夜空に大勢輝いていた星達が遊び疲れ家路につくと、暗幕はゆっくりと捲り上げられ舞台背景は朱色に変わる。
漆黒の衣装を纏っていた海は空に合わせ時計の針が進むごとに空と共に明るい色へと変えていく。
エキストラの海鳥が数羽浜辺を散歩し、泥棒役の野良猫が漁船から降ろされた魚を虎視眈々と狙っていた。
後少し日が昇れば朝という名の劇が始まる。
26からのストーリー
第十五話:嘘と理由
甘い香りだが些か鬱陶しい感触をシンジは顔に感じ、うっすらと目を開けた。
目覚ましに頼らず起きたのは久しぶりかも知れない。
・・・・・・何で・・・アスカが?・・・・
記憶の扉はまだ営業時間ではないらしく鍵が掛かったままだ。
だから自分の背中に感じている引っ張られるような感覚の原因も心当たりがなかった。
彼の顔にかかっている長い髪は明るい栗色。
その持ち主は背中を向けたまま眠りの国から戻っていない。
規則的な寝息と共に白い背中が僅かに動く。
シンジの指は自分の顔にかかった髪の毛を軽く払いのけ、そのうちの少しを指に絡めた。
細くしなやかで柔らかい感触が伝わる。
やがて指に絡む栗色はは少しずつその量を増し、彼の手の平全体でその感触を楽しんだ。
幾度も指の間をまるで水のように滑らかにすり抜けては再び手にすくう。
そして幾度も同じ事を繰り返す。
何故そうしたかはシンジ自身でも判らない。
夢と現実の狭間にある時間、活性化していない頭は『理由』を生み出さずに欲求のまま彼の手を動かした。
夢うつつのまま、背中までの長さを持つ髪に顔を埋めた。
シンジを包んだ淡い香りは今という時間を忘れさせる。
そして昔のことを思い出させた。
懐かしさと言うほど大げさな物ではないが。
・・・・何してるんだ・・・・
時折浮かぶ理性に似たものが自分自身に何か呼びかけるがその声はあまり大きくない。
そしてタンクトップの隙間から見える白い肌は、よりその声を聞こえづらくしている。
アスカという少女、キョウダイであり他人でもある少女。
何時も側にいる女、だが近寄りきれない『キョウダイ』。
今朝は彼の足に付いている重りが少しだけ外れていた。
カーテン越しに差し込むぼやけた光は、まだ早朝であることを示している。
体に戻りかかっている感覚は自分の寝ている場所が柔らかいベットの上ではなく、堅い床の上であることに気付かせていた。
そして背中にいつもと違う感触をアスカに伝えている。
・・・・レイ?・・・・
共に暮らしている蒼銀の髪を持つ彼女の顔を思い出す。
夕べは疲れていたのでベットに潜り込む前に力尽き、床で眠ってしまったらしい。
自分がレイに毛布を掛けてやったところまでは覚えている。
その時確か隣にもう1人いたはずだ。
今、背中で感じている感覚は何故か昔のことを思い出させる。
記憶に残っている程度昔のこと。
・・・・シンジ?・・・・
少しだけ後ろを振り返るとアスカの記憶が正しいことを証明していた。
「シンジ?・・・・・何してんのよ・・・・」
背中で自慢の長い髪に顔を埋めている彼に問い掛ける。
「あ・・・おは・・・よう・・・・その・・・・・・・」
シンジの鼓動が一際大きく跳ね上がった。
バツの悪そうな、そして目を合わせようとしないシンジを何となくアスカはおかしく思う。
小学校の頃シンジが彼女のノートに落書きした時も同じ様な顔をしたのだ。
その頃と変わっていない表情。
アスカが顔の向きを変えると間近で幾分の笑みを浮かべた蒼い瞳がシンジを見つめる。
跳ね上がっていた彼の鼓動はゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
それと共に何かとても悪いことをしていたような罪悪感が心の中に頭をもたげる。
そんなシンジを見透かしたように見つめると、まったく別のことを口にした。
「そう言えば昨日あのまま寝ちゃったわね・・・・風邪ひかなかった?」
「うん・・・・毛布掛かってたから・・・・」
まるで重さを感じさせない柔らかい肌触りがシンジを包んでいる。
今度は顔をその毛布の中に隠そうとしたがアスカの白い手に遮られ蒼い瞳に再び見つめられた。
「顔・・・・髪の毛付いてるわよ・・・・」
一本だけ張り付いているシンジのより長いそれを細い指が顔を撫でるようにしながら取り除いた。
「・・・・ゴメン・・・」
「・・・・何が?」
何もかも知っていて、その上で責めも嘲りもしていない笑み。
自分のした事に後ろめたさを感じていたシンジには不可思議な気分に包まれた。
ほんの少しの安堵感と大部分の恥ずかしさ。
彼女の手がシンジの顎の辺りを押さえ、毛布の中に逃亡しようとしたシンジをいとも簡単に取り押さえた。
「何逃げてるのよ」
「逃げてないよ、眠いだけだよ・・・・」
既に眠気は再び早くなった鼓動でどこかに飛ばされてしまっている。
手はそのままシンジの頭に伸びるとやさしく撫でた。
「シンジの髪って意外と柔らかいのね」
彼がしたように指の間に滑り込ませると同じように幾度もそれを繰り返す。
「何するんだよ・・・・」
そう口にはしたが何となく拒否する気にはならなかった。
アスカの子供をあやすような仕草に少し反発したが心地いいのか大人しくしている。
覚醒を始めた脳にその感触は古い記憶を掘り返した。
自分がアスカより『子供』だとは認めないが彼女の方が年上では?と思うようなときもないわけではない。
シンジは時折彼女のそんな優しさを垣間見ていた。
アスカは自分の髪を手ですくと少し首を振る。
さすがに床の上で寝ていたので少々あちこちが痛いが動けばすぐに消えてしまうだろう。
枕元に置いてあるダイバーウォッチはまだ朝の6時半だ。
アスカはまだ起きてしまうのが惜しく感じた。
眠いからではなく他の理由で。
シンジの顔をこんな間近で見たのは久しぶりかも知れない。
小さい頃からずっと伸ばし続けている髪を肩越しに前に流す。
「今日・・・・どこ行くの?」
「話したでしょ?自転車借りて水族館行こうって言ったじゃない」
ようやく絞り出したシンジの声は少し枯れていた。
不満そうに頬を膨らませながらも教えてやる。
近くの貸し自転車でサイクリングがてら水族館に行こうと第三新東京市にいる時から言ってあったのだ。
「そうだったね・・・ゴメン・・・」
「もう!謝んないでよ!」
色々な罪悪感の滲み始めたシンジの頭を軽く小突き、ついでに頬をつねる。
張りがあり柔らかく、意外なほどきめの細かい肌の感触に少し驚いたが指先の感触は心地いい。
無意識かも知れない。
