慶神学園シリーズ外伝
「・・・・・問題はありません(きっぱり)」
「ぅおいっ!」
思わずはしたなくも大声を上げるナオコ。
「し、失礼しました・・・・・あの、問題が無いとおっしゃいましたか?」
「ええ。重ねて申し上げますが、問題はありません」
(・・・・・・何を根拠に?)
唖然とする赤木校長を尻目に、教頭は何やら納得したように頷いた。
「昔の君はたいそうなトラブルメーカーだったが・・・・・・やはり蛙の子は蛙と言うことか」
「おそらく」
傍で聞いているぶんには何のことやらさっぱりだが、当人同士では意が通じているらしい。
「何があったのか話す気はまだ無いようだな」
「・・・・・・・」
「ふう・・・・なあ六分儀、今まではもう済んだ話だと思って捨て置いた。だがな、君の息子はこうしている今も姿をくらましているのだ。それでも、言えんのか?」
辛抱強く語り掛ける冬月教頭。
こういう人だからこそこの厄介者を7年間も押しつけられてしまったのだろうが、教育者として見習うべき態度である。
「話すつもりはあります。要はあなた方がそれを信じるかどうかです」
「・・・・・ならば改めて聞くが、あの時、君はどこに行っていたのだ? そして君の息子もそこにいるのか?」
「おそらく、そうでしょう」
先程よりは返答が長くなってはいるが、質問の前半をきっぱりと無視している。
「・・・・・・では彼はどこにいるのだ?」
「それは以前申し上げた通りです」
「・・・・・・これは一体どう言うことですか?」
まるで無視された形になっていたナオコが、きつい口調で二人の暗号文のやりとりを遮った。
「あなた方は彼がどこにいるのか、心当たりがあるんですね!?」
「うむ・・・」
「どこ、なんです!」
今にも額から角が生えてくるのではないかと言う形相でナオコが詰問する。
「異次元、だ」
「はあ?」
「だから、異次元だ。少なくともかつて六分儀本人はそう主張している。そして息子も同じではないかと思う」
「な、な、な・・・・・・・・なぁにが異世界ですかっ!」
「異世界ではない、異次元だ」
冬月がその手の読み物を読んでいた若い頃には、ファンタジーはSFの形態の一つに過ぎないと認識されていた。
彼には異世界なる言葉よりも異次元と言う言葉の方がしっくりするのである。
「何を馬鹿なことを言っているんですか! 異次元だの異世界だのって、そんな馬鹿なことを!」
冬月はらしくもない無責任な態度で黙って肩をすくめただけだった。
「・・・・ーっ。六分儀さん、あなたもあなたで、一体ご子息にどういう教育をしてきたんです!」
怒りのあまり絶句したナオコ校長、今度はゲンドウに怒りの矛先を向ける。
・・・・・無謀なことをする人ではある、言っていることにも脈絡が無いし。
「10年前に離婚して以来、私は息子の教育には一切関知しておりません」
「!!!(憤怒)な、ならなんであんたがここに来てむがむが」
「校長、少し落ち着きたまえ」
「去年の暮れに妻が失踪しまして」
「え?」
「その後しばらくは妻の義兄にあたる家に預けられていたのですが、彼らは関わりたくないそうです。で、やむを得ず私が」
「そ、そうなのですか・・・・? でも、それなら何故碇シンジ君があなたと同じところに行くと?」
「行ったのではありません。連れて行かれたのです」
「・・・・誰にです? まさか異世界の神官だのエルフだのと言うのではないでしょうね」
「それこそまさか、ですな。ジュブナイルではあるまいし」
異次元などと言う言葉が出てくる時点で十分非常識だろが、とナオコは思った。
結局ナオコはゲンドウの口を割らせる事は出来なかった。
それどころか事件の表面化を恐れた学校が昨日になるまで父親に(正確には当面の保護者であるユイの義兄に)シンジの失踪を知らせなかった点を指摘して、シンジの欠席日数を昨日の時点からカウントするよう強要したのである。
挙げ句の果てに、シンジが医務室の常連だったと聞いたゲンドウは医務室を訪れ、ついでにリツコを「釣って」帰って行ったのであった。
それを知ったナオコ校長は憤怒のあまり手近に居た教職員の首を次々と絞め落としていったと言う。
三途の川やお花畑で亡くなった親族に追い返される羽目になった連中にとっては理不尽なとばっちりも良いところであった。
13日目
「ひっくしっ!」
「まあ可愛らしいくしゃみですこと」
別にくしゃみをしたからといって、誰かがシンジの噂をしている訳ではない。
と言うより、噂される毎にいちいちくしゃみをしていては咽頭が摩滅してしまうくらいに、神隠しに遭った少年は噂の種になりまくっていた。
では何が原因かといえば、言わずと知れた事だが先回の座敷童子の悪ふざけに端を発する水浴びに起因するのである。
「だ、誰のせいだと思ってるんだよ」
恨めし気に見つめて来る(微熱のせいで)潤んだ視線に、座敷童子は心臓の鼓動がスキップするのを感じた。
「わ、悪かったわっ」
目をそらしてぶっきらぼうに言う。
その態度も鈍感ニブチン朴念仁僕はにんじんのシンジには、何やら最初の頃と様子が違うなー、と言う程度にしか感じられないのであった。
「それにしても、ひ弱なヤツ・・・・・あれから十日も経ってんのに全然治る気配もねーじゃん」
足首まであるスカート、結ばずに首にかけただけのスカーフ、ちりちりパーマにとどめの咥えタバコの典型的スケバン(死語)の幽霊が言うと、シンジは憮然として言い返す。
「治る訳ないじゃないか、額に梅干し張り付けられたり、卵入りの熱燗コップ一杯飲まされたり、焼いた葱を首に巻きつけられたり・・・・」
「それってぇー、ぜぇんぶ伝統的民間療法なんだけどぉー・・・・」
シンジのあまりの無知ぶりに幽霊達もちょっと呆れた様子である。
「そんなの、文字どおり前世紀の遺物じゃないか」
何気に言い返したシンジだが、その言葉はかなり激しい反応を引き起こした。
「ひ、ひどいわーっ、あんまりよぉー!」
「そりゃ私たちは生まれも育ちも20世紀だけど、でも心・・・じゃなかった魂は死んだ時の、ピチピチギャル(死語)のまんまなのよ!」
「いぶつ・・・・ぜんせいきの、いぶつ・・・・・」
やはり、たとえ幽霊と言えども女性にとって年齢の話題はタブーのようである。
「ゴ、ゴメン。でも君たちの事を言ったわけじゃ・・・・」
だいぶ性格の歪みが直って来たのか、素直に謝るシンジ。
少々言い訳がましい態度が鼻につくが、これは地である。
「どーぉせわたくしは19世紀の、明治天皇陛下の御代の生まれですわ・・・・」
「あたしなんて、もうウン百歳のおばあさんよ・・・・髪も白っぽいし・・・・」
部屋の片隅で何やらどよどよとドス暗い空気を撒き散らしている者二名。
シンジは内心ため息をつきまくっていた。
風邪の治りが遅いのは何も日頃の不摂生(偏食、睡眠不足に運動不足の三本柱)のせいでも民間療法(とやら)のせいでもなく、ストレスのせいなんだ、と思いながら。
心地良かろうが悪かろうがストレスはストレスであり、抵抗期を過ぎれば心身症や免疫力の低下をもたらすものである。
それにしても、セーラー服を来たオバサンやバァサン・・・・・想像してみるとかなり恐いものがある。
そう言えばそんなキャラクターが昔読んだ何かの漫画に居たような気がする、確かその名もおぞましくもミス・ヴァージンとか・・・・・。
「魔人学園だったかな、それとも魔界学園だったかな」
「・・・何、考えてるの?」
「ななな、何でもないよ!」
17日目
「お久しぶり。36年前だっけか、直接会ったのって」
目の前に腰掛けた待ち合わせの相手のファッションセンスの凄まじさにゲンドウは低く唸るような声を出した。
「おい・・・・・・・何のつもりだ、その格好は?」
「似合わないかな?」
オーソドックスなセーラー服を来た実年齢不明の女はちょこん、と可愛らしく首をかしげてみせる。
ゲンドウは確信した。
わざとだ! こいつは絶対わざとやっている!
