経過していないのにも関わらず、それらが色褪せた記憶となって頭の片隅に浮かび上がってきた。

何の躊躇いもなく過ごせた四日前までの日々がセピア色に変色してしまった、それはアスカにとって苦痛を伴う実感だった。







四日前とは何も変わっていないテーブルのいつもの席にアスカは腰を下ろした。
変わっていないのは当たり前だが、それが彼女に複雑な思考を巡らせる。
ダークブラウンのテーブルに魚を模した箸置きが二つ、その上には朱色の箸が一組ずつ慎ましやかに置かれている。
漬け物に卵焼き、アサリの味噌汁は今朝の残りだろう。
そして湯気を昇らせる土鍋を手にユイがやって来た。

「アスカ、悪いけど取り皿持ってきてくれない?ついでにお玉も一緒に持ってきて」

座って準備が出来るのを待つだけ、そういう心づもりはなかったのでアスカは、すぐさまそれに従って言われた物を揃えた。

「お待ちどう様、熱いから火傷しないように食べなさい」
「……いただきます……」

一口目はゆっくりと、二口目は良く冷まし更にゆっくりと、三口目は可能な限りゆっくりと……
その次は加速のついた箸の動きを押さえることなく、おじやを頬張った。
確かに久しぶりのちゃんとした食事だ、機能を回復した胃袋は牡蠣のおじやを欲求し箸を掴んだ手は忠実に動き続ける。
それらの持ち主は出来るだけ不機嫌に食べたかったのだが。
三回ほど取り皿を空にすると土鍋の中のおじやは三分の一程に減っていた。

「もう少し食べる?まだ食べるなら作るけど」
「……ん、もういい……」

結局残った分は二等分しユイと二人で綺麗に食べ終えた。
食べっぷりを見れば風邪はすっかり治ったと見て良いだろう。
些か気恥ずかしそうにお茶を啜るアスカをそれとなく眺め、だが何も口にせずユイは静かにお茶を飲む。

お互い二杯飲み、漬け物を少々摘むと二人の間を沈黙が漂い始めた。
付けっぱなしのTVが国営放送の昼のニュースを流しているが、果たして二人はそれに気付いたかどうか。
例えどんなニュースが流れようと、それとは比べものにならないほどの問題を二人は抱えていた。
顔を合わせれば解決しなければならない問題。
使徒襲撃の折りシンジとレイは何故姿を消したか?

「あたし、シンジから聞いたの……あの変な化け物が出てきた時、何で避難所にいなかったのか……」

ユイは無言のまま俯いて呟く少女を促した。

「二人ともロボットに乗って退治してたって……バッカみたいよね、何であの二人そんな事言うの?」

シンジはあの日ほぼ正確にアスカに自分達の置かれた状況を伝えていた。
エヴァというロボットに乗り使徒と呼ばれる化け物を迎撃する、それを真実として捉えるには彼女の常識が透明な壁となって邪魔をしていた。
確かに目の前では彼の語った光景が繰り広げられていた、それと頼りなさそうなシンジの顔と無口なレイの顔がどうしても重ならないのだ。

「……あの二人にとってアスカに言ったことが事実だからよ。エヴァンゲリオンパイロットとして使徒を迎撃する……確かにちょっと信じがたいとは思うけどそれが本当よ」

ユイの言っていることはとても理不尽に思える。
事実かどうかよりそんなことを信じろと言うこと自体が無理なことのように聞こえた。
今の会話にどれだけの負荷が掛かっていたのか、そしてどちらにより負荷が掛かったのか定かではない。
互いにゆっくりとお茶を口にするが、既に薄くなって味などしないことに気付きもしなかった。

秒針がゆっくりと一回りし終えるとアスカは口を開く。
ともすればこもりがちで聞きづらい声だった。

「……何でシンジやレイがそんな物に乗ってるの?自衛隊だって何だって他にいっぱい人がいるじゃない、あの二人が何でそんな物乗って危ない真似しなきゃいけないのよ」
「エヴァという人造人間を操るのには一種の適性が必要なのよ……魂の血液型……とでも言えばいいのかしら、誰でも乗れる訳じゃないわ。能力とは別の所で操縦できる人を選別するの、その適性がシンジとレイにはあったから……エヴァに乗ってるのよ」

アスカに理解など出来るはずがない。
余りにも常識からかけ離れた出来事にどんな理由や説明が付けられようとも、彼女の暮らしてきた現実との距離に近づくはずもないのだ。
納得とはほど遠い位置でユイの説明を聞いていた。
「仕方ないとか……そんな安易に済ますつもりはないけど、今はあの二人にやって貰うしか無いのよ」

言い訳に聞こえるのはアスカの思い違いか、漠然とテーブルの木目を眺めながらそう思えた。
どんな理由だろうとシンジとレイは日常からかけ離れた位置に存在するようになったのだ。
そこがどういう場所かアスカには解らないが、安全とは無縁であることぐらいは想像できる。

彼女の沈黙は鉛より重い空気を頭上に淀ませた。
何を言われようと納得できない……だが一体何に納得できないと言うのか、自分でも混濁する思考を整理できずにいる。
不満……そうなのかも知れない、木目のように心の中で楕円を描きながら広がり続けた。

「黙っていて悪かったとは思うわ、でも……」

そうだ!
何故自分は知らされなかったのか、それが不満であり納得できないのだ。
ユイが一瞬驚くほど勢い良く俯いた顔を上げる。
栗色の髪が日の光に透かされ生気に満ちた黄金色の輝きを今日初めて放った。
淀んでぼやけた映像しか映していなかった瞳に蒼い白い炎を灯し、その眼光は氷で出来た剣先となり十年共に暮らしてきた「おばさま」に注がれた。