シンジの手は前に流れているアスカの髪を再び指に巻き付け弄び始めた。
彼女はそれを拒まずに自分もシンジの頬を指先でそっとなぞり、くすぐったそうに目をつむる彼を眺める。
アスカが髪を触らせるのは美容師とシンジくらいだ。
シンジの頬を触りたがるような物好きはアスカぐらいかも知れない。
そして昔からだった。
手持ちぶさたになると癖のようにいつも目の前にあった長い栗色の髪をいじった覚えがシンジにはある。
その持ち主も別に嫌がったりせずシンジに貸していた。
いつからだろう、その事が出来なくなったのは。
アスカに嫌がられたわけでもない、誰かに止められたわけでもない。
いつの間にか昔みたいに触れ合うことはなくなってきた。
自然に無くなった。
「同じ部屋で寝たのって久しぶりよね・・・・」
「う、うん・・・・・仕方ないよ・・・・昨日は疲れてたし・・・つい眠っちゃったし・・・・」
そんなシンジの言葉にアスカの表情は少し陰る。
別に何も責めてはいないし謝って欲しいわけでもないのだ。
・・・・言い訳なんかしないでよ・・・・
「でも・・・昔一緒に寝てたよね。幾つくらいまで一緒だったっけ?なんか思い出しちゃったな」
アスカの表情に何か気が付いたのではない。
確かに彼女と共有出来る記憶という物は持っていて、今朝それを掘り出していた。
早朝のほんの一瞬、明け方見た夢が交差したのかも知れない。
・・・・・何よ・・・ちゃんと覚えてるじゃない・・・・
シンジの頬に触れていた指先は手の平全体へと変わる。
包むように、そして少しでも何かを感じたいかのように指を広げた。
「アスカ?・・・・」
「あ・・・・うん」
アスカの周りに流れている時間が急に遅く感じる。
そしてシンジと目があった途端心臓が大きく跳ね、時の流れを感じられなくなってしまった。
少しだけ大人びたような目、以前とは違う雰囲気。
久しぶりに間近で見たシンジは少し記憶にある彼とはズレが生じていた。
彼の頬に触れている右手が熱く感じる。
何気なく触れているだけだった筈なのに二人は体が動かなくなってしまった。
昔とは違うのだ。
・・・・シンジなんて子供の癖に!・・・・
その事が少し悔しく、でもそれだけではない感情もある。
彼女自身良く判らない。
そしてシンジに触れている右手をどうすればいいかも判らなかった。
「アスカ・・・・・・あの・・・・」
「バ、バカシンジ!」
彼の言葉を遮るように右手でシンジの頭を抱きしめる。
抱きしめたように見えるかも知れない。
アスカは黒い髪に顔を埋めると大きく息を吸い込み匂いを嗅いだ。
「あんたあたしのシャンプー使ったでしょ!!」
「いた、痛い!知らないよ!」
ギリギリと黒い頭を抱えた右腕に力を込めなおもシンジに問いただす。
「他に誰が使うって言うのよ!・・・・この匂い!やっぱりあんたじゃない!」
締め付けられた頭の中にピンク色の容器に入った何とか限定と銘打ったご大層なシャンプーがあったのを思い出した。
「あれは滅多に買えないんだから!このバカシンジ!!!!」
本当にそのシャンプーの匂いがシンジからしたどうかは定かではない。
理由などどうでも良い、固まってしまった体を動かすのにはどうしてもアスカにきっかけが必要だったのだろう。
堰き止められていた時間が一気に流れ出す。
お陰でシンジはその濁流に飲まれもみくちゃにされていた。
「痛い!知らないよそんなの!!無実だ!無実だってば、濡れ衣だよ!!イタイタタタ」
無実の叫びなどどうでも良い。今そんな物に価値はない。
「半分も減っていたんだから!あんたどっか行って見つけなさいよね!!コノコノコノ!!」
彼らにはさして珍しくもない騒々しさが3人の寝室に鳴り響いた。
*
赤い瞳が姿を現したのは目覚まし時計によるものでもなく誰かに揺り起こされたわけでもない。
手に掴んでいた何かが無くなった途端自然に目が覚めた。
そんな彼女を出迎えたのは明るい騒々しさだ。
「・・・・・・・」
まだ焦点の合いきらない部屋の中、情けない悲鳴だけははっきりと聞こえる。
声を上げている者、上げさせている者その両方を良く知っていた。
だからまったく見知らぬ部屋で目が覚めたとしても気にならない。
「何・・・・しているの?」
しかし疑問がないわけではない。
何故早朝の六時からこんな大騒ぎになるのか?飛んでくる『流れ枕』を身を避けかわす。
そんな訳の分からないといった表情の彼女に明るい挨拶が飛んだ。
「オハヨ、ゴメン、レイ起こしちゃったわね」
今度は避けることなく挨拶を受け取る。
ニヘッと笑っているところから騒ぎ自体に何の深刻さもないことを見て取ると毛布を再び頭から被ろうとした。
夕べは早く寝た・・・・と言うよりいつ寝たのか判らないほどすんなり眠ったので充分睡眠はとってあるのだがそれでも6時は眠い。
「こら!もう起きなさいよ!充分寝たでしょ」
「よしなよ・・・・まだ6時だし・・・」
そんな制止も聞かずにアスカはレイの被った毛布を無理矢理引き剥がすと相当に機嫌の悪そうなレイが現れた。
「何でそう言うこと・・・・するの?」
もう少し語彙があれば言いたいことは、まだあったかも知れない。
だがそんな彼女の目に飛び込んだ、この部屋には居ないはずのシンジの姿が彼女の口をつぐませた。
「碇君?何で・・・・・」
なにやら気まずそうに引きつった笑顔のシンジに顔を向ける。
実際彼としてはえらく気恥ずかしい。
アスカと同じ部屋で寝たというのは大して気にもならないが、レイの場合事情が違う。
やはり小さい頃から一緒に過ごしたアスカと同じ様にというわけには行かない。
レイにどうしても『女性』をより感じてしまう。
赤い瞳に見つめられ一気に顔が熱くなった。
「あの!その!し、知らない内に寝ちゃって・・・わ、わざとじゃなくて」
しどろもどろで何か必死に弁解するのも仕方がないと言えなくもない。
何しろ『同級生』と同じ部屋で一晩過ごしたのだ。
上昇した脈拍数と真っ赤な顔で懸命に言葉を探すが動揺しているため上手く出てこない。
「だから・・・あの・・・・ゴメン・・・・」
そんな様子を謝られている当人は不思議そうな目でシンジを眺めていた。
彼の謝る理由が今ひとつ判らないのだ。
レイ自身謝って欲しいことなど何もない。
「別に・・・いい・・・・・・」
不快ではなかった。
むしろ安心して眠れたようにすら感じた。
右手に握っていたシンジのシャツの感触がまだ残っている。
独りではないことの実感・・・・・。
「ねえレイ、お風呂入りに行かない?」
毛布三枚をベットの上に放りあげたアスカは早速バックからバスタオルを取り出していた。
