朝日が巨大なビル群の隙間に入り込んだ夜の残りを洗い流していく。
そしてカラス達は街のゴミ集積所をいち早く占領すると、いつものように朝食をついばみ始める。
脇を通り抜ける新聞配達に臆することもなくゴミ袋を漁り続けていた。
黒衣を纏った彼らが目覚めてから二時間後、人間達の営む商店がボチボチと開き始め第三新東京市が目を覚まし始める。
晴れ上がった空は昨日と同じ色をしていた。
26からのストーリー
第二十三話:残光
「もうこの子は落ち着かないんだから・・・・怪我するからあっち行ってなさい」
まだ若さが色濃く残る穏和な顔の女性は、自分の足下にまとわりつく男の子の手を掴むと、台所からリビングへと向かっていった。
朝起きて朝食を済ませてから五回同じ事をしているのだ。
お陰で後かたづけが捗らないことおびただしい。
何処か浮かれたようにさっきからはしゃぎまくっている様子に思わず苦笑した。
その子の大きな黒真珠のような目には好奇心が光沢を放っていた。
「何かいいことあるのかしら?でもしばらく向こうで大人しくしててね」
ポンと背中を叩きその子を追いやるが果たしてどれほど効果があるか。
どうせ後二、三分もソファで遊んだらまたやってくるに違いなかった。
仕方ない、そんな笑みを浮かべお盆に乗せた大小の茶碗四人分とおかずを載せたお皿を流しに運ぶ。
予想通り暫くソファで跳ねて遊んでいた男の子は何か手伝おうと思い立ったのだろう、調味料の小瓶を手に走り出した。
小さな手に握られた小瓶、いや、比率から言えば小瓶とは言えないかも知れない、それを両手で大事そうに醤油差しを運ぶがこの子の母親から見れば危なっかしい足取りだ。
「シンジいいわよ、そっちで遊んでなさい」
さらに仕事が増えそうな気がするのだが、息子に聞き入れた様子はなく真剣な顔つきで棚にしまう。
一生懸命背伸びをしているのだが視線より高い位置にある戸棚に上手くしまい込めないでいる。
ほんの少しジャンプしてやっとトレーの中にしまい込み、見つめていた母親を安心させた。
「はい有り難う、じゃあ向こう行って・・・・そうね、お父さんのところにでも行ってなさい」
自慢げな笑みを浮かべ母親の意とは逆に、再びまだソースだの塩だのが残っているテーブルに向かった。
ヤレヤレと言った表情で追い払うのを諦めると流しに向かい洗い物を始めた。
もし息子が何かこぼしたり割ったりしたらその時片づければいい。
台所で水の流れる音がし始めた頃、玄関の方から元気のいい声が聞こえる。
駆け寄ってくる小さな足音も軽快だ。
「おばさま、洗剤買ってきたの!これでいい?」
*
碇シンジは一つ一つテーブルの物を運ぶ。
いっぺんに全部持てるほど大きな手ではないし、一つ一つ運ぶ非効率さも苦にならないらしい。
何よりも持っていった回数分だけ母親から「ご苦労様」と言われるのだ。
上機嫌のシンジだったが彼の耳に小さな足音が聞こえると不意にその表情が強ばった。
「何で一個一個運んでるの?まとめて運べばいいじゃない」
まるで今朝の空のように青い瞳を日に透かせたビー玉のように輝かせ、息を切らせている少女。
白い肌に上気し朱に染まった頬が映える。
長い髪を静かに揺らしじっと自分を見つめていた。
「お盆使えばいいのに」
女の子はそう言い放つと大きなお盆を手にシンジの隣に来ると、残っていた調味料や箸置きなど小さな物を全部お盆に乗せ持っていってしまった。
シンジはすっかり片づいたテーブルの上をじっと見つめていたが、何も言わずその場を離れた。
もう彼に伝うことも手伝えることもない。
シンジの「楽園の時間」は栗色の髪の女の子が全て持ち去ってしまった。
一つ一つ運び、一つ一つに母親から声を掛けて貰えたはずだったのに。
つまらなさそうにソファへ座ると少しの間TVに目を向ける。
日曜時事放談なる番組なので幾らシンジが見つめても理解など出来るはずもなく、かといってチャンネルは父親の手元にあるので変えられない。
膝を抱え大人しくしているだけだ。
そんなシンジの耳に台所から楽しげな声が流れ込んでくる。
本来ならあの場所に立つのは自分だったはずだ、台所で母親の横に立てるのは自分だけだったはずだ。
一冊と半分ほどのカレンダーを捨て去る前に訪れた青い瞳の女の子は、今まで自分がいた場所にどんどん割り込んで来た。
自分だけと思っていた場所がいつの間にか乗っ取られたようで気に入らない。
だからあの女の子とは殆ど口を利いていなかった。
「アスカちゃん、それしまってくれる?二番目の引き出しに」
「うん、今しまっちゃうね。それよりその洗剤よく落ちるでしょ?お店の人に聞いてね、一番良いの買ってきたの」
シンジの嫌いな女の子は自分の母親と楽しそうに話す。
自分もその中に入ればいいのだがあの女の子とは口を利きたくなかった。
買ったばかりのタヌキを模した置き時計の針が九時半を指す頃、台所から聞こえていた水道の音が消えた。
手を拭きながらユイとアスカがシンジの視界に映ると彼はすぐに顔をそらせる。
自分用の小さなエプロンを誇らしげに付けたアスカはちらっとシンジを見た後すぐにユイに向き直った。
この男の子は何を話しかけても一、二言の返事を返すだけで満足に話をしてくれないのだ。
何も自分から気を使って話をしてやることもないし、話さなくても困ることはない。
プイッと横を向き男の子の正面に座っている髭を生やした「おじさん」の隣に腰を下ろす。
「おじさま、お茶飲みたい?飲むならあたし煎れてあげる!」
返事など待たない。
すぐに立って湯飲みと急須を手に戻ってくるとポットのお湯を注ぐ。
「・・・・ああ、すまない」
「いっぱい飲んで!おかわりならすぐに言ってね」
世話焼き、と言うのでもないのだろう。
まるで自分の出来ることを誇示するような手伝い方、あるいは役に立とうとする態度なのだ。
実際万事に付けアスカは同じ家に住む男の子より遙かに能力が勝っている。
身長だって同じ歳の彼より高いし体力だって勝った。
何より物事への理解力が同じ歳の誰よりも優れていた。
つい最近通い始めた幼稚園でもその点が強調され連絡帳に書かれてくるのだ。
家の中で家事手伝いをさせても要領よくこなし、また端で見ていても何か失敗するような不安さを感じさせない。
ユイも殊更アスカに用事を言いつける訳でないのだが、彼女の方から手伝いを申し出て、それを完璧にこなすのだ。
シンジのみならず同じ歳の子供と比較してもその優秀さが際だっていた。
それ故かユイもアスカを誉めることが多く、それと共にシンジの女の子に対する不満も多く積み重なっていた。
目の前に並んだ人数分の湯飲みへお茶を注ぐ。
「ね、おばさま、今日何するの?どっか出かけるの?」
晴れた日の休日、いつもは忙しい「おじさま」も珍しく家にいるのだ、何処か出かけないと罰が当たりそうだ。
買い物に出たアスカが来るまで上機嫌だったシンジもほんの少し母親に目を向けた。
「うーん、今日は部屋掃除しないとだから出かけられないのよ。また今度の日曜にでもお出かけしましょう」
「えー・・・・うん、解った。じゃあ来週の日曜日ね」
それが優秀かどうかは解らないが聞き分けは至極良かった。
今まで我が儘など言ったことがない、何も欲しがらず何か言われればそれをしっかりと守る。
言ってみれば高レベルな「良い子」だった。
だからユイの忙しさも理解し邪魔にならないようにする。
「今日は何処行こうかなぁ・・・・・」
青い瞳が向かいに座っている男の子を見据えたがすぐに視界から外した。
一緒に遊ぶ相手にはならないのだ。
多分自分がどんなに誘っても見向きもしないだろう事はこの一年でよく解っている。
・・・・この子はあたしのこと嫌いなのね・・・・・
それは自分がどんなに頑張っても解決されない問題なのだろう。
この家に自分が来たこと自体気にくわないと思っているのかも知れない。
最初は好かれようと思いもしたが、それは今までの結果から察すると無意味に終わっているらしい。
理解力のあるアスカはそれ以上無駄な労力を使おうとはせず、気にしないようにしていた。
今日だって一緒に遊ぼうと誘うつもりはない。
「おばさま、じゃあお掃除手伝う!あたし何すればいいの?」
「良いわよ、遊びに行ってきて・・・・後でお小遣いあげるからシンジと一緒に遊びに行ってらっしゃい」
「えぇ、だっておばさま一人じゃ大変じゃない。あたしも手伝う」
自分なら何でも手伝える、自他共に認める能力がアスカを食い下がらせたが、ユイは笑みを浮かべたまま再度遊びに行くよう促した。
邪魔になるとは思わないがまだ幼い、手伝うと言ってもたかが知れている。
いっそのこと遊びに行って貰ったほうが気が楽なのだ。
「そうねぇ・・・・あ、あなた。今日大学に出かけるって言ってなかったかしら?あそこ今日お祭りでしょ、ちょうど良いからこの子達お願いね」
