夕暮れの第三新東京都市中央商店街の交差点。
ラッシュアワーの為、人も車も混雑している。
激しい車の流れを制御する為に目まぐるしく信号の色が移り変わる。
信号の色が青に変化する都度、その色を赤く染めるまで、車の列が暴走する猛牛の群れのような勢いで突っ込んでくる。
そして流れが激しいのは車だけでなく、横断歩道の前に出来た人だかりもランプが青になるのを今か遅しと待ち続けている。
その人だかりの中にセーラ服を着た金色の髪をした少女が混じっていた。
寝不足だろうか?
信号を待っているうちにウツラウツラしはじめる。
やがて信号が青に変わる…と同時に皆すごい勢いで歩道を渡り始める。
だが、少女は信号の変化に気づいていないのか、歩道の前に突っ立ったまま動かない。
瞼は半分閉じたままで、コクリコクリと何度も頭を上下させる。
やがて信号が黄色に点滅し、慌てて渡ろうとした通行人の一人が歩道の前で障害物と化した少女にぶつかりながらも強引に駆け抜けていった。
その衝撃で少女の閉じかかっていた瞼が開いた。
靄がかかった少女の蒼い瞳にたった今変化を終了した信号機の色が目に入る。
『………青に変わった。』
睡魔で思考が麻痺していた少女のぼやけた瞳には血のような真っ赤な信号の色がそう映った。
少女はのろのろと前へ進み始める。
「!?」
車の通りが多い交差点で、堂々と赤信号を渡りはじめた少女に皆呆然とする。
と同時に少女の左手から車が突っ込んできた。
「危ない!!」
少女の蒼い瞳が左手から迫ってくる鉄の塊を捕らえる。
と同時に脳にアドレナリンが大量に分泌され、少女は一瞬で目を覚ます。
「きゃあああぁ!!」
車の鈍いブレーキの音と少女の叫び声が同時に聞こえる。
鞄が宙を舞い、中に入っていた物が辺りに四散する。
跳ねられた?…だが次の瞬間、皆安堵のため息を漏らした。
少女は奇跡ともいえる反射で飛びのいて歩道の手前にへたり込んでいた。
周りにいる通行人が少女の安否を気遣って少女に語り掛けたが少女の耳には入らなかった。
少女はふらふらとした足取りで立ち上がってパンパンとスカートについた埃を叩いた。
緩慢だが安定した少女の一連の動作に怪我はないと見て、みんな少女から離れはじめる。
少女はのろのろとした動作で散乱した教科書や筆記用具を鞄に詰め込みながら、ボソッと呟いた。
「あたし何やっているんだろう?」
第十八話 「絶望の果てに…」
アスカは焦っていた。
日本へ来てすでに三ヶ月がたつ。
だが、彼女の当初の目的は未だ達成されていない。
刻一刻と近づいてくる研修の期日。
『残り後三ヶ月…。』
研修の終了は、アスカが日本にいられなくなることを意味する。
なのに未だにアスカはシンジに対する想いにケリをつけることが出来ない。
そのジレンマは一層アスカの心に焦燥感を生み出した。
そしてアスカは今完全に追いつめられていた。
近づきたくても一向に近づけないシンジへの想い…。
極度の睡眠不足によるバイオリズムの低下…。
毎晩のように襲い続ける悪夢…。
そして何よりも大きいのはサエコの不在だった。
「はい、人類支援委員会のドイツ支部受付です。」
「マリアさんですか?すいません。ブッフバルト博士の娘のアスカですけど…。」
「あら、アスカちゃんなの?久しぶりね。研修の方は順調に進んでる?」
「は…はい。まあ何とか…。」
「何か元気がないわね。もしかして、ママが恋しくてホームシックにかかっているとか?アスカちゃんはすごいマザコンだったからね。」
「…………………………………………………。」
「やぁねぇ。冗談よ。冗談。黙ってないで何か突っ込んでよ。」
「……………………………………………………。」
「……コホン。それで用件は何かしら?もしかしてサエコさんのこと?」
「はい。ママは最近自宅に戻っていないみたいだけど、どうしたんでしょうか?」
「……………サエコさんは仕事で出張に出かけていてドイツにはいないわよ。今頃は今度新しく出来たエジプトの支部の方じゃないかしら?」
「出張?」
「そう、二ヶ月ぐらいは戻ってこないと思うわ。」
その言葉にアスカの胸がズキリと痛む。
『先の長くない体なのに無理して……。ママは最後まで自分の選んだ仕事に殉じるつもりなんだ…。』
「どうするの?アスカちゃん。緊急の用事があるのなら連絡先を教えるけど…。」
マリアのその言葉にアスカは少し考えこんだ後
「あ…別にいいです。ちょっとママの所在が気になっただけだから。」