「何であたしだけ教えて貰えなかったのよ!シンジやレイが関わって……おばさまも知ってるのに何であたしだけ知らされなかったのよ!」

テーブルの上で湯飲みが怯えたように小さく揺れる。

「確かにあたしには何もできないけど……だからって最初に言ってくれても良かったじゃない!何であたしだけ除け者なのよ!!」
「除け者にしたわけじゃないわ、これはアスカが知らなくても良いことだから……」
「あたしは知らなくても良いってどういう事よ、シンジやレイは関わってあたしは何にも知らないでいろって言うこと?一緒に暮らしてもあたしには関係ないって事!?」

『エヴァンゲリオン』『人造人間』『使徒』が何なのか、そんな物はどうでも良かった。
十年間一緒に暮らしてきたシンジがそんな物に関わり、その事を家の誰もが知っているのに自分一人が知らなかったのだ。
その思いが質問に形を変え血色の戻った唇から零れた。

「あたしってそんなに価値がないの?大切なこと教えて貰えないほど信用無いの!?」










多分一週間前とは違う種類の疲労が全身にこびり付いているように思える。
寝不足とも違う憂鬱に近い不快感だ。
その日何をしてどう過ごしたのか、此処三日ほどその記憶は不鮮明だった。
そして今日も級友から名を呼ばれても二回ほどは聞こえていない有様だ。

「……君、碇君!……さっきから呼んでるんだけど聞こえなかった?」
「……あ、ゴメン、何か用?」

のんびり窓の外を眺めていた碇シンジは、クラスメイトの少女に名を数度呼ばれていたらしい。
洞木ヒカリと言う名の学級委員長をも勤める彼女は、少々不機嫌そうな表情を見せ彼の席の脇で出席簿を手に立っていた。

「さっき葛城先生が放課後にでも職員室に来てくれって言ってたよ」
「……そう……わかった」

素っ気ない返答で返すシンジに不満を隠しきれない、が、表面的に繕うと声を和らげ再び質問した。
シンジのことではなくその同居人についてだ。

「アスカの具合はどうなの?まだ風邪酷いのかな」
「ううん、もうずいぶん良くなってるよ……多分。明日は学校に来るんじゃないかな」

断定的でない、少し曖昧な点がヒカリには気になったが、学校を離れてのことにはシンジにもアスカにもレイにも聞かないように自制しているので、その点についての追求はしなかった。

「そうなんだ、お見舞い行けなかったけど……アスカって四日も休むの初めてでしょ?電話しても出なかったから……でも明日出てこれるなら大丈夫よね」

一体学級委員長は何を言いたいのだろう、虚ろな目で適当に相づちをうつシンジは、深くもなければ広くもない疑問を漠然と感じていた。
ヒカリだけではない、あの日以来誰に話しかけられてもそんな調子なのだ。
会話の内容に気を向けることはなく、相手が立ち去ればその場で忘却してしまい、その日誰と話をしたのかすらろくに覚えていない有様だ。
結局学級委員長はそれ以上は無意味とばかりに背を向け、友人達の元に去っていった。

シンジは再びなんの変哲もない窓の景色に没頭した。
頭の中に止めどもなく流れる思考はなんの脈絡もなく、ましてや建設的な物でもなかった。
愚にも付かない妄想とも想像とも言えない脳活動は、再び誰かに話しかけられるまで休むことなく続くだろう。
朝からそんな調子で今日もあと1時間で学校生活は終わりになる。

「……帰りたくないな……」

すぐ傍らにいる夕日のように紅い瞳を持つ少女はその呟きを耳にしたが、何も答えなかったのはどう答えればいいのか解らないからだった。
シンジが心をどこかに置き忘れてからずっと彼女はそばにいた。
何か話しかけるわけでもないが、見捨てて自分一人遊びに行くわけでもなく行動を共にしていた。
綾波レイにとってそんな過ごし方は、取り敢えず不愉快ではないのかも知れない。
まるで時間の流れから二人だけで取り残されたような……だがそこはレイにとって居心地の良い、無色透明な壁で覆われた場所だった。

無言のまま、殆ど動くこともなかった十分の休憩時間はあっという間に過ぎ、無粋な今日最後のチャイムが鳴り響く。
二人は再び時間の流れに捕まった。








「まぁ、そこに座ってくれる……ほい、それ飲んで良いわよ。業者から貰った奴だけど」

座れと指し示した場所は椅子ではなく、屋上に設置された排気口の縁だった。
勿論座布団など敷いてあるはずもなく腰を下ろすとズボン越しに氷のような冷たさがお尻に伝わる。
職員室にと言われたはずだったが何故こんな所で、そう問おうとするのを制するように二年A組担任教師は口を開いた。

「惣流さんの具合はどうなってる?まだ風邪引いてる?」
「……知らないよ……あれから一言も口きいてないんだし」
「知らないってあーた、同じ屋根の下で暮らしてるんでしょ?顔ぐらい合わせるでしょうに」

黒い髪を疎ましげにかき上げるとそれと同じ色の瞳がシンジを興味深そうに見つめる。
だが当人には責められるように映ったかも知れない。

「最初の二日は本当に具合が悪かったらしいけど……その後一歩も部屋から出てこなかったし……部屋に行っても気分が悪いって顔も見せなかったし」

NERVという組織に属し、エヴァと言う名を持ったロボットに乗り使徒と呼ばれる化け物と戦う、隠し続けた自分の「正体」を隠してきた相手に晒した。
それが十年間という時間を消し飛ばすような衝撃を二人の間に与えたのだ。
アスカは確かに部屋から殆ど出てこなかったが、シンジも無理に会おうとしなかったのも事実だし、何処かほっとしたのも事実だった。