手伝うと言い張るアスカはともかく、ソファで泣きそうな顔で蹲っているシンジを見るとどこかに連れていってやらないと可哀想だった。
そんなユイに思いついたのは新聞で顔を隠している我が夫だ。
「俺は忙しい、面倒は見られない」
「良かったわね、大学に連れていってくれるって。今日お祭りだからきっと楽しいわよ」
「おい・・・・俺は遊びに行くんじゃ・・・・」
「あなた、帰ってくるついでにこの子達と一緒に焼き肉の材料買ってきて。ついでにお菓子も何か買ってきてね」
西暦2000年に起きたセカンドインパクト、その傷跡は2005年になった今でも各所で見られた。
日本の首都だった東京都が消滅したお陰で行政機関の大半は、かねてより移行計画の進められていた長野の松代へと移された。
だが首都機能が移転したと言ってもごく一部で、大半は大きく広がった東京湾の底に沈んでいる。
当然各地の行政は混乱を極め、交通、物流など様々な障害が未だ回復せずにいた。
そんな中最優先で復興を進められているのが第二東京市の首都機能充実と新たな都市、第三新東京市の建設だった。
予備の首都機能として設計されている筈なのだが、最も優先して建設が進められている。
お陰でたった五年と言う時間で巨大な都市を一つ出現させてしまった。
第二東京市とを結ぶリニアラインもその一つで、国連の援助もあって急ピッチに建設が進められ先月開通したばかりだ。
「シンジ、靴を脱げ」
時速三百キロを越す車窓を楽しそうに眺めている息子に父親が注意した。
何が面白いのか見当も付かないが盛んに足をバタつかせているので、父親のスラックスが泥で汚れ始めていた。
暫し夢中になっていたシンジだったが言われたとおり小さなスニーカーを脱ぐと再び窓に向き直る。
窓を向いていれば隣に座っている嫌いな女の子の顔を見なくて済むのだ。
ブラウンのワンピースを着ている栗色の髪の女の子だ。
幾らアスカが何でも出来るからと言って彼女を当てにする必要など無い、母親だって父親だっている。
一方アスカの方も自分を見ないようにしているシンジなどに話しかけず、髭を生やしたおじさまから貰ったパンフレットを見つめていた。
「松代祭」と言う大きな飾り文字が踊っているがアスカには読めなかった。
「ねえおじさま、どんなことやってるの?」
パンフレットに載っていた写真からお祭りであることは想像できるが、具体的に何をやるのか見当が付かない。
「・・・祭り、だな。まあ行けば解る。賑やかだ」
素っ気ない回答だったが青い瞳を輝かせている女の子が胸を躍らせるのに十分だ。
手にした缶ジュースを一口飲むと辺りを見回した。
振動一つしない車内は思ったより人が少なく何処か閑散としている。
真新しいだけあって綺麗だが、その反面窓から見る景色は無惨だ。
いくつかの街を通り過ぎたが何処も家が潰れ、瓦礫が溢れ返っている。
この新しい「電車」と走り抜けた街の差がこの女の子には何処か釈然としない物を感じさせた。
「・・・・何であんなに壊れてるの?」
「セカンド・・・・いや、巻き込まれていることを知ろうとしなかったから壊れた・・・・」
意味が分からないので憮然としたアスカを暫し眺め、ゲンドウは軽く首を振った。
「お前達が暮らすのは生まれたばかりの新しい街だ。消えた街を振り返る必要はない」
それにどういう意味があるのかアスカにはやはり解らないが、今日お祭りに行くことに代わりはない。
大きなシートに身を沈めると再びパンフレットに目を落とす。
出店もある、風船を売る店もある、焼きそばを売る店もある。
「後どれくらいで着くの?三十分?」
「ん・・・・・後四十分だ、大人しく待ちなさい」
ゲンドウは手にした新聞に目を落とし、アスカはパンフレットを見つめ、シンジは父親の言った消えた街をずっと見つめていた。
そんな彼らのいない碇家に一人の訪問者が訪れたのは、リニアラインが終点の第二東京駅に到着した五分後だった。
「・・・・・・何時日本へ?」
「ついさっき空港に、お久しぶりね。何年ぶりかしら?」
ユイがチャイムの呼びかけに応じて樫の木の扉を開けると見慣れない顔が立っていた。
深い紺色のスーツに身を包んだ女性、よく知っている顔であり思い出したくない顔だった。
「本当お久しぶりね・・・・またお逢いするとは思っていなかったけど」
「ふふっ・・・・ところで立ち話も何だからお茶でも飲みに行かない?出られるんでしょ?」
ショートカットの髪を掻き上げ紅い唇を歪ませ、微笑みながらも何処か冷たさを感じさせる視線が年下のユイを貫いた。
「旦那さんとお子さんは何処か出かけたのかしら?ご挨拶でも・・・・」
「・・・・外出中よ、今支度するから」
第三新東京市の中心地、駅前通りに面した喫茶店の奥に二人の女性の姿がある。
年の若そうなショートカットの女は険しい表情のまま手元の紅茶を口にし、向かいに座っている年上の女性は余裕のある笑みを浮かべコーヒーを啜った。
友好的な雰囲気のないテーブルの上を二種の視線が入り交じる。
「怖い顔ね・・・・・あなたに教えるのも何だけどシステムは殆ど構築できたわ。後は細かいデバックと最終的な組み上げだけよ」
「そう・・・・もう完成するのね」
「今日明日というわけには行かないけれど・・・・あなたのお陰でね」
恐らくはこの二人の間にだけ通じる事柄を通しての会話だろう。
ルージュの引かれた唇が歪む度にユイは苦痛の表情を浮かべた。
「ドイツの研究所で既に仮組まで済んでるわ。まだOS自体の詰めがこれからなんだけれど良かったら手伝わない?」
それは誘いではなく挑発に酷似した類の物であることがユイにはよく解っていた。
自分は目の前の女に憎まれている、あるいは嫌悪さえ感じさせているのだろう。
その理由も解っていたが、ユイ自身にも目の前の女を嫌う、あるいは憎悪する理由があった。
「今更赤木さんに何か言うつもりはないわ、もう時計は進んでしまったもの・・・・」
「随分な言いようね。時計を進めたのは私だけれどそのゼンマイを巻いたのは貴女でしょ?都合良く忘れたのかしら?」
「そうしたかったわ・・・・あの子がそうさせてくれる筈無いのに」
紅い唇から歪みが一瞬だけ消え、代わりに軽蔑するような眼差しがユイに向けられる。
「人格移植OS・・・・その基本を作ったのは貴女なのよ、自分のやったことを卑下する必要はないんじゃないかしら」
それは慰めなどではなく、ユイに無関係ではないことを認識させるための言葉だった。
彼女がそれを忘却の棚にしまい込みたがっていることを承知の上だ。
自らの臓物を引きずり出されるような不快感にユイは苛立ち、眉間にしわが寄る。
「貴女・・・・自分が何をしたか解ってMAGIの開発に関わってるの?ナオコさんのやったことは・・・・」
「ユイさんの提唱した理論通りのOS開発よ。人格移植OSの基礎理論、それに伴う具体的な構築作業それを実践しただけ・・・貴女の代わりにね」
沈黙を満たしたテーブルに紫煙が揺らぎ始める。
季節を忘れた観葉植物の緑がその白々しさで店内を飾っているが返ってそれが調和を乱しているように感じられた。
床から聞こえるウェイトレスの足音も耳障りだ。
壁に掛けられた大きなスピーカーから流れるBGMですら神経を逆撫でる。
苛立ったユイには感じる物全てが自分を責め立てているように見えた。
そんな様子を子気味よさそうに眺めていた赤木ナオコは、指に挟んでいる煙草をもみ消すと少し残ったコーヒーを飲み干すと、通りかかったウェイトレスにコーヒーのおかわりを頼んだ。
一口だけしか飲んでいないユイとは対照的だ、何処か意識してやったことかも知れない。
「潔癖性は大学時代からそうだったわね。必要性は解っていながらそうやって屈託した振りをする・・・・・変わらないわね」
無言の彼女に向けられた言葉にはガラスの破片が多数塗してあり、飲み込むには激痛を伴った。
「あの『学校』にいた頃からそうやって自分だけ善人のつもりでいる・・・・辛いわねぇ、潔癖性は・・・・それとも辛い振りかしら?」
二人の間に何があったのかは余人からは伺い知れないが、当事者にとって決して軽い何かではないようだ。
憎悪と嫌悪を撒き散らさずには居れない関係らしい。
居たたまれなくなったようにユイは上着を手にすると椅子から立ち上がった。
「もう良いでしょう・・・・失礼させていただくわ」
「あら、久しぶりに会ったのに残念ね・・・・ユイさん、貴女の生み出したシステムはもうすぐ動き出すわ。あの時みたいに逃げ出さないで最期まで見届けてみなさい、そのつもりがあるのなら」
「最後まで全部見る!いろんなとこ廻りたいの!」
長野市松代駅から徒歩十分、真新しい建物の中は人が溢れ返っていた。
今は消滅した東京都の国立大をこの地に新設し、今年で四年目になる。
「大学の学祭だ・・・・お前達は好きに見て回るといい。俺は用事があるから・・・そうだな、三時になったらチャイムが鳴るからそうしたらあの玄関で待っていなさい」
