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ハンドルの向こう側にあるオレンジ色のデジタルメーターは1時間前から120前後の数字を刻み続けていた。
先を走るテールランプとの距離も変わらずバックミラーに映るヘッドライトとの距離も変わらない。
自動車に乗り込んでから幾分配置の変わった星空と愛想のないアナログ時計だけが時間の流れを感じさせた。

闇の中の単調な光景。
彼は特に不満な様子もなく淡々と運転という作業を続けていた。
11時頃まで賑やかに軽音楽を響かせていたカーオーディオも今では後ろ座席に気を使ってか、小さな音量でラジオ番組を流している。

ハンドルを握っていた無骨な指が伸びカーラジオのチューナーを動かす。
デジタル表示は目まぐるしく変わり運転手のために必死に番組を探している。
それが好みにあった物かどうかはともかく電波の届きにくい山間部でようやく一つの深夜番組を探し当てた。

『・・・・・関越自動車道上り線は花園インターを先頭に2Kmの事故渋滞、他は順調に流れてます。安全運転を宜しくお願いしますね。ではドライバーの皆さんに深夜を彩るひとときを。演歌、平成歌謡史・・・・・』

26からのストーリー

第十四話:Imitation




ゲンドウが無言のままハンドルを握ってから約2時間が経過しようとしていた。
夜間の長距離運転というのは想像以上に疲れる。
同乗者が色々話し掛けてくれればまだ気が紛れるのだが、後部座席はすでに仮眠室と化し助手席からも静かな寝息が聞こえていた。

街路灯とテールランプ、星の明かりだけの高速道路は延々と続く。
この時間では対向車も少ない。
碇家全員の乗ったステーションワゴンとつかず離れず併走している数台のセダンの一団だけがヘッドライトを煌々と照らし疾走していた。
『・・・・さて明日のお天気は快晴でしょう。では楽しい一日を!NBS放送』

・・・・ふん、明日は晴れか・・・

そのラジオ番組が彼の希望した番組かどうかは解らないが天気予報を聞き終わるとスイッチをオフにした。
替わりにウインカーを左に点滅させると車線を左に変える。
その先には闇の砂漠の中に光のオアシスが現れた。

少なくとも腰が悲鳴を上げ始めているゲンドウにはそう見えている。

濃紺のステーションワゴンを中心に車の流れは動き、『水上SA入り口』へのスロープに吸い込まれていった。

夢というのは常に不条理に満ち、整合性などあろう筈もない。
だが目を覚ましてしまえばどんな世界だろうと一瞬にして消え去る。
継続しない世界。

シンジの脳が作り上げたあやふやな世界を消し去ったのは眩しいほどの水銀灯と突然消えたロードノイズだ。

「ん・・・・ん・・・着いたの?」
「まだよ、新潟に入ったところだから。寝てていいわよ」

ユイはすでに起きて地図を開いていた。
ゲンドウはハンドルに覆い被さったまま身動きしていない。

「そう・・・・いいや。ジュース買ってくる・・・ん・・・」

シンジは自分の顔に掛かった栗色の髪をのけた。
目を閉じ肩にもたれているアスカの顔は何の不安もない顔で必ず訪れる朝を待っている。
そんな彼女も車が停車したことに気付き薄目を開けた。

「んん・・・ねえ、着いたの?・・・・サービスエリアか」

青い瞳に水銀灯が眩しく映る。まだ外は星の遊び時間だ。
「シンジ、ジュース買いに行こ。少し体も伸ばしたいわ」

眠たげな目をこすりながらアスカが先に車から降りた。シンジは中央に座っているのでそうしないと降りられない。
その彼女に続いて降りようとしたシンジは軽い抵抗にあった。

「・・・・どこ?・・・・」

静かに姿を現した赤い瞳に映ったのは、いつもの自分の部屋ではなく見慣れない車内だった。
初めて目を覚ました場所。
僅かに不安げな表情を見せるが白い右手にしっかり握っているTシャツの裾とそれを着ている少年がそんな表情を流し去る。
窓の外には背伸びをしているアスカも居た。

「まだ寝てていいよ・・・ちょっとジュース買いに行くだけだから・・・・」
眠そうな顔のレイに静かに話し掛ける。駐車場にある大時計はまだ夜中の3時半を指しているのだ。

「いい・・・あたしも一緒に行く・・・」
何故かシンジの後を追うようにわざわざ右側のドアから降りた。

新鮮な夜の空気が3人の肺を満たす。

真夜中の中の真昼、そう思えるほど無数にある水銀灯はこのSAを照らしている。
人が出歩かない眠りのための時間、だがこの場には大勢の人が居る。
人の作り出した小さく不思議な世界、闇の海に浮かぶ小島の様にとぽっかりとある空間。

起きながら夢の中に入り込んでしまったような感覚にレイは戸惑っていた。

「レイ、向こうで絞りたてのフルーツジュース売ってるんだって。買いに行こうよ」
すっかり目を覚ましたアスカの明るい声が響く。3人の目前には人だかりのする売店があった。
ようやく意識がはっきりし始めたレイは自分の喉がカラカラに渇いていることに気が付く。
車内はエアコンが効いていたので体の水分が寝ている間に蒸発したため、レイだけでなく二人も喉がカラカラだった。
シンジに至っては目覚め間際に夢の中で何度も水道を捻っているのだ。

「早く行こ!」

跳ねるような足取りでアスカは先頭を切って走り出し、シンジもそれに続く。
この二人は真夜中のSAに浮かれていた。

毎年碇家の旅行では渋滞を避けるためいつも夜出発している。故に真夜中のSAの常連になっていた。
二人の中学生に深夜のSAには楽しい思い出しかない。
もしかしたら行き先そのものより楽しいのかもしれないとさえ思う。

寝ている筈の時間に起きての飲み食い。
ましてや行き先は楽しい旅行先だ、ただでさえ舞い上がっているのに車内から出た開放感も相まってもはや踊り出すかと思うほどの様子なのだ。

「バッカシンジ!早く来なさいよホラッ!」
シンジのもとに駆け寄ってきたアスカは軽く拳を繰り出す。彼はそれを軽くかわすとお返しとばかりに右手を軽く伸ばした。
「へっへん!当たるわけ無いじゃない!トリャ!」

互いに拳を繰り出しそれを受けて避けて格好だけはボクシングに見えてくる。
勿論互いに力も殺気も籠もっていなくジャレあっているだけなのだが。
軽い運動は固まりかかった体を良くほぐし脳味噌を活性化してくる。

「へへーん、アスカのパンチなんか当たらないよ」
シンジはヒラッと身を翻すと飛ぶようなステップでかわし続けた。
ムキになったアスカがスピードを上げてパンチを繰り出すがまったく掠りもしない。

・・・・なによ!生意気!・・・・

シンジらしくない華麗なステップは以前ミサトが教えた物だ。そんなことはアスカが知る由もない。

「ふうっ・・・・何よ、チョロチョロ避けてさ!」
「だから当たらないって言ったろ。アスカのパンチなんか遅くって」
ヘラヘラ笑うシンジの顔がしゃくに障る。
以前は目をつむっても滅多打ちに出来たのだが最近はムキになってもかわされることが多い。

たわいのない二人のダンスは水銀灯の下、不満顔のアスカの顔で幕を下ろす。

「碇君・・・・喉乾いたの・・・」
そんな二人の様子を眺めていたレイだったがいつまでもジュースを買いに行かない二人を急かした。
「ホント!バカシンジが余計な事してるからよ。レイ、早く行こ」


「運転代わる?」
「いや・・・・まだ大丈夫だ・・・」

だがゲンドウの背中と腰は正直で背伸びをすると骨の鳴る音が響く。

「!!・・・・・・・」

どうやら鳴り響きすぎたのか無言のままボンネットに覆い被さった。
自宅に車がないので普段はめったに運転などしないからたまに長距離を走るとこたえるらしい。

第三新東京市から東名高速へ、横浜から関越自動車道へ。
その間1人で殆ど休みも取らず運転し続けていたゲンドウ。一応父親の役目を果たしているようだ。
とはいうものの体は正直に彼の年齢を告げている。

「本当に大丈夫なの?・・・・わたしは一眠りしたから代わっても大丈夫だけど?」

苦笑を浮かべながらも夫を気遣うユイだったがゲンドウは幾分表情を歪めながら手を振る。
「いや・・・・問題ない・・・・・」
「もう少し休んでいきましょ。もう半分ぐらい来たから」

ユイの視界にはホットドックとジュースを片手に歩き回っている中学生が映っていた。

夜中でもなお営業中の売店の前の広場にはシンジ達だけでなく、同じように旅行中の家族やアベック、長距離トラックの運転手などが一休みしている。
その数は決して少ない物ではない。

そんな中を3人は空いているベンチを探していたがやがて薔薇の花壇の近くにそれを見つけると走り寄っていった。

「ほらバカシンジ、何でそう口の周り汚さなきゃ食べられないのよ」
「しょうがないだろ・・・・ケチャップ付け過ぎちゃったんだから」

それでもなお美味しそうにホットドックに食らいつく。
本来なら大した代物ではないのだがこの時間に食べる食べ物は何故か特別美味く感じられる。
「碇君・・・これ・・・・・」

レイの差し出したポケットティッシュを受け取ると口を拭う。
そんな様子を眺めているアスカの目は潤んでいた。
「バッカだなあ、マスタード付け過ぎたんだろ」
「うるはひはへえ・・・・・・・・・・・・!!」
鼻を押さえながら涙声になっていく。
調子に乗ればアスカとてそう言うこともある。シンジとの無駄話に夢中になり互いにマスタードとケチャップを出し過ぎたのだ。

「ねえ、あとどれくらいかなぁ」
「さあ・・・・車戻ったら地図見て見ようよ。母さん持ってきてるし」
「あたし持ってるから・・・・・」

二人の目の前にレイのポシェットから小さな地図が差し出された。旅行が決まってすぐに買い込んだ物だ。
水銀灯に照らされた地図のくっきりと折り目の付いたページを開くとアスカは指で道筋をたどる。
すでに鉛筆でたどった後があったのですぐに自分達の走っている道路が見つかった。

「えっと・・・・関越に入って・・・藤岡分岐抜けて・・・・・あ、ここね。塩沢SA」
「そうだね・・・・うんと・・・・此処からだと・・・・・」
「後150kmで新潟市内ね・・・・・」

距離換算をあっさりと終えたレイは今だ指を折っているシンジに教えた。
計算能力だけで答えたのではないだろう。

「レイ、宿のパンフも持ってるんでしょ?ちょっと見せて」
再びポシェットから折り畳まれたパンフレットを取り出す。
「うーーーん、楽しみ!!ね、着いたらすぐ泳ぐんでしょ?」

降り注ぐような星空の下、早速頭の中を数時間進めてみる。
それだけで体が浮き上がるような気分になった。夜中の不思議な時間は3人の気分を高揚させている。
朝のことを考えてみるだけでジッとしていられない。

「あーーーー!早く着かないかなぁ。シンジも着いたらすぐ泳ぐんでしょ?」
「うーん、それより温泉入りたいなあ・・・露天風呂だし・・・・」

何となくアスカと方向性が違うが彼なりに着いてからの楽しみがある。
どのみちアスカが泳ぐと言ったら付き合わされるのは解っているのだ。多分温泉は夜入ることになるだろう。

