今日は外食だとミサトさんがいっていたから、食事を準備する必要はなかった。
だから、訓練が終わったあと、ミサトさんと惣流の仕事が終わるまでのあいだ、綾波とふたりでジオフロント内を散歩することにした。
別に目的なんかないけど、そんなものは必要ない。ただ、こうしていられるということがうれしかった。
肩を並べて、ゆっくりと小径を歩く。ジオフロント内は、集光システムのおかげでまだ明るかった。
前を向いている綾波の横顔を見つめる。綾波は、ただ静かに周囲を見つめていた。
ごくり、とつばを飲み込む。鼓動さえも聞こえそうだ。
最初にエヴァに乗ったとき以上に緊張している。がくり、と膝がくずれそうになるほどの緊張とためらい。あるいは、先のわからない恐怖なのかもしれない。
落ち着け、落ち着け、と心のなかで何度も繰り返したあと、できるかぎりさりげなさを装って、そっと綾波の手を握った。
綾波がこちらに顔を向けた。
立ち止まって、たがいにただ黙りこくる。
「あ、あの……」
「……なに?」
「いや、その……さ……」
なにをいおうか、それが考えられない。
「なんでもないのなら……」
綾波はそっと前を向いた。
「もう少し……歩きましょ……」
「あ、うん。そうだね……」
ちょっとだけ、綾波の手に力が込められたような気がした。
そのまましばらく無言で歩いていると、
「あれ?」
ちょっと林に隠れた奥に誰かがいた。じょうろで水をまいている。
適当に伸ばした髪を後ろで結っている後ろ姿。加持さんだ。
空になったのか、逆さまにしても水の出てこないじょうろをのぞき込んでから加持さんは振り返った。
「おや、シンジ君とレイちゃんじゃないか」
そんなことをいって、加持さんは空のじょうろを下げたまま人の良さそうな微笑を浮かべた。
あんなところで水をまいて、なにをしてるんだろう。
そんなことを思っていると、加持さんはのんびりと近づいてきた。それで、先ほど思い浮かんだ疑問を口にしてみた。
「加持さん、こんなところでなにをやってるんですか」
「シンジ君こそ、レイちゃんとデートかい?」
そんな予想できるからかいの言葉にも、頬が熱くなるのがわかる。
「……あ、いや……そんな……」
うろたえて綾波の方を見ると、別段表情を変えるわけでもなく、加持さんの持つじょうろを見つめていた。
「手をつないで否定されても、目一杯説得力がないな」
全身から汗の噴き出すような感覚。
「しかし、若いというのはうらやましいな」
加持さんはそんなことをいってにやにやと笑った。
こういうところは、ミサトさんによく似ている。こんな陽性の雰囲気は嫌いじゃない。……自分がからかわれているとき以外は。
「それで、加持さん、こんなところでなにしてるんですか?」
話をそらすことにして訊ねた。
「見ればわかるさ」
加持さんは近くの水道からじょうろに水をくむと、先導して歩き出した。
林の奥にあるちょっとしたスペースには、丁寧に作られた畑があった。
並んでいるのは、緑と黒の縞模様の丸いもの。西瓜である。
「へえ、西瓜ですか」
しゃがみ込んで西瓜に顔を寄せた。
綾波も、向かい側にしゃがみこんで膝を抱えた。そして、不思議そうに西瓜を眺めている。
「かわいいだろう? 俺の趣味さ……。みんなには内緒だけどな」
加持さんは幸せそうに自分で作った西瓜に水をまいている。
「なにかを作る、なにかを育てるというのはいいぞ。いろんなことが見えてくるし、わかってくる。楽しいこととかな」
「辛いことも、ですよね?」
ぽつりと言葉が洩れた。
そんな台詞に、加持さんは穏やかな目で振り向いた。
「辛いのは嫌いか?」
「好きじゃありません。誰だってそうじゃないですか? でも……」
膝の上にちょこんとあごを載せて、少しだけ首をかしげて西瓜を見つめている綾波の方を向く。
加持さんの表情は、あくまで優しい。
「辛いことを知ってる人間の方が、それだけ人に優しくできる。それは弱さとは違うからな」
そういって、綾波の方を見た。
「……そうかもしれません」
じっと西瓜を見つめていた綾波が口を開いた。
「碇君……。西瓜ってなに?」
加持さんが唖然とした表情を浮かべている。
なんて説明すればいいんだろ……。
「果物だよ。甘くて、水気があって……種がいっぱいあるんだ」
綾波に西瓜のことをうまく教えられない、ボキャブラリーの貧困さが恨めしかった。
「口で説明してもわからないさ。食べてみるのが一番いいんだけどな」
加持さんは畑を見渡した。
「ここにあるのは、半月後くらいが食べごろなんでね。いま食べても甘くない」
「そうですか……」
加持さんは空っぽのじょうろを片手に、綾波に笑いかけた。
「そうだな。半月後に一緒に食べよう。葛城や、アスカやリっちゃんと一緒にな」
「そうですね……。みんなで、一緒に食べよう。ね、綾波」
「そうね……」
綾波はいつものように微笑んだ。ちょっとだけ目を細めて、ほんのちょっとだけ唇の端を斜めにする、ささやかな変化。けれど、微笑みだってわかる。
だから、いつものように照れながら笑みを返す。そうやって、自分のささやかな幸福をかみしめる。
でも、それは長続きしなかった。
けたたましい警報の音が本部一帯に鳴り響きだしたからだ。
「《使徒》、だな」
表情を引き締めて加持さんが頷いた。じょうろを脇に置いていう。
