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ハーベンブルグ工科大学。

ベルリンに敷地を持つ、ドイツで最も工学分野の実績・名声の高い大学である。特にここの大学院出身の研究者はあらゆる工業分野のエキスパートの即戦力として期待されている為、多くの有能な技術者を即時必要とする人類支援委員会のドイツ支部も多大な援助を行なっていた。

12月のある日、ここの講堂で在籍する院生を集めての定期集会が行われていた。 そして今日は、この月に博士号を取得した7人の学生の授与式も兼ねていた。

教壇の前で70代の頭の半分禿げ上がった名誉教授が院生の名を読み上げるつど、名を呼ばれた院生は教授の前へ顔を出し、表彰状を受け取り、教授と握手を交わした後、自分の席へと帰っていた。

そして六人目までの博士号取得者が全て表彰を受け、最後の一人が呼び出された。

その最後の博士号取得者は女性だった。

それも、どう見ても17歳ぐらいの少女にしか見えなかった。

少女は躍動感あふれる歩調で進んでいく。

さきほどまで退屈そうに授与式を眺めていた院生たちの目が少女の姿に釘付けになる。

身長は170cm近くあり女性としては高い方で、均整の取れた肢体はトップモデル並みの抜群のプロポーションを誇っていた。

少女の、輝く宝石のような蒼い瞳、染み一つない白皙の肌、そして少女の豪奢なブロンドの髪が揺れるつどキラキラ光輝く粒子があたりに振りまかれるような錯覚を周りの者は覚えた。

少女が側を通り抜けるつど、院生の多くは思わず少女の美しさにため息を漏らした。

少女はまるで美の女神(ヴィーナス)の寵愛を一身に受けた至高の芸術品のような美しを誇っていた。

ようやく少女は教壇の前へたどり着いた。

教授が緩慢な口振りで少女に与えられる表彰状を読み上げる。

少女は満面の笑みを浮かべて教授と握手して表彰状を受け取りと、クルリと踵を返して自分の席へと戻っていった。

 

やがて、集会はお開きになり少女は声をかけてくる院生達を適当にあしらいながらキョロキョロと首を動かして誰かを探している。

やがて、目当てのモノを見つけた少女は瞳を輝かせて

「ママ〜!!」

と叫んで、後ろの席にいた中年の女性に抱き着いた。

少女に抱き着かれた女性は、慈愛の目で少女を見下ろして

「おめでとう、アスカ」

と少女に声を掛け軽く少女の頭を撫でている。

少女はその言葉に、先程とは違った母親に甘える幼子のような無邪気な笑顔で、本当に嬉しそうに微笑んだ。

少女の名は惣流・アスカ・ラングレーと言った。

日本から離れて3年。

かつて14歳で大学を卒業した赤毛の天才少女は、今では17歳の若さで博士号を取得した金髪の美女に生まれ変わっていた。

 

 

 

「二人の補完」

 

 

  第十二話 「二人目のママ」

 

 

 

その夜、アスカはベルリンにある高級ホテルの最上階のレストランで同じ院生の一人と夕食を共にしていた。

絶世の美女と称しても決して過言ではない今のアスカは、ボーイフレンドを探すのに苦労しなかった。

なぜか、いつも長続きはしなかったが…。

今、アスカが付き合っているのは同じ大学院の先輩である、ラインハルト フォン ルードリッヒという院生だった。

現在二十歳で、アスカと同じく飛級で大学を卒業し、すでに3つの博士号を取得し院内で研究室を与えられていた。

190cm近い長身で、アスカと同じ金髪と蒼い瞳をしており、背の高さに似合わない柔らかそうなフェイスは十分女性に受けるだろう。

ドイツの名門貴族ルードリッヒ家の次期当主で、容姿・学歴・家柄とおおよそ考えうる限り最高の履歴書の持ち主だった。

「博士号取得おめでとう、アスカ」

ラインハルトはワイングラスを差し出して、柔らかい笑顔でアスカを祝福した。

アスカは頬を赤らめてはにかんで

「ありがとう、ラインハルト。けど、まだまだあなたにはかなわないわ…」

と謙遜し、自分の持つグラスを彼の持つグラスに合わせた。

 

アスカが博士号を取得した内容は「人工知能OSの発展の可能性」という名の博士論文だった。早い話しはMAGIの処理能力を今より25%バージョンアップさせる理論を体系的にまとめたモノだった。

アスカは発信性(想像力)の能力が低いため、無から有を生み出すような新規開発には向いていなかったが、その分、受信性(理解・処理能力)の能力が格段に高く理解力・応用力に優れていた為、すでに出来上がっている既存の理論を組み替えてさらに一段上の領域へ引き上げるベースアップ作業に適していた。

そういう意味ではアスカの脳細胞は、オリジナリティーには欠けるが、既存のモノをベースしてさらに良いモノに改良してしまう日本人としての遺伝子を多く引継いでいると言えるだろう。

 

ワインを一口飲んで、アスカは自分を見つめるラインハルトの暖かい瞳に気がついて、柔らかい笑顔を返す。

かつてのアスカの属性であった、他者を拒絶する険のような表情は今のアスカには微塵も存在しなかった。

蒼い瞳の中にも、かつての他人を見下すような勝ち気な色は完全に消えていた。

今のアスカの表情は柔らかさと温かさに満ちていた。

ラインハルトはアスカの太陽のような笑顔を見て、次第に自分の鼓動が高くなっていくのを感じた。

彼は女性にもてるタイプだったので今まで少なくない女性と付き合ってきたが、こんな気持ちにさせられたのははじめてだった。

『今日こそは…』

彼は密かな決意を胸に秘めながら、巧みにアスカとの会話をリードしていった。

 

アスカもラインハルトとの楽しい談笑に時が経つのを忘れていたが、ちらりと腕時計を見て、

「あら、もうこんな時間だわ。そろそろ帰らなきゃ…。ラインハルト、ありがとう。今日は楽しかったわ。」

と、ワインで火照った顔に満面の笑みを浮かべて挨拶して、席を立とうとした。

その時、ラインハルトはアスカの手をつかんだ。

「ラインハルト…?」

アスカは彼の行動に戸惑う。

ラインハルトはアスカの顔を見て一瞬躊躇った後、

「アスカ、実は今日は部屋を予約してあるんだ。」

「え…!?」

アスカは半瞬考えこんだ後、彼の言っている意味を理解して、やや脅えた表情をする。

次の瞬間、ラインハルトは強くアスカを抱きしめた。

アスカは一瞬呆然とした後、

「ちょ…ちょっと……ヤダ! 離して…」

と弱々しく抵抗して彼の中から抜け出ようとした。

だが次に彼から放たれた言葉がアスカから抵抗する意志を奪い取った。

「アスカ、愛してる。」

その言葉を聞いて、アスカの中から急速に力が抜けていった。

すでにアスカの蒼い瞳は小波のように揺れている。

ラインハルトはそれを感じとると、さらに力を込めてアスカを抱きしめながら

「本当に愛しているんだ、アスカ。決して中途半端な気持ちで言っているんじゃない。だからこそ君が欲しいんだ。必ず君を幸せにしてみせる。だから僕に君の全てをまかせて欲しい…。」

 

『愛してくれるの?あたしを…?』

アスカの蒼い瞳が淀んでいる。

それは今までずっとアスカが求め続けてきたモノ…。

もう、誰からも愛されなかった悲しい子供ではない。

エヴァに縋り付かなければ生きていけない哀れな少女ではない。

他者を拒絶するコトをやめて、他人を受け入れはじめた少女は、はじめて愛というものを異性から与えられるようになった。

 

アスカは再び彼の顔を見上げる。包み込むような柔らかい笑顔。誠実そうな暖かい目。 嘘は言っていない…。

『この人は本気であたしを愛してくれる。あたしがずっと求めて得られなかったモノを与えてくれる…』

アスカの中に熱いモノが込み上げてくる。

ラインハルトはアスカの心が定まったのを確認してゆっくりと自分の唇をアスカに近づけた…。

『彼となら…』

アスカは覚悟を決めて自分の瞳を閉じた。

だが、彼の唇がアスカの唇に触れようとした時、突然、線の細い黒髪の少年のイメージがアスカの中に浮かびあがった…。

 

「ダメェ〜!!!」

 

アスカは強引にラインハルトの手を振りほどき、彼の中から逃れた。

アスカの中に込み上げていた熱いモノが急速に冷え切っていく。

アスカはまるで夢から覚めた表情でじっと彼を見つめている。

「アスカ…」

ラインハルトは『どうして…』と言いたげな表情でアスカを見下ろしている。

 