「でもシンジの場合泳ぐって言うより浮かんでるって言った方がいいかもねー」
「碇君・・・・・・・泳げないの?・・・・」
「昔っからぜんっぜん泳げないんだから。そのくせ少しも練習しないから1mだって泳げないのよ」
ニヤァっと笑う顔の青い瞳は意地悪そうにきらめく。
一口残ったホットドックを口に放り込んだ。
「二人とも煩いなあ。少しは泳げるよ・・・・少しだけど・・・」

幾分不満そうな顔ながら情けない主張をする。
だがレイは興味があるのか目を大きく開いていた。
共に暮らして4ヶ月経ったがそれでもシンジについて知らないことの方が多い。
二人だけの訓練を共に受け、二人だけの共通の経験を持つがシンジ自身については意外と知らない。

何が好きなのか、何が嫌いなのか、得意な物は何か、今やりたいことは何か・・・・

シンジを見つめる目は今までとは違った色が浮かぶ。

・・・・もっと知りたい・・・・

自分と知り合った4ヶ月のことだけではなく昔のこと、彼が生まれてから今まで過ごしてきた時間を知りたい。
過ぎた時間を共に過ごすことは出来ないがせめて言葉だけでも知りたい。

そして今アスカから聞いた言葉は今まで知らないシンジだった。

「そう・・・泳げないの・・・」

何かアスカに大切な物を分けて貰ったような気がする。
この間付けて貰った髪飾りのように。

シンジにしてみればろくでもない事だったが。






関越自動車道から北陸自動車道にかけて順調に流れ終点に到着すると日本海沿岸北陸自動車道に乗り換えることなく高速道路を降りた。
ただ単に運転手のゲンドウが単調な景色に飽きたからだが一般道の方が海岸線近くを走れるので景色が楽しめるのだ。
新潟市内に入ったときは空は明るくなり始めている。

『ドライバーの皆さん、おはようございます!さて今朝はいい天気ですね。では早速朝のニュースから。今日開催される臨時閣議で富士川郵政大臣は・・・・』
柔らかいシートに包まれた3人にエアコンの風ではなく潮の匂いのする外の風が運ばれてきた。
栗色の髪がシンジの顔にかかる。
ここに来るまでカーブの度に3人の頭は何の抵抗もなく左右に揺れ、今はシンジはレイの肩にアスカはシンジの肩にもたれ掛かっている。

「朝御飯はどうするの?お弁当はあるけど・・・・」
窓を開け気持ちよさそうに潮風に身をさらしていたユイはトランクに入っている大量のサンドイッチを思い出した。
「いや、後ろが起きてからでいい・・・」
どうせまだ寝ている3人が目を覚ませばすぐに『お腹空いた』の大合唱になるのだ。
「それよりお茶をくれ」
ゲンドウのリクエストに応え、ポットから家で入れてきた熱いほうじ茶を紙コップに入れ手渡した。
それは長時間エアコンに晒されて冷え切った体を解きほぐす。
溜息一つつくと再び紙コップに口を付ける。
缶飲料とは違って香ばしい香りがちゃんとするのだ。わざわざ第三新東京市から持ってきた甲斐があるという物だろう。
顎ひげに湯気を当てながらハンドルを握る。

暫し景色を楽しんでいた運転手はルームミラーに動く人影を見つけた。

「起きたようだぞ」

アスカは寝起きは悪くない。
些か寝不足気味ではあってもほんの僅か瞼が開いただけで急速に意識が戻る。
普段なら目覚めたときに感じることのない車の振動と朝の風。
それらは彼女に心地よいモーニングコールをかけてくる。

「・・・・!!ねえ、着いたの!?」

彼女の目に瞳と同じ色の海が映ると飛び起きるように助手席にしがみついた。
「おはよう、まだ新潟市内よ。寝てればいいのに」
ユイにそう言われたが寝てなどしていられない。
体がウズウズしてくる。
「えーーーまだぁ?でも後ちょっとよね!」
バタンとシートにもたれ暫く外の景色を眺めた。
初めて見る街並みは変哲のない景色でも彼女を飽きさせない。
知らない店、知らない家、全てが新鮮に映る。全てが魅力的に映る。

「アスカ、お茶飲む?」

ユイの差し出した紙コップを受け取るとお茶を注いで貰う。
それを啜りながら横を見ると十年来の見慣れた顔が半分ほど口を開け寝ている。
今だレイの肩にもたれ掛かったままの危機感も深刻さもない寝顔は、昔からあまり変わっていないように思う。
チラッと二人の様子を見たが目をそらすように窓に顔を押しつけた。

・・・・いつまで寝てるつもりなんだろ・・・・

起こそうかどうしようか何となく迷ってしまった。
ユイの言うようにまだ早い時間だし昨日は遅くまで起きていたのだ。
せっかく海が見えるところまで来たのだから起こしてやりたい、そう思うが果たして理由がそれだけかは当人にも解らない。

「アスカ、お弁当食べる?サンドイッチあるけど」
「いい、シンジ達起きてから食べる・・・・」

お腹は空いていたが我慢できないほどではない。
シンジの場合、放っておけば幾らでも寝ているだろうからいずれは起こすだろうが。

「・・・・・この先に『道の駅』があるから少し休むぞ・・・・」

さすがに疲れたのだろう。
『113号道の駅まで後10km』と書かれた看板を目聡く探し出したゲンドウは、有無を言わさぬ様子で休憩を宣言した。

アスカにしてみれば此処まで来たのだからノンストップで目的地に着きたいがそれは酷というものだ。
「じゃあ、そこで朝御飯食べない?この二人も着いたら起こすから」

今だ熟睡中の二人を眺めた。
仲良さそうに寝ている様子に少し胸の奥がざわつく。
レイは窓に寄りかかっているので外から見ればガラスにへばりついた彼女の顔が見られたことだろう。
もし隣に車が走っていれば笑われたかも知れないが幸いなことに時間が早いため国道を走る車は少ない。
数台のセダンが前と後ろを走っているだけだ。

・・・・何よ、いつまでも寝てさ・・・・

シンジが起きないのも解っているしレイの肩にもたれているのも偶然だとは思う。
そうは思うのだが二人を見続けるのは何となく辛い。
意識すればするほど起こしづらくなる。

「ん、此処を右折か・・・・」

カーナビに右折の矢印が表示されるのを見て取ったゲンドウはウインカーを着け車線を変更した。

それに合わせるようにアスカの手が静かに伸びシンジの服をクイッと引っ張る。
少しだけ傾いたシンジの体は引っ張られるようにさっきとは反対側に頭が寄りかかった。
栗色の長い髪の掛かった肩に。

・・・・カーブだったモン、しょうがないわよ・・・・

肩に少し重みを感じながらすぐ近くのシンジの顔を眺める。
さっきと同じ顔。
その隣には窓に寄りかかったままで肩の重みの取れたレイが寝ていた。
顔は堅いガラスに押しつけたままだ。

・・・・ガラスじゃ・・・・冷たいわよ・・・・

アスカは再びシンジの背中から手を伸ばすと今度はレイの服の裾を引っ張る。
何の抵抗もなく彼女の顔は堅いガラスからあまり柔らかくはないが体温を持つシンジの肩へともたれ掛かった。

・・・・しょうがないわよね、カーブだったんだモン・・・・


「か・・・母さん、もういいよ、ゆっくり・・・・うわっ」

シンジ達三人の体が強引に横に飛ばされる。
外からは負荷の掛かりすぎたタイヤが情けない絶叫をあげていた。ゴムの焼ける匂いが車内にうっすらと広がっているのは気のせいではあるまい。

「うわぁ、速い!おばさまって運転上手だったんだ。おじさまより速い!」

『道の駅』で運転を代わったユイはそこから宿泊先までの所要時間を一気に縮める勢いで日本海湾岸を疾駆していた。
入り組んだ海岸線に沿って造られた一般道はカーブの連続だったが車の通りが少ないのを幸いに彼女は何の遠慮もなくアクセルを踏みつけている。

タイヤはさっきから絶叫に告ぐ絶叫をあげていたのだ。

「おばさま、次右カーブ!」
「任せて!」

深く入り込んだカーブに何の躊躇いもなく飛び込むとブレーキを思いっきり踏み込み、滑り出した後輪に合わせハンドルを逆に切る。
その度にシンジはタイヤより情けない悲鳴を上げていた。

「母さん!急がなくていいよ!!もっとゆっくり・・・・」
必死の息子の叫びは果たしてユイの耳に届いたか。
「次左!」
「大丈夫!行ける!!」
アスカがシートから身を乗り出してまるでジェットコースターにでも乗っているような様子でさっきから騒いでいるので多分届いていないだろう。

「父さん!何とか・・・・狸寝入りなんてずるいぞ!」

父親に母親の爆走を止めさせようと呼びかけたが助手席で眠っているので一向に返事がない。
それを狸寝入りと断定したのはこのカーブにあって姿勢がまったく変わらないからだ。
ドアの取っ手に左手が必死の思いでしがみついているのが見て取れる。

「わーーーーー!」
急カーブだったのだろう、シンジは激しい横Gを感じながらシートに転がった。
身を乗り出していたアスカもシートにしがみつき楽しそうに悲鳴に似たような声を挙げている。

三人のうちシンジだけがこのハードなドライブに不満だった。
シンジにしがみついているレイはそれほど不満ではない。
「あ、綾波・・・・・大丈夫?」

シンジにしがみついているので一緒になって倒れ込んだ彼女に声を掛ける。
「大丈夫・・・・きゃっ!」
今度はレイの方にGがかかりシンジは彼女にのし掛かるように飛ばされた。
「ゴ!ゴメン!わざとじゃ・・・無いから・・・」

シェイカーの中に放り込まれたようにカーブの度に二人で転がっているのだ。何しろ直線はあるが猛スピードで走り去るので体勢を立て直す暇がない。

「バカシンジ!あんた何やってんのよ!」

レイの体に覆い被さっていたシンジは無理矢理引き剥がされシートにようやくまともに座れた。
「何にもしてないよ!急に曲がるから・・・・またっ!!」
「バカ!引っ付かないでよ!!ちょ・・・ちょっとどこ触ってんの!!」

言い訳する間もなく再びユイによるシェイクが始まった。
今度ばかりはアスカも楽しめる状態ではない。シンジ達と一緒になってかなり広く設計されたEV車のステーションワゴンは三人が大騒ぎしても軽くそれを受け止めている。

「碇君・・・重い・・・」
「アスカ!!痛いよ!!足踏んだ!!」
「シンジ!顔くっつけないでよ!!」

それはこの夏の碇家における騒々しく非常識な景色の最初の一つとなった。






抜けるほど青い空、それと同じ色の海、さっきまで過剰なほど疾駆していた濃紺のステーションワゴン。
それらより蒼い顔をしたゲンドウはまるで生きる屍の如き様相で座り込んでいた。
果たして彼の視界に煉瓦パネルの外装の保養所が映っているのだろうか。