事務棟に付けられたデジタル時計を指さすとアスカは納得したように大きく頷いた。
ゲンドウが一緒に廻ってくれないのは残念だがこうして連れてきて貰ったのだからわがままも言えない。
ふてくされたシンジとは大きな違いだ。
「・・・・アスカ、この財布を渡すから落とすな。そのバックにしっかり入れて置きなさい」
肩から掛かったピンクの小さなバックに不釣り合いな財布を手渡す。
彼らの今日の軍資金だ。
「うん、じゃあ遊びに行ってくるね!」
事務棟に向かったゲンドウの背中を二人は見送る。
さてシンジとしては実に面白くなく、心細い状態だ。
父親がずっと一緒にいてくれると思っていたのだがアスカと二人きりにされてしまうとは。
大嫌いな女の子と一緒に見て回っても面白くない。
それにお小遣いが全部アスカに預けられたのも面白くない。
シンジの父親は特に意識したわけではなく、バックを持っているのがアスカだから渡しただけなのだがそんなことはシンジに納得できるはずもなかった。
「・・・・シンジ、あんたどうするの?一人で廻る?」
そんなことを知ってか知らずかアスカは男の子にどうするかを訪ねた。
彼女もまたシンジと一緒に廻る必要は無い、ましてや嫌顔されてまで付いてこられるのも不満だ。
お小遣いならこの場で二等分して別行動をとっても良い。
冷え切った湖のような視線がシンジを突き刺す。
だだっ広い敷地に大勢の人、こんな中で一人きりにされるのもシンジとしては甚だ不安だ。
かといってアスカの後を付いて歩くのも相当面白くない。
何時までも決断を付けられそうにないシンジを見捨てるがの如く、アスカは足早に歩き出した。
結局不本意ながらシンジもその後を付いていくしかなかった。
色とりどりの幟に色とりどりの看板、賑やかな音楽に楽しそうな無数の人々。
どれも自治会主催の縁日とは桁違いの賑やかさだ。
第三新東京市駅前の通りも休日はこのぐらいの賑やかさなのだろうが、その雰囲気は幼稚園児でも解るほど今の方が華やかだ。
こうして呆気に飲まれ、立っているだけでも心が躍る。
「えっと・・・何処から見ようかな」
アスカは早速学生達の営む模擬店を品定めをして、射的場を開いている店を見つけると駆け寄った。
そこには男女幾人かの大学生が一生懸命客引きをしている。
「はいそこのオニーサン!彼女にイイトコ見せなよ!景品もいいのが有るよ」
はっぴを来た大学生が通り過ぎようとしたカップルを呼び止め景品を披露した。
何処から持ってきたのか、あるいは拾ってきたのか、それとも校内駆け回って集めた不要品か、型遅れのコンピュータの部品がご大層に飾り付け展示してある棚を見せた。
およそこのカップルの興味を引くような物は無いのだが射的自体を楽しむ気になったらしい。
「はい、十発であそこに並んでる的を落として。番号と同じ景品が出ますから」
大きなライフル銃を手にした『オニーサン』はゆっくりと構える。
それは狙いを付けるより隣にいる彼女にそのポーズを見せるような構えだった。
ライフルと言っても無論本物である筈が無く、圧縮空気を用いたモデルガンだ。
ただ外見上は本物と寸分違わず精巧に作られているので重量もそれなりにあり、撃ったときの反動もある。
カスタネットを強く叩いたような音が断続的に響き的が次々と落とされて行くが、どれも大きな的ばかりで当然景品もそれなりの物ばかりだ。
「全然ダメじゃーん、もっと良いの落としてよ」
「うっせぇなぁ、今狙ってるよ!」
最後の一発は一番小さな的を大きく外れ発泡スチロールの壁にめり込んだ。
「はい、スナック菓子三袋ね」
駄菓子屋に売っているような菓子を貰ったカップルは苦笑混じりにそれを摘んでいた。
そんな様子はアスカにたいそう面白そうに見えたのだろう、早速無骨な財布をとりだし小銭を握りしめると大学生に声を掛ける。
「あたしにもやらせて。これお金・・・・足りる?」
「毎度・・・・ってお嬢ちゃんじゃぁ無理だよ。これ結構重いんだから」
眼鏡を掛けた模擬店の大学生店員は笑いながら店内に戻ろうとしたが少女はさらに続けた。
「大丈夫、あたし出来るモン!それ貸して」
青い瞳の女の子は自信を持ってそう答える。
さっきの人だって簡単そうにやっていたし何より面白そうだ。
「じゃあ、この台に乗ってね。あたしが後ろ支えて上げるから」
此処の女子大生だろう、恐らく諦めないだろう事を悟った彼女はやむなく銃を渡した。
さすがにその重さに驚いたのか多少よろけたがそれでも女子大生にも手伝って貰って何とか銃を目線まで持ち上げられた。
「いい?その十字をあの的に合わせるの。そしたら引き金を引いてね」
「うん・・・・・・・」
スコープから覗くと確かに十字架らしい物は見えるが上下左右に小刻みに動きまくり、合わせるどころではない。
それでも元々勘のいい少女なのだろう、初弾は微かに的を掠めることが出来た。
「あー惜しい、もうちょっとだったね。もうちょっと右よ」
惜しいと言われたのが嬉しいのか、女の子はさっきより真剣に的に向かう。
用意して貰った台の上につま先立ちして第二弾、三弾と引き金を引く。
その度に反動でよろめき圧縮空気で発射されたプラスチックの弾はあちこちに飛んでいく。
「やっぱりちょっと難しいかな」
「次は絶対当たるモン!ちゃんと見ててね」
見ず知らずの女子大生にそう告げると残った七発をあっという間に撃ち尽くした。
狙いなど付いていない、だが甲高い音が鳴り響き金属の的二つが打ち落とされた。
かなり小さな的なので狙って当たる物ではなく運の良さだろう。
「あっ凄い!当たったじゃない!」
その結果は女子大生のみならずアスカ自身を驚かせた。
「みてみて!!当たったんでしょ!?・・・・・すごーーい!」
はしゃいで思わず台の上から転げ落ちそうになったが何とか体勢を立て直す。
さっきの眼鏡を掛けた大学生は鐘を鳴らして何かアピールしていた。
「大当たり!!景品は二等の液晶モニターだ!まだまだ景品は残ってるよ!」
可愛らしく見栄えのいい女の子が良い景品を取ったのだ、宣伝になると思ったのだろう。
実際見物人は自慢そうに微笑んでいる女の子に軽く拍手を送っていた。
「はいおめでとう。これが景品の増設メモリとCPUね、ちと古いけどまだまだ現役だよ」
そんなことはない、研究室の奥に捨ててあったセカンドインパクト前の代物で現存する物で使える機械など殆どないのだ。
所詮十分に資金を用意できなかった連中の開いた模擬店だ、景品もそれなりで中には出所がかなり怪しい物も並んでいたりする。
「えっと・・・・・ありがとう!」
一体何に使えるか想像もできないが青い瞳を輝かせラッピングされた包みを受け取った。
それは射的を行って尚かつ結果を残せたから貰える物で、横で見ていただけのシンジには貰えない。
「シンジ、あんたやらないの?面白いわよ」
アスカの目にふてくされた小さな男の子が映った。
「・・・・・やらない」
やはり答えはアスカの想像したとおり「拒否」だった。
シンジは一番最初に物事に加わるような積極性はない。
そして自分はアスカのように上手くこなせないことを同居を始めてから嫌と言うほど知っていた。
劣等感という言葉を知らないだけで小さな胸の中に秘めているのは同種の物だろう。
今のように周りから拍手され誉められるのはいつもアスカだった。
器用に要領よくこなせる彼女とは違ってシンジを誉めたのは今まで母親だけだ。
だがその母親はシンジだけを誉めるわけではなくアスカの事も一緒に誉めるのだ。
今まで自分だけだったのに。
「やらないの?お金ならおじさまに貰ったのがあるから・・・・」
他のことならいざ知らず、二人が貰ったお小遣いなのだ。
ちゃんと同じ額だけ使わないといけない、そうアスカは思ったのだがシンジは頑として聞き入れようとはせず口をへの字に噤んだまま首を横に振った。
「そう・・・・じゃあ他のところいく」
アスカは付いてこいとは言わない、自分は他のところに行くと告げるだけで良い。
どうせ付いてくるに決まっているのだ。
そう決め背を向けたアスカにさっきの女子大生が声をかけた。
「ねね、それよりこっちの方がいい?良かったら交換して上げるわ」
屈んだ女子大生の手には三角と丸のぬいぐるみがあった。
この女の子が景品のコンピュータ部品、それも相当形式遅れの物を持っていっても何の役にも立たないと思い、すぐそばで手作りぬいぐるみを売っているサークルに声を掛け貰ってきてくれたらしい。
「うん!そっちの方がいい!頂戴」
「はい、かわいがってね」
訳の分からない部品なぞより遙かにぬいぐるみの方が嬉しい、二つ返事で交換に応じるとぬいぐるみを抱きしめた。
すっかり上機嫌のアスカとその正反対にいるシンジは連れだって、と言うわけでもなく共に他の模擬店に足を向けた。
