【 TOP 】 / 【 めぞん 】 / [綾波 光]の部屋 / NEXT
「うわっーーあー!!」
絶叫と共に青年は飛び起きた。幸福な日々の中で埋もれていた罪の記憶が蘇り、彼に悪夢を見せたのだ。
「はあはあ・・・」
細い手が伸ばされた。スイッチが押され灯りが点された。
荒い息を吐き震える彼の背中をその手が優しく抱いた。
『あなた・・・・・彼の夢を見たのね?』
そう訊ねたのは最近正式に結婚したばかりの彼の妻だった。彼女の言う”彼”とはかって彼女の夫がその命を滅した少年のことだった。
だが彼の答えは妻のその言葉を裏切った。
「カヲル君のこと?・・・違うよ・・・今夜出てきたのは・・・トウジだった・・・」
『鈴原、君・・・!?』
「うん・・・」
答える彼の声は尚も震えていた。
そんな夫を妻は力を込めて抱き寄せる。彼の頭を自らの胸に抱く。そして言った。
『あれはあなたが悪いんじゃない・・・それは分かっているでしょ?』
「・・・・・うん」
最愛の妻の温もりの中で青年は心の平安を感受する。そして思い出す、妻の身体のことを。
彼はそっと身体を起こすと妻の耳元に口付けするようにして言った。
「有り難う、もう大丈夫だよ。綾波・・・ゴメンヨ、夜中に起こしてしまって・・・おなかの赤ちゃんもきっと驚かしてしまったね?大丈夫?」
夫の言葉に妻――碇レイは自分のお腹に手をおいて目を閉じた。だがすぐに目を開け柔らかな微笑みを浮かべて言った。
『大丈夫、よく眠ってるわ』
彼女の夫――碇シンジも微笑みを返しながら言った。
「・・・そう、良かった・・・」
シンジはレイの胎内の未だ見ぬ我が子―彼女の置いた手の辺りに視線を移した。
ややあってレイが言った。
『私たちも、もう寝ましょう』
「うん」
二人は息を合わせたように同時に横たわった。互いの顔を見つめる。
「・・・おやすみ」
『おやすみなさい』
シンジは手を伸ばして灯りを消した。
二人は目を閉じた・・・・・間もなく規則的な寝息のハーモニーが聞こえてきた。
けれど二人の手は、それが自然であるかのように互いに握り合わされたままだった。
【邂逅】―前編―
作・H.AYANAMI
―第二新東京市内・岬フミコ小児産婦人科病院待合室
そこには母親に抱かれた多くの赤ん坊がいた。むずがり泣く子・無心に母の乳首を吸う子・辺りの喧騒にも関らず安らかな寝息を立てている子・・・
母親の姿もさまざまだ。身体を揺すり泣く子を必死にあやす者・乳を吸う子の様子に目を細める者・・・もちろん出産前の女達もいた。臨月間近の者、まだそれほど目立たないお腹を撫ぜながら姓名判断の本を読みふける者・・・
そうした母子達の中に、加古リョウイチとの間に去年生まれた娘―リツコを抱いた葛城ミサトがいた。リツコの定期検診のために彼女は今日ここへ来ていたのだった。
ミサトは待合室の後方の椅子に座り、むずがるリツコをあやしながらなにげなく他の女達の様子を眺めていた。
前世紀末からの晩婚化の傾向は今日もまだ続いていて、ここにいる母親達もミサトとさほど変わらぬ年齢と思われる者が多かった。
しかしその中にあってただ一人、様子の異なる者がいた。髪を両側に分けて束ねたその後ろ姿は明らかにまだ二十歳前と思われた。
ミサトはその姿を見ながら、ぼんやりと、
(最近は早婚が流行だしたのかしら?シンジ君達といい・・・まったく最近の若い者は・・・)
等と、少々婆々臭いことを考えていた。
すると診察室の扉が開いて、看護婦が次の順番の者の名を呼んだ。
「洞木さん、洞木ヒカリさん」
「はい」
返事をして立ち上がったのは例の”お下げ髪”の女性だった。
「まあ!」
ミサトはその名を聞き、女性の姿を見て、思わずを声を上げた。診察室へ入って行く、その横顔は明らかに、彼女の知るあの少女のものだったからだ。
ミサトの声に驚いたのかリツコが泣き出した。
「ウアーン・・・」
「ああっ!ごめんね、驚かしちゃて。おおよしよし」
あわててリツコをあやしながらも、ミサトはヒカリの消えた診察室の扉に視線を送っていた。
―街路
