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Episode 2. The Beast
 
 

”使徒再来、ですか。予想されていたこととは言え、唐突の感は否めませんね”
 電話の向こうの声はまるで他人事のようだったが、それは緊張したときの相手のいつも癖なので、冬月は気にしなかった。
「予想していたのならば、君をそちらに置いたままの筈がなかろう。こうなったからには予定を繰り上げて、早々に帰国してもらうぞ」
”第一報を聞いてから、覚悟はしてましたよ。まぁ、MAGI Copyの件はほぼ作業が終了していますから、僕の方はまず問題ないでしょう。問題があるとすれば……”
「参号機か」
”はい。案の定、彼らは建造権をタテに引き延ばしを図るつもりです”
「パイロットもいないのにか?」
”曰く付きとはいえ、これまでまともに起動したエヴァの内の一機ですからね。こういう事態になれば、手放したくないのも分かります。あの娘だけ先に帰国させておいて正解でしたね。ああ、パイロットの件ですが、彼らはダミープラグを使うつもりです”
「ダミープラグをか?」
”りっちゃん、いや、赤木博士には悪いですが、キメラプロジェクトのおかげでそちらよりも数段進捗がいいくらいですよ。既に起動に問題のないレベルまできています。実戦で使い物になるかどうかは別問題ですが”
「キメラプロジェクトか」冬月は苦虫を噛み潰したような顔になる。かつて自分自身がその提唱者であったとは言え、今では唾棄したくなるような代物だった。若かった、で済まされるような問題ではない。
「とにかく、参号機は大きな戦力だ。なんとしても引き渡すよう交渉を頼む」
”了解です。すでに現場レベルでの根回しに入っていますから、二、三ヶ月中には目処が立つでしょう。ただ、少々強引な手も使いますから、四号機以降の引き渡しには相応の反発が伴うことになりますが、それでも構いませんね?”
「分かっている。すまんが頼む」
”それにしても”と相手は唐突に話題を変えた。”初陣で暴走とは、ずいぶん派手な演出でしたね。これもシナリオのうちですか?”
「馬鹿を言え。あれは不慮の事故だよ」
”とはいえ、まともに使徒とやりあえるのは、弐号機か参号機くらいでしょう。初号機じゃあ荷が重かったんじゃないですか?”
「パイロットの経験不足が原因だよ。試作機とは言え、初号機の力は正式型にそれほど劣らん筈だ」
”要は、その力を引き出すためのパイロット、ですか?”
 その言外に込められた意味に、冬月は一瞬言葉を失った。
「俺としても、彼女は使いたくはなかったよ。だがこういう事態になったからには、選択の余地などあるまい?」
”冬月先生を責めているんじゃありませんよ。ただ……”そこで相手は口篭もった。
”いや、止めましょう。参号機の件は可及的速やかに処理します。僕としても、早く帰国して家族の顔が見たいですからね”
「ああ、よろしく伝えておくよ」
 
 

「まさか初陣で暴走とはね」とミサトは呆れたように言った。「随分ハデなデビュー戦だったわよねぇ」
「それを指揮していたのは、あなたでしょう?」リツコの返答はニベもない。
「まぁ、そりゃそうだけどさ」
 蒸し暑い仮説テントの中で、葛城ミサトはさらに暑苦しい防護服の隙間から、うちわのささやかな風で涼を取っていた。周りの人間が同様の格好で忙しげに歩き回っている中で、それはのんびりしているようにも見える。だが実際のところ、一通りの現場検証を終えてしまっていて、後片付けが済むまでミサトの仕事はない。そもそもが作戦担当なのだから、報告書が書ける程度の情報が集まってしまえば、それ以上の出番はないのだ。かといって、司令も副司令も立ち会っていない今、ミサトがこの場の最高責任者なワケで、立場上さっさと本部に戻るわけにも行かず、こうして暑苦しい思いをガマンしながらも暇を潰しているのだった。
 どのチャンネルを回しても同じ内容を繰り返すばかりのテレビを忌々しげに切る。
「発表はシナリオB-22か。またも事実は闇ん中ね」
「広報部は喜んでたわよ。やっと仕事ができたって」リツコが手を休めず応える。
「ウチもお気楽なもんねー」
「どうかしら。本当はみんな怖いんじゃないの」
 その言葉にミサトの眉がきゅっと引き締まる。
(あったりまえでしょ)
 一歩間違えば十五年前の二の舞だったのだから。
 だがそれだけではない。
 本当に怖かったのは。
 