これ以上眠るつもりはもう無いし朝日の誘惑には勝てない。
さらに清々しい朝の露天風呂、これは魅力充分だ。
朝食まではまだ時間があるし彼女自身少しもやついた気分をスッキリさせたい。
シンジとレイの頭にバスタオルが舞い降りる。
「ほら、さっさと仕度してよ。外いい天気だしさ」
*
青い空に蒼い海、白い砂浜。
シンジが小学生の頃書いた絵のような光景は露天風呂からもよく見える。
「でさーシンジの奴ったら転んでビービー泣いてるの。あいつすぐ泣くんだから」
興味津々の赤い瞳に気をよくしているアスカは次々とシンジの過去を暴露していった。
「そんで小学校上がったときも鉛筆がないってずっと泣いてたんだから。写真取るときも泣きっぱなし」
幾分赤く染まったレイの頬が結構な時間お風呂に浸かっていることを示していたが、今だあがろうとする気配はない。
「昔から・・・ずっと一緒だったの?」
「うん、この家に来てからずっとね・・・・そう言えばシンジってずっと側にいたみたい」
羨ましそうなレイの瞳がアスカにはくすぐったい。
・・・・でも不公平じゃないわよ・・・・
多分シンジにとってレイは自分以上に『女性』なのだ。
多分シンジにとってアスカはレイ以上に『キョウダイ』なのだろう。
「難しいのよ・・・・一緒にいるってさ・・・・」
ほんの少し陰った表情にお湯を浴びるとすぐそれを洗い流す。
そしてこの話を打ち切ると今度はアスカの興味を満たすための話を始めた。
「レイって昔何処にいたの?」
「・・・・・・・バカだ!」
風呂に入る前からのぼせていた頭を冷たい水で冷やす。
アスカが目覚める前にしていたことがまるで棘のように体に巻き付く。
「やっぱり・・・バカだ・・・・嫌な奴と思ったろうな・・・・」
お湯より熱く感じる自己嫌悪に湯当たりしながらそれでも風呂から上がろうとはしなかった。
さっきまで確かにアスカとふざけていたが、もしかしたら彼女は嫌がっていたかも知れない。
今まで感じることの無かった不安。
キラワレタカモシレナイ・・・・
もしかしたら初めて実感できたかも知れない。
足下が急にぐらついた。
言い様のない喪失感。
眠気が去り意識が覚醒するほど心にのし掛かる。
キラワレタクナイ・・・・
砂浜に海。
昨日一緒に遊んだ浜辺が何故か遠く感じた。
「あなた・・・・そろそろ起きて・・・あの子達はもう起きてるわよ」
「放って置け・・・」
カーテンを開け放った窓から眩しいほどの光が差し込むがゲンドウの心は揺るがない。
まだ寝ている、堅い意志の元布団の中に潜り込んでいたが後数分でユイに引き剥がされることだろう。
「今日は買い物に付き合って。この先の漁港で朝市やるから行きたいのよ」
「ああ・・・・そのうち付き合う・・・」
「そのうちじゃなくて今朝よ」
寝起きの悪い夫に遠慮することなく自分はさっさと身支度を整える。
グリーンのスカートにサマーセーター。
かなり薄目の化粧を施す。
必要以上にはしない。
シンジが小さい頃から化粧品の臭いが駄目で小学校時代の参観日にはよくトイレに駆け込んでいた。
それでもユイは実際の年齢より若く見られることの方が多い。
「・・・・まだ早いぞ・・・」
ベットの上で丸まっている毛布の中からゲンドウのうめき声が響く。
「もうやってるわ。ほら、起きて顔でも洗ってきて」
まるで最後の砦のようにしがみついていた毛布をいとも簡単に引き剥がされると諦めたように鬱蒼と身を起こす。
目の前に突き出された洗面用具一式を受け取ると渋々と言った様子で洗面所へと向かった。
普段より1時間ほど早起きしたため、普段より険しい表情で鏡の中の自分を睨み付ける。
・・・・何をはしゃいでいるんだ?・・・・
妻の様子に若干の不可解さを抱きつつも髭の生えていない場所にカミソリを当てた。
器用に動かしながら顔をなぞる。
今日もこの部屋でのんびり過ごすつもりだったがそういつも予定通りに行く筈はない。
尤も今回ばかりは逆らいようがないのだ。
そのつもりもない。
唯一ゲンドウの行動を自由に出来る存在。
最も彼に深く入り込んだ存在。
硬質化した心で唯一感じ取れる優しさの象徴・・・・
「・・・・・・・!」
軽い痛みと共に頬に赤い筋が描かれた。
考え事をしていたので手元が狂ったのだろう。
カミソリの傷なので深くはないがあまり見栄えの良い物ではない。
顔の向きを変え鏡を覗き込むと2、3カ所同じ様な傷がある。
「切ったの?どうせ他のこと考えながらやってたんでしょ・・・・診せて」
苦笑を浮かべたユイは夫のシャツを片手にすぐ背後にいた。
急かしに来たのだろう。
空いている右手が彼の傷をそっと拭う。
赤い色が頬から指先に移るが気にした様子もなく傷口を注視している。
「クリームで止まるわね・・・・動かないで」
洗面所に置いてある自分のフェイスクリームを指先に付け再びゲンドウの顔に触れた。
大した痛みではなかったが感じていた痛覚はユイの指先に吸い込まれていく。
「これで良し、じゃあ早く着替えて。買い物行きましょう」
ソワソワした様子がゲンドウには可笑しい。
ユイが普段よりやはり浮かれている感じがするのだ。久しぶりに見たのかも知れない。
そんな彼女の嬉しそうな様子を。
恐らくはつかの間の団欒。
だから悩むことなく今の仕事、特務機関NERV司令と言う自分を認められる。
他の全てを排除して、たった一つのことだけに全てを賭けられる。
彼には守る者もその理由もその両手にしっかりと握っていた。
そして何を踏み躙るかも心得ているゲンドウだった。
*
「シンジは何にするの?さっさと決めなさいよ」
アスカは保養所ロビーにある自動販売機の前でまだ何を買うか悩んでいるシンジに声を掛けた。
3人とも湯上がりでほんのり赤い顔をしている。
レイもアスカも缶ジュースを飲み終えていたがその間ずっとシンジは何を買うか悩んでいるのだ。
半ば呆れた様な蒼い瞳がシンジを見つめる。
毎度のことながら彼は下らないことで悩むのが好きらしい。
「えっと・・・・レモン・・・・グレープ・・・コーラ・・・」
いずれかを決めかねるように自販機の前を指がかれこれ2、3分ほど右往左往している。
そんな指をはね除けるようにアスカの指が適当なボタンを押した。
「半分ちょうだいね!」
もう待ってられない、そう言いたげな表情を見せている。
気が短いわけでもないがシンジの悩みに付き合っていると日が暮れてしまう。
自販機の吐き出したレモンジュースを手にするとプルトップを引き起こし早速アスカが飲み始めた。
「あ!!僕の・・・・」