「大丈夫?あなた・・・」
ユイの手が丸くなった背中を撫でるが気分は悪いままだ。

深夜の長距離運転、寝不足、疲労、そこにさっきのハード過ぎるドライブ。
頭の中が解けているような気がするのはゲンドウの気のせいでもないだろう。

「おじさま、荷物運んでおくわね。シンジ、レイ手伝って」
「うん、父さん、部屋は508だよね・・・・先に行ってるから」

二人とも心配はしているが車酔いで死んだ人が居るというのは聞いたことがないので取り敢えず荷物を運び込むことにしたのだ。

『社団法人保養施設 石保荘』

そう彫り込まれたプレートを三人の中学生はしげしげと見つめた。
やけに堅苦しい名前とは裏腹にその外観は中世の建造物のようだ。
玄関には石積みの階段があり全体的にアンティックな雰囲気に仕上げられている。

「ホントすごいわ・・・ここ保養所じゃないんじゃない?」

アスカは最初『保養所』と『石保荘』という名詞を聞いたときの事などすっかり忘れている。

数日前。

「会社の保養所が取れた。そこに泊まる」
実に簡単なゲンドウの説明にアスカは少し不服そうな顔を見せていた。
説明の簡潔さに不満があったのではなくその中の名詞に不満があった。
「保養所・・・・・ねえ・・・・」
彼女としてはお洒落でプールが付いてレストランも付いて夜景の眺められるラウンジも付いた『ホテル』を想像していたのだが『保養所』と言う言葉はそんな物とは縁遠そうに思えたのだ。

「ああ、石保荘と言うところだ」
「い・・・しもちそう?・・・・・ふーーーん」
『グランド何とか』や『ヴィラ何とか』と言ったカタカナや英語の混ざった名前なら期待も持っただろうが純然たる日本語、ましてや石保荘では彼女の心は弾まない。

洋風のお洒落な宿泊施設ではなく古びた木造の安アパートを思い浮かべるのも無理はないだろう。

「ふっ、これがパンフレットだ。見ておくといい」

含みある微笑みを浮かべたゲンドウから彼女が受け取った物は間違えて持ってきたのかと思う程、綺麗な外観の保養所が印刷されていた。

3階立てほどの高さでスカイラウンジこそ望めないもののプールあり、レストランあり、海の見える喫茶店あり、何に使うのかホールあり、おまけにプライベートビーチ付きと言う文句など付けようもない物だった。

「すごい!こんな所泊まれるの!?」
隠そうにも隠しきれない不満そうな顔は一瞬にして弾け飛び満面の笑みが表情となる。
すっかりパンフレットを独占し感激することしきりだ。
1ページ捲る度に「うわぁ」とか「綺麗!」とか感嘆の声を上げており、この『保養所』がすっかり気に入ったらしい。

「ほらシンジもレイも見てみなさいよ・・・・すっごいんだから」
そうは言ったものの食い入るように見ているので彼は後ろからコッソリと覗き込むように見ている。
「温泉はある?」
「うん、大浴場と露天風呂があるみたい。レイも見てみなさいよ」
パンフレットはシンジの前を通り過ぎレイに渡された。
「そう・・・・・すごいの?・・・・・」

彼女にしてみれば何がすごいのか良く判らない。そもそも旅行が初めてなのだから比べようがないのだ。よそに泊まったと言えば級友の洞木ヒカリ宅だけだ。
それでもシンジとアスカの楽しそうな顔はレイにとっても心が弾む。

そんな三人の中ですっかり舞い上がったアスカはシンジ達と新潟での行動予定の話に夢中になった。

夢中すぎて『おじさま』の勤め先の事を聞けなかったほどに。

「スミマセン、碇ですけど」
「いらっしゃいませ。?・・・5人とお伺いしておりましたが」
「あ、おじさま達は外にいます。ちょっと事情があって・・・ははは」

目の前の海から吹き付ける潮風はちょっとした事情を持つ中年の気分をゆっくりとだが癒していった。
それと共に割り切れない物が頭の中に浮かんでくる。

「ユイ・・・・何であんな運転したんだ・・・」
怒ってはいない。
頭がまだ揺れているので声のトーンがいつもより低くなってしまっている。
「調子に乗り過ぎちゃったわね」
少し汗ばんだ額をハンカチで拭うと子供のような笑顔が浮かぶ。
「別に構わんが・・・」
もう少し何か言おうと思ったゲンドウだったが言葉はあっけなく封じ込まれてしまった。
「やっぱりプロね、簡単に引き離せないわ」

浮かべた笑みは一児の母の顔ではなく悪戯をしてほんの少し悪びれた子供を連想させる。少なくとも彼女の夫にはそう見えた。
そして彼女が引き離そうとした物も彼には解っている。
第三新東京市からずっと紺色のステーションワゴンを遠巻きに追いかけてきたセダンだ。
幾度も交代はしているがいずれも所属する場所は同じ。

特務機関NERV
「そうか・・・・気になるか」
「・・・・たまには家族だけで・・・・あたし達二人とあの子達だけで旅行を・・・それだけよ」

逃げたかったのかも知れない。
今の幸せを抱えたまま、自分の周りの全てから。

だがそれはいつか見た悪夢のように彼女の後を追ってくる。
どんなに引き離しても気が付けば見失うことなくすぐ後ろにいる。
何より彼女の記憶がいつまでもこびり付いているのだ。

それはどんなに逃げても消えることがないだろう。

「そうだな、まだ今は子供達が待っている・・・・行こう」

すまないな。
その言葉は飲み込んだ。
この母親への謝罪は単なる棘でしかない。

「・・・・・そうね、ところであなた大丈夫?歳なんだから無理しないでね」

さっきまでユイの顔に浮かべた表情はどこかへ隠すと座り込んだゲンドウの手を取った。
「ああ・・・・」

正面玄関までの数m、歩みを数える事が出来るほどの距離を二人は手を離さず共に歩いていった。


「うわぁ・・・・すっごい部屋・・・」

扉を開けたアスカを出迎えたのは想像を遙かに超えた煌びやかな部屋だった。
少なくとも彼女の経験の中ではもっとも豪華な部屋だろう。
高価そうなソファーとテーブルの置かれた広いリビング。
白を基調とした人数分のドイツ製のティーセット。アスカが指で弾くと澄んだ音色を奏でる。
白いレースのカーテンの向こうに広がるベランダには丸いテーブルと椅子が置かれ海を一望できた。
更に三つある寝室を覗くとどの部屋も落ち着いた感じの内装にクローゼットが備え付けられ、大きなベットが鎮座している。

その他にも広い浴室に使いやすそうな洗面台。海水浴客の為か洗濯機に乾燥機まで備え付けてある。

「・・・・・・ホントに保養所?」
「知らない・・・」

半分ほど口を開けたまま部屋を見て回っていたアスカはドアを開ける度に感動の溜息をついた。
外観と同じように洋風に統一された室内はアスカの希望通りの部屋だ。
むしろそれ以上かも知れない。

「あたしとレイはこの部屋ね!絶対この部屋!」

荷物を山ほど抱え息切れしながらようやくの思いで部屋に入ってきたシンジにそう宣言した。
彼女の指名した部屋は海がもっともよく見え、柱の部分に天使の彫刻が施されたダブルベット、中央に置かれているテーブルの上にはこの部屋専用のティーセットがある。

「それより・・・・荷物ぐらい自分で持てよ・・・・二人とも人に押しつけて」

二人ともことさらシンジに押しつけたわけではない。
荷物をすっかり忘れたアスカとそんな彼女に引っ張ってこられたレイ。

「悪かったわよ。でもちょっと情けないんじゃない?そのくらいの荷物で」

腰に手を当て床に座り込んだシンジを見下ろす。
特大サイズの旅行カバン二つに普通サイズのスポーツバッグ三つ、そしてシンジ自身の着替えが入っている小さなスポーツバッグ一つ。
果たしてこれが『そのくらいの荷物』と言えるかどうか疑問に思ったがとにかく一休みした。

「ありがと・・・・これ飲んで」

へたり込んでいるシンジに備え付けの冷蔵庫から出した缶コーヒーを差し出す。

「・・・・・・ふぅ、綾波“は”優しいね。あーぁそれにひきかえアスカはゼンッゼン優しくないねぇ」

シンジは一部分にアクセントを置いてそう口にするとジロッと彼を見下ろすアスカに目だけを向けた。
こうなるとふんぞり返っている彼女としては些かバツが悪い。
「な、何よ・・・・あたしが優しく無いみたいじゃない」
膨れっ面になるとコーヒーを飲んでいるシンジの頭を小さな拳で締め上げた。
「アタタタ!こ、こう言う事するから優しくないんだ!イタタタ!う、嘘、嘘だってば!」

一言言う度に『頭痛』が酷くなる。昔読んだ『孫悟空』を思い出す。

「ふん!全く嘘ばっか言うんだから」
「ホントに優しくない・・・」

まださも痛そうに頭をさすっているシンジは聞こえるか聞こえないかぎりぎりの音量で呟いた。
アスカの形のいい眉がピクッと反応したがそれ以上にもう1人の言葉の方が衝撃的だった。

「そんなこと・・・無いと思う・・・・・・優しいと思う」






『・・・・です。まだ朝の十時ですがここ村上海水浴場は駐車場はもう満杯、砂浜は人で埋め尽くされ・・・・』

部屋のTVに映し出された地域ニュースではサマーシャツ姿のレポーターが妙に甲高い声を張り上げ、すぐ近くにある海水浴場を実況中継している。
リビングにはホットパンツとウィンドゥブレーカーを身に纏った二人の少女、ダークグリーンのトランクスタイプの水着にTシャツという有り触れた格好の少年がソファーに身を沈めていた。

「じゃあ、気を付けてね。お昼には戻りなさいよ」

早速ティーセットに紅茶を注ぎながらソワソワしているアスカに一応くぎを差す。
今のニュースを見て少し心配になったのだろう。せっかく来ても人混みで泳げなかったというのでは情けなさ過ぎる。
そんな様子ではお昼過ぎても海から上がってきそうもない。
「解ってるわおばさま。じゃあ二人とも行こう」
Vサインを見せると小物の入ったバックを手に立ち上がった。
既に動く気力もなくやっとの思いで紅茶を啜っているゲンドウは、それでも彼女達にユイと同じ台詞を伝えた。
「二人とも充分気を付けてな。それとシンジ、お前はインド洋にでも流されてしまえ」

海は静かだった。
浜辺はそれに輪をかけ静かだ。
天気は快晴、気温も一分ごとに上がる勢い。
これ以上はないと言うくらい海水浴日和なのだが浜辺に人がいないのだ。
このプライベートビーチという物はすぐ近くの海水浴場に比べ人の密度が圧倒的に少ない。同じ保養所の宿泊客だろうアベックが数組、少し離れた岩場には釣り客が5人、海の中には十人くらいの男女。

