舞い上がった土砂が太陽を覆い隠し,辺りはまるで夜のように暗い.
初号機の先ほどまでの天に響く咆哮は収まり,雨音だけが世界を支配している.
頭上から滝のように容赦なく打ち付ける黒い雨は,静かに立ち尽くす初号機を打ち砕かんとするかのように,ますます激しさを増して行く.
黒い雨は,エントリープラグ内のシンジの心をも凍り付かそうとするかのごとく,冷たい.
シンジは,無意識の内にシートの上で膝を抱え,胎児のように丸まっていた.
シンジの心を満たすものは後悔.そして,最愛の少女を救えなかった事への懺悔.
雨に打たれる感覚だけが支配する世界で,シンジは己の愚かさを呪っていた.
一方,2機のエヴァの自爆を目の当たりにし,発令所には静寂というカーテンが重く覆い被さっていた.
誰もが呆然とモニターを見つめ,瞬きする事さえ忘れ,彫像と化したかのように微動だにしていない.
マヤの鳴咽だけが,発令所の静寂を破って,人々の鼓膜に強く響いている.
スタッフが職務を忘却し,感傷に浸っている中,発令所最上段より,よく通る声が降ってきた.
「葛城君!」
冬月副司令の言葉で,思わず我に帰ったミサトは,作戦指揮官としての責務を思い出す.
「目標は?」
「も,目標,消失.」
ミサトの言葉で我に返った青葉シゲルが,いつもよりワンテンポ遅れて答える.
「現時刻をもって,作戦終了.第一種警戒態勢へ移行.零号機と弐号機は?」
「了解.状況イエローへ.」
「ぜ,零号機,弐号機とも反応ありません.エントリープラグの排出は・・・,認められず・・・.」
涙声で状況をミサトに報告し終えたマヤは,感情の高ぶりに耐え切れず,とうとうコンソールに突っ伏して号泣している.
「生存者の確認と救出,急いで.お願い・・・」
ミサトは,藁にもすがる気持ちでだ.
ミサトを含め,発令所の大人達は,2人の少女の探索に一縷の望みを賭けた.
ミサトとは対照的に,先ほどから沈黙していたリツコは,確認するかのように,碇司令に視線を移した.
司令の方も視線に気が付いたのか,一瞬リツコの方に視線を移したが,すぐに正面に戻してしまった.
冬月副司令も,リツコの視線に気づき,リツコに視線を向けた.その視線には,複雑な感情が入り交じっている.
小さくうなずくと,リツコは一人発令所を退出した.
シンジからの通信が入ったのは,発令所が平常を取り戻しつつある,まさにそんな時であった.
「ミサトさん,7番ゲートから帰還します.準備して下さい.」
「りょ,了解.7番ゲートから初号機収容.それにしても,シンジ君,無事だったのね.よかったわ.」
「ええ,アスカと綾波のおかげで・・・.」
力なげなシンジに,ミサトはかける言葉を見つけられなかった.しかし,初号機とシンジが無傷であるという事が,ミサトを始め発令所の人々に少なからぬ安堵感を与えたことは事実である.
本部に帰還したシンジは,終始無言のまま,制服に着替え,自分の執務室に閉じ篭ってしまった.
肉体が滅び,自由になったアスカの魂が,シンジに「すぐに合えるわよ.」,という言葉を残し,西の方角に飛び去ってしまった.その言葉がシンジの心に引っ掛かる.
背もたれに体を預け,天を仰ぐシンジの脳裏に,加持から受け取ったチップが浮かんだ.
シンジさえ知らない何かがあるという予感に駆られ,シンジは保管庫からチップを取り出し端末にセットした.
資料から溢れ出る膨大な量の事実が,シンジの目の前に広がる.
とりあえず,シンジは,アスカに関する項目だけを検索し,次々と目を通して行った.
資料を読み進めるに従って,モニターを見るシンジの顔には驚愕の表情が色濃くなって行く.
そこには,シンジの予想を遥かに越えた,惣流・アスカ・ラングレーに関する全ての情報が記録されていた.そう,まさに全てである.当の本人は,この万分の一も知らされてはいないだろう.それほどまでに膨大な秘密が,アスカには隠されていた.
まず,アスカの出生,生い立ちについて,こう語られている.
