吸い込まれるような真紅の瞳に、ネオンテトラの小さな鱗の反射する、微かな煌きが映り込む。
NERV本部の西エントランスホール。必要以上にだだっ広い空間の片隅で、シンジとレイはヒマを持て余していた。
シンクロテストの後、『話があるから待ってて』とミサトに言われてから40分。いつまで経っても当の本人は姿を現さない。
シンジのSDATは3回目のリバース再生中にバッテリーが切れた。レイも持っていた本を読みおわってしまい、今はベンチの脇にある熱帯魚の水槽に額をくっつけている。
「あ、あのさ・・・」
静寂に耐え切れなくなってシンジが先に音を上げる。
「何?」
「あ、綾波って、熱帯魚、好きなの?」
「どうしてそう思うの?」
「いや、先刻からずうっとその水槽眺めてるから・・・熱帯魚、好きなのかなあって・・・」
「違うわ」
「・・・そう、なんだ・・・」
話の糸口をぷっつり切られてシンジはアセる。
「…碇君」
「な、何?」
「なんでこの魚達は水槽の中にいるの?」
「なんでって、飼ってるからじゃないのかな、鑑賞用に・・・」
「そう・・・」
(水槽。中を水で満たすためのもの、水と空気を隔てるもの・・・)
(この水槽の中だけがこの魚達の世界、・・・私と同じ・・・)
「幸せなのかしら?」
「えっ?」
「この魚達、この水槽の中だけで生きていて、幸せなのかしら?」
「ど、どうなんだろうね・・・」
「この水槽の中しか知らない、外の世界を知らない、それは幸せなのかしら?」
「わからない。でもその魚、外じゃ生きられないんだ。・・・元はアマゾン原産の魚なんだけど、水温とかPHとか、日本の河や湖のものとは合わないんだって。それに、セカンドインパクトで野生のものは絶滅しちゃって、もういないんだ。」
(外の世界を知らない、私)
「じゃあ、どうしてここにいるの?」
「たぶん、NERVの誰かが熱帯魚屋さんで買ってきたんじゃないかな。待合室とかアトリウムにこういうの置くのって、昔流行ったらしいから」
「熱帯魚屋?」
「うん。こういう綺麗で珍しい魚を育てて、売ってるんだ。確かうちの近くにも一軒あったよ」
「生き物を、買うの?」
「えっ?」
「命って、お金で買えるの?」
レイのこの素朴な疑問はシンジを詰まらせた。
現実には資本主義経済を基盤にする以上、全てのものは金銭で換算できる事になっている。例外は人の命だが、それだって生きている間だけのこと。誰かの責任で人が死ねば、遺族の元にはそれなりの金額が転がり込む。臓器密売なんて商売が裏の世界でまかり通るのもそのせいだ。
だがその一方で人の、人間としての部分がモラルを振りかざす。いくら金を積まれたところで、失われた命は帰ってこないし、人の一生を自由にする権利は、その人自身しか持っていないのだ。
何よりシンジにとって、紅い眼をしたこの少女はあまりに儚すぎた。任務のためなら喜んで死を選びかねない彼女に、自分の命の重さを、自分の命の価値をもっと分かってもらいたかった。
「いや、それはね、命を売り買いしてるんじゃなくて・・・ほら、そういう魚って世話をするのが大変だから、卵から孵すのとかって大変なんだよ。だから上手な人がある程度まで育てて、その手間賃としてお金を払うんじゃないかな。お金を払う人は、その魚を育てる権利を売ってもらってるんだよ。」
「そ、そうだよ、お金を払うってのは、買うってことじゃなくて、面倒をみてあげるってことの意思表示の表われなんだよ」
シンジ自身、小さい頃に金魚を死なせたことがある。
小学校の理科の時間に『おうちで飼うように』と水槽ごと渡され、大切に抱えて帰った。毎日餌をやり、水草に光を当て、水が汚れれば汲み置きをしておいた水と交換した。
ある時身体を冷やして風邪を引き、三日間寝込んだ。起きたときには金魚は皆、腹を上にして浮かんでいた。・・・日向に放置された水槽の水は、ぬるま湯になっていた。