「似合うからこそ問題なのだ。これでは我々はどう見ても援助交際の中年と女子中生ではないか」
前髪の長さを変えたりポニーテールを束ねるゴム輪をリボンに替えてみたり赤眼隠しの偏光眼鏡をカラーコンタクトにしたりはしているものの、三十数年前とほぼ年格好の変わっていない彼女の姿は端から見ればまんま女子高生である。
憮然たる表情を隠そうともしないゲンドウ。
安さが売りとは言えチェーンで経営されるファミリーレストランとは一線を画した店に食事を楽しみに来た客と言う客の視線がこちらに向けられているかのような錯覚を覚えていた。
ちなみに食事を楽しみに来たのではない客とはすなわちカップルであり、お互いしか目に入っていない。
「んー、昔の格好をしてきたのはまずかったかな」
「・・・・・まあいい。ところで輪堂・・・・・」
「あ、ちょっと待って! あたし、実は名字が変わったんだ。新しい名字は山岸っての、憶えといてね」
「そうか」
ゲンドウにとっては予想の範囲内の出来事である。
「下の名前は?」
相手は「?」という顔をした。
「やあね、女が名字が変わったって言ったら一つしかないでしょう?」
ゲンドウにとって予想外の展開であった。
「・・・・・・・・・なに?」
「結婚したんだってば」
ゲンドウは待ち時間の間にすっかり冷めてしまったコーヒーを殊更ゆっくりとひとすすりした。
「・・・・そうか」
「もーちょっとましなリアクション出来ない?」
「・・・・昔の漫画のようにコーヒーを吹き出して欲しいか?」
「それはパス。あ、娘の写真もあるんだ。見る?」
と言いつつ彼女は既に手帳サイズの小さなアルバムを取り出していた。
「・・・・見せてもらおう・・・・・」
人の家庭生活を覗き見する趣味はないのだが、こちらから頼み事をした立場上、社交辞令としてゲンドウもそれに応じざるを得ない。
少々古びたアルバムの表紙には学生服を来た猫のイラストがあしらってあった。
ゲンドウはずいぶん昔、自分がまだ20代の頃にそんなキャラクター商品が流行したのを思い出し、苦笑した。
(年がばれる様な物を持ち歩きおって・・・・)
アルバムに収められた数枚の写真の中ではにかみながら微笑んでいる少女はあまり母親には似ていなかった。
美人と言うほどでもなく整った顔立ちの、どこかシンジを女性にしたらこんな風になるのではないかと言う表情をしていた。
顔立ちではなく雰囲気の問題である。
顔立ち自体は、血の繋がりが濃い分むしろユミカの方がユイやシンジに似ているだろう。
「ほう・・・・・・・・・・・・・・・・・待て、すると君は娘とあんまり変わらん年格好で母親をやっているわけか?」
「・・・・・まさか。いっくら若作りって言っても限度があるわよ」
ゲンドウには相手の言葉の裏が手に取るように分かった。
つまり山岸ユミカはユイと同じ事をしたのだ。
(無責任な話だな)
先日訪れた母校の保険医に聞いた息子の現状と引き比べ、そう思わずにはおれなかった。
シンジは「良い子」だったと言う。
文武に秀で素行も良好、母親似の容貌もあって異性にも人気があったと聞いている。
(だから、もう一人でもやって行けると思ったのか? ユイ)
だが小学生の子供が如何に優等生であったとて・・・・・むしろ俗に優等生とされる従順な気質のアダルトチャイルド(アダルトチルドレン・オブ・アルクホリックマザーズとはまた別の概念。フリーチャイルド(自由人)の対義語)に分類されるような人間は、往々にして強く親や教師に依存しているものである。
母に去られたシンジはそれまでの性格が見事に逆転し、離人症の傾向さえ呈していた。
義兄夫婦も努力はしたのだが・・・・・けっきょく精神科医の「しばらくそっとして様子を見た方がいいでしょう」と言う無責任な言葉に従って全寮制の学校に放り込んだ。
ゲンドウに連絡して来た時も「私達の手には負えない。いまさら頼めた義理ではないが、あなたが行ってくれ」と言って来た。
ゲンドウが赤木校長に言った悪言は露悪趣味の産物というべき物で、彼らもけっして少年を見捨てた訳ではなかったのである。
だが周囲が如何に心を砕こうとも、少年は応じることはなかった。
母に捨てられた傷はかくも彼をひねこびていじけた少年にしてしまっていたのである。
(だが俺だとてあいつを助けてはやれん。俺はそんな上等な人間ではない。助けてやれるのはお前だけなのだぞ・・・・)
それがある意味ではシンジを見捨てている態度なのだと知りながら、ゲンドウはそれ以外の選択肢を持たなかった。
「失踪じゃなく死亡って事になってるから、まだしもショックは少ないと思うけどね・・・・」
「! 心を読んだな?」
「出来ませんってば、そんな事・・・・・何を考えたかは大体分かるけどね」
いささか気まずい沈黙が流れた。
実の子を詐術も同然のやり口で置き去りにしたとは言え、考えてみればユイもユミカも、おそらくは一生我が子の前に姿を現す事が出来ないのである。
辛くないはずがない。
本来ならば蛇が古い殻を脱ぎ捨てるように名前も変えてしまうべきなのに、結婚した時の姓と名を使い続けているのも、未練の現われなのだろう。
「・・・で? わざわざあんな広告出してあたしを呼んだのは何のため?」
沈んだ雰囲気に耐えられなくなったように、ユミカが話題を変える。
ゲンドウとしても本題に入るのに否やはなかった。
「尋常な用事ならば君を呼んだりはしない。息子が神隠しに遭った」
「え? 息子さんってユイ姉の?」
「私の妻はユイだけだ」
当然だと言うように即答する。
「神隠しねえ・・・・ここ半年ほど、この辺は平和なもんだったけど」
「むぅ? だが状況は私の時と似ているのだが?」
「うーん・・・・・キャトミュはおろか、スピード違反のタビュラだって無いんだけど・・・・・・」
「そうなのか?」
ゲンドウの顔に狼狽の気配が浮上する。冬月などは一年分の給料をはたいでても見たがっただろう顔だった。
「・・・・・でも、まさか・・・・・・」
「心当たりがあるのか?」