エヴァに乗っていた事実より、それを隠していた現実のほうが遙かに重くのし掛かる。

「まっ、しょうがないか……」

ミサトはそう呟くと生ぬるくなった缶コーヒーを啜り、小さく溜息をついた。
彼に一連の事を黙っているよう指示したのは紛れもなく作戦本部長たる彼女であり、こういう事態を想定はしていたが、その対処法は何も思いついていなかった。
実のところミサトにとってそれほど重大な事項ではない。
シンジに黙っているよう指示したのはあくまでも機密保持上必要な措置であり、アスカに話したところで彼女がペラペラ喋らなければそれで問題はないのだ。
普段担任としてアスカを見てはいるが、あちこちでそんなことを喋りまくるような頭の悪さは無縁であるように見える。
その代わり「しょうがないわね」と納得してくれるような物わかりの良さとも無縁だろう。
大切なことを黙っていた、教えて貰えなかった、恐らくはそれだけで、アスカには十分だったのだ。

「暫くはどうしようもないわよ。彼女の頭が冷えるまで待つしかないわねぇ」

もしかしたら最初から教えて置いたほうが良かったのだろうか、ふとそんな考えがミサトの頭に浮かんだ。
今更ではあるが機密保持とは言っても、アスカ一人が関係者の仲間入りをしたところであまり影響はなかっただろう。
だが何分にも唐突な使徒襲撃であったし、全ては初めての実戦であり特務機関NERVが組織として初めて活動したのだ、例え僅かであっても情報は漏れには気を使う。

かなり無責任ではあるが、シンジが告白した以上あとはアスカ自身に判断を委ねるしかない。
結論を言えば、アスカがどう喚こうとシンジとレイはエヴァに乗らなければならないし、彼女の意向などミサトにとってはどうでも良いのだが、それによってシンジ、レイに何だかの影響が出るのは好ましくない。
彼らのメンタルな部分の管理を担当しているミサトとしては、口にした言葉ほどに無責任ではなかった。
ただ現状では時を待つ以外に手の出しようもないのだが。

「惣流さんは取り敢えず明日学校に来るんでしょ?そん時あたしも話してみるわ」

シンジに対してとは違い、第一中学の葛城先生として話をする、そして必要なら葛城三佐としても口を開くかも知れない。
二人は溜息をつきつつ、無意識にあらぬ方向へと目を向けた。
無機質な屋上にあってはさして見る物もなく、二人が口を閉じれば足の下で唸りを上げる換気口がやかましいほどだ。
朱の絵の具を一滴垂らしたような空は日の短くなったこの季節、秒単位でその色を濃くするだろう。

だがいかに早く暗くなろうとシンジは腰を上げる気にはならなかった。










そこの空気は煙草の煙と人の吐き出した息と沈黙で窒息しそうなほど淀んでいた。
天井に埋め込まれた蛍光灯が白濁した明かりを撒き散らし、その場にいる男達を陰気そうに浮かび上がらせる。

「君の言うことは少々突飛すぎるな。ま、解らんでもないがもう少し正確な観察が必要だとは思わんかね」

将官用の制服に身を包んだ男とその同僚は唇の端を皮肉そうに歪めながら、自分の半分ほどの年齢でしかない士官に視線を突き刺した。
どちらかと言えば長身に属し、お世辞込みで良い顔立ちに属する外観だ。
コの字型会議机の向こう側に座った連中と同じ組織に属する士官は、一応背筋を伸ばし姿勢こそ正しいが表情には彼ら以上の皮肉さが時折見え隠れしている。

「香山一佐、現在我々の置かれている立場は極めて微妙と言わざる得ないのだよ、君らが張り付いているあのNERVと同じようにな。転びようによっては我々陸自は孤立する羽目になる……この微妙な時期にわざわざ問題提起をする必要があるとは思えんがな」
「はぁ、ごもっともですが……上に回しといたほうが宜しいかと愚考します。それこそあとになって何を言われるか……」
「その上もまだ判断を付けかねていると言っているんだよ。考えてもみたまえ、NERVの零号機パイロットが反抗の兆候を見せたなどとこちらから口にすれば、それこそ補完委員会に要らぬ口実を与えかねん。不必要に介入を受けるのは避けたいというのが今の統一意志だ」

白い溜息を吐き出すと白髪混じりの太い眉を険しく歪ませ、フィルターの直前まで吸った煙草をクリスタルの灰皿にこすりつけた。
陸上自衛隊の将官五名は香山一等陸佐に疎ましげな視線を向ける。
要らぬ波風を立てようとする「厄介者」に他ならなかったし、実際日頃の勤務態度にも問題があり、ある意味不穏分子と言って良かった。
それでも香山が降格も除隊処分も受けずにのうのうと今日まで自衛隊に居られたのは、彼らにも色々思うところがあるからだろう。

「では今回の件は内密と言うことで?」
「内密ではない、言う必要はないだけだ。そもそも何か問題があるようだったらNERV内部で処理するだろうよ」







「……だそうだ。やっぱ言わない方が良かったかなぁ……」
「良いじゃないですか。これで何かあっても責任は上で持ってくれるでしょうし」

一台の国産セダンが長野県松本市を駆け抜けた。
程良く暖房が効きいている大型EVセダンで整備されたアスファルトの路面を走れば、まるで高級ベットの中のように眠気を誘う。
よく効いたクッションは時速百キロで走る車をゆりかごのように揺らす。
高速の交通量は少なく、第三新東京市までの道のりはまず快適と言っていいだろう。
香山は大きなあくびを一つ吐き出すと、助手席のシートの上であぐらを掻き運転席に座る部下に目を向けた。
山科二尉はブラウンを基調としたスーツでセミロングの髪を軽く縛り、活動的な印象を与える。
運転中と言うこともあって眠気など感じさせないが、万が一彼女が事故を起こせば陸上自衛隊対使徒戦特別編成部隊は指揮官を失うかも知れない。
あまり重みのない指揮官ではあるが不要と言うわけでもない。