惣流・アスカ・ラングレーは,シンジやシンジのクラスメートと同様に,アダムと呼ばれる第1使徒のDNAの一部を植え付けられて誕生した”しくまれた子供達”つまり”チルドレン”の一人である.しかし,アスカの場合には,母体となる人間の卵子と精子のDNAにも操作が施されている点が,他のチルドレンと大きく異なっていた.
確かに,アスカが言うように,彼女は選ばれた人間である.
アスカ一人が誕生するまでに,同様の処置を施された受精卵,胎児,新生児が何百何千と闇に葬られていたのだ.順調に成長した唯一の成功例は,アスカただ一人であった.
それだけではない,その貴重な成功例を保存する為であろうか,レイと同じようにアスカにも予備の肉体ともいえるクローンが多数存在していた.もちろん,当のアスカは,自分のクローンの存在などまったく知らされていない.
確かに,レイが誕生した当時の組織は,ネルフではなくゲヒルンであり,ゼーレとの繋がりは,現在よりも強かった.つまり,レイ誕生に関する技術が,ゼーレでも運用されていると言うことだろう.いや,もしかすると逆かもしれない.
それよりもシンジを驚愕させたのは,シンジが知るアスカは,2人目の惣流・アスカ・ラングレーであると言う事実であった.
1人目のアスカは,5歳の時にアスカを生んだ母親に絞殺されていた.
アスカが夢に見る光景は,どうやら前世の記憶のようだ.
ゼーレは,記憶のバックアップを行わず,生まれ変わったアスカに,都合の良い記憶と人格を植え付ける事を選択した.その為,アスカは,自分が一度生まれ変わったという事を知らずに,植え付けられたつぎはぎだらけの記憶と人格に悩まされていたのだ.
植え付けられた人格の影響のため,アスカの心は,薄氷を踏むような危ういバランスの上に成り立つようになってしまった.
人格の崩壊を防ぐ為,そしてゼーレの手駒として意のままに操る為,ありとあらゆるテクノロジーがアスカに投入されていた.そのテクノロジーの一部が,マイクロマシンであり,そして薬物投与なのだ.
資料には,アスカの日本での目的についても,詳細に言及されている.
その目的とは,ます第一に,チルドレンとして第3新東京市に来襲する使徒を殲滅し,サードインパクトに至るシナリオを進めること.そして第2に,使徒との戦闘の中で戦死すること.そして第3の目的は,ネルフ要人の暗殺および拉致であった.
戦死することが目的とは,非常に奇異なことではあるが,アスカが1人目の肉体を失い,2人目に転生した後,彼女の魂の霊格が格段に上がっている事実を,ゼーレの技術者達が発見していたのだ.人間として,より高位な存在,つまりより補完された存在として生まれ変わっていたという事実から,ゼーレは,アスカが2度目の転生によって,より神に近い存在となることを予見した.
使徒殲滅によってシナリオを進め,使徒との戦闘の中で戦死すれば魂の入れ替えを行い,最後まで生き残れば,ゼーレが幕を引く.ゼーレがアスカの為に描いていたのは,そういうシナリオだったのだ.
アスカと共にドイツから輸送されてきた弐号機についても,資料にはこう書かれている.
初の量産型エヴァンゲリオンである弐号機は,本当の意味でアスカ専用の機体ではない.
アスカ専用のエヴァンゲリオンは別に存在するのだ.
真のアスカ専用エヴァは,”壱号機”という名前で,ゼーレの手元で巧妙に隠蔽されていた.
弐号機には,アスカの代理母である惣流・キョウコ・ゼッペリンの魂が宿っている.一方,壱号機には,アスカの遺伝子上の母親の魂が宿っているのだ.しかも,初号機の碇ユイと同様に,完全にエヴァに取り込まれた状態で.
初号機と同様に完全なコアとS2機関を備えたエヴァ,それがアスカ専用エヴァンゲリオン壱号機なのだ.
2度の転生を経て女神となったアスカは,壱号機と共に,ゼーレがコントロールするサードインパクトを導くべき存在だったのだ.
加持から託された資料を読み終えたシンジは,全身に虚脱感を感じ,背もたれに深く体を預け,天を仰いで軽く目を閉じた.
目を閉じながら,シンジは,アスカのことを思い出す.
シンジが知るアスカは,本当のアスカなのだろうか?
そもそも,本当のアスカは存在するのだろうか?
アスカのシンジに対する思いは,偽りなのだろうか?