ミサトは病院を出たヒカリの後をベビーカーを押しながらそっとついていった。診察室を出てきた彼女の、思いつめた表情を見て、何となく声をかけそびれたもののこのまま別れてしまうことは出来なかった。
(とにかく話してみなくっちゃ)
そう決心したミサトは声をかけた。
「待って、洞木さん」
ヒカリは立ち止まった。振り向く。
「まあ!」
その反応は、先ほどのミサトのそれとまったく同じだった。
―喫茶室ビッグバード
ミサトは近くにあった喫茶店にヒカリを誘った。
「・・・そう、ペンペンとは一緒に住んでいないの・・・」
「はい、本当は連れてきたかったんですけど、今住んでいるところは元々姉の借りている部屋でペットは駄目なんです・・・ですからペンペンはノゾミ、妹に頼んできました」
「良いのよ・・・それでね、家も今はこの子で手いっぱいだし・・・勝手を言って悪いけど、もし迷惑で無かったらこの先もお願いしたいんだけど」
「はい、今は姉も私もこちらへ来てしまっていて妹も淋しいでしょうから。できればこれからも一緒に居させてやってください」
「あら、お願いするのはこっちの方よ。4年もほったらかしで・・・そのうち会いに行こうかしら・・・妹さんに宜しく言っといてね」
「はい、電話しておきます」
「アーウフ・・・」
リツコが声を上げる。自然ヒカリとミサトの視線は彼女に向く。
「あらリッちゃん、ご機嫌ね」
いま、リツコはヒカリの胸に抱かれていた。最初はとまどう様子をみせたリツコだったが、今はニコニコと機嫌が良い。
そんな様子にミサトは感嘆した。
「不思議ねぇー、この子は癇が強くて他人にはめったになつかないのにねぇー」
その言葉にヒカリはミサトの方に視線を向けた。
「私、子供が好きですから・・・多分リツコちゃんにも分ったんですよ」
そう言って笑うヒカリの表情には屈託が無く、先ほどの思いつめた様子は微塵も感じられない。ミサトには先ほどヒカリの中に感じた”翳り”が自分の錯覚では無かったのかと訝しく思った。だが・・・
(やはりほっとけないわ)
そう思ったミサトは思いきって切り出した。
「さっきね、私が貴方に出会ったのは偶然じゃないのよ」
「えっ!?」
ミサトの言葉にヒカリは驚きの表情を浮かべた。
ミサトは更に続けた。
「私が貴方を見つけたさっきの場所じゃないの。貴方は気づかなかったようだけど私もあの病院の待合室にいたのよ。それでね、貴方の様子が普通では無いように感じられたので後を尾けてきたの」
それを聞いたヒカリの表情が曇った。下を向いてしまう。
「何か事情があるみたいね・・・良かったら話して見てくれない」
ミサトのその言葉にもヒカリは何の変化も見せなかった。じっと項垂れたままだった。
その顔を見上げていたリツコもその変化に気づいたのだろう、俄にぐずり出した。
「ヒクヒク・・・ふぇーん・・・」
はっ、と我に還ったヒカリはあわててリツコをあやした。
「ご、ごめんね、あーよしよし・・・」
間もなくリツコも落ち着く。心なしかヒカリの表情も和らいだようだった。
「有り難う・・・リッちゃん良かったでちゅねーお姉ちゃんに抱っこしてもらえて」
そう言いながらミサトはヒカリの手から我が子を受け取り自らの膝に抱いた。そして向き直った。
「ただ人に話すだけでも悩み事が軽くなることもあるでしょ?私に出来ることなら何でも相談に乗るから・・・」
穏やかに話すミサトのその言葉はヒカリの心を動かしたようだった。自らを励ますように小さく頷くと、ミサトの顔を見つめながら話し出した。
ヒカリの話を概略すれば次のようになる。
事実上第三新東京市が消滅した際、彼女たち三姉妹は第四新東京市の親類の元に避難した。彼女にはほのかに想いを寄せた少年がいたのだが、彼の避難した場所は異なりその後音信不通になってしまっていた。
だが1年あまり前、この第二新東京市で下宿生活を送っていた姉を訪ねた際に偶然にもその少年に再会することができ、その後二人の仲は急速に接近した。いやむしろ彼女自身の方が積極的に接近した――彼女は親に無理を言って転校してきた――それはもう二度と別れたくは無いと言う思いからだった。
ふとしたきっかけから二人の関係は男女の関係になり・・・そして今・・・