「責任なんか持つかよ、知らぬ存ぜぬで通したいから聞きたくなかったんだ。方針だって決まっちゃいない……NERVは国連直属機関だが管理委員会には日本も入ってる、より介入するのかそれとも他の委員国に委任しちまうのか……派閥も絡んで国内の統一見解すら出せやしない、因縁付けるだけの余裕もないんだろうな」
「でもうちの部隊に何か言ってくることもないでしょう?」
「さぁな……結局NERVってのは国連にとってもこの国にとってもジョーカーなんだよ。切り損なって持ってた奴やそれを押しつけられた奴が負けるんだ。だけどな……ジョーカーが勝手に動き出したときどーすんのか、それを聞きたかったんだがあいつら考えたくないらしい……後ろじゃ防衛局の第七課辺りを動かせてるんだろうがな」

まだ三十代半ばの顔に皮肉以外の何者でもない笑みが浮かぶ。
あぐらを掻いていた両足をダッシュボードに乗せ中途半端な長さに伸びた髪をかき上げ、半分ほど落ちた瞼の向こうに広がる田園風景を眺めた。
秋には所狭しと頭を垂れた稲穂も姿を消し、殺風景な眺めが無秩序に広がり遠くに見える木々も葉を全て落とし、朱に染まった空に黒の格子模様を描く。
農家が数件その景色の中に見え隠れし、窓から白い明かりが零れ始めていた。
さっきまで居た松本は高層ビルの建ち並ぶ近代都市だったが一時間も走ればこんな景色がまだまだ広がっている。
そして高速を降り脇道に逸れればあの当時の傷跡が未だ刻まれている場所が苦労せず見つかるだろう。

人類の敵を討つ、たったそれだけの単純なことに思惑が絡み、それが見え隠れする度に香山は単純ならざる思いがする。
この国のどこかに、あるいはこの世のどこかに筋書きでも転がっているのではないか。
それを片手に好き勝手な役を演じているような……
人類の脅威は決して使徒と言う部外者だけがもたらしているわけではない、それは香山には見えないが感じることの出来る壁のように確かに存在していた。

……さーて、誰がババを引くのかな、それとも関わった連中みんなで引くつもりか……

香山は自嘲とも取れる表情を揺れる車内のミラーに映しだした。
その様子は運転席でハンドルを握っている山科二尉も目にしたが、口にして彼女は何も言わなかった。
だが秒単位で彼の顔に陰りが生じるのを見ると、そのただならぬ様子に思わず声を掛けた。

「……何かあったんですか?」
「……酔った……吐きそうだ……次のサービスで止めてくれ……」










テーブルの上に広がったおかずの数々は匂いと姿で三人の中学生を誘惑したが、彼らの反応は著しく鈍かった。
席順こそいつもと同じだがその表情はいつもより強ばっているように思える。
勿論おかずには問題はなく、それらを食すべき彼らに問題があった。

「誰も食べないの?何か食べてきたの?」
「そういう訳じゃないよ……頂きます……」

それを合図に三組六本の箸がテーブルに伸びるが、何処か勢いがなく互いに様子を見ながらと言った感じだ。
いつもなら一瞬で空になる唐揚げの乗った大皿も今日はその減りが極めて遅く、何処か遠慮してるようだった。

シンジ、アスカ、レイの三人が顔を揃えての食事は実に四日ぶり、と言うよりアスカが二人の前に姿を見せたのは四日ぶりだった。
風邪という単語はまるで鋼鉄の壁のように碇家の人々の前に立ちはだかり、彼女はその奥に引きこもったまま出てこなかったのだ。
幾分乱れた髪以外は特に変わりがなく、風邪はすっかり引いたようだ。
違うと言えば秀麗な顔が妙に強ばり、全身に緊張感が漂っているところか。
無言のまま進む夕食はかつての碇家では見られないほど重苦しく、陰気な雰囲気に浸食されていた。
TVが付いていなければ人の声の聞こえない夕食となっただろう。
黙々と半ば義務的に済まそうとする食事は三人の舌に砂のように感じられたことだろう。

互いに意識して目を逸らすがその分視力以外の感覚は極限まで高められ、相手の挙動を敏感に探知する。
そして同じ皿に箸が共に伸びると慌てて引っ込めて、別の皿のおかずを食べる、そんな有様だ。
アスカはそんなシンジとレイに言いようのない苛立ちを、シンジは何一つ話そうとしないアスカに怒鳴りたくなるようなもどかしさを感じていた。
そしてレイはそんな雰囲気を感じ取りながらもどうすることもできない自分を冷静に見つめながらもやり場のない感情を押し殺していた。

「……父さんはまだ帰って来ないの?」

一番最初に沈黙から逃れようとしたのはシンジだった。
父親の帰りが遅いことは百も承知だが他に話題がない、普段なら休んだアスカに学校でのことを話すだろうが、それを出来るぐらいなら苦労はしない。

「そろそろ帰ってくると思うけど……何か用でもあるの?」

母親の問いにシンジは答えようとはしなかった。
用があって聞いたわけではない、押しつぶされそうな沈黙から逃れたかっただけなので会話など成立するはずもなく、ユイもまた深追いせず口を閉じた。
グリスをかき混ぜるような時間がテーブルの上をべと付きながら過ぎていく。

アスカはなんとか自分の茶碗に盛られたご飯を食べ終えると席を立った。
一体何を食べたのか解らないほど味を感じられない夕飯、その原因を誰に求めればいいのか。
何も教えてくれなかったシンジを責めればいいのか、それともユイやゲンドウか。
自分の知らないことを知っていたレイを責めればいいのか。
恐らく何を言われても納得できないだろう自分を責めればいいのか。

「ごちそうさま……」
「もう良いの?おかわりならあるけど」
「もういいわ……早めに寝たいから……ごちそうさま」

寝間着の上にはんてんを羽織り逃げ出すように、かつては居心地の良かったリビングから立ち去った。








三回、シンジは自分の部屋のドアを十分おきに開け閉めした。
距離にすれば二、三メートル先向かいにある部屋に用があるのだが、廊下が黄河の幅ほどあるように思えてならない。
それと同様なのか、隣りの部屋の住人も時折蒼銀の頭を覗かせていた。
四度目にシンジが顔を出したときはレイと視線があった。
別に言葉を交わしはしなかったが互いに考えていることは同じだったらしく、二人は共にアスカの部屋の前に立った。
そして一度、二度、三度とノックしたドアは、何の返事も返さず沈黙したままだ。