二人の立ち去った射的場では大学生達があの二人が姉弟か否かで暫く盛り上がっていた。
*
「姉弟みたいなわけにも行かないと思うがね、まぁ、子供は柔軟だ、そのうち何とかなる」
レースのカーテンを引きさっきまで眺めていた光景を向こう側に押しやり室内に目を移した。
数多くの本棚には無数とも思える書籍が並び妙な圧迫感を与える。
そして微かに空いたスペースを古ぼけたテーブルが埋め、さらにその一角を一人の男が埋めていた。
精悍そうなとも一癖有りそうなともとれる顔立ちの男は、無言のまま手にしたアルバムを閉じ窓際に立つ男を眺めた。
「・・・・・そんなことより補完計画は発動した。冬月、お前を迎えに来た。手伝え」
ぶつ切れの台詞が用件だけを明確に伝える。
髪はすっかりグレーに染まっていたが老人と言うにはまだ若すぎる男は微かに顔を歪ませた。
「俺は付き合うつもりはないな。今更何が出来る?セカンドインパクトを起こした連中は責任もとらずにまた新しいことを始めるつもりかね」
普段はしない吐き捨てるような口調だが椅子に座っている男には堪えないようだ。
「六分儀・・・・いや、碇か。委員会には伝えておいてくれ、お前らに付き合う気は毛頭ないと」
「・・・・それでも構わん、だが責任は取るもんじゃない、取らせる物だ。どんな手を使ってもな」
碇ゲンドウは足下に置いた鞄からファイルを一つ取り出すとテーブルに置いた。
「セカンドインパクトの詳細と補完計画の全容だ。委員会のメンバー経歴・・・・これで足りるだろう」
「・・・・そんな物を・・・・お前はあの連中と・・・・」
冬月の問いかけに歪ませた唇で全てを応えた。
「来年第三新東京市に特務機関が設立される。そこに副司令の席が空いている・・・・冬月・・・・俺を手伝え」
ゲンドウの発したのは命令ではなく依頼だった。
だが抗いがたい重みを含んで冬月の耳に流れ込む。
そしてその依頼は無造作に置かれたファイルを手にさせた。
時計に秒針が一周するごとに冬月の顔が変わっていく。
「・・・・・そう言うことか。セカンドインパクトは・・・・・」
怒りか、あるいは恐怖か、声と肩が細かく震え眉間にしわが寄る。
安っぽいパイプ椅子を掴んでいる腕に力がこもり、今にでもそれを押しつぶしそうだった。
俯いた顔を上げたとき、そこには普段見ることのない殺意と激情が溢れ返っていた。
温厚な助教授とされている彼からは想像もできない表情だ。
そして抑揚を無理矢理押さえ込んだような声は辛うじて聞き取る程度の音量で発せられた。
「・・・・・良いだろう、加わってやる・・・・」
窓の外から聞こえる学生達の声、室内に取り付けられたスピーカから流れる構内放送、廊下を忙しそうに行き交う足音、その全てが彼の耳から遠ざかっていった。
パイプ椅子を掴んだ腕から力を抜き、灼熱の意識を現実へと引き戻す。
狭苦しいほどに書籍で埋め尽くされた研究室、そこはまるで冬月が今まで迷い込んでいた袋小路のようだ。
「冬月・・・・道は用意した・・・・」
確かに自分を取り囲んでいた壁の一角が崩れたのかも知れない。
その向こうに何があるのか、正しい道があるのかそんなことは冬月にとってどうでも良かった。
やるべき事、そう思いこめることが出来ただけでも救われるのだろうか。
彼らの耳を消えていた日常の喧噪が再び埋め尽くし始めた。
*
口の中に空いたスペースはない。
全てをトウモロコシが埋め尽くし、焼けた香ばしさとトウモロコシの甘みがアスカの顔を緩ませていた。
ニマァッとした顔を浮かべては大きく口を開け、こんがり焼いたトウモロコシに噛みついた。
どういう訳かあまり家では食べない代物、ましてやお昼とあってアスカの食欲を押さえる物は何もない。
さっきはたこ焼き、その前は焼きそば、フランクフルトとお腹の中は豪華絢爛だ。
そして口の周りも豪勢な物でソースにケチャップにマヨネーズ、調味料ひとそろいで飾られていてさながら髭のようだ。
だが朝からずっと動き回っているのでそれだけの量を食べてもあまり差し障りはないらしい、と言うのが当人の感覚だった。
「次はどこ行こうかな・・・・・あの黒いテントに行こう!」
ちょっと大きめのテントを見つけるとそこを指さした。
アスカに行き先を口にする癖があるのではなく付かず離れずついてくるシンジに向けた物だ。
この混雑の中良くはぐれずについてくると半ば感心はしている。
相変わらずふてくされた顔ではあったが。
「きっと面白いだろうなぁ、何のテントかな」
わざわざ聞こえるように言うのは会話をしたかったからだ。
こんなお祭りの中で一人で遊んでも面白くない、一緒に遊んでくれる人が欲しい。
おじさまがその第一候補だったのだがどこかに行ってしまって顔見知りはシンジだけなのだ。
だがそのシンジはずっとふてくされて何一口を聞いていない。
自分は嫌われている、解りたくなくてもそう解ってしまう。
やはり聞こえているはずのアスカの声にシンジは何も答えず、ただ黙々とついてくるだけだった。
・・・・折角出かけてるのにバッカみたい・・・・
別に仲良くしてくれなくったっていい、それならいっそのこと一人で何処でも廻ればいいのに。
嫌いな自分に付いてきたって面白くも何ともないだろうに。
口にはしなかったが不可解なシンジに対して苛立ちにも似た感情がわき起こる。
そんなことも知らずただついて廻るだけのシンジ。
一人で廻るには不安すぎ、かといってアスカと一緒でも面白くない。
結局自分では何の解決も見いだせないまま望みもしない現状を継続させていた。
「・・・・の?シンジ、あんた此処入るのって聞いてるの!それぐらい答えてよ!!」
地面に顔を伏せていたシンジはいつの間にか黒テントの前に到着していることに気付かなかった。
勿論アスカの質問も聞いてなかったので険しい顔の彼女に思わずたじろいでしまった。
「え・・・あ・・・・ど、どうでもいいよ」
「それじゃ解らない!どうでも良いからちゃんと答えて!!」
「・・・・入らない・・・・入らなくていい!!」
大きな声で言われたのでついムキになった。
本当はこのテントの中身に興味があるのだがすっかりへそを曲げてしまっている。
「あっそ!じゃあ一人でいれば!あたし入って来るから!」
折角遊びに来たのに二人とも眉間にしわを寄せシンジはテントの出口に、アスカは入り口にと別れてしまった。
「大体アスカなんて来なきゃ良いんだ・・・・・」
雲一つない秋空の下を行き交う大勢の人通りをつまらなさそうに眺め、ポツンと出口で待っているシンジは口の中だけで呟いた。
大学祭と言っても自治会レベルの祭りより露店も催し物も人出も遙かに多く、心躍ることばかりなのだろう。
アスカが臆することなく一人で入ったテントから賑やかで楽しげな音楽が流れ始めた。
本当なら母親に手を引かれこの楽しい場所を楽しい思いで廻っていたはずなのにそのユイは家で掃除中、そして父親は仕事、自分はこんな所で待ちぼうけ。
納得できない状況なのにどうすることも出来ずそれを受け入れるしかないのだ。
自分の領域に踏み込んできた女の子は何でも出来た。
そして今まで自分だけを誉めてくれた母親は、頻りにあの青い目をした女の子を誉め始めた。
それが大切な物をあの女の子に取られてしまったようで、そしてそれを取り返せないことも解っていた。
自分より遙かに優秀で自分に出来ないことでも難なくこなせ、どう足掻いても勝てず、競えば必ず負けることも一緒に住んでよく解っている。
自分では何でも出来るアスカに対して力が及ばないのだ。
アスカの後を付いて歩くのも、自分一人で遊べないのも納得できないがどうにも変えられない以上それを続けているしかない。
誰かにその不満をぶつけてはいけないことぐらいよく解っていた、アスカに言ってはいけないことぐらい漠然とながら解っていた。
競って負ければ、勝敗という結果がでてしまったら本当に母親を全部取られてしまうような恐怖感がつきまとう。
だから結果がでる前に自分が諦めるしかない、何かを失わないためにそうするしかない、シンジはそう思い始めていた。
競って結果がでるよりも競わずに妥協してそれに納得する、それがアスカという因子の増えた自分の居場所だった。
*
「一緒に来れば良かったのに、バッカみたい。すごい面白かったんだから」
黒いテントから出てきたアスカの話を総合するとどうやらマジックショーだったらしい。
奇術同好会なる看板が下がっていたがアスカもシンジもそれを読めなかったので見るまで解らなかった。
若干興奮状態のアスカを見ると素人マジックながらも面白かったらしい。
「光がいっぱいですごい綺麗だったんだから!」
技術が拙い分演出が派手になるのだろうか、あるいはタネ隠しのための派手さなのか、何れにせよアスカには好評だった。
上気した顔がそれを物語っている。
「おばさまも一緒に来れば良かったのになぁ。そうだ、お土産買わなきゃ」