 

 覚醒は唐突だった。
 ぱちり、という感じで瞼が開き、自分が白い天井を見上げていることに気付く。
(どこだろ、ここ……)
 見知らぬ天井だった。模様のない、ただひたすらに白い天井。
 どのくらい眠っていたんだろう。時計を探して枕元を見るが、サイドテーブルには水差しと、花瓶に生けられた一束の花があるだけだった。
 どこかで見たことのある光景……。ああ、そうか。
 それで、ようやく自分が病室にいることに気付く。だから、眉をかすかにひそめた。
 病院はキライ。病室はキライ。
 おかあさん。優しい笑み。細く白い指。あの時結ってくれた髪型を、わたしはまだしている……。
 ちょうどそのときドアの開く音がし、若い看護婦が入って来た。
「あら、目が覚めた?」にこやかに聞く。「良く寝てたわねぇ。もうお昼過ぎてるわよ」
 昼過ぎ……?
 はっとした。一気に記憶が戻ってくる。
 がばっと身を起こすが、目眩に襲われぐらりと視界が揺らぐ。
「だめよ、急に起きちゃ」
 支えに入った看護婦を見上げ、必死の形相で聞く。
「初号機はっ。碇君はどうなったんですかっ」
 その様子に看護婦はきょとんとした表情を浮かべ、
「ああ、あの男の子? 大丈夫、さっき目を覚ましたわ」
 無事……?
 その言葉を聞いて、どっと安堵が押し寄せてきた。体から力が抜ける。
「先生を呼んでくるわ。簡単な検査をして、何もなければそのまま退院していい筈だから」
 安心させるつもりかそう言い残し、看護婦は部屋を出ていった。
 長い震える息を吐いて、どさりとベッドに身を預ける。
 そうか、無事だったんだ。
 それと同時に、気が緩んだのだろう、まったく別のことをが頭に浮かんできた。
「朝御飯、つくりそびれちゃったな」
 マリエは声に出して、そう言った。
 
 

「やっぱクーラーは人類の至宝。まさに科学の勝利ってカンジよねぇ」
 ようやく蒸し暑さから開放されたミサトは、トレーラーのキャビンであられもない姿でタンクトップの胸元を仰いでいた。密かに部下の間でファンクラブができつつあるという噂の、豊かな胸と伸びやかな肢体を隠そうともしない。もっともそれは、隣に座るのが十年来の親友だからこそできることだ。
 その親友は受話器と何事か言葉を交わし、電話を切った。
「シンジ君の意識が戻ったそうよ」
 ミサトの表情からお気楽さが抜け落ち、軍人の顔になる。
「で、容体は?」
「外傷はなし。ただ、多少記憶に混乱が見られるそうだけど」
 不吉な予感が走る。
「まさか、精神汚染じゃ…?!」
「その心配はないそうよ」端末を操作しながらのリツコのこともなげな返事に、毒気を抜かれてミサトは素の表情に戻った。
「そう……、そうよね、いっきなりアレだったもんね」
「脳神経にかなりの負担がかかったもの。無理ないわよ」
 その言い草がミサトの気に障る。だからイヤミたっぷりの声で、
「こころ、の間違いじゃないの?」
 
 