『ママは病気の体を捺して頑張っているんだ。もう自分のことでこれ以上ママに心配はかけられない。』
今アスカが自分以上に優先して考えられる他人が存在するとしたら、それはサエコだけだった。
「そうなの?」
アスカは今持っている気力の全てを振り絞って明るい声を出して
「もし、ママから連絡があったら、伝えてください。アスカは日本で元気でやっていますって…。」
「わかったわ、アスカちゃん。」
「それじゃ失礼します。」
アスカは受話器を置いたと同時に大きくため息を吐き出した。
「ママ……。」
アスカの蒼い瞳が暗く沈みはじめる。
追いつめられたアスカが縋ろうとした残された数少ない絆の一つをアスカは自らの意志で禁じてしまった。
そしてこれ以後、シンジに対する想いだけが、今の辛いアスカの生活を支える最後の砦となった。
3年A組の教室。
アスカは襲ってくる眠気を必死に堪えながら授業を受け続ける。
今のアスカに残されている最後の絆(シンジへの想い)を守るために…。
だがその為に支払った代償は大きく、アスカは少しづつ学園への居場所を自分の行動で狭めていた。
相変わらず寝ているのだが起きているのか分からないアスカの授業態度。
教師は軽く舌打ちしながらも、見て見ぬ振りをする。
だが、今のアスカの敵は前方より後方だった。
「!?」
うつらうつらしていたアスカだったが、突如背中に殺気にも似た刺すような視線を感じて目を覚ます。
アスカはチラリと後ろを振り返った。淀んでいた蒼い瞳が徐々に鮮明になる。
茶色のショートカットの髪をした鳶色の瞳の少女が目に入る。
『霧島さん……。』
マナは振り向いたアスカと目が合うと、敢えて一睨みした後にアスカから目線を逸らした。
それっきり二人の視線が交差することはなかった。
『また霧島さんだ。なぜだろう?ここのところずっとシンジでなくあたしのことを見ているみたい。それも……。』
マナの鳶色の瞳に宿っていたものは好意ではない。
敵愾心と嫌悪感。
かつてのアスカがシンジに対して抱いていた負の属性。
それはおおよそアスカの知る霧島マナには似合わない属性だった。
『シンジを好きな霧島さんが本心ではあたしを快く思わないのはわかる。けど、何で今になって露骨に敵意を剥き出しにするんだろう?』
アスカはマナの真意を量り損ねて首を傾げる。
マナ一人に思考が囚われていたアスカは、この時自分を見詰めるケンスケのもう一つの視線に気づかなかった。
翌水曜日。委員会の本部。
すでにスケジュールが大幅に変更されてから一ヶ月が経過した。
研修ルームでマヤの講義を受けている候補生は皆疲れた顔を並べている。
当初の予定の倍近いペースのカリキュラムは研修一本に絞り始めた成績上位の候補生達にもきついものがあった。
今回MAGIが導入さらた国から来た候補生は尚更だろう。
ましてや未だ学園生活と両立して研修に参加しているアスカの心身に与える負担は想像を絶するものがあり、過去四回の疑似シミュレーションテストでは何とか上位の結果を残していたが、回を重ねるごとに少しづつ順位を落としていった。
マヤはチラリと疲れた表情でそれでも講義に集中しようとしているアスカの顔を見ながら
『随分とてこずらせてくれたけど、さすがにあの娘もだいぶまいってきたみたいね。それじゃそろそろ引導を渡してあげようかしら…。』
そう考えてマヤは心の中でほそく笑んだ。
それから10分後、
「それでは本日の講義はこれで終了します。それと皆さんに一つお知らせがあります。」
その時マヤとアスカの目線が交差する。
アスカはドキリとした。
心なしかマヤの顔が笑っていたような気がしたからだ。
嫌な予感がする。
『今度は何を仕掛けてくるつもりなのよ。』
次にマヤが告げたのは研修期間の短縮化だった。
「……………………………というわけで、研修カリキュラムの変更に伴い、研修期間が一ヶ月ほど短縮され、本来7月末で終わる研修が6月末で完了することになりました。」
確かにそれは必然の帰路だった。
研修全体のカリキュラムの総量が決まっている以上、学習ペースがアップすれば研修終了期間が早まるのは当然のことだろう。
そのマヤの言葉にほとんどの研修候補生は安堵の声を漏らす。
「やれやれ、後二ヶ月でこの地獄から解放されるのか。」
「まったく、研修が始まった当初は天国だったのにな。」
「まあ、世の中そんなに甘くはないってことだな。」
「何にしてもあと二ヶ月の辛抱だよな。」
「そうそう。」