「行くぞ、ふたりとも」
「はい!」
綾波と加持さんと一緒に、本部施設に向かって走り出した。
「戦自、第一次防衛ライン、突破されました!」
発令所の、巨大なスクリーンには、戦闘の画像は映されていない。
対使徒戦におけるあまりに無様な結果を、敵対するネルフに見せたくないということだろう。
それでも、《使徒》の現在位置の表示から、役に立っていないことは明白なのだが。
ミサトは舌打ちをした。情報を制限されては、作戦も立てようがない。協力という意志に乏しいのは、お互い様だが……
「こちらも無人偵察機を出して!」
「やってます」
シゲルが即答した。そして、手元の表示に視線を向けた。
「映像まであと20秒!」
「ん……」
「セカンドチルドレンおよび《弐号機》、展開を終えました」
続いてマコトが報告した。
「《零号機》と《初号機》は?」
「パイロットが、現在移動中。加持一尉が同行しています」
「加持が? なんで?」
「三人で、ジオフロント内にいたそうですが……」
ミサトは首を振った。
そして、作戦部長として必要なことだけを訊ねた。
「出撃までは?」
「五分です」
それに被せるように、シゲルからが叫んだ。
「《弐号機》と《使徒》の接触まではあと一分ですが……」
ミサトはスクリーンの表示を見る。《使徒》の進行速度はかなりのものだった。
「第3新東京市の市民の待避は?」
「まだ始まったばかりです。戦自からの伝達が遅れましたので……」
自分たちだけで、《使徒》を処理しようとした阿呆がいたということか。
「仕方ないわね……」
ミサトは《弐号機》との通信回線を開いた。
「アスカ、悪いけど《弐号機》だけで迎撃してちょうだい。目標の第3新東京市への侵攻をくい止めるだけでいいから」
《はっ! そんなの、あたしだけでも充分よ。ふたりにはのんびりしてなさいっていっといてよね》
ミサトは、アスカらしい、その自信に満ちあふれた台詞に苦笑した。確かに、その能力はあるのだけれど。
「無茶はだめよ」
プラグスーツの左手首にあるボタンを押す。シュッという空気の音が、いやが上にも緊張感を高める。
何度聞いても慣れる訳じゃない。訓練のときでさえ、この音を聞くと、なんとなく心臓の鼓動が速くなる気さえする。実戦の場合、いうまでもない。
更衣室を出ると、ちょうど綾波も出てきたところだった。まるで示し合わせたみたいなタイミングに、なんとなくうれしくなる。
「綾波……行こうか」
けれど、綾波はその場を動かないで、そっと紅の瞳で見つめてきた。
その瞳に写る感情は、今までに見たことがないもの……不安だった。そして、透き通るような色の肌は、それこそ青ざめてさえ見えた。
「……あ、あの……綾波?」
「……碇君」
「あの、さ……どうしたの? 気分でも悪いの?」
綾波は首を振った。
けれど、とてもそうは見えない。
「ミサトさんを呼ぶよ」
更衣室に内線が設置してある。だから、すぐに連絡はつく。
綾波はまた首を振った。
「……そうじゃないわ」
綾波は目を伏せた。
しばらく自分の心の内に問いかけるように、そっとたたずんでいた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……たぶん、怖いの」
綾波がそんなことをいうのは初めてだった。いままで、戦うことに恐怖を見せたことは、一度もなかった。
それは惣流も同じで、だから、隠していたけれど、一人劣等感をいだいていた。男なのに、という古い価値観が、自分を縛っているんだろう。
「碇君が……どこか遠くに行ってしまう……そんな気がする……」
「ぼく、が……?」
どうして綾波はそんなことを思ったんだろう。
わからない。
「ぼくは……どこにも行かないよ」
そっと手を伸ばして、綾波の肩を引き寄せる。
綾波は身を震わせた。そして、すぐに、すがりつくように手を回してきた。互いの体温を、暖かさを確かめようとして。
けれど、プラグスーツ越しに体温は伝わらなかった。
《第3新東京市の市民の待避が遅れているの。だから、アスカが先に防衛ライン上で迎撃についているわ》
プラグにエントリーしたところで、発令所との回線が開いて、ミサトさんがモニター上に顔を出した。
そして、状況を説明する。
「ぼくたちはそれを援護するんですか?」
《違うわ。そこにはアンビリカル・ケーブルを展開できる電源車が一台しか配備されていないの》
「なんで一台だけなんですか?」
せめて二台は配置しておいた方が、有利だと思うのに。
《予算不足》
「……素敵ですね」
そういうと、ミサトさんは短く苦笑した。
《人はエヴァのみで生きていく訳じゃないわ……。それで、避難が終わるまで、アスカには時間稼ぎをしてもらうわ。市民の避難が終わったら、迎撃設備の整っているここに引きずり込んで、三体一で倒すという作戦。いいわね?》
「はい」
《了解》
そのとき、惣流と《使徒》が接触したことを、青葉さんが報告する。
《強羅防衛線で《使徒》と《弐号機》が交戦中!》
パネルを操作して、発令所経由で《弐号機》のカメラ映像を受け取ることにした。けれど、回線がつながらない。
《《弐号機》、ケーブル断線しました!》
日向さんの叫びが理由を教えてくれた。
惣流が、一瞬にしてケーブルを持っていかれるような《使徒》なんて、いままでで一番強いんじゃないだろうか?