シンジは裏庭に金魚を埋め、次の日に水槽を捨てた。
シンジの強い口調にレイの頭がぴくんと跳ね上がる。振り向くとシンジは両手を握り締めて床のタイルを睨み付けていた。
「人は自分より弱い命を、自分達の勝手な都合でやり取りするんだ。生かすも殺すもその人次第。その相手の気持ちや心なんてお構いなしに」
シンジの脳裏には、逆光に照らされて眼鏡だけがギラついていた、父ゲンドウの姿を思い起こしていた。
自分の都合でしかものを考えない、彼の心などお構いなしに物事を推し進める父の姿を。
「人は命をモノ扱いするんだ」
シンジが吐き捨てるように言う。
二人は奇しくも同じ相手を心に思い描いていた。もっとも、その思考の向きは違っていたが。
「あらシンジ君、どうしたの?」
振り向くとビニール袋をぶら下げた伊吹マヤが後ろに立っていた。
「マヤさん!?」
「二人とも水槽眺めてたのかしら?」
マヤは二人に向かって笑いかけると、ビニール袋をガサゴソやって、中から何かテスターのようなものを取り出した。
「何ですかそれ?」
「水温、PH、アンモニア濃度、その他もろもろ水質を測る機械よ」
そういってマヤはテスターの先を水槽に突っ込み、データをメモり始める。
「ふーん・・・おおむね良好ね。ちょっとカルシウムが足りないかな」
独り言を呟きながら袋から薬ビンを取り出し、薬液をスポイトで水槽に垂らす。更に小さなタッパウェアを取り出すと、中の茶色いペーストを丸めて水槽に投げ込んでいく。すると水槽じゅうの魚がワッと集まり、我先にペーストを突付き始めた。
「この水槽の管理ってマヤさんがやってたんですか?」
「そうよ。オートフィーダや浄化循環システムが付いてるけど、やっぱり定期的に診てあげないとね。」
「欺瞞じゃないの?」
「自分が命を握っている、その満足感を感じるための欺瞞行為ではないの?」
レイはもう一度尋ねる。今度はもっと冷たい声で。
マヤは一瞬訝しげな顔を見せたが、シンジが横から説明したので合点の行った顔になる。
「欺瞞、確かにそうかもしれないわね」
マヤは腕組みをして思案するフリをする。
「他の命を自分の都合でどうこうしようって言うのは、確かに傲慢な考えかもしれないわ」
マヤは悲しげな瞳で、二人を見る。大人の都合でむちゃくちゃに振り回されているこの子供達にとって、こんな些細な疑問でも今の自分達と結びつく重大な問題提起なのだろう。特に、彼女にとっては・・・。
「でもね、それだけじゃないのよ」
そう言ってマヤは水槽の前に顔を近づける。すると、今まで外の世界なぞお構いなしに悠々と泳いでいた魚が、するするとマヤの方に寄ってくる。
上下に引き伸ばされたような、三角形をしたその魚は、マヤが右へ行くと右へ、左に行くと左へ、白黒ストライプの身体を翻してマヤの後を追いかける。
「この魚はエンゼルフィッシュって言ってね、かなり頭がいいの。いつも餌をくれる人間を覚えて寄ってくるのよ」
マヤは今度はシンジの頭を掴むと、水槽の前に持ってくる。エンゼルフィッシュはしばらくシンジの顔を見詰めていたが「なんだこいつは」とでも言うように、さっさと離れていってしまった。
「ふふっ。嫌われたわね、シンジ君」
魚に馬鹿にされたみたいでシンジは少し面白くない。
「レイちゃん、人差し指出して」
レイの立てた人差し指を水槽に押し付ける。すると今度は水槽の底から斑模様の魚が上がってくる。寸詰まりのドジョウのようなその魚は、どこかトボけた、愛敬のある顔をしている。
その魚はガラスごしにレイの指を突っつき、体を擦り付けるような素振りを見せる。
「コリドラスって言ってね、この水槽の掃除係なの。初めてこの子を見たときには、皮膚病にかかってて体中ボロボロだったわ。トリートメントタンクに移して治療したの。二ヶ月かかったけど、今はこのとおり元気よ。それ以来、人馴れし過ぎちゃってずっとこんな調子ね」