「で、妊娠してしまった、と言う訳ね」
ミサトのその言葉に、ヒカリは顔を赤らめ小さく頷いた。
ミサトもまた思案げに頷いた。
「・・・それで貴方はどうしたいの?」
ヒカリの顔がわずかに強張った。声を高くして、
「もちろん産みたいです。もう、一つの命なんですから・・・でも・・・」
ミサトは慌てる。静かな店内にヒカリの声が響き渡ったからだ。何人かがこちらを見ていたが、ミサトが睨みまわすと皆そっぽを向いた。
「場所、変えようか?」
「・・・はい」
二人は立ち上がり店を出た。
―みどり第二公園
ミサトは自宅マンションにもほど近い公園にヒカリを誘った。陽はようやく山の端にかかり始め、辺りを赤く照らしている。木々が作る長い影はミサト達の座るベンチにもそしてリツコの眠るベビーカーにも伸びていた。
「一番の問題はその子の父親がどうするかだと思うの」
ミサトはいきなりそう切り出した。それは確かに問題の核心だった。
ヒカリはそれに答えて、
「・・・彼が赤ちゃんのことを知れば、きっとすぐに”結婚しよう”・”一緒に育てよう”・・・そう言ってくれると思います」
「なら、何の問題も無いじゃない。貴方が若いことで世間はいろいろ言うでしょうけど、二人がしっかりしてさえいれば乗り越えられるはずよ・・・それとも親御さん達が問題な訳?それなら私も説得してあげるけど・・・」
「親の問題じゃないんです・・・いえそれも問題になるとは思いますけど、それより彼が・・・彼には夢が有るんです。その邪魔にはなりたくないんです、絶対に」
どこか決意を込めたようにヒカリはそう言った。彼女の目はじっと地面の、木々が落とす影に注がれている。
「彼の夢って?」
「彼の妹さんは、まだ小学6年生なんですけど、・・・怪我で歩けない身体になってしまったんです。長いリハビリの末に最近ようやく松葉杖で歩けるようになったんです。
それに彼も、怪我で片足を失ってしまっていて・・・それでも彼は大学へ行って、妹さんの為に、杖なしでも歩ける歩行装置を作る勉強をするんだって・・・」
そこまで聞いて、ミサトはヒカリの言葉を思わず遮っていた。今まで敢えて訊ねなかった相手の名が浮かんだからだ。
「ちょっとまさか、それじゃあ洞木さんの彼って・・・ひょっとして・・・鈴原君なの!?」
「・・・そうです。赤ちゃんの父親は・・・鈴原、トウジです・・・・・ううっ」
両手で顔を覆いヒカリは突然鳴咽しだした。ミサトはあわててその肩を抱いて言った。
「ど、どうしたの?洞木さん。こういうことは貴方だけが悪いんじゃないでしょ!?二人に等分の責任があるのよ。自分ばかり責めないで」
「違うんです!!みんなみんな私の独占欲がしでかしたことなんです!!」
そう叫びながらヒカリはミサトの胸に飛び込んでいた。
「えっ!それってどういうことなの!?」
ミサトはそう訊ねた。だがついにその答えがヒカリの口から漏れることは無かった。
ミサトにはヒカリの震える肩を抱いていてやる以外にその場で出来ることは残されていなかった。
困惑するミサトをよそにヒカリの鳴咽はいつまでも続いた。
―ライブコート・206号室
ようやく落ち着きを取り戻したヒカリを近くのバス停まで送っていった後、ミサトはこの自宅マンションに戻ってきた。
別れ際、ミサトはヒカリにこう言った。
”人の心は美しいものじゃないのよ。貴方の思いも、そこから生じた貴方の行いも人の有り様の一つでしかないのよ。自分だけが醜いなんて決して考えないで・・・とにかく鈴原君とよく話し合ってみることね”
そう告げること自体が”きれいごと”だと、ミサトはその時感じたが、それでも他に言葉が見つからなかった。
いま、ミサトは一口だけ飲んだエビチュを前にダイニングの椅子に腰掛けていた。彼女はヒカリのことを考えていた。
二人の話し合いの結果を待つ以外とりあえず出来ることは無い、とは分っているのだが、かってNERVの一員として使徒と戦った彼女にとって、その犠牲者であるトウジ達がこれ以上不幸な経験をすることは絶対に許容しがたいことだった。
(私も、彼らに犠牲を強いた者の一人だもんね・・・・・)