つばを飲み込みかけて、LCLのことを思い出してあきらめる。電化しているいまならともかく、普段のLCLなんて、本当に血生臭くてたまらない。
《《弐号機》右腕破損!シンクロ率78%に低下! なおも低下中! 》
信じられなかった。二対一になった分裂使徒を除いて、ここまで惣流が苦戦するなんて。
しかも、あのときは結構いい勝負だったのに、今回は一方的だった。
発令所からは、さらなる怒号や悲鳴が聞こえてくる。
「嘘だろ……」
そのつぶやきに被せるように、ミサトさんが叫んだ。
《シンクロカット、急いで!》
「……も、目標の損害率は3%以下です。第3新東京市に向けての移動を再開しました」
どこか震える声で、マコトが報告する。
「セカンドチルドレン、生命反応に異常ありません」
「しかし、《弐号機》は大破! 再起動は不可能です!」
アスカについて、シゲルとマヤがデータを読みとった。
「戦力外、確定ね」
ひとことでリツコはオペレーターたちの報告をまとめる。
「シンジ君とレイのふたりで対処するしかないわ」
マヤの前の端末をしばし操作したあと、リツコはつけ加えた。
「ただし、MAGIの試算でも、勝率は2%未満よ」
ミサトは即断した。
「戦自に要請して。N2爆雷をありったけ投下するわ」
「ATフィールドを破れるかしら」
「エヴァ二機で、効果範囲ぎりぎりから中和させるわ」
ミサトはそういってからつけ加えた。
「エヴァの装甲なら、多少の爆風なら耐えられるでしょう?」
二秒間ほどミサトの提案を吟味したあと、リツコはマヤに訊ねた。
「MAGIの判断は?」
「……条件付き賛成一、保留二です」
表情をゆがめながら、マヤは敬愛する先輩の顔を見上げた。
その顔は、どこか泣きだすのをこらえている幼子に見えた。
「条件?」
リツコとミサトは、一瞬視線を交わしたあと、マヤの手元の表示を覗いていた。
「来た、か……」
MAGIから伝達される情報が、《使徒》の現在位置を教えてくれている。
接触まで、あと三十秒を切った。惣流と《弐号機》をほんの一瞬で撃破した、強大な敵が近づいてくる。
手が震えている。
怖い。
いままで戦った《使徒》は、そこまで怖くなかったのに、なんでだろう。そう考えて、一瞬で理解した。
その力の差が、あまりにも開きすぎているからだ。
どれだけ苦戦しても、手の打ちようがない戦闘力を持った《使徒》というのはいなかった。
たとえば、すさまじい再生力。
たとえば、衛星軌道上からの質量攻撃。
どんな《使徒》にも、倒し方は見えていて、それをクリアすれば、なんとかなってきた。
けれど、今回は違う。
小細工でもなんでもない、ただ、圧倒的な力の差が、厳然とそびえているのだ。
綾波と組んで、二対一で惣流と戦うなら、紙一重であっても、勝てる。けれど、その惣流がなすすべもなく敗れた相手に、なにができるのだろう。
《……君、シンジ君!》
思考を破ったのは、ミサトさんの声だった。
「……はい」
「作戦の変更を伝達するわ。《零号機》《初号機》は、目標を市街へと誘導して」
《誘導後の作戦は?》
綾波がミサトさんを問いただした。
《N2爆雷の複数集中投下で、目標を撃破するの。ATフィールドを中和しながら、できる限り距離を取ってちょうだい》
「簡単にいってくれますね……」
そういいかけて、慌てて言葉を飲み込む。
「やってみます」
《了解》
正面からぶつかっても勝てないことくらい、ミサトさんにもわかっているんだ。
《碇君、来るわ!》
綾波が叫んだ。
ミサイルを続けざまに撃ち続けていた兵装ビルに、突然、切り取られたような線が走ったかと思うと、爆発が起きて吹き飛んだ。
立ちのぼる黒煙の後ろから《使徒》が姿を現した。
ずんぐりとか、むっくりとかいう形容が似合う、そんな鈍重さがあった。胴体中央には、むき出しの光球があった。
そして、その躰の上には、仮面のような顔がついていた。最初に戦った《使徒》に、どこか似た印象があった。
なんでこんなのに惣流が負けたんだろ……?
そう思った刹那、使徒の目に当たる部分が閃いた。
直感的によけようとする。加重を感じながら、《初号機》はかなりの距離を跳躍していた。
こんなにあの一瞬でよく跳べた……そう思いながら、いままで《初号機》がいた地点を振り返ってぞっとする。アスファルトがバターみたいに溶けていた。これが、さっき兵装ビルを破壊した攻撃だろう。
ATフィールドを展開して、パレットガンで軽く攻撃を仕掛けてみる。
《使徒》の体表に、無数の閃光がきらめいた。
命中はしている。けれど、破壊力が完全に不足していて、なんの役にも立たない。この分だと、プログレッシヴナイフでも結果は同じだろう。
なら、どうすればいい?