「異常はないな。うん、退院してよし。葛城一尉には連絡しておいたから、じきに迎えに来るだろう」
「お手数をおかけして申し訳ありません」
 初老の医師に、マリエは丁寧に礼を言った。これまでも何回か診てもらったことのある顔見知りの医師で、気のいい男だった。元は軍医だったという。そのセカンドインパクト前後の話は、診察のついでに何度も聞かされた。自分が生まれる以前の話を、しかしマリエはいつもちゃんと聞くようにしていた。だから憶えもいい。それに甘えて、マリエは言葉を継いだ。
「あの……」
「ん? なんだね?」
「碇君は……、初号機パイロットの容体はどうなんでしょうか?」
 ここはジオフロント内にあるNerv本部の医務局だ。そのパイロット担当医師が知らない筈がない。案の定、気楽に応えてくれた。
「ああ、先刻検査が終わったよ。外傷はなし。精神汚染の心配もなしだそうだ」そこまで言って、にやりと笑う。「気になるかね?」
「い、いえ。そんなんじゃなくって……」マリエの様子に、医師は豪快な笑い声を上げた。
「けっこうけっこう。お前さんたちくらいの年頃なら、それくらいでないといかんよ」
 なにがそれくらいなのかは良く分からなかったものの、マリエは医師の期待通り拗ねた表情をしてみせた。
「着替えはもう届いているわ。いつでも出られるように用意しておいてね」
「はい」
 笑いを堪える看護婦の言葉に頷きながら、マリエは胸の内で呟く。

(うそつきね、わたしって)
 
 

 巨大なライフルがクレーンに吊るされ、頭上を運ばれていく。パレットガン。エヴァの主力装備の一つ。
 急ピッチで進む復旧と兵装ビルの整備。それは使徒の襲来によって強引に尻に火を点けられた人類の、最後の悪足掻きなのかもしれない。彼なら皮肉な言い方でそういうだろう。だがミサトは、それよりも昨夜の会戦で掴んだ手応えを信じたかった。
 経験無しの少年が、テストタイプのエヴァで使徒に勝ったということ。なによりも、世界で初の使徒殲滅に成功したという事実。
 だから冗談ではなく、大真面目にミサトは言ったものだ。
「エヴァとこの街が完全に稼動すれば、いけるかもしれない」
「使徒に勝つつもり?」
「あら、希望的観測は人が生きていくための必需品よ」からかうような親友の言葉にも自信たっぷりに応える。
「……そうね。あなたのそういうところ、助かるわ」
「じゃ」踵を返した。
「ええ。マリエと、シンジ君によろしく」
 
 

「いかり、くん?」
 誰もいない待合で、細い声で呼びかけられ顔を上げると、見覚えのある少女が立っていた。
 今はあの黒のプラグスーツではなく、真白なノースリーブのワンピースと華やかな彩りのショール。緩やかに結われた豊かな栗色の髪は、左肩から腰のあたりまで波打つように流れている。肩から伸びるすんなりした腕の白さが眩しい。整った顔立ち。穏やかな微笑みをたたえた眸の色は、透き通るような緋色。
 昨日は気付かなかったが、こうしてみると自分よりも幾つか年上のようだ。顔立ちにはまだ幼さが残っているものの、体つきはすっかり大人びていて、ゆったりした服の上からでもその女らしい曲線が見て取れるほどだった。
 少女はにっこりとシンジに笑いかけた。その屈託のない笑顔に、シンジは少しどきりとする。
 少女は細い綺麗な声で言った。
「今ミサトさんが退院の手続きをしてるから、もう少し待っててね」
 そして優美な仕種でシンジの隣に座る。少女の甘い香りがシンジの鼻をくすぐった。
「私はマリエ。帆足マリエよ。あなたと同じ、選ばれた子供。4th Children」
「えっ……、じゃあ………」
「そう。わたしもエヴァのパイロット。もっとも、わたしの乗る筈の参号機は、まだアメリカだけど」
 参号機? あんなものがまだ他にもあるのか、とシンジが思ったとき、陽気な声が彼の思考を遮った。
「さっそくうまくやってるじゃない?」
「ミサトさん」マリエがぴょこんと立ち上がる。
「二人とも手続きしてきたわ。いきましょう」
「はい」うれしそうに返事をすると、マリエは子供っぽい仕種でミサトの腕に掴まる。並んで立つと、二人の背丈の差は頭半分ほどしかない。
「シンジ君の転居の手続きがあるから、まだちょっちかかるけど、いい?」
「うん。待ってる」
 言葉を交わす二人の姿を、シンジは不思議なものを見る気分で見つめていた。
「どしたの?」
 ミサトの怪訝そうな声で我に返ると、「いっ、いえっ」と慌てて目を逸らし、二人の後に続いて歩き出した。
 

