ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…
あたりはすでに真っ暗になっている。
ここはどこなんだろう?
いや、そんなことはもうどうでもいい。
逃げないと…。
とにかく出来るだけ遠くへ逃げなけいと…。
でないとまた彼女に捕まってしまう。
どうして、こんなことになってしまったんだろう?
こんなはずじゃなかったのに…。
彼女は僕に安寧を与えてくれるはずだったのに…。
彼女が目覚めて僕に微笑んだ時、僕は彼女を天使と錯覚した。
彼女が僕に幸福を与えてくれると信じていた。
けど、違ったんだ。
彼女は天使ではなく女神だった。
そう、僕を不幸にするためだけに降臨した復讐の女神。
僕は…僕は…開けてはいけないパンドラの箱を開いてしまったんだ!
外伝二 「鬼ごっこ」
「返してよ! そんなに言うんだったらあたしのまだ汚れてなかった頃のきれいな心と体を返してよ! 出来ないんでしょう!? だったら二度とそんなえらそうな口聞くんじゃないわよ!」
アスカはシンジを一瞥すると自分の部屋に逃げ込み、やがてすすり泣くアスカの鳴咽の声が聞こえてきた。
アスカ……。
また傷つけてしまった。やっぱり僕にはアスカを救うだなんて無理だったのだろうか?どんなに頑張っても僕にはアスカを傷つけることしか出来ないのだろうか…。
シンジは激しい後悔と自己嫌悪に悩まされながら、床に就くことになった。
んっ……。
な……なんだ!?
く………くるしい!!
シンジは突如息苦しさを感じて目を覚ました。
薄らと目を開けるとぼやけた視界にアスカの顔が飛び込んできた。
アスカ…!?
よく見ると彼女の細く白い手が僕の首にまわされている。
アスカは僕に馬乗りになったまま、強い力で首を絞めている。
「おはよう、シンジ…。」
状況を悟った僕は慌てて首にまわされたアスカの手を振り解くと
「ア…アスカ!一体何やっているんだよ!?」
「何って…、わざわざシンジを起こしにきてあげたにきまってるでしょう?」
そう答えた時の彼女の氷のような笑みに僕は寒気を覚えた。
「お…起こしにきたって……、だったらどうして僕の首を絞めるんだよ!?」
「あ〜ら、だって無敵のシンジ様は他人の首を絞めるのが大好きなんでしょう!?」
「…………!?」
「あたしもいきなりシンジに首を絞められた時は本当に驚いたわ…。けど、それがシンジ流のコミュニケーションの取り方だと思ったからあたしもシンジの趣味に合わせてあげただけよ。」
「そ……そんな……。」
「違ったのかしら?それともあんたまさか、あの時あたしを殺そうとしていたとかいうんじゃないでしょうね!?」
アスカが恐い目をして僕を睨む。
「………………………………………。」
僕は無言のままアスカから目を背けた。あの行為に関しては確かに弁解の余地がなかったからだ…。
「違わないんでしょう?だったら、これからも気が向いた時、起こしにきてあげるわよ。あんたの大好きな首締めでね。」
アスカはそれだけ告げるとクルリと踵を翻してドアの方へ向かっていく。
僕はチラリと時計を見る。
まだ明け方の四時前だ。
アスカは低血圧じゃなかったのか?
いや、狂気に陥っている彼女にはそんなことはまったく関係ないみたいだ。
「心配しないでも寝ている間に絞め殺したりしないから安心しなさい、バカシンジ。そんな簡単に死なれちゃ困るのよ。あんたはこれから一生あたしが苦しめてあげるんだからね。」
アスカはそう言うとバタンと扉を閉じた。
その音が合図となったように僕はガックリと肩を落とした。
「一生ついてまわるのか?あの時アスカの首を絞めてしまったことは…。」
この時、かつてのアスカを取り戻そうとした昨夜の決意は、アスカの巨大な悪意の前にたった一日で虚しくも粉々に粉砕されてしまった…。
それから再びアスカの僕に対する陰惨な復讐が開始された。
アスカは僕を暴力で縛り付けた。
掃除・洗濯・炊事。この家の家事の全ては僕が担当している。
アスカは何もせず、ただ僕の行動を逐一吟味している。
蒼い瞳に飛びっきりの悪意をこめて…。
料理が不味い。部屋が汚い。僕の顔が気に入らない。
そんなささいな理由を見つけては彼女は僕を口汚なく罵って、暴力を振るった。
僕は彼女の逆鱗に触れないようにビクビクしながら脅えながら毎日を過ごす。
いつか彼女が僕を許してくれることを心から祈りながら…。
アスカの復讐は緩急の功名を極めた。
「おはよう、シンジ。」
ある朝、アスカは何もなかったような顔をして険のない笑顔でニコニコ笑って挨拶する。
「…………………………………………。」
「ねえ、どうしたの、シンジ?景気悪い顔しちゃってさぁ?」
アスカは甘ったるい声を出しながら、僕の腕を取る。
分かっているんだ。
これもアスカの手なんだ…。
突然、何もなかったような明るい笑顔で、僕に甘えてくる。
演技だと分かっているんだけど、ついふらふらとアスカの笑顔に魅せられてしまう…。
もしかしてもうアスカは僕を許してくれたんじゃないか?