(彼らを不幸にしないために、何か私に出来ることないのかしら・・・)
考えることに疲れ、ミサトがテーブルのエビチュに手を伸ばしかけた時、ドアチャイムが鳴った。
”ピンポーン”
ミサトは壁の時計を見る。6時30分だった。心の中で毒づく。
(あちゃあーもうこんな時間、きっとリョウちゃんだわ)
インターホンの受話器を取る。
「はーい」
「ただいまー、パパでちゅよー」
やにさがった加古のその表情を見て、ミサトは呆れてしまう。
「ちょっとリョウちゃん、玄関先で恥ずかしい言葉づかいはやめてくれる!?リツコならベッドで寝ててここにはいないわよ」
それを聞いた加古は急に真顔になる。
「なんだそうか、てっきり君が抱いていてくれるのかと思った」
確かにそういう場合が多かった。何故かリツコは加古が帰ってくる時分になるとぐずり始め”抱っこ”をせがむのだった。
「とにかく早く開けてくれよ。腹減ってんだ」
「はいはい」
ミサトはキーロックを解除するボタンを押した。
「ただいま」
加古が部屋に入ってきた。テーブルに鞄を置くとすぐにベビーベッドの置かれた奥の部屋に入って行く。間もなくリツコを抱いて戻ってきた。
「ちゃんと起きてたじゃないか」
そうミサトに言いながら加古はリツコに頬ずりをする。
「リッちゃん今日も一日ごきげんでちたか?パパにおちえてくだちゃーい」
「パーパ、パーパ」
最近、ようやく言葉を覚え始めたリツコの最初の語彙は”ママ”でも”マンマ”でもなく”パパ”だった。
「よく言えまちたねー、そうでちゅよー、パパでちゅよー」
加古はリツコの喉の辺りをくすぐってやる。それが彼女の”お気に入り”であることを加古は知っていた。
「クフククプ・・・」
ミサトは毎日のように繰り返される、加古のその溺愛ぶりに呆れながらも、今晩だけはそれに感謝したい気持ちだった。
「リョウちゃん、悪いけど夕食前にリツコをお風呂に入れてくれない?今日はいろいろあってまだ入れてないから・・・」
「うん良いけど・・・」
加古は疑わしげな視線を送る。
「ひょっとして晩飯の支度できて無い訳?」
ミサトは加古の視線に耐えていたがついに観念する。
「・・・・・なははは・・・実はそうなのよ。ご飯炊いて無いから・・・今日はパスタかなんかで良いわね?それともなんかデバろうか?」
「ふーぅ、良いよ、あるもんで・・・」
ため息を吐きつつ、それでも加古は微笑みを浮かべて言った。
「昔さ・・・ほら俺のアパートでよく食べたレトルトのミートソース、あれあるかな?久しぶりに食べてみたいな」
ミサトは少し驚いたような顔をした。そして頷く。
「あるわよ・・・昨日スーパーで見つけて、懐かしくてつい買っちゃった・・・」
「うん、気が合うね・・・」
加古は抱いている娘に向きなおり嬉しそうに言った。
「それじゃあ、リッちゃん。パパと一緒にお風呂入りまちょーね」
そのまま加古はバスルームへと消えていった。
キッチンに残されたミサトはそんな二人を見送った。
(ほんと馬鹿ね・・・今時あんなもんが食べたいなんて・・・)
ミサトはそう思いながらも、自分の頬が緩むの禁じ得なかった。そしてその表情のままレンジに向かい、パスタを茹でるためのお湯を沸かし始めた。
―ほぼ同時刻、市営岩垂団地B-16号棟・1003号室
ここは鈴原トウジとその家族の住む部屋である。
トウジと祖父は夕食のテーブルを囲んでいた。彼の父は勤務先の海外工場へ長期出張中の為に不在であった。
トウジの妹ユキコは車椅子を器用に操り味噌汁の入った鍋をレンジからテーブルに運んできた。
この家の設備一切はハンディキャップを持つ人が扱いやすいように設計されており、レンジやテーブルはすべて車椅子のユキコに合わせてその高さが調整されているので不便はなかった。
もちろん自在に扱えるようになったのはユキコ自身の懸命の努力があったのは言うまでもないことである。
ユキコが3人分の味噌汁を注ぎ終わった。向いの椅子に座っている祖父と視線が合う。
「それじゃあ、いただこうか」
祖父のその言葉を合図に、兄妹は声を揃える。
「「いただきます」」
トウジは味噌汁を一口すするなり言った。