アスカはその彼の表情に耐えられなくなり顔を背けた。

強い罪悪感が彼女の中に渦巻いてくる。

やがて、意を決したようにアスカは顔を上げる。

そのアスカの蒼い瞳からポロポロと涙が零れ落ちていた。

「ご…ごめんなさい…、ラインンハルト。やっぱり…あたし…だめなの…。もう…だめなの…。本当にごめんなさい!」

そう言うとアスカは逃げ出すようにその場から駆け出した。

後ろからアスカを呼ぶ彼の声が聞こえてくるがアスカは振り返らなかった。

 

『畜生、いつまであたしを縛り付ければ気が済むのよ。いい加減あたしを解放してよ。もう、あたしはあなたに会うことは出来ないのよ。お願いだから、あたしの心の中から出てってよ、シンジ!』

アスカは今、日本にいるはずの少年を、そう心の中で罵った。

 

 

 

アスカはホテルを出るとタクシーを拾った。

行き先を告げて後部座席へ腰掛けると、再び心の中で自問する。

『また駄目だった。これでいったい何度目だろう。今まで誰もあたしを愛してくれないと思い込んでいた。けど、それは間違いだった。それはあたしが自分で勝手に他人を拒絶していただけだったからなんだ。』

アスカはため息をつく。

『あたしが自分から心を開いたら、何人かの男性があたしの想いに答えてくれた。 みんな、あたしの事を心から愛していると言ってくれた。あたしはずっとその言葉を求めていたはずだった。今まで求めて得られなかったモノを手に入れたはずだった。けど、駄目だった。あいつが…シンジが…あたしの心の中に巣くってあたしの邪魔をするから…』

アスカはワナワナと肩を震わした。

『何でシンジなのよ!?バカシンジがあたしに何をしてくれたっていうのよ!?あんな内罰的でいつもおどおどして、あたしの事を傷つけてばかりいて、最期まであたしの事を見捨てて逃げ出したような奴なんかを…』

アスカは自分の手を強く握り締める。きちんと手入れの行き届いた赤いマニキュアの塗られたアスカの長い爪先が、アスカの柔肌に喰い込んだ。

『そうよ!バカシンジとラインハルトなんか比べるまでもないじゃないのよ!何で彼のようなエリートとあんな出来損ないを比べなきゃいけないのよ!?勝負にも何にもなりゃしない!それに何より彼はあたしを愛してくれている…、けど、あの馬鹿はあたしの事なんか愛していやしないのに………何でよ!ずっと愛される事を望んでいたはずなのにどうしてなのよ!?』

 

気がつくとすでにタクシーはアスカの家の前に着いていた。

アスカはお金を支払ってタクシーから降りると、門をくぐって家の中へ入っていく。

表札は「サエコ・ブッフバルト」と書かれていた。

やがて、玄関の前に辿りついたアスカは先の答えを導きだした。

『そっか…、分かった…。どうしてラインハルトじゃ駄目だったのか。どうしてシンジじゃなきゃ駄目なのか。あたしがシンジの事を好きだからなんだ。あたしから全てを奪って逃げ出した奴でも、あたしの事を愛してくれなかったとしても…、それでもあたしがシンジの事を好きだから、シンジでなきゃ駄目だったんだ。』

アスカはようやく自分の本当の気持ちに気付いた。

だが、その真実はアスカに何の喜びも与えてくれなかった。

すでにアスカは3年前にシンジを好きになる資格を失っていると思い込んでいたからだ。

 

 

「ただいま…。」

アスカは鍵でドアを開けて家の中に入って挨拶した。

リビングの奥からサエコが意外そうな顔をして、アスカを出迎えた。

「おかえりなさい、アスカ。早かったわね…。今日はてっきり泊まってくるものと思っていたのだけど…」

アスカはやや俯いて

「ううん、違うわよ、ママ。あたしとラインハルトはそんな関係じゃない。」

サエコはため息をついて

「アスカ、私は確かにあなたに貞操は大切にしなさいと言ったわ。けど、だからってそれは別に結婚するまで頑迷に守り通せという意味ではないのよ。もし、本当に好きな人が出来たのなら、結ばれるのは自然なコトだわ。」

「うん、分かっての、ママ…。でも……」

アスカが先を言おうとしたその時、電話のベルが鳴り出した。

サエコはリビングに戻って受話器を取り上げた。

そしてアスカの方を見て

「アスカ、彼から電話よ。もう一度、話し合いたいって…」

その言葉にアスカは身を強ばらせる。そして

「ママ…、お願い…。もう逢えないっ…て、彼に伝えて…」

「でも、アスカ…」

「お願い…」

サエコはアスカの縋り付くような目を見て、軽くため息をついた後、

「ごめんなさい、ラインハルト。娘は今、逢えないって言ってるわ…。だからもう少し娘が落ち着いたら、また掛け直してちょうだいね…」

と謝罪して電話を切った。

サエコはリビングのソファに腰を下ろしたアスカを見下ろして

「また、駄目だったのね、アスカ」

「………………………………………………。」

アスカは何も答えなかった。

「どうして駄目なの?アスカ。私は今度こそうまくいくと思っていたのだけど…。ラインハルトはとってもいい子よ。誠実だし、有能だし…、それに何よりあなたの事を本気で愛してくれてるでしょう?そりゃ、彼は女性にもてるタイプだから今まで女性との付き合いが皆無だったわけではないけど、今ではガールフレンドも全て整理して、あなた一筋だっていう話じゃない…。」

アスカはしきりに言い訳を考えた後

「確かに彼はエリートだけど、しょせんは温室育ちの坊ちゃんにすぎないわ…。地獄のような過去を体験し、何度も絶望を味わって、ようやくここまでたどり着いたあたしを支えられる強さはないわ…」

アスカはサエコから視線をはずして、そう答えた。

サエコはアスカのふてくされたような顔を見て、やや躊躇った後

「アスカ、確かにかつてエヴァに乗って、この世界を守るために生死を懸けて戦っていたあなたは立派だったと思うわ。
けど、だからって命懸けで戦ったことがない者が、あんたより劣っている弱い人間だという事にはならないのよ…。今のあなたならそんな事はもう十分、分かっているはずでしょう?
それにかつてのあなたが体感した地獄のような世界を共感できる男性なんてまずいないわよ…」

その言葉にアスカは顔を背けて

いたわよ。たった一人だけどね…

サエコに聞こえないよう小さな声でそう呟いたつもりだが、サエコはその言葉を聞き逃さなかった…。

サエコは一瞬躊躇った後、

「シンジ君のことね…」

アスカはその単語に過剰に反応し、ビクッと体を強ばらせた。

アスカの輝く宝石のような蒼い瞳が暗く沈んだ。

その様子を見てサエコは再びため息をついた。

『もう3年にもなるのに、やっぱりまだシンジ君の事を引きずっているのね、アスカ。3年か…。そういえば私がこの娘の保護者になってから3年もたったのね…。』

サエコはふと三年前、アスカと出会った時の事を思い出した。

 

 

 

サエコ・ブッフバルトは人類支援委員会のドイツ支部のMAGIドイツタイプの管理責任者だ。

身長は165cm前後で、茶色の短めの髪と灰色の目をした健康美人だ。

科学者だがあまり白衣を着る事はなく、いつも左腕にやや大きめの赤いリストバンドをつけているのが特徴だ。

ドイツ人の父親と日本人の母親から生まれたハーフで、ドイツで生を受けてからほとんどドイツで育ってきた。

年齢はすでに40代前半に達しているので、さすがに若いころの色香は衰えたが、知性と包容力を同時に感じさせる母性的な女性だ。

27歳の時に夫と死別して、それ以来再婚していない。

勿論、子供もいない。

彼女は旧ネルフのさらに前衛であったゲヒルン発足当時からの技術メンバーの一人で冬月とも個人的な面識を持っている。

赤木母娘のような天才と賞される程の鋭利の冴えはなかったが、安定した能力を誇る有能な技術者として堅実な評価を得ていた。

ゲヒルンが解体され、ネルフと名称を替えた時、彼女は生まれ故郷のドイツへ配属され、以後、ネルフドイツ支部の科学技術部の主力メンバーの一人として活躍していた。

その時はサエコもアスカも同じ職場にいながらも、サエコはセカンドチルドレンだったアスカと面識を持つ機会はなかった。

サエコがはじめてアスカと直接触れ合う機会が与えられたのは3年前、ネルフが人類支援委員会と名称を替え、彼女がMAGIドイツタイプの管理責任者に昇格してからだった。

 