再会したアスカを,シンジが知る2人目のアスカに戻すという事は可能なのだろうか?そもそも,その行為自体,自分自身のエゴではないだろうか?
今度再会するであろうアスカは,ゼーレによって記憶や感情が作為的に変えられているであろう,しかし,それをシンジにとって都合が良い2人目のアスカに変えるという事は,ゼーレのアスカに対する所業と同じ事ではないだろうか?
自問自答を繰り返しながら,シンジは自分の愚かさに気付いた.
2人目のアスカの記憶のバックアップなど,どこにも存在しないのだ.”アスカ”を取り戻したくとも,取り戻すことは不可能なのだ.
シンジは,望んでも出来もしない事を真剣に悩んでいる自分に苦笑した.
眠る気にもならず,シンジは夜が明けきらぬうちに,昨日の戦闘現場へと足を運んでいた.
昨日の土砂降りの雨は,すでに止んでいる.
そろそろ夜の時間が終わり,朝の太陽が昇り始める時間だが,空を覆う重苦しい雲のため,辺りはまだ夜が支配している.
ネルフが湖畔の周囲に設置した投光器の明かりが,やけに眩しい.
投光器の明かりが照らし出す景色は,まるで賽の河原だ.
湖の岸辺を覆っていた樹木は根こそぎ姿を消し,代わりにごつごつした溶岩性の岩石が覆っている.もはや,かつての景勝地である芦ノ湖の趣は微塵も感じられない.
シンジは,芦ノ湖を吹き渡る風に身を任せ,明かりを映す湖面を見つめて立っていた.そう,まるで賽の河原の向こうに旅立ってしまった亡者を迎えるように.
どのくらいそうしていただろうか,そろそろ帰ろうかと振り向いたシンジは,遠くから近づいて来る人影に気付いた.
その人影は,シンジと背格好が同じくらいだ.ゆっくりとシンジの方に近づいて来ている.
どうやら,その人陰は少年のようである.
いつもの芦ノ湖見物の観光客なら,時間がちょっと早いだけで,特に不自然ではないが,現在の芦ノ湖一帯は昨夜からネルフによって緊急封鎖されている.ネルフ関係者以外の人物が,この場所に居るのは非常に不自然なのだ.
しかも,驚くべき事に,視覚で捉えられるほど近づくまで,シンジが感知できなかったのだ.
警戒しながら,シンジは,その少年に向かって歩き始めた.
近づくにつれ,投光器の明かりに照らされた少年の容姿が,薄明かり中にはっきりと浮かび上がってくる.
中性的で非凡なほど整った顔立ちが,大人びた雰囲気を醸し出している.しかし,年はシンジとそう変わらないであろう.
表情が分かるほどに互いに近づくと,その少年は屈託のない笑顔をシンジに向けた,赤く光る瞳で.
「やぁ,おはよう,碇シンジ君.」
良く通る声で,その少年が話しかける.
「おはよう,最後の使徒さん.早いお出ましだね.僕の事はシンジでいいよ.ところで君の名は?」
シンジの瞳もまた,真紅に輝く.
「渚カヲル.僕もカヲルでいいよ.シンジ君.」
旧来の友人にばったり再会した時のように,カヲルはさわやかな笑顔で答える.
どちらも笑みを浮かべたまま,間合いぎりぎりの距離を保って相対した.
笑顔とは裏腹に,シンジの感覚は急激に研ぎ澄まされ,肉体と精神が戦闘態勢へと移行する.
まず,シンジは渚カヲルの戦闘能力を計った.
使徒としては最強だが,シンジのレベルには及ばない.きっとカヲルも同じ結論に達しているに違いない.このまま戦闘を開始すれば,戦いではなく一方的な殺戮となるだろう.しかし,敢えてシンジは引かない.
使徒には少なからぬ恨みがあるのだ.
しかし,相対する二人の間に殺気は存在しない.
二人の双眸は,薄明かりの中,一層怪しく,そして赤く輝く.
「使徒の最終進化形態は,結局人型なんだね.人間と同化するつもりかい?」
「まあね,この形態が一番効率がいいんだよ.リリンはこの星での進化の極みだからね.」
渚カヲルと名乗る美少年は,相変わらず涼やかな笑みを浮かべている.
「なるほど,そうかもしれないね.ところで,カヲル君,僕に何か用?」
シンジも少年らしい口調で応対する.