「遅いのが悪い!ほら、あげるわよ」
販売当初より半分ほど軽くなった黄色のアルミ缶を渡されると火照った喉にレモンと炭酸を流し込む。
「おばさま達さっき出かけたんでしょ?デートかな?」
昨日から何かとユイとゲンドウに目を光らせているアスカが早速二人の靴がないことに気が付いた。
「さぁ・・・その辺散歩でもしてるんじゃない?」
「だ・か・ら!デートって言ってるんでしょ!!」
しびれを切らした様に彼女の語気があらくなる。
・・・・何でこの男はこうも鈍いの!!・・・・
すぐ意見を同じく出来ればそうは思わないが反論どころか彼女の意図したところが伝わらないのだ。
焦れったい思いを今まで何度したことか。
一日が経つごとに、身長が1mm伸びるごとにそんな事が増えていく。
焦れったく、時々少し寂しい想い。
『鈍いシンジ』がもっと違えば少しは減ったかも知れない。
だが鈍くて良かったと思うことも確かにあるのだ。
綾波レイと言う少女の瞳にはついさっきまでいつも見ている少年が映っていたが今は手にした缶コーヒーの空き缶が映っている。
飲み干してしまったことを後悔していたが今更どうしようもない。
ほんの少し手荒くくず入れに放り込むとすぐ側の窓ガラスに映った半分透明な自分を見つめた。
お風呂に入っていたためまだ顔が少し赤い。
だが寝癖はもう無い。
今日の空と同じ色の髪をかき上げると細く柔らかい髪は軽やかに流れいつもと同じ髪型に戻った。
「今日・・・何するの?」
今だ何か言い合っている二人にレイの基本的な質問が届く。
「あんたも忘れたの!?今日は自転車で水族館!」
水色の頭を手で包むとユサユサと左右にシェイクする。
そのお陰ではないが確かにそんなことを聞いた記憶が揺れる頭の中に蘇ってきた。
何か言い忘れたことがあったような気がしたが、部屋に戻るアスカに手を引っ張られたので忘れてしまった。
*
朝食はクロワッサンとスクランブルエッグ、コンソメスープにアイスコーヒー。
眠そうなゲンドウを引き連れ、含みを持った笑みを浮かべたユイと共に食べた保養所内レストランのモーニングセットは美味しかった。
ただ自宅で食べた方が何となく落ち着くと思うのは我が儘だろう。
「さてシンジ、レイ、仕度してね。おじさま、自転車借りるからタダ券頂戴」
「おお、そうだアスカとレイの二人分だったな・・・・シンジ、何物欲しげな目で見ている?」
ピンク色の紙切れ三枚を指に挟みピラピラと息子に見せびらかす。
「欲しそうだな・・・・ふっ、取ってみるか?」
さも自信ありげな顔でシンジに目を向けニヤァと笑う。
しかし彼の息子はまったく動じた様子もなくアイスコーヒーを飲み続ける。
ゲンドウの後ろでアスカが微笑んでいた。
まるでカモメが舞うように白い指はピンク色のタダ券を一瞬にさらう。
「ありがと、おじさま。さ、シンジも部屋に戻りましょ!」
へへっと笑いを浮かべシンジの手を引っ張り椅子から引き起こす。
「おい、シンジ、卑怯とは思わんのか?」
勿論、微塵も思っていない。
ゲンドウに帰ってきたのはアスカが舌を思いっきり伸ばした顔だった。
結局中学生3人はレストランを後にし、テーブルには苦笑を浮かべたゲンドウと呆れ顔のユイが残されている。
「何でそう下らないことをするのかしら?」
「さあな・・・・」
とぼけた様子でテーブルに頬杖を付く。
「シンジをからかうのも程々にしてね。あなた限度がないから・・・」
「ああ・・・・」
ホントに判ってるのかしら?
手元のティーポットで夫のカップに紅茶を注ぐ。
恐らくシンジをからかう理由など無いのだろうし、ゲンドウ自身判らないだろう。
「問題ない・・・・俺はいつも通りだよ」
頬杖の隙間からゲンドウの笑みが見える。
ユイしか見たことのない微笑み方だ。
紅茶の香りが彼女には心地よかった。
「シンジ・・・・・ホンット!!あんた何でそう決めるのが遅いのよ!!!」
腰に手を当て仁王立ちのアスカは膝丈のホットパンツにピンクのトレーナーの腕まくり。
ライトグリーンのキャップを反対向きに被ったスポーティーなスタイルだ。
レイも同じ様にライトグリーンのホットパンツにダークブルーのメッシュの帽子。
一方まだ自転車を選んでいるシンジはジーンズ地のカーゴパンツにミサトにまだ返していないパーカーだ。
「いいだろ、ゆっくり選んだって・・・・・判ったよ・・・すぐ選ぶってば」
胸にまだ残っている罪悪感もあってか一睨みでシンジはあっさりと趣旨を変えた。
結局ろくに選ばず手元にあったMTBに手を掛けた。
リアに簡単なキャリアの付いた自転車だ。
アスカはとうの昔に赤いロードレーサーを選んで手続きをしていたのだ。
レイは何でもいいらしく神妙な顔でMTBを手にするとアスカの後を付いて手続きしていた。
「じゃあ、お借りしまーす」
「はい、ではお気を付けて行ってらっしゃい」
自転車貸し出しの係員は過剰なほどの丁寧さで3人を送り出した。
まだ夜の涼しさの残る朝の海岸線を潮風に髪を揺らし自転車で走る。
日差しはまだ心地いいと感じられる時間だ。
遠出と言うほど大げさでもなく、散歩と言うほど近場でもない彼らの旅行。
3人の自転車は音もなく滑り出しこの先にある水族館へと運ぶ・・・筈だった。
派手な音を立て何かが倒れるまではその筈だった。
「レイ!!」
アスカとシンジが自転車を飛び降りて駆け寄ってくるのが見える。
ただ地面が90度ほど傾いていた。
膝と肘がヒリヒリする。
「大丈夫!?ねえ!?」
アスカに起こされ身に付いた砂を払って貰いながら俯いてしまった。
「もしかして・・・・・自転車乗れないとか?」
シンジが地面に投げ出され散らばったポシェットの中身を拾いながら訪ねると、一回だけ水色の頭が小さく上下する。
「乗ったこと・・・・・無いから・・・・」
「あんたバカァ!?何で先に言わないのよ!ホントに・・・・怪我はないの?」
レイの頭にメッシュの帽子を乗せるとポンッと軽く叩く。
責めるつもりは毛頭ないがつい言葉が荒くなったと少しアスカは後悔した。
俯いたままのレイに対する小さな罪悪感を押し込むと彼女の借りたMTBを引き起こす。
幸い何処も破損はしておらず、恐らくレイも擦り傷だけだろう。
自分のウエストバックから絆創膏と消毒薬を取りだす。
アスカの予想ではこれらはシンジが使用する筈だったのだが意外な伏兵がいたようだ。
白い腕の赤くなった部分に景気良く振りかけた。
「!!」
滅多に変わらないレイの表情が歪む。
「ア、アスカ・・・かけすぎ・・・もっとそっと・・・・」