そんなありえない幻想に身を委ねてしまいそうになる。
とうとう魔が差して思考が鈍ってしまい、アスカの笑顔に心を委ねてしまった瞬間、アスカは僕を地面に叩き付けた。
「グッ…!!」
「バ〜カ!!夢見てんじゃないわよ!」
アスカは僕の頭を踏みつけながら、汚いものでも見るような目で見下ろして僕を嘲笑した。
この時ほど、自分が惨めだと思ったことはなかった。
そしてほんの少しだが、はじめてアスカに対する憎悪を感じた。
だけど、その僕のささやかな憎悪はアスカの巨大な悪意の前に一瞬にして飲み込まれてしまう。
とにかく、この時以来僕は絶対にアスカの笑顔を信じなくなった。
こうしてアスカの悪意によって僕の神経はヤスリで削られるようにどんどんすり減らされていく。
やることなすことアスカの行為は僕を傷つけたが、その中でも一番堪えたのはサードインパクトのトラウマを穿られることだった。
「ねぇ、シンジ。」
「……………………………………………。」
「一体いつになったらはじめるのよ?」
「はじめるって何だよ?」
復讐ならとっくにはじまっているじゃないか…。
「だから、いつになったら仕留めそこなった残りの人類を抹殺するかって聞いているのよ?」
「!?」
アスカは蒼い瞳に狂気を浮かべながら
「今度はフォース・インパクトでも起こす気なのかしら?とにかく、あたしとシンジが組めば10億人ぐらい簡単に殺せるわよ。ねぇ、シンジ?」
「や…やめてよ!!」
僕は頭をかかえてしゃがみこんだ。
「何、かまととぶってるのよ!?あんた、10億人も人を殺しておいて今更逃げられるとでも思っているの?この血塗られた手で一体何を求めるつもりなのよ?」
そう言ってアスカは僕の右手を掴んだ。
「もう、やめてよ!許してよ!」
僕は泣き叫んだ!
アスカはその事に触れられるのが僕にとって最も堪えることだと知ると、それ以来、陰惨な笑顔を浮かべながら、僕のトラウマをほじくり続けた。
もう駄目だ。
もう限界だ。
これ以上アスカと一緒にいたら僕は本当に壊されてしまう。
逃げなきゃ…。
アスカから逃げなきゃ。
この時、僕は衝動的に最初の家出を決意した。
「一体、どうしたんだい、シンジ君。もしかしてアスカちゃんと夫婦喧嘩でもしたのかい?」
何の事情も知らない日向が苦笑しながらシンジに質問する。
「と…とにかく僕をかくまってください。お願いします。」
シンジは手を合わせて日向に哀願する。
「やれやれ…、まあ、アスカちゃんも葛城さんと同じくまったく家事をしないタイプだからね。シンジ君が逃げ出すのも無理はないかな。」
「そんな程度の問題じゃないんです。ア…アスカは僕を苛めるんです!!」
冷静さを欠いていたシンジはうまく自分達の関係を日向に説明することは出来なかった。
日向は軽くシンジの肩を叩きながら
「分かった。分かった。まあ、2・3日家出するのも悪くないかもな。シンジ君のありがたみが分かれば少しはアスカちゃんも反省するかもしれないしね。」
「………………………………………。」
会話がまったく噛み合わなかったのでシンジは日向に事情を説明するのをあきらめた。
ピンポーン♪
それからほどなくしてチャイムが鳴った。
「はい、日向ですが、どちら様でしょうか?」
「お久しぶりです、日向さん。アスカです。」
日向がインターンに出るとアスカの声が聞こえてきた。
そのアスカの声にシンジはビクッとする。
シンジの膝がガタガタと震え出す。
シンジは日向と目線を合わせると
「い……いない…って…、ぼ…僕は……ここにいないって…アスカに伝えてください。お…お願いします、日向さん!」
シンジの縋るような目を見て日向は軽くため息をつくと、