二度三度と、《使徒》の眼が閃くたびに、飛び跳ねて攻撃をよける。
《使徒》がこちらに構っているあいだに、綾波がスマッシュホークを構えて突進していた。
すさまじい速さで、巨大質量がたたき込まれる。
が、次の瞬間スマッシュホークは折れていた。そして、振り向いた《使徒》の眼から、レーザーが放たれた。
虚をつかれたのか、《零号機》の右腕が根本から一撃で吹き飛ばされていた。
綾波の、押し殺された苦痛の声が、回線から聞こえてきた。
「綾波っ」
叫びながら、《初号機》を走らせて、《使徒》のコアを蹴り飛ばす。がきっという、固いものを蹴り飛ばしたような感覚のあと、わずかに《使徒》がよろめいた。
「ちくしょうっ!」
さらに、左腕で顔をつかみながら、パレットガンをコアに押しつけて連射する。
いや、しようとしたときに、《使徒》を押さえつけていた左手が、強烈な熱で吹き飛ばされた。
「くうぁっ」
すさまじい痛みが伝わってくる。直後、手首から先の感覚がなくなった。
発令所で、その部分のシンクロをカットしてくれたからだろう。
「うああああぁ!」
我ながら意味不明の叫びを上げながら、なおも攻撃を仕掛ける。
コアを殴りつけようとして、それがなにか装甲のようなもので覆われていることに気づいた。
これのせいで、零距離での射撃になんの影響も受けなかったのだろう。そして、惣流もこれにだまされたのだと思う。
《零号機》の綾波が、片腕で《使徒》の背後から、押さえ込むような仕草をみせた。
《使徒》は眼からの交戦で攻撃を仕掛けようと、振り向く。
パレットガンを投げ捨てて、それを阻止しようともう一度つかみかかる。
そのとき、こんどは足に激痛がはしった。
なにがどうしたのか、理解できなかった。ただ、《初号機》の左足が、膝のあたりで切断されていた。痛みの感覚から、それがわかった。
目の前では、《使徒》の肩のような部分に、灰色の板が折り込まれていた。
いままで見せなかった、近接用の武器らしい。
少しは余裕がなくなってきたということかもしれないけれど、これ以上追いつめるのは無理だ……
わずかな絶望感。
その一瞬にそれは起こった。
《シンジ君、レイ、離れて!》
上空から、何機ものUNの無人戦闘機が、落下する以上の速度で垂直に移動してきた。
「え?」
その、脈絡のない光景に動きが停止する。
次の瞬間、すさまじい閃光が眼を灼いた。
発令所のホログラフディスプレイは、電磁障害で乱れていた。
UNの無人戦闘機に搭載されたN2爆雷十一機が、一瞬のうちに爆発したためだった。今回の《使徒》のATフィールドは、きわめて強固であった。そのため、《零号機》と《初号機》の二機がかりであっても、接近戦でなければ、《使徒》のATフィールドを中和できるとは限らなかった。
くわえて、《使徒》の強大な戦闘力を考慮したとき、目標を第3新東京市から排除するのは、実質的に不可能だった。
そのため、シェルターに避難している市民への被害も、エヴァ二機の損害も無視して、N2爆雷による攻撃を仕掛けたのだ。《使徒》に対してN2爆雷による攻撃が仕掛けられるのはこれが三度目である。一度目、二度目ともに足止めにしかならなかった。今回はどうだろう。
「目標のATフィールドは?」
乾いた唇をなめて、ミサトはマコトに訊ねた。
「爆発時には確実に中和されています」
「エヴァ各機の被害は?」
「零号機、左腕損失。N2爆雷の直撃によって、装甲の82%は融解。初号機、左腕、及び左脚消失。爆発の瞬間に回避行動を取っていたため、N2爆雷による損害は《零号機》ほどではありませんが、やはり装甲の23%が融解しています。また、パイロットのファースト・チルドレン、サード・チルドレン、両名の生存を確認」
こちらはマヤの報告であった。
「実質、壊滅ね……」
ミサトの顔は蒼白に近い。
もはや、使徒に対する迎撃手段は残されていなかった。これで《使徒》が健在ならば、本部の爆破も考えなくてはならないだろう。
「エヴァの損害がそこまで少ないなんて……」
リツコは吐息を漏らした。
「この分だと……」
ミサトがくってかかるような姿勢を取りかけたその瞬間。
「ば……爆心地に高エネルギー反応!」
マコトが震えた声で報告した。
「碇、どうする」
「ロンギヌスの槍の回収、急ぐべきだったか……」
机の上で手を組むいつもの姿勢のまま、ゲンドウは冬月に応じた。
「いまさら悔やんでも遅いだろう」
苦々しく冬月は応える。
ミサトは回復した爆心地の映像を見た。
使徒は確かに被害を受けてはいる。が、活動停止にはほど遠い。
「UNに要請! N2爆雷、ありったけを目標にぶち込んで!」
「ですが、次弾以降が到着するのは、早くても三十分後です」
それだけ余裕があれば、《使徒》はネルフ本部に再度侵入し、サードインパクトを引き起こせるだろう。
リツコは苦々しくいった。
「N2爆雷より強力な爆発力があれば……」
ウィンドウをひとつ呼び出して、《初号機》の損害をチェックする。
《使徒》に吹き飛ばされた手首と足。そして、N2爆雷による熱と衝撃波による損壊。
戦闘力は、皆無といっていいだろう。
離れたところにうずくまっている《零号機》の状況は、もっとひどかった。
青かった特殊装甲のほとんどが、融解して、無惨なぼろ切れのようになっている。
「綾波っ」
《零号機》のエントリープラグを写したカメラのなかでは、綾波が自分を抱くような格好でうずくまっていた。
声に反応はない。
心臓が飛び跳ねるような恐怖を感じた。鷲掴みにされるような、といいかえてもいい。
「綾波!?」
もう一度呼びかける。
ようやく、綾波は身じろぎをした。
LCLのなかでなければ、吐息を漏らしているところだ。
《……碇、君?》
全身がひどく痛むのだろう。形のよい眉をわずかにゆがめつつ、綾波はインダクションレバーに手を伸ばした。
「……大丈夫?」
「ええ」
揺るぎのない返事だった。けれど、押し隠された痛みは、確かに伝わってきた。
シンクロしたまま、あの爆風に身をさらしたのだから。
そこで気づく。
なんで《初号機》はこんなところにいるんだろう。
ミサトさんが離れるように叫んだあと、よけるまもなく爆発に巻き込まれたはずなのに。
……そうだ、《使徒》は!?