耳ざとくユミカの呟きに反応する、その様子は藁をも掴むかのようであった。
「いや、その・・・・・あの時あたしがあのガッコにいたのって、実は他の件の調査の途中だったんだわ」
「別? 『カレン』の件では無いと言う事か? 聞いていないぞ、そんな話」
「あはは・・・・とりあえず無害そうだったから・・・・・」
「・・・・で?」
「時空乱流とは違うんだけど、似たようなもんかなーって・・・・・・でもあの子、女子校ノリで男の子に興味が無いみたいだったけど・・・・・」
「話が見えんな」
「えっと・・・・とりあえず、確信が持てないから、一度調べてみてからにするわ」
「・・・・・・・・むぅ・・・・・・・・・・わかった。よろしく頼む」
なんとなくはぐらかされた様な気がするが・・・・今となっては頼みの綱は彼女だけなのである。
「もし「上」のほうがらみだとしたらあたしらの職務規定内だかんね、気にしない気にしない」
「助かる。ところで、あの辺は大分様変わりしていたから、下見をしておいた方がいいぞ。何しろ共学だ」
「驚愕?」
「女子部が出来ていたと言う事だ。おまけに大学もな」
「あ、共学か。ふーん・・・・じゃあますます男の子さらう意味が無いような・・・・それともユリってわけじゃなかったのかな」
「? 学校に女の霊でもとり憑いているのか?」
「・・・・・」
絶句するユミカ、どうやら当てずっぽうのつもりがジャックポットを引き当てたらしい。
それにしても、「霊」などと言う非科学的な言葉は彼女たちには似合わないように思うのだが、何かの比喩だろうか?
「まあいい。ところでだな輪・・・・山岸ユミカ。君にもう一つ頼みたいことがある」
「な、何よいきなり?」
「髪を切って男装して、シンジの代わりに学校に行ってくれんか」
「出来てたまるかそんな事」
20日目
「ねえ、この薬、まだ使えるかなぁ」
「どこから持って来たのよ? やだ、それって・・・・・」
キャンディヘアの幽霊の持って来た銀色の物体を見て、濡れ髪の幽霊は眉を顰めた。
そのケースにはお馴染みの十字のマーキングは施されていなかった。
セ@サターンほどの大きさの直方体には正三角形を上下逆さに二つ組み合わせた形・・・・俗にソロモンズ・シールとか六紡星などと呼称される図形と意味不明の記号が刻印されていた。
余談ではあるが、ヘキサグラムがダビデの星としてユダヤの象徴に使われるようになったのはわりと最近、18世紀後半のことである。
「ちょっと、委員長が知ったら怒るわよ」
「でもぉ、薬なんて飾っておいたってぇ意味無いじゃないぃ」
「そうですわよ。それに中身が無くとも入れ物が残っていれば、思い出の品としては問題無いのではなくって?」
存外にドライなことを言うはいからさん。
「でもさ、どれが何の薬なのか判んないじゃない」
「あぅ・・・・」
「ものがものだけに、下手に人体実験なんてやって安楽死用の毒薬でしたー、じゃ済まされないわよ」
「でも、そんな危険な薬もいっしょくたに入れておくかしら? 間違って飲んじゃったりしちゃうんじゃない?」
「そうねえ・・・・」
どうやら謎のケースの正体は救急箱のようだが、一体いかなるルートで入手したのか、誰一人として内容を把握している者はいないらしい。
「薬を割って砕いてひとかけらずつ全部の種類飲ませるって言うのはなし?」
「いっくらなんでもヤバ過ぎだって、そりゃ」
「何デインジャーなこと言ってんのよ、あんたたちは!」
「わわわ、委員長!?」
いつの間にやら、幽霊達の輪から一歩下がった所に座敷童子が腰に手を当てたポーズで立っていた。
「いや、そのぉ、これはぁ・・・・・」
涙目でケースを抱え込むようにしておろおろと弁解しかけたキャンディヘアの幽霊だが、意外にも座敷童子の反応は穏やかなものだった。
「どのみち30年以上前の忘れ物だもの、有効期限なんてとっくに切れちゃってるわよ」
「あうー・・・・・ごめんなさぁい!」
「まみさんも悪気はなかったんですの、ただ碇さんがまるで回復しないものですから、何とかしなくてはとお思いになって」
「いいのよ、分かってるから」
そう言って、差し出されたケースを受け取ると、座敷童子は深くため息を吐いた。
「・・・・・でもそろそろ現世に戻さないと駄目かもね。やっぱり生きた人間にとっちゃここは霊的に不自然な場所なんだから・・・・・」
21日目
「と、ゆーわけで! 卒業試験の始まり始まりー!」
どんどん、ぱふぱふー
どこから持ち出したのか太鼓やラッパまで動員して盛り上げようとする幽霊達だが、シンジの反応は、ただひたすらに疑わしげなまなざしであった。
「そんなこと言って、またぞろ僕を賭けのネタにしようってんじゃあないの?」
「やーねー、もう。疑り深いんだからぁ(はぁと)」
「・・・・何しろ過去の実績があるからね」
相変わらず辛辣ぶりは健在のようである。
「そんな事言っててもいいのかしらぁ?」
チェシャ猫のように顔より大きいのじゃないかと思えるくらい大きな笑みを浮かべている、その様子に釣り込まれるようにシンジは問い詰めてしまった。
「どういう意味さ、それ?」
言ってしまってから見事に術中にはまった自分のうかつさを呪うような顔をした。
「ふふん、ここは所詮現世と幽界の狭間、生身の人間の住める所じゃあないのよ」
「何を今更」
自分で引きずり込んでおいて・・・・・と言いたげなシンジだったが、それにはかまわずに続ける座敷童子。
「何だか変だなー、って思った事は無い? どうしてただの風邪なのにこんなに治りが遅いのか、とか・・・・」
「ん?」
「何故なら! 霊的に不自然な空間が生命力を吸い取っているからなの、よー!」
「「おおーっ!」」
ぱちぱちぱち
シンジは、んがっ、と開いた口を閉じて猛然とくってかかった。
「ななな、何なんだよそれー!」
「空間そのものがそうゆう構造になってるのよ」