見なかったことを後悔している様子のシンジを満足そうに見つめ、そしてほんの少し肩の力を抜いた。
「・・・・後三十分したらまたやるみたいだから・・・・そのとき見る?・・・一緒に」
たっぷり三十秒後、いつもは返ってこない答えがシンジの口からこぼれ落ちる。
「・・・・・・うん、後で見る」
別にアスカを好きになれた訳じゃない、だが黙っているよりほんの少し気が楽になったと思う。
抗うことを諦めて、認めてしまえれば変わらないまでも楽でいられる。
「じゃ、それまでその辺廻ろう。まだ見てないところいっぱいあるし」
「・・・・そうだね・・・・もっと見てみよう」
此処に来て初めてアスカと一緒に大学祭見物をした。
色とりどりの幟に派手な垂れ幕、難しいことが書いてある立て看板に面白そうな模擬店。
どれもこれも楽しそうだ。
そして香ばしいいい匂いを嗅ぎ取るとアスカのワンピースを引っ張った。
「あれ・・・・食べたい」
「え?たこ焼き?さっき一緒に買えばいいのに・・・・」
ヤレヤレと言った表情を意識的に作り出すと可愛らしいバックからシンジの父親から預かった財布をとりだし模擬店に声を掛けた。
「一つください!えっと・・・・その一番上のやつがいい!」
目ざとく焼きたてのパックを見つけだすとそれを指名する。
「海苔いっぱい掛けてね」
大学生の店員はその注文に応えたっぷり海苔と鰹節を振りかけたたこ焼きを渡してくれた。
中身のタコもおまけして大きいのにしてくれたそうだがこれは眉唾だろう。
「はい、買ってきたわよ。熱いから火傷しても知らないからね」
「・・・・ありがと」
お金を渡して貰えればそれで良いと思っていたシンジはとまどいながらもたこ焼きのパックを受け取る。
確かに焼きたてらしく持っているのにも苦労しそうだった。
思いっきり吹き冷ましながら一個を口に入れる。
あたかも鯉のように口をパクパクさせながら頬張った。
「どう?美味しいでしょ。帰りのお土産で買って行くんだからね、忘れちゃダメよ」
「ふん・・・・ふぁつい・・・・」
間抜けな感じの答えになってしまったが口の中が熱いので仕方がないだろう。
二人はたこ焼きと途中で買った綿菓子を啄みながら大学の構内を歩き回った。
ただでさえ広い構内、ましてや大学祭なので人通りも多くちょっとウロウロしているとあっという間にゲンドウとの待ち合わせ場所である事務棟前を見失ってしまう。
一応アスカもその辺気を使っていたのだが、喧噪に飲み込まれている間にどうでも良くなってしまった。
さらには行く先々でお菓子や小物を買ったりしている。
アスカもシンジも両手にいっぱいの「お土産」が有るのでそんな待ち合わせ場所のことなど気が回らなかった。
「アスカ・・・・これなんて書いてあるの?」
そんな中壁に貼られた一枚のポスターがシンジの目に留まった。
「えっと・・・・か、い、え、ん・・・・15・・・・要するに15って時間に開くのよ」
「15って何時?」
「・・・・・1,2,3時ぐらいじゃない?良くわかんないけど」
概ね当たっている。
だが何が開演するのかは二人とも見当が付かなかった。
何しろ英語で書いてある上、かなり派手な飾り文字なので二人ともさすがに解るはずもなかった。
絵柄も抽象的で想像すら出来ない。
「そんなの面白くないわよきっと。写真の人変な顔してるし」
「・・・うん・・・そうだね、怖い顔してる・・・・」
男だか女だか解らない、いや、人なのかすら怪しい顔が大きく映っていた。
「そんな物見てないでほか行こう。あたし喉乾いちゃった」
あまり気持ちのいいポスターじゃないのでさっさと此処を離れジュースを飲むことにした。
普段の彼女なら滅多なことでは自分から「あれが欲しい」などと口にしないのだが、今日はシンジしかそばに居ないせいかやたらと物を欲しがっている。
それはお土産と称して両手にぶら下がっている袋の数からも伺えた。
ユイが一緒の時とは余りにも様子が違ったがシンジにしてみれば気になる筈もなく、その買い物にずっと付き合っている。
何しろ小遣いは潤沢にあるのだ。
二人は此処に来たときと同じ階段を下りたつもりだったが、どうやら間違えたらしく見知らぬ場所に出た。
そのうちどこかに出るだろう、安易な気持ちでウロウロしているうちに益々解らない場所に潜り込み、途中立入禁止の札が貼ってあったが読めなかったのでそのまま進むと何やら白い廊下のある場所に到着した。
そこにはガラス越しに奇妙な機械がいっぱい並んでいる部屋が見えた。
「ここ何?・・・・アスカ、解る?」
「知らない・・・・・でも昔居たところによく似てる・・・・」
青い瞳に不可思議な色が混じった。
無機質を絵に描いたような雰囲気の空間、冷たいだけの部屋、それが自分のいた場所とよく似ているように感じる。
ガラス窓に張り付くように部屋の中をのぞき込むアスカとそれにつられ一緒にのぞき込むシンジ。
そんな二人の背後に人影が現れた。
「あら、此処は立入禁止よ。何処から入ってきたのかしら?」
いきなり声を掛けられたので思わず背筋が伸びた。
悪いことをしていたとは思っていないが驚けばそうなるのだ。
恐る恐る振り返るとアスカの青い瞳が飲み込まれそうなほど大きく開いた。
シンジなどは顔色が真っ青になる。
「此処は来てはいけないのよ、早く戻りなさい」
怒っている口調では無いのだが小さな二人は全く別のことで引きつっていた。
それはさっき見たポスターから抜け出したような、いや、家にある童話に出てくる恐ろしい怪物、シンジと一緒に見たTVに出てくる悪者、あるいは昨日の夢に出てきた悪魔・・・・・・
何れにせよろくなモンじゃない。
髪は天を突くように立っており、あまつさえ赤だの緑だの金だの銀だの極彩色で虹より派手に彩られている。
しかも顔は鬼、あるいは悪魔のように縁取られ黒い妙な線が走っていた。
着ている服はよく解らないが黒光りしている上に所々に銀色の棘が生え、肩から腰に掛けては鎖のような物がぶら下がっていた。
「あら、どうしたの?おっきな口開けて・・・・」
悪魔だか化け物だかはシンジに手を伸ばそうとした。
その瞬間シンジの中で何かが途切れ口からは鳴き声が響きわたった。
「ちょ、ちょっと、どうしたの?何も泣かなくても・・・・・」
宥めようとしたが一秒ごとに鳴き声が大きくなるので打つ手無しと言った状態だ。
「良く泣くこと・・・・五月蠅いわね、泣きやんでくれないかしら・・・・」
ポリポリと髪の突っ立った頭を掻きながら「彼女」は困り果ててしまった。
幾ら何でもひっぱたいて泣き止ませるわけにも行かずどうしようもない、いっそのこと放っておけば良かったかとさえ思い始めた。
そんな様子は知らないが栗色の長い髪が揺れる。
「シンジ!こっち!!」
そう叫ぶと男の子の手を掴みまるで子猫のような敏捷さで廊下を駆ける女の子。
青い瞳は目の前に映った異形の生き物を危険と判断するとあっという間に逃げ出したのだ。
勿論泣いているだけのシンジを引っ張って。
「速く走ってよ!」
痛いほど強く小さな手を握りしめ懸命に走る。
何処をどう走ったか解らないが白い廊下を抜け、近くにあった出口に飛に飛び込んだ。
アスカはほんの少し周囲を見渡し誰もいそうにない建物の隙間を見つけるとそこに逃げ込んでいった。
呆れたようにその様子を見守っていた異形の生き物は大きくため息を付いた。
「何も逃げなくても・・・・人を化け物みたいに、失礼ね」
彼女は窓ガラスに映った自分の姿を眺めると、確かに仕方ないかという気もしないでもない。
それを肯定するように背後から声がした。
「ちょっと何子供泣かしてんのよぅ。ったくもうそろそろ時間よ」
「五月蠅いわね、時計ぐらい持ってるわ。こんな所に子供入り込んでるんだから立て札に振り仮名ぐらい付けておけばいいのよ」
研究棟の内部とは余りにも不釣り合いな姿の二人の女性はお互いの姿に思わず苦笑した。
大学祭のステージ衣装ではあるのだが相当に派手なのでさっきからで歩かないでこの辺で時間を潰していたのだ。
「あの子達あんな方走ってったけど迷子になるんじゃあない?」
「さあ・・・あっち立入禁止じゃないから後はあたしの知った事じゃないわ」
「ったく、相変わらす冷たいのねぇ・・・・ま、それより音合わせやっからちっと顔貸して」
*
泣いちゃダメ。
一緒に泣いちゃダメ、あたしは泣いちゃいけない。
息が切れ足が重くなり花壇のブロックの上に座り込むまでずっと呪文のように唱えた。
一体どれくらい離れたか見当も付かないが、小さな花壇の有る広場に到着すると二人は立ち上がれないほどの疲労に押しつぶされた。
座ってから数秒も経たないうちに首筋や額から玉のような汗が噴き出す。
特にシンジなどは泣きながら走ったので呼吸の仕方が少し怪しくなっている。
「泣かないでよ・・・・もう追いかけてこないんだから」
何度も背中を擦りながら咳き込みながらも泣き止まぬシンジを慰めた。