「こりゃうまいわ!!ユキコ、おまえ料理の才能があるな」
「お兄ちゃん、これが普通よ。父さんのが酷すぎただけよ」
祖父も追い討ちをかける。
「まったくあれの料理には進歩ちゅうもんが無かったからな。おまえ達の母親が亡くなって10年間、わしはあれが作ってくれたものをうまい思ったことは一遍も無かった」
皆本人がいないのを良いことに言いたい放題である。
トウジは父を弁護する。
「そうぉかあ?ワシはそんなに不味いと思ったことあらへんかったけどな」
ユキコが応じる。
「お兄ちゃんの味覚も当てにならへんわ。それじゃあ誉められても嬉しい無いわ」
トウジは頭を掻いた。
「・・・そうやな。ワシは腹一杯食えたらそいで良かったからな・・・」
「・・・ヒカリさん可哀相や。こんな味音痴のお兄ちゃんじゃいくら美味しいもん作っても何の甲斐も無いわ・・・」
ユキコは嘆息した。同性としてヒカリに対して心から同情していた。
”リーンリーン・・・”
電話が鳴った。トウジが立ちあがる前に、ユキコは車椅子を素早く転回させて電話のある壁に近づいた。受話器を取った。
「はい、鈴原です・・・ああヒカリさん、こんばんわ・・・お兄ちゃんですか?はいおります。ちょっとお待ちください」
ユキコは受話器を側に寄ってきていたトウジに渡す。
「ああ俺や、明日はまたおかず持ってきてくれるんやろ、お爺も楽しみにしとるし・・・えっ違う!?・・・大事な話?何や改まって・・・ああ午後ならバイトも終わっとるしな・・・分った。じゃあ2時に西口のCRANEで・・・」
電話を切り振り向いたトウジにユキコは意味ありげに微笑みかける。
「お兄ちゃん、明日はデート?エエわね」
「アホ、そんなんや無いわ。何や大事な話が有る、言うとった」
「まあまあ照れんでもエエわ。ヒカリさんがお兄ちゃんの恋人や言うんは分ってるんやから」
「ユキコ!!お兄ちゃんからかうと承知せえへんで」
トウジは片手を上げて怒ってみせる。もちろん本気で怒った訳でなかった。だがユキコは引き際を心得ていた。
「ごめん、勘弁して・・・それより早く食事を済ましてぇな。せっかく私が作ったお味噌汁が冷めてしまうがな」
「・・・ああそうやな」
トウジは僅かに足を引きずり自分の席に戻った。だが何故か食事を再開しようとしなかった。何かを考えているらしく視線は下を向いたままだった。
それに気づいたユキコが声をかける。
「お兄ちゃん、どうしたん?」
トウジはようやく我に返った。
「ああ何でもない」
トウジは慌てて味噌汁の椀を取ると中身を啜った。
―再び、ライブコート・206号室
加古とミサトはリビングで食後のコーヒーを飲んでいる。
ミサトは今日の午後の出来事のあらましを話していた。
「・・・と言う訳なのよ。それでね、私はどうしたら良いと思う?」
加古は微苦笑を返す。
「もう答えは出てる・・・要するに当事者が解決すべき問題だろ?」
「・・・それは、そうなんだけどさ・・・」
「・・・それにしても鈴原君は・・・許せんな」
「えっ、どうして?」
「当たり前だ、ヒト様の大切な娘を・・・結婚前に孕ませてしまうとはまったく許せん!」
「・・・・・」
ミサトは唖然とする。あまりにも古風で、およそ自分の夫の発言とは俄には信じがたかった。
「・・・うちのリッちゃんも何時かそんな目に会うかと思うと・・・ううっ俺は悲しい!!」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!リョウちゃん。うちのリッちゃんは1歳になったばかりじゃない。そんなの考えすぎよう!」
だがミサトの声は加古には届いていない様だった。両拳を握り締めて立ち上がった加古はベビーベッドに近づいた。そしてリツコを抱き上げ、語りかける。
「ううっ、リッちゃん、世の中の悪い男達からパパがきっと守ってあげるからね」
「アバアバアバ」
「うんうん、分ってくれたんだね」
「アバアバアバ」
ミサトはそんな様子に絶句していた。
(・・・今からこんなんじゃ、先が思いやられるわね。世の中の娘を持つ父親と言うのはみんなこんななのかしら・・・)
ミサトはその場を離れてキッチンに入った。冷蔵庫からエビチュを取り出すと一気に煽る。