 柔らかな電子音と共にエレベータのドアが開く。だが、その扉の向こうにいた人物に、シンジの体が動揺に震えた。
 碇ゲンドウ。
 いつもと変わらぬ不遜な表情で、彼は息子を見下ろしていた。
 捨てられた子供と、捨てた親。
 その無言のせめぎ合いは、しかしあっさりと決着がつく。
 目を背けるシンジ。ゲンドウの視線は再び閉じられた扉に隠された。
 その様を、ミサトとマリエは何も言わず見守っていた。
 
 

「ひとりで、ですか?」
 ミサトの不満げな声が部屋に響いた。
 確かに先刻のエレベータ前での親子の様子からしても、あの父親との同居が好ましいとは言い難い。だが、だからといって、一番笑顔が必要なこの年頃の少年に、誰の庇護もなくたったひとりで暮らせというのか。
「そうだ。問題はなかろう」事務的な士官の声に、シンジは当たり前のように「はい」と応える。
「それでいいの、シンジ君?」
「いいんです、一人の方が。それに、どこでもいっしょですから」諦めを通り越した、冷めた表情。
 そのシンジの様子が、ミサトを決心させた。
 

”なんですって?”
 電話口の向こうでリツコが声を上げる。
「だぁかぁらぁ、シンジ君はあたしんトコで引き取ることにしたから。上の許可も取ったし」
”マリエはどうするの? 彼が帰国するまで、あなたが面倒を見るんじゃなかったの?”
「だぁいじょーぶ。二人まとめて、ちゃぁんと面倒見るわよ」それから冗談めかしていう。
「心配しなくたって、子供に手ェ出したりしないわよ」
”当たり前じゃないの!”彼女らしからぬ大声。
 そのあまりの剣幕に、ミサトは思わず受話器を耳から遠ざける。それでも届く親友の説教に、ひとこと。
「相変わらず、ジョークの通じないやつ」
 
 

 ガムテープで止められた部品をカタカタ言わせながら、山間の道をスクラップ寸前のアルピーヌが走る。
 バックミラーに後部座席でにこにこ顔のマリエを写しつつ、助手席を見るとシンジは戸惑った表情で胸一杯に抱えた買い物袋を見ていた。
 丸一時間かけて大騒ぎしながらミサトとマリエが買った、山のような食料。酒あり魚あり肉あり野菜あり果物あり。スーパーだけでなく、いちいち車で移動しなければならないほど離れた場所にある酒屋やら魚屋やら肉屋やら八百屋やらを回って買ってきたものばかりだ。
「歓迎会よ」とこともなしに云われたところで、自分の置かれた状況が良く飲み込めていないであろうシンジには、誰が誰を歓迎するのかさえ怪しい様子だった。
 だが、それでもいい、とミサトは思う。
 彼は私たちに希望をくれたのだから。
 そのしるしを彼に見せてあげよう、と思い付いた。
「ちょっち、寄り道するわよ」
「どこへですか?」
 ミサトは悪戯っぽい声で、
「い、い、と、こ、ろっ」

 第三新東京市を一望する高台。夕日に染まる街並みは、しかし空白の部分が多く、どことなく殺風景に見えた。だから、
「寂しい街ですね」というシンジの感想もあながち間違いではないように思える。
「時間だわ」腕時計から眸を上げ、ミサトが言う。
 サイレンが鳴る。長く、長く。周囲の山並みに木霊し、幾重にも重なって耳に届く。
 シンジは息を呑んだ。
「すごい……ビルが生えてく……」
 それは確かに絶景だった。それまで息を潜めていた鋼鉄とコンクリートの木々が、見る見る地表を覆っていく。何本も何本も。そしてその窓々に明りが点る。それは人の明り。
「これが使徒迎撃専用要塞都市、第三新東京市。私たちの街よ」シンジに向き直り、

「そして、あなたが守った街」
 
 