本当なら自分だって泣き出したいのだがどうしても外れないタガが彼女の涙を堰き止めていた。
「ねえ、もう泣かなくても大丈夫だから・・・・」
咳の回数が減り、しゃっくりのような呼吸に変わって多少の落ち着きが見えるようになった。
いつもなら母親の優しい手がほんのりと甘い香りのするハンカチでシンジの頬をぬらした涙を拭ってくれるのだろう。
無条件でそうしてくれるのだろう。
それが自分とは大きく違うところ、アスカは背中をさすりながらそう思う。
シンジにはそうして貰う資格があるのだ、何もできなくても無条件で優しくして貰える。
勿論アスカだってそうして貰えるだろう。
シンジの頬を拭ったハンカチは同じように自分の頬も拭う。
ただその時ユイはこう尋ねるに違いない。
・・・・何故泣いているの?・・・・
聞く前に頬を拭って貰えるシンジと何があったのか聞いてから頬を拭われる自分。
恐らくユイでさえ気付かない無意識の範囲だろう。
髪の毛一筋ほどの違いでしかない、だが髪の毛一筋分の違いは確かにあるのだ。
「これ飲めば・・・・喉乾いたんでしょ・・・・」
「うん・・・・飲む・・・・」
ユイから出先に受け取った水筒をからジュースをカップに注ぐ。
ストローを差し少し咽せながらも美味しそうにジュースを飲むシンジを横目で見る。
自分も喉が渇いているのだがあえてシンジを優先させた。
優先させてやれる、それがこの男の子と自分の違いであると見せるように。
同じではいけない。
同じ事しかできないのではダメだ、何でも出来て我が儘を言わないで言われたことを守れる子じゃないとダメだ。
そうすれば自分はあの家にいられる、シンジの面倒も見て、ユイの言うことは何でも聞いて。
もう自分の居場所など何処にもない、シンジの家が唯一の居場所だろう。
そんな条件が必要なのかどうか彼女には解らない、何が必要か解らないからこそ出来る限り受け入れて貰うようにするのだ。
そのためには優れていなくてはいけない、シンジを優先させられる位優れて無くてはいけない。
居場所を持てなかったアスカが自身に課した条件だった。
*
「使徒?・・・・妙な名前を付けた物だな。何か意味があるのか?」
安っぽいテーブルに置かれた二つの湯飲みにほうじ茶が注がれる。
学生の誰かがその辺のコンビニショップで買って持ってきたお茶なので味も香りもそれなりだ。
尤もこの二人はそんな物を期待して居らず、飲めれば何でも良かった。
「神の使わし者・・・・・連中の付けた名前だ。人類を導きし先達だよ」
「ふん、たかが欠片にご大層な物だな。それより特務機関の位置付けはどうなるんだ?」
冬月とゲンドウはほぼ同時に煎れたてのほうじ茶を啜る。
「国連直属だ、第三新東京市が特別行政区に指定される。ハードウェア自体は既に75%まで稼働し始めた」
「そうかね、だが俺に何をしろと言うんだ?軍隊の指揮なんぞ逆立ちしても出来んぞ」
「専門で手を貸してくれればいい。その方面は既に手を打った」
事も無げに言うが特務機関の副司令という役職はどう考えても自分に合わないような気がする。
助教授という立場だがそれは決して管理職ではない。
大学という有る意味閉鎖された組織の中で研究に没頭してきた自分に「指揮管理」などというスペックが備わっているのか甚だ疑わしい。
即戦力になる相応しい人材は自衛隊でも警察でも掃いて捨てるほど居るはずだ。
・・・・・政府自体を関与させたくない、それとも他組織を関与させたくないか・・・
冬月の表情に何やら奇妙な物が加わった。
「大学に勤めている奴には妙な知り合いが多いぞ・・・・俺とて例外じゃないかもしれん、その可能性はどうする?」
ゲンドウ、あるいはその背後の人間はこの特務機関とやらに余計な不純物を混ぜたくないらしい。
恐らくは組織される人員も関係者のみで構成されるだろう。
自分もそれでゲンドウに目を付けられたであろう事は彼自身が口で証明した。
「大学で異端児扱いされているお前にそんな知り合いが居るとも思えんのでね」
何処までが嫌味なのか冬月には計りかねた。
だが苦笑を浮かべると何も言わずゲンドウの差し出した資料をひとまとめにして鞄に放り込む。
まだ真新しい研究室だが明け渡さなければならないようだ。
「そっちへの移行は俺の都合に合わせるぞ。これでも霞を食って生きてるわけじゃない、柵の一つもあるさ」
せめてもの抵抗だったのかも知れないが生憎とゲンドウは聞いていなかったようだ。
背後の棚を何やら我が物顔で漁り、埃を被った写真立てを引っぱり出してそれを眺めていた。
そこには色褪せた写真が填めてあり、四、五人の人物が写されている。
「ユイ君がまだ此処にいた頃だ、今とあまり変わらんだろう・・・・・彼女は年を取らない顔立ちだからな」
冬月はさらに漁られる前に戸棚から数枚の写真を閉じたアルバムを渡した。
写っている人物はどれも同じで恐らく何かの旅行に行ったときの写真だろう。
「柵の一つだよ。こんな所に勤めていれば一つや二つ絡みつくもんだ」
「研究会のメンバーか・・・・・通り名の冬月学校と言った方がいいな」
冬月コウゾウ助教授が定期的に開いた研究会だ。
卒業した院生である赤木ナオコやゲンドウの妻であるユイも世代こそ違えどその研究会に参加していた。
もう一人参加していた人物が居たがセカンドインパクトにより他界している。
「冬月学校」最後の生徒はユイで後にも先にもその三人だけが参加した細々とした研究会だった。
それにも関わらず「冬月学校」という呼び名が付いたのは参加していない大多数の生徒が冷やかし混じりに付けたらしい。
「・・・・ユイ君も辛いところだな、否定しても他に道がない。彼女にしてみれば決着などどうでも良かっただろうに・・・・」
「ふん、実際に作ったのは赤木博士だ。それに誰もがあれにしがみついて生きて行かなきゃならん、責められる道理はないさ」
ゲンドウはその研究会に顔を出しはしなかったが良くユイから聞かされていた。
ほんの少し顔を上げ昔話を断ち切るように組んだ手の下から言葉をこぼした。
「・・・・冬月、全ては同一線上だよ。関わった者全てはその決着を付けざるを得ないさ」
「セカンドインパクトで生き残ってしまった哀れな亡者、か・・・・まあいい。お前の言うように原因には責任をとって貰おう」
冬月はほのかに朱の増した空を眺め、そして生き残り再生を始めた今を眺める。
誰もが全てを忘れ去ろうと藻掻いている、誰もがそうすればいつも通りの日々が流れ続けると信じ続けるのだ。
たった今碇ゲンドウという男に示された道を進めば、どこかに到着できると信じている自分と同じように。
「ところで碇、子供達も一緒なのだろう、時間はいいのか?」
*
自分達より遙かに背の高い垣根、視界を全て奪ってしまう建物、読めない行き先標示板。
さっきまで楽しかった場所は今は迷宮となって二人の子供を彷徨わせていた。
とても怖い「お化け」に遭遇したあげく散々逃げ回り、現在地が何処なのか解らなくなってしまった。
そしてだだっ広い敷地の何処かで途方に暮れている。
泣いてはいけない、そう心に決めている青い瞳を持つ異国風の少女だったが時計の秒針が進むごとにその決意が崩れていく。
細い手首に巻かれた時計は午後三時四十三分、約束の時を過ぎても未だ落ち合う場所が見つからない。
建物の名前を覚えていれば聞き歩いてたどり着けただろう。
だが目印の大時計は覚えているが、入り口に書いてあった建物の名前はやはり読めなかった。
腕時計の秒針が進むごとに白い建物は朱に染まっていく。
建物が紅くなっていくに連れ人通りも減っていく。
賑わっていた露店は徐々に店を閉め、お立ち台の上でマイクを握りしめていた学生達も何処かに消え去っていた。
「アスカ・・・・何処に行くんだっけ?そろそろ時間になると思う」
「うるさい!そんなの知らないわよ!!」
迷子の焦りと苛立ちがアスカに怒鳴り声を上げさせた。
自分は一生懸命さがしているのにシンジと来たら呑気な顔で、落ち合う場所を探す素振りすら見せない。
自分の不安を自覚している分、余裕を見せるシンジが憎らしく見える。
「此処さっきも通ったよね・・・・」
「通ってないモン!!」
同じ様な景色の十字路はいくつもある、さっきから「これを曲がれば大時計がある!」と期待して曲がっているのに一向に時計は姿を見せない。
・・・・・約束の時間に遅れちゃう、どうしよう・・・・
腕時計を見るのすら躊躇われる。
守らなければいけないことを守れない、それはアスカ自身が自分に課した約束事と大きくかけ離れることだ。
シンジと一緒に迷子になっていたのではお話にならない、自分はそんなヘマをしてはいけないのだ。
両手に山ほどのお土産を抱え周囲を見回す。
「今度は・・・向こうに行く・・・きっとあっちだモン」
つい数時間前まで自分のことを嫌っていた少年の手を引っ張り小走りに十字路を右折する。