マヤが懐かしそうに話す間も、レイはコリドラスのダンスに魅入っていた。
「確かに私はこの子達の命を握っているわ。でもこの子達は私の持ち物じゃなくて私の友達よ」
レイはマヤの方を振り返る。瞳の色が幾分明るくなったような気がする。
「先輩、・・・赤木博士ね。あの人って無類の猫好きだけど、決して猫自身の生き方に干渉しようとはしないの。猫って気まぐれだから時々ふらっといなくなるんですって、でも博士は放っときっぱなし。で、帰ってきたらいつもよりも奮発して御飯をあげるの『無事に帰ってきてくれたから』って。猫の方も分かってるみたいで、帰ってきた日は博士の側でしおらしくしてるみたいよ」
「私たちは確かに生き物をお金でやり取りしてるわ、それはとても傲慢なこと。でも生き物を飼うというのは、相手を縛って支配下に置くことではないわ」
「そして、餌をやるだけや、頭を撫でてやることだけが『飼う』ことではないわ。それを忘れなければ、相手は必ず答えを返してくれる筈よ」
レイはしばしマヤの顔を見詰めていたが、やがてこっくりとうなずいた。
「でも、結局この魚はこの中で一生過ごす訳でしょ、自分で決めた訳じゃないのに・・・」
陰気な雰囲気は、レイから抜け出すと今度はシンジに乗り移った。
「そうね。そこは本当に人間の身勝手なところね」
マヤはあっさり認める。
「この子達はこの水槽の中しか知らない可哀想な子よ。だから私はこの子達が少しでも快適に生きられるように努力するわ。私はこの子達に元気で生きていて欲しいもの。それが生き物を飼う者の当然の義務よね。せめてこの子達とも話が出来れば、ホントの願いが分かるのにね」
「・・・はなし?」
「そう、話が出来れば、お互いもっとよく分かり合える。それを考えたら、言葉でお互いの気持ちを伝え合える私達って、すごく恵まれてると思わない?」
「ごっめーん。シンちゃん、レイ、おっ待たせー」
軽薄そうな声と共にエレベーターからミサトが駆けてくる。
「あら、マヤじゃない、リツコが探してたわよ」
「熱帯魚の餌やりに来てたんです。シンジ君達と話し込んじゃって」
「この水槽の管理してたのマヤだったんだ。ずいぶん綺麗になったわよねー、アタシが初めに見た頃なんか煙草の吸い殻まで浮いてたんだもの」
「ええっ?そんなにひどかったんですか?」
「そうよ。放り込んだ奴はその場でアタシが放り投げてやったけど」
「ふーん。あ、そうだ、話って何だったんですか?」
「あ、そうそう、これなのよ」
そう言ってミサトはいきなり自分のボディスーツの前をはだける。シンジは慌てて後ろを向き、マヤは耳まで真っ赤になり、レイは器用に眉だけ使って怪訝な顔を作る。
「なっ!何やってんですかミサトさんっ!!」
「かっ、葛城さん、不潔です!!」
「いやーね、なに変な想像してんのよ二人とも」
うろたえる二人を尻目に、ミサトはあくまでマイペース。その豊満な胸元に手を突っ込んで何やらゴソゴソやっている。
「あっ、コラ、暴れるな、いやん、ダメダメ、ああん、どこ触ってんのよぅ」
ミサトの艶っぽい声にシンジは鼻血が出そうになる。なまじっか見えてないだけに想像がたくましくなってしまう。マヤも顔を両手で覆っているが、指の間からしっかり見ている。
「ほら、これなのよ」
ミサトが手に乗せているのはテニスボール大の茶色い毛玉だった。
ミサトがつつくと毛玉はもぞもぞと身を捩り、小さな鼻をひくひくさせて辺りを見回す。
驚嘆すべきはこんなものを胸の谷間に押し込んでおくミサトの神経。よく窒息死しなかったもんである。(う、うらやましい)
「お昼に知り合いに会ったらいきなりこの子を渡されて『これよろしく』だって」
ミサトはこれ以上無いほどあっけらかんとしている。
「・・・で、ほいほい受け取ったんですか?」