過去の体験が思わずシンジの目を背けさせた。
がさつとは言わないが思いっきりが良すぎる、と彼は口にすることなく心で呟く。
「贅沢言わないの!ほらっそっちも出して」
レイは消毒してくれるアスカをとても有り難く思う。とても有り難く思うが何故か腕が伸びない。
そんな事に構う様子もなくグイッと左手を引っ張り、肘とその周囲にたっぷりと消毒薬を吹き付けた。
「!!・・・・・・・・」
アスカの目が膝に向いたとき、知らずに後ろに下がったが逃げ切れるわけもない。
「我慢しなさいよ!子供じゃないんだから」
都合5カ所に消毒薬を満遍なくかけ終えると模様の入った絆創膏を塗りつける。
さすがに今度はそっと痛くないように塗りつけた。
シンジに昔から同じ事を何度もしてやったのですっかり手慣れてしまった。
そして今度はレイだ。
何となく自分はバカみたいだと思うが放っておこうとも、不満とも思わない。
奇妙だとは思うがそれでも納得してしまうのだから不思議だ。
さっきまで控えめにジタバタしていたレイは今度は大人しくアスカに身を任す。
「はいOK!さて・・・・どうするシンジ?」
予定は大幅に変更せねばならない。
残念であるが自転車は諦めてバスかタクシーで移動するのが妥当だろう。
少なくともレイだけ置いて行くような選択肢は最初から無い。
「ねえ綾波、良かったら後ろに乗っていく?」
シンジの唐突な発言は意外なほど気が利いているようにアスカには思えた。
彼の自転車にはキャリアが付いていて何か柔らかい物を乗せれば後ろに乗ることが出来るだろう。
道路交通法はこのときシンジの頭から実に都合良く消えていた。
「え・・・・・あ、ん、うん、そうね、レイ乗せて貰いなさいよ」
アスカは自分の後ろを見たが彼女のロードレーダーにキャリアは付いていない。
せっかく自転車を借りられるのだから予定通りにサイクリングがしたい。
その解決策としてシンジの提案は申し分ないはずだった。
「そうするわ・・・・・自転車返してくる」
「いいよ、待ってて。僕行って来るから」
レイの借りた自転車に跨ると勢い良くペダルを回した。
白い膝に派手に張り付いた絆創膏が目に付くのだ。
・・・・随分気が利くじゃない・・・・
普段ぼんやりしているシンジとは思えないほどだ。
軽く頭を振ると長い髪を宙に舞わせ何かを振り払った。
「レイ、落とし物無い?財布とか、ハンカチとか」
「ない・・・・碇君拾ってくれたから・・・」
自分のポシェットの中には実用一点張りの財布と純白のハンカチとティッシュ、黒い携帯電話と何も無くならなくて済んだ。
「もう・・・肝心なことは早めに言ってよね」
「そうするわ・・・・」
隠した訳じゃない。
理由は今となっては無意味だった。
・・・・一緒に行きたかったの・・・・
息を切らしながら走ってくるシンジが彼女の不安を無意味にしていた。
*
『ブルーラインロード』
ご大層な看板にはそう名付けられた海岸線の遊歩道。
綺麗に舗装された歩行者と自転車の専用道路は延々と伸びている。
工事着工当初は『税金の無駄遣い』『環境破壊』『工事断固阻止!』の立て札が並んでいたが、いざ出来てみれば利用者は順調に増え控えめながら町おこしの役に立っていた。
セカンドインパクトの際、さほど大きな被害を受けなかった日本海側とはいえ観光資源の回復はやはり必要だった。
『新潟生活復興計画』の幾つかの案件の中で『ブルーラインロード』敷設が含まれているのは、その当時の市長が所有する土地がこの付近にあるから、と言う噂がごく一部で囁かれていた。
何れの理由にしろシンジ達が自転車を走らせるのに障害にはならない。
まるで空の上を滑るような軽快さで赤いロードレーサーを必死に追いかけるMTB。
「バカシンジィ。おっそーーーい!」
数十メートル先から風に乗ってアスカの声が届く。
汗を掻きながら必死に追いかけるが自転車の違いと乗っている人数の違いでどだい追いつくはずはない。
「まったく・・・・すぐ・・・威張るんだから・・・」
キャリアにシンジのバックをくくりつけた『特等席』に満足しているレイにそんな愚痴が聞こえたがどう答えたら良いか判らない。
経験のない自転車のキャリアなので正直乗りにくい。
シンジがスピードを上げるたびに体がずり落ちそうになるので腰に手を回し、しがみついている。
恥ずかしいというか照れくさいというか、シンジはとにかく離すように頼もうと思ったがレイの顔があまりにも真剣だったので口に乗せることはなかった。
・・・・自転車に乗ったこと無いって・・・・・
勿論家に自転車がなかったとか単純に運動神経の問題で乗れなかったなど理由は様々有るがシンジにしてみれば今ひとつすっきりしない。
彼でさえ父親のこぐ自転車の後ろに乗った記憶があるのだ。
・・・・・綾波のこと、何も知らないな・・・・
興味がなかったわけじゃない。
同じエヴァのパイロット、その事があまりにも大きくてそれが彼女の全てだと思いこんでいたが無論そんなことはない。
彼女にも家族があり、生活があり、過去があるのだ。
その筈だ。
「綾波・・・・昔どこに住んでたの?」
「同じ事・・・・・聞くのね・・・・」
シンジの今日初めての質問はレイにとって2回目だ。
「アスカも聞いたんだ・・・・今まで聞いたこと無かったから・・・」
何となく言葉数が少なくなる。
今まで聞かなかったことが悪かったようにシンジには思えた。
「碇君・・・・あたしに昔はないの・・・・」
*
自転車のタダ券の正式名称は『石保荘・特別優待券』と言って同系列のレンタルサイクル店の自転車がどれでも無料で借りられ、さらには自転車で1時間ほどの場所にある『新潟県営笹川流水族館』の無料入場券になっている。
この水族館もセカンドインパクト以降に建てられた『復興計画』の内の一つだ。
10年近く経った今となっては外観が幾分古ぼけ始めてはいるが中身は最新鋭を誇っており、近隣一帯では最大の水族館となっている。
「ね、後でイルカショーが始まるからそれ行かない?」
「いいよ、でもまだ時間があるからもう少し見て歩こう」
南国の熱帯魚からすぐそこの海岸で見られる小魚までがシンジ達の歩いているダークブルーの通路で泳いでいた。
「珊瑚礁の魚達・・・・・ねえ、向こうに行くわよ」
こういった場所で常に先頭を切るのはアスカだ。
積極性はシンジより遙かにある。
小さいときからシンジの手を引っ張ってあちこち廻った。
今はその手を離しているが互いの距離はその頃と同じだ。
最も側にいる相手。
これからもこの距離のままなのか・・・・
「シンジ、早く来なさいよ!」