もし左手で握っている小さな手の平が無かったら今よりずっと心細かっただろう。
頼りない手を包むように握りしめ青い瞳を大きく見開いて建物と記憶を照らし合わせていく。
そして合わせ鏡の中のような十字路が再び姿を見せるとシンジはとうとう愚痴りだした。
「アスカ・・・疲れたよ。少し休もうよ・・・・」
地面にぺたんと座り込みこれ以上無意味に歩くことを拒否した。
アスカと比べて遙かに焦りの色の少ないシンジは、逆にアスカより疲労の色が強い。
無言のままグイッと手を引っ張られたが梃子でも動きそうになかった。
「アスカ、喉乾いたよ。もう歩くのヤダよ」
つい数時間前まで大嫌いだった女の子に駄々をこね始める。
本当に喉は乾いていたし足はふくらはぎが熱く感じるほどだ、普段ならこんなに歩くことはなかった。
そして疲れたとき母親にそれを言えば何とかしてくれた。
「ダメ!もう時間過ぎてるんだモン!急がなきゃ・・・・」
「ヤダ!此処にいる!!」
膝を抱え断固として動かない意志表示をする。
二、三回強く手を引っ張ったがふくれっ面のまま立ち上がろうともしない。
アスカ自身も足が動かなくなり始めていることに気付いた。
買って貰ったばかりの新しい皮靴はとても気に入っているが、まだ履きなれていないので踵が少し痛い。
家にいるユイへのお土産を詰めた袋が指に食い込んで痛いし、その重みは小さな肩に全てのし掛かっている。
「・・・・あたしも休む・・・・」
これ以上シンジを諭すのが無理と解ると途端に疲れが増し、隣に腰を下ろした。
肩から掛けた水筒を外し蓋兼用のコップを取り出すとシンジにも手渡す。
そしてユイの作ってくれたリンゴジュースを二つのカップに注ぐ。
酸味と甘みで彩られた冷たい液体は砂漠のような喉を透き通った香りを残して通り抜けていく。
鉛の詰まったような手足から怠さを持ち運んでいった。
二人ほぼ同時に大きく息を付くと十字路を駆け抜ける秋風に身をゆだねると栗色の髪がシンジの頬をくすぐった。
普段滅多に側で見ないアスカの顔を暫し見つめ、今までろくに口など利かなかったのが嘘のように彼女への「質問」を口にした。
「ねえ・・・・アスカって何処から来たの?お母さんに聞いても教えてくれないんだ」
栗色の髪をした青い瞳の少女と出会ってから一年と半年が経つ。
それだけの時間を掛けてやっと一番最初に聞くべき質問を口にした。
「良く知らない。でもね、おっきい飛行機に乗って来たの。飛行機の中で映画見たりしたんだから」
単に地名が解らないのか、あるいは住んでいた場所を見たことがないのか。
「ふーん、僕飛行機乗ったことないや・・・・いいなぁ・・・」
「いいでしょ。ご飯もいっぱい出たんだから・・・ジュースなんか沢山飲んでもいいんだ。こっちに着くまでお菓子とかも出たんだから・・・・そうだ、大体の場所なら解る。おばさまが地図で教えてくれたわ」
アスファルトの路面に小石で引っ掻き丸を一つ書いた。
そして二、三歩離れた場所に同じ様な丸を書く。
「此処がお家でしょ、でね、ずっーーーと離れてこっちの方なんだって。あたしがいた所って」
地面に書かれた二つの丸を線で引っ張っただけの説明なので、どの程度離れているのか見当の付けようがない。
「大体」はおろか大雑把という表現だって当てはまらない。
結局シンジは女の子が住んでいた場所を聞くことは出来なかった。
「・・・・・じゃぁ何でうちに来たの?アスカのお母さんとか・・・どこ行ったの?」
「良く知らなーい、あたしママ嫌いだモン」
納得しないようなシンジを一瞥すると二杯目のリンゴジュースを水筒から注ぐ。
「おばさまがこれから一緒に暮らそうって来たの、あたしは良くわかんないモン」
朝に作ってこの時間になってもまだ冷たいリンゴジュースを一気に飲み干す。
その誘いを断る理由がなかった、あるいはアスカをその場所に引き留める物が何もなかった。
だから見ず知らずのユイに手を引かれやってきたのだ。
今までいた場所に自分の居場所はなかった。
定期的に与えられる冷たい食事、白く冷たい壁に囲まれた部屋、白い服を着た冷たい大人達、何一つ必要とされない時間、それがアスカを取り囲んでいた全てだった。
そんな彼女に初めて訪れた「変化」は日常という時間軸に自分を連れていってくれたのだ。
「あたしおばさまが好きよ、だから此処にいるの。解った?」
結局何一つシンジの質問に答えていないが、彼もさらに聞こうとはしなかった。
幼い二人にとって共に暮らす理由などどうでも良いのかも知れない。
昨日とは少し違う今日が全てだ。
今日の朝嫌いだった相手と夕方仲良くするのもそんな中の一つだった。
「シンジ、そろそろ探そう・・・・もう四時廻っちゃう・・・・あたし達迷子になっちゃったのかなぁ・・・・」
朝出払っていたカラス達がねぐらに戻り始める頃、碇ゲンドウが事務棟の裏で泣きじゃくる子供二人を見つけた。
三階の廊下から見下ろしただけなので今ひとつ確信が持てなかったが、降りて近寄ってみるとやはり足にしがみついてきたのは自分の子供だった。
「二人とも何を泣いている?・・・・・そろそろ帰るぞ」
時間の遅れを気にしていてとうとう我慢できなくなって泣き出したアスカ、それにつられ訳も解らず泣いているシンジはゲンドウの両足にしがみつき、ただひたすら泣きじゃくっているので何があったのか彼には見当が付かない。
「遅くなって悪かった・・・・それにしても随分買い込んだな、土産か?」
二人の両手にぶら下がっている袋の数に少々驚きながらも二人の頭に手を置く。
慰めてやろうかとも思ったが自分には無理そうなので振り解かないようゆっくり歩き出す。
カラス同様彼らもねぐらに帰らなければならないのだ、第三新東京市のねぐらに。
二本の足がゆっくり一歩進む、それに合わせ四本の足が二歩忙しそうに進む。
アスカとシンジの手にしていたお土産はいつの間にか父親の手に移り二人を解放していた。
「あのね・・・・えっぐ・・・・おばさまにね、お土産ね、沢山買ったの・・・・焼きそばも、たこ焼きも・・・・お好み焼きもあるの」
アスカは真っ赤になった目を擦りながら今日のスポンサーに購入した詳細を涙で声を詰まらせながら語る。
「それにね・・・・手品やってたりして、あと鉄砲撃ってぬいぐるみ貰ったの・・・・それで楽しくて遊んで・・・・でも帰る道解らなくて・・・」
咽せるような泣き声で迷子になって時間に遅れたことを告げた。
自分は遅れてはいけない時間に遅れた、約束を破ってしまった。
いつもはユイに言われた帰宅時間を守っているだけに「おじさま」に怒られる、そんな思いが小さな心の中を渦巻く。
この家に来た以上自分は良い子でなければいけない、自分で作り上げた「自分」を見せ続けなければいけない。
幼いアスカがもう一人の自分を生け贄にして手に入れられる居場所。
誰もそんな物を望んでいないのに、不必要な存在だった過去の短い記憶が要求した条件。
「楽しかったか・・・・良かったな」
頭の上に乗った大きな手がどれほど嬉しかったのだろう。
見上げても夕日のお陰で表情まで解らないが怒られていないことを悟った。
・・・・まだ此処に居られる・・・・
泣き顔に笑みを浮かべ安心したように再度しがみつく。
帰り道が自分にもあってそれを共に歩いてくれる人を確認するように、そして置いて行かれないようにしっかりとズボンを握った。
大きな足の影から見え隠れする少年にも目を向けて。
第二東京駅間での道のりはアスカとシンジが過ごした一日を発表する場になっていた。
夕刻の街は人の影が幾重にも広がってあわただしく影を揺らしている。
ただ普段より小さな影が混じっているのは今日が休日の夕刻だからか。
「それでお化けも出たんだよ、凄い顔の・・・・それで逃げたんだ」
「あたしの撃った弾がね、凄くちっちゃい的に当たったの!お店の人もすごいって誉めてくれてね、縫いぐるみ貰ったの、ほら!」
「たこ焼きがとっても熱いんだ。でも柔らかくて・・・・口の中少し火傷したかもしんない」
口々にさっきまで泣きじゃくっていたことを忘れたかのように我先にと今日一日楽しかったと告げた。
その二人様子は普段とまるで違いゲンドウを困惑させたが、それを悩むわけでも疑問に思うわけでもなく、淡々と一方的な会話を聞かされていた。
「話をしていると遅くなる、早く帰るぞ・・・・・・・」
両手に抱えたお土産の袋、そして二つの小さな手を握りしめ早くもなく遅くもない歩みで帰路に就く。
明日からはまた仕事だ、やらなければならないことは山積している。
「・・・・シンジ、お前は今楽しいか?」
足下にまとわりついている息子にした質問は余りにも漠然として、シンジは即答できなかった。
「・・・・もし何時か大切な物が解ったのなら自分でそれを守れ。誰も手伝ってはくれん」