「ぷはーっ」
ミサトはそのままキッチンの椅子に座り込む。そして考えた。
(・・・確かに当事者の問題だけど・・・やはり成り行きを見守ってあげるべきね)
それが現時点でのミサトの結論だった。
―翌日、IHKS社本社ビル・会長室
碇シンジは部屋の中央にある重厚な執務机を前にして本革張りの椅子に座っている。彼は名義上、この会社の全発行株式の七割を所有していた。
従ってその比率が極端に減少しない限り、彼がこの会社の会長職を追われる可能性は無い。
無論、19歳になったばかりの彼に実際的な経営手腕が在る訳ではないから、ここにいても特に出来ることは無かった。しかしシンジは時間が許す限りこの部屋にいて会社の経営について学ぼうとしていた。あまり学校と
言うものが好きではない彼が、あえて大学へ進学したのも経営についての知識が必要だと感じたからだ。何よりも重要なことは、彼がそれを誰に指示されたのでもなく、自分の意志で選び取ったと言うことである。
大学が夏季休暇中(ほぼ常夏とも言える現在のこの国に未だに”夏季”休暇があるのも奇妙だったが昔からの慣習はなかなか変わらないものなのだ)である現在は土日以外ほとんど毎日”出社”していた。
シンジがディスプレイに表示されたグラフから視線を外し、傍らのティーカップに手を伸ばした時、インターホンが鳴った。シンジは少し慌ててカップから手を離してそれに応じた。
相手は臨時会長秘書となっている松タカコだった。
「加古部長がお見えになりました」
「はい、すぐにお通しして下さい」
シンジは自分よりも年上の女性秘書を相手につい無意識に敬語を使ってしまう。
「・・・会長、こういう場合は”お通ししなさい”とおっしゃるべきですわ」
と、いつものように”注意”を受けてしまう。
シンジは動揺する。だがすぐに立ち直って、
「分ってますよ、松さん・・・それじゃあ・・・すぐ、お通ししなさい」
「かしこまりました」
加古が入ってきた。シンジは立ち上がって応接セットの方へ加古を誘った。
「お忙しいところお呼び立てしてすみません」
「いえ、今日は特に予定も有りませんし・・・それでご用件は?」
「ええ、少しご相談したいことがあります・・・会社とは関係の無い・・・いえ場合によっては僕が会長を辞める必要が生じるかもしれませんが・・・」
「はあ・・・そういう問題でしたら社長か専務にご相談された方が宜しいのでは?」
「あの人達に相談しても反対されるに決まっていますから」
IHKS社の社長・専務等はいずれも碇家或いは前会長すなわちシンジの曾祖母の実家・綾波家の縁につながる者たちだった。皆長く実業界にいる経営のプロだった。
加古は小さく頷く。日ごろシンジとは家族ぐるみの私的付き合いをしていることから個人的な相談を持ち掛けられることが多かった。
「・・・分りました。伺いましょう」
シンジは少しためらった様子を見せた。が、やがて話し始めた。
「・・・昨日の晩、僕は夢を見たんです・・・・・それで考えたんですが・・・」
シンジの語ったことのあらましはこうである。
シンジ達の使徒との戦いは、それが人類のためであったとしても、結果として多くの人たちの命を奪い傷つけたのは事実であり、親を失ったり或いは直らない傷を負ったりした子供は数多く生じているはずである。
にもかかわらず、彼が調べた限りにおいてそうした子供たちに対して特別の援助が行われた形跡が無かった。それ以上に驚かされたことには、政府もそして国連でさえ、第三新東京市において使徒との戦いがあったことを公式に認めておらず、すべてが何らかの天災または事故によるものとして処理されていた。
シンジは自らの戦いによって心身に傷を受けた多くの人々、とりわけ子供たちに援助の手を差し伸べたいと考えていた。
「・・・僕が御隠居様から受け継いだ碇家の資産の内、今住んでいる土地と家を除けばその大部分はこの会社の株式です。ですから僕はこれを売って資金を作り、そういう子供たちを少しでも助けたいと思っています・・・加古さんはどう思いますか?」
加古はシンジが話し終えるまでじっと耳を傾けていたが、ややあってそれに応える。