「……アスカ、起きてる?起きてるんならちょっと入っても良いかな」

声にしての返答はないが、起きているらしくガサゴソと動く音が聞こえた。

「入っても良いかな……」

今までそんな台詞を言ったことはない。
ノックすら滅多にせずそれでも大抵は文句を言われずにいた。
少なくとも今まではそういう間柄だと思っていた。

「アスカ……話したいことがあるの…………お願い」

レイは今まで誰かに何かを頼んだ事はない。
彼女から「話したい」などと言ったのも初めてで、それでも事は済んでいた。
少なくとも今まではそういう立場だと思っていた。

ドアに足音が近づく。
二人の鼓動が共に早くなり、知らず知らずのうちに手のひらに汗が滲む。

「……何の用なの」

ドアは開かなかったが声だけは厚さ五センチのドアを通り抜け聞こえてきた。
冷ややかだが何処か不安定な揺れを感じさせる声だ。

「母さんからも……話を聞いたんだろ?その事で……」
「そうよ、聞いたわ……もう充分よ。あの時は何言ってるのか良く解らなかったけど……」

シンジから話を聞いたときは、熱と混乱で殆ど理解しておらず、時間が経ってそれらを思い出すことによって、ようやく何を告げられたか理解できたのだ。
ユイから話を聞いたことで絵空事ではないと思い知らされたのだ。

「ちゃんと話すから……此処を開けてよ」
「今更何よ!聞いたことだけで全部なんでしょ!今まで何も言わないで……嘘しか言わなかった癖に今更……今更何を言うつもりよ!!」

何を?
一体何を言えばいいのだろう……一体何を言うつもりでノックしたのだろう。
アスカに問われたから全て話した、それで十分じゃないか、それ以上教えることはないしシンジ自身それ以上知りもしない。
だとしたら何を言うつもりだったのか、アスカに問われ自問自答する有様だ。

「だってしょうがないじゃないだろ。エヴァのことは極秘事項だったしあの時は僕だって何が何だかよく解らなかったんだから」
「そんなんだったら今更ウダウダ言わないでよ!もう良いわよ、あたしには何の関係もないし知る必要だってないんでしょ!」

現実的にはそうだ。
アスカには何ら関係のない話だし、彼女が自覚しているように知ったところで何の役にも立たない。
ましてやシンジやレイ、ユイやゲンドウが彼女に報告しなければならない義務はないのだ。
それらは十分解っていたが、だが聞かずにはいられなかった。
納得など出来ないことは解っていても、今までの時間が淡い夢のように消えたとしても確認せずにはいられなかった。

「だからちゃんと話すって言ってるじゃないか!」
「もうちゃんと聞いたわよ!いいわよ、あんた達二人はなんとかって言う奴のパイロットで……でもそんなことあたしとは関係ないんだから!どうせあたしは役に立たないモン!!」

アスカが座り込んだフローリングの床は、堅く冷たく座り心地が悪い、だが立ち上がるだけの気力は湧いてこなかった。
シンジとレイ、二人の前に閉じた扉は鍵もなければ重い物でもない。
だが取っ手もなく、どうやって開ければいいのか……閉じたアスカ自身まるで見当が付かなかった。

「あたしもう寝るから……もう何にも聞きたくない」

二人の前に閉じた扉は色もなく透明な……それだけに開けようのない扉だった。










月がねぐらに潜り込んでもその日太陽は顔を出さなかった。
替わりに限りなく黒に近い雲が空を占領し、気分的な重苦しさで第三新東京市を覆っていた。
第三新東京市地下ジオフロント専用ゲートで一人の職員は、空を見上げ何時雪が降り出すのかと気にしながらコートの襟を立てた。
吐き出す息は昨日より白く、恐らくは昼を待たずして雪が降り出すだろう。
日一日と寒さは増していく。
コート姿の職員が増えてきたメインゲートにIDカードを差込み、暖房の効いている施設内へと入っていった。

「碇、不手際が目立つようだな。使徒とパイロットの接触、これは予定外ではないか?」
「使徒と人間の接触は非常に危険だ……それが解らん訳でもあるまい。我らの手を放れ動くのでは本計画の根底が揺るぎかねん」

暗闇の中には五体の人物が浮かび上がっていた。
彼らの一点に集中した視線は、非難の色合いが濃い。
だがそれらを全く無視するように、視線の中心にいる男は組んだ腕を解くことなく眼鏡の奥に潜んだ眼球を正面にいる男に向けた。

「……使徒は殲滅、パイロットとの接触は確認されておりません。処理は通常通り、問題はありません……」
「誤魔化すな!幾ら隠蔽しようと隠し通すことはできんぞ、碇!……何なら此処で我らの手にある物を見せても良いぞ」

ゲンドウの視界の外にある男は表情に険しさを増したが、それを向けたい相手には伝わっていないらしく、顔の向きすら変えていない。

「渡した情報が全てです。使徒は殲滅し初号機にも異常は見られません……必要ならMAGIへの査察をなさって結構です……」

例え何を言われようと動揺の欠片すら見せず、突き放すが如く整然と言い放つ。
ゲンドウを取り囲む男達の視線は彼の掛けている眼鏡にすら届かないようでもあった。
長いテーブルを挟んで右側に二人、左側に二人、そして両端をゲンドウともう一人の人物が席を占めていた。
スリットバイザーが顔の半分を隠し、その表情を伺い知ることは出来ないがそれでもゲンドウを除く他の者達は顔色を窺うように視線を向ける。