シンジの問いかけに対して,カヲルは無言のまま攻撃に出た.ATフィールドの矛によって.
カヲルの瞳が,より一層輝きを増す.
音もなく一直線に伸びる最強の矛を,シンジはATフィールドの盾で難なく防ぐ.
戦場には似つかわしくないほど涼やかな音色が響き,黄金色の火花が飛ぶ.
最強の矛と最強の盾のぶつかり合い.
カヲルの矛は,そのままシンジの盾を侵食.
侵食によって穿った穴に,カヲルは次の矛を突きつける.
防ぐシンジの盾.
二人は向き合ったまま微動だにしていない.全て,ATフィールドでの戦いなのだ.
第3者が見れば,少年がただ単に向かい合って立っているだけに移るだろう.それほど,二人の表情は自然で,殺気は微塵も感じられない.
そう,神の力の発動に,殺気は存在しないのだ.
カヲルは,涼やかな笑顔を浮かべ,シンジの表情もさきほどから変わっていない.ただ,瞳が放つ赤い輝きだけがより一層増していく.
必殺の攻撃を苛烈に加えるカヲル,全てを防ぐシンジ.
飛び散る黄金色の火花.
輝く黄金の壁.
翼のように幾重にもシンジを包み込むATフィールドの盾に,無数のカヲルの矛が突き出され,侵食,対消滅を繰り返す.
人知を超越した戦闘が芦ノ湖畔で開始された頃,ネルフ本部では,しばしの休息の時が訪れていた.
こうも短期間のうちに次の使徒が来襲することはないだろう,人々の心にそんな隙が生まれ育っていた事は否定できない.そんな望みを断ち切るかのように,本部内に警報が容赦なく鳴り響いた.
「芦ノ湖畔に強力なエネルギー反応!こ,この反応は,ATフィールド,それも恐ろしく強力な反応が2つ!」
「パターン青,使徒です!」
早朝の閑散とした発令所に,オペレータの叫び声が響く.
使徒2体による同時攻撃という最悪な事態が,スタッフの頭を過ぎる.
発令所にいた交代要員が,慌てて緊急コールをかけ,正規要員を招集する.
「総員,第一種戦闘配置.対地迎撃戦用意!」
一気に発令所に緊張感が走る.
意外にも,最初に発令所に飛び込んできたのは,ミサトであった.
息を切らせ,制服を正しながら状況を確認する.
「使徒?スクリーンに出せる?」
「映像出ます.」
スクリーンには,向かい合って立つ二つの人影が映し出された.
「もう少しズームできない?」
かなり遠方から撮影している映像に,ミサトは苛立ちを覚える.
「無理です.これが精一杯です.昨日の戦闘で,近隣のカメラが,全て蒸発してしまっていますので.」
「そう.じゃ,MAGIで映像をフィルタさせて.もっと2人を鮮明に出して.」
(2人か.生身でATフィールドを発生できる人間なんていないのに.)
ミサトは,つい口走った言葉に苦笑する.
「強力なエネルギー反応は,双方から検出されています.向かって右側の個体より使徒の反応を検出.」
「MAGIでのフィルタ完了.映像出ます.」
「い,碇副司令?それと,人型の使徒?まだ子供じゃない.」
スクリーンに映し出された左側の人陰は,見知ったミサトならかろうじて碇シンジと判別できる.
シンジと向かい合うもう一方の人陰は,反応から使徒であろう.しかし,どう見ても人間,それも,まだ中学生ぐらいの子供である.
今までの異形な使徒であれば,人類の敵として士気も上がるが,人の形をした使徒となると心境も複雑だ.
ミサトは,いやな戦闘になるわね,と心の中で呟いた.
「碇副司令と連絡を取って.初号機スタンバイ,碇副司令が到着しだい発進.それから,保安部員2個中隊は,直ちに現場に急行,1個中隊は碇副司令の保護,後の1個中隊は状況の報告を.」
「保護する必要はない.」
発令所全員の視線が,ある一人に集中した.
「し,しかし,司令・・・.」
ミサトは,食って掛るが,碇司令はいつものように顎の辺りで手を組んだまま,無言でミサトの訴えを却下した.
祈る気持ちで,ミサトは冬月副司令に視線を映したが,こちらもミサトの発言に耳を傾ける様子はない.