シンジ達の知っているシーズン中の海水浴場とは大きく違っていた。
何しろ砂浜にはゴミ一つ落ちていないのだ。

「プライベートビーチってすごいね・・・・」

浮き輪とゴムボートとビーチパラソルとビーチマットと防水型のMDデッキを抱えたシンジは半ば呆れたように立ちつくした。

「ホント・・・・向こうの海水浴場は一杯だったのに」

アスカもただただ目を丸くしてこの光景を眺めた。
TVの地域ニュースでは海水浴場は人に溢れていると言っていたのだが。

「まあいいわ。シンジ、早速それ敷いてビーチパラソルさして!」
「解ったよ・・・・少しぐらい手伝うとか・・・・まったく我が儘で・・・・」

ジャンケンで負けた運命にひたすら愚痴をこぼすが仮に勝ったところでさほど彼の状況に変化はなかっただろう。
保養所と海岸の中間辺りにパラソルを突き立てライトイエローの花を浜に一輪咲かせる。

「シンジ、音楽何掛ける?」
「何でもいいよ、明るいのがいいや」

持ってきたボックスの中からシンジのリクエストに応えるような曲を探す。
そしてイギリスのロックグループのMDをセットした。
アップテンポの音楽が流れる中、レイはさっさとホットパンツとウィンドゥブレーカーを脱ぎ去ると水着姿になる。

シンジが選んだ水着は今日まで大切に箪笥の中にしまい込まれていた。

自分のために選ばれた水着。

「・・・・・どう?」

レイは恐る恐るシンジに訪ねてみる。
頬がほんの僅か朱に染まる。
深い蒼と純白、ツートンのワンピースの水着、胸から腰にかけて斜めに色が別れている。
首もとは丸い襟が包む。

「あ・・・・う、うんよく似合うよ。やっぱり綾波はその色がいいね」

彼女以上に顔を赤くしてシンジは目を背けた。
成長期の躯は流れる水のような透明感と女としての存在感をシンジに見せつける。
他人を受け入れることのない冷たい壁は彼の前では消え去り全くの無防備な瞳を向けていた。

「ホント、シンジにしちゃ珍しくいいの選んだじゃないの。よく似合うじゃない」

シンジがセンスを誉めらるなどそう滅多にあることではない、と言うより誉められるようなセンスを持っていないのだ。
そんな彼がレイに選んだ水着はアスカが見てもよく似合うと思う。

少し羨ましいほど。
「さてと、あたしも着替えちゃお。シンジ、こっち見たら殺すわよ!」
着替えると言っても当然下に水着を着込んでいるのだ。
ウィンドゥブレーカーを脱ぎ去るとオレンジ色の水着姿が顔を見せる。
同じワンピースだがデザインは競技用の水着がベースらしく細かいところがレイのとは違う。

「どうシンジ!・・・・って何やってんの?」
「え?曲違うのにしようと思って・・・・どうかした?」

別にどうもしない。
アスカに言われたように一度も振り返ることなく大人しくMDの選曲をしていただけだ。
「別に・・・何でもないわよ・・・・」

晴天の海辺で頭に浮かんだ雷雲を必死にアスカはうち消そうと笑顔の風を吹かせる。

・・・・あたしのだって自分で選んだ癖に!・・・・

だが雷雲は消えることなく単に雷と強風の吹き荒れる嵐へと変貌しただけだった。シンジに落雷しなかったのはレイの嬉しそうな顔があまりにも淡く、少しでも揺らげばそれは消えてしまうかも知れない。

・・・・優しくなんかないのに・・・・

シンジと一緒になって曲を選んでいる赤い瞳の少女の言葉が未だに消えない。
何故かむず痒く、照れくさく、そして少し痛かった。

「とにかく泳ぎにいこう!ほらレイ、いつまで座ってんのよ。シンジは浮き輪もって」

海に入ってしまえばとにかく遊べる。
今は何よりそれが大事だ。
『家族』で遊ぶために来た『家族旅行』なのだ。

三人の素足は砂を高く跳ね上げ、数秒後に水しぶきを立てた。






「しょうがないじゃない・・・・徹夜だったんだからぁ・・・ふぁぁぁぁ」
「徹夜で飲んでたの?やーねぇ」

欠伸をしている葛城ミサト三佐に向かって呆れたように言った台詞は当てずっぽうだったが正解でもあった。
「あによぅ・・・いいじゃない別に・・・・」
「遅刻しなきゃ幾ら飲んでも構わないけど。此処じゃ遅刻は重罪よ」
「重罪って何よ・・・・あたしゃそんなの知らないわよ」
「遅刻は市中引き回しの上、張り付け獄門よ」
容赦とか思いやりとはまったく縁のない言葉をどこか楽しそうにはき続ける同僚を眺めた。
寝不足という霧がかかっているミサトの記憶が確かなら彼女は赤木リツコという名の科学者だ。
この「NERV」本部内でもっとも可愛げのない女だと思うが言葉にしたことはない。
「んん・・・さてと・・・・ねえ、保安部から連絡あった?」
ミサトは渡された書類を投げやりな感じに目を落とすとそう訪ねた。
「あったわよ、定時連絡が。問題なく新潟に入ったそうよ」
ほんの一瞬だけ真剣な表情でそれを聞いたがすぐに眠そうな顔に戻る。

「サンキュー、何もなきゃいいわ。後は向こうにお任せしましょ」

受け取った報告書の類に一応一通り目を通すと手早くまとめファイルに綴じた。

すでに職務に就いているNERV職員達が忙しそうに所内を走り回っている。
だが殺気立ったという雰囲気ではない。
忙しいなりに余裕とゆとりが見え隠れしている。

一番上の役職が居ないとその下の人間は気が楽になり、2番目の人間の気が楽になると三番目の連中は肩こりしなくなり・・・・。
組織の中の連鎖反応は忠実に下へと広がっていって本部全体が根拠のないお気楽な雰囲気に包まれている。

「さてと、お仕事お仕事。今日のご予定はなーにかな」


「副司令の仕事はお留守番だったとは知りませんでしたよ」
「年寄りにはちょうどいいさ。のんびり出来るからなぁ」

指先の飛車が分厚い将棋盤の上を走り冬月に向かってきた香車を取った。

「今はまだ悠長なこと言ってられる・・・・・っと」

一歩進んだ歩は自分と同格の駒を取る。
加持はその左手に取った駒を踊らせると盤面をジッと見つめた。
その不敵な笑みの浮かんだ奥では将棋とは別のことに考えを巡らせている。
自分が司令執務室に呼ばれた訳は分かっていた。

・・・・どこまで信用されて呼ばれたか・・・だな・・・・

僅かに視線をあげ冬月の顔を見ようとしたが生憎と将棋雑誌に隠れ伺い知ることは出来ない。
「今から慌てても仕方なかろう、慌ててくれる連中は他にいるよ。戦自に日本政府に国連・・・・・」
「それと補完委員会もですか?・・・・」

冬月は無言のまま席を立つと二つの湯飲みに入れ立ての茶を注ぐと自分より遙かに若い男に手渡した。
暫し湯気を顔に当て冬月の答えを待つ。

「あれはただの飾りだよ・・・・ま、そういうものも必要だがね」

それだけ呟くと桂馬を進める。
加持がその返答に満足したかどうかは解らない。冬月のように雑誌を手にしては居ないので表情は浮かべた薄笑いで隠す。

この部屋に入ってから幾度も交わした会話は腹のさぐり合いでしかない。
互いに体重が増えるほど腹の中に何かを隠している身だ。ただ迂闊にそれを引きずり出せないところにやるせなさがあった。

「それより政府のほうはどうなった。連中が動くと碇の機嫌が悪くなってかなわん」
「そいつはこっちでやっておきますよ。リッちゃ・・・赤木博士に頼んでまた餌作っておきますから」

再び歩を動かす。
それに合わせるように冬月の指も歩を進めた。
「そうしてくれ・・・・・新しいパスカードを渡しておこう、アクセス権が増やしてある」
「スミマセンね・・・・・」

真紅の半葉を刻み込んだ銀のカード醒めた輝きを見せる。
それを受け取ると指に挟み少し弄んだがすぐにポケットに放り込む。
もしミサトが加持を見ていたなら『玩具を貰った子供』そう評しただろう。

加持はゆっくりと飛車をその指に挟むと乾いた独特の音を立て冬月の桂馬をはじいた。
「これで王手ですよ。さて・・・どう動きますか?」
「ほう・・・・・碇から草むしりしておくようにとの伝言だ。これも頼んで置こうか」






保養所の庭にある花壇は綺麗に手入れがされ、色とりどりの花が行き交う人々の目を楽しませていた。
そんな人々の中に一組の夫婦も含まれている。
ただし夫の方は花を愛でる趣味があったかどうか解らない。
彼の視界にはその先にある海岸にいる2色の熱帯魚と見ても面白くも何ともないクラゲの姿だった。

ゆらゆら波に揺られていると普段考えないようなことが頭に浮かぶ。
軽い微睡みと海水の冷たさが心地よい。
揺りかごに揺られた時のことなど覚えてはいないが浮き輪に乗って浮かんでいると懐かしい気がする。

驚くほど静かな海はシンジに記憶の整理をする余裕を与えてくれた。

・・・・アスカが来てどれくらい経つんだろう・・・・

去年は一緒に北海道に行った、その前はどこだったろう。
一日一日山積みされていく出来事が過去を覆い尽くす。アスカと初めてあった日のことなど遙か昔の話だ。
気が付いてみれば彼女はすぐ側にいたような気がする。
それからは自分と一番長い時間一緒にいる少女となった。

・・・・何故うちに来たんだろう・・・・

考えてみればアスカが碇家に来た理由など一度も聞いたことがない。
それなりの理由は当然あるだろうが小さいときは気にならなかった。
小学生になったときはアスカは家族だと思っていた。
中学生になったときは側にいるのが当たり前だと思っていた。

だが本当は当たり前ではない。
一緒に暮らさなければならない理由は決して軽い物ではないはずなのだ。
それに今まで一度も踏み込んだことがなかったのは気付かなかったせいもあるが何よりシンジ自身がそれを避けていたからなのかも知れない。

意識せずに。

もっとも家族に近い少女、血の繋がらない家族。
意識することの無かった関係。

・・・・いいじゃないか!どうだって!!・・・・・

力一杯『海』をけ飛ばし足下を波立たせる。
煩わしかった、自分の頭に最近浮かびつつある『キョウダイ』ではないアスカ。
いっそのことレイと同じように今、出会ったならもっと割り切れたかも知れない。
いっそのこと記憶にも残らないほど昔に出会ったのなら何も考えずに済んだかも知れない。

しかし殆ど覚えていないほど昔なのにキョウダイではない事実だけが頭に残っている。
キョウダイと同じように過ごしてきたのに。

「・・・・いつまで一緒にいられるんだろ・・・・」

今までは一緒にいた。
一番の不安は思いの中だけにとどまらず言葉になってこぼれ落ちてくる。
今までと違う物を背負い込んだシンジにとってそれはアスカと出会った理由より遙かに重大な問題だった。

海の底から忍び寄る影のように。

彼女の頭上のユラユラと揺れる光の中に影が浮かんでいた。
蒼い瞳に嬉しそうな輝きが浮かぶと海の中で白さの際だった足がしなやかに動き出す。
まるで熱帯魚のヒレのように栗色の髪をなびかせながら揺れる影をめがけて泳いでいく。