「……査察は無用だ、既に事は起きた以上対応のほうを優先する。我ら補完委員会は従来通り国連軍を押さえるのだ、予算は特別枠を組み対応しよう」

闇の中で下された決断は顔色を窺っていた者達には不満だったようだ。
拳で机を叩くような仕草を見せたが、この部屋の机は静寂を保ったまま僅かも揺るがなかった。
彼らは姿はあれどこの部屋にある塵一つ触れることは出来ない。

「司令の交代を考慮すべきだ!これ以上計画の遂行を危機に落とすような真似は致命傷になる!!貴様はそういう事態を避けるよう予め情報を与えられているのではないのか!?キール議長、考慮願いたい」
「そうだな、貴様の役目は使徒の殲滅と方舟への影響を押さえることだ。今回の一件は要である箱船への影響を無視し得ぬだろう……」

一同の顔が一斉に彼らの任命した国連直属特務機関NERV司令に向く。
そこには明らかに処分を望む顔があったが、それを実行するには彼ら四人が同意しただけでは不可能らしい。
苦々しそうな補完委員を冷ややかに眺めていた冬月は、この会議において初めて発言した。
碇の傍らに立ち常に無言を通してきた彼だったが、今回は例外らしい。

「では碇の後を誰に任せるかね?キール議長を含め此処にいる五人の中で一体誰がNERV司令になるのか……それとも外部から入れるかね?補完計画そのものを設立した碇を逐うのは構わん、だがそれを引き継げる者は何処にいる?」

普段は紳士然とした趣の冬月だが、今はさながら詐欺師か恐喝者に見える薄ら笑いを浮かべていた。

「補完計画の真意を理解でき、尚かつエヴァを管理し続ける……NERVの目的が方舟の保守にある事を理解し実行できる者がいるのか?一度組織を作り直すという余裕があるなら好きにしたらいい」

冬月の恫喝とも取れる発言は、無視し得ない事実の側面を持って補完委員の面々に染み込んでいく。
染み込むほどに彼らの苦渋は増し、冬月の言葉が事実と言う重みで彼らの神経を押しつぶしていった。
無言は秒単位に顔色を明確にしていった。

「……現状での人事は各方面から介入される恐れがある以上見送るべきだな、どのみち我ら以外の関われることではない。委員会として現状通りの維持を指示する……各員ご苦労だった」

スリットバイザーが微かに何かの明かりを反射し、銀色に光る。
周囲の不満顔は少しずつ消えていったが、納得したのではなく彼らの姿を遙か第三新東京市に映し出していた装置が、それぞれ役目を終えようとしただけだった。

人の姿は三人だけとなったが、入り交じる思念の密度は先程より増したかも知れない。

「……碇、計画は進んでいるのか?此処まで進めての修正は危険だぞ……エヴァにしろ方舟にしろ我々の管理下を離れれば人類は終わりだ」
「承知しております……現在まで異常は確認されておりません」
「宜しい、あの程度の連中でもいたずらに怯えさせれば何をやるか知れん、十分注意することだな」

実体を持たない最後の一人が消え、ただ二人の影が床に染みを作っている。

「人類は終わり、か……ずいぶん思い上がったものだ。それが同じ過ちを繰り返すことになるだろうな……懲りもせずに」
「……だから俺達がいる、その為にエヴァを使う……」

呟くような言葉が互いにこぼれ落ちたが、会話をしたのかどうかは定かではない。
単に秘めている一部分が隙間から流れ出しただけのことだったのか。
ゲンドウにしろ冬月にしろその内面にはまだ見せぬ思惑が渦巻いているのだった。

「まずは欠片の始末からか……迂遠なことだな」










窓ガラス越しに校庭を眺めていたシンジの視界は、登校時とはうって替わり白一色に染まっていた。
出来てから十五年しか立っていない真新しい都市に舞い降りる大粒の雪は、二時間前に降り始め今では市内全域に降雪注意報が出ている。
この時期は毎年のことなので特に気にする様子もなく、教室内の生徒もそれとなく外を眺めたきりで話題にもならなかった。
だが校舎側面に設置された非常階段の踊り場に、降り積もっていく雪を眩しそうに眺める少女の姿があった。
高台に建つ第一中学からは遮蔽物がなく、第三新東京市中心地の高層ビル群が眺められる。
雪景色の中で霞む近代都市はこの非常階段の踊り場からもよく見えた。

今すぐ階段を駆け下り校庭に駆け出したい、その前にシンジとレイを引っ張って。
そんな思いだけが空しく非常階段から転げ落ちる。
本当なら思う必要などなく、一瞬の思考だけで即行動に移れたはずだ。

白い頬に降りすぐに消え去った一片の雪に気付くことなく、遙か遠くで踊る雪を眺め続ける。
何かを考えているでもなく、何かを考えようとしても頭の中に白い靄が降り積もり、形を持たなかった。
教室の中に居場所がない、だからこの場所に来たのだ。
シンジの隣の席と言う場所が居心地悪くなった途端、彼女の居場所はあの教室の中にはなかった。

溜息にも似た吐息が淡い色の唇から雪のように白く流れ、それが消え去るとすぐ背後からか細い声がアスカの聴覚を刺激した。
注意深く聞けばその声がどこか躊躇いがちな事に気付いたかもしれない。

「……アスカ、また風邪引いちゃうよ……教室に戻らない?」
「戻りたくない……それに風邪引いたって大丈夫だモン……」

四日ぶりに顔を合わせた友人はヒカリの目に色褪せて映っていた。
白い雪が降っているにもかかわらず現実感のない灰色にしか見えない今の景色のように、アスカ自身でありながら彼女に見えない。
中身をどこかに置き忘れた、そんな印象だった。

「教室に居づらいなら……図書室行こうか?それとも視聴覚室に行って音楽聞かない?アスカに渡そうと思って持ってきたのがあるから……えっとね、昨日ダビングしたんだ、レンタルで借りてきた奴だけど」
「うん……アリガト……でももう少し此処に居る……」