「分かったよ、シンジ君。まあ、まかせておけ…。」
とシンジにウインクして玄関の方へ向かっていった。
日向が扉を開けると、目の前に赤い髪と蒼い瞳をした美少女が佇んでいた。
「久しぶりだね、アスカちゃん。元気だったかい?」
「お久しぶりです、日向さん。」
アスカはペコリと挨拶する。
日向はアスカらしからぬ丁重な言葉遣いと態度に若干違和感を感じながらも
「今日は何の用件で僕の所に訪ねてきたんだい?」
「あ…あの、シンジはこちらに来てないでしょうか?」
そう言ってアスカは瞳を潤ませながら、やや俯き加減で顔を背けてみせる。
日向はそのアスカの弱々しい仕種にクラッときかけたが、何とか持ち直すと
「き…来てないなあ。ひょっとしたら青葉のところにでもいるんじゃないかな…。」
やや目線を泳がせながらそう答える。
『ここにいる!』
何となく後ろめたそうな日向の態度と、野性じみた女の勘から、アスカはそう確信すると、ぽろぽろと涙を零して両手で顔を抑えながら
「シ…シンジィ…。お願いだから、帰ってきてぇ…!あたし、駄目なの…。シンジがいなきゃ駄目なの…。もう絶対に我が侭言わないから…。シンジの望むことなら何だってしてあげるから…。帰ってきてぇ…。あたしを一人にしないでぇ…。お願いよぅ…。シンジィ…。シンジィ…。」
アスカは膝をついてシンジの名前を呼びながら鳴咽を漏らし続ける。
「アスカちゃん……。」
アスカの演技は迫真を極めていた。
アスカの態度に騙されて、騎士道精神を大幅に刺激された日向は「ちょっと、待っててね。」とアスカに告げると奥の方へ消えていった。
「は…離してくださいよ、日向さん。どうして、匿ってくれるって…。」
日向はシンジの腕を掴みながらシンジを玄関まで引きずっていき
「シンジ君。アスカちゃんはもう十分反省しているみたいだぞ。ここは男らしくアスカちゃんを許してあげるんだ。それが男の甲斐性ってもんだぞ。」
日向は真剣な表情でシンジを見つめてシンジを諭そうとする。
「ち…違うんです。日向さん。それは………!!」
シンジは悲鳴にも似た叫びを飲み込んだ。
アスカが蒼い瞳に冷たい光を称えながら、シンジを睨んでいるのに気がついたからだ…。
「ヒ…ヒィ…!あわわわぁぁ…!!!!」
シンジの脅えた表情に日向もアスカの方を振り向くと、その時にはアスカの表情は満面の笑顔に変化していた。
アスカは日向から手渡されたシンジの左腕を両腕で強く掴むと
「シンジィ…。今まで我が侭ばっかり言ってごめんねぇ…。今夜は、あたしがずっとシンジのこと可愛がってあげるからね…。たっぷりとね……。」
そう言ってアスカは手の跡が残る程の強い力でシンジの左腕を握り潰した。
シンジはアスカの雰囲気に飲まれて声も上げられない。
「まあ、喧嘩するほど仲が良いというしな。二人とも、夫婦喧嘩は程々にするんだぞ。」
日向は苦笑しながら二人をからかった。
この時日向は、自分がシンジを雌虎の巣へ送り返そうとしていることにまったく気がついていなかった。
アスカはその日向の言葉に涙を拭きながら笑顔で答えると、そのままシンジを連れて玄関の外へ消えていった。
「若いっていうのはいいことだな。しかしシンジ君も羨ましい奴だよな。あの歳であんなかわいいガールフレンドがいるんだからな…。んっ!?」
玄関に何か小さな物体が落ちているのに気づいたので、日向はそれを拾い上げてみる。
「これは目薬じゃないか。なんだって、こんなところに…………。」
「がはぁ…!!!!!」
アスカの強力な膝蹴りが連続で僕の鳩尾に叩き込まれる。
僕はたまらず膝をつく。
四つんばいになった僕に容赦なくアスカの蹴りの嵐が浴びせられる。
顔に傷が残るとまずいので顔面を殴られないのはせめてもの救いか…。