 そのマンションは、ミサト達が降りた階だけ明りが煌煌としていて、他の階にはまるで人の気配が感じられなかった。その廊下を、ミサトはまるで気にするふうもなく先頭に立って歩いていく。
「シンジ君の荷物はもう届いてると思うわ。実は私も、最近この街に引越しきたばっかりでねー」
 そして、角部屋の前で立ち止まり、スリットにキーカードを通した。
「じゃあ、着替えたらすぐに来ますね」それまで後ろから付いてきたマリエが、そう言って隣の部屋へ向かう。
「そ、あの娘はお隣さんてわけ」そりゃそうか、名字が違うもんな、とその後ろ姿を見送ったシンジに、ミサトが言う。
「さ、入って」
 シンジは思わず「お邪魔します」と云った。ミサトの眉がきゅっとひそめられる。
「シンジ君、ここはあなたの部屋なのよ」
 その言葉に、少し戸惑い少し躊躇し、そして少し照れながら、
「た、ただいま」
 ミサトが満足そうに応える。
「おかえりなさい」

「ちょっち、散らかってるかもしれないけど、気にしないで」
 そんな言葉に迎えられたシンジの眸に飛び込んできたのは、ゴミ、ゴミ、ゴミの山………、ではなくて、清潔に整えられたリビングだった。
「これが、ちょっち?」
 一部の隙もないほど片付けられた部屋に、これが散らかっているというなら、散らかっていない状態と云うのはどんなものだろう、とシンジはバカな想像を巡らせる。
「あ、ごめーん。食べ物はキッチンに運んでおいて。後はマリエがやってくれるから」
「あ、はい」
 そう返事をして入り込んだキッチンに、またしてもシンジは言葉を失った。
 磨き上げられているのはもちろんのこと、壁のフックにずらりと並んだ大小のフライパンやら鍋やらの数々、棚の中には色とりどりの食器の類、見るからに強力そうなコンロが4つほど並び、据え付けられたガスオーブンは仔豚の丸焼きでもできそうなくらいに大きく、ラックに収められた調味料の類は軽く二、三十種類は超えているだろう。キッチンなどという生易しいものではない。どこかのレストランの厨房を思わせた。
 だが、冷蔵庫を開けてみて、印象は一変する。
 缶詰やらレトルトやらのつまみ。ブロックアイス。ビールばっかし。
(いったいどんな生活してるんだろ?)
 そのギャップが理解できず、シンジは悩んだ。
「あ、運んでくれたんだ。ありがと」
 いきなり背後から声を掛けられて、シンジは飛び上がった。振り返ると、着替えたマリエが笑顔でのぞきこんでいた。七部袖のTシャツに膝丈のスパッツ。そのゆったりしたTシャツの襟元から覗く豊かな胸の膨らみに、シンジはどぎまぎする。
 マリエはそんなことに気付いたふうもなく、持参のエプロンをしながら、
「あとはわたしがするから、碇君は着替えてきて」
「う、うん」そう答えつつも、テキパキとキッチンを動き回る少女の後ろ姿から目を離せずにいると、
「だーめ。あとはできてからのお楽しみ」
 早々にキッチンを追い出されてしまった。

