第4話
更衣室は体育館のすぐ前にあるので、ほどなくして二人は到着してしまう。
アスカとシンジ、更衣室前でしばしのお別れをしなければならない。
「じゃあシンジ、着替え終わったらここで待っててね。」
「うん、わかった。」
「少し時間がかかるから、ちゃんと待ってなさいよ。」
「わかってるよ,じゃあ後でね。」
二人は手が届くぎりぎりまで互いの手を触れ合っていたが、それにも限界がある。
最後にもう一度互いの目を見つめあい何かを確認すると、手を離しドアの中に消えていった。
相手の手のぬくもりは、自分の手に消えずに残っている。
着替え中もアスカは鼻歌交じりで、どことなく嬉しそうだ。
シンジと相合い傘で一緒に下校という乙女心をくすぐるシチュエーションが待ち受けているので当然である。
もちろん、シンジも嬉しさ一杯で急いで制服に着替えていた。
男子たるシンジの方が着替え終るのは早い。
シンジは更衣室のドアの反対側の壁にもたれながら、アスカを待っている。
いつもの癖で、リュックからS−DATを取りだしかけたが、思い直し再びそれをしまい込んだ。
アスカと一緒のこれからは、S−DATの出番も減っていくだろう。
アスカの温もりの残る右手を握りながら、そんなことを考えている。
女子更衣室の扉が開くたびにその女子生徒と目が合い気まずい思いをしていたシンジは、3人目でようやくほっと胸をなで下ろすことができた。
それがアスカだったから。
最初に目が合った時、二人とも思わず微笑んでしまった。
第一中学の制服に身を包んだアスカは、スカートの裾を揺らしながらシンジの前に駆け寄る。
嬉しそうに見つめあう二人。
「シーンジっ,お待たせっ。」
「うん、早かったね。」
「ま、まあね・・・でもシンジ、こんな真ん前でずっと待ってたの?」
「うん・・・、だってアスカとはぐれたくなかったから・・・」
「バカぁ、はぐれるわけないじゃなーい。」
アスカは呆れたという表情を作りながら、シンジの腕に自分の腕を絡める。
そんな表情を作ったところで、自分が幸せを感じているのを隠し通すこと出来ない。
腕を組んだまま、二人は2年A組の下駄箱の方へと歩き出す。
「ほーんとっ、あんな真ん前で待ってるなんて恥ずかしいったらありゃしない」
「いいじゃないか別に・・・恥ずかしかったのはぼくなんだから。」
「だーめぇ、シンジが恥ずかしいってことは、あたしも恥ずかしいんだからぁ!」
「なんだよ・・・・それ・・・」
口を尖がらせたシンジを見てアスカはくすくす笑いをかみ殺す。
「どうしたの?」
「思い出し笑い・・・・さっきのシンジの顔、ほんとに嬉しそうだったもん。」
「しょうがないだろ・・・・、ほんとに嬉しかったんだから・・・・」
「もう・・・ほんとにバカ・・・」
腕にアスカの柔かい膨らみがより一層感じれて、シンジは顔を真っ赤にしてしまう。
そうこうするうちに、二人は下駄箱に到着する。
軒先から見ると雨はもう本降りになっている。
靴に履き替えたアスカが、顔をほころばせながらシンジの元へとやって来る。
「シーンジっ、帰ろっ。」
「う、うん・・・・・」
だが、シンジは泣きそうな表情でアスカをちらりと見て生返事をしただけで、きょろきょろと落ち付きがない。
不思議に思ったアスカは首をかしげる。
「シンジ・・・どうしたの?」
「ないんだ・・・」
「ないって何が?」
「ぼくの傘が・・・」
シンジが指差すかさ立ては空っぽで、一本のかさも置かれてはいなかった。
それを見たアスカの笑顔が幾分曇る。
「えー,何でないのよぉ?」
「そんなのぼくもわかんないよ。今朝確かにこのかさ立てに入れたのに。」
「ちゃんと探したの?」
「探すも何もかさ立てはこことそこしかないんだよ。」
シンジの指差すもう一つのかさ立てにも、かさはない。
アスカの頭に一番信じたくない結論が浮かんでくる。
「ということは・・・,誰かが・・・・盗ったのね。」
「やっぱそうかな。」