「訂正します,保安部員の派遣は1個中隊に変更.現場に到着後,状況を報告.本部は,第一種戦闘配置のまま待機.住民とC級勤務者以下には避難命令を発令します.碇副司令との連絡は?」
「だめです,強力なATフィールドの為,通信不能です.」
「そう.とにかく,保安部員,急いで.」
できる範囲の命令を下すと,ミサトは無言のままスクリーンに映るシンジに見入った.
その傍らで,いつのまにか現れていたリツコが,心なしか活き活きとデータ収集に専念していた.
カヲルの攻撃を黙って防いでいたシンジが,突如,反撃に転じた.
短い呼気と共に,シンジが前に出る.二人の距離が一気に詰まる.
カヲルが伸ばしたATフィールドの矛の数倍の強度のATフィールドを,シンジは右の拳に展開し,カヲルのATフィールド目掛けて突き出す.そして侵食.
カヲルも幾重にもATフィールドを張って防戦するが,シンジからの侵食は恐ろしく早い.
侵食の勢いに乗って,シンジは間合いをさらに詰める.
ついにカヲルを守るATフィールドの結界が綻び,シンジの侵入を許した.
シンジは,ATフィールドがぶつかり合う金色の火花を身に纏い,右の拳をカヲルの目の前に突き出した.
もはや矛は役を成さず,盾も鎧も剥がされてしまったカヲルは,ATフィールドを収めた.
「さすがだね.シンジ君.さあ僕を殺してくれ.」
変わらぬ笑みを浮かべ,コーヒーでも注文するかのように.
シンジは拳を引き,何も言わず,カヲルを見つめる.
シンジの視線に答えるように,カヲルは飄々とした口調で語り出した.
「不完全なセカンドインパクトで生まれてしまった使徒は,やはり,かりそめの住人なんだよ.アダムとリリスの生殖行為,君達がセカンドインパクトと呼んでいる現象だけどね,それによって君達リリンは魂だけの存在に帰り,次の肉体を持った種に転生するはずだった.それが不完全に終わった為に歪みが生じ,その歪みを正す為使徒が生まれた.セカンドインパクトのやり直し,つまりサードインパクトを起こす為に.しかし,それもアダムが封印された今となっては,叶わぬ事だけどね・・・.シンジ君には分かっているだろう,もう,僕の安住の地はここにはないんだよ.」
シンジは,しばらくの間カヲルから視線を外した.そして,ふたたびカヲルに視線を戻す.
「そうかい,カヲル君.じゃ,君の魂を僕がもらおう.」
カヲルは軽く目を閉じ,最後の時を待つ.
シンジは,ATフィールドを右手に収束させ,静かにカヲルに近づく.
握手を求めるかのように,シンジは右手を差し出し,カヲルの丹田の辺りに掌を当てた.
シンジの意外な行動に目を開けたカヲルの瞳に,シンジの瞳が写る.
シンジの軟らかに笑いかけているかのような表情に,カヲルも思わず笑みを返す.
「な,なに?これは?」
シンジの右手が添えられた辺りから広がる奇妙な感覚に,カヲルが狼狽する.
「そう,カヲル君の使徒としての魂は,僕が貰い受ける.そして新たな魂をカヲル君に託すよ.」
カヲルは,再び目を閉じると,体の力が抜けたようにシンジに倒れ掛かった.
発令所のスタッフ達は,シンジと使徒が戦っている場面を瞬きもせず見つめている.
正規要員と交代したサブのスタッフ達も,発令所から立ち去らず,スクリーン上での事の成り行きを見つめている.
戦闘が映し出されるスクリーンに見入るスタッフは,生身のシンジが,肉眼でも確認でくるほどのATフィールドを発生していることに驚愕していた.だが,心のどこかで恐怖を感じていたのも事実である.
カヲルのATフィールドが消失し,遠目にシンジがカヲルに止めを刺したかのように見えると,発令所に小さな歓声が上がった.
「終わったな.」
「ああ.」
シンジの実力を熟知している碇司令と冬月副司令だけが,戦闘の終結を確信した.
カヲルが,シンジに倒れ掛かるのと同時にオペレータが,観測の変化を告げた.
「パターン消失.」
「消失?死体があれば使徒なら反応が出るはずよ.日向君,よく確認して.」
データ収集に専念していたリツコが,突如口を挟む.