ドイツ支部は、日本政府と武装中立状態の日本の本部に比べれば、比較的本国の政府との関係は良好といえた。

サエコは、ゲヒルン時代から深い交流も持っていた冬月から国際電話を受け取り、セカンドチルドレンをドイツへ送還したいので便宜を図って欲しいと公的に頼れた。そして同時に個人的な頼みとして、今精神状態が極めて不安定になっているアスカを支えて欲しいとも頼まれた。

サエコはアスカの顔を思い浮かべる。サエコもアスカがまだ旧ネルフドイツ支部へいた頃、何回かその姿を見かけた事がある。直接話をする機会はなかったが…。可愛い娘だと思った。だが、どこか無理して大人ぶっているような気がした。何より、いつも蒼い瞳に他人を拒絶するような勝ち気な色を浮かべていた。他人と一緒にいる時はいつも優等生ぶっているが、一人になると蒼い瞳がやや寂しげに揺れているのが強く印象に残っていた。彼女が心を開くのは加持という男性だけだった。

 

サエコはアスカをドイツに入国する公的な手続きを全て済ませると彼女の両親とも連絡を取り、ベルリン国際空港へアスカを迎えにいった。

空港に着陸した特別機から一人降り立ったアスカを見て、サエコは息を飲んだ。

かつてのサエコが見た勝ち気な少女の姿はそこにはなかった。アスカの蒼い瞳は完全に死んでいた。サエコが色々話しかけてもアスカは何も答えなかった。明らかに精神が失調しているように見えた。サエコはこの時はアスカに纏わる詳しい事情を何も知らなかったが、このような精神状態の子供を一人放り出した本部の酷薄な対応に憤りを感じていた。

 

アスカはとりあえず両親のいる家へ戻った。他にアスカに行く当ては存在しなかったからだ…。

アスカの両親は暖かくアスカを迎えはしなかった。

明らかに精神を病んでいるように見えるアスカに彼女の実の父親と継母は何もしようとしなかった。

アスカは一日中部屋へ篭もりっきりで、両親と顔を会わせるのは食事の時間だけだった。

むろん、その時さえこの家族は一言も会話を交わさなかった。

この父娘の関係は完全に冷めきっていた。

 

アスカは今、完全に生きる目的を失っていた。

アスカと現実とを結び付けていた、たった一つの絆はすでに日本で消滅していたからだ。

かつてエヴァに乗る事だけを自分の存在意義としていたアスカは、エヴァを永遠に失った時、その対象を一人の少年にすり替えた。

そしてアスカは、その少年に自分の体に宿っていた負の感情をぶつけ続ける事で自分自身を維持していた。

だがアスカの憎悪を一身に受けきった結果、その少年の心は許容範囲を超え、砕け散ってしまった。

そして少年に対する憎しみだけで現実と自分とを繋ぎ止めていたアスカは少年を失った時、生きる目的を失ってしまった…。

だが同時にアスカは、少年に対する憎悪の裏側に潜んでいた少年に対する本当の想いに気がついた。

あるいは、今までとはまったく逆の生きる目的が見つけられたかもしれなかった…。

だが、大人たちは少年をそこまで追いつめたアスカが、少年の側に留まる事を許さなかった…。

アスカは無理矢理少年から引き裂かれて、生まれ故郷へ送還された。

それ以来、アスカの心は空っぽだった。

かつてのアスカをずっと支えていた意地もプライドも今のアスカには欠片も存在しなかった…。

そんなモノがアスカにいったい何を与えてくれたというのか…?

アスカがすでに内実を失ったつまらないプライドを守る為に意地を張り続けたその結果、アスカは決して失ってはならない、かけがいのない大事なモノを自分自身の手で壊してしまったのだ。

それ以来もうアスカには何もなかった…。

生きる目的も存在する理由も今のアスカは何も持っていなかった…。

 

アスカは毎日、じっと部屋へ篭もったまま窓の外を呆然と眺めていた。

アスカは一月の間、ずっと無気力な日々を過ごしていた。

アスカの両親は辟易とした表情でその様子を見ていた。

 

やがて欺まんと偽りに満ちた家族に破局の日が訪れる。

夜はアスカが唯一感情らしい感情を取り戻す時間帯だった。

だがそれはアスカにとって決して幸福な事ではなかった…。

アスカはその日の夜もいつものようにうなされている。

狂気から覚めて以来、かつて無限地獄を彷徨っていた頃とは異なる種類の悪夢が、毎晩のようにアスカに襲いかかっていたからだ。

アスカは夜中に汗だくになって目を覚ました。

明かりを点けてベッドの側に飾ってある写真をちらりと見る。

そこにはアスカと少年と、その保護者が写っていた。

アスカは写真を抱きしめる。激しい喪失感がアスカの体中に広がっていく…。

アスカはポツリと呟いた…。

「シンジ……………。」

 

やがて喉に渇きを覚えたアスカは1階に降りて洗面所へ向かおうとした。

だが、その途中でピタリとアスカの足が止まった。

深夜にもかかわらずリビングから明かりが漏れている。

アスカがそっと中を覗くと、アスカの父親と継母がアスカの処遇について話し合っていた。

「ねぇ、あなた。いつまであの娘を置いておくつもりなの? まったくあれじゃ人形と何もかわらないじゃない。本当に似た者母娘よね…。」

「仕方がないだろう。私にだって世間体というものがあるんだ。いくら役立たずの娘だからって見捨てるわけにもいくまい…」

「なにを悠長な事を言ってるの…。あなただって分かっているでしょう? 裏ルートから仕入れた情報だとあの娘、戦自を壊滅させ数千人も大量殺戮したらしいのよ。いくら法的に無罪だからって、そんな殺人鬼をいつまでも家族として養うなんてあたしは嫌ですからね…。もし、近所にでも知られたら二度と表を歩けなくなってしまうわ…」

その言葉にアスカの父親もため息をつき

「まったく生きていても、ろくな事をしない娘だ。これならいっその事、一度精神崩壊を起こした時にそのまま眠り続けてくれればよかったものを…」

 

アスカはただ黙って二人の会話を聞いていた。

別にショックを受けたりはしなかった…。

もとよりアスカは自分と母親を捨てた実の父親に何も期待してはいなかった。

アスカは自分の実の父親に血の繋がり以外の特別な絆を何も持ってはいなかっのだ。

だからアスカは全てを終わりにする決意をした。

かつてアスカが日本で失ったモノの大きさに比べれば、今から彼女が失うモノなどさしたる価値もない微々たるものだった。

 

アスカは躊躇う事なく二人の前に姿を現した。

「アスカ…」

さすがに父親がバツの悪そうな顔をして娘の名前を呼んだ。

アスカは実の父親を冷たい瞳で見下ろした。そして、

「迷惑かけてばかりいるふつつかな娘で申し訳ありませんわね、お父様。今まで何一つ娘らしい事が出来なかったけど、最初で最後の親孝行をさせていただきますわ。」

アスカらしくない丁寧な言葉でそう言うと、アスカはこの家へ戻って以来はじめて微笑んだ。

 

アスカはこの夜、実の父親と離縁する事を宣言した。

アスカの父親と継母は内心の嬉しさを隠して、アスカの提案をしぶしぶ承諾し、1週間後にはアスカと父親は法的には完全に他人となった。

アスカの父親はさすがに世間体を考えて、毎月の生活費を出そうとしたがアスカはそれを断り父親との繋がりを完全に遮断した。

こうしてアスカの実の父親はこれ以後、アスカの人生にかかわる事はなくなった。

アスカはかつての父親のささやかな援助を断った上で家を飛び出したが、別にその後の展望をもっていたわけではなかった…。

ハッキリいえばこの時アスカは完全に自棄になっていただけなのである。

 

だが、意外な所からアスカにとっての救いの神が現れた。

サエコはあれから冬月と何度も連絡を取りアスカの一連の事情について詳しく調べていた。

そして、幼少時代のアスカのトラウマや、日本に来てからのアスカの苦悩の日々…、そしてサードインパクト後の異常な精神状態等について全ての事情を聞き出した。

その時、サエコがアスカの過去に何を感じ取ったのかは分からないが、サエコはアスカに対して強い興味を抱きはじめた…。

そして、アスカが両親と離縁して家を飛び出したのを知ると、アスカを呼び出して、自分がアスカの法的な保護者になってもいいので、自分の家へこないか…とアスカを誘った。

行く当てのなかったアスカはサエコの言葉を承諾し、それ以後サエコの家へ転がりこむことになった。

 

 