「そうよ,誰かが間違えて持っていったなら,似たような傘が残っているはずでしょ?」
「そうだね・・・・ごめん、アスカ。」
シンジは本当に泣きそうである。
自分の傘がないためにアスカを雨に濡らしてしまうかもしれない。
アスカを想うあまり、シンジの気持ちは犯人に対する怒りよりも、自分を責めることに向いてしまっていた。
そんなシンジをアスカは優しく慰める。
「シンジが謝ることじゃないわよ。」
「でも、体育館で練習しようってぼくが言わなければ・・・、その時はまだ雨も小降りだったのに・・・」
「そんなこと言わないで! あたしもシンジが練習しようって言ってくれた時は嬉しかったんだから。」
「ほんとに?」
シンジが心配そうに自分を見つめるので、アスカは最高の笑顔で応える。
「あたりまえでしょー!?」
優しい眼差しが自分に向けられている。
アスカの瞳の奥を見て、シンジはようやく落ち着きを取り戻すことができた。
「そうだね、悪いのは傘を盗んだ人だよね・・・・」
「そうよっ、シンジは悪くないの。」
「うん。」
アスカの大好きな笑顔とともにシンジは大きくうなずく。
「あーあっ、せっかくシンジと相合い傘で帰れると思ったのにっ!もうっ、 見つけたらただじゃおかないんだからっ!」
楽しみにしていた相合い傘を邪魔されたアスカは、手を頭の後ろで組み軒下から恨めし気に空を見上げる。
この様子ではほんとうに犯人はただでは済みそうにない。
シンジも空を見上げながらぽつりと呟く。
「ぼくも、アスカと相合い傘したかったな・・・」
「!?・・・・じゃあさっ、今度は絶対やろっ、ねっ、シンジっ。」
アスカはくるっと振り向くと両手でシンジの腕を取り、左右に揺らす。
さっきまで膨れっ面だったが、今は微笑みをたたえた青い瞳が、上目遣いにシンジの目を覗き込んでいる。
ドキッ
こんな風にアスカにお願いされたら、断ることなんてできやしない。
「う、うん・・・、今度ね・・・・」
「約束よっ、今度の雨が降ったときは絶対するのよっ。」
「うん約束する・・・楽しみだね・・・・でもアスカ,これからどうする?」
「うっ・・・・」
嬉しさで一瞬忘れていたが、シンジの言葉に現実に引き戻されてしまうアスカ。
ため息をつきながら、一向にやむ気配のない空を見上げる。
「はー、しょーがないから,雨が小降りになるのを待って,走って帰るしかないわね。」
「そうだね・・・・濡れちゃうけど大丈夫?」
「へーき、へーき!」
アスカはシンジを心配させまいと首をかしげてウインクで応える。
『天使のウインク?・・・・・・・・』
少し照れてるアスカを見ながら、シンジはそんなことを考えてしまった。
「シンジ行くわよ,ついてきなさいっ!」
ほどなくして雨脚が弱くなると、アスカは片手で鞄を頭の上に掲げ,もう一方の手でシンジを引っ張り駆けだす。
「わー、待ってよー。」
情けない声を上げながらも嬉しそうに、シンジはアスカに続く。
アスカがシンジの手を引っ張って走る・・・・・
それがなぜかとても風景になじんでしまう二人である。
10分ほどで2人はミサトのマンションに辿り着くが、そのころには二人とも制服はぐっしょりですっかり濡れねずみになっていた。
「はぁはぁはぁ・・・・・もう〜,びしょ濡れじゃなーい!」
玄関で、ずぶ濡れのアスカが当然のごとくぼやく。
寒いのか少し震えている。
アスカと同様にずぶ濡れのシンジだが、そこはこの家の主夫である。すばやく自分がすべきことに取り掛かる。
「待っててアスカっ,今バスタオル持ってくるから。それと,お風呂も入れるからね。」
「あっ・・うん」
『シンジってこういうとき結構頼りになるのよねぇ・・・・』
てきぱきと動くシンジの後ろ姿を見つめながらアスカは両手で自分の体を抱きしめる。
「くしゅんっ。さむーい・・・、風邪引いちゃうじゃなーい。」
すぐにシンジはアスカ愛用の真紅のバスタオルを手に戻って来る。