とはいえ、とうとう僕はアスカの鉄拳制裁に耐え切れず、崩れ落ちた。
「ほら、立ちなさい、バカシンジ。まだ終わっていないわよ!」
アスカが僕の襟首を掴んで無理矢理僕を立たせる。
「も…もう許してよ。アスカ……。」
「そうね、それじゃこれで許してあげるわ。」
そう言うとアスカは僕の股間を蹴り上げた。
「…………………!!」
僕は悲鳴を上げることも出来ずに、股間を抑えながら情けない格好で蹲った。
アスカは蒼い瞳に侮蔑をこめて僕を見下ろしながら
「あたしから逃げようなんて考えが浅はかなのよ。けど、まあマヤの所に逃げなかったのは正解よ。もし、マヤの所に逃げていたら、とてもこんなもんじゃすまなかったでしょうからね。」
「……………………………………………。」
アスカは再び僕の股間を踏みつける。
「ヒィ…!や…やめてよ、アスカ!」
たまらず悲鳴をあげる。
アスカはグリグリと踏みにじりながら
「シンジ!よく覚えておきなさいよ。もし、あたし以外の女に指一本でも触れたら、あんた二度と女を抱けない体にしてあげるわよ。わかっているでしょうね!?」
アスカの蒼い瞳に狂気の色が走る。その言葉が本気だと悟った僕は魂の底まで震え上がり必死に哀願した。
「分かった!分かったよ!だからもう許してよ!」
必死に許しを請う僕に満足したアスカはようやく足を離した。
「ううううぅぅぅ……!!」
泣きそうな僕の顔を見てアスカは
「その代わり、あたしの体でよければ自由にしていいわよ。どうせあんたが助けにこなかったせいであのハゲタカ達に陵辱されてボロボロ汚されてしまったんだからね。今更どうなろうともう関係ないわ。ついでにあんた自身に病室でおかずにされて汚されたことだしね。」
「ア…アスカァ……。」
そう言ってアスカはシャツのボタンを外して、胸元を広げながら僕に迫ったが、こんな状況で今のアスカに色気を感じるはずもなかった。
アスカは僕にその気がないと悟ると、つまらないものでも見るような目で僕を一睨みしたあと、はだけた胸元を元に戻しながら
「どうしたの、シンジ?本当は抱きたいんでしょう?無理しないでいいのよ。それともあんた避妊とか心配してるわけ?だったらノープロブレムよ。子供が出来たってちゃんと産んであげるわよ。そしてね…。」
アスカの顔が狂喜に震える。
「あんたの目の前でその子の首を絞めて殺してあげるわ。あんたの大好きな首締めでね。」
そう言うとアスカは笑いながら自分の部屋へ戻ってく。
僕は歯をガチガチと鳴らしながら、そんなアスカを怪物でも見るような目でじっと見詰めていた。
あの一件以来アスカの僕に対する拘束はさらに厳しくなった。
「どこへ行くのよ。バカシンジ!?」
「と…図書館へ勉強へ行くんだよ。もうすぐ学校もはじまるしさ。」
「駄目よ!」
「えっ!?」
「勉強ならあたしが教えてあげるわ。だからこれからは図書館へ行くのは禁止よ。」
「そ…そんな!」
「なんか、文句あるの!?」
アスカは威圧感の篭った視線で僕を一睨みする。
「な……ないです。」
そのアスカの言葉に僕が逆らえるはずもなかった…。
それ以来僕はアスカの部屋で勉強を教わることになる。
アスカは勉強そのものは真面目に教えてくれたけど、その間、常に敵意のこもった視線で僕を睨み続けていた。
そのピリピリとした緊張感は一層僕の心に負荷を強いる。
自主勉強というわずかな逃げ場さえも奪われて、さらに長い間アスカの憎悪に晒されることになった僕の神経は限界ぎりぎりまで追い込まれていった。
それにしてもアスカの僕に対する憎悪は無尽蔵で尽きるところを知らなかった。
どうして、僕はここまでアスカに憎まれているんだろう?