「シンジ君・・・いえ、会長・・・」
「シンジで良いですよ。ここには加古さんと二人だけですから」
「それでは・・・シンジ君、君の言うように君の保有する株式を売却することは役員会が認めないだろう。仮に彼らの地位が揺るがない程度の売却であったとしても、ここは碇家が代々守り通してきた資産そのものと言っても良い。彼らはそこに少しでも”他者”の意志の入る余地を作ることを絶対に認めない。幾ら君が宗家の当主であると言っても許されることでは無い」
加古は更に続けた。
「それに何らかの別組織を作って実際の援助をするとしても、資金の流れを明白にして置かなければ法人として公に活動することはできない。そうなれば碇家が第三新東京市で起こった災厄と深い繋がりがあることが世間に知れてしまう」
シンジは加古のその言葉の意味を理解しかねた。
「・・・どうしてですか!?碇の家が・・・母さんや、父さんや・・・僕自身が、NERVと、使徒との戦いに深い関係があるのは事実じゃないですか。それが世間の知られることが何故問題なんですか?」
加古はシンジの顔を見つめた。そこには自分への自信のようなものが溢れていた。それはかってのシンジを知る加古にとっては十分驚きに値するものだった。
だが加古は年長者らしい笑みを浮かべてそれに答えた。
「・・・良いかいシンジ君、国連は人類救済委員会が実際にはゼーレと言うごく少数の一派によって牛耳られていた事実をひた隠しにしている。ゼーレは世界の救済を謳ってNERVを設立させたが、実際は彼ら自身の生き残りの為だけのものだったんだ。
NERVの設立とその運用に世界の人々の払った犠牲はあまりに大きかった。一説に拠れば、もしNERVの為に費やされた資金があれば100万の人命が救われたとも言われている。結果としてこの国の政府もまたそれに荷担した。いまや第三新東京市とNERVのことはこの国ではタブーなんだよ。
前会長・・・御隠居様は何故俺の命を助け、君達を守る役割を負わせたと思う?事実を隠蔽しようとする権力から、そして無責任に大衆に迎合し不確かな情報を垂れ流しするマスコミから君やレイ君を守るためだ。今、君がおおっぴらに被害に遭った人々を助ける活動することはどう考えても得策では無い」
シンジの表情が暗く沈んだ。
「・・・それじゃあ・・・僕に出来ることは、トウジや彼の妹のような人たちの為にしてあげられることは・・・何も無いんですか?」
「そんなことは無いよ。君は現在の会長給与が御隠居様のそれに比べて随分と減額されているのを知っているだろう・・・その理由が分るかい?」
シンジは僅かにかぶりを振った。
「いいえ・・・たぶん僕が未成年だからじゃないですか?」
「いや、そうじゃないんだ。御隠居様は今の君と同様に、第三新東京市で使徒との戦いの巻き添えで被害に遭った人達・・・特に子供達の行く末を気にしていらした。親を失ったり、怪我を負った子供達を収容した施設に対しては匿名で随分と寄付をなさっていたようだ。それは今も続いている・・・幾つもの外部の個人口座を通してね」
シンジは悟る。
「それじゃあ、減額された部分と言うのは、そうした寄付に・・・?」
加古は頷いた。
「そういうことだ。それも御隠居様の御遺志だ・・・これで少しは気が楽になったかい?」
シンジは頷いた。だが沈んだ表情にあまり変化は無かった。
加古はシンジの思いをなぞるように言った。
「シンジ君・・・君はそんなことを考えたのは鈴原君のことがあるからだろう?・・・君が彼のことを気に病んでいるのはよく知っている。君のその悩みはおそらく君が自分の持つ全ての資産を擲ったところで無くなりはしないと俺は思う」
シンジは困惑の表情を浮かべた。
「じゃあ僕は・・・僕はどうすれば良いんでしょうか?」
「やはり鈴原君に会うべきだろうね。会って今のシンジ君の気持ちを正直に話すんだ」
「・・・そんなこと、僕にはできませんよ・・・・・一体どんな顔をして会えば良いと言うんですか!?」
「どんな顔も必要無いよ。ただ会って話す・・・結果として、鈴原君にどれほど罵倒されようとも或いは殴られようと、それをそのまま受け止めるしか無いだろう」