・・・・・シンジ!覚悟!・・・・

どんなに遠くても、例え海の中でもこの影を見間違うことはない。

浮き輪と体の隙間から白く細い腕が二本伸びてきた。
それは体に絡みつくと少年を海中へと引き込んでいった。

・・・・・うわぁうわぁうわぁ!!!・・・・・・

生憎と叫び声を上げたときは海中だったので誰の耳にも届かなかった。
細い腕に絡みつかれたまま少しずつ深く潜っていくが恐怖感はみじんもない。
自分を引きずり込んだ海の魔物の正体をシンジは知っていた。10年近く一緒に住んでいるのだ。

楽しさを隠しきれない笑顔が近づいてくると二人の体は急上昇し海面へと躍り出た。
聞こえない叫び声を上げたお陰でシンジの肺は空っぽになっていたので慌てて空気を貪る。

「はぁはぁ・・・・何すんだよこのバカアスカ!」
「慌てちゃってみっともなーーーーい!いつになったら泳げるようになるつもり?」

シンジはそれ以上何も言わない。
何しろ浮き輪はアスカの後ろにあるのだ。彼女にしがみついて浮かんでいる彼の今の立場は濡れた紙のように弱い。

「少しは泳ぐ練習したらぁ?いい機会だから教えて上げるわよ。ほら手持って上げるから」
シンジの手を持つと少し引っ張ってみる。
「いいよ!離せよ!あ・・・イヤ・・・離さなくていい!離さすなよ!」

命令口調だがアスカは笑顔でそれを聞いていた。
昔からシンジは変わらない。
今もアスカの良く知っているシンジだ。

まるで小学生に教えるように手を引っ張るが彼の場合それで丁度いい。
「アスカ・・・綾波は?」
「ん?さっき一緒に泳いでたけど・・・・・あ、あそこに浮かんでる」

ばた足をしていたシンジが指の先を見ると白い影が時折波間から見える。
二人で手を振ってみるとその影は波一つ立てず海中に潜るとしばらくの間姿を消し、再び現れたときは二人のすぐ目の前だった。

「いきなり現れないでよ!あーーびっくりした」
「そう・・・・・・」
悪びれた様子はなく淡々とした感じである。
そもそも驚かそうと思って潜ったわけではないのだ。単に海の中がとても気持ちよかっただけだ。

全てを蒼に包まれた、どこか懐かしい感じがする。
一度も海など潜ったことのない彼女だったがそれでも息継ぎするのさえ煩わしく思えるほど一度も見たことのない景色はとても優しかった。

「・・・・・一緒に泳いでいたの?」
「え?泳いでないわよ。だってシンジ『泳げない』んだもん、へへへへーん」
ニヤァっと笑いながらシンジに目を向ける。
確かに正確に答えればそうなるかも知れない。彼は浮き輪で浮かんでいただけで別に泳いではいないのだ。
「いいだろ別に・・・それよりそろそろお昼だよ。何か食べようよ」
慌てたように足をバタつかせるとこれ以上の会話を阻止する。
別にカナヅチを気にしてはいないが毎年毎年この季節に同じ事を言われてはやはり面白くない。
そう思うだけで何とかしようとしないのもいつもの事だが。

レイはそのころ少し後悔していた。
さっきまで夢中になって泳いでいたのでシンジ達と一緒にはいなかったのだ。
初めての『旅行』なのだから少しでも一緒に楽しみたい。

今まで見たこともない景色に感じたことのない匂い。
そして今までは知らなかった二人の一面。

・・・・もっと知りたい・・・・

「一緒に戻りましょう・・・・掴まって・・・」
シンジの前にアスカが取り上げていた浮き輪を渡すとそれに掴まらせた。
肩にしがみついていた手が放れていくと少しつまらなそうな顔をした彼女だったが特にレイに文句を言うこともない。そのかわりチョロッと舌を出した。

「ほら、しっかり掴まってなさいよ。でないと置いて行くからね!」
「サンキュー・・・・・・じゃあ、進めー!!」

四本の白い足が海面を軽やかに蹴る。
シンジの掴まった浮き輪は二色のしなやかな魚に引っ張られお昼ご飯の待つ保養所へと向かっていく。

これだから泳ぎを覚える必然性をシンジはあまり感じないのだった。






保養所の庭は食事の時間になるとレストランの一部になる。
潮風が程良く抜け海も眺められる、大半の宿泊客はここを利用していた。
5人家族のうちの1人がこのレストランの利用を強く要望したのも当然と言えば当然だ。

シーフードカレーに蛤とイカのスパゲティー、海鮮サラダと海の幸スープ。
豊富なメニューから碇家が選び出した料理はさして待たせることなく昼食として一家の座った晴天下のテーブルに出された。
勿論第三新東京市のレストランでも同じ物を食べられるが、イカやエビの量が5割ほど多いのがアスカには印象的だ。

ほぼ同時刻の第三新東京市の空は雲が夏の太陽を覆い隠し、今にも降り出しそうな蒸し暑さを漂わせている。

「毎度まーいどのA定食、美味しい美味しいA定食、今日も明日もあさってもー・・・・はぁぁぁ」

大都市の地下、ジオフロントの中央にある建造物内部の食堂から間延びした歌が流れていた。
歌ではなく愚痴かも知れない。
いずれにせよ調子の外れた旋律を聴かされ喜ぶ者は居ない。

「ただでさえ不味いのに余計に不味くなるでしょ」
「悪かったわね、でもあんただって人のこと言えないでしょう」

幾度と無く『メニューの改善』を上申してきたがほったらかしにされたまま、一向に改善する気配はない。
その辺が職員達に共通する数ある不満の内の小さな一つとなっている。

そんな一言も二言も言いたくなる昼食を堪能した人々の中に彼はいた。
「蜂谷君、悪いけどこれ資料室にしまっておいてくれる?返却忘れちってさー」

昼食後の一休みしている時間に何か用事を言いつける上司は大抵の場合嫌われる。
だがミサトの場合、その容姿と若さでそんな事態を招くことなく済んでいた。
特に相手が男性職員の場合は用事を喜んで引き受けて貰えるのだ。
名前を呼ばれた彼も男性であったので例外ではない。

「いいですよ。えーと第七期工事計画書、新規回線工事見積もり・・・・・」

渡されたファイルの表紙に雑に張られたテープに目を通す。
B級職員である彼にも扱える内容の物であることは渡された時点で解っていた。

「悪いわねー、あたしちょっち部署の決算会議あるからさー、結構これでも忙しいのよ」
返却を忘れた事は取り敢えず棚に上げ、このあとの予定を持ち出したミサトに片手を上げ制した。
「わかりましたって。室長には謝っておきますよ」

資料室には初老の『室長』と呼ばれる管理職員がいて色々口うるさいことで知られている。
無論ミサトの方が役職は遙かに上だがこうも歳の差があってはやりづらい事この上ないのだ。
まして自分が返却を忘れていたとなれば近寄りたくないと言うのが正直なところだろう。
苦笑している蜂谷に手の平と平を合わせ拝むような仕草を見せた。

「無様ねえ・・・・」

リツコは呆れ顔でアイスコーヒーを啜りながら嫌みだけは言っておく。
それ以上は何も言わない。
毎度のことなのだ。

重いと感じられる量のファイルを抱えた蜂谷は第三資料室の自動ドアを開けた。
ミサトが苦手とした『室長』は生憎といなかったが返却にはコンピュータに登録するだけで済むので差し障りはない。

「・・・・工期工期と・・・・・ここか」

棚の中からファイルの置き場所を探し出すとさっさとしまい込む。
『設備関係』と書かれた棚に次々と預かったファイルを押し込んでいく。
「まあ、いつものことか」

自分の所属する作戦司令部の上司の性格はある程度熟知しているので今更と言った感じで文句を言う気にもならない。
ただ独り言というのはあまり良い物ではないのでその一言だけで止めたのかも知れない。
今何か口にすれば即、独り言になってしまう。
資料室は全くの無人だった。

「よう、今日は葛城のお手伝いか?」
「あ、どうも」

独り言にはならないらしい。
無精髭の生えた見ようによっては人なつっこい笑みを浮かべた男が立っていた。
加持という男は知らない顔ではない。

良く知っている。

「今日副司令に呼ばれてね、新しいパスカード貰ったよ」
せっかく押し込んだファイルを手にしながら目だけを蜂谷に向けた。
奇妙な光が彼にまとわりつく。

「そうですか・・・・それで、いつ頃?」
少しだけ顔が緊張感を帯びる。

「まあ、一両日中にはそっちに回せるよ。司令のいない間にやってくれ」

B級職員である彼には手にすることの許されていないパスカード。
加持は手にしたファイルを眺め終えると元に戻しながら渡せるはずのないカードを渡すよう約束した。
それ以外は何も指示をしない。
その必要もない。蜂谷は自分のすべきことを知っていた。

この二人しか居ない資料室に緊張の微粒子が満ちる。主に蜂谷の発する物で加持はいつもと変わらない笑みと雰囲気で緊張のかけらもない。

「・・・・・じゃあ後は宜しく。連絡はお願いします」

幾分強ばった自分の顔に若干の違和感を感じながらも無理矢理いつもの顔に戻すと加持を残し資料室を後にした。

僅かな空調設備のうなり声だけが1人だけになった資料室に響く。
不快ではない。

・・・・母親の胎内にいた時と同じ音かも知れないな・・・・

低く籠もった音にくだらない事が頭に浮かんだ。
覚えている筈など無いのに何故そう感じたのか、自分でも少し呆れていた。

「悪人は月を恐れる・・・か」

今は真昼で月は出ていない。しかし記憶という闇の中で『母親』と言う名の月が覚えていない音を思い出させる。

恐れはしない、望む物を手にしたいだけだ。

例え月に照らされ続けても・・・・・・・・






太陽が降り注ぐ海の上。
ゴムボートの上で波の揺りかごに揺られ満腹になったお腹をさすりながら泡沫の夢を楽しむ。
そんな予定を立てシンジは波に浮かんでいるはずだった。

なのに今、海の底に向かってゆっくりと沈みながら、のんびりしていると何故邪魔されるのか?と言う疑問が浮かぶ。
こんな事をするのは1人しか居ない。

少し強めの波と共に彼女はボディーボードに赤い衣を纏った肢体を乗せゴムボートに突進してきたのだ。
勿論狙い澄ましてのことだ。

意地悪そうな、それでいて綺麗な笑みを浮かべた少女はシンジが沈みきるのをすくい上げると海面に浮上した。

隣には蒼銀の影が揺れている。

「弱小戦艦シンジ見事撃沈!へへへへっ何ボケッとしてるのよ」
水を滴らせながら笑い掛けるアスカに膨れっ面を向ける。
重い度お降りにぶつかった物だから嬉しくて仕方ないのだろう。恐らくは小さいときから変わらない笑顔が弾ける。

ゴムボートをひっくり返したのが彼女でなければ泳げない彼にとって膨れっ面どころの騒ぎではなかったのだが栗色の長い髪はシンジから泳げないと言う不安をぬぐい去っていた。