他人を傷付けないようにひっそりと生きてきたはずなのに……。
この時の僕には底無しのアスカの憎悪を支えている、アスカの僕に対する悪意の源が何なのか見当もつかなかった。
「ちょっと、日向君。それは本当なの?」
職場でマヤが大声を上げる。
「あ…あぁ、シンジ君が俺のところに逃げてきたんだけど、アスカちゃんが泣きながら反省していたみたいなのでシンジ君をアスカちゃんに返したんだけど、いけなかったかな?」
「な……なんてことを……。」
二人の真実を知っているマヤは、シンジが他人に直接救いを求めるほど追いつめられていたことに愕然とした。
『もう仕事が忙しいなんて言っていられない。早くしないと本当に手後れになるわ。』
マヤはそう決意すると、職場から出ていった。
シンジは外の空気を吸いながら大きくため息をついた。
図書館での自主勉強を禁止されて以来、シンジは一日の大半を宿舎でアスカと一緒に過ごさねばならなくなった。
それは加速度的にシンジの心を追いつめていくことになる。
今、シンジがわずかに外出を許されたのは買い物の時だけだった。
アスカから開放されるわずかな貴重な自由時間を、シンジは檻から抜け出したような開放感を感じながら、壊れかかった自分の心をわずかながら癒していく。
シンジはその足で第三中央病院へ足を伸ばした。
手持ちの医療道具が切れてしまったからだ。
「おひさしぶりです。岩瀬さん。」
僕はアスカの看病をしていた時に馴染みになった看護婦の人に声をかけた。
「久しぶりね、シンジ君。アスカちゃんは元気?」
「………………………………………。」
「まあいいわ、今日は何の用かしら?」
シンジは手短に用件を伝えた。
「分かったわ。ちょっと待っててね。」
そう言った後ロビーで待っていると、しばらくして受付からシンジの名前を呼ばれたので、包を受け取って帰ろうとした時、彼女がシンジの腕を掴んだ。
「岩瀬さん?」
「シンジ君。ちょっと診察室へ来てくれるかな?」
「え!?」
「いいから、来てちょうだい。」
そう言うと看護婦さんは僕を診察室へ引きずっていった。
「シンジ君。ちょっと上着を脱いで上半身裸になってくれるかな?」
「ど…どうしてですか?」
シンジは青ざめた顔でそう答える。
「いいから…!!」
有無を言わさない厳しい表情で彼女が迫ったので、シンジは仕方なく上半身裸になった。
「やっぱりね。」
痣と傷だらけの僕の上半身の体を見て、彼女は唸った。
「シンジ君の歩き方を見てピンときたのよ。職業柄こういう勘はけっこう働くのよ。それは明らかに暴行の跡よね…。」
「………………………………………。」
「一体誰にやられたの?」
「こ……この間、道を歩いていたらチンピラに絡まれてしまって……。」
シンジは服を着ながらそう答えると
「嘘ね!」
「えっ!?」
シンジはドキリとした。
「喧嘩に巻き込まれたのだとしたら、それだけ体に傷がついていながら、顔に傷一つないのは不自然だわ。その事に妙に作為的なものを感じるのよね。もう一度聞くわよ。シンジ君。その傷は一体誰につけられたの?」
シンジが何も言えずに追いつめられていると突然診察室の扉が開いて
「お姉ちゃん。探したわよ。ここにいたのね。」
と言って僕と同い年ぐらいのポニーテールの女の子が入ってきた。
「サユリ。仕事場に顔を出しちゃだめでしょう。」
「なによ。お姉ちゃんがお弁当忘れたからわざわざ持ってきたあげたのに、そんな言い方ないじゃない!」
どうやらこの二人は姉妹のようだ。
二人がもめ始めたのをこれ幸いと
「そ…それじゃ、僕はこれで…。さようなら〜!!」
そう慌てて告げるとシンジは診察室から逃げ出した。
病院を出たシンジはスーパーで買い物を済ませて、買い物袋を抱えながら宿舎へ帰宅しようとした時、突然誰かが後ろから声を掛けた。
「シンジ君。」
その声にシンジは後ろを振り返る。
「マ…マヤさん。」
「シンジ君。ちょっとアスカのことで話があるんだけどいいかな?」
その言葉にシンジの顔がサーッと青ざめる。
そして突然アスカの警告の言葉がシンジの脳裏に浮かび上がってきた。
『シンジ!よく覚えておきなさいよ。もし、あたし以外の女に指一本でも触れたら、あんた二度と女を抱けない体にしてあげるわよ。わかっているでしょうね!?』
「ひゃあぁあああぁぁぁ!!!!!」