いつの間にか後ろに離れていたシンジとレイを立ち止まって待つ。
水槽を覗き込んでいるがイソギンチャクしか入っていない水槽を見て何が面白いのか今ひとつ判らない。
「もう・・・・いつまで見てるのよ・・・・」
以前は連れ回したシンジが今はなかなか付いてこない。
かと思えば今朝みたいにすぐ近くにいたりする。
二人の距離は日々変化していた。
「2人共早く行こう!!」
薄暗く広い部屋の中央に半球体の巨大な水槽が人目を引いていた。
その高さはシンジの身長を遙かにしのいでいる半球の中には色艶やかなサンゴとそれに負けない程賑やかな魚達が無数に泳いでいる。
部屋の照明はかなり暗いが水槽を照らしているライトの光が揺らいで壁に映っており幻想的な雰囲気を醸し出していた。
照明台はゆっくりと水槽の周囲を回転し、不思議な水の模様を壁に絶え間なく描き出している。
その周りをゆっくり歩いている3人の中学生も他の客と同じように呆気にとられた感じでただただ水の詰まった半球体を眺めているだけだった。
「なんかすごいお金かかってない?・・・・」
「うん・・・・なんて言うか・・・・そうだね」
建築に関しての知識など何もないので見当も付かないが家の近くのペットショップで見た水槽セットの値段から察するとこの部屋だけでもその辺の建て売り住宅が買えるだろう。
勿論海外の珍しいエビや得体の知れない海洋生物など興味を引く物は沢山ある。
それでも下らない感動の仕方をするほどこの水族館の中身は派手だ。
「でも・・・・・ほら・・・」
レイは手をすぼめシンジとアスカに見せた。
屈折率の低いガラスとレーザーや特殊ライトを使用して観客を楽しめるようにした工夫の一つ。
泳いでいる魚の影がそのままのサイズで室内に投影されていた。
「捕まえた・・・・・」
白い手の中に黒い影が泳いでいる。
たまたま泳ぎ疲れた熱帯魚が休んでいるのかも知れない、その影は暫しレイの手の中に留まった。
「あ・・・・・そうなってるんだ・・・」
アスカはようやくその仕掛けに気が付いたように辺りを見回すと、揺らぐ光の中に泳ぎ回る無数の黒い魚達を見つけた。
「すごい・・・・」
手をかざすとその中に一匹の黒い魚が舞い込む。
「ほら、あたしも捕まえた」
だが意地の悪い魚はアスカが誰かに自慢する前にするりと逃げ出してしまった。
「綾波、口元に泳いでるよ」
彼女の秀麗な顔の上をゆっくりと泳ぎ去っていく平面体の魚。
その魚を捕らえることは出来なかったが今度は別の魚がシンジの顔に張り付いた。
それをアスカが見つけると小さな声で呟く。
「シンジ・・・・動かないでよ」
ここで息を潜めても無意味なのだがアスカは何となく忍び足で顔の前に手をかざす。
「捕まえた!ほら見て!」
今度はアスカの手の中に居着いてヒレをゆらゆらと揺らしていた。
動きを影に合わせその中に捕らえ続ける。
「何だろう・・・・種類は影じゃ判らないね」
シンジの手の近くに自分の手をかざすと影は宙を泳ぎ、そして彼の手の中へと居場所を変えた。
「シンジ・・・逃がしちゃ駄目だからね」
無理難題ではあったがアスカから受け取った魚を閉じこめようと手を思わず握る。
「バーカ、ほら逃げちゃった」
幾ら逃げてもしばらくすればまた別の魚が捕まえられるのだ。
レイも何匹目かの影を手の中にしまい込んでいた。
水槽の中は水と魚の海、その外は光と影の水族館。
レイはその両方に目を奪われていた。
影と判っていてもつい手を動かしてしまう。
絶対に捕まえることの出来ない魚。
何度掬ってもその手の中には何も残らない。
・・・・あたしと同じ・・・・・
光が消えてしまえば跡形もなく共に消えてしまう影。
レイの白い手は知らぬ間にシンジのパーカーの袖を強く握りしめていた。
*
外の気温は既に35度を超しているが風が沖から吹いているため第三新東京市にいるときほど苦にならない。
アスカはその風に髪を心地よさそうに梳かさせていた。
海浜公園の丘は一面に青々とした芝生に覆われ所々に生えたブナの木が安らぐ木陰を訪れる者達に提供している。
何本有るか知れない内の一本にシンジとレイは腰を落ち着けた。
「ジャンケン・・・ポン!」
「えーー!?何でシンジが勝つわけ!?」
偶然だ。
拳を握りしめたアスカの前にシンジの手の平が小憎らしげにひらひらと舞う。
「えっと・・・コーラでいいや」
「グレープジュース・・・・・」
12時のお弁当は保養所のレストランで作った物だから期待できる。
飲み物が缶ジュースしかないのはこの際仕方がない。
ジャンケンに負けたアスカがそれを買いに行くのも仕方がない。
彼女は二人の注文を聞くとたいそう不満ながらもかなり外れにある自動販売機まで足を運ばなければならなくなった。
「じゃぁ、よろしくね」
「んべーーーーーーーーーー!!」
せめて舌ぐらい出さないと悔しくて仕方がない。
そんな彼女を見送るとシンジは携帯電話を取りだしメモリーに記憶されているナンバーを呼び出しコールした。
アスカの知らない番号だ。
三回コールしたのち出た相手はやたら脳天気だった。
「でっさーーー!リツコったらとちって昨日は徹夜よぅ。うん、でねぇ」
ネルフ本部第七休憩所でやたらと明るい声が響きわたっている。
「だからぁ、こっちは問題ないからゆっくり遊んできてよ。うん、大丈夫。そんじゃぁみんなに宜しくねぇ、司令にも問題な言っていっておいて」
回線が切れると自分を串刺しにして丸焼きにするような視線にミサトは首をすくめた。
「誰がとちったのかしら?コード足に引っかけてコンピュータぶっ倒したの何処のどいつかもう忘れたようねえ」
「覚えてるわよぅ。青葉君だったかしら、日向君だったかしら?」
恐らくその時現場にいなかったであろう人名をあげたミサトに思いやりと友愛からはほど遠い台詞が降り注ぐ。
「お腹だけじゃなく頭も弛んでるのね。そこに詰まってるのは脂肪だけだわ」
長い漆黒の髪が生えた頭をリツコの拳が軽く小突く。
「シンジ君からでしょ?電話なんて珍しいわね」
「こっちの様子はどうだ?って。確かにあの子から電話って言うのも珍しいわ」
ヘラヘラと笑いながら携帯を懐にしまい込むと缶コーヒーのプルトップを引き起こし一気に飲み干す。
味も素っ気もない食べ飽きた食堂の昼食を済ませ一休みしていたところに彼からの電話だった。
暇つぶしには丁度よかったのか結構長話をしたような気がする。
会話の中身は無駄話以外の何者でもなかったが。
「初めてじゃない?そんなこと聞いたの。あの子急に使命感に目覚めたのかしら」