「・・・・・」
沈黙するシンジに加古は更にたたみかける。
「シンジ君、君が辛いことから逃げたからと言って、俺は君を責めたりはしない。だが、逃げることでは何も解決しないこともまた事実だ」
「・・・・・」
シンジの反応は無い。
「それでは、私はこれで」
そう言いながら、加古は立ち上がった。
部屋を立ち去ろうとする加古をシンジが呼び止めた。
「加古さん・・・・・トウジが今どこにいるのか知っているんですか?」
加古が振り向く。
「知っています・・・お知りになりたいですか?」
シンジは少しだけ間をおいて返事をした。
「・・・・・僕の社内メールボックスへ転送しておいてください」
「了解しました」
加古は出ていった後もシンジはしばらくその場に座っていたが、やがて自分のデスクに戻り自分のメールボックスをチェックする。
既に加古からのメールが届いていた。それを確認するとシンジは自宅に電話をかけた。
「・・・ああ、綾波・・・今日は少し遅くなるよ。ちょっと寄り道してゆくから」
『そう・・・わかったわ・・・』
「・・・うん・・・」
『・・・あなた・・・』
「・・・なに?」
『・・・鈴原君は分ってくれると思うわ・・・』
シンジは少し驚く。
「えっ、どうして?僕がトウジの所へ行くと分ったの!?」
『・・・よく分らないわ・・・ただ何となく』
「・・・そう・・・」
時々こういうことがある。何も言わないのに、レイにはシンジの考えていることが分ってしまうのだ。
「・・・とにかく、トウジに会ってくるよ・・・」
『・・・きっと、問題無いと思うわ・・・』
「・・・うん・・・それじゃあ・・・」
『・・・うん、待ってる』
シンジは通話を終えると、キイボードを操作しディスプレイにトウジの住所の地図を表示させた。
【後書き、本当は言い訳】
たいへん御無沙汰致しまして申し訳ありませんでした。一身上の都合によりまして長らく更新を怠っておりましたが、この度、本作を持ちまして再び皆様とお会いすることができましたことを心から感謝致しております。
更新をご期待いただいている「連載」を差し置いて、敢えて本作を発表させていただくことに致しましたのには個人的な事情がありました。
”○○才を過ぎてから始めるべきでは無い”と言う知人の警告にも拘わらず、作者は今冬初めてスキーなるものに挑戦致しました。
結果は無残にも転倒して腰部を強打・・・約6週間、温泉病院にて療養と言うことに相成りました。そしてそこでの見聞が今回の物語を書く発端になりました。
トウジや彼の妹と同様に外的損傷によって障害を負った多くの方々に作者は出会いました。当然のことながら若年者であればあるほどその障害の持つ意味は大きいように感じられました。通常であれば未来に希望を抱く年頃の方々であるにも関らず、最初から大きなハンディを背負わされてしまっているのですから。
けれど皆明るいのです。皆日々のリハビリ訓練に懸命に取り組んでいらっしゃいました。正直どうしてあれほど前向きでいられるのか作者には不思議でなりませんでした。
顔見知りの理学療法士にその点を訊ねました。答えは次のようなものでした。
”それは皆が明日を信じているからだ。治療する側も患者も皆明日を信じているから日々努力できるのだ”
ありきたりの言葉ではありましたが、作者はその言葉に感激を禁じ得ませんでした。
しかしながらトウジの物語を書くに当たっては一つの大問題がありました。
それは作者には関西弁が書けないと言うことです。大屋さんはじめ多くの住民・訪問者の方に失礼があってはならない。その思いが作者を躊躇させました。
それでもどうしてもこの物語が書きたくて・・・結果、エヴァにおけるトウジの口調をベースにして作者がでっちあげた「似非」関西弁を使用するに至りました。その点につきましては多々の御批判があるとは存じますが、何卒ご容赦下さいます様お願い申し上げます。
ver.-1.00 1998+ 04/12
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