 ぷしっ。ごくっ。ごくっ。ごくっ。ごくっ。ごくっ。ごくっ。ぷはーっ。くぅぅぅぅぅぅっ。
 シンジが唖然とするなか、ミサトはあっという間に缶ビールを開けてしまう。
「やっぱ人生、このときのために生きてるようなもんよねぇー」それがホントにうまそうだったので、なるほどそういうものか、とシンジは納得してしまった。
 すでにテーブルの上には、マリエが運んできた肴の類が何品か並んでいる。あれから十分と経っていないというのに、それはどう見ても冷蔵庫に入っていたインスタントなものの類ではなくて、一体どこから出てきてたものやらシンジの疑問は深まるばかりだった。
「どしたの?」ボーゼンとしているシンジに、ミサトが声を掛ける。
「あっ、あのっ」慌てて返事を考えるシンジ。「こ、こういう食事って、慣れてなくて」
 やっとの思いでそれだけ行った瞬間、がん、と缶ビールがテーブルに叩きつけられた。
「どぅぁめよっ。すききらいしちゃぁっ」
 ずいっ、と目の前にどアップのミサトの顔。せっかく美人なのに、こうやって見ると間抜けだなぁ、などと失礼なことを考え、いや、そういう場合じゃなくって。
「そ、そうじゃないんです。だ、だから……」
 要領の得ない言い訳をならべようとしたシンジに、ミサトは不意に表情を緩めた。
「楽しいでしょ?」
「え?」
「こうやって他のひとと食事するのって」
 確かに嫌な気分ではなかった。少なくとも、たった一人の咀嚼が響くような、あんな寂しい食卓よりは。
「は、はいっ」
「なら、シンちゃん、食べて食べて。美味しいのよぉ、マリエの作るのって」元の体勢に戻ったミサトが陽気に勧める。シンちゃん、などと今まで呼ばれたことがなくて戸惑ったものの、一度箸を口に運んでしまえば、あとは感嘆の吐息しか出てこない。
 一言で言えば、美味。
「ミサトさん、これ、ひょっとして…」
「あらやぁねぇ。そうよぉ、ぜーんぶマリエが作ったのよ」
 じゃあ、あの冷蔵庫のインスタントな食物は?
「ああ、あれね。あれはマリエがいないときの非常食よん。だって、夜中に隣の家の中学生を叩き起こして肴を作らせる訳にはい/かないでしょ?」
 中学生?
「そ。あの娘、あなたと中学二年よ。まったく、きょうびのコドモってのは発育がいいわよねぇ」
 自分より頭一つ分は上背のあるマリエの身長を思い出す。ちょっと童顔だけど、てっきり高校生くらい、下手すればハタチ近いのでは、などと勝手に思っていたシンジはうろたえた。
「でも……」とシンジの疑問は一番最初に戻った。「帆足さん…、とはどういう関係なんですか?」
 へらへら笑っていたミサトの顔が、不意に優しい表情になる。
「娘になるのよ。じきにね」
「え?」

「婚約しているの、あの娘の父親と。だから、継母っていうことに、なるのかしら」
 
 

 Nerv本部、第二実験場。
 破壊され、非常灯に照らされた管制室から、ゲンドウはそのエヴァを見ていた。
 エヴァンゲリオン零号機。
 下半身を特殊ベークライトで固められ、背には停止信号プラグが差し込まれている。片腕は壁を突き破り、もう片腕は虚空に振り上げられていた。
 不意に、傍らの電話が鳴る。まだ回線自体は生きているようだった。ゲンドウは驚いた様子もなく、受話器を取り上げる。
「私だ。ああ、君か」不遜な表情が僅かに緩む。
”レイの様子はどうでした。今日、見に行かれたのでしょう?”
「あと二十日もすれば動ける。それまで零号機の再起動実験の許可を取りつける予定だ」
”そう……”満足げとも不満そうとも取れる息を漏らす。
”でも、あの娘は他の適格者とは違うわ。それを忘れないでください”
「分かっている。もう一人の予備も届いた。可能な限り戦闘は奴に任せる」
”もう一人の予備、ね”面白がるような声。”それが父親が息子に向かって言う言葉かしら”
「それは君も同じだ」
”まぁ、そうね”そういって、電話の向こうで含み笑いを漏らす。”一度逃げた雛鳥が、また懐に舞い戻ってきた、というところかしら。せいぜい可愛がってお上げなさい”
「君の方はいつ帰国する」
”半年以内には。このままだと、彼の帰国の方が早いでしょうね”
「待っているよ」
”ええ。私も、ね”
 
 