《使徒》の存在を思い出す。そして、慌てて周囲を見渡した。
そして、慄然とした。
十メートル以上もくぼんだクレーターの中心で、《使徒》はゆっくりと身を起こしているところだった。《零号機》がいるのが、そのクレーターの縁だった。
「綾波、とにかく、下がって……」
そう綾波に声を投げかけながら、《初号機》の体勢を整えようとする。
けれど、片足の、膝から下を失っていては無理だった。
発令所との回線からは、赤木博士の《より強力な爆発力があれば》というつぶやきが聞こえた。
そんな手段があれば、とっくに実行してるよ。
パレットガンは、爆発で消えてしまっていた。肩のウェポンラックのプログナイフを取り出そうとしたけれど、口の部分が溶けていて、取り出せそうもなかった。
それでも、《使徒》の注意がそれているいまが、多分最後のチャンスだった。
「綾波」
綾波に呼びかける。
「綾波は、撤退して……」
「……碇君は?」
それには答えない。答えられなかった。
「早く!」
《零号機》が立ち上がろうとしているのが見えた。けれど、損害がよほど大きいのか、立ち上がることさえままならない。
「碇君」
綾波からの回線が開いた。
「綾波! 早く逃げて……」
「ごめんなさい」
綾波はまくしたてる台詞をふさいでいった。
「え?」
綾波は微笑んだ。
透き通った微笑みだった。
そして、こんなときに似つかわしくない言葉をもらした。
「西瓜、食べたかった……」
「綾波?」
レイの瞳が、微かに潤んでいるようだった。泣いていたとしても、LCLのなかではわかるはずもないけれど、綾波は確かに泣いていた。
綾波の見せる、はじめての涙。
微笑みは何度か見たけれど、涙を見るのははじめてだった。
「綾波?」
「……ごめんなさい……さよなら……碇君……」
そういいながら、綾波は確かに微笑んでいた……涙とともに。
《零号機》は《使徒》に向けて歩き出した。
「さよ、なら……!?」
インダクションレバーを思いっきり引っぱる。
「動け! 動け! 動けぇ!」
絶叫したけれど、《初号機》は動いてくれなかった。
「なんで動かないんだよ! いま動かなきゃ、綾波を助けなきゃ、綾波が死んじゃ、なんにもならないんだよ!!」
必死にレバーを引っぱる。
けれど、《初号機》は動こうともしなかった。
なんでだよ! どうしてだよ!
モニター上では、迫り来る《使徒》に《零号機》が、綾波が組みついていた。
零号機とつながった回線のウィンドウでは、綾波が微笑んでいる。
《ATフィールド、反転!》
《どういうこと……? まさか、自爆する気!? やめなさい、レイ!》
《いかん、レイ!》
意味のない言葉の羅列。
そんなことはいいんだよっ!
「綾波っ!!」
綾波、なにを……!?
「……碇君……わたしのこと……」
《零号機》の姿が歪んでいく。言葉の途中で回線が切れて綾波の微笑みが見えなくなる。
そして。
視界すべてが光に包まれた。
ごうごうと音を立てて、零号機の爆発によるクレーターに、芦ノ湖から水が注いでいた。
防護服に身を包んだリツコは、楽しげな笑みを浮かべながら歩いていた。
ヘルメットにつつまれているおかげで、周囲の人間に、その笑みは見えなかった。
リツコたちの目的地は、できあがったばかりの湖岸に流れ着いた、零号機のエントリープラグ、その残骸である。その処理が任務だった。
やがて、リツコたちは、ロープで立入禁止の結界が作られ、銃を構えた防護服が警戒している場所にたどり着いた。
その奥には、黒ずみ、熱で歪み、半ば融解している筒状の物体が転がっていた。爆発の衝撃か、ところどころひび割れ、そして穴が開いてさえいた。万にひとつも、なかに生存者がいることはないだろう。
近くに立っていた男が、リツコに気づいて敬礼をした。
「赤木博士」
リツコは頷くと、プラグにあいた穴からなかをのぞき込んだ。
なかは真っ黒だった。シートとおぼしきものの周囲には、炭化した何かが、周りよりも多くこびりついている。
リツコはスタッフに背を向けたまま唇を歪めた。しばらく間をおいてから、表情を消して振り返った。
「このことは極秘とします」
冷徹に言葉を続ける。
「プラグは回収。秘密裏に廃棄して」
「了解」
男は表情も変えずに敬礼を返した。
背を向けかけたリツコは、炭のなかに光るものがあることに気づいた。それを拾い上げる。
それは、熱で歪み、そして色褪せた、銀色の十字架のペンダントだった。
ネルフ内をつないでいる内線を取ってひとことふたこと話したあと、マコトは二度、三度と深呼吸をした。そして、上司である葛城ミサトが、黙々と書類を片づけているデスクの前に立った。