対するシンジの視線は冷たい。さっきいい話を聞いたばかりなのに、これではブチ壊しではないか。
「急に転勤が決まって仕方が無かったみたいなの。捨てたりペットショップに突っ返すよりは、信頼できる相手に貰って欲しいって」
ミサトが『信頼できる相手』と言うのは何か間違っているような気がするが、シンジはこの際それを指摘するのはやめた。
「でも、どうするんですか?うちのマンション、ペット禁止じゃないですけど、きっとペンペンと喧嘩しますよ」
葛城家の愛すべき一員、温泉ペンギンのペンペンは実は縄張り意識が強い。人間相手は問題無いのだが、他の動物が入ってくると全力を以って追い払うのである。この前もベランダに悪戯しに来たカラス相手に、激闘を繰り広げていた。
「私も、NERVの女子寮って生き物御法度なんで…」
マヤが申し訳なさそうに言う。
「あ、綾波!?」
突然のこの申し出にシンジは驚く。およそ俗世の時柄に無頓着なレイがこんな発言をするとは。
「レイ、大丈夫なの?」
シンジからレイの日常生活を聞いているミサトには、この少女に自分以外の存在の面倒がみれるとは到底思えなかった。勿論自分のことは真っ先に棚に上げてある。
「大丈夫です、私のところなら誰にも迷惑が掛かりませんから」
レイは一見落ち着いている様に見えるが、肩に力が入っており、少し早口になっている。もっともそんなことに気付けるのは、普段からよく見ているシンジ位だが。
「そうしましょう、葛城さん」
「マヤ!?」
「レイちゃんなら、しっかり面倒を見てくれます」
さっき肯いたときのレイの顔を思い出し、マヤはそう確信していた。
その後、本部の売店でハムスターを入れる為のバスケットを購入、その足でペットショップに行き、必要なものを揃えた。バスケットをレイが大事そうに抱え、ペットショップの袋はシンジが提げた。そのシンジも、レイの部屋で荷物を広げ、ひとしきり部屋の掃除をしてから帰っていった。
「これからもちょくちょく様子を見にきてもいいかな?」
レイが断る理由はどこにも無かった。
籠の中で新聞紙の切れ端に埋まってごそごそやっているエビちゅ(こういうベッタベタなネーミングはミサトの十八番だが、レイは嫌がらなかった)を見ている内に、すっかり夜も更けてしまった。名残惜しそうに籠を枕元に置くとベッドに横になる。
『生き物を飼うというのは、相手を縛って支配下に置くことではないわ』
(私にとってこの小さな命は、あの人にとっての私とどう違うのだろう)
カーテンの隙間から、月が顔を覗かせていた。
「今日からお前の名前は、綾波 レイだ」
「レ・・・イ・・・?」
「私が自分の娘につけるつもりで考えた名だ」
「・・・名・・・前」
「男だったらシンジ、女だったらレイと名付ける。
ユイと交わした約束だからな」
「レイ・・・私の・・・名前・・・?」
「そうだ。お前の名、私の娘の名だ」
・・・私は誰かの持ち物じゃなかった・・・
・・・あの人は私をモノ扱いしなかった・・・
月明かりの下で、籠の中のエビちゅは気持ち良さそうに眠っていた。
どうも、鳥坂です。
『AQUAZONE』ってご存知ですか?パソコンのデスクトップ上で熱帯魚を飼うソフトなんですけど。
ずいぶん前にやり始めて、ちまちまちまちま世話を焼いていたんですが、つい先日、第一期団塊世代のネオンテトラ達が一斉に大往生を遂げました(T_T) このソフトの魚達って、個体レベルの寿命のズレがほとんど無いんですよ。
水槽の中もすっかり寂しくなりました。
そんな時に思い付いた話です。
ちなみに「この子達、幸せなのかしら?」は水族館に行った時、隣の親子連れのガキンチョが吐いてました。そのパパさん、「毎日御飯が貰えるから幸せだろう」と申しておりました(笑)
ペットを飼うって、それが何であれ難しいですよね(x_x)
SSって、楽しいけど、難しいです。言いたいこと、書ききれなくって。