ほとんどの候補生は研修が短縮されたことを喜んでいたが、一人呆然としていた候補生がいた。
アスカである。彼女はそのマヤの言葉に愕然としていた。
彼女の場合は他の候補生とはまったく事情が逆だったからだ。
『あと二ヶ月しか日本にいられなくなる。』
研修の終わりは帰国を意味していたからだ。
そして未だアスカは目的を達していない。
アスカは呆然とした表情でマヤの顔を見る。
マヤはアスカの視線に気づくと、勝ち誇った表情でアスカを見下ろした。
『マヤ!そんなにあたしが憎いの!?そこまでしてあたしをシンジから引き離したいの!?』
アスカはそうマヤを罵りたかったが、その想いを言語化することは出来なかった。
マヤは打ちのめされたアスカの表情を満足そうに見届けた後、
「今日はこれで解散です。皆様お疲れさまでした。」
と挨拶して今日の講義を終了させ、研修ルームから出ていった。
マヤは廊下を歩きながら、先の打ち沈んだアスカの表情を思い浮かべて
『あと、もう一息ってところかしらね。最後の締めは期待しているわよ、マナちゃん。』
マヤの手の内に、弱りきったアスカに止めを刺す為の切り札(エース)が用意されていることをアスカは知らなかった。
「ただいま…。」
宿舎へ帰宅したアスカは挨拶するが返事はない。
明かりを点けた途端、一ヶ月前よりさらに酷くなった部屋の有り様に愕然として大きくため息を漏らす。
もはや、まともな一人暮らしの生活を続けられる状況ではなかった。
今のアスカは精神的にも肉体的にも完全に追いつめられていた。
「あと、二ヶ月で研修は終わる…。そしたらあたしはドイツに帰らなければならない…。そしたらシンジとはもう………。」
アスカには何が何だか分からなくなってきた。
無理して学校に通っているのはシンジに近づくため…。
ただそれだけのことなのにマヤに目の敵にされている。
学校でも少しづつ居場所がなくなっていくのを感じる。
そうまでして頑張っているのに、なのに一向にシンジには近づけない。
どうして?
拒絶されるのが恐いから…。
そうやって結末をずるずると引き伸ばしている。
けど、いつまでも今のままではいられない…。
やがて研修は終わってしまう。
そうなったらあたしはここへはいられない。
そうなる前に自分の想いをシンジに言わなきゃいけない。
けど、言い出すきっかけがない。
言える勇気がでない。
けど、何時になったら勇気がだせるの?
わからない…。
明日になればきっと…。
そうやって自分を誤魔化すだけ…。
いつまでも同じことを繰り返すだけ。
たぶんそうしているうちにあっという間に研修の終わりが来てしまう。
だとしたらあたしは一体何しにここへ来たのだろう?
シンジに近づきたいのに、近づけない。
アスカの心は不毛な論理のパラドックスに陥っていた。
アスカはお湯を張ってバスタブに浸かったが肉体の疲れをわずかに癒せても、心の疲れを癒すことは出来なかった。
風呂を出て寝間着に着替えたアスカはそのままふとんの上にぶっ倒れた。
「あたし、本当に何やっているんだろう…。」
そこでアスカは完全に思考を停止させた。
もう何も考えられなかった。
何も考えたくなかった。
『今日はどうしよう…。委員会に顔をだすか、それともどうせ明日研修だから、今日はこのまま帰って寝たほうがいいのか…。』
その週の金曜日の放課後、学校を下校したアスカは町を歩きながらこれからの行動を思案する。
『それにしても研修と学校の掛け持ちなんて、なんであたしこんな馬鹿みたいなことしてるんだろう…。こんなことしたってシンジにあたしの気持ちが伝わるわけじゃないのに…。』
アスカは何の成果も得られない学園生活に疑問を持ち始めた。そしてそれを必死に守ろうとしている自分自身に自嘲する。
『あたし、本当に何やっているんだろう…。』
一ヶ月前は宝石のような輝きを誇っていたアスカの蒼い瞳は、今では暗く濁っていた。
その時、後方から誰かがアスカに声を掛けた。
「アスカさん…。」
その声にアスカが振り返る。
アスカの淀んだ蒼い瞳にアスカと同じセーラ服を着た茶色のショートカットの少女が写った。
「き…霧島さん?」
マナは鳶色の瞳でアスカを無表情に見つめながら
「ちょっとアスカさんにお話があるのですが、よろしいでしょうか?」
「えっ!?」
アスカは驚きの声をあげる。
「あ…あたしに?」
「はい、そうです。」
『どうして霧島さんがあたしに……。』
最近妙に敵愾心剥き出しでアスカを睨んでいることと関係あるのだろうか?