ミサトは、完全に表情を消していた。
普段の闊達さも、あるいは上に立つものとしての威厳もない。
ただ、静かに、機械的に書類を片づけているだけだった。
《零号機》の自爆によって、第3新東京市は壊滅的な被害を受けていた。まず、市内のおよそ三分の二は、爆風で吹き飛ばされ、かつ、富士五湖と連結した巨大な湖となっていた。
その部分にあったシェルターは、爆風に四散し、あるいは水没した。
事実上、都市機能は崩壊したといってよいだろう。そして、これはまた、対《使徒》戦における最大の被害でもあった。
ネルフにとっては、迎撃都市機能の低下が問題であって、民間補償は日本政府の問題として無視できた。
それ以上の問題は、実働しているエヴァンゲリオン三機のうちの一機を失ったことであり、パイロットをひとり失い、残るふたりも精神面のトラブルから戦力外となったことである。
すなわち、戦力を完全に失ったのだ。
「サード・チルドレンが意識を取り戻したそうです」
マコトは、簡潔に報告した。
「そう……」
レイが自爆したあとシンジは半狂乱になり、ミサトの命令によってLCLの圧縮濃度を限界に引き上げることで気絶させられていた。そして、そのまま病院に収容されていたのである。
「ね、日向君……」
「……はい」
想像どおりとはいえ、ミサトらしさの欠けた虚脱しきった声に、マコトは無性に苦しくなった。
「わたし、あの子に……シンジ君にあって、なにをいえばいいんだろうね……」
「葛城さん……」
「あの子たちを犠牲にして……この街の……シェルターで怯えていた、罪のない人を巻き込んででも、《使徒》を撃退する……。そう決めたのはわたしなのにね」
マコトはうつむき加減に話すミサトを見下ろしながら、ゆっくりと言葉を探していた。
が、マコトがなにかをいう前に、ミサトは立ち上がっていた。
「ごめん。愚痴を聞かせて。ここ、しばらく任せるわね」
ミサトはゆっくりと部屋を出ていった。
マコトはその背中を見送りながら、そっとため息をついた。
長い夢を見ていた。
その夢のなかで、綾波と結婚し、そして、子供がふたり産まれた。
幸せな生活だった。
泣きたくなるほど、幸せな生活だった。
あの生活が送れるのなら、なんだって差し出しただろう。
けれど、絶対にかなうことのない、夢なんだ……
ぼんやりと天井を眺める。
数日前にも、こうやって入院していた。
あのときには、ずっと綾波がついていてくれたのに、いま、この部屋には誰もいない。
そのことが、綾波が死んだことを、如実に教えてくれている気がした。
涙は出なかった。
なにも感じなかった。
哀しいとも思わなかった。
それをなんとも思わなかった。
枕元のテーブルには、誰がおいたのか、花瓶が置いてあった。
生けられている花からは、においが感じられない。そのくせ、妙に色鮮やかだった。
こんこん。
ドアがノックされる。
「シンジ君、入るわよ」
そういって、ミサトさんが入ってきた。
後ろ手にドアを閉めて、この前綾波が座っていたいすに、ゆっくりと腰を下ろした。
「爆心地は、いまリツコが調査しているわ」
なにも答える気になれなくて、ただ、ぼんやりと天井を見つめる。
「ごめんね、シンジ君……」
そういって、ミサトさんはうつむいた。
廊下を、医者か看護婦が、かつかつと靴音を響かせて通っていった。
「ミサトさん……。出ないんだ、涙……」
ようやく発する気になった言葉は、抜け殻みたいに、なにもこもらない、平板なものだった。
「こんなに悲しいことなんて無いはずなのに……何でだろ……泣きたくてたまらないのに、どうしても泣けないんだ……」
「シンジ君……」
ミサトさんが、また名前を呼んだ。けれど、なにもいう言葉が見つからないのか、そのまま沈黙する。
《使徒》を撃退するために、自らの命を捨てる。それが綾波の選択だ。
けれど、なによりも綾波に生きていて欲しかった。
廊下が騒がしくなった。
遠くから、誰かが走ってくる。
その靴音は、この部屋に近づいてきて、そして、そのままの勢いで扉を開けると入ってきた。
入ってきたのは、オペレーターの日向さんだった。
全力で駆けてきたことを示すように、制服の襟口が、汗で濡れて変色して見えた。けれど、なにを慌てているんだろうとさえ思わなかった。
その日向さんがぜいぜいと息をもらしながら、唇を動かした。あまりに息が切れていて、声が出ていない。
「どうしたのよ、日向君……?」
ミサトさんも、当惑したように問いかけた。
「赤木博士から……連絡が……」
「リツコから?」
「レイちゃんが……保護されたって……」
綾波が……生きてる?
本当に? 生きてる?