「はい,タオル。お風呂は15分ぐらいで入れるからね、それまで体拭いて,着替えててね。」
「ありがとっシンジ、じゃああたし着替えて来る。」
「うん。」
タオルを受け取ると、アスカは自分の部屋へと向かう。
頭から被ったバスタオルを自分の頬に当ててみた。
『暖かい・・・・』
バスタオルからシンジのぬくもりが伝わって来た。
シンジはアスカの後ろ姿を見届けると、すぐに行動を開始する。すばやく服を脱ぎ体を拭いて、単パンとTシャツに着替える。濡れた服を洗濯機に放り込み、お風呂場の掃除を5分で澄ます。そして、湯の温度を40度にセットして、蛇口をひねる。
「ふうっ・・・・・これでいいかな?」
額の汗を拭いながら呟くシンジ。
そこいらの主婦顔負けの手際のよさである。
アスカも将来は安泰だ・・・・・・運がいい。
当面のすべての仕事を終えると、シンジはアスカの部屋の前に行き、緊張の面持ちでドアを軽くノックする。
好きな女の子の部屋だ、意識してしまうのも仕方がない。
コンコンッ
「は〜い。」
「アスカっ、ぼくだけど・・・開けていい?」
「シンジ? いいわよ、開けて。」
中からどことなく嬉しそうな声で返事が返ってくると、シンジはドアを半分くらい開ける。
部屋では、アスカがタンクトップにジョギパンといういつもの姿でベッドに腰掛け、塗れた髪をタオルで拭いているところだった。
「ア、アスカ、お風呂あと10分くらいで入れるからね。」
部屋のドアのところで立ちすくみながら話掛けるシンジを見てアスカは少し笑ってしまう。そして、ベッドの自分のすぐ横の部分ぽんぽんっとたたく。
「わかったわ、でも、そんなとこに突っ立てないで、こっちに来なさいよ。」
「えっ、いいの?」
「いいに決まってるじゃない、だって、あたしたち付き合ってるんだし・・・・・」
「う、うん。」
シンジは照れているのか頭を掻きながら、アスカの隣に腰をおろす。アスカは隣に座るシンジの横顔をタオルの隙間から見つめる。
「シンジこの部屋に来るの・・・初めて・・・よね?」
「うん、アスカの部屋になってからはね・・・・」
シンジは懐かしげに部屋を見渡す。
自分が住んでいた時とは全然雰囲気が違う。
女の子の・・・アスカの部屋だ・・・・・
「あっ・・・そうだったわね・・・・怒ってる?」
「そんなの怒るわけないだろ・・・・アスカが来て、その・・・嬉しかった・・・かな」
シンジの素直な言葉に嬉しそうにはにかむアスカ。
「よかった・・・・たまには・・・遊びに来なさいよね。」
「うん、アスカがいいならいつだって・・・・・、あの・・・ぼくの部屋にも来てよ。」
「うん・・・行く・・・」
真っ赤になりながらも、お互いの目から目を逸らすことができない。
「シンジったら全然来ないんだもん。」
「ごめん・・・・」
「ううん・・・今シンジはここにいるから・・・」
「うん・・・、ぼくもアスカといろいろ話したかった・・・」
「あたしだって・・・」
アスカはにっこり笑いながら、自分の髪を拭いていた大き目のタオルを、シンジの頭にかぶせる。
アスカ愛用の真っ赤なタオルだ。
「シンジ、髪濡れてるわよ、拭いてあげる。」
「えっ、でもこれアスカのタオルだよ。」
「そんなこと気にしないのっ。」
「あ、ありがと。」
シンジは目をつぶり、アスカが髪をふくのに身を任せている。
タオルからアスカのいい香りがしてシンジを包み込む。
「アスカ、お風呂もうすぐだからね。」
シンジの言葉にアスカは顔を赤らめながら、さっきまで考えていたことを口にする。
「あっ、シンジ。」
「なに?」
「あ、あのねっ、お風呂・・・一緒に入ろっか・・・・・・」
「えっー!?」
シンジはびっくりして目を開け、アスカの顔を見つめる。
慌ててアスカは弁解をはじめる。
「ち、違うわよ、誤解しないでっ! 水着着て入るんだからっ。」
「そ、そっか・・・」
「そ、そうよっ、な、なに期待してるのかしら? あたしだけ先に入っちゃ悪いじゃない!?