サエコはアスカの両親と違い、可能な限りアスカに接して、アスカの心を開こうと懸命に努力した。

だが、アスカはサエコに対してまったく反応を示さなかった。

腐った魚のような死んだ目をして、どんなにサエコが熱心に話し掛けても何も答えない。

ただ、サエコの言いつけにはいつも素直に従っていた。

というよりも、反論する気力さえないようだ。

今のアスカはただ累々とサエコのいう事に従うただの人形だった。

食べる事と寝る事以外の事はサエコが勧めない限り何ら積極的にしようとしなかった。

風呂に入る事さえそうだった。

サエコが出張で三日ほど家を開けた時、家へ戻ったサエコをアスカはボサボサの髪とがさついた荒れた肌で出迎えた。

風呂好きだったアスカが、三日も風呂へ入らなかったのだ。サエコがアスカに「お風呂へ入りなさい」と勧めるとアスカは無言でバスルームへ消えていった。

主体性というものをまったく感じさせない今のアスカに、サエコはこのままではまずいと考え「家へ篭もりっきりなのがまずいのかも…」と思い、気分転換にアスカを町へ連れ出す事にした。

 

ベルリンの町もサードインパクトの被害を受け、一時期、廃虚に近い状態に陥ったが、さすがに首都は他の町よりも復興が早く、繁華街はかなり賑わっていた。

サエコはアスカをショッピングセンターへ連れていって、好きな服を選ばせようとしたが、アスカは自分では何も選ぼうとしなかった…。

仕方なくサエコが「これならアスカに似合うんじゃない?」と適当に選んで尋ねるとアスカはコクッと肯いて黙って着替えはじめた。

かつて休日にシンジをお供にして、7時間もかけてあちこちの洋服店を見て回って、結局何も買わずに帰ったという男泣かせの実績を持つアスカとは到底信じられない態度だった。

 

それから小さな事件が起こった。

サエコがちょっと目を離していた隙に、アスカとはぐれてしまったのだ…。

慌ててアスカを探したサエコは裏通りでアスカを発見した。

アスカは見たことのない数人の少年達と一緒にいた。

少年達は人目見てチンピラとわかる風袋をしていて、しまりのない目つきでアスカをニヤニヤと眺めまわし、明らかにアスカの体が目的だと思われた。

アスカは黙って自分に声を掛けた数人の不良少年についていこうとしていた。

それを見てサエコはあわててアスカの手を引いてアスカを少年たちから引き離した。

少年たちはいきり立ったが、さすがに繁華街で周りに人が多かったので、サエコを毒づいただけで、二人からしぶしぶ離れていった。

サエコはアスカの頬を叩いて「アスカ、もっと、自分を大切にしなさい。」と月並みな説教をした。

それを聞いて、ほんのわずかだがアスカの蒼い瞳に感情らしきものが戻った。

そして、その時はじめてアスカはサエコに口答えした。

「ほっといてよ!どうせ、あたしはもう心も体もボロボロに汚されているのよ。もう、どうなったっていいわよ、何もかも…」

その言葉を聞いてサエコは一瞬その灰色の瞳にアスカに対する嫌悪感を募らせたが、その時は何も言わなかった。

 

 

アスカがサエコの家へ転がり込んでから一月近くたった。

サエコは今のアスカは一人にしておくと何をしでかすか分からなかったので、自分の職場にアスカを連れていく事にした。

そして、自分の仕事の一部を手伝わせてみた。

アスカは精神を失調しているだけで、かつて14歳で大学を卒業した優秀な脳細胞の方はいささかも衰えていなかった。

アスカは黙々と与えられた課題を効率よくこなしていったが、無論それだけの事だった。

一旦課題を与えたら、誰かが止めろというまで、アスカは黙々と作業を続け、休み時間になっても、まったく手を休めるそぶりをみせなかった。

職場でのアスカはほとんど人間コンピュータと化していた。

サエコの周りにいる職場の人間も、これは素人の手には負えないので精神病院にでも預けてみたらどうか…とサエコに勧めたが、サエコは癌としてそれを拒んだ。

サエコは職場でも家でも可能な限りアスカに接していた。例外はアスカが風呂へ入っている時と寝る時だけだった。

あいかわらず、アスカは夜になると毎晩のようにうなされているのに、なぜかサエコはこの二つの場所だけではアスカと接しようとしなかった。

 

 

アスカがドイツに送還されてから3ヶ月が過ぎた頃、一通の手紙がアスカの元に届けられた。

サエコはポストから手紙を受け取るとそれをアスカの部屋までもっていき、

「アスカ、伊吹さんという方からエアメールが届いているわよ。」

アスカはその言葉には無反応だったが、次に手紙の裏面の文章を見たサエコが

「なんでもシンジ君って子の状態について書かれているみたいよ…」

と聞いた途端、アスカはビクッと反応した。

今まで死んでいたアスカの蒼い瞳に理性に似た光が戻った。

そして、今までの無気力状態が嘘のような素早い動作で、サエコから引っ手繰るようにして手紙を奪い取った。

アスカはじっと意味ありげな目つきでサエコを見る。

事情を察したサエコは黙ってアスカの部屋から出ていった。

あの手紙が少しでもアスカの精神回復に役立ってくれることを祈りながら…。

 

アスカは乱暴に封筒を破って、中に入っている便箋を取り出した。

だが便箋を開く途中でピタリと動きを止めた。

アスカの心臓の鼓動が早くなる。

便箋の中に書かれている内容がアスカにとっていいニュースだとは限らない事に気がついたからだ…。

だが、今のシンジの状態を知りたいという好奇心には到底敵わなかった。

意を決して、アスカは便箋を広げた。

その時一枚の写真がこぼれ落ちた。

アスカは文章を読んでみる。

 

「拝啓 惣流・アスカ・ラングレー様。いかがお過ごしでしょうか?

先日はあなたにきつい事を言った事を深く反省しています。

あなたが今でもシンジ君にした事を気に病んで自分を責めているといけないので、あれからのシンジ君の近況についてご報告させていただきます。

シンジ君はこの手紙を書く一週間ほど前、ようやく精神崩壊から立ち直って目を覚ましました。

誰の力も借りずに自分一人の力でシンジ君は現実へ還ってこられたのです。今では積極的にリハビリに取り組んでいます。

その証拠の写真も添えておきましたので、どうかご覧下さい。」

 

アスカは便箋からこぼれ落ちた写真を拾い上げる。

するとそこには病院のリハビリルームで必死にリハビリに取り組んでいるシンジの姿が写っていた。

写真の中のシンジの姿は今まで見たこともないほど、活き活きとしていた。

「シンジ…………。」

アスカの蒼い瞳が潤みはじめた…。

『よかった…。本当によかった……。やっとシンジは目覚めたんだ…。』

アスカの胸に熱いモノが込み上がってくる。

そしてアスカは手紙の続きを読んでみる。

だが、それを読んでアスカの顔が少しづつ青ざめていった。

 

「今ではシンジ君はつらい過去を振り切って、ようやく自分自身の新しい未来に向かって歩みはじめたところです。

とりあえず、過去の後遺症は何も残っていないように見られます。

だから、あなたももうシンジ君にしたことは忘れていいと思います。この件を引きずる事なく、あなた自身の幸せを追求して欲しいと思っています。

ただ、もしあなたが少しでもシンジ君にすまない事をしたという認識があるのなら、もうシンジ君には近づかないようにして下さい。

あえて酷な言い方をさせて戴ければ今のシンジ君はもうあなたを必要としていません。

今のシンジ君にとっては、きっとあなたは忌まわしい過去を思い出させるだけの、過去の亡霊にすぎないのでしょう。

だからお互い離れた場所でそれぞれの幸福を見つけるのがあなた達二人にとって最もいい選択だと私は信じています。

では、あなたがドイツで新しい幸福をつかまれる事を心から願っております。

伊吹マヤ。」

 