「奇跡的に軽傷だったって……」
ふらつきながらも、ベッドから這い出る。
「いつもの病室だ。行ってあげな、シンジ君」
「はい!」
スリッパに足をつっこむのももどかしく、病室を飛び出す。
飛び出しながら感じたのは、ラベンダーの香りだった。
静かな病院の回廊。足下で、サンダルがぱたぱたと騒がしく音を立てている。
けど、そんなことを気にしてなんていられなかった。
綾波が生きていた。
一度失われたと思ったものが、戻ってくる。
例えるなら、モノクロの画像が、カラーになったような、そんな強烈な喜びだった。
シュッ!
綾波の病室のドアが、軽い空気音とともにひらいた。
そんな一秒に満たないような時間さえ、ひどくもどかしく、苦しく感じる。
「綾……」
叫びかけた唇を、慌ててとじ合わせる。
そこにいたのは、綾波だけじゃなかった。
医師、そして黒い制服を着た、ひげの男。ネルフの司令、六分儀ゲンドウ……
司令は、ひどくゆっくりとした動作で振り向いた。いつもは不機嫌そうに真一文字に結ばれている唇が、かすかな笑みをかたどっていた。そして、それが嗤笑に歪む。
「サード・チルドレンか……」
そういうと、司令は綾波に視線を向けていった。
「レイ。これがサード・チルドレンだ」
奇妙ないい回しだった。司令から他人呼ばわりされることにではない。そんなことは、慣れている。ただ、その言葉の内容が問題だった。
けれど、このときにはそれに気づかなかった。ただ、不愉快な男の、不愉快な声を聞いた。ただ、それだけだった。
綾波の方を見る。
制服を着て、片手をつっていた。
「よかった。綾波が無事で……」
ガーゼを当てられていない方の瞳が、静かにこちらに向けられた。静かな、けれど、見慣れない色の瞳だった。
ルビーのような色合いが変わっているわけじゃない。ただ、そこに浮かんでいる感情が違った。いや、それさえも正しくはない。
なにも浮かんでいなかった。
「……綾、波……?」
綾波の瞳は、静けさを保ったまま揺らがない。
「……どう、したのさ?」
綾波の表情が、微妙に揺らいだ。
けれど、その表情は、今までに見たどの表情とも違った。
異質で、違和感しか感じない……
そして、さらなる沈黙のあと、綾波はゆっくりと口を開いた。
綾波らしい声で。
けれど、なんの感情も読みとれない声で。
「……あなた、誰?」
世界が静止した。
言葉が理解できない。
耳に入ってきても、言葉の表面を理解しても、それが自分のものとならない。そんな台詞だった。
「綾……波……? なにいってるのさ? ぼくだよ。碇シンジだよ……」
息が苦しい。
頭のなかで、血管が暴れ回っている。
視界が、ぐるぐると回転している。
「知らないわ。たぶん、わたしは三人目だと思うから」
「……三人目?」
言葉を咀嚼できなくて、ただオウム返しになる。
なにをいっているんだい、綾波?
「レイ」
そのとき、しばらく沈黙していた男が言葉を挟んだ。
ぐねぐねとうねる回廊を、綾波が歩いている。
歩くリズムにも、どこか違和感があった。つい半日前に、ジオフロント内を一緒に歩いていたときには感じなかった、なじまない感覚だ。
数歩前を行く、綾波の背を見る。
「髪の毛、少し切ったんだ……」
ふと、言葉が漏れる。
「きっと、あの爆発で、少し焦げて……だから……そうだろ……?」
けれど、応えはない。
「約束通り……西瓜、みんなと一緒に食べられるね」
わき上がってくる言葉。そして想い。
けれど、やはり綾波は応えない。
こつり、こつり、と、確実な歩調で綾波は歩き続け、そして立ち止まった。
行き止まりみたいだった。
そこで、綾波は壁のパネルを操作した。すると、音もなく扉が開いた。
「乗って」
エレベーターだった。乗り込むと、綾波は下への矢印のついたボタンを押した。
効果をはじめた合図に、軽い浮遊感があった。
パネル近くにたつ綾波を斜め後ろから眺める。さっきから、ほとんどこの位置関係のままだった。
どうしてか、綾波の横に並べない……
妙に光沢のある黒い壁面に、綾波の顔が映っている。
「ね……ぼくのこと、覚えて、ないの……?」
久しぶりに答えが返ってきた。
「知らないの。前にもいったはずでしょう」
揺らぎを感じさせない。
そう、綾波の動作からは、なんの癖というものも感じられなかった。
それが哀しかった。
「じゃあ、さ」
つばを飲み込む。
何度も、何度もためらった、たぶん問うべきではない言葉。この答えを知ることが、ひどく怖い。
「病院でいったろ……三人目って……」
「ええ」
けれど、綾波の答える速度からは、何ら逡巡というものが感じられなかった。
「ついたわ」
答える前に、どうやら目的地にたどり着いたようだ。
「ここは……」
突如、異様に開けた空間に出た。
円形の広間は、たぶん、ミサトさんのマンションの部屋すべてよりも広い。地下にこんな広い空間があることが、不思議で仕方がない。いったい、ネルフはなんのためにこんなところを作ったんだろう。
「ここがわたしの生まれ、そして育った部屋」
「綾波が、生まれた……?」
こんなところで?