「なってるのよってなにへいぜんとだいたいきみがここにぼくをひきずりこんだんだろうにひとごとみたいになにをへらへらといってくださるのかそもそもこのくうかんじたいあなたがこうちくしたのではなかったのですかだいたいあなたってやつはいったいなんのもくてきでなんのけんりがあってぼくをこんなめにあわせるのだあんまりにもりふじんなはなしじゃああぁりませんかぁそれにここがきけんだというのならばなおのことそつぎょうしけんなどぬきにしてそっこうでぼくをもとのせかいにおくりかえしてよだいいちなぜぼくがここにつれてこられなくてはならなかったというのでありおりはべりそうらふにあらむや」
「はーい、ストップ。てなわけでここから脱出しないことには、貴方は遠からず死に到るの」
「到るのっておい・・・・」
あまりに理不尽な展開に、シンジはもはや怒る気力さえ失いかけていた。
「そぉれでぇ、卒業試験の内容なんだけどぉ」
「もうどうにでもして・・・・・・」
「いい覚悟ね。・・・・・それは・・・・・・」
「「それは?」」
声をそろえて合いの手を入れる幽霊達。
「あたしを元の姿に戻すこと!」
「えぇー! そんな御無体な!」
「そうですわよ、そんなことわたくしたちにだって・・・・・」
「えぇーい、口出し無用! これが最後のチャンスよ、やるの、それともやらないの?」
幽霊達が驚いだ様子で叫ぶのを押さえつけ、座敷童子は挑むような目でシンジを見つめた。
シンジはその目を正面から見返し、珍しくも男らしくきっぱりと宣言した。
「できん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
「だから、できないよ、そんなこと」
「な、何言ってんのよ、試してみようともしないうちから諦めちゃうつもりなの?」
「無理だって」
「このこの根性なし、意気地なし、甲斐性なし!」
「最後のは違うと思う・・・・」
「いい? このままここにいたら、本当に死んじゃうんだからね?」
「君達を見ていると、それもいいかなあと思えてこないでもないね」
そう言った瞬間ばっちーんと見事な紅葉がシンジの両頬に貼り付けられる。
「馬鹿言わないでよ! ここにいる子達はみんな、成仏しきれずにさまよってたのよ! もっと生きたい、生きていたかったって思いが強すぎて、だからみんな死にきれなくて精いっぱい楽しもうとしてるんじゃない・・・・・・あ、あんたみたいに生まれたことに感謝もしないで、無気力に惰性で生きているみたいなのは、死んだら幽霊になるどころか、生まれ変わることも出来ずに魂まで絶対的に消滅して徹底的に死んじゃうんだから!」
筆者としてはシンジのようなタイプの人間ほど実際には生きたいという気持ちは強いのではないかと思うのだが。
「それでも、いいさ。僕が生まれてきたことがそもそも間違いだったんだ」
この世に僕と言う存在を産み出したその両親に何の価値も無い物の様に見捨てられた・・・・そんな生にどんな意義がある?
「なんでそんな風にひねくれ果てちゃったの?」
「お姉さん達に話してごらんなさい」
かなり頭に血を上らせた座敷童子のフォローのつもりか、幽霊達が口を挟んできた。
即座にそれを拒絶するシンジ。
「いやだ!」
間。
「話し・・・て・・・」
ひゅー、でんどろでんどろ
レトロなBGMとともにおぞましいまでの事故死体と化してゆく幽霊達。
「き、君達には分からないよ、親に捨てられた子供の気持ちが化け・・・・・物の怪なんかに!」
悲鳴混じりに叫ぶシンジ、その言葉を聞いて座敷童子と幽霊達の顔色が変わった。
幽霊達は狼狽の、座敷童子は憤怒の相を浮かべる。
「こ、この・・・・」
また叩かれると思った新司が反射的に目を閉じる。
衝撃はなかなかやってこなかった。
「・・・・あれ?」
薄く目を開けた時、地震が起きた。
「? 大きいな?」
震度3てところか、と考えたシンジだが、すぐにここが座敷童子の作った世界の中だという事を思い出した。
「てことは、今のは彼女のお怒りってことなのかな?」
「何を暢気なことほざいてんだ、手前は!」
目の前を、指の間にカミソリを挟んだ平手が、眼鏡に当たるくらいの距離をかすめた。
「わぁ!」
「空間が狂い出してるのよ! あんたがあんなこと言ったから!」
幽霊達が血相を変えて、顔が重なり合ったり、他の幽霊やシンジの体を突き抜けたりするのもかまわず詰め寄る。
「ぼ、僕が?」
「そうよ!」
「やっぱり物の怪ってのはまずかったかな?」
「「「ちがーう!」」」
声をそろえて絶叫する幽霊達。
見る者とてなかったが、窓の外ではカレー色のオーロラが乱舞していた。
実際には学校の内側しかこの世界は存在しないのだから、窓が現世の風景を映す機能を失いつつあると考えるべきだろう。
「座敷童子ってのはね、住み着いた家に幸せを呼ぶだのと言われているけど、もともとは人の罪の意識が生み出した幻影みたいなものなのよ」
「・・・・・罪?」
「そう、東北地方の言い伝え・・・・・その実体は厳しい冬を越すために「口減らし」をした親が、幻に見る我が子の姿・・・・・」
「そんな! じゃあ・・・・親に捨てられた、なんて・・・・・・・・最低だ・・・俺って・・・・」
「最低なんてもんじゃないわ、もう鬼畜よ外道よエンガチョよ!!」
「ああ・・・あああ・・・・・・」
「自己嫌悪にひたってないで! とっとと謝りに行きなさーい!」
自己嫌悪は自己憐憫の甘美な泥沼へと誘う思いっきり後ろ向きな感情であり、反省とは厳然と一線を画するのである。
「う、うん・・・・でもどこへ行けばいいのか・・・・」
「案内したげるわよ、ほら早く行くわよ!」
濡れ髪の溺死霊とパーマの轢死霊が両脇からシンジの腕を掴む。
同時に周囲の風景が歪んだ。
その時、中等部一年組の教室では英語Uの授業が行われていた。
英文読解担当の青葉シゲルは教師二年生の若手で、軽音楽部の顧問も兼ねており、さらに二の線に入る顔立ちながら、少々目つきが悪いのが災いして女子の人気では同い年の日向マコトに差をつけられている。
その授業中に、不意に霧島マナが席を立って叫んだ。
「碇君!?」