「間違い有りません,MAGIの解析結果は,3体一致で消失です.」
確かにスクリーン上では,シンジに倒れ掛かるカヲルの姿を見て取れるが,パターンは消失していた.
「どう言うこと?逃げたの?」
「逃走した形跡は見られません.」
「理由に関しては,MAGIは解答を保留.」
マコトとマヤが,即座に答える.
それぞれの上司であるミサトとリツコは,顔を見合わせ,不思議顔で視線を交わす.
発令所のスタッフが見守るスクリーンの中では,シンジが先ほどまで使徒であった少年の体を抱えあげ,歩き出していた.
ミサトが,シンジに連絡を取ろうとしたその時,碇司令が,作戦の終結を宣言した.
「第17使徒を殲滅.当時刻をもって作戦の終結を宣言する.速やかに第1種警戒態勢へ移行しろ.」
ミサトは,ふらふらっと司令の真正面に移動し,司令と向き合った.
「葛城三佐,復唱は?」
冬月副司令がミサトの行動に異を唱えるように,命令の復唱を促す.
ミサトは,無言のまま,碇司令の目の前で,ごく自然な動作でホルダーから拳銃を抜いた.すばやく銃口を司令の眉間に固定し,トリガーを引く.
全員が,銃声が響いた方向を向き,そしてそのまま発令場の時間が止まった.
ミサトの視界には,至近距離から頭部を打ち抜かれ,後ろの壁に赤いシュールな絵画を描きながら椅子ごと倒れる碇司令の姿が,まるで映画のコマ送りのように,ゆっくりとした動作で写っている.
ミサトは,倒れ行く司令の胸部に2発目の弾丸を撃ち込んだ.
2発目の銃声で,我に返ったマコトとシゲルが,すばやくミサトに飛びつき,床に組み敷く.
「ちょ,ちょっと青葉君,痛い,痛いわよ.日向君,どこ触ってるの!」
「あ,す,すいません.」
あまりにも普段とかわらぬミサトの口調に,マコトは思わず謝ってしまう.
「二人とも何やってるか分かってるの?すぐに手を放しなさい!」
「葛城三佐,あなたこそ何をやったのか覚えていないのですか?」
ミサトの手からすばやく拳銃を奪い取ったマコトが,悲痛な声で叫ぶ.
銃声を聞きつけて駆けつけた保安部員が,事情がよく分からないまま,ミサトを押さえつけるマコトとシゲルを包囲した.
「何って,あたしは使徒迎撃の指揮を執っていたのよ!」
マコトとシゲルは,両側からミサトの腕を取り,ミサトを立ち上がらせ,司令席の方を向かせた.
「葛城三佐,あなたが碇司令に2発の弾丸を撃ち込みました.一発は眉間,2発目は心臓.確かに実に見事な腕前です.」
「うそ・・・.」
先ほどまで司令が座っていた席の後ろの壁には,真っ赤な血糊と脳漿が,べっとりとへばりついている.
ミサトは,信じられない物を見るような目つきで,その壁を凝視する.
駆けつけて来た医療スタッフが,撃たれた碇司令の周りに殺到した.しかし,すぐに医療スタッフのチーフが立ち上がると,冬月副司令に向かって静かに首を横に振った.
冬月副司令は,ごくろう,とだけ声をかけ,静かに天を仰ぐ.
担架で運び出される碇司令の骸を目で追いながら,ミサトは手に残るかすかな感覚を思い出していた.
「あ,あたし・・・,あたしが司令を撃ったの?」
マコトとシゲルは,ミサトが大人しくなったのを確認すると,両腕を捕らえたまま,発令所から連れ出そうと出口に向かって歩き出した.
そのとき,リツコが静かにミサトの前に立ちふさがった.
リツコは,ミサトをキッと睨み付け,容赦なくミサトの頬を平手で打つ.
「せ,先輩!」
慌ててマヤがリツコに取り付く.しかし,リツコはそれ以上は何もせず,踵を返し,無言のまま,発令所から出ていった.
「総員はすぐに持ち場に着くように.青葉二尉,日向二尉君,葛城三佐の身柄を保安部員に引き渡し,すぐに持ち場に戻りなさい.当然のことだが,碇司令死亡に関する全ての事項を極秘とする.情報管理と漏洩には十分注意するように.」
冬月副司令が毅然たる態度で,動揺する発令所内に命令を出す.
マコトとシゲルは,冬月副司令の命令通り保安部員にミサトの身柄を引き渡し,持ち場に戻った.