リツコは半ば感心した、そして驚いたような表情を見せたがミサトは苦笑すると空き缶を握りつぶしゴミ箱へと放り投げる。
狙いははずれ床に転がったそれを渋々と拾いながら憎たらしい同僚に話し掛ける。
「別に使命感じゃないと思うけど。確認したくなったんでしょ、自分のやっていることをさ」
苦笑いが浮かべ溢れかけたクズ籠に無理矢理空き缶を押し込む。
自販機の業者がまだ回収に来ないためどのクズ籠も一杯だった。
「エヴァのパイロットのこと?」
「NERVの一員と言う事じゃない?どっちかと言うとさ」
足を振り上げ踵でクズ籠を踏み込み無理矢理スペースを作って自販機の上に置かれている空き缶も放り込んだ。
誰かが飲んだまま放り上げたのだろう。
「平和に遊んでるとさ、つい実感したくなるんじゃない?特別な立場って奴」
日本海で夏休みを謳歌している彼らを少し羨ましそうに思い浮かべる。
「きっとあの子にとって唯一の特技なのよ。エヴァのパイロットが」
「随分質素ね。自慢できないことが特技なんて」
冷笑とも取れる笑みがリツコに浮かぶ。
確かに彼女の言うように自慢できることじゃない。
シンジが自慢できないのではなく周りがさせない。
「シンジ君て・・・・惣流さんと一緒に暮らしてるでしょ、あの出来のいい子。だからどこかで引け目感じてたんだと思うわ」
ミサトが初めてシンジにあったのは中学校の入学式だ。
髪の長い少女に何か叱られながら会場の体育館に駆け込んできたのだ。
既に彼の担任となることが決まっていた彼女はそれから一年間シンジのことを見てきた。
引っ込み思案と言うほどではないが積極性はなかったように見える。
誰かと競うという事を見たことがない。
勉強にしてもスポーツにしても。
「無意識の撤退、彼が身につけた互いに傷つかない術なんじゃないの?」
「まね、血の繋がらない子と一緒に暮らすんだから彼なりに気を使った結果かもね」
競わなければ結果はでない。
結果が出なければ傷つくことも傷つけることもない。
「三つ子の魂・・・・か、それで内緒の特技が唯一の自慢・・・・なんかね」
「でもシンジ君にやっと出来た物よ。あたしに電話して確認したのよ、自分の居場所をね」
詳しいことはミサトにも判らない。
だがシンジはアスカと仲良く暮らすことを選び、結果を出すことを拒んだのだ。
全てを上回っているアスカと共に暮らす為の互いに傷つかない距離。
「いつまで続くのかしらね?そんな関係が・・・」
完全な冷笑としか取れない笑みがリツコに浮かぶ。
「彼の面倒見るのはあなたの仕事よ。あたしはMAGIの面倒見なきゃいけないから。それとシンジ君の大切な自慢の面倒もね」
手にしていた無糖の缶コーヒーを飲み干すと空き缶を自販機の上に置きそのまま立ち去った。
自分の研究室に戻り残った仕事を片づけるつもりなのだろう。
そんな後ろ姿を眺めながらミサトは何も口にしない。
何か言えば喧嘩になるだけだ。
完全にリツコの姿が見えなくなるとようやく口を開く。
「あたし達も同じじゃない・・・・お互い隠し事と嘘でしか成り立たないのよ」
キーボードの上をリツコの指が軽快にダンスする。
本来なら仕事が片づくまで誰も止めないのだが今日は違った。
「よう、煙草ないかな?下じゃ売り切れだったんだ」
この部屋に入ってくるのは以前はミサトだけだった。今はもう1人増えている。
「まとめ買いしたら?・・・・はい」
棚にある買い置きの煙草ではなく自分が1/3程吸っていた煙草を加持の口に渡した。
赤い口紅がうっすらとフィルターについたそれはメンソールの味がする。
「悪いな・・・・貰った餌は撒いたよ。」
「そう。じゃあ、回線開いておくわ。メインに進入させるから気を付けてね」
加持の手を髪に感じながら振り向くことも振り払うこともない。
彼の手を拒めるほどリツコは強くない。
少し堅い指に彼女の細い指がゆっくりと絡んでいく。
人差し指から中指へ、そして全ての指に触れるとその手を包み込む。
多分5年前最後に触れたときと同じ感触が伝わる
「ねぇ、ミサトに悪いと思ったことない?」
「昔だったらそう思えたかも知れないな・・・・今は嘘を付きすぎた」
ほんの少しだけ笑みが消え、昔を見つめるような目に変わった。
引き寄せられた手の甲にリツコの柔らかい唇が嘘つきを愛おしむ様に触れる。
「あたしには悪いと思ってる?」
問いつめるような目ではなく、むしろ悪戯な目が加持を見つめていた。
困るかどうか観察したがいつもの表情に替わりはない。
平然と笑みを浮かべた顔。
「悪いと思ったら何も頼めないからな・・・・・信頼してるって事だよ」
「調子いい事ばっかりね」
腕を伸ばすと加持の髪を軽く掴み自らの唇を重ねた。
「知ってる?大切にしている人により多くの嘘を付く・・・・加持君は誰に嘘付くの?」
「シンジーは嘘つーきー」
楽しげな歌声が海を見渡す草原に流れる。
アスカ作詞作曲の歌に登場する当人は当然のように面白くない顔をしているがさほど深刻でもない。
手にしたソフトクリームが嘘つきの原因では深刻になりようがないだろう。
「チョコチップって言ったのにーストロベリーなんてあー嘘つきシンジー」
「もう、いいじゃないか別に変えたって。イチゴの奴が食べたくなったんだから」
いざ買う直前に気が変わり種類を変えただけで歌まで作って貰えたのだから光栄と言えば光栄かも知れない。
ソフトクリームのバニラをマイク代わりに続いた『歌謡ショー』は終わって意地悪そうな顔が浮かぶ。
「そうよねぇ、あっちにフラフラこっちにウロウロなんていつもの事だもんね」
「性格悪いなぁ・・・・ブッ!」
余計な一言は舐めていたアイスクリームをポンッと叩かれたことで報いられた。
口の周りにたっぷりクリームを付けて化粧した顔をケラケラとアスカは笑う。
シンジは結局『嘘つき』を一度も否定しなかった。
アイスクリームはともかくそれ以外の部分で大きな嘘をアスカにしていた。
エヴァのパイロット。
アスカの知らないもう一つの顔。
幼いときから共に暮らし同じ物を食べ、同じ時間を過ごした彼女には伝えていないもう1人のシンジ。
もう伝えることは出来ない。
彼女を守るためにエヴァに乗った。
彼女を巻き込まないために嘘を付いた。
そして彼女を傷つけないためにごまかし続けなければならない。
今まで無意識にやっていたことを自分の意志で選んでいた。
アスカが微笑むほど罪の意識に呵まれ、その意志を堅くしていく。
堂々巡りなのは判っていた。
・・・・・そうだよ・・・・・仕方ないんだ・・・・