その視線の先で、解説を交えつつ黒板に板書された生徒の解答を添削する青葉シゲルの胴中を突き抜けて出現した、左右を青白く水脹れした土左衛門とぐちゃぐちゃにつぶれた顔面から目玉や舌を垂らしたゾンビに挟まれた碇シンジが現れ、消えて行った。
「出たああああ!」「きゃああああ!」「うわああああ!?」「ひー、見ちゃったー!」「おえぇ・・・・(早弁をしていた)」「あーん、見れなかったよー(居眠りしていた)」「神様・・・・」「うそだうそだうそだ(エンドレス)」「は、腹が寒い・・・・・・(青葉)」
教室は一瞬にして阿鼻叫喚の坩堝と化した。
「ねえ・・・・・なんだかものすごいことになってるみたいなんだけど・・・・」
「ちょ、ちょっとミスっちゃった、あはは・・・・」
「ほっときなよ、そんなもん! 今はそれどこっじゃないんだからさ!」
言い切ったスケバン(死語)の幽霊が、あ、と声を上げた。
「いた!」
その言葉と同時に周囲の空間が元の、座敷童子の造った学校の世界に戻った。
「委員長、待ってよ!」
「あ、待って・・・・」
呼びかけようとして気付いたが、シンジはこれまで彼女に呼びかけたことがない。
通称でも本名でも呼んだことがない。
どうでもいいことではある、そんな些細なことに拘泥するから上手く話せないのだ。
「ほら、何してんのよ!」
「う、うん」
シンジは階段を駆け登って座敷童子の方に駆け寄った。
「あの、さっきは・・・」
「来ないでよっ! あんたなんか、あんたなんか、生きてたって意味ないわ! もう、幽閉なんかじゃ生ぬるいわよ! あんたなんて・・・・」
謝罪しようとしたシンジをさえぎって座敷童子が拒絶の言葉を吐く、そのたびに背景が不吉に揺らめいた。
「あんたなんて、いらない! あんたなんて、いなくなっちゃえ!」
Don’t be.
存在するな。
英語圏では決して親が子供を叱る時に使ってはならない言葉。
それはシンジが自分自身に言い続けた言葉。
ア、ア、ボクハ、イラナイコドモ、ナンダ。
そしてそれは同時に座敷童子にかけられた呪いでもあった。
イラナイコドモ。
「あ?」
「っきゃ・・・・」
最初は下りのエレベーターで味わう、あの感覚だった。
それが一気に自由落下の失墜感になる。
学校が、座敷童子の世界が彼女の足元から消滅し始めていた。
「うわあああ!」
「委員長!」
「碇!」
「碇さん!」
足場がないという感覚はひどく恐ろしいものだ。 依って立つ場所がこの世界に存在しないと言うことだから。 そんなこじつけじみた理屈を並ベるまでもなく、内臓が腹の中で浮き上がるあの異様な感覚が人間に与えるのは生理的な恐怖以外の何者でもない。 そんな恐怖にも慣れ、果ては楽しむことさえできるのだから、人間の適応能力とは実に素晴らしいものだ。 だがそれでも、誰からも愛されない人生に順応するほどには、人は強くない。
「離してよ! 離してってば!」 逃がすまいとしているのか、落下の恐怖からなのか、自分でも判別しがたかったが、シンジは座敷童子を抱きしめていた。 座敷童子の言葉に、逆にもっと強く腕に力をこめる。 「やだ! 離せっ!」 「委員長・・・! 学校はどうするのさ! みんな消えちゃうよ!?」 とりあえず思い付くままの言葉で説得を試みたシンジ、だが座敷童子の反応は予想外のものだった。 「学校が必要だから、だからあたしが必要なの? あたしは必要じゃないの?」 「え・・・・っ? ご、ごめん、君が何を言ってるのか、わからないよ」 座敷童子は深く深くため息を吐いて、暴れるのを止めた。 さっきまでとはうってかわって静かに話し始める。 だがそれが突沸寸前の熱湯の静けさのような物だと言うことはニブチンのシンジにも理解できた。 「あの子達は消えないわよ、元々あたしが集めるまでは別々の所にいたんだから」 「あ・・・そうか」 「・・・それに学校も消えない。震源地のあたしが外に出たんだもの」 「そ、そう言うものなの?」 シンジは寝耳に蚯蚓を入れられたような顔をした。 シンジも、それに幽霊達も、あの学校は座敷童子の力で構成された世界なのだから、維持にも彼女の力が必要だと思い込んでいたのだ。 「そうよ。今まで黙ってたのは、ただあたしが必要不可欠な存在だと思われたかったから」 シンジから見えないよう顔をそむけた。 「そうしないと、また捨てられるんじゃないかって、恐かったの」 シンジが知っていた所謂座敷童子は住み着いた家に福をもたらす妖怪で、座敷童子に出て行かれた家は逆に荒廃すると言う。 それも、その家の住人に必要な存在だと思われたかったからやったことなのだろうか? 「でも、それで必要とされてても、あたし自身が必要とされてるわけじゃないって、いつも不安だった」 いつしか座敷童子の顔から脳天気に陽気な表情は消えていた。 「何がわからないよ、あんたの方こそ、あたしの気持ちがわかる? 親に間引かれた子供達の怨念が凝って集まった妖怪の気持ちが、あんたにわかるっての?」 「・・・ごめん」 「謝れば済むとでも思ってんの? あんたなんて、自分一人不幸ですって顔をして! 人の気も知らないで! あんたなんて一生そうやって自分で自分を可哀相がっていたらいいのよ!」 泣きながらきついことを言う・・・男がこれをやったら友好断裂確実である。 (女の子って、ずるい・・・) そう言いたいシンジだった。 「ゴメン・・・」 シンジの腕から力が抜ける。 浅薄な人生経験しか持たない少年には、座敷童子にかける言葉を見つけることが出来なかった。 座敷童子の体に回していた腕が外れ、二人の体が離れた。 「あ・・・」 背中の温もりが消えた事に気づいて振り向いた座敷童子の顔は、まるで駄々をこねていた子供が母親に無視されて不安になり始めたような、そんな顔をしていた。 けれど、虚空の奈落に堕ちゆく少年の瞳は固く閉ざされ、その顔を見る事はなかった・・・・
落 ち て 行 く ・ ・ ・ ・ そ れ と も 浮 い て い る ?
一 瞬 の 事 ?
無 限 に 続 い て い る ?