今も感情を抑えているみたいだが、アスカを見つめるマナの鳶色の瞳に好意が一分子も含まれていないことだけは確かだ。
『どうしよう…。何だかすごく嫌な予感がする。』
悔しいことに日本に来てからのアスカの悪い予感は全て的中していた。
マナがアスカに何を話そうとしているのかは分からないが、少なくとも茶飲み話でないことだけは確かだろう。
アスカはしばらく考えこんだ後、
「わ…悪いわね。霧島さん。これから委員会の方へいかないといけないから…。」
アスカは自分の勘を信じて、マナから逃げようとしたが、
「シンジのことで話したいことがあるんです。」
それを悟ったマナは“シンジ”という単語を紡いで逃げ道を塞いだ。
「!?」
「シンジのことで是非アスカさんと話したいことがあるんです。それでも駄目ですか、アスカさん?」
「……………………………わ…分かったわ、霧島さん。」
アスカはやや瞳を逸らしながらそう答えた。
シンジを巡るライバルである霧島マナからシンジの名前を出されては逃げるわけにはいかなかった…。
「それじゃ、どこか二人で話せるところで…。」
そう言ってマナは近くにあった喫茶店へ入っていき、アスカも黙ってマナの後についていった。
アスカとマナは向かい合わせの席に腰を下ろし二人分のコーヒーを注文すると、しばらくの間は沈黙が続いた。
やがて、コーヒーが運ばれてきたが、マナはコーヒには手を付けずに、無言のままじっとアスカを見詰めている。
アスカはミルクと砂糖を入れて軽くかき混ぜた後、眠気覚ましと脳の活性化を促す為にコーヒを一気飲みしながらマナの真意を思案する。
『話ってなんだろう…。ましてやシンジのことでなんて…。もしかして、あたしにシンジと別れて欲しいとか頼むつもり…そんなわけないか。悔しいけど、どう考えたって今は霧島さんの方がシンジに近いんだし…。』
そう考えてアスカは軽く内心でため息を漏らす。
アスカが空になったカップを受け皿に戻した時、ようやくマナが口火を切った。
「私、アスカさんのことを見損なっていたみたいです。まさか、あんな酷いことをする人だとは思わなかった。」
「!?」
アスカはいきなり何を言われているのか分からなかった。
「ちょ…ちょと、霧島さん。いきなり何を言っているのよ?」
「私、アスカさんはシンジのことを好きだと思っていたんですけど、どうやら違っていたみたいですね。」
その一言にはさすがにアスカもムッときた。いきなり酷い人呼ばわりや、ましてや自分のシンジに対する想いを否定されたら当然であろうが、精神的に余裕がないアスカは、なぜマナが突然こんなことを言い出したのかには思い至らずに
「い…いきなりふざけたこと言わないでよ!あんたにあたしの想いをどうこう言われたくないわ!」
若干だが乱暴な言葉遣いに昔のアスカの地が出始めた。
マナはあくまで冷静な表情で
「そうなんですか?それじゃアスカさんはシンジのことが好きなんですか?」
「!!」
そのマナの質問にアスカはしばらく躊躇った後、
「そ…そうよ。悪い!?そりゃ、霧島さんには迷惑かもしれないけど、あたしが誰を好きになろうとあたしの勝手でしょう!?」
頬をやや赤く染めながらアスカは答える。
ここまで事態が推移した以上はもう後に引くことは出来なかった。
「けど、何で今更こんなこと聞くのよ?霧島さんはあたしの気持ちを知っているんでしょう?どうせ学園であたしの気持ちが分からない奴なんてバカシンジぐらいなのに。」
「……………………………………………。」
マナはそのアスカの質問には答えずに冷ややかな瞳でアスカを見つめている。
「ちょっと、何とか言いなさいよ!何も言わないんだったあたしはもう帰るわよ!」
アスカが席を立ちかけた時に再びマナが声を掛ける。
「そうなんですか…。アスカさんはシンジのことを好きだったんですか?アスカさんの三年前のシンジに対する態度を考えたら私にはそうは思えないんですけど…。」
声の端々に若干だがマナらしくない刺が感じられる。
「あ…あんたね!そりゃ確かにあたしはシンジのことをよく引っ叩いたり、馬鹿にしたりしていたけど、それは……………………。」
アスカが口篭もりはじめたので、
「一種の愛情表現ですか?」
「そ…そうよ。」
『さっきから一体何なのよ。霧島さんてこんなに性格悪かったかしら。これじゃまるで………。』
アスカは考えるのも忌々しいシンジの保護者の女性を思い出す。
「とにかく…」
アスカが大声で次の言葉を紡ごうとした時、次にマナから放たれた言葉がアスカの怒気を一瞬で封じ込めた。
「それじゃ、シンジを自殺未遂にまで追いつめたことも愛情の裏返しだとアスカさんは言いたいんですか?」
「!?」
アスカの脳はほんの一瞬だがその言葉を受け取るのに拒絶した。だが、僅かなタイムラグが置いて、そのマナの言葉が染みのようにアスカの心に広がっていく。