 マリエの作ったフルコースで満腹の体のシンジを風呂に送り出し、先に入っていたペンギンとの一悶着があったものの、ミサトとマリエはようやく一息ついた。
「お疲れ様」
「うん。今日は三人分だったから作り甲斐があって、すごく楽しかった」だが、ふとマリエは顔を曇らせる。「彼、楽しんでました?」
「そうね」ミサトも冷めた表情になる。「楽しい、っていうより、どうしていいかわからない、ってカンジだったわね」
「なにが、いけなかったのかな」両手で持ったコーヒーカップに視線を落としマリエがぽつりとこぼした言葉に、ミサトは中身の少なくなった缶を揺らしながら、
「さあ。でも私たちは、私たちの出来ることを、彼にしてあげるだけよ」そう云って残りのビールを飲み干す。
「彼がパイロット、だから?」
 ミサトは視線だけでマリエを見た。その眸に浮かんだ非難の色を見て取る。
「そうよ。悪い?」
「うそ。ミサトさん、そんなに器用じゃないもの」
 しばし、視線を絡み合わせるが、先に逸らしたのはミサトの方だった。
「………そうね」缶をことり、とテーブルに置く。
「ちょっち後悔してるの。思い上がりだったかなぁ、なぁんてね」
「………」
「所詮、本当の家族じゃないんだものね。だから、彼が本当に欲しいものは上げられないかもしれない……」
「ミサトさん」
 遮るようにこぼれた声に、ミサトは思わずマリエを見た。
「わたしたちだって、まだ本当の家族じゃ、ないんだよ」
 ミサトは、はっとする。
 そうだ、忘れていた。私たちも同じなんだ。
 毎日通ってくるマリエ。多忙な家主の代わりに料理をし、掃除をし、洗濯をし、ペンギンの世話をし、ミサトにじゃれ付いて、夜になると帰って行く。こうやって暮らし始めて、ドイツ時代も含めてもう五年近くになる。だから、生まれたときからずっと一緒にいたんじゃないか、ときどきそんなふうに思えてしまうこともある。
 だが、ミサトとマリエをつないでいるのは、「恋人の娘」という頼りない絆でしかない。仮に婚約が解消されることにでもなれば、ただの他人に戻ってしまう。
 結婚して義理の娘になったとしても同じだ。なにか変わる訳でもない。ミサトとマリエ、そしマリエの父親の三人で築いてきた愛情と信頼、それがこの絆のすべてなのだ。
 ミサトはマリエを優しく抱きしめた。
 小さくしゃくりあげるマリエの髪を撫でながら、
「ごめん。言い過ぎたわ」
 胸の中で、こくん、と少女が頷く。
「そうね。まだ先は長いわ。ゆっくりやっていきましょう」
 そう云ったミサトを、マリエは涙にぬれた眸で見上げ、そして頷いた。
 
 

 Nerv本部。冬月の私室。
「では、暴走は必然であったと?」
 リツコの緊張した問いかけに部屋の主はやんわりと応える。
「そうは言ってはおらん。ただ、あのような状況下では、起こったとしても不思議ではない、ということだ」
「しかし、パイロットの熟練度から見て、充分な戦闘能力は期待できませんでした。にもかかわらず司令は出撃を指示しましたわ。これはこうなることを予測していたのではないですか?」
「その判断を支持したのも我々だよ。自分たちが生き残るために、パイロットの能力を度外視し、初号機の潜在能力、それにすべてを賭けたのだ。それが、まさかああいう形で発現するとは、思いもよらなかったがな」
「冬月先生」リツコがきつい声を出す。「何故碇司令を庇うのですか?」
「早まるな、といっているだけだ。まだ機は熟しておらん。今、何か漏れるようなことがあれば、これまでの積み重ねがすべて水泡と化す。すべては奴が帰国してからだ。それに」とリツコに背を向け、眼下に広がるジオフロントに視線を向ける。「使徒は再び現れた。人類補完計画、その前に彼らを倒さぬ限り我々に未来はない。十五年前の悪夢を忘れたわけではあるまい?」
「……はい」リツコは視線を逸らさず、冬月の背を見つめた。
「弐号機移送の手続きは済んだ。パイロットの準備が済み次第、こちらに向けて発つことになっている。参号機の引き渡しも既に手配した。戦力は整いつつあるが、油断は出来ん。戦闘になれば君や葛城君に任せることになる。頼んだぞ」
「はい」
「それと、弐号機と同時に、例のものを加持が運ぶことになっている」
 その名を聞いて、リツコの緊張が軽い驚きに緩んだ。
「加持君、ですか?」
「ああ」
「またミサトが大騒ぎしますわね」
「彼女のプライベートまで口出しはできんよ」
 