光も、重力も、空気さえ存在しない次元の間隙に落ちたシンジは、自分が置かれた状況をまったく把握できなかった。 時間の経過の感覚も失っている・・・・左腕の、安物とは言えある程度の耐水・耐衝撃性を備えているはずの腕時計も時を刻む事を忘れていたし、胸郭の中の心臓ももう動いてはいなかった。 「死んじまったのかな、僕は・・・・・・・・・なんだ、やっぱり死ぬのなんて恐いことないじゃないか・・・・・」 薄く笑いさえ浮かべてつぶやく、その声も、呼気が声帯を震わせて出すものとはどこか異なっているような気がした。 「はは・・・・お姫様を助けられなかった主人公どのは、虚空の迷路をさまよい歩く、か・・・・・・ふん・・・・僕のガラじゃないね・・・・・・生きぞこないは、死ぬ事も出来ずに闇の中ただ一人さまよう、天罰・・・・・・・こっちのが似合いかな・・・・・」 たしかに消滅も許されず永遠に虚空をさまようのは、生き地獄と言えない事もない。 それに、暗闇の中に長時間閉じ込められた人間は往々にして精神に変調をきたすと、何かの本で読んだような気がする。 「まあ、いいさ・・・・・・・・」 それからまた、夢幻とも現実ともつかない時が流れた。
光が降って来た。 それは唐突なまでに、少年の主観からすれば仰向けに浮いていた彼の上方・・・正面に発生した。 「・・・・何だ・・・・・?」 目を凝らすと、その光の中心に人のシルエットが見て取れた。 「・・・・・あれは・・・・・・」 真っ直ぐシンジに向かって近づいて来る・・・・文字通り光臨するその姿が、やがてはっきりと顔が見えるようになった。 「母さん!」 光に包まれたシルエット・・・・矛盾した表現だが・・・・・にに抱きしめられ、シンジは歓喜の叫びを上げた。
・・・・・もういいの、ゆっくりとおやすみなさい・・・・・・・・
「うん・・・・」 幼子そのものの表情で、呟くような声で答えて、シンジは懐かしいぬくもりの中で目を閉じた。
・・・・・そう、お眠りなさい・・・・・・・・永遠に・・・・・・
シンジはその言葉の意味する事を深く考えさえしなかった。 何故ならそれこそが彼の望みと一致するものであったから。
・・・・・私に還りなさい・・・・・・・生まれる前にあなたが過した大地へと・・・・・・
ずっと思っていた。 願い続けていた。 永遠に眠っていたい、何も考える必要もなく、他者に傷つけられる事も、自らに苦しむ事もない、まどろみの中で永遠に・・・・・ それは死ではなく、全てへの回帰・・・・・ 生まれる寸前の、死へ向かって不可逆的に驀進し始める直前の、最も生命に満ちた瞬間・・・・・・・ 永遠にそれが続くのならば、それは正しく至福と呼べるものであろう・・・・・・・・・
『チガウ!』
けれど眠りは常に妨げられる、無神経に耳障りな目覚し時計のベルによって。 不意に自分自身の内側から響いた怒号に、シンジは不承不承目を開き・・・・・そして、目の前の人影が母などではなく、ヒトならぬ・・・・どころか生き物でさえないモノが無理にヒトの姿を真似たような代物である事に気付いた。 「うわああああああ!」 絶叫して、シンジはその奇怪な物体から逃れようとした。 だが不気味悪い物の怪の肥大化してせり出した腹に縦に開いた口は、しっかとシンジを胴中まで食らい込み、異様に長い腕はがっきと肩を抱え込んで離さない。 「いやだっ! はっ・・・放してよ!」 必死の形相で足掻いても非力な少年の力では逃れる事も出来ず、逆に急に暴れ出した獲物を逃がすまいとするかのように化け物の締め付けを強くする結果になる。 「死にたくない! まだ死にたくないんだ! 助けてよっ、父さん! 母さん!」 『助けてあげよう』 「え?」 再び、シンジ自身の内側から響く不思議な声が聞こえた。 そして次の瞬間、少年の体がまばゆい光を放って周囲の闇と怪物とを消し散らした。 |
光はそのままの強さを保ったままシンジから分離し、シンジの頭の正面1メートルくらいの位置に移動して、眩しくない程度に輝度を落とした。
「大丈夫かい、碇シンジ君」
「き、君は・・・・・一体・・・・」
自分の体の中から出現したとんでもない代物に、シンジは謝辞を述べることさえ忘れるほど混乱していた。
「も、もしかして天使とか?」
そうシンジが言ったとたんに、光の塊がシンジが漫然と心に抱いていた天使の姿に変化する。
天使は金髪碧眼の赤ん坊でありながら仏像のように、あるいはオリンポスの神々のように簡素な白布からなる服をまとい、頭上の輪は後光に近いものに変化し、背中の羽根のかわりに中国の天女の羽衣のようなものを肩の上に浮かべていた。
仏教徒風の表面的無神論者、深層的汎神論者でありながら、西洋文化に汚染されまくった日本人らしいと言うべきか。
「ふむ・・・・おもしろいイメージだ。天使か・・・・そうだね、そう考えてもらっても結構だよ、僕は君のケルビムさ」
「僕の? それって一体・・・・」
「人はだれもが神の魂のかけらを持っているもの・・・・とでも言っておこうか」
可笑しそうに・・・・と言うよりは知的興奮を覚えているような口調で天使は話していた。
生まれたての、けれど知識は十全に備えた神童の如く。
「よ、よくわからないけど・・・・助けてくれたんだよね? ありがとう」
「どういたしまして」
間。
「あの・・・・今の化け物は一体何なの?」
沈黙に耐え切れなくなったシンジが問うと、天使は質問を待っていたかのように答えを返す。
「次元の狭間にうごめく下等な・・・・・そうだね「そこに無いのにそこに在るモノ」さ」
巧みに間を空けて聞き手の興味を煽ることさえしてのける自称ケルビム。
「そこに・・・・?」
「彼らは被造物ならぬ存在故に魂を持たず、魂を備えている人を羨み、それを取り込んで人になろうとしているのさ」
少年は気付かなかったが、それはとてもおかしな論理だった。
シンジにとって極めて身近なものである反例が在るのだ、今、同じ次元の狭間に。
被造物ならぬ者、捨て子の怨念の凝って固まった物の怪である座敷童子は、学童の亡霊を集めながら、しかし魂を奪い取ろうとはしていなかった。
しかし少年はそれに気付かぬままに問いを重ねる。
味方であると判断した、いったん心を許してしまった相手に猜疑を抱くには、彼はあまりに子供すぎた。
「あんな奴が、他にもいるの?」
「いるよ。あちらの方で・・・・」
そう言いながら、彼らから見て相対的に上である方向を指差した。
「女の子が一人襲われているみたいだね」
「え゛・・・・・そ、それってもしかして座敷童子なんじゃあ」