彼女は必ず海面に連れていってくれる。

「アスカ・・・前から聞きたかったんだけど・・・・何で昼寝の邪魔するの?」
「だってつまんないじゃん」

あっけない一言にシンジが言葉を失った。
そんな彼の目の前に浮き輪が現れ誰かが背中を突っついた。
「一緒に泳ぎましょ・・・・・」
顔に張り付いた淡いプラチナブルーの髪を細い指ではね除けるといつもより明るい感じのする顔が覗く。
さすがにボートをひっくり返すのを手伝ってはいないがアスカを止めたわけでもない。

浮かんでくるシンジのために浮き輪は彼女が確保していた。

「あ、サンキュー。じゃあ向こうの岩場行って見ようよ。何か居るかも知れない」
砂浜で泳ぐだけでは活動的な年代の彼らにとって飽きるのも早い。
岩場の方が遊ぶには面白みがある。

岩場は小生物の宝庫だ。
岩場と砂浜の両方が保養所のプライベートビーチにありいずれも楽しめる。
探索すると言うほど大げさではないがどうせなら普段見られない物が見たい。

第三新東京市にも海岸はあるが以前から結界の様に突き刺さった『立入禁止地区』の札はなかなか取れない。
もっともその海岸線に15年前、数万の死体が流れ着いていた事を知っている者はそれが無くても足を踏み入れないだろう。

「じゃあ、つかまんなさいよ。連れてってあげるから」

そっと手を伸ばしたがそこにはシンジの手ではなくロープだ。
ゴムボートに付いているそれは波に揺られ偶然アスカの伸ばした手に触れてしまった。

「じゃあ・・・・・あたしが引っ張るから・・・」

浮き輪に掴まったシンジを引っ張るレイと誰も乗っていないボートを引っ張るアスカ。
レイの方が重かっただろうがもしかしたらアスカの方が不満は大きかったかも知れない。
膨れた頬がそれを物語っていた。

浮き輪に掴まりながら下を見ると水中で白い足が二人分、優雅に揺らめく。
深い青の海はより一層彼女達を際だたせる。
お陰でシンジはろくに前も向けない有様だ。
特にレイは半分白色の水着がまるで何も着ていないかの様にも見える。

「バカシンジ、あんたいつになったら泳げるようになるつもりよ」
チラチラッと浮き輪に掴まった少年の方に目を向けていた彼女が彼の視線の先を確認すると少々表情がきつくなった。
「なんだよ・・・・・いいだろそんなの。大体人間は陸にいる時間の方が多いんだから」
「ホント情けないわ!言い訳ばっかりでなーーーーーーんにもしないんだから!」

別に何か悪い事した訳ではないのだが何となく腹が立つ。
だからつい水を蹴る足にも力がこもる。

「冷たいよ!」
「水が熱かったら変でしょ!」

海上を移動した割には比較的早く目的の場所に到着したのはアスカとレイの水泳能力が高いお陰であって、シンジは文字通りお荷物と化している。
彼のバタ足など水を巻き上げるだけで推進力としては殆ど役に立っていなかった。

「碇君・・・・足付くから大丈夫だと思う」
浮き輪とレイの肩にしがみついたまま離れようとしなかったシンジだったがレイの言葉に恐る恐る足先で海底を探る。
岩場に囲まれ湾の様になったそこは波は静かで、比較的浅いらしくシンジの身長でも首から上は海面上に出せた。

「良かったわねーーーーーシンジちゃんみたいなオチビちゃんでも顔が出せてぇ」
「何か棘があるね・・・・・それにアスカと5oしか違わないじゃないか・・・・」

さっきからどことなく突っかかるような口調のアスカにシンジは軽い戸惑いを感じていた。
勿論その原因など知るわけがないし、もしかしたらアスカ自身も知らないかも知れない。
ただ一つシンジの頭に浮かんだ諺がある。

『触らぬ神に祟りなし』

そんな傍らでレイはただ眺めているだけだ。別にどうするでもない。。
二人の間が別に険悪になったわけではないのだ。その証拠にアスカがシンジに水を引っかけ始めている。
ただその中に果たして自分は居ていいのか、そんな疑問が浮かんだ。

「碇君・・・・・」

名を呼んで側に近寄ると彼女の顔に塩辛い水が襲いかかった。
「へへん!二人とも悔しい?ねえ、悔しい?」

赤い舌をぺろぺろ出しながら二人に目尻を指で下げた顔を向ける。
そのままの顔で今度はアスカにさっきの二倍の海水がかかった。

「アスカ、悔しい?」
今度はシンジが同じ台詞を意地悪そうに口にする。さっきの仕返しを見事に二人はやってのけた。

「とっっっっっっっっても悔しい!」
あっさり認めるとアスカは水面下に姿を消しシンジに向かって潜行する。
そして海中で揺らいでいる二本の足を見いだすと躊躇せず両手で抱きかかえた。

「わわっわーーーー!」

バランスを失うとようやく出ていた顔が海に水没した。
口には塩辛い水が、鼻にも後頭部を突き刺すような刺激が走る。

『ごぼバガバブバ!!』

水中なだけに言葉など発せようはずもない。
自分の口からわき出す泡の向こうに同じように沈んだレイの姿もあった。

「どうよ!このアスカ様に刃向かうなんて一千万年早いわよ!」

ケラケラと笑い声を立てながら得意満面な顔で海面に顔を出した二人を見下ろす。
アスカは見事に二人を海中に転ばすことに成功したのだ。
お陰で彼女のほんの少しだけ心に掛かっていた雲は綺麗にどこかへ消えてしまった。

それはレイも同じだ。
心の波間に見え隠れしたささやかな疑問は海に沈んだ時、どこかへ落としてしまったらしい。

手の平で海水をすくうと思いっきりアスカとシンジめがけ振りまいた。
夏の光を受け光の粒の様に宙を飛び、二人の頭上から舞い降りる。

悩まず、自然に出来た行動。

歓声と共に再び自らに返ってきた光の粒がとても暖かく感じられた。


「ねえ、あなた・・・・」
「あぁ?何か用か?」

用がなければ呼ばれないだろうと思っている所があるらしい。
長い間共に暮らしてユイはいつもそう感じる。
メガネの隙間から睨みつけるような、ユイ以外の人間は目を合わせたくなくなる様な目つきだ。
或いはシンジのように慣れてしまうか、冬月のように諦めるかでもしなければ彼と目を合わせて話すことは難しいだろう。

そして用もないのに彼を呼ぼうなどとする者は今まででユイだけだった。

「大した用じゃないけど・・・・お茶でも飲む?」

訪ねながら既にティーセットに紅茶を注いでいる。
「アイスティーの方が良かった」そう思いつつも何となく口に出来ずにいた。
立ち上る湯気に眼鏡を曇らせながら香り立つ紅茶を啜る。
どうもエアコンが効きすぎていたらしい、熱い紅茶を美味しく感じた。

曇った眼鏡の隙間から時計を覗くと既に三時を回っている。
隣には誰にも実際の年齢より若くみられる妻の笑顔が彼を見つめていた。
「まだ泳いでいるのか?」
「ええ、そこから見えるでしょ?」
窓の外に広がる青一色の中で水しぶきが三つほど上がっているのが見える。
「元気なものだな・・・・いつまで遊んでいるつもりだ?」
「いつまでだっていいじゃない、まだ中学生よ。放っておけばいつまでも遊んでるわ」

ユイは隣の椅子に座ると夫と同じ景色をその目に映す。
声までは聞こえないが子供達が何を話しているか母親は手に取るように解る。

「でもホント・・・いつまで泳いでるつもりかしら」
広い海を所狭しと泳ぎ回っている2人と一緒に引きずり回されている1人に未だ疲れの色が見えない。
昼下がりの景色にしては元気が良すぎだ。

恐らくはいくつもの不安と疑問を抱えながら、それでも今を楽しんでいる3人が羨ましく感じる。
今年の夏休みは出来るだけ、より沢山楽しんで欲しい。

「来年は・・・・どこか行けるかしらね・・・みんなで・・・」
去年まではいつもの夏休みだった。
だが来年はそれをもう一度迎えられるのだろうか。
来年という時間が訪れるのだろうか。

そして全てが終わったときを考えると、ユイにとって最大の不安が心の地平線から禍々しい羽を広げ彼女を包む。

・・・・何もかも終わったとき、あの子達は側にいるのかしら・・・・

「あなた・・・・大丈夫よね。来年は・・・・来年はどこ行くか考えておいて下さい・・・」

ゲンドウが何か答える間もなくその頭は柔らかい腕に包まれた。
「ユイ?」
「お願いだから・・・あの子達に・・・・少しでも幸せをあげて・・・」

髭の生えた顎を自分の流していない涙が濡らす。

ユイにとっては皮肉だろうか。
子供達の笑顔を眩しく感じるたび胸が締め付けられる。
子供達が楽しげにはしゃぐたびにほんの少し未来への不安が渦巻く。

抱えた物の重さを辛く感じた今、唯一その重さを理解してくれる男と唇を重ねた。
ほんの少しでいい、気持ちを軽くしたい。
遊び疲れ戻ってくる子供達のために。

「心配するな、何も変わらずに来年は来る・・・・・」

ユイの濃い茶色の髪を不器用に、だが優しく撫でながら囁くように彼女の望む言葉を紡ぐ。
そして言葉にしなかった意志は心に深くしまい込んだ。

・・・・・安心しろ、誰にも何も変えさせはしない・・・・どんな手段を使ってもな・・・・


「アスカ、タオル貸して」

髪から水を滴らしたシンジはアスカが使っているビーチタオルの余っている部分で顔を拭いた。
「ちょっと引っ張らないでよ!大体自分のタオルをビーチに忘れるなんておー間抜け!」
文句を言いつつも駅前の買い物の時に購入した特大タオルの半分ほどをシンジに貸す。
微かに甘い香りに包まれながら髪の毛を拭いている最中の彼らに背後から走り寄る足音となを呼ぶ声が聞こえた。

「碇君・・・蟹が居る・・・・・」
白い指先は岩場に隠れた小さな蟹を追いかける。
初めての海岸には彼女を驚かせる物が沢山あった。
紙の中の生き物は今は実体を持って彼女の目の前で生活している。
レイは海辺に息づく生態系の僅かな一部分を拾い出してはシンジやアスカに見せていた。

一つ一つ確認するように。

その子供過ぎる行いは二人に困惑の表情を浮かべさせている。

「シンジ・・・レイってあんなに子供っぽかったっけ?」

どことなくいつもの彼女とは感じが違う。
みんなと買い物に行ったときもここまではしゃいだ様子は見られなかったのだ。
どこか甘えているような感じさえする。

「多分旅行だからだよ・・・・綾波旅行行ったこと無いって言ってたし・・・」

そうかも知れない、アスカ自身今日は随分はしゃいだような気がする。
毎年の旅行だがそれでも『家族旅行』は彼女にとって大切な旅行だ。

「ふーん・・・・そんなもんかしら・・・・」

岩の隙間を片っ端から覗いてまわるレイにふと昔の記憶がアスカの脳裏にコマ送りで上映された。

『おばさま!この花なんて言うの?この花は?この虫なんて名前?』

まだ小さかった頃、初めて碇家と一緒にどこかの高原に『お出かけ』したとき彼女はユイに何かを見つけてはその名前を何回も尋ねた覚えがある。

それほど興味があって聞いたわけではなく『ユイが教えてくれる』事が嬉しかった。
アスカが訪ねればユイは何でも答えてくれる。知っている人間のいない場所、新たに生活する場所、幼かったアスカにとって全ては不安の対象でしかない。