シンジも雨でびしょ濡れだったんだし。」
ほんとは、水着のことなんて考えてもいなかったアスカだが、シンジがあまりにもびっくりしているので、ちょっぴり恥ずかしくなってしまった。
「あ、ありがとう、何か夢見たい・・・アスカが心配してくれるなんて。」
シンジも思わぬ展開に気が動転して、いらぬことを口にしてしまう。
「むぅー、あたしは前からやさしかったでしょっ!」
アスカはタオルの上から、シンジの耳を引っ張る
「いたたたったっ・・・、やっはりまえとかわってないよ〜。」
「な、なんですってぇー!」
「ま、ま、まえとおんなじ・・・や、やさしいな・・はは・・」
こんなことをしている二人だが、ただ楽しくじゃれあっているだけだ。
その証拠に二人の目には愛しさが溢れている・・・
アスカはちょっとだけ怒ってるかもしれない・・・・
「じゃあ・・、シンジは水着に着替えて、先にお風呂に入ってなさい。お湯の温度ちゃんと調整しとくのよっ。」
アスカはお仕置きを終えると、赤くなったシンジの耳を優しく撫でる。
鞭の後、飴も与えることを忘れない。
シンジは幸せそうである。
「うん、わかった、じゃあ、アスカも早く来てね。」
「まあ、楽しみに待ってなさいっ。」
アスカはシンジの顔を見つめウインクする。
それだけでシンジは顔を真っ赤にしてしまう。
「じゃあ、お風呂で待ってるから。アスカも水着選びは程々にして、風邪引かないうちに早く来てね。」
シンジに自分の行動を見透かされてアスカも少し慌ててしまう。
「バ、バカ言ってんじゃないわよ、あたしは何着ても似合うんだから、そんなこと気にしないのよっ!」
「そうだねっ、じゃあ、待ってるから。」
余計なこと言っちゃたかなと思ったシンジは肩をすくめて部屋を出ていく。
その後ろ姿を見つめていたアスカは独り呟く。
「シンジにはあー言ったけど、やっぱり水着選びは真剣にやらなきゃね。だって、シンジに見てもらうんだもんっ。」
シンジが誉めてくれる所を想像し、ほっぺに手を当てて顔を真っ赤にしたアスカは、洋服ダンスから今自分が持っている水着をすべて引っ張り出すと、ベッドの上に並べる。
「どれにしようかなー・・・、スクール水着はパスねっ・・・、シンジってそんな趣味ないわよねぇ?・・・」
シンジの趣味について思いを馳せていたアスカの目が一つの水着の上でとまる。
その水着を手に取ると、遠くを見つめながら、水着をぎゅっと胸に抱きしめる。
「やっぱり、これにしよ・・・・」
アスカはそうつぶやくと、タンクトップを脱ぎ、その水着に着替えはじめる。
そのころ、すでにシンジは自分が持っている唯一の水着に着替えて、お風呂場に来ていた。
なんのことはない、ただの男子用スクール水着だ。
ともかくお湯の温度を、デリケートな肌の持ち主のお好みにばっちり合わせなければならない。すでにお湯を出してあったので、蛇口をひねってそのお湯を止める。ちなみに、お湯の温度は40度に設定してある。
シンジは片手を湯船に無造作に突っ込んでみた。
「あちっ!」
温度を感じる神経がシンジに異常を知らせる。どう考えても40度という感じではない。
「あれ? なんでこんなに熱いんだろう。温度調節壊れてるのかな?」
シンジは蛇口をひねり水で勢いよくお湯を埋めはじめる。
実際、ミサトのマンションのお風呂のお湯の温度調節は壊れていたのだ。これで、いつもアスカがシンジにバスタオル一枚で文句を言いに来るのも納得がいく。
そのおかげでいろいろいい目を見てきたシンジであった。
「でも、アスカが来る前にわかってよかった、またぶたれるとこだった・・・」
何度もアスカにぶたれたことを思い出しながら、洗面器で湯船をかき混ぜる。
ただ、その口元に笑みをたたえているところが、いかにもシンジらしいところだ。
しばらくそうしていると、少なくともシンジには熱いとは感じられなくなるまでにお湯の温度は下がった。
蛇口をひねり、出て来る水の勢いを緩めると、シンジは洗面器でお湯をすくい、自分に掛け湯する。そして、ゆっくりと湯船に浸かっていく。
湯船に肩まで浸かり、足をじたばたさせお湯をかき混ぜながら目を閉じる。
「アスカ遅いな・・・、早く暖まらないと風邪引いちゃうのに・・・・」