「そうだよ」
「そうだよって・・・・た、助けなきゃ・・・・・」
すがるような視線に、けれど智天使はゆっくりと首を振る。
横に。
「言っておくけど、僕は君を助けることしか出来ないよ」
「そんな!」
「言っただろう? 僕は君のケルビムなんだよ」
「じゃ・・・・じゃあどうしたら・・・・」
「彼女が心配なの?」
「あ、あたりまえだよ!」
悩む気配もなく答えを返したシンジに、満足げに首肯して智天使は言った。
「ならば、君が彼女を助けるんだ」
「ば・・・僕が? 無理だよ! できっこないよ!」
「出来るさ。なぜなら君は君のお母さんの子供だから。彼女はこの空間を自由に行き来する「異人」だったのだから」
間。
沈黙。
「ええええええええええ!」
「そうさ、中国の天女伝説の如く、彼女は天に帰った・・・・・君を見捨てたわけではなく、そうせざるを得なかったんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ・・・・」
「蛇女は、己の目を抉って母乳のかわりに赤子に与え・・・・それでも人として生きることは出来なかった、盲目になれば死ぬしかないと知りながら残る目も与えて、それでも共に暮らすことは出来なかった」
「・・・・・・」
「彼女は君を捨てたんじゃあないのさ・・・・・」
「う、うう・・・・・・」
「泣きたくば泣きたまえ。哀しみを受け入れ、乗り越えるために流す涙は恥ではないのだから」
智天使の言葉が、シンジの涙腺の堰を突き崩した。
「うっ・・・・・うううっ・・・・・うあぁ・・・・母さん・・・・・」
泣き崩れたシンジを、智天使はただ黙って見つめていた。
ようやく泣き止んだシンジに、智天使は穏やかに語りかけた。
「落ち着いたかい?」
「う、うん・・・・・・」
「ならば、今からは前進するべき時だ。彼女は今も食べられかかっているんだからね」
「で、(ひっく)でも、間に合う、の?」
しゃくりあげを収めようとしながら問うシンジ。
すでにかなりの時間を無駄にしているのだ。
だが天使の返答はシンジにとって予想だにしていないものだった。
「心配は要らない。ここは次元の狭間。時間も空間も、本来は存在しない場所なんだ」
予想していなかったものの、考えてみればありがちな設定に、シンジは黙って頷く。
口を開くとまたしゃくりあげてしまいそうだったのだ。
「君は半分とは言え「異人」の血を継いでいるが故に、この空間を自由に操れる。彼女のもとに行くことも、物の怪を打ち倒すことも不可能ではないはずだ」
「でも! そんなの、見たこともぉっ(ひっく)聞いたことも、ないのに、出来るはずないよ!」
「もちろん、いきなりそんな事を言われても戸惑うのが当たり前だろうね。安心したまえ。言っただろう? 僕は君のケルビムだと。貸してあげよう、僕の翼を」
その言葉と同時に、シンジの背中から羽根が生える。
智天使の言葉とは裏腹に、それは鳥類の翼とは異なる、昆虫の羽根の葉脈だけを抜き出して幾何学的にアレンジした光の翼だった。
「返す時のことは心配しなくていい、用が済めば消えるからね。さあ、行きたまえ」
「うん・・・ありがとう」
「礼はいらない。これが僕の存在する所以なのだから」
「でも・・・・うん、わかった。ありがとう」
シンジと天使はどちらからともなく苦笑し合った。
羽根を動かすのではなく、光をジェットエンジンやロケットエンジンのように吹き出して飛び立ったシンジを見つめ、ケルビムは満足げな笑みを浮かべた。
その背中に、不意に虚空から声が投げかけられる。
「まったく、まるで詐欺師みたいな天使ね」
智天使はそれを予想していたかのような態度で、春風駘蕩とした態度で言い返す。
「嘘は言っていないよ。あれは彼が生み出した母胎回帰願望の化身、言わば「グレート・マザー」そのものだもの」
「見ればわかるわ、牙の生えたヴァギナなんて、見たまんま暴走する母性そのものじゃない」
警戒しているのか、あまり好意的な成分の含まれていない声だけが彼の元に届けられていた。
「なら話は早いね。おそらく彼女も同じ状況に陥っているはずだ、彼らは驚くほど似た者同士だからね」
「じゃあ、あなたは何だと言うの? ずいぶんと事情に精通しているようだけど」
天使は好意を含んでいるのか、蔑んでいるのか判然としないアルカイックな笑みを浮かべた。
頭部を起点に発生して体を包んでいたオーラが消え、急速に成長(?)し、シンジと同じくらいの年の少年の姿になる。
服も変形し、ギリシャ神話の登場人物が着ているような簡素な布から、現代の日本の学童の制服へと変化する。
「僕は彼の生み出した分身・・・・・シャドーとは少し違うが、まあそう思ってくれてもいい。かくありたいと願う自己であり、自己を救済してくれる他者である自己さ」
ユイやユミカと同じ、血のように赤い目と白い髪を持った少年は、そう言うと指を鳴らした。
「きゃっ?」
空間に巨大なジッパーが出現し、それが開くと、中から山岸ユミカが転げ落ちてきた。
別にシンジがピンチになって、自分の力(分身)で撃退するのを黙って見ていたわけではない。
この空間では然るべき力を備えたものがその気になれば、過去の事象を観測したりすることも、過去の時点に出現することさえも容易なのだ。
もっとも、本来の次元では時間の制約を逃れることは出来ない。
(元の次元から見て)一瞬にして幾万光年離れた地点へ移動することは出来ても、一日前に戻ることは不可能なのである。
「んなアホな・・・・・・」
「理想化された分身であるが故に、僕は彼の優れた面のみを受け継いでいる。次元操作能力も純系の「異人」とそう変わらないのさ」
「・・・・・でも所詮は子供よ。これから先のことを考えているの? 不用意に彼の力を目覚めさせて、太陽系宇宙軍の連中に気付かれたらどうするつもり?」
カラーコンタクトを外して剥き出しになった赤い光彩を煌かせて問い詰めるユミカ。
智天使は、彼の知識に無いカードを突きつけられながらも、自明の理だと言うように泰然自若と応えた。
「僕が守るさ、かれが自分の身を守れるようになるまではね」
まっすぐ真上に向かって飛翔し続けるシンジ。
いまだ三次元空間での認識に縛られているシンジは、自分ではなく空間を移動させると言う発想が出来なかった。
やがて、奇怪な化生に捕らわれた座敷童子の姿が見えてきた。
その化生はシンジの時とは異なり、いかにも化け物じみた姿をしていた。
あるいはシンジの見る目が変わっているせいか・・・・・存在していない存在を見ているのは、シンジの目ではなく意識なのだ。