アスカは手紙を全て読み終えると、がっくりと肩を落とした。

文面の内容は穏やかだが、これはマヤからアスカに突きつけられた最後通告だった。

マヤはシンジはアスカの助けを借りることなく一人で立ち直ったのだから、もうアスカは必要ないと遠回しに指摘しているのだ。

シンジが目覚めたという喜びは、もはやアスカの体の中から完全に抜け落ちていた。

あるいはアスカはずっと待ち続けていたのかもしれなかった。

マヤがシンジを助けるためにもう一度アスカを日本へ呼び戻してくれる事を…。

だが、それは儚い夢と消えた…。

シンジはアスカの力を借りる事なく自力で立ち直ってしまった。

これはアスカがシンジにした事を償う機会が永遠に失われた事を意味していた。

だとしたらもはや、どの顔下げてシンジに会えるというのか…。

アスカは、かろうじて自分とシンジを未だにつないでいた蜘蛛の糸のように細い絆が、今完全に断ち切られた事を悟ってしまった。

アスカはもう一度シンジの写真を見つめる。

シンジは目覚めた。

そして、アスカと同じこの世界を生きている。

けど、もはや永遠にシンジとアスカは交わることはないのだ。

そう考えただけでボロボロとアスカの蒼い瞳から涙がこぼれ落ちた。

「シンジィ…!、シンジィ…!、シンジィ…!、シンジィ…!、シンジィ…!」

アスカは再びシンジの写真を抱きしめて泣きじゃくった。

それはアスカがこの家へ来て以来はじめてみせた人間らしい感情だった。

 

アスカの部屋の扉の前では、こっそりと聞き耳をたてていたサエコがいた。

部屋の中からすすり泣くアスカの声を聞いて、サエコは何かを決意した。

『何て哀れな娘なのかしら。ようやく人間らしい感情を見せたと思ったら、それが絶望の涙なんてね…。
今まで私はアスカに本当の自分を知られるのが恐かったから、場所を選んでしかアスカに接する事が出来なかった。
けど、もうそんな事にかまってはいられないわ…。どんな形であれ感情を表に現した今がチャンスね。この機会を逃せば、きっとあの娘は心をもっと自分の奥底へ押し込めてしまう。
今夜が勝負ね。たとえ私の過去の傷痕を全てさらけ出す事になったとしても、必ずあの娘を立ち直らせてみせるわ。必ず…。』

そう決意するとサエコはアスカの部屋から離れていった。

 

 

その夜、アスカはベッドの中でいつものようにうなされていた。

狂気から覚めて以来毎晩のように続いている、かつての無限地獄とは異なる種類の悪夢がアスカを苦しめ続けているからだ…。

それはアスカが自分の手で犯した罪。

かつて狂気の中で多くの人間を殺戮したという決して消えることのない罪の意識がつくりあげた終わりのない悪夢だった。

「イ……イヤ………!」

アスカがベッドの上でうめき声を上げる。

 

アスカは弐号機に乗っている。

血走った目に狂気に表情を浮かべて。

そしてそれを脅えた表情で外から見つめているもう一人のアスカがいた。

戦略自衛隊の兵器が次々に弐号機を攻撃するが毛ほどのダメージも与えられない。

弐号機のATフィールドで戦闘ヘリがまるでハエのように次々に落とされていく…。

弐号機が戦艦を持ち上げてそれを戦時の部隊に叩き付けると、複数の戦車が押し潰された。

弐号機が暴れる度にあちこちで爆発が起こり次々と人の生命が虫けらのように消えていく。

血だまりの中でのたうちまわり死んでいく人々…。

これはもはや戦闘と呼べる代物ではなかった…。

一方的な殺戮だった…。

『やめて…! もう、やめて……!!』

かつて自分が行なったジェノサイドにアスカは耐え切れず頭を抱えて泣き叫んだ。

だが弐号機に乗っているアスカは明らかに殺戮に酔っている。

逃げまとい、虫けらのように死んでいく戦時の部隊を、狂気の笑みを浮かべて見下ろしている。

やがて、戦時は壊滅し、動くモノは何も存在しなくなった…。

後に残るのは血だまりの中に折り重なる死体の山だった。

その阿鼻叫喚の地獄絵図をアスカは放心した表情で見つめている。

だが、弐号機に乗るアスカは、それでも満足しないらしく、血走った目でしきりに次の標的を探している。

やがて、アスカは次の獲物を発見する。

何時の間にか弐号機の正面に線の細い少年が、脅えた表情で弐号機の四つの目を見上げている。

『シンジ……!?』

アスカは心の中で驚きの声を上げる。

突如弐号機の手がシンジに向かって伸ばされる。

シンジは必死で逃げようとしたが、すぐに弐号機に掴まれて鷲づかみにされ、弐号機の目の高さまで持ち上げられてしまった…。

『シ…シンジに何をするの…!? や…やめて、シンジを離してよ!』

アスカは必死になって叫んだがその声は届かない。

シンジはガチガチと歯を合わせて、目に涙を溜めながら、必死になって哀願するような瞳で弐号機を見つめている。

弐号機の中のアスカは満足そうにシンジの脅えた表情を見下ろしていたが、突如、嗜虐性の高い表情で微笑んだ。

『ま…まさか…! やめて! 駄目〜!!!!』

次の瞬間、弐号機の中のアスカは躊躇いなくレバーを押した。

その瞬間、弐号機の掌からシンジの首がポロリとこぼれ落ち、怨めしそうな目でアスカを見つめながら、アスカの目の前を落下していった…。

 

「いやあああぁぁぁぁぁ………………!!!!!!!!」

 

アスカは悲鳴を上げて目を覚ました。

寝間着は汗でびっしょりと濡れている。目には涙が溜まっている。

ようやくいつもの悪夢から目を覚ました事に気付いて、アスカは唇を噛む。

自分の犯した罪に脅え続ける自分…。

夜一人で寝るコトを恐怖する自分…。

そんな弱い自分に耐えられずアスカはヒステリーを起こした。

「もういや…。もういやぁ…!! 何であたしが…!」

 

その時、部屋のドアをノックする音が聞こえてくる。

「アスカ…、サエコだけど入るわよ…」

そう言って、返事も待たずにサエコがネグリッシュ姿で部屋の中に入ってきた。

サエコはなぜか今でも左腕にリストバンドをつけたままだった。

アスカは黙ってサエコを見つめている。

サエコはアスカを見てにっこりと笑って

「アスカ、一人で寝るのが恐いんでしょう?」

アスカはその言葉にビクッとする…。

蒼い瞳が揺れている。

「ごめんなさいね…。今まで夜、ずっとあなたを一人にして…。けど、よかったらこれからは私が一緒に添い寝してあげるから…」

そう言ってサエコはシーツをつかんでアスカの隣に入ろうとした。

その時、

パンッ!!

アスカがサエコの手を叩いた。

「アスカ…」

サエコは驚いてアスカを見る。

アスカがサエコのしようとした事を拒絶したのは、これが初めてだった。

「…………………ってよ。」

「なあに、アスカ?」

「もう、あたしの事なんかほっといてって言ってるのよ!この偽善者!!」

アスカはわなわなと肩を震わして敵意のこもった視線でサエコを睨み付けた。

「アスカ…………」

「安っぽい同情なんかいらないのよ!憐れまれたってよけい惨めなだけじゃないの…。わかってるのよ。あんただって本当は心の底ではあたしのコト馬鹿にしてるんでしょう!?」

サエコは誠意のこもった瞳でアスカを見つめて

「違うわ、アスカ。同情なんかじゃないわ。私は本気であなたの事を心配しているのよ。私を信じて、アス…」

だがアスカはサエコの言葉を大声で打ち消した。

「嘘よ!みんな嘘に決まってるわ!本当はあんただってボロボロに傷ついたあたしを保護して優越感に浸っているだけなのよ。本当は心の奥底ではあたしのことを嘲笑っているのよ。笑いたければ、笑いなさいよ!使徒に心を犯され、エヴァに体を犯されてボロボロに汚された惨めなあたしを笑いなさいよ!」

アスカは蒼い瞳に自分自身を蔑む色を浮かべてサエコを挑発した。

「……………………………………………。」

サエコはアスカから目線を隠すように俯いて何も答えない。

「ほら、どうしたのよ?笑ってみなさいよ。汚れたあたしを嘲笑してみなさいよ…。ふん!どうせ、あんたもシンジと同じで口先だけなんでしょう!?嫌い!、嫌い!、大嫌い!!! あんたもシンジもあたしもみんな大嫌い!!!」

アスカは全てを拒絶するように大声で喚き散らした。

 

その時、俯いていたサエコがはじめて声を掛けた。先程とはうって変わった冷たい響きを帯びて…。

「そうね、それじゃお言葉に甘えて笑わせていただこうかしら…」

「なっ…!?」

サエコが顔をあげて、アスカを見る。その時のサエコの目には先程のアスカを包もうとしていた暖かい色は完全に消えていた。むしろ、アスカを見つめるサエコの灰色の瞳には憎悪に近い光が宿っていた。

アスカは突然のサエコの変化に一瞬呆然とする。

サエコはアスカを嘲笑するように口元を歪めて

「あなたの言っている事って、ちゃんちゃら可笑しいですものね…。まだ何も知らない、うぶなネンネが自分を汚れていると称するなんて、本当に可笑しくてたまらないわ…」

「な…何ですって!?」

アスカの蒼い瞳にもサエコに対する憎悪が宿った。

サエコはクスリと笑って

「だって、あなたまだ処女なんでしょう?」

その一言にアスカは顔を真っ赤にする。

サエコはそのアスカの変化を本当に可笑しそうに見つめて

「やっぱりね…。まだ男も知らないようなお子様が、自分を汚れていると主張するなんて十年早いわよ、アスカ。」

パンッ!!