シンジは意味不明の叫び声をあげるとそのままマヤから逃げ出した。
「ちょっと、シンジ君!!」
マヤが大声をあげてシンジを呼びかけたが、シンジは振り返らなかった。
その後、宿舎へ戻った僕は再びアスカの制裁を受けた。
理由は帰宅時間が予定より三分遅れていたからだそうだ。
もう嫌だ…。
こんな生活を続けていたら、僕はいつかアスカに憑り殺されてしまう。
逃げるんだ。
もう、どこでもいいから。
どこかアスカの手の届かないところへ……。
翌日、買い物の為に外出を許されたシンジはその足で逃亡を開始した。
とにかく物理的に遠くへ逃げようとした。
この時のシンジの精神は完全に追いつめられており、冷静な判断力は欠片も存在しなかった。
もし、本気でアスカから逃げたいのなら、それこそマヤの所へ逃げ込んだほうが、よっぽど確かで安全だったのだから…。
「遅いわね、バカシンジの奴!昨日の今日で何やってるのよ!」
アスカはいらいらした声でシンジの不在を詰る。
形はどうであれ今のアスカは絶対的にシンジを必要としていた。
なぜなら今の全てを失ったアスカには、シンジを憎む以外に自身の存在意義(レゾンデートル)を見出せなかったからだ。
「これは帰ってきたらまたお仕置きが必要ね。」
だがこの日シンジは帰ってこなかった。
翌朝、アスカはリビングでテーブルに伏したまま一睡もせずにシンジを待ち続けていた。
そして再びシンジが逃亡を企てたことを確信すると
「嘘吐き…。一生側にいて欲しいって言っていたくせに…。」
アスカの蒼い瞳から偽りでない涙が零れ落ちた…。
「逃がすものか!」
アスカは蒼い瞳に狂気を浮かべながらそう呟くと、宿舎から飛び出していった。
アスカは足を棒にして、第三新東京都市中を歩き回り必死にシンジを探し求めた。
「ねぇ、この子見かけなかった?」
ミサトと一緒に取った記念写真を片手に、片っ端からシンジのことを尋ねてみるが、なかなか良い返事は聞こえない。
正午すぎ、アスカはチンピラ風の二人組みの男に声を掛ける。
「ねぇ、この写真に写っている男の子を見掛けなかった?」
「知らなえなあ……。」
その言葉を聞いた途端アスカはその男達から離れようとしたが、その時、男の一人がアスカの肩に手を掛けた。
「よう、姉ちゃん。それより、俺達と遊ばねえか?そんなひょろひょろしたガキと一緒にいるより楽しいことを教えてやるぜ!」
アスカは蒼い瞳に嫌悪感をこめて睨むと、男の手を振り解いて
「触るな!汚らわしい!」
と叫んでごしごしと男に触れられた肩の辺りをハンカチで摩りはじめた。
男はそのアスカの態度にカチンときたらしく、突然アスカの胸倉をつかむと、
「このアマ。ちょっとかわいいからって調子にのってんじゃねえぞ!汚らわしいとは何だ!汚らわしいとは!」
とアスカを威圧したがアスカは無表情に男を見下ろすと左手で何かを掴んで男の頭を思いっきり叩き込んだ。
「ぐぎゃああ!!!!」
男は悲鳴をあげてアスカから手を離した。
慌ててもう一人の男が駆け寄って
「おい、しっかりしろ!てめぇ、何するん………。」
男の表情が突然凍り付いた。
アスカの左手には大きな石ころが握られていた。そしてその石には赤い血がついていた。
男は相棒の額から血が流れているのを見て
「な…なんだよ、この女。危ねえよ!」
アスカの狂気のこもった蒼い瞳を見て、男は相棒を抱きかかえるとすごすごとアスカから離れていった。
アスカは石を手放すと
「汚らわしい。そうよ、あたしに触っていいのはシンジだけよ…。」
アスカの蒼い瞳に異様な独占欲の光がちらついている。
「そうよ、あたしは全てシンジのものよ。そして、シンジ。あんたも全てあたしのものよ!」
夕刻を過ぎた頃ようやくアスカはシンジに関する情報を得ることが出来た。
「あら、この子なら見かけたわよ。確か港の方へ行ったわよ。かなり慌てていたから印象に残っていたのだけど。」
「そう、どうもありがとう。」
アスカは主婦にそう礼を告げると、シンジが逃げ込んだという港の方へ向かっていった。
その頃にはあたりは完全に暗くなっていた。
ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…
あたりはすでに真っ暗になっている…。
ここはどこなんだろう?