連行されていくミサトは,自動的に歩いている人形のようで,顔には表情が欠片も見えなかった.いつもの闊達な雰囲気はまったく感じられない.
連行されていくミサトの背中を見ながら,冬月副司令は思わず呟いていた.
「碇,これも,おまえのシナリオなのか?」
本部に帰還したシンジは,カヲルを執務室のソファーに横たえると,冬月副司令のもとへと向かった.帰還する際の無線通信で,冬月副司令から呼び出しを受けていたのだ.
極秘事項であるため,無線通信上では何も聞かされていなかったが,自分の肉親の死を感知できないシンジではない.しかし,突然の父親の死という事実に対して,不思議とシンジはあまり感慨を抱いていなかった.元々父親との関係が希薄であった為なのか,それともあまりに突然の出来事に感情が麻痺しているのか,驚きこそすれ,悲しみの感情は弱い.むしろ,いたって平静な自分にシンジは戸惑いを抱いていた.
シンジは,心の戸惑いを表情の裏に押し込み,冬月副司令の執務室をノックした.
「シンジ君,いか・・・,いや,お父さんが亡くなられた.」
入室したシンジを迎えたのは,冬月副司令の言葉であった.
「ええ,感じました,父さんの死は.それで,死因は?」
「そうか・・・.死因は・・・,葛城三佐による射殺.動機は調査中だ.」
「ミサトさんが!?なぜ?あ,もしかして・・・.」
シンジは加持の言葉を思い出した,「ミサトには気を付けろ.」と.
「シンジ君,何か心当たりが有るのかね?」
冬月副司令は,さも意外そうだ.
「ええ.加持さんからもらった調査資料で全てが分かると思います.ちょっと,待っていて下さい.」
シンジはそう言って退室すると,マイクロチップを持って戻ってきた.その間に高野博士を通じて,加持に連絡を取ってもらえるようお願いすることも忘れなかった.
シンジは端末を借りると,マイクロチップに収められている資料を冬月副司令に公開した.
「こ,これは・・・.」
「ええ,これが加持さんが調査した全てです.」
冬月副司令は,あまりにも驚愕すべき内容に,資料の信憑性を疑った.しかし,碇司令や冬月副司令でしか知り得ないような事項に関してまでも,人類補完委員会に関して詳細に記述されているのだ.これでは,この資料を信用せざるを得ない.
葛城ミサトは,ミサト自身が知らぬうちに心理操作を施され,何らかの密命を受けてゼーレより送り込まれたエージェントであった.ただ,加持の調査もその目的までには及んでいなかったが.
「どうやら,ミサトさんは,ドイツ支部時代に,ゼーレから深層催眠をかけられていたようですね.」
「うむ,指令内容が碇の射殺だったとはな.きっかけは最後の使徒,つまり17番使徒の殲滅か・・・.いや,しかし考えられん,心理操作なら本部移籍時にチェックしているはずだ,それを掻い潜るとは.」
「ゼーレの方が,心理操作では一枚上のようですね.」
冬月副司令は,苦虫を潰したような顔で,肯くしかなかった.
「1時間後に今後の対処に付いて会議を開きたいので,各部部長を招集していただけますか?冬月新司令の名前で.」
「それはかまわんが,新司令は勘弁願うよ.新司令にはシンジ君,君の方がふさわしい.」
「僕は現場の方が好きですから.じゃ,冬月副司令は司令代行ということお願いします.それから,もう一つお願いが有るのですが.」
「ほう,何かな?」
「ミサトさんの処分を僕に一任してもらえませんか?」
冬月司令代行は,少し思案した上で承諾した.その上で,こうも付け加えた.
「ネルフは超法規組織だ,分かるかねこの意味が.」
「ええ,つまり殺人者でも処罰しなくちゃいけないというわけではないということですよね.」
冬月司令代行は,一瞬意外そうな顔をしたがすぐに微笑んだ.
「ああ,そう,その通りだ.」
冬月司令代行は,退室するシンジの背中に人類の未来を見たような気がした.
(碇,おまえもかわいそうなやつだな,殺害されてもネルフに微塵も影響がないとはな.いや,むしろ幸せ者か,良い後継者に恵まれたのだから.まあ,後はシンジ君に任せて,あの世でユイ君との再会を楽しんでいろ.)