海を見つめるシンジの目にはアスカの見たことがない程の翳りが生まれていた。
「ね、どうしたのよ・・・・・怒ってる?・・・・」
少し調子に乗りすぎたと思うとアスカの少し鼓動が早まる。
滅多なことでは怒らないシンジだけに黙り込むと何を考えているのかアスカでも判らない。
その辺りは父親とそっくりだと何となく思っている。
「へ?別になんでもないよ・・・ゴメン、ホント。なんでもないんだ」
「じゃあ脅かさないでよね!バカシンジ!!」
脅かしたつもりのないシンジはポカンとしているが彼女にしてみれば充分文句を言いたくなるのだ。
ただ同時に鼓動も元に戻る。
少し変わり始めたシンジに敏感になっていたのかも知れない。
芝生の上を浜風が三人の頬を撫でながら通り過ぎていく
「芝生の上って気持ちいいわね。なんかこうのんびり出来てさ」
「うん・・・・ねえ、綾波、口の周りすごいよ」
隣に座ったレイの顔を見るなり二人は苦笑を浮かべる。
クリームで口の周りが真っ白になっていた。
「食べ方下手だね・・・・」
そうかも知れない。
口の周りだけでなく彼女の手もアイスが垂れ始めている。
不器用の一言で済ますのもなんだが、食事に関しては全般的に食べ方が下手なようだ。
しかしそんなレイをアスカはさり気なく弁護に似たようなことを口にした。
「えっらそーー!シンジなんか昔顔どころか洋服までベトベトにしたじゃない」
記憶の中にはそんな出来事が事細かく整理されいつでも引き出せる。
特に小学校時代お気に入りのブラウスにベットリとチョコアイスを付けられたことなど多分ずっと忘れないだろう。
全ての記憶にシンジの顔が映っている。
「だからシンジは偉そうにそんなこと言っちゃいけないの。判った?」
シンジ以上に偉そうなアスカだった。
「判ったよもう・・・・あ、綾波ハンカチ持ってる?ティッシュなら有るけど・・・」
持ってはいるが手がアイスまみれなのでポシェットを触れる状態ではない。
シンジが窮屈なポケットに押し込まれ疲れ果てているポケットティッシュを無造作に引っぱり出すとレイに渡そうとした。
「あの・・・・・・拭いて・・・」
その言葉を口にするのにどれほどの躊躇いを乗り越えただろう。
アスカに傷の手当をして貰ったたとき感じた事。
シンジに自転車に乗せて貰ったときに感じた事。
・・・・優しくして貰える・・・・
レイはもう一度それを求めたかった。
それを与えて欲しかった。
今まで貰ったことのない、望んだこともないささやかな優しさ。
「じゃ、あ、拭く・・よ・・・・・」
妙に緊張した面もちで彼女の白い手をティッシュで望み通り拭き取る。
外から見れば大したことじゃないが三者三様に重みがある。
必要以上に緊張状態に陥っているシンジや、やっとの思いで伝えたことが叶っているレイもさることながらその二人を見つめているアスカにとっても決して軽くない。
・・・・・子供みたい・・・・
呆れる心をベースに腹立たしさを微量、疑問を大さじ2杯に悲しみを小さじ一杯。
多分優しさをカップ一杯。
出来上がったスープは複雑な味のする物となった。
一息ではとても飲み干せない。
「ほら、ハンカチぐらい使いなさいよ」
アスカの手がシンジ越しに伸び、彼の替わりに彼女の口の周りを拭う。
夏の光に照らされた顔は、それでもまったく日焼けしておらず入道雲の様な白さだ。
微かに赤みを帯びた唇の周りをそっとハンカチが綺麗にしていく。
「もう、シンジじゃないんだから世話焼かせないでよね」
「アスカ!足踏んでるよ!!痛いってば!」
彼女はシンジの体の上を乗り越えている。
その際に彼の足を踏んでいるのは多分偶然による物だろう。
もしかしたらアスカの作ったスープには唐辛子も一塊りほど入っていたのかも知れない。
夕暮れという時刻は帰宅する者とそうでない者を振り分けていた。
今日から夏休みを取る者や残業する者、この時間から出勤する者などでロッカールームはごった返している。
特にB級職員専用のそこは一際混んでいた。
ようやく人混みから這い出してきた彼は一体どちらに属するのだろうか?
これから帰宅するには少し緊張感が色濃く現れているようだ。
「お疲れさま・・・」
すれ違う同僚に次々挨拶を交わすと休憩室でようやく一息ついた。
緊張を紛らわすかのように缶コーヒーを流し込むが甘いのか苦いのか味は今ひとつ判らない。
たださっきからへばりつくように渇いた喉を僅かに潤しただけだ。
「ふう・・・・・」
手を見ると微かに震えている。
・・・・・何のためにこんな事するんだ・・・・
彼の所属する組織は人類のために戦っているはずだ。
だがどうも正義の味方ではないらしい。
その証拠にこうして調査するよう依頼されているではないか。
手にした赤いカードは本来彼が持つことは許されない物だ。
だがこうして手に入れている。
命令だから・・・・それだけではない。
彼自身好奇心もある。
・・・・・ここはいったい何なんだ・・・・・
必要以上に遮蔽された世界、それが彼にはいかにも魅力的に映るのだ。
まるで子供じみた感情が沸き上がる。
「危険だな・・・・俺は・・・」
子供の遊びは危険なのが相場だ。
楽しければ、興味が有ればあるほどその度合いは増す。
「さてと、仕事だな」
手にした携帯パソコンを小脇に抱えると空き缶を空になっているクズ籠に放り込む。
非音楽的な音が耳障りだった。
自分が子供なのかどうか判らない。
だがどうしても見てみたかった。
隠された物を。
自分の所属する組織の実体を。
その為に彼らとも接触し、手段を得たのだ。
好奇心という当人以外には下らない理由のために。
『B−6539蜂谷』と書かれたネームプレートを暫し見つめた。
ばれないはずだ。
その為の準備をしたのだ。
目的の情報を手に入れそれを依頼主に渡し、報酬を受け取る。
その後は逃走。
手はずは全て整っているのだ。
まるで自らを鼓舞するように頭の中に成功した図式を書き上げ、早足で休憩所を去っていった。
彼は知らなかった。
この地下帝國には嘘つきしか居ないことを。
続く
ディオネアさんの『26からのストーリー』第十五話、公開です。
それぞれの場所で、
それぞれの人達が、
それぞれの思惑・思いで。
目が離せませんね。
いよいよ動き出そうとしている加持さん。
協力者、蜂谷、こいつも信用できないのかな?
そうなんでしょうね、引きを見ると・・。
沢山の嘘を身にまとった加持ですが、
自らがつかれる方になったときは、どうなるのでしょうか。
目が離せない〜
さあ、訪問者の皆さん。
ディオネアさんに貴方の感想を送りましょう!