そうつぶやいて、だんだんその言葉の意味に気づきはじめる。
「・・・なんか信じられないや・・・」
湯船の中に顔を半分沈め、息を吐き出した。
アスカは自分の部屋で水着に着替え、鏡を見ながら、あらゆる角度からおかしな所がないかチェックする。
どこにもおかしな所がないと2度にわたり確認すると、鏡に向かって一度うなずき、お風呂場に移動する。
浴室の中からは時折ピチャンと水の跳ねる音が聞こえてきて、シンジが中にいることを知らせてくれる。
ドキドキドキ・・・・
早鐘のように心臓が鳴り響いている。
アスカは少し頬を赤らめながら、壁をこぶしでこつんとたたいく。
「アスカ・・・行くわよ・・・」
浴室のドアの前に立ち、一度大きく深呼吸すると、アスカは努めて冷静な声で中にいるシンジに呼びかける。
「シンジ?」
「な、なに、アスカ?」
「は、入るわよっ。」
「う、うん、どうぞ・・・」
中にいるシンジの声は上ずっている。
シンジも緊張してる・・・
自分だけではないとわかると、アスカも少し気が楽になってくる。
そして意を決すると、片手でそっとお風呂のドアを開け、平然を装いお風呂の場の中へ入っていく。
「おまたせっ、シンジ。」
「えっ、う、うん。」
お湯に体を浸したまま、シンジはアスカの顔を見上げる。
お風呂場は浴槽にお湯を張ったばかりなこともあり、湯気がもうもうと立ち込め視界はかなり悪い。
それでもシンジは、自分の目に映るものがどれだけ大切なものであるかを理解することができる。
ぽかんと口を開けたまま、アスカから目を離せなくなる。
アスカはシンジの視線を感じている。
でもそれがシンジなら、恥じらいよりも喜びの方がすっと大きい。
アスカはちょっぴり頬を桜色に染めながら、後ろ手でドアを閉め、プラスチックの椅子に腰掛ける。そして、洗面器を手にとりシンジに向けて差し出す。
「シンジ、お湯汲んでくれる?。」
「・・・・・」
アスカに見とれているシンジは、アスカが何かさし出すのだけは目に映っている。しかし、言葉の意味を大脳が理解することはできない。
アスカは苦笑しながら、いつもの調子でシンジを怒鳴りつける。
「シンジっ!」
何百回と聞いたことがあるアスカのこの声に、シンジはすでに条件反射ができるようになっている。刺激が大脳に届く必要はないのである。
シンジは夢の中から現実に帰って来た。
「えっ、な、なに、アスカ?」
「あたしの水着姿に見とれるのもいいけどっ、お湯汲んでよね!」
「う、うん」
シンジは心配そうにアスカの顔を覗き込むが、怒ってはいないようなのでとりあえずほっとする。アスカから洗面器を受け取ると、それをお湯の中に一度沈め、お湯をくみ上げる。そして、それをアスカに手渡す。
アスカは洗面器をシンジから受け取ると、そのなかに手を半分ほど入れ軽く動かす。
「んー、すこし熱くないっ?」
「そうっ?ごめん。」
シンジは蛇口をひねり水を流すと、アスカから洗面器を受け取り、すこし水を加える。そして、洗面器に自分の手を入れ少しかき混ぜてから、再びアスカに渡す。もちろん蛇口の水は出しっぱなしにして、浴槽のお湯の温度を急いで下げることも、忘れてはいない。
アスカはつま先からゆっくり掛け湯をしていく。もう一度シンジにお湯を汲ませ2度目の掛け湯をすると、立ち上がって腰に手を当てシンジを見つめる。
「シンジっ、入るから、端っこに寄ってよ。」
「あっ、うん。」
シンジは浴槽の蛇口の反対側に身を寄せる。蛇口からは先ほど流しはじめた水が依然として流れていて、お湯の温度を懸命に下げている。
アスカは左足を上げると、そっとお湯の中に足を踏み入れる。
「熱くない?」
シンジが心配そうに声をかける。
「うん、そんなに熱くないわ。」
アスカは首をかしげてシンジの方を向き、笑顔で応える。そして、お湯の温度を確かめると、蛇口を閉め、華奢な体を折り曲げ、ゆっくりとお湯の中に沈めていく。
ざあーー
水面はすでに浴槽の上限ぎりぎりまできていたので、それとともに、浴槽からお湯が音を立てて溢れ出す。
シンジはなんとなく水着姿のアスカを直視することができず、水面を見つめお湯が溢れ落ちるのをじっと見ていた。
アスカはそれに気づくと、顔を赤らめて抗議の声を発する。