気が付けば隙間から吹き込んだ雪がアスカの方にうっすらと居着いていた。
友人の心配が解らないわけではないが、身体が凍り付いたように動こうとはしてくれない。
駄々をこねているだけなのかも知れない、ヒカリはふとやるせない思いに駆られたがそれを口にするのは躊躇われ、だが何も聞かないのはもっと躊躇われた。

「……休んでるとき……何かあったの?別に深く聞くつもりはないんだけど……だってアスカも碇君も様子変なんだもの!」

躊躇ったことの代償にヒカリの語尾が強まった。
それは決して大きくもなければ厳しくもない口調だが、アスカの顔を強ばらせるには十分なようだ。

「ごめん……でもやっぱり変よ、二人とも……」

自分の関われる範囲を手探りしながらヒカリは再度問いただす。
暫しの沈黙の後、アスカの振った髪から銀色の粒子が飛び散り、それに混じってヒカリへの返答も零れた。

「……ヒカリ……シンジのことどう思ってる?」
「な、何よ唐突に……どうって……別に普通だと思ってるけど……特別な感情なんてないわよ!?普通の同級生よ??どうしたのよ」
「そういう意味じゃなくって……ヒカリから見てどうなのかなと思って……どっか変わったように見える?」
「うん、ここんとこずっと変だったよ……アスカが休んでからずっと気抜けした感じで……」

正確な、だが少し的を外した答えにアスカは苦笑せざる終えない。
皮肉な物で、もしヒカリがシンジが何かを隠していたことに気付いていたのなら、アスカとしては立つ瀬が無さ過ぎる。
十年一緒に暮らしているのに、二十四時間同じ場所にいたのに、その隠し事の存在に気付きもしなかったのだ

「あたしね……何も知らなかったんだなと思ってさ……シンジのこともレイのことも……」
「え?それって……碇君と綾波さんが……って事?」

恐らくは年頃らしい解釈の仕方だろうか。
確かに得体の知れない組織の存在自体、この第三新東京市、あるいはこの国のどれだけがその存在を知っているのだろう。
エヴァとか言うロボットの事を知っているのはどれくらいだろう。
そのパイロットのことなど知っている人間は片手で足りる程度に違いなく、第一中学校の生徒などが知りうるはずもない。
知らない大勢のほうが当たり前なのだ、そして自分もその大勢の中に含まれていた。

なんとかという組織にとって、自分がその他大勢に含まれるのは一向に構わない。

……あたしって特別じゃなかったんだ……

降り止まぬ雪がアスカの握っている手摺りにも積もり始め、それと共に休み時間も終わりに近づいた。
眺めのいいこの場所、時と共に背がもっと高くなればこの場からもっと色んな景色が見えると思っていた。
それは正しかっただろう、一年も立たない内に確かに違う景色は見えたのだ。
今まで知らなかったことが昔と変わらない蒼い瞳に確かに見えた。

身長は殆ど伸びてはいなかったが。








「はい、わざわざ済みません……ご迷惑おかけします、はい……では御免下さい」

碇ユイは受話器を置くと小さく溜息をついた。
今夜アスカは帰宅しないらしい、との電話だった。
いっそ警察からの電話だったらもう少し割り切れ、彼女ともう少し話す機会を得られたかも知れない。
言うまでもなくアスカはこの家を避けた、気付きたくなくとも解ってしまう。
それはすぐ後ろのいるシンジにも解っていた。

「洞木さんのところだろ?泊まってくるの?」
「そう言ってたわ、今夜は泊まるって……」

シンジは小さく溜息をついた。
別に何か言うべき言葉も見あたらない、そして彼女が帰ってきたとき何を言えばいいのか、それすらも見つからない。
様々な思いだけが縦横無尽に駆け巡り、だが何一つ実のあることは思い浮かばなかった。
結局自分にはどうしようもない、諦めに近い気分だけが母と息子を支配し始めていた。

ユイは玄関に向かい鍵を確認する、電話があるまで掛けなかった鍵だ。
一度扉を開けると本格的につもり始めた雪が、ユイの目の前に広がっていた。

「……寒くなる訳か……帰ってくればいいのに……」
つい誰にともなく零した呟きは、降りしきる雪に埋まっていく。
道路も庭も全てが埋まり見えなくなる。
だがユイが今まで埋めてきた物は雪解けの前に顔を出してしまった。

……それでもまだ全部じゃない……あたしは全て話すことがあるのかしら……

呟きにすらなれない思いは全て飲み込んだ。

「母さん……アスカは何で家に来たの?」

いつの間にか側にいた息子の躊躇いがちな質問は、彼が十年以上しまい込んだ疑問だった。
それに対する答えは十年経った今でもユイの中にはない……言えるだけの決心がまだ付かない。
幾度も繰り返したシミュレーション、果たして息子は自分を責めるだろうか……

「そんな格好で風邪引くわよ、明日休みだろうけどもう寝なさい……」







「アスカ、窓締めたほうがいいわよ……病み上がりなんだしぶり返しちゃうよ」
「あ、ゴメン寒かった?今閉めるから……」

窓の外に降りしきる雪を幾ら眺めても、アスカの頭の中は靄が掛かったままで去年のように心沸き立つこともなかった。
いつも見る窓じゃないからか余計にそう感じるのか。
アルミサッシを閉めると暖房の効いた空気が彼女を包む。
机に本棚、タンスにベットと大体自分の部屋と同じ構成だが、TVがこの部屋にはあった。
さっきからヒカリは深夜の歌番組を見ていた。

「……ゴメンね、泊めて貰って……夕飯までごちそうになっちゃったし」
「そんなことはどうも良いけど……帰りづらくなっちゃわない?」

心配する口調に曖昧な笑みで返答するとヒカリの隣にあるクッションに座り込んだ。
今日初めてではなくヒカリ宅には幾度も泊まったが、それはこんな心苦しさをもたらす物ではない。
普段より遙かに遠慮がちな友人の態度、だがヒカリはその理由を問いたださなかった。
もし聞けば今より遙かにアスカは此処に居づらくなるだろうし、野次馬根性丸出しみたいでヒカリ自身抵抗があった。