七又のヒトデに羊のカールした毛と捻じれた角と横長の瞳孔の目をトッピングしたような妖物が、その体の中央から胃袋とも羊膜ともつかない半透明の袋を出している。
その袋の中に、退治のポーズの座敷童子がうずくまっていた。
すでに消化が進んでいるのか、記憶にある姿よりも幼い・・・・・おまけに髪も黒くなりつつあるようだ。
「させるかーっ!」
まるで某ジオン公国のMS乗りのような台詞を吐いて、アグレッシブビーストモードのイーグルファイターの如く突撃した。
四枚の光の翼が大きく展開し、剃刀じみた鋭利さで以ってヒトデヒツジの体と羊膜とを切り裂いた。
「委員長!」
固く目を閉じたままの座敷童子・・・・・もう委員長よりもそちらの呼び名の方が相応しいかもしれない。
彼女の体は、いまや小学生程度のサイズになり、ぼさぼさの白髪頭も艶やかに黒いおかっぱ頭に変わっていた。
いや、戻ったと言うべきなのだろう。
シンジに課せられた「卒業試験」は図らずも達成されたわけである。
もっとも当のシンジはそんなことに気を回す余裕などなかったが。
「委員長! 起きてよ!」
耳元で大声をあげながらがくがくとゆすぶると、やがてしぶしぶと目が開かれる。
「うる・・・さいわね・・・・・」
「委員長!」
「うるさいっての・・・・・・」
身を起こし、自分が裸になっていることに気付いた座敷童子は素早く着意を再構成する。
シンジよりよほど器用である。
「どうしてほっといてくれなかったの・・・・・ずっとあのまま眠っていたかったのに・・・・」
まだ意識が覚醒しきっていないのか、座敷童子の口調は物憂い様子だった。
「でも、あれは君の母さんじゃない。化け物だったんだ」
「・・・・・・・それでも良かったわよ・・・・・・悪い死に方じゃあないわ」
それに頷いてしまう自分がいるのを自覚しながら、シンジは座敷童子の小さい体を抱き寄せていた。
「やん・・・・」
思わず甘えるような声を出してしまい、耳まで真っ赤になる座敷童子。
「でも、君が死んじゃったら悲しいから・・・・・」
「・・・・」
「きっと、みんなだって悲しがると思うよ。住むところが無くなるからじゃなく、君ともう会えなくなるから」
「・・・・うん」
「だから、自分は必要ないんだなんて、悲しい事言うなよ・・・・・」
「・・・・うん」
座敷童子が手を回したシンジの背中は、泣き出す寸前のように震えていた。
それが伝播したように、座敷童子の涙腺も緩み始める。
どちらが先だったか、二人はいつしか泣き出していた。
同じ心の傷を癒そうと、涙を流しながらお互いを抱き締め合った。
意地を張って、拗ね続けていた子供たちは、ようやく泣くことが出来た安堵に、泣き疲れて眠るまで泣き続けた・・・・・・。
「やれやれ、二人とも不用心だな・・・・・まあ、いいさ。もう物の怪を産み出してしまうことも無いだろうからね」
智天使・・・・渚カヲルは穏やかな笑みを浮かべて呟いた。
「僕が見ていてあげるよ。好きなだけ夢路を歩むがいい、子供たち。朝になればまた、生業の憂いが待っているのだから」
「碇君! 碇君ってば!」
「・・・・え?」
間ざめを促すまばゆい朝日と呼びかけに、シンジは目をしばたたかせながら起き上がった。
「ここは・・・・・」
「まだ寝ぼけてるの?」
見慣れた、色とりどりの制服が周囲にずらりと揃っている。
「あ・・・・何?」
「ほらほら、起きた起きた」
「卒業式なんですから、しゃんとしてくださいましね」
わらわらと寄って来た幽霊達がまだ寝ぼけているシンジの髪を梳かし、顔を洗い、服装を整えさせる。
「卒業・・・・? あ!」
ようやく意識がはっきりしたシンジは、座敷童子の姿が幼子のものに戻っていた事を思い出した。
「委員長は・・・・戻った?」
「? もう、委員長のことばっかり気にして」
「あたしが、何? そっちの用意は出来たの?」
そう言って姿を現した座敷童子の姿を見たとたん、シンジは自分が見たものが全て幻だったような疑念に捕らわれてしまった。
青みがかかった白の、シャギーの入ったショートカット、赤い目・・・・・見慣れた、座敷童子ではなく委員長の姿だった。
「あ、あれ? そのかっこ・・・・・・」
「い、いいじゃない・・・・・やっぱりこっちの姿が気に入ったんだから」
ちょっと赤くなって目をそらす。
「じゃあ、始めましょうか」
幽霊達がシンジと座敷童子を挟むように列を作る。
「卒業証書授与! 碇シンジ殿、あなたは拗ねていじけた生きぞこないを卒業し、拗ねていじけた人間に昇格したことを証し、これを与えます!」
渡された紙は、幽霊教室の一同の寄せ書きだった。
「あ、ありがとう・・・・(拗ねていじけたってのが気になるけど・・・・・)」
「ね・・・・これ、貰っていい?」
伝統に従えば制服の第二ボタンだが・・・・・・夏服の第二ボタンなど貰っても仕方ないので、座敷童子はシンジの眼鏡に触れて、そう言った。
「え? ・・・うん、もう必要ないからね」
「必要無いから呉れるの?」
「あっ、ゴメン、そういう意味じゃないよ。受取ってください、是非」
ぷっとふくれてみせた座敷童子に、慌てて謝るシンジ。
「ありがとう・・・・」
「きゃー、いい雰囲気・・・・・」
「ねえねえ、もしかしてあの二人ってさあ・・・・・・」
「随分長いこと帰ってこなかったけど・・・・・」
「まあ、いけませんわ、そんな噂をしては・・・・・・・」
「な、なにか噂が立ちまくってるような・・・・・・」
「あ、あのねえ! あたし、戻ってきた時子供の姿だったんだけど!」
笑いさんざめく少女達に混じって、平気な顔で笑っているシンジ。
生きている人間を相手にしても、同じように振る舞えるだろうか・・・・?
ふと、そんな不安が心をよぎる。
『もう大丈夫さ。僕がついているし、もしまた行きぞこないに逆戻りしても、彼女たちがまた根性を叩き直してくれる』
あの天使のささやきが聞こえたような気がした。
「じゃあ、送るわよ・・・・あ、卒業証書は預かっとくわ。人に見られたら正気を疑われちゃうもの。あとで届けるから、待っててね」
「うん、わかった・・・・でも」
「やーん、意味深!」
「委員長、届けるのは卒業証書だけー?」
「う、うるさいっての!」
そして26日目、碇シンジは現世に復帰した。
慶神学園シリーズ外伝 続・幽閉教室 完
03;プリーチャー (多田知義 t2phage@freemail.catnip.ne.jp
HP 猫目石 http://www2.kyoto-su.ac.jp/~tadakun/index-j.html)