『な…何?今なんて言ったのよ!?どうして霧島さんが三年前のあの事件のことを知っているのよ!?』
さっきまで怒りと照れで真っ赤に染まっていたアスカの顔がみるみると青ざめていく。
「き…霧島さん。ど…どうしてそれを?」
先程とはうって変わった弱々しい声でそう尋ねるアスカに、マナの顔色が急激に変化した。
「やっぱり本当のことだったんですね!?」
そのアスカの言葉を聞いた瞬間、今まで無表情だったマナの鳶色の瞳にアスカに対する強い憎悪と露骨な嫌悪感が宿った。
「……………………………………………。」
アスカは何も言えずマナの雰囲気に飲まれ始める。
「最初、マヤさんからこの事を聞いた時は半信半疑でした。今でもアスカさんがシンジにそんな酷いことをするなんて信じられなかった。だから少し探りを入れてみたんですけど、どうやらマヤさんが言っていたことは全て真実だったみたいですね。」
『マヤ!?』
マナの口からマヤの名前が出てきたことでアスカは完全に状況を理解した。
『あの女!とうとう霧島さんを抱き込んだのね!』
目の前の少女がマヤから送られてきた刺客であることはもう疑いようがないところだった。
…となると戦況は著しく自分に不利なことにアスカは気がついた。
「あたし…、三年前、本当はこの町から離れたくなかった…。シンジの側にいたかった。けど、あたしがシンジの側にいたらシンジに迷惑がかかると思ったからこの町から出ていったんです。それにアスカさんがいればきっとシンジは大丈夫だと思ったから黙って身を引いたんです。なのに…。」
マナの鳶色の瞳に何時の間にか涙が溜まりはじめた。
「アスカさんにとってシンジは一体何なんですか?あんなことをしてシンジを追いつめるなんて酷すぎます。悔しい!アスカさんがそんな人だって分かっていたらあたし絶対にあの時シンジの側を離れなかったのに…。」
そう言ってマナは悔しそうな目でアスカを睨んで鳴咽を漏らした。
「き…霧島さん…。」
アスカは青ざめた顔でマナの顔から目を背けた。
今の自分にマナに抗することは不可能に思えた。
マナの鳶色の瞳の中に自分を貶めようという悪意は欠片もなく、ただ自分の大切なモノを傷つけたアスカに対する純粋(ピュア)な怒りに満ちていたからだ。
『霧島さんは本気でシンジのことを想っているんだ。そしてシンジの為に黙って身を引いてさえみせた。それに比べてあたしは……。』
マナの純粋(ピュア)な想いに比べて、かつて悪意の限りを尽くしてシンジを精神崩壊まで追いつめた自分のシンジに対する想いはえらく薄汚れているような気がしてならなかった。
『やっぱり、あたしはシンジを好きになる資格はないのかもしれない……。』
アスカはどんどん自分の想いに自信を失いかけていった。
「マヤさんは言ってました。アスカさんはシンジを一度壊しただけじゃ飽き足りずに再びシンジに復讐するために日本へ戻ってきたって…。本当なんですか、アスカさん!?」
「なっ!?」
マナの言葉にアスカは驚きの声を上げる。
それは濡れ衣もいいところだった。
『マヤの奴、いくらなんでも酷すぎる。あたしの気持ちを知っているくせに、そこまであたしの想いを貶めるなんて…。』
この様子だと恐らくマヤは、シンジが先にアスカを傷つけたという都合の悪い部分を一切省いて、アスカを一方的な悪者に仕立てあげた上で、マナを焚き付けてきたのだろう。
だとしても今のアスカにはマナに対して何も申し開きすることは出来なかった。
自分がシンジに対して明確な悪意を抱いていたことや、自分がシンジを自殺未遂にまで追いつめたことは代えようがない確かな事実だったからである。
「どうなんですか、アスカさん!?アスカさんがこれからさらにシンジを傷つけるつもりならあたし絶対にあなたを許さない!アスカさんと戦います!」
そう宣言するマナの鳶色の瞳は災の水晶のような強い意志に満ち溢れていた。
マナの剣幕にアスカは完全に飲み込まれた。アスカは慌てて
「ち…違うわ、霧島さん!あたしはもうシンジのことを怨んでない!三年前のことも本当に済まなかったと反省しているの…。だから、もうシンジを傷つけるつもりはないの。それだけは本当なの。お願い。信じて、霧島さん!」
そう言ってアスカは脅えた目で縋るようにマナを見つめる。
「…………………………………………………………。」
マナは何も言わずに、アスカを吟味するような目で見る。
どうやらアスカの言っていることの真偽を図っているみたいだ。
それからしばらくしてマナは表情を消すと
「分かりました。三年前のことはもう言いません。シンジは今では立ち直っているし、その事を少しも気にしていないみたいだから…。その代わり一つだけ聞かせてください。アスカさんは本当にシンジをどう想っているのですか?」