その中でユイだけは優しい微笑みで彼女を見ていてくれた。

・・・・・ママなんて大嫌い!!ママなんて死んじゃえ!!・・・・・

ユイのことは出会った日から着ていた洋服まで思い出すのに、彼女を生んだ『ママ』と別れた日の事はあまり楽しくない言葉しか思い出さない。

顔すら思い出せない。
そして思い出さなくとも悲しくなかった。

レイもそうなのだろうか・・・・

レイが碇家に来た理由、それは両親を事故で失ったから。
そうアスカは聞いている。
疑う必要はない、だから今まで気を使って彼女の過去のことを聞かなかった。

他人の古傷をいじるような真似はしたくない。
自分は誰にも聞かれたくなかったから。

・・・・でも・・・・もう聞いてもいいわよね・・・・一緒に住んでるんだから・・・・

レイのことをもう少し知りたいと思う。
もし一緒に暮らさなければ彼女はただの友人だったかも知れない。
或いは仲の悪い同級生かも知れない。
無口で無表情の少女、最初に逢ったときは気に入らなかった。

だが今は共に暮らし、こうして一緒に旅行もする。
レイが変わったのか、アスカ自身が変わったのか。
どちらでも構わない、アスカにとっての彼女は大切な家族なのだ。

だからレイのことをもっと知りたい、色々聞きたい、それは決して悪いことではないはずだ。
そうするためにアスカは決心した。

「レイ・・・・・・あんた『家族旅行』に来たのよね?」

突然の確認とも取れる質問にレイの赤い瞳は丸く開いた。
質問者はただの旅行ではないと思っている。
「今日ここに来たのは家族旅行だからさ・・・・だからレイも一緒に来たのよね?・・・」

もしかしたら自分だけがレイを家族だと思い込み、レイ自身は何とも思っていないかも知れない。
親しいつもりでも本当はそんなに親しくないのかも知れない。

微かにアスカの視界が揺らめく。波の音が遠くに聞こえた。

「・・・・・家族・・・なの・・・・・」

自分にもっとも相応しくない言葉が聞こえる。
自分の居場所は今アスカが指さした。
共に住んでいるアスカがレイの目の前に言葉を差し出した。

独りではない、誰かが側にいる生活。
いつも一緒にいる誰か・・・・・

「・・・・・家族・・・が・・・・いい」

知っている言葉を総動員して全ての思いをそこに詰め込み、やっとの思いでアスカに届ける。
たった1m先にいる彼女に届くまで詰め込んだ想いがこぼれない様に祈った。

「・・・・家族がいい、じゃ無くて家族なの!まったく何勘違いしてるのよ」
口調は荒い、だが表情では安堵と嬉しさとが絡み合った。
レイの少ない言葉は何も落とすことなくアスカの胸にしまい込まれたようだ。

波の音がついさっきより間近に聞こえた。

・・・・家族・・・か・・・・

シンジの視界に映る二人の少女、受け入れるのに何の抵抗もない。

・・・・でも・・・キョウダイじゃない・・・・

キョウダイじゃないのに家族。
キョウダイじゃないがもっとも身近な少女。
今まで気にもならなかったことが何故かシンジには特別なことのように感じる。

不自然とまでは思わないがどこかに違った思いがある。

今まで何の違和感もなくともに暮らしたアスカ。
いつも共にいたアスカ。
しかし今は家族としての彼女以外にもう一つの姿が浮かび上がるようになった。

それがどんな姿なのか解らない。
輪郭はぼやけ、まるでつかみ所がない。

今だ漠然とした『感覚』でしかないのだ。
その『感覚』は決して不快ではなく、しかし不安ではあった。

自分が何かの答えを導き出したとき果たして今までと同じ時間を過ごせるのか。

レイはその時どうするのか。

・・・・・何も変わらなければいいのに!・・・・・

EVAに乗り使徒と戦う特別な身分、その事だけでも大きな変化だが見回せば普段の時間の中でも小さな変化が転がっている。

とても小さな事だがとても気になる事。
不安だが何かを期待させる事。

そして何かを得ても別なものを失う恐怖・・・・・・・

「こらバカシンジ!さっきから呼んでるでしょ!そのボケボケッとしたところは何時まで経っても変わらないわね・・・・」

いつもと変わらない蒼い瞳の中に豆鉄砲を食らったような少年の顔が映る。

「あ、ゴメン・・・・何?」
「保養所に戻るわよって言ったの。あんた温泉入りたがってたじゃない」

シンジは手を伸ばしアスカの手を掴み彼女のしているダイバーウォッチを覗くと既に4時近くを指していた。
既に引き潮になったためか周囲には岩の領域が増えている。

今日は十分に遊んだ。
お陰で早くもお腹が空いてきている。

「綾波はもういいの?」
「ええ・・・・・また明日一緒に来るもの・・・・」

もしかしたらレイは今日一日一番楽しんでいたのかも知れなかった。
くたくたに疲れているがまだ休みたいとは思わない。それはシンジやアスカも同じだった。

名残惜しさを海辺に残すとビーチパラソルを畳み始める。

明日またここに差すことになるだろう。
旅行初日は何の問題もなく過ぎようとしていた。






『・・・・今日の臨時閣議で国民民主党の湖川参議委員は国連安全保障条約問題に触れ、自衛隊の出動理由に対する説明を安倍川国務大臣に・・・・』

碇家の宿泊する部屋のTVは夕刻のニュースが流れていたがそれを眺めている者は居ない。
アスカとレイは今日着た水着を洗濯機で洗濯中だしユイは土産物を覗きに近所の土産店に行ってまだ帰ってきていなかった。

窓の外に見える岩場にいた釣り人ももう姿を消している。

そしてゲンドウとシンジの姿もこの部屋にはなかった。

湯気の向こうには海が見える。
来る前に見たパンフレットと同じ露天風呂だ。

「ふぅぅぅぅぅ・・・・・静かだな・・・・」
他にも宿泊客はいるはずなのだがこの広い露天風呂には独りも居ない。
思い返してみれば夏休みというのに家族連れの宿泊客の姿がなかったような気がする。
プライベートビーチでもそれらしい人は見かけなかった。
もっともシンジ達と同じように朝早くから余所に遊びに出かけていったのかも知れない。

さして気にはならない。

「来て良かったなぁ・・・・向こうに温泉なんて無いモンな・・・・」

無いわけではないが海の見える温泉はない。

まだ中学生のシンジは遊んだ疲れなど小一時間も休んでいればすぐに回復するがそれでも温泉に入ると心が安まる。
何となくモヤモヤしていた頭が少し落ち着きを取り戻していった。

「極楽・・・・・」

頭にタオルを乗せのんびりと手足を伸ばす。
自宅の家風呂も決して小さくはないがさすがにここまで広くはない。

波の音がシンジの胸にゆっくりと届く。
体がゆっくりと弛緩していくのが解るほどくつろいでいると脱衣所から通じるガラス戸が開き誰かが入ってきた。

そして普段何時も聞いている声が彼の名を呼んだ。

「シンジ、もう入っていたのか・・・・」
「父さんも来たんだ・・・・・アスカ達は?」

竹の柵で区切られた男風呂と女風呂、隣からは誰の話し声も聞こえない。
アスカやレイが居るなら必ず話し声が聞こえる。

「何かしている・・・・・」

恐らくは詳しく知らないのだろう、ゲンドウは最も簡単な説明で済ます。

桶にお湯を汲み頭から被るとおもむろに石鹸を取りだし頭から洗い始める。
面倒くさいのかシャンプーなど殆ど使ったことがない。

「父さん・・・・ここNERVの関係してるところ?」
幾分いつもより赤い頬に笑みはない。
ゲンドウの答えを無言のまま待つ。

頭と体全体に付いた泡を流すと岩で囲まれた湯船に浸かりシンジを睨んだ。
そして突き放すように言い放つ。

「そうだ」

頭の中で考えていた聞きたいことは全てどこかに消えてしまった。
何となく宿全体に感じていた違和感。
体格のがっちりした若い男達、護衛なのだろう。

自分達の・・・

「やっぱりね・・・・・」

どこか諦めたような顔で海だけを眺めた。出来れば今はゲンドウを視界に入れたくない。

「・・・・乗ってきた車は防弾装備の特殊車両だ。第三新東京市からは7台の護衛が付いてきている。泊まる部屋も壁に対爆用の鉄板が埋まっている。窓ガラスは・・・」
「聞きたくないよ!!」

後ろを振り返ることなく大声をシンジは張り上げた。
解っていたことだ、知らないふりをしていただけだ。
自分の立場、それが人類の命運に最も近い位置にいることを。

そして自分は生きねばならない。いや、NERVという組織にとってシンジは死んではいけない人間だった。
感情や愛情とは無関係に。

「必要な措置だ。釣りをしていた連中のカバンにはライフルが入っていた。浜辺にいた彼らも同じ物を砂の中に隠している。今ここに宿泊しているのは俺達とNERVの人間だけだ」
「聞きたくないって・・・・言ってるじゃないか・・・」

かすれる声でかろうじて同じ要望を伝えた。

本当に聞きたくなかった。
これはアスカの言うように「家族旅行」であってNERVなどどこにも関係ないはずだ。
使徒が来たと言うならともかく今は平和そのものだ。

なのに付きまとわれる。
鏡のような水面に小さな波紋が広がるように、どす黒い絵の具を一滴垂らしたように少しずつ自分の周りを覆っていく。
いずれ自分の側の人間まで染めてしまうような不安。

「お前にはやらなければならないことがある、他の人間には出来ん事がな」
「好きで出来る訳じゃない!!」
「関係ないな。やれる奴がやれることをやる・・・・・それとも母さんやあの二人を見捨てるか?」

人類、そのくくりの中に母やアスカとレイはいる。
鋭角なシンジの言葉をゲンドウは簡単に受け流し、彼の言葉は信じに選択の余地など無いことを告げている。

「酷いね・・・・出来るわけ無いじゃないか・・・・」

憎悪に尤も近い感情が渦巻く。

・・・・・父さんは悩んだことあるのかな・・・・・

シンジは悩んでいる、日常に入り込むNERVと慣れていく自分。
そして同じ筈なのにどこか以前と違う日々。

ほんの少し手元が狂えば崩れてしまう今。
色々な思いが乗っている砂の城はいかにも脆く崩れやすい事が感じ取れた。

「守りたい物があるならやれ、今はそれしかない。俺もお前もな・・・・」

・・・・父さんは何を守るんだ?・・・・

眼鏡の奥からゲンドウの感情を読みとれるほどシンジは人生を重ねていない。
言葉で訪ね言葉で聞き取れることしか父親が解らない。

「シンジ、俺のことは無視して構わん。お前が必要と思うことだけを守れ」
そして言葉ですら全てを理解できずにいた。

シンジの耳に聞き慣れた明るい声が隣から響く。
3人の話し声はいずれもシンジの良く知っている声だ。

そのなかの一際元気な声が昔からの呼び方で彼の名を呼んだ。

「バカシンジ!あんた着替え忘れたでしょ!?脱衣所に置いたからこのあたしに感謝しなさいね!」


地元で取れた新鮮な魚の刺身盛り合わせは部屋の洋風な調度品とは余りに不似合いだ。
それを注文したのはゲンドウだがこの辺のセンスのなさがシンジとの血のつながりをアスカに感じさせる。