 

 ここも知らない天井………。
 暗闇の中、窓から差し込む蒼い光に浮かび上がったそれを、シンジはベッドに横たわったままぼんやりと見上げていた。
 ヘッドホンからこぼれてくる聞きなれた曲が、今は妙に騒々しく聞こえる。
 眠い。なんだかひどく疲れていた。いろんなことがあり過ぎたせいかもしれない。

 ミサトさん。使徒。ジオフロント。Nerv。父さん。綾波レイ。帆足マリエ。
 そして。

 戦闘の記憶。

 どくん。
 心臓が跳ね上がる。それまで感じていた穏やかな眠りの霧が、嘘のように引いていく。
 どくん。
 指先が震える。息が少しずつ、浅く速くなっていく。
 どくん。
 眸をつぶれない。つぶると瞼の裏に焼き付けられたあの顔が浮かんできてしまう。
 どくん。

 アレはなんだろう。剥き出しになった顔。緑色に濁った眸。
 アレはなんだろう。貫かれた頭蓋。へし折られた腕。
 アレはなんだろう。かお。きょだいろぼっと。
 けもののように動き、使徒をひねり潰した。
 使徒。あんなに強かったのに。アレの前では、まるで赤子同然だった。
 エヴァンゲリオン。

 そしてアレに乗っていたのは、自分。
 自分は、エヴァのパイロットとして、ここにいる。
 それが、今、ボクがここにいる理由。
 みんながボクを必要としている理由。

 今日の「歓迎会」は、そういうことだったんだ。

 だからボクは、またアレに乗らなきゃいけないんだ。
 

 怖いよぅ。
 

 シンジは拳をかみ締め、喉の奥の悲鳴を噛み殺した。
 
 
 

The end of Episode2.


NEXT
ver.-1.00 1998+02/07公開
ご意見・ご感想は ryu1@imasy.or.jp まで。

Next Episode is "A tansfer".
 

 4th Children、帆足マリエ。彼女の存在は、シンジに重圧と疎外感を与えるだけだった。
 孤立するシンジ。だが、エヴァのパイロットであることがばれ、一転して人気者となる。
 それを冷たく見つめる少年がいた。

 第参話、「鳴らない、電話」
 
 

Appendix of Episode2.

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
 突如起こった叫び声に、ミサトとマリエは何事かと顔を見合わせた。
 どたばたと掛けてくるなり、シンジは、
「ミミミミミミミミミミミサトさんっ」
「なに?」
「あああのっ、あああのっ………」必死に訴えるものの、動転していて言葉にならない。その前をひょこひょこと歩き去っていく黒い物体。
「ああ、かれぇ?」ミサトは平然と云った。「新種の温泉ペンギンよ。名前はペンペン。もうひとりの同居人」ビールを一口含むと、「それより、前、隠したら?」
 ようやく自分の格好を思い出し、ひっ、とシンジが息を呑む。前を隠し、へこへこと風呂場へと消えていく。
 それを見送って、再びミサトとマリエは顔を見合わせた。
「動じないわね」缶で口元を隠しながら、ミサト。
「お父さんで慣れてますから」にっこり笑って、マリエ。
 だが二人とも、眸は笑っていない。
(ちっ。つまらないわね、ちょっちは慌てると思ったのに)
(酒の肴にしようったって、そうはいきませんよ)
 ぴしぴしっ。
 密かに火花が散る。嫁と娘の闘いであった。
 



 斎藤さんの『EVANGELION「M」』Episode2.、公開です。



 こうして改めて見ると、
 EVAの第2話はやっぱり名作ですよね(^^)


 TVで第1話を見たときは「あ、面白い」って感じだったんですが、
 この第2話を見てEVAの引き込まれ、
 続く第3、4話ではまった・・・

 そういうのを思い出しました(^^)


 ミサトの娘、
 びっくりの関係ですね。


 シンジとレイの話だった次の話では
 マリエはどう絡むのでしょうか。


 さあ、訪問者の皆さん。
 感想を書いて斎藤さんに送りましょう!


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