シンジは,ミサトが留置されている独房へと足を運んでいた.
ミサトは,拘束衣を着せられ,自殺防止のためか口元にも拘束具がはめられ,その上,ベットに固定されていた.
シンジは,ミサトに近づき,口元の拘束具をはずす.すると,ミサトは,関を切ったように早口にまくしたてた.
「あの髭オヤジをぶっ殺してせいせいしたわ.まったく,人が指示したことを説明も無しに勝手に変更するし,肝心なことは何も知らさないしさ.まったく,あんなやつ,頼まれなくてもぶち殺してやったわよ.ところでシンちゃん何しに来たの,いよいよ処刑が決まったの,それとも拷問?」
シンジは,ミサトの言うことを黙って聞きながら,ベッドの横に膝をつき,目線を横たわるミサトの高さに合わせた.
「・・・,ねぇ,シンちゃん,憎いでしょ,お父さんを殺したあたしが,憎くて憎くてたまらないでしょ?だからね,早くあたしを殺して・・・.殺してくれないのなら拷問でも陵辱でもなんでもいいわ,一人にしないで!お願い!あたし・・・,司令を撃ったときのこと何一つ覚えていないの,覚えがないのにあんな酷いことができてしまう自分が恐いの,恐いのよ.自分と言うモノが分からない,自分が自分でなくなっていくのが恐いのよ!一人でいると気が狂いそうになるわ.だからね,シンちゃん,いえ碇副司令,早くあたしを処刑して.それがだめなら,せめて誰かいっしょに居て!」
ミサトは,涙を流しながら叫ぶだけ叫ぶと,急に大人しくなった.
さすがのミサトでも,自分の意識がまったく及ばないところで,自分の上司を射殺したという事実に,相当参っている様だ.今のミサトを一人にすると,間違いなく神経が崩壊してしまうだろう.
シンジは,治療のため,おもむろにミサトの額に左手を添えた.
突然のことに,ミサトは驚いたが,すぐに目を閉じて,安らかな寝息を立て始める.
ミサトの精神構造を調査するため,シンジも目を閉じ,神経を集中させて行く.そして,ある結論を導き出した.
ゼーレは,司令暗殺用にもう一つの人格をミサトに植え付けていたのだ.
その人格は,冷酷無比で,天才的な射撃の腕を持つという設定で,第17使徒殲滅がきっかけで表われ,暗殺後に引っ込むようにあらかじめプログラムされていた.
シンジは,その人格が持つ記憶をミサト自身の記憶とリンクさせ,人格の統一を行った.それによって,射殺したという記憶は残ってしまうが,自我の分裂を引き起こすことはなくなるだろう.後はミサトの気持ち次第だ.
治療を終えると,ミサトが,静かに眠っているのを確認して,シンジは独房の扉に向かって話し掛けた.
「加持さん,ドア開いてますよ.」
ドアが静かに開き,加持が姿を現した.
「よぉ,シンジ君.久しぶり.」
「加持さん,よくここまで来れましたね.」
「まぁな.種を明かすと,冬月副司令が色々と手を回してくれたんだ.おっと,今は司令代行だったな.で,ミサトは?」
シンジは,加持の情報の速さに驚いた.
「ミサトさんには,今は眠ってもらっています.」
やはり気になるのか,加持はベットに近づき,そこに眠るミサトの顔を覗き込む.
「で,ミサトはどうなる?」
シンジに背を向けているので,加持の表情は見えないが,声が心なしかさみしそうだ.
「今は精神的に参っていますので,しばらく治療を受けてもらいます.極秘で.表向きは,取り調べ中ということにして.」
「そうか,よろしく頼むよ.碇副司令.」
加持は,シンジの方に顔を向け,男臭い微笑みを浮かべた.
「あ,そろそろ会議が始まる時間だ.加持さんもいっしょに出席してください.お願いします.」
「良いのかい,俺なんかがのこのこ出ていって?」
「ええ,加持さんの協力がぜひ必要なんです.もう少しミサトさんの側にいたいかも知れませんけど.」
シンジは,本当にすまなそうに加持を見つめている.
「シンジ君も言うようになったな.よし,じゃ,行こうか.」
加持は,シンジの肩をぽんっ,とたたき,独房を出て行った.
後に残ったシンジは,ミサトの寝顔を横目で見てから,慌てて加持の後を追いかけて行った.
1999_08/25
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