サエコの言葉に耐え切れず思わずアスカはサエコの頬を打った。

「う…うるさい!!!あなたにあたしの何がわかるっていうのよ!?心も体も汚され続けたあたしの気持ちなんかわかりもしないくせに!!あたしの事なんか何も知らない癖に偉そうに説教しないでよ、この偽善者!」

アスカはこれ以上ないくらいサエコに感情を爆発させた。

形はどうあれ、サエコとアスカが本気で語り合ったのは今夜が初めてだった。

サエコは打たれた頬を押さえもせずに冷たい視線でアスカを睨みながら

「そうね…、確かに私にはあなたの気持ちはわからないわ…。けど、あなたも私の気持ちはわからないわ…。今、私がどれほどあなたの事を憎く思っているかということもね…」

「あ…あんた、何いってるのよ?どうしてあたしがあんたなんかに憎まれなきゃいけないのよ!?」

「あなたみたいに、他人に甘えるだけ甘えて被害妄想に陥って、自分で自分の可能性を閉ざしてる娘を見ると憎ったらしくて我慢できなくなるのよ。あなたが汚されてるですって?本当に笑わせるわ…。よく見ておきなさい、アスカ。汚される…っていうのはこういうのをいうのよ!」

サエコはそう宣言すると自分のネグリッシュを脱いで下着姿になった。

『な…何行ってるのよ、この女。頭おかしいんじゃないの…。何が汚されてるよ。別にミサトみたいな傷があるわけじゃないじゃないの…』

アスカはそう思っていたが、サエコが下着をはずして一糸まとわぬ、生まれたままの姿をアスカの前にさらけだすと

「ヒッ…!?」

思わず悲鳴を上げた。

サエコを見るアスカの顔がみるみる青ざめていく。

「これが本当に汚されるという意味よ。同じ女ならあなたにもわかるでしょう?、アスカ」

サエコは無表情な顔でアスカに尋ねる。

アスカは耐え切れずにサエコから目を背けて

「わ……わかったから、早く服を着てよ!お願いだから、早く…うぅっ…」

突然、アスカは口元を押さえて自分の部屋から駆け出した。

そして、アスカは洗面所に駆け込むととうとう耐え切れなくなり吐き出した。

「はあ…、はあ…、はあ…、はあ…、はあ………」

出すものを出し切って、ようやく少し落ち着いたアスカは先程自分の部屋で見たものを反芻してみる。

再びアスカの顔が青ざめる…。

かつて温泉でミサトの体の傷痕を見たとき、大事な肌に一生消えない傷をつけられたミサトの事を同じ女として哀れだと思った。

だが…サエコの体についた傷痕は……

女である事を否定されていた…。

 

 

アスカは恐る恐る自分の部屋へ戻って中を覗いてみる。

その時にはすでにサエコは服を身につけていた。

サエコはアスカの姿に気がつくと、

「中へ入りなさい、アスカ。そんな所にいたら寒いでしょう?」

そう言って、再び暖かい笑顔でアスカを見つめた。

アスカはそのサエコの慈愛に満ちた表情にホッと安堵のため息をもらして中へ入った。

サエコは部屋の中に入ったアスカを申し訳なさそうな顔で見つめると

「さっきはごめんなさいね。つい頭に血が登っておぞましいモノを見せちゃって…。それに少し言い過ぎたわ…。確かにあなたは14歳の年齢で背負うにはつらすぎる地獄を体験したのだから、自分が汚されてると思い込むのも無理はないはずだったのよね…。けど、これだけは分かって、アスカ。私は決して同情とか哀れみだけであなたに接しているわけではないの。冬月さんからあなたの事情はだいたい聞いているわ…。そして聞けば聞くほどあなたの生い立ちが私に似すぎているのでどうしても放っておけなかったのよ…。」

「……………………………………………。」

アスカは何も答えないが、少なくともその蒼い瞳には先程のような拒絶の色を浮かべていなかった。

それを感じてサエコは、アスカを訴えかけるような目で見つめると

「アスカ、私の話を聞いてくれる?」

アスカは黙ってコクッと肯いた。

サエコはアスカに自分の過去を話しはじめた。

 

 

「私は十代の頃はあなたと違ってまずまず平凡な人生を歩んでいたわ。十八歳の時に両親を飛行機事故で亡くしたけど、その時にはすでに人格が形成されていた後だったのでそれほど強いトラウマになることもなかったしね…。
ハーベンブルグ大学でもまずまず優秀な成績を修めて大学院へ進学したし、ハイスクールの頃から付合っていたフィアンセもいたので、ささやかだけど幸福な一生を送れると信じていたわ…。
あの忌まわしい事件が起きるまでね…。」

サエコはそこで一旦言葉を切った。

その時のサエコの灰色の瞳は暗く沈んでいた。

「あれは私が23歳の時の真夏の夜だったわ。その日、私は研究で遅くなって夜中一人でアパートに帰宅しようとして、その帰り道、精神異常者に襲われたの…。 そしてその時乱暴されて、そして………二度と子供が産めない…、そして男の人にも抱いてもらえない体にされてしまったのよ。」

アスカはサエコの言葉にハッと息を呑んだ。

サエコはつらそうに唇を噛んだ。

「気がついた時には、私は病院のベッドで寝ていたわ。そしてその時医者から、その事を告げられたの。
ショックだったわ。たった一夜にして私は女である全てをたった一人の精神のいかれた男に奪われたのだから。その男は逃走しようとして警官に射殺されたといっていたわ。けど、そんな事はもうどうでもよかった。
もう、普通の女としての人生が歩めないと分かると気が狂いそうだったわ。けど、その時の私にはまだ希望があった。私にはハイスクールの時から付合っていたフィアンセがいたから。
彼がきっと全てに絶望した私を慰めてくれる…。そう信じていたから。」

サエコは自嘲するような口振りでそう呟いた。

「けど、彼はいつまでたっても私の前に姿を現さなかった。私が彼に逢いたいって言っても医師は口を濁すだけだった。
やがて、いつまでも隠しきれないと悟った医師から真実を告げられたわ。
彼は私との婚約を破棄して、別の女と結婚してしまったということを…。
彼は女としての価値を失ってしまった私を捨てたのよ。
その事を聞いた瞬間、私が縋ろうとしていたたった一つの絆は脆くも崩れ去ってしまったの。」

「…………………………………………。」

アスカは黙ってサエコの話を聞いている。

そしてアスカはサエコの生い立ちにどことなく自分と似たモノを感じていた。

「それ以来もう私には生きる希望はなかった。女としての意味を完全に否定されフィアンセからも捨てられてしまった。もうこんな体の私を必要としてくれる男がいるとは到底思えなかった。そして、何よりこんな惨めな汚れた体を晒し続けておめおめと生きているのがつらかった。
だから私は何度も死のうとしたの。何度も、何度も…」

そう言って、サエコは左手のリストバンドをはずしてアスカに見せた。

するとそこには何度も手首を切ったらしい傷痕が何重にも重なっていた。

それを見て再びアスカは息を呑んだ。

「医者達は色々と私を励まそうとしてくれたけど、私には全てが絵空事としか思えなかった。だから他人も生きるコトも全てを拒絶したの。
そして自殺常習者だった私は精神病院へ移されたけど、そこでも、何度も自殺未遂を繰り返したわ…。そしてその時はじめて、彼に出会ったのよ。」

アスカはサエコの顔を見る。今までの暗く沈んだ表情とは違い今のサエコの顔は誇らしく嬉しそうだった。

「リヒャルド・ブッフバルトといってね。精神課を担当している髭面の医者がいたのよ。30歳ぐらいでメガネの奥の誠実そうな暖かい瞳が特徴で、この世界ではけっこう著名なカウンセラーらしいのよ。
彼はすぐにあきらめてしまった他の医師達と違って本当に誠実に私に接してくれていたわ…。とは言っても、その時の私には彼を受けいれる事は出来なかったけどね…。
彼がどれほど生きていれさえすれば幸せになれる可能性はある…と力説したところでその時の私には全然説得力を持たなかったから…。」

サエコは寂しそうにそう語った。

「彼は半年の間、ほとんど毎日のように私に話し掛けてくれていたけど、ある日突然私の病室に来なくなったの…。

『結局、この男も口先だけじゃない…』

私はそう思って、久しく止めていた自殺を再び決行する事にしたの…。

けど、それは失敗して私の手首の傷がまた一つ増えただけだった。

そして、それから二週間ぶりにリヒャルドが私の病室に姿を現したの。

そしてその時の会話をたぶん私は一生忘れないでしょうね…」

 

 

「ひさしぶりだね、サエコ君。」

サエコは無表情にリヒャルドを見つめながら

「おひさしぶりね、先生。もう二度とお会いすることはないと思っていたのですけどね…。」

リヒャルドはため息をついて

「また自殺未遂をしでかしたそうだね、サエコ君。どうして君はそんなに死にたがるんだね?」

「何度も同じ事を言わさないで下さい、先生。生きているのがつらいからです。」

「………………確かに今はつらいかもしれないが生きていさえすれば、きっといい事だってあるさ…」

サエコは感情を顕わにして

「嘘です!そんなの絶対に嘘です!