「!?」
「マヤさんはアスカさんのシンジに対する感情は憎悪しかないって…言っていたけど、あたしにはそうは思えなかった。三年前のアスカさんの態度はあたしにはどうしても演技には見えなかったから…。」
「き…霧島さん…。」
「だからアスカさんの本当の想いを聞かせてください。あたしはシンジが好きです。アスカさんはどうなんですか?本当にアスカさんの中にはシンジに対する憎悪しかないんですか?」
そう言ってマナは真剣な表情でアスカの答えを待つ。
しばらく沈黙が流れる。
一口も口をつけてないマナのコーヒーが完全に冷め切った頃、ようやくアスカは口を開いた。
「あ…あたしは……シンジのことを……。」
そこで少し口篭もる。
先の自分を糾弾するマナの言葉がアスカの頭の中に浮かび上がり、アスカは辛そうに唇を噛む。
『心から愛している。』
「何とも思っていない…。」
アスカは弱々しくマナにそう告げた後、がっくりと肩を落とした。
それはアスカの敗北宣言だった。
アスカはふらふらとした足取りで町を彷徨っている。
今、自分がどこを歩いているかも分からない。
アスカは自分でも気づかないうちに怪しげな通りに入りこんでいた。
アスカの宝石のような蒼い瞳は完全に死んでいた。
今のアスカの精神状態は三年前、シンクロ率がゼロになって当てもなく廃虚を彷徨っていたいた時に酷似していた。
そして今アスカの心を覆い尽くしていたのは深い絶望だった。
そのアスカの心理状態を示すかのように天候が変わりはじめる。空は黒雲に覆われ、星の光は消えた。
言えるはずがなかった…。
本気でシンジの幸福を願って自分にシンジを託して身を引いた少女を前にして、一度明確な悪意を以ってシンジを徹底的に不幸にした挙げ句シンジを見捨てた自分が今更シンジを好きだと言えるはずがなかった。
その結果、アスカは自らライバルを前に勝負を降りてしまった。
「そんなこと分かっていた…。あたしにはシンジの隣にいる資格がないなんてことは始めっから分かっていた。けど…。」
アスカは自分の胸に手を当てる。
心臓がドクドクと強く波打っている。
「けど、この胸の熱い想いを一体どうすればいいのよ!?本当に好きなのに…。どうしようもないくらい愛しているのに…。一体どうすればあたしはシンジのことを諦められるのよ!?」
アスカの瞳には深い絶望が宿っていた。
ここまでマヤの描いたシナリオは九割方順調に進んでいた。
最後の切り札(エース)として投入した霧島マナは期待通りの働きをして、アスカのシンジに対する想いを打ち砕くことに成功した。
だが、今回の一連のシナリオに“ジョーカー”(道化師)と呼んでいい、二枚のカードが紛れ込んでいることにマヤは気がついていなかった。
そして、カードゲームにおいて常に諸刃の剣であるジョーカーのカードの効力が、これ以後の展開をマヤのシナリオから大きく狂わせることも…。
そして、今、二枚あるジョーカーのカードの内の最初の一枚を演じることになる少年がアスカに近づきつつあった。
「惣流……。」
少年がアスカを後ろから呼びかける。
その声にアスカは振り返る。
アスカの蒼い瞳にメガネを掛けた自分より背の低い平凡そうな少年が写った。
「相田……。」
アスカは生気に欠けた掠れた声で少年をそう呼んだ。
「惣流。ちょっと、話したいことがあるんだけど、いいかな…。」
少年は頬をやや上気させながらそう呟いた。
少年は自分の想いを少女に伝えるつもりだった。
偶然一人で歩いているアスカを見つけた時、何度も悩みながら決意したのだ。
人目の多い学校で告白する勇気は少年にはない。
無論、告白がうまくいくなんて少しも思っていない。目の前の少女が誰を好きなのか、少年は痛いほど知っていたからだ。それゆえ自分が振られることを覚悟しての行動だった。
そうまでして、少年を決意させたものは膨らみ続けて歯止めが効かなくなりつつあった少女への想いにケリをつけるためだった。
少女から明確な拒絶の言葉をもらえば、諦めがつき少女への想いを吹っ切ることが出来るかもしれない。
少なくとも、望みのない希望に縋って悶々と悩み苦しみ続けるよりはましなはずだ。
本当に吹っ切れるという保証はまったくなかったが、少年はそう信じて、その可能性に一縷の望みを託した。
「…………………………………………………。」
アスカは無言のまま少年を見つめる。
少年には気の毒だが少年の存在はアスカにとっては興味の対象外だった。
「とりあえず、どこか別の場所……。」
「話しがあるんならさっさっとして!でなければあたしは帰るわよ!」
少女は面倒臭さそうに答える。
学校では目の前の少年と楽しく話すことは出来たが、今は誰とも関わりたくない気分だった。
少年は周りの景色を見る。