たぶん、港の方だと思うけど。
いや、そんなことはもうどうでもいい。
逃げないと…
とにかく出来るだけ遠くへ逃げなけいと…。
でないとまた彼女に捕まってしまう…。
けど、もう動けない…。
考えてみれば、昨日から丸一日何も食べていない…。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
こんなはずじゃなかったのに…。
彼女は僕に安寧を与えてくれるはずだったのに…。
シンジは港にあるコンテナを積み上げた迷路に迷い込んでしまい、コンテナの一角に背もたれて腰を下ろすと、大きくため息をついた。
「シンジ…」
その時微かながら自分を呼ぶ声が聞こえた。
空耳かな?
「シンジィ〜」
再び声が聞こえる。
空耳なんかじゃない!
「シンジィ〜!」
再び闇の中から声が聞こえる。
その声にシンジはドキリとした。
聞き覚えのある少女の声。
だが、その声の持ち主は今シンジが一番会いたくない人物だった。
「シンジ〜!!どこにいるの?シンジ〜!!」
声がどんどんこっちに近づいてくる。
シンジの膝がガクガクと震え出す。
「シンジィ〜!!」
「ひゃあああああああぁぁぁ……!!!!!」
とうとう耐えられずにシンジは悲鳴を上げるとその場から必死に逃げ出した。
その行為がアスカに自分の現在位置を教えることになるとも知らずに…。
「ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…」
シンジは必死に無我夢中でコンテナの迷路を抜け出ようと必死に駆け抜けたが出口は見つかれない。
自分を呼び続けるアスカの声と的確に少しづつ近づいてくる足跡の音から逃れようとシンジは必死で逃げ続ける。
やがてシンジは袋小路に追いつめれてしまった。
「あわわわあぁぁぁ………!!!」
カッ…! カッ…! カッ…! カッ…! カッ…!
暗がりの中から足音だけがどんどん近づいてくる…。
シンジの心臓が悲鳴を上げる。
やがて、足音が途絶えた時、暗がりの中から少女が姿を現した。
「見ぃつけた〜!!」
「ア…アスカ…。」
少年は腰を抜かしたまま、脅えた目で少女を見上げる。
少女は少年の情けない表情を満足そうに見下ろしていたが、突如嗜虐性の高い表情で微笑むと
「帰るわよ、シンジ。」
と宣言してシンジの腕を取る。
シンジは逆らわなかった。
ここまで逃げても探し出されたことで完全に気力が萎えてしまったみたいだ。
『生きている限りアスカからは逃げられない…。』
シンジはこの時骨の髄までその事を思い知らされることになった。
夜の町を一組のカップルが腕を組んで歩いている。
赤い髪と蒼い瞳をしたとびっきりの美少女が、黒髪の少年と手を繋ぎながら歩いていた。
だか、このカップルはどこか異質だった。
少女が満面の笑みを浮かべているのに対して少年の顔は奇妙に精気に欠けていたからだ。
よく見ると少女の左手首と少年の右手首はハンカチで強く結ばれている。
どうやら少年が逃げないための少女の工夫のようだが、遠目からには仲の良いカップルが腕を組んで歩いているようにしか見えなかった。
すれ違う男達が、少年には不釣り合いな少女の存在に羨望と嫉妬の眼差しを送るが、冗談ではない。
傍から見ればラブラブなカップルでも、その実態は収容所へ護送される囚人そのものだったからだ。
「よう、あいかわらず、見せてくれるね。お二人さん。」
たまたま通りかかった青葉が、苦笑しながら、アスカとシンジに声をかける。
「そりゃ、そうよ。だってあたし達愛し合っているんだもんねぇ!」
アスカが明るい笑顔で微笑みながら青葉にウインクする。
偶然出くわした知人の存在にシンジはなけなしの勇気を絞って問い掛けてみる。
「あ…あの青葉さん。」
「なんだい、シンジ君。」
「じ…実は…………!?」
そう言ってシンジはハンカチで縛れれた右手を見せようとしたが、途中で動作を中止した。アスカが容赦なくシンジの右腕をつねったからだ。