「あたしこのグループ好きなんだ、最近ドラマの主題歌もやってるみたい」
「そうなんだ……あたし良く知らないから……」

自分の部屋にTVがないアスカは意外とドラマやバラエティー番組の情報に疎い。
気に入った番組があれば熱心に見るが、それ以外はシンジ達と話し込んだり雑誌を読んだりと殆ど見ていない。
それでも十分楽しかった。
リビングにいればそれだけで楽しく、部屋にTVを持ち込む必要もなかった。

……帰っても居場所あるのかな……

シンジやレイと顔を合わせたくない、ユイやゲンドウと顔を合わせたくない、だからヒカリの部屋に逃げ込んだ。
永遠にそうしていられるわけがないのは解っているが、どうしても足が家に向かなかった。
電話すら出来なかった。
葛城先生の呼び出しも無視して逃げるように学校から立ち去った。

膝を抱え蹲るようにクッションに座り込んだまま、何処か虚ろな目が宙を彷徨う。
TVでタレントの声だけが空しい明るさでヒカリの部屋に響きわたっている。
やがてそれすらも小さなボタン一つで消えると、雪の降る音が聞こえそうな静寂が染み込んできた。

「アスカ、もう寝ようか?明日駅前まで遊びに行かない?この間の騒ぎで行けないところ多いけど三番通りは無事だからきっとお店開いてると思うし」

一瞬アスカの身が堅くなる。
中心部の一部が立ち入り禁止になった理由はシンジが語った。
それは本来なら自分が知り得ない事実の一部だ、そして自分が家に帰れなくなった理由でもある。
肩に柔らかい手のひらが静かに乗せられるとアスカの強ばりは消えた。

「そうね、もう寝よう……」

広めのベットは二人の少女が入り込んでも窮屈さを感じさせない。
いつも使っているのと同じくらい軽く柔らかい布団に包み込まれ、アスカは目は閉じながらも静かに話しかけた。

「ヒカリって姉妹いるんだよね?」
「うん、夕食の時向かいに座っていたのが妹のノゾミよ。お姉ちゃんは大学の友達と飲みに行ってるんだって」
「ふーん、いいなぁ……姉妹って……」
「そうでもないよ、ケンカするし……それにアスカと碇君だって姉弟みたいなモンじゃない?どう見ても碇君が弟に見えるけど」

アスカの唇に初めて柔らかい微笑みが浮かんだ。
幼いときから共に暮らして十年、そうかも知れない、互いに何もかも知っている姉弟みたいなモノだろうか。
共に同じ場所にいて同じモノを見て同じ事を聞いて同じ感じ方を出来る、それが当たり前だと思っていたのは確かだ。
何時までも同じ世界の中でいられる、そう思っていた。
今はどうしたらいいのか、どう思えばいいのか、全く解らなくなった。
シンジは何なのか、ユイは、ゲンドウは、そしてレイは一体何なのか……今まで良く知っている人たちがアスカの中で全くの別人になってしまった。
言いようのない孤独感が胸の奥に零したインクの如く広がっていく。

「ヒカリ……やっぱり姉弟じゃないのよ……シンジは違う事が見えるんだモン……」

すぐ隣で栗色の長い髪の女の子は背を向け、肩を小さく揺らした。
必死に我慢して声を殺し、恐らくは今までも色んな事を声を殺して我慢していたのかも知れない。
中学に入ってからのさして長い付き合いでもないが、普段の生活に何一つ不平不満を言わなかった少女。
生まれてから家族に囲まれ暮らしている自分には解らない沢山のことを飲み込んで来たのだろう。

小さく揺れ続ける肩が、ヒカリにはそう訴えているように思えた。

「ねえ……あたしアスカが何悩んでるのか解らないけど……どうしたらいいのか解るまでここにいなよ……あたしじゃ何にもして上げられないけど……」

声を立てずに泣き出したアスカの耳に、雪の降る音に混じって友人の優しげな声が染みわたっていった。

続く


Next

ver.-1.00 2000/01/24公開

何かありましたらこちら!!お気軽にどうぞ


えーーーーーーーーーっとーーーーーー 穴にこもっている間に気が付いたら年が明けていました。
今更何なんですが開けましておめでとう御座います。
色々多忙なお陰で私生活はメチャ喰らってますです……ま、いろいろと。

てな訳でとりあえずご連絡ですが気が付いたら自分のHPのアドレスが変わってました。

新しい場所はここ

になります。

もっとちゃんと管理すりゃいいんですが、まぁ、向き不向きがあるモンで(--)
リンクをなさっている方、気が向かれました際にでも直していただければ幸いです。
ご覧になって下さった方々「このバカ、ページを閉じちゃったんかいな」と言うわけでもないので今後とも宜しくお付き合いの程お願いします。
ついでで何なんですが短編でも一本上げておこうかと……そのうちですが……

さてさて何とか25話書きましたけど前後編にするつもりです……と言うかなります。
そんでもってそろそろ後半戦に突入しようかと、ンでもってカタを付けてしまおうと。
ではそういうことで宜しければお付き合いください。



 ディオネアさんの『26からのストーリー』第二十五話前編、公開です。








 危ねーっ

 危ねぇッス。


 ギリギリって感じ・・・
 もう一歩ですべてがガラガラと−−

 いやいや
 もう、ガラガラってる?かも・・

 いーや、
 まだ、手前。と信じたいッス〜



 シンジも
 レイも

 ユイさんさえ−−


 どうにかできんのか(;;)
 どうにかして下さい〜


 ゲンドウさん、なんか、なんかして〜



 そう簡単に
 そう上手くはいかんとわかっていても・・・




 信じているっす。





 さあ、訪問者の皆さん。
 連載開始からもうすぐ3年のディオネアさんに感想メールを送りましょう!






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