「良くわかんないよ・・・・・お父さんの言ってること良くわかんない」
父親が息子に回答を求めていないのは明白だ。
アスカから財布を受け取り紙幣を取り出すとシンジに手渡しさっきとは別のことを口にした。
「第三新東京市までの切符を買ってこい、大人一枚子供二枚だ・・・・間違えるなよ」
紙幣を受け取り口の中で言われたことを復唱し終えた男の子は元気良く頷くと、勢い良く目の前の切符販売機に向かって走っていった。
いまだ今日と変わらない明日の待つシンジを見つめる明日とは違う明後日を知っている父親。
全てが変わり始めるのはまだ先。
そして西暦2010年、第三新東京市ジオフロントに国連の直轄機関「NERV」が誰に知られることもなく静かに誕生する。
「たっだいまぁ!!」
朝出ていったときと同じかそれ以上に景気のいい挨拶が玄関から響きわたった。
軽快な足音は一直線に台所に向かい通じる扉を開け放った。
「お腹空いちゃった、なんかお菓子無かったっけ?」
台所でいつものようにエプロンを掛け家事に勤しんでいる女性は、栗色の髪をした元気のいい少女を目にしてから再び手を動かし始める。
「着替えてきたら出てくるわよ、それより他の二人は?」
「あん、すぐ来るわよ。あたしの方が足長いからどうしても早く着いちゃうんだ」
学生服のスカートから白い足を伸ばし、忙しそうなユイに見せた。
確かに細くスラッとし、見せびらかせば羨ましがられるようなしなやかな足だ。
さて本当にアスカの足が他の二人に比べて長いかどうかはともかく、彼女が台所で足を踊らせて約三十秒後、もう一人の少女が現れた。
彼女はスカートをめくり足を伸ばしている同居人に奇妙な視線を向け無言の質問をする。
「何よレイ、あんた自分の方が長いなんて言うつもりじゃないでしょうね」
幸いなことにレイはそんなことを言うつもりはないらしく、数秒後には自分の部屋に向かって台所を後にした。
「ほらアスカも早く着替えて来なさい。その立派な大根足しまって」
パチンとすねを叩かれて慌ててユイの言う大根足をスカートの中にしまう。
そして台所の隅におやつであるお好み焼きの準備が既に用意されていることを目ざとく確認する。
何しろ食べ頃だ、クッキーや煎餅ではおやつとしては役者不足なのだ。
ニタァと笑みを浮かべるとレイの後を追うように階段を駆け上がっていった。
どこか普段より身軽そうな二人の少女の様子にユイは少し注意深く観察すると鞄を持っていない事に気付いた。
二人とも鞄を学校に置いてくるようなことはしないのでどこかにあるはずだ。
取り留めもなくそんなことを考えながらユイは再び台所に向かう。
何しろ食べ頃が三人居るのでおかずの品数が多くなるのだ、それ故こんな時間から下準備を始めている。
餃子の具である挽肉やキャベツ、椎茸などの刻んだ物が入ったボールを丹念にこね回す。
程良く混ざった頃三人目が帰ってきた。
「ふぅ・・・・やっと着いた・・・ただいまぁ」
アスカもレイも教科書を机の中に置いてくる様なことはしないので、鞄にはきっちり一日分の教科書が詰まっている。
さらには今日体育があったので着替えの詰まったスポーツバックもある。
それら三人分が全てシンジの肩にのし掛かっていた。
ユイの抱いた疑問の答えがそこにあった。
「・・・・・お帰り、じゃんけんにでも負けたの?」
「当たり・・・・全くあの二人は情け容赦ないんだよなぁ、で、その二人は?」
いつもの帰り道に緊張感を持たせるべく、帰りがけに荷物を誰が持つかでじゃんけん勝負をしたのだろう。
ユイの目から見ても自分の息子はじゃんけんや勝負事にとても弱い。
結果はごく妥当でシンジが一人負けしたようだ。
さっきまで挽肉をかき回していた指を二階に指し、既に帰宅し着替え中であることを告げる。
「そのまま体操着は洗濯機の中に置いてきちゃいなさい。ついでにそれも脱いで一緒に放り込んじゃって」
今日一日着たYシャツも二階に上がる前に洗濯場に持って行かせないと、ベットの下やその辺に放り出すに決まっているのだ。
「・・・・そう言えば葛城さんから電話有ったわよ、訓練予定が変わるから明日本部に顔出すようにですって」
「ん、また学校で言い忘れたんだよあの人は・・・・本当に指揮官なのかなぁ」
「忙しいんでしょ。一人で二種類の仕事をこなすなんて普通じゃ出来ないわよ」
この間の使徒迎撃戦以来シンジのミサトに対する評価はどことなく点数が辛い。
だからといって特務機関NERV作戦本部長葛城三佐の業務に差し障りが出るわけではないので当の本人はどこ吹く風だ。
「まぁ母さんには関係ないよ、了解。じゃあ荷物置いてくる」
*
『避難者確認済み名簿』そう書かれたコピー用紙をベットの上で広げると口の中でアルファベットを呟く。
「・・・A・・・・B・・・・C・・・・D・・・・E、此処だ。あ・・・吾川・・・朝香、綾波・・・碇」
幾つかの名字の中に自分の良く知っている名字を見つけると大きく息を吐いた。
「何よ、Eブロックに居たんじゃない。当たり前って言えば当たり前か・・・・Dは閉鎖されてたんだし」
シンジとレイがDと言ったのは恐らく勘違いだろう、そんなことに嘘を付く必要があるわけがない。
そう思い込んだアスカは、制服のままコピー用紙の上に寝転がり天井を見つめる。
今日の空よりも透明な蒼い瞳にはいつもと変わらない天井が映し出された。
当たり前だ。
いつもと何も変わらない部屋なのだ、天井だって変わるわけがない。
そして避難者名簿の中にシンジとレイの名が載っているのもこの第三新東京市においてはごく当たり前の話なのだ。
アスカは自分が二人の名を見つけどこかホッとしている事に奇妙な違和感を感じざるを得ない。
シンジもレイも避難したと明言した、なのにこうして避難名簿を取り寄せ確認しないと納得できなかった。
あの二人が嘘を付かねばならない理由などアスカの知る限りどこにもない。
背中の下でしわくちゃになった名簿を引っぱり出して上から縦に破っていく。
本当なら初めからこんな物に用など無かったのだ、この間から小さな骨のように引っかかっていた疑問が鬱陶しいだけだ。
・・・・バッカみたい!あたし何考えてんだろ・・・・
ベットから跳ね起きるとブラウスとスカートを脱ぎ捨てて手近にあったデニムのスカートとグリーンのシャツを羽織る。
そして手の中に握られている親のカタキのようにちぎられた名簿をクズカゴの中に散らした。
まるで雪のようにクズカゴの中を白く埋める。
他の塵を覆い隠し、白い紙切れだけしかないように見えた。
手を軽く払うとクローゼットを開き大きな鏡に自分を映す。
栗色の髪を束ねていた髪飾りを一旦解き頭を振ると、光の束のように広がった。
そしていつものように櫛で梳く。
・・・・そうよ、あれだけゴタゴタするんだモン、行き違いだってあるわよ・・・・
そう思い続けないと自分を納得させきれなかった。
偶然、行き違い、勘違い、混乱等々ありとあらゆる語句を用いないと自分を納得させられなかった。
こんな意味のない疑問など何時までも抱えていたくない。
納得することが昨日と同じ今日を今日と同じ明日を得るためのおまじないだ。
今までもそうしてきたように。
一旦ずれたら二度と戻らずそのまま離れていってしまう、それも自分一人だけがこの場から離れていってしまう。
小さな音を立て髪留めが止められると鏡の中にはいつもの自分が居た。
いつもと同じ綺麗に整理された部屋を見回し、自分がまだ此処にいることを確認する。
何一つ変わらない事に安堵しながらスカートをハンガーに引っかけた。
「アスカ、シンジ、レイ、お好み焼き焼けてるわよ。早く降りてきなさい」
一階から聞こえるユイの声に応えるように隣と向かいの部屋の扉が開いた。
「アスカ、おやつだって」
「解ってるわよ、先降りてて。でも先に食べたらダメだからね!」
シンジの声に慌てたようにシャツのボタンを填め、鞄を棚にしまい再度髪型を確認する。
二つに均等に束ねられた髪が静かに揺れる。
全ての疑問は細かく破り捨て、心の隅に投げ込んだ。
細かく刻み全てを覆い隠し、見えなくなった事に安堵する。
風が吹けば簡単に吹き飛ぶ程度の物でしかないことは承知の上で。
「あたしのお好み焼きは焼いたダメよ!自分で焼くんだから!!」
扉は勢い良く開いた。
続く
ども、ディオネアです。
なんとか生きてます、これも人徳と言うことで・・・・・
んなこたぁともかく今回もお読みいただき有り難う御座います。
話の筋といたしましてはアスカが碇家に引き取られて一年と半年後のとある秋です。
ナオコさんも出てきました、昔は生きていたんですねぇ(笑)
さて『冬月学校』(爆)ですがそのうちもっと細かく書くと思います、好きなんですよ、こういうの(笑)
何にかぶれてるのか一目瞭然・・・・・・
てな訳で自壊・・・次回、「使徒迎撃戦て何回目だっけ(マジだけど仮題)」でお逢いしましょう。