怪しげな風俗の店が建ち並びどう考えても告白するような雰囲気の場所ではない。
『まあ、今更関係ないか。振られる為の告白なんだからな…。』
少年はやや自嘲しながらそう考えた。
少年はアスカの方を向き直った後、
「そ……惣流…。あ…あのさ…、お…俺……。」
少年は真っ赤になって何度か口篭もる…。
「………………………………………………。」
アスカは無表情に少年を見下ろす。
「お……俺は…そ…その……そ…惣流のことが…す…好きなんだ…………。」
少年はしどろもどろになりながらも何とか最後まで言い切ることが出来た。
『言ってしまった……。』
予想していたより、はるかに簡単に告白することが出来た。
この先の展開は分かっている。
『ごめんなさい…。』の一言で自分の想いの全てが否定されるだけの話だ。
すでに学園で何人かの男子生徒がその少女の洗礼を受けたのを少年は何度も見てきたのだ。
少年はすでに覚悟を決めていた。
「………………………………………………。」
アスカは無言のまま少年の言葉を受け取った。
少年の予想通り、その少年の告白はアスカに何の感銘も与えなかった。
アスカはここ数年愛されることに慣れていた。
今、アスカは愛されることよりも愛することを求めていた。だが、そのアスカの想いはついさっき許されざるモノとして自ら否定したばかりだった。
アスカの濁った蒼い瞳に少年の左手にある建物の煌びやかなネオンの文字が目に入った。
『そっか…。どうすればいいか分かった……。汚れてしまえばいいんだ……。』
この瞬間、アスカは先ほどの自問の答えを導きだした。
あくまで結果としてではあったが、少年の告白は、追いつめられた少女の心の隙間に付け込む形となってしまった。
そして少年にとっては残酷なことだったが、アスカは少年の告白に、只利用する価値を見出しただけだった。
「ははっ…。やっぱり駄目だよな…。俺なんか全然惣流と釣り合わないしな…。今言ったことは忘れてくれ…。」
少年は自嘲するようにそう呟きながら、クルリと踵を返すと、少女の答えを待たずに少女から離れようとしたが、その時
「!?」
アスカは少年の手首を掴んだ。
「そ…惣流…?」
少女に手を触れられただけで、少年の胸が高鳴りはじめる。
少年は本当に自分が少女を好きなことを改めて確信した。
「ねぇ、相田。あんた本当にあたしのことが好きなの?」
アスカは表情を消してケンスケに尋ねる。
「あ…ああ…。」
少年は少女から目線を逸らせながら、頬を赤く染めて肯いた。
「そう…。」
そう言ってアスカは俯いた。
『惣流の奴、一体どうしたんだ?いつもと全然反応が違うじゃないか…。』
元々、少年は人を見る目に長けているほうだったが、この時はさすがに少女への想いに囚われて得意の鑑定眼をやや曇らせていた。
何時もの少年だったら、今のアスカの様子が尋常でないことに気づいていたはずだからである。
「それじゃ、それを証明してみせて…。」
アスカはそう言うとケンスケを引っ張って近くにある建物の中に入っていった。
そして影からその様子を見ていた人物がいたことに、この時二人は気づかなかった。
少年は自分の今の立場が把握できずに呆然としている。
自分は今、奇麗な内装が施された部屋の大き目のベッドに腰を下ろして少女を待っている。
少女は隣のバスルームでシャワーを浴びているはず…。
そして今自分達がいる場所は“ラブホテル”と呼ばれる場所だった。
『なぜ、こんなことになっているんだ?』
こんなことは少年の予定表にはなかった。
少年の予定では今頃は自宅で自棄酒でも飲みながら自分を慰めていたはずである。
それが今少女は少年に抱かれようとしている…。
いくら何でも話がうますぎる。
少年は一瞬自分が夢を見ているのかと錯覚したが、今少年がいる場所は確かに現実だった。
『惣流は一体何を考えているんだろう?』
少年には少女の真意は分からなかった。
だが、少なくとも少女も実は自分のことを好きだった…などと思い込むほどには、ケンスケは自分を美化してはいなかった。
少女の行動は少年には“意中の男性に振られて自棄になった女の捨て鉢の行動”としか思えなかった。
『惣流の意中の男性っていうとやっぱりシンジだよな…。』
もう一度ケンスケは先ほどまで隣にいた金髪の少女の顔を思い浮かべる。
そしてあの時、少女の輝くような蒼い瞳が完全に死んでいたことをようやく思い出した。
『やっぱり、惣流とシンジの間に何かあったんだ。突然告白した俺なんかに抱かれようなんて…自分を投げ出すくらいショックなことが…。』
このケンスケの予測は半分だけ当たっていた。
アスカが絶望に打ち震えていたのは確かだが、その絶望を直接与えたのはシンジではなかったからである。
その時、ケンスケの中に一つの疑問が湧き上がった。
本当にこれでいいのだろうか…?