とはいうものの味はさすがにすばらしく大きな船に乗った刺身達はあっという間に中学生の海賊達の餌食となった。

食後にさして面白いTV番組も無いので3人はアスカが陣取った部屋でトランプに興じている。
ポーカーをかれこれ二時間ほどやっていた。
やったことがないと言うレイに30分ほど時間を割きルールの説明に当て、持ってきた板チョコをチップ代わりにそれなりに白熱した戦いを繰り広げている最中だ。

月の見える海。
レイは暫し月に赤い瞳を向けていたがすぐに中断させられた。

「次こそ真剣勝負よ!!このあたしが負けるなんて絶対にあり得ないんだから!!」

今のところアスカのぼろ負けだ。

シンジは気味の悪いほどの幸運に恵まれ、ついさっき4カードで勝利を収めた。
レイは何一つその表情から読みとられることなくまるっきりの出たとこ勝負ながら勝率はシンジと同じだった。

それ故アスカの頬は風船のように膨れる。

「ホントに負けず嫌いだね・・・・」
「うるさいわね!ここまでコケにされて引っ込んでられる訳ないでしょ!レイはともかくシンジに負けるなんて絶対に認めないんだから」

昔からそうだ。
どんな遊びでも必ずアスカが勝たなければならない。
実際彼女の方が何かに付け『優秀』だったので勝負事はシンジに勝つことが殆どだったがそれでもたまにツキや運と言った不確定要素の配分のお陰でシンジがまぐれで勝つことがある。
そうなると勝つまで止めない。
以前に買ったTVゲームでシンジは5時間ほど付き合わされた覚えがある。

今はまさにそのパターンだった。

「ほらさっさとカード配りなさいよ。レイも早く座ってよね!」

熱中しすぎて勝てる物も勝てなくなると言う奴だ。

手元に配られた5枚のカードをそれぞれが眺める。
そしてシンジは2枚、レイは3枚、アスカは1枚のカードをチェンジした。

・・・・よし、これでいける!!・・・・

アスカのニンマリとした表情にシンジは何となくおかしい。
その正反対にレイは開始当初の顔と何一つ変わっていない。

「いい手みたいだね・・・・3カード?」
「何でもいいでしょ。シンジ・・・・・降りたら承知しないわよ・・・・」

オープン!のかけ声で一斉にカードが披露された。

「あたし・・・・同じの・・・三枚」
「シンジ、あんたは・・・・・げ・・・・」
シンジに見えないように自分のカードを巧妙に隠しながら彼の手元を覗き込んだ。

「・・・あの・・・3と6の・・・・フルハウス・・・」

実に申し訳なさそうにアスカにクィーン3枚ジャック2枚のカードを紹介した。
そして恐る恐る彼女の手札を見る。

「Aと3の・・・・2ペア・・・・」

がっくり肩を落としたアスカは恨めしげにシンジと自分のカードを見つめた。
「もうイヤ!!何で3が来ないのよ!いっつも肝心なときに来ないんだから!!」

とうとう癇癪を起こすとカードは宙を舞う。

「もう止めた!!トランプ終わり!!」

こうしてゲームは一方的な形で終了したがシンジに不満はない、そしてこのあとに起こることも充分予想できている。

「シンジなんかダイッキライ!!」

ベットに置いてある大きなクッションを手にしたアスカはそれでシンジを乱打した。
アスカがぼろ負けしたのはことさらシンジの責任ではないのだが他に八つ当たりする相手が今まで居なかったので彼が一手に引き受けている。

「八つ当たりだよ!アスカが負けたんじゃないか」
「ダイッキライ!シンジなんかダイッキライ!」

柔らかいクッションは幾ら当たっても痛くも痒くもない。そして彼女の八つ当たりにも慣れている。
他の誰でもなくシンジにしか見せない。
だが今はそんな彼女を見つめるもう1人の少女が側にいる。
赤い瞳は二人の様子を眺めながら恐る恐る自分もクッションを手にした。

「参った!参ったってば!!」
「駄目!まだ許さない!!」
口にした台詞より遙かに楽しげだ。
海でも二人は楽しそうであった。
そして自分はその中にいる、楽しんでいる自分が。

ほんの少し自分で動けばいい。

アスカは何か柔らかい物が後頭部にぶつかったのを感じた。
シンジにのし掛かったまま振り返ると赤い視線が彼女達を見つめている。
「・・・・何よレイ・・・・」
「別に・・・・・・」

アスカはまさかレイから反撃を受けるとは思わなかった。
「やったわね!このっ!」

そして自分の取るべき行動は遠慮して何もしないことでもなく、レイに同じ事をすることだ。
シンジにしたように笑顔で。
その方が楽しいに決まっているのだ。
クッションが宙を舞いレイの顔に当たった。
そして投げた彼女は満面の笑みを浮かべベットに座っている。

「向こうの部屋は随分騒々しいわね」
「はしゃいでいるだけだ・・・・どうせ迷惑にはならん、放って置け」

ユイの入れたコーヒーをブラックのまま飲み干すとドスンバタンと賑やかな部屋の方に目を向けた。
どうせシンジが投げつけられたに決まっている。時折聞こえる蛙の悲鳴のような声はシンジが踏みつけられたのだろう。

ゲンドウは一向に構わない。

いつもと変わらぬ様子でユイにコーヒーのおかわりを差し出した。

「シンジ・・・・・気が付いた?」
一暴れした3人はベットに寄りかかり窓の外を眺めながら音楽を聴いていた。
「へ?なにが?」
アスカの質問は肝心な部分が欠けていたので答えようがない。
「おじさまよ!・・・・おじさま見て何か気付かなかった?」

シンジとレイは頷いて何も気付かなかった事を告げた。
シンジは一緒に風呂に入ったがろくに顔も見ていない。
一瞬父親の正体がばれたのかと思ったがアスカの顔を見る限りそう言うことではないらしい。
「ホントに何も?・・・・おじさまの唇よ」
そんな物は頼まれたって見たくない。
「おじさまの唇にね・・・・ふふふっおばさまの付けてる口紅と同じ色がね・・・ついてたの」

ニヤニヤしながらシンジとレイにだけ聞こえるように小さな声でボソボソッと話す。

「何で?」

心地よいほどの音がシンジの頭で鳴り響く。
「あんたバカァ?キスしたからに決まってるじゃない!」
肝心なことは大声で口にした。
アスカ達が泳いで帰ってきたときに彼女だけが気が付いたのだ。

ゲンドウの唇に朝ユイが付けていた口紅が淡く付いていることに。

「ふううん・・・・そう・・・・」

何故か嬉しそうなアスカとは対照的にシンジの顔は複雑怪奇だ。

・・・・・母さんは・・・・どう思ってるんだろう・・・・・

露天風呂でゲンドウと交わした会話を思い出した。
あまり楽しくない会話。
ユイは当然夫のことを知っているだろう。一体どう思っているのか。

嫌っているのだろうか、それとも仕方がないと思っているのだろうか。

・・・・怖がっているのは・・・僕だけなのか・・・・

「こらバカシンジ、何感心したような顔してるのよ!」
「あ、イヤ、その良く気が付いたなと思って・・・そんな細かいこと」
「すぐ解るわよ。雰囲気みたいなモンで」

得意げに語るアスカにシンジは少し聞いてみようと思うことが浮かんだ。
もしかしたら何も聞かない方がいいのかも知れないがどうしても確認してみたかった。
それで不安が無くなるわけではないのだが。

「アスカ・・・僕は変わった?」
「あんた?べっつに何にも変わってないんじゃない?ボッケーっとしてるところは相変わらずだし」

胸の中のざわめきが少し落ち着いた。
自分はまだ変わっていない、まだいつもと同じだ。

まだみんなと家族で居られる。

まだ一緒にいられる・・・・・

共に月を眺めている時間がゆっくりと流れていった。

「でも今日はホント疲れたわ。レイも疲れたでしょ・・・・」

瞼が半分ほど落ちかかったレイは少しだけ頷いた。
若干の寝不足、充分過ぎるほど動かした体、お腹一杯に詰まった夕飯。

まだ夜の9時というのに彼らは猛烈な眠気に襲われていた。
シンジはうつらうつらと頭が上下に揺れている。

「バ・・・カシンジ・・・このまま寝たら・・・・風邪ひくわよ・・・」

アスカの意識ももうろうとし始めている。
やがてシンジはバタッと倒れ込みそのまま眠りについてしまった。

「レイ・・・・毛布・・・・とって・・・・風邪ひいちゃう・・・」

レイもまた殆ど動かなくなった体でどうにか毛布を掴むとシンジの体に掛けた。
そして共に言葉も残す。
「碇君・・・・・あたしも一緒に・・・・・・遊んだの」
それが今日最後の言葉。

「もう・・・・あたしが・・・ふぁぁぁ・・・・最後じゃない・・・・・・・・」

アスカは最後の力を振り絞り毛布をレイの体に掛けると力つきそのまま熟睡の海へと沈んでいった。

「あら・・・・・風邪ひくわよ」

静かになった部屋を覗いたユイはベットの下で打ち上げられた魚のように転がっている3人を見つけると他の部屋から毛布を持ってきてアスカに掛ける。

今だ音楽を鳴らしているMDを止めエアコンのタイマーを入れると暫し3人を眺めた。

「何時までも・・・・・で、いいわよね・・・・シンジ、来年はどこに行こうか・・・」
シンジは何も答えず寝息を立てている。

音のしないようにドアを閉めると部屋の明かりを消し彼らに今日最後の言葉をユイは掛けた。

「お休み、また明日ね」

続く


ねくすと

ver.-1.00 1997-11/04公開

何かありましたらこちら!!お気軽にどうぞ

 ディオネアさんの『26からのストーリー』第十四話、公開です。

 

 

 ううう・・偉いぞ、ゲンドウ!
 

 連日の激務を乗り越えやっと手にした休み。

 それを家族サービスに当てて・・

 徹夜で高速道を運転、
 助手席&後部座席では安らかな寝息。

 腰と首をいわしながらも威厳を見せる。

  ・・・日本のオヤジだ (;;)
 +

 起き抜けにユイさんの爆走を助手席で体験。
 

 ううううう、偉いぞぉ

 

 

 罪滅ぼし・
 家族の確認・
 明日への決意。

 

 シンジ達に何をさせようとも、
 オヤジであり続けること。

 

 

 Imitation・・
 いやいや、Realですよね。きっと・・

 

 

 繋がりを深めた子供達。
 それ故に苦しみも大きくなるのでしょうか・・。

 

 

 さあ、訪問者の皆さん。
 77KBの超大作を発表したディオネアさんにリボDメールを送りましょう!

 

 

 

 リゲインも可。
 ユンケルOK。
 アルギンZ・・マイナーだけど良し。

 オロナミンC−−私は[アンチ読売](^^;


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