「あ、あたしは、そんなに重くないわよっ!」
「えっ、何が?」
シンジはアスカの発言が理解できず、首をかしげてアスカの顔を見つめる。
「お湯が溢れたのは、あたしのせいじゃないんだからねっ!」
「???、だれも・・・そんなこと言ってないよ?・・・」
「だ、だって、シンジあたしのこと見ないで、お湯が溢れるとこばっかり見てたじゃなーい!?」
ここへきてようやくシンジはアスカの主張の意味を理解することができた。
『そんなこと気にするんだ・・・・』
シンジはそんなアスカが不思議に、そしてかわいく感じられてしまう。
でも、アスカにとっては重大事だ。
「あぁ、ごめん・・・、ちょっと、意識しちゃって、アスカのこと見てれらなかっただけだよ。」
「ほんとにぃ?」
「うん、お湯が溢れたのは、もう一杯だったからね。それに、アスカが重いなんてあるわけないだろ。」
「まあ、分かってればいいわ・・・・でも、なぁんでシンジはアタシがそんなに重くないって分かるのかなぁー?」
「そ、それは・・・」
アスカは悪戯っぽく微笑むと、人差し指でシンジのほっぺたを突っつく。
ぷにっ
『ぷっ・・・・や、やわらか〜い。』
予想外の感触がアスカの嗜虐心をくすぐる。
「シーンジったら、あたしがお風呂に来てから、ずーっと、あたしに見とれてたもんねぇ。」
「しょ、しょうがないだろ・・・・」
「どして、しょうがないのっ、ねぇっ?」
アスカは顔をシンジにくっつきそうなぐらい近づけ、真っ赤になったシンジの顔を見つめる。
「そ、そんなのいいだろっ・・・」
「だめっ、ねぇ、どうしてっ、ねぇっ!」
アスカは追及の手を緩めない。シンジもアスカがこうなってしまったらどうしようもないとわかっているので、観念することにした。だから、アスカの姿を見た時の気持ちを素直に口にした。
「アスカがさあ・・・、あんまり奇麗だったから・・・」
シンジのこの言葉を聞いた瞬間、アスカは自分の胸がきゅんっと鳴るのがはっきりと聞こえた。
この言葉が聞きたくて、シンジを追求してきたアスカだが、実際に愛するシンジからその言葉が自分に対して発せられたときの威力が、これほどとは思ってもみなかった。
アスカはトマトみたいに顔を真っ赤にさせて、うつむいてしまう。
「バ、バカ・・・・・」
シンジは首を曲げ、すぐ横にあるアスカの顔を見つめる。アスカは頬をピンク色に染め少しうつむき加減で水面を見つめている。長い髪はお湯で濡れないように上げられ、真っ赤なタオルで止められている。
真っ白な肌と栗色の髪のコントラスト・・・むき出しのうなじがいっそうシンジの鼓動を高める。
ほんとにきれいだ。
シンジには今のアスカは世界で一番美しいと断言できる。
「アスカ?」
シンジの呼びかけにアスカは少し顔を上げ、上目遣いにシンジを見つめる。
「なに?」
自分を見つめる潤んだ瞳にシンジは吸い込まれそうになる。
「あの・・・その水着・・・あれだね。」
「うん・・・、これね。」
アスカは自分の胸のあたりに手をやり水着をそっと触る。
アスカが今日選らんだのは、赤を基調としたセパレートの水着。
以前、シンジを荷物持ちの名目でショッピングに引っ張り出し、無理に選ばせたものだ。
アスカにとっては宝物の一つだ。
「ぼくが選んだやつだよね。」
「うん・・・覚えてた?・・・」
「忘れるわけないよ・・・その・・・よく似合ってるね。」
「あ、ありがと・・・」
似合ってるだって・・・
アスカはシンジの言葉を心の中で反芻して、顔がほころぶ。
「アスカ、ちゃんと肩まで浸かってね・・・風邪引くよ。」
「うん・・・」
二人は肩を寄せ合い、湯船の中で気持ちよさそうに目を閉じている。
暖かくて気持ちいいのはお湯だけではない。
「お風呂って気持ちいいね・・・・」
「そうね・・・・・温泉とか・・・・また行きたいわね」
「うん・・・行きたいね。」
「・・・あたし、もう一回・・・浅間山の温泉・・・シンジと行ってみたいなー・・・」
「うん・・・気持ちよかったよねー・・・・」
シンジは目を瞑ったままあの時のことを回想し、口元を緩めている。
熱膨張のことでも思い出しているのだろう。
不意にアスカがシンジの手を握り、指を玩びはじめる。
何か言いたそうだ。
どうしたのかな?