「どうしたんだい、シンジ君。」
アスカが恐い目でシンジを見る。
「な……なんでも…ないです。」
シンジの乏しい抵抗の意志は空しく潰えてしまった。
こうしてアスカによってシンジは再び連れ戻された。
彼の牢獄に……。
「ア…アスカ……。ご…ごめんよ……。僕が悪かったよ…。も…もう二度と逃げたりしないから…。だ…だから許してよぉ!」
シンジは手をついて必死にアスカに哀願する。
「シンジィ!あんた、一度ならず、二度までもあたしから逃げようとするなんて、いい度胸してるわねぇ…。どうやら、まだまだ調教が甘かったみたいね。誰があんたの支配者なのか、その体にたっぷりと教えてあげるからね!」
「ヒ……ヒィィィ……!!」
シンジは腰を抜かしたまま悲鳴を上げて必死に後ずさりする。
アスカはじりじりと歩をつめてシンジを追いつめる。
やがて、後ずさりするシンジの背中が壁にぶつかった。
「あわわわわ…………!!」
完全に逃げ場を失ったシンジを仁王立ちしたアスカが見下ろす。
蒼い瞳に狂気が走ると同時にアスカは嗜虐性の高い表情で微笑んだ。
その瞬間、シンジの顔が恐怖に凍りつく。
その夜、宿舎に一晩中シンジの悲鳴が響き渡った。
おわり。
ども、けびんです(^^;
読んだ人から思わず「何ですか、これは?」と言われそうですが、この話は前章「AIR」編の第七話「虚しい決意」と第八話「破局」の間のサイドストーリーです。
「どうして今更こんなものを?」とも言われそうですが、どうも、前章でシンジが壊される過程が少々淡泊だったので(とんでもないことをのたうちまわっている作者)外伝でシンジがアスカに壊される過程を綿密に書いてみたものです。
基本的に外伝は本編を補完するのが目的なものなので…。
(だから外伝1「ある少年の自己肯定に至る軌跡」は本編で言えば10.5話に相当し、外伝2「鬼ごっこ」は本編7.5話に該当します。)
実はこの「鬼ごっこ」の原案そのものはAIR編の執筆当時からあったのですが、正直あの時、これを掲載していたら、「ただの無意味なシンジいじめ」になるような気がして見合わせていたのですが(今でもそうかもしれませんけど)、今なら終わってしまった過去の出来事として「こういう時期もあったんだよね。」とまあなんとか笑って読めるかな…と思いまして。(だからダークな雰囲気を出す為に背景を黒にしたり、緊迫感を出すためにサスペンスタッチで書いたりしてみました。)
こうして再び前章の頃のシンジとアスカを見てみると、二人の間に出来た溝の大きさと、行き着く所まで行き着いてしまったこの二人が復縁することがいかに困難なことなのかを改めて実感できるかと思います。(僕が勝手に作った溝なのに何いってやがる…と言われたら反論できませんけど)
さて、本編に出てきたパンドラの箱ですが、僕の大好きなギリシャ神話で世界で最初の人間の女であるパンドラが開けてはいけない禁断の箱を開けたらその中から100を超える数多の災厄が飛び出してしまったというお話です。だからパンドラが開けた箱でパンドラの箱という。(今回もこの逸話を二人の関係を示す喩えとして使わせてもらいました。)
つまり、パンドラの箱を開けてしまった(アスカを目覚めさせてしまった)シンジが、箱から飛び出した数多の災厄(ようするにアスカの復讐)を自分の身で受けてしまう…ということです。けど、全ての災厄が飛び出した後、箱の中に最後に残ったものは…さて何でしょう?
考えてみてください。(知ってる人は知ってると思いますが。)
それにしても最近、強いシンジと素直なアスカのコンセプトで作品書いていましたから、弱いシンジと思いっきり素直でないアスカは書いてて懐かしかったなあ(爆)
とにもかくにも前章「AIR」編のサブタイトルは
Love is destructive
でした。
まあ、言いたいことが色々あるかと思いますので、その際はメールでお願いします。
では次は第十七話でお会いしましょう。
ではであ(^^;