だって、私はもう子供を産むコトはおろか、男の人に抱いてもらうことさえ出来はしないのですよ!

こんな私がどうして幸せになれるのですか?

こんな女として欠陥品になった私を必要としてくれる男がどこにいるというんですか?

お願いです、先生。私の事を思っているのだったら、死なして下さい。

死なして…。もうこんな惨めな体を晒して生きるのはイヤ…。」

そう言ってサエコは鳴咽を漏らした。

リヒャルドはそんなサエコの様子を黙って見ていたが、やがて意を決したように

「あなたの事を必要としている男なら今あなたの目の前にいますよ…。サエコさん。」

「!?」

リヒャルドは白衣のポケットから指輪を取り出してそっとサエコの薬指にはめると

「私はあなたの事を愛しています。もし、私でよければ結婚して戴けませんか、サエコさん?」

リヒャルドはメガネの奥に暖かい光を称えてそうサエコにプロポーズした。

そしてサエコはそんなリヒャルドを信じられないモノでも見るような目で見ていた…。

 

 

サエコはアスカの顔を見ながら

「その時、私ははじめて生きる目的を見つけたと思ったわ。

けど、それはリヒャルドの言葉が嬉しかったからではなかった…。

その時のリヒャルドが私の事を愛していないコトぐらい私にも分かっていた。

そう、彼は患者である私を救うための方便として私に結婚を申し込んだのよ。

 

『この男は私の事を愛してもいない癖に私に結婚を申し込んだ。

ただ、医者としての義務感を満足させる為だけに私に結婚を申し込んだんだ…。

この男は女としての資格を失った私を侮辱しようとしているんだ…。』

 

そう考えたら、この男を殺してやりたいくらい憎かった。

もう私から全てを奪った精神異常者や私を捨てたフィアンセの事などどうでもよかった…。

ただ、この男の事だけが許せなかった。

だから、私はリヒャルドのプロポーズを受けたの…。

それからは自殺するのを止めてリハビリを続けて病院を退院したわ…。

そして、約束通りリヒャルドと結婚したの…。

リヒャルドは明るくなった私を本当に嬉しそうに見ていたわ。

私の心の内も知らずにね…。

 

『生きるコトに絶望していた重傷患者を立ち直らせてさぞかしご満喫でしょうね、先生。

今にみていなさいよ。

そのあなたの医者としてのアイデンティティーを粉々に打ち砕いてあげるからね…。

そう、一年の間だけは…あなたの看護で立ち直ったけなげな妻を演じてあげるわ…。

そして、一年後の私たちの結婚記念日の日に全てを終わらせてあげる…。

あなたが私にした事が、どれほど私を侮辱していたか私の身をもって思い知らせてあげるからね…。

そう、あなたの目の前で死んでみせてあげるわ…。』

 

その時の私はそれだけを支えにそれからずっと生きてきたのよ…

リヒャルドを憎むことだけを…

そして復讐するコトだけを支えにして、家庭の中ではずっとけなげな妻を演じ切っていたのよ。

にっこりとリヒャルドに微笑みながら、心に刃を隠してね…」

 

「……………………………………………。」

そのサエコの告白にアスカはかつてない親近感を感じていた。

サエコとリヒャルドの関係は、かつてのアスカとシンジの関係に酷似していたからだ…。

『この人あたしに似てる…。』

アスカは心の中で本気でそう思った。

 

 

「私とリヒャルドの新婚生活はそれは欺まんと偽りに満ちたモノだったわ…。彼はよく私を抱きしめてキスしてくれた…。それしか彼が私に出来るコトはなかったからね…。

だから彼が仕事で遅くなる時いつも私は愚痴っていたわ。

『ふん、どうせ繁華街で別な女でも抱いているんでしょう。どうせ、私は役立たずな女ですものね…』

 

そして一年が過ぎて、私たちの結婚記念日が来て、いよいよ私は彼に対する復讐を実行する時がきたの…。

シナリオはすでに決まっていたわ。私が彼の職場に「ごちそうを作って待っているから、早く帰ってきてね…」と明るい声で電話をして、鼻歌気分で帰って来たリヒャルドが見たモノは手首を切って血まみれになっていた私…というシナリオよ。

ただ一つ残念なのはその時のリヒャルドの顔を私が見れないというコトだけね。

そして5時近くになって電話機の前でカミソリを持ち出した私は自分の手首に刃を当てたの…。

『いよいよお別れね、リヒャルド。血まみれになった私の姿を見て、せいぜい自分がしたコトを後悔するといいわ…』

そう思って一気に動脈を切ろうとしたけど、私の意志とは裏腹になぜかカミソリを持つ私の右手は手首を切るのを躊躇ったの…。

何度も切ろうとしたけど、手が震えてうまくいかなかった。

『なぜ…どうしてよ?死ぬことなんか少しも恐くなかったはずなのに…。今まで何の躊躇いもなく何度も自分の手首を切れたのに…。どうして今更躊躇うのよ?』

気がついたらいつの間にか私の目から涙がこぼれ落ちていたわ。

その時、私ははじめて気がついたの…。

何時の頃からかリヒャルドとの生活を楽しんでいた自分に…。

そして、何時の間にかリヒャルドを本気で愛しはじめていた自分に…。

だから体が死ぬのを恐がったの…。

その事に気がついた私は何度も何度も鳴咽を漏らしたわ……。

『私はリヒャルドを愛している。』

けど、だからこそ私は尚更死なねばならない事に気がついたの…。

私はリヒャルドを愛している。けど、リヒャルドは私を愛していない。

ただ、憐れんでいるだけ…。ただ、医者としての義務として私と一緒にいてくれているだけ…。

私には女としてリヒャルドに出来る事は何もないから…。

そう、考えたら到底耐えられなかった。

リヒャルドを本気で愛していると気がついてしまった今、もうリヒャルドとの生活を続けられる自信がなかったから…。

だから私は歯を食いしばって、私の想いの全てを終わりにする覚悟で動脈を切ったの…。

そして流れ出る血を見ながら、当初の予定通りリヒャルドに電話を掛けたの…。

途中から意識が朦朧として何をしゃべっていたか覚えていないんだけどね。」

 

『もしもし…?』

『リヒャルド、私よ。』

『サエコか…。どうしたんだ?』

『言わなくても分かってるでしょう?今日は私たちの結婚記念日でしょう。ごちそうをつくって待っているから早く帰ってきてね…。』

『ああ、分かってるよ…。もうすぐ仕事が終わるから、すぐに戻るよ…』

『早く…帰って……きて………。…………………リヒャルド…、お願い…早く来て!お願い…、私を助けて……』

『おい、何をいってるんだ。サエコ?』

『…………………助けて…助けて、リヒャルド!………私まだ死にたくない!死に………た…く……………………………………………』

『おい、どうしたんだ。サエコ!?サエコ!?サエコォ〜!!!!』

 

 






 

 

「気がついたら私は再び病院のベッドで寝ていたわ…。

後で聞いた医者の話だと私は三日も生死の境を彷徨っていたらしいのよ…。

そしてあの後リヒャルドが自宅へ駆けつけるのが10分遅れていたらまず間違いなく私はあの世へ旅立っていたらしいわ。

目を開けたらいきなり憔悴したリヒャルドの顔が飛び込んできたわ。

彼はこの三日間一睡もしていなかったのよ…。

そして子供のように泣きじゃくって私を抱きしめて謝罪したの。」

 