訝しむ答えに、綾波は制服のポケットから小さなリモコンのような装置を取り出した。そして、なんのためらいも干渉も見せないままにそのスイッチを押す。
機械音と共に、周囲すべての壁から暖色系の光が漏れはじめた。否、壁と思っていた部分は、シャッターだったのだろう。それが上がっていって、ガラスが露わになっていく。
そのガラス越しに、赤ともオレンジともつかない光が放たれている。
シャッターがあがっていき、やがて、細いきれいな足が見えてきた。それは、床についていない。
「浮いてる……?」
そして理解した。これは、LCLの水槽なんだと。
その足は、周囲の水槽から、無数に見えた。いったい、何人の人間が、LCLのなかにいるんだろう。
ゆっくりと、緞帳のようなシャッターがあがっていくにつれて、そこに浮かんでいるのが、すべて全裸の女性のものだとわかった。
顔が火照る。
そんな余裕があることに、その一瞬だけほっとした。
けれど、その女性の顔を見たときには、そんな気持ちはすべて吹き飛んでいた。
「う、嘘……だろ……」
へたり込んでしまった。
体中から力が抜けて、動けない。
「わたしの姉妹たちよ」
水槽に浮かんでいるのは、すべて綾波だった。
綾波と、寸分違わない、けれど、生きているとはいえない躰。
瞳はうつろで、口元には、痴呆めいた笑みを浮かべている。
「彼女たちは、ここでわたしが死ぬのを待っているわ」
「死ぬの、を……」
「綾波レイをかたどった肉体は無数に作られたわ。けれど、そこに宿る魂はただ一つ。いま、わたしのもとにあるものだけ。だから、彼女たちは、わたしが死ぬまではただの抜け殻なのよ」
「嘘だ。嘘だ……嘘だっ!」
ひび割れた悲鳴。
そんなの、嘘だっ!
「事実よ」
かたり、と足音がした。
この声は、赤木博士のもの。
部屋の奥にあるもう一つの扉から、白衣姿の赤木博士が、微笑みをたたえてゆっくりと近づいてくる。
「ここに浮かんでいるものは、すべて綾波レイの予備の躰。代用品。ネルフにとって、あの人にとって必要なのは、この肉体と魂をもつ人形なのよ」
「ひっ」
なぜかその姿が怖くて、しりもちをついたまま後ずさる。
「あなたの知っている綾波レイは死んだわ。そこにいる綾波レイは、姿形が同じだけの、別人よ。四十人姉妹の三女といってもいいかもしれないわね」
「嘘だ……そんなの、デタラメだっ!」
壁際に追いつめられる。
赤いルージュをひいた唇が斜めになる。
怖い。
「証拠を、シンジ君がよく知っている証拠を見せて上げるわ」
赤木博士は目の前で膝をついた。白衣のポケットから、なにかを取り出すと、微笑を浮かべたまま、それを中にかざす。
鈍い輝きを放つ金属の塊。
見覚えがあった。
つい最近綾波に渡した、母さんの形見のペンダント。それが、いびつに歪んで、あちらこちら黒ずんでいた。
チェーンは、どこにもない。
「ふたりめが、エントリープラグのなかにまで持ち込んでいたものでしょう? ペンダントがこうなって、生きていられると思う?」
ペンダントを受け取って握りしめる。
あの爆発のすさまじさを物語るかのように、ねじくれ、そして歪んでいた。
「……綾波、綾波……」
そのペンダントをきつく握りしめる。
「もう帰っていいわよ、レイ」
「はい」
綾波レイの形をまねた、見知らぬ少女が背後のエレベーターに去っていく。
けれど、それをひきとめる気力も残っていない。
このあと、彼女にどう接すればいいんだろう。どう振る舞えばいいんだろう。ミサトさんは、加持さんは、惣流は、このことを知ってるんだろうか。
「シンジ君。あなたも帰りなさい」
赤木博士は、無理矢理手首をつかんで引きずり上げる。
「ここにいてよい時間は終わりよ」
そして、エレベーターの方に、そっと押しやった。
帰って、なにをするんだろう。
そもそも、どこに帰るんだろう。
ミサトさんのマンション?
もう、あそこには帰りたくない……あの少女がいるから。もう……帰る場所じゃない。
「そうそう、シンジ君」
赤木博士は、不意に呼び止めると、これまで見たなかで、もっともすごみのある微笑を浮かべていった。
「憎いのなら、あのレイを、これから生まれてくるレイたちを、殺してもかまわないのよ。いくらでも予備はいるのだから」
リツコは、うつろな表情で立ち去っていくシンジの背中を見送った。
それが消えたのち、つい先ほどレイが用いたものによく似たリモコンを取り出した。
「レイを殺しなさい、シンジ君」
少女がハミングするような、うわついた声だった。
あるいは、熱病に浮かされた、狂気の声にも聞こえる。
「レイを殺しなさい、シンジ君」
うわずったささやき。
リツコがリモコンのボタンを押す。
すると、LCLの色がどす黒く変化した。
そして、水槽に漂っていた綾波レイたちが、空虚な笑みのまま、崩れていった。
「あなたがレイを殺せば、それで終わりよ!」
彼女の哄笑は、うつろな部屋を憎悪で禍々しく満たしていった。
SNOWです。
予定よりずいぶん遅れてですが、B-partが完成しました。ご笑覧ください。
今回の話ですが、ここでこの事件を起こすのは、予定通りでした。
いささか早めと思う方もいらっしゃるとは思いますが、彼女についてじっくりと描こうとした場合、テレビ本編と同じあたりでこの事件を起こすのは、時間的にやや遅すぎると考えたためです(むろん、後方に話を引き延ばすという手法もありますが)。
あまり書くこと(書けること)がありませんので、このあたりで。
ではまた。