『いいのか。本当にこのまま惣流と最後まで行っちまっていいのか?俺のやっていることは弱っていた惣流の心の隙間に潜り込んだだけなんじゃないのか!?たぶん、惣流は一時的な気の迷いで自棄になっているだけだ。本当にこのまま惣流を抱いちまっていいのか?』
少年は少女に対する純粋(ピュア)な想いに心悩ませる。
だが、少年の心とは別に少年の体は先程から確実に少女を欲しがって疼いている。
少年は少女に対する想いと性欲の狭間のジレンマに悩まされ悶々とし続けた。
アスカは浴室で熱いシャワーを浴びている。
水分を大量に含んだアスカの金色の髪がアスカの体に張り付いて、水滴でキラキラと輝いて神秘的な美しさを醸し出している。
『あたし何やっているんだろう?』
この時のアスカの蒼い瞳は完全に死んでいた。
アスカは今貞操を投げ出そうとしていた。
それは貞操を軽視している為ではない。
むしろ逆の発想故だった。
確かにかつてのアスカは女であることを嫌っていて、さらに一時期自分が汚されたと信じこんだが故に貞操という観念そのものを軽視していたが、今は違う。
もともと、貞操にどの程度の価値を置くかは人によって違いがあるだろうが、サエコとの交流から今のアスカにとっては絶対的なものまで昇華していた。
だからこそ、アスカは今ここでそれを捨てようとしていたのである。
『三年前、あたしの心はシンジを裏切った。だからあたしはシンジを好きになる資格はないんだ。今度はシンジ以外の男に抱かれれば、あたしは心も体もシンジを裏切ることになる。心も体も資格を失えばきっとシンジのことを忘れられる。』
アスカはそう信じた。
一時的にしろ、そう思い込むほど、この時のアスカは完全に追いつめられていた。
次の瞬間、アスカは自分を諭してくれたサエコのことを思いチクリと心を痛ませた。
ごめんね、ママ。
あたし本当に馬鹿な事しようとしている。
うん、自分でも分かってる…。
ママが女にとって貞操がどれほど大切なものか身を以て教えてくれたのにあたしはそれを捨てようとしている。
けど、分かってよ。
あたしこうでもしないとシンジのことをあきらめられないのよ!
アスカの蒼い瞳から涙が零れ落ちたが、その涙はシャワーによって洗い流されてしまった。
『本当にこれでいいのか?』
少年は何度も何度も自問を繰り返す。
「お待たせ…。」
その時、バスルームの扉が開いてアスカが赤いバスタオルを体に巻きつけているだけの、半裸の姿で現れた。
腰まで届く金色の髪をキラキラと靡かせて、チラリと覗かれた雪のように白い肩から湯気が立ち続ける。この時のアスカの姿は美の女神(ヴィーナス)のような神秘的な美しさに満ちていた。
ゴクリ!
少女の姿を見た瞬間、少年は生唾を飲み、先ほどまで少年を悩ませていた理性は一瞬にして崩壊した。
そして情欲という名の蛇が欲望の鎌首をもたげはじめる。
『少女が欲しい!』
もう、今の少年の心の中には性欲以外の感情は存在しなかった。
この瞬間少年は獣と化した。
アスカはベッドの端に腰を下ろすと、呆然と自分を見つめる少年を見る。
わずかながらにアスカの心に自分を慕う少年に対する罪悪感が生まれる。
相田、ごめんね。
あんた、本当にあたしのこと好きなんだよね?
あたしはそんなあいつの気持ちを自分を傷つける為だけに利用しようとしている…。
本当に最低の女!
自分で自分が嫌になってくる。
少年が緩慢な足取りでアスカに近づいてくる。
アスカは蒼い瞳に空ろな光を称えて少年を見つめて
ごめん、相田。
あんたにあたしの心はあげられないけど、そのかわりにシンジにさえもあげられなかったあたしの純潔をあげるからそれで許してね。
少年の手がアスカのバスタオルに伸びてくる。
アスカはビクッとする。
そして少年の手がバスタオルに触れた瞬間アスカは覚悟を決めて目を閉じた。
再びアスカの蒼い瞳から涙が零れ始める。
アスカは閉じた瞼の裏で、黒髪の少年の笑顔を思い浮かながら、心の中で呟く。
『さよなら、シンジ!』
つづく…。
けびんです。
次回Rモードに突入すると思います。
………………なんか雰囲気がヤバクなってきたので、逃げます。
それでは次回第十九話「純潔」(やばそうな回だけサブタイトルが決まっているとんでもない作者)でお会いしましょう。
シュワッチ!