シンジが目を開けアスカの方を向くと、青い瞳が真っ直ぐ自分に向けられていた。
「??」
「・・・あの・・・、シンジ?」
「なに?」
「・・・あたしシンジにちゃんとお礼言ってない・・・」
「・・・・・なにが?」
「あのとき・・・マグマの中であたしを・・・助けてくれた・・・・・」
「・・あっ・・・うん・・・」
シンジはあの時のことを思い出すと今でも肩が震える。
一歩間違えば隣にいるたった一人のかけがえのない少女はここにはいないのだ。
「あの・・・ありがとう・・・」
心からの感謝の言葉・・・言うアスカも言われるシンジも初めてなのかもしれない。
とても照れくさいけどなんだか暖かい。
「あっ、その・・・ど、どういたしまして・・・」
「ふふ・・・なにどもってるのよ・・・」
「えっ、どもってなんかないよ。」
「もう・・・・うそつきシンジ。」
アスカはシンジの手をおもちゃにして離さない。
こんどはシンジがアスカを真っ直ぐ見つめた。
「アスカ?」
「なに?」
「あのときアスカを助けにいけたこと、ぼくにはその・・・なんていうか・・・記念・・・なんだ。」
「記念?」
「うん・・・ぼくはそれまで何一つ自分で決めたことなんてなかった・・・エヴァに乗ることだってみんなが乗れって言うから乗ってただけし・・・・」
「そう・・・・」
・・・・あたしはエヴァに・・・・
アスカは自分とエヴァのことに少し思いを馳せる。
だが、自分の手を握る力が強められると、再び視線を黒い瞳に絡ませる。
「でも、アスカを助けに行ったのは違う、あれだけは自分で決めたこと・・・決めたって言い方はおかしいけど・・・体が勝手に動いた・・・アスカを失いたくないって思ったんだ。」
「シンジ・・・・」
愛しい人の名をつぶやくと、急にアスカの視界がぼやけてくる。
「あれから少しづつだけど、ぼくは変っていけていると思うんだ・・・・アスカがそばにいてくれたら、ぼくは・・・・・・できそうな気がする。」
「じゃあ・・・・・・そばにいなさいよね。」
それだけ言うとアスカはシンジの腕を両手で抱きしめ、頭をそっとシンジの肩に預ける。
『あたしもシンジと一緒なら・・・・・・・きっとそうよ・・・・・・』
そんなことを思いながら、青いその瞳に涙を一杯に溜めていた。
シンジは体を少し回転させアスカの方を向くと、震える肩にそっと手を置く。
「うん・・・・二人一緒なら・・・きっと大丈夫だよ。」
「あたりまえじゃない・・・・」
か細く呟くと、アスカはシンジの腕を放し今度は身体全体に抱き着く。
もう以前のように、涙をこらえる必要などなくなっていた。
えー実はー・・・シンジ君のかさを盗んだのは私です(笑)
二人をお風呂に入れたかっただけなんです。
相合い傘を期待していた方、ごめんなさい・・・・
それから・・・・運動会のことはそっとしておいて下さい(^^;;