『本当にすまなかった、サエコ。そう、最初は医者としての義務感だけだったんだ。

実は僕の体は悪性の腫瘍に犯されていて、後3年の命だって言われたんだ。

その時、僕は決意したんだ。どうせこの先長くないのなら、自分を犠牲にして君を救ってあげようとね…。

本当に傲慢な医者の思い上がりだよな…。君が僕を憎んだのも本当に当たり前の事だ…。

だけど血まみれになった君の姿を見てはじめて僕は気がついたんだ…。何時の頃か本気で君の事を愛している自分に…。今なら本当に言える。

サエコ、愛している!僕は後2年ぐらししか生きられないけど、それでも僕の側にいて欲しい。お願いだ、サエコ!』

 

そう言って、リヒャルドは泣きながら強く強く私を抱きしめてくれたの…。

その時私も嬉しくて泣いていたわ。

この時ほど生きていてよかった…と思った事はないわ。

「嘘から始まる恋」というのも確かに存在するモノなのね…」

 

と言って、サエコはアスカを見て微笑んだ。

アスカは放心した表情でサエコを見ている。

何時の間にかアスカの頬に涙が伝わっていた。

 

「それからリヒャルドはずっと私の側にいてくれたわ。さすがに仕事はやめなかったけど、今までと違って毎日必ず定時には帰宅してくれた。

リヒャルドはその時以来一度も他の女を抱いたりしなかったわ。

彼にだって普通に性欲はあったはずなのに、それが私を傷つけることだとわかっているから彼は死ぬまで私に操を立ててくれたのよ。

本当に嬉しかったわ、リヒャルドの私に対する想いが…。

そして、休日には私を色んな所へ連れていってくれた。

『生きてさえいればきっといい事はある。』

リヒャルドは身を以ってそれを私に証明してくれたのよ…。」

 

サエコは胸に手をあてて、そう独白した。

その時のサエコの顔は本当に嬉しそうだった。

 

「こうして、2年の月日が過ぎて、結局奇跡は起きることなくリヒャルドはあの世へ旅立ったわ。

けど、私はこの2年という時間をリヒャルドと一緒に本当に大切に生きることができた。

私は本当に幸せだったわ。

そう、自分を心から本気で愛してくれる男性がいたのに不幸なはずはないものね…。

だからね、アスカ。

女としての全てを奪われた私だけど、私は決して自分の事を汚れているだなんて思ってはいないの。

リヒャルドは死ぬ前に私の事をきれいだといってくれたから…。」

 

『サエコ、一つ頼みがあるんだが、聞いてくれるかな? 』

リヒャルドはすまなそうにサエコに尋ねると

『リヒャルドが望む事なら何でもするわ。一緒に死んで欲しいというのなら、一緒に死んであげるわ』

サエコは躊躇う事なくそう答えた。

『いや、そうじゃない。君にはこれからも僕の分まで生きていって欲しいんだ。それより死ぬ前に君の全てを僕に見せて欲しいんだ。』

『全てって?』

『君の生まれたままの姿を僕に見せて欲しい…』

サエコは顔を青ざめさせて

『リ……リヒャルド…、けど…それは……』

『サエコ、頼む』

リヒャルドは真剣な表情でサエコに頼んだ。

『わかったわ、リヒャルド、それがあなたの最期の願いなら…』

サエコは恐る恐る衣服を脱いで、目をつむってリヒャルドに自分の全てをさらけだした。

リヒャルドは微塵も目を背ける事なくサエコを見つめて

『きれいだ…』

と呟いた。

『う……嘘よ!私がきれいだなんて…』

サエコは信じられないという表情でリヒャルドを見つめると

『嘘ではないさ、サエコ。本当にきれいだと思ったからそう言っただけだ。サエコ、あの時以来僕が一度でも君に嘘をついた事があったかい?』

『リヒャルド…』

『そう、君は今でもきれいだよ、サエコ。君はけっして汚されたわけではない。ただ傷つけられただけなんだ。だから君が自分自身を汚されていると思い込まなければ、決して誰にも君を汚すことなど出来はしないんだ。
今言った事は女性の価値観を無視した僕のエゴだというコトは分かっている。
けど、サエコ。これからも、僕の好きだった明るいサエコとして生きていって欲しい。
僕が死んだ後、君が自分が汚されてると思って自分自身を卑下して生き続けていくなんて、耐えられないんだ。だから本当に勝手な言い草だけど、これからも強く生きていって欲しい。頼む…』

サエコはリヒャルドの訴えるよな目を見て、灰色の瞳に涙をためながら

『わかったわ、リヒャルド。あなたが、そう望むのなら私はもう絶対に自分が汚れているなんて思わないわ。だって、私をきれいだって言ってくれたその言葉を否定したらあなたの私に対する愛まで疑ってしまうことになるからね…。
本当にありがとう、リヒャルド。
私はあなたに逢えて本当に幸せだったわ。
だから、これからも強く生きてみせるわ。
あなたが私に教えてくれた生きるコトの本当の意味を決して無駄にはしないわ。』

それを聞いてリヒャルドは本当に嬉しそうに微笑んだ。

それがサエコとリヒャルドの交わした最期の会話だった。

それ以後リヒャルドは意識不明となり、二週間後にはその心臓を停止させた。

 

アスカは黙ってサエコの話しを聞いていた。

そして目の前にいる女性を信じられないモノでも見るような目で見上げた。

『女としての全ての意味を力づくで否定されながらも、何と強くけなげに生きぬいた女性(ヒト)なのだろうか…。』

アスカはサエコの話しを聞いて、今まで全てに絶望していた自分自身が本当にちっぽけな存在であるような気がした。

 

サエコは嬉しそうにリヒャルドとの思い出を邂逅していたが、突然寂しそうな顔をして、

「私は本当に幸せだったわ。

けど、本当は心の片隅でいつも思っていたの…。

本当はリヒャルドに抱いて欲しかった。

そして何よりリヒャルドとの子供が欲しかった。

けど、それは私には永遠にかなわない夢だった。

そして、その想いはリヒャルドを傷つけるだけだと分かっていたから、私はその事をリヒャルドに伝えるコトは出来なかったの…。

だから、私はあきらめたの。

女としてのもう一つの幸福を…。

なのに、アスカ。あなたは…あなたは……」

アスカはハッしてサエコを見る。

サエコの灰色の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「あなたにはまだ、いくらでもこれから幸せになれる可能性があるのに…。

私が望んでも決して得られない女としての幸福を手に入れることが可能なのに…。

なのにあなたは、自分で自分の女の価値を軽視して、その可能性を自ら閉ざそうとしていたのよ…。

それは私には到底耐えられない冒涜だった。

だから、私は自分で自分を貶めようとするあなたが本当に憎かった…。

あなたは私が力づくで奪われた…そして、もう二度と手に入らない女としての幸せの可能性を持っているはずなのに…、なのに…あなたは………」

 

サエコは何度も悔しそうに鳴咽を漏らした。

アスカはサエコの言葉に耐えられずに思わず顔を背けた。

そして心の中で何度も葛藤を繰り返しながらも…

「ごめんさない…」

と謝った。

それはかつてのアスカがシンジにさえも言えなかった、はじめての他人に対する謝罪の言葉…。

はじめて、アスカがサエコに対して心を開いた一時だった。

 

涙をふいたサエコは後ろからそっとアスカを抱きしめた。

アスカは一瞬ビクッとしたが抵抗しなかった…。

サエコはアスカの今までにない弱々しい後ろ姿に、強烈に母性本能を刺激された。

自分自身が押さえられなくなってくる…。

サエコは今まで心の奥底に封じこめておいた、密かにアスカに重ねていた自分の想いを打ち明けた。

「アスカ、私はずっと思っていたの…。

もし、リヒャルドとの間に子供が生まれていたらきっと今ごろはあなたぐらいの娘に成長していたと思うわ…。

ねぇ、アスカ。私のコトを“ママ”って呼んでくれない?」

その言葉にアスカはビクッと反応した。アスカの心臓の鼓動が早くなってくる…。

「お願い、アスカ。嘘でも同情でもいいの…。一度だけでいいから私を“ママ”と呼んでくれない、お願い、アスカ」

サエコは訴えかけるような目でアスカを見る。

「…………………………………。」

だが、アスカは何も答えられなかった。

その言葉はアスカにとって決して犯してはならない神聖不可侵な壁だったからだ。

アスカにとっての“ママ”とは、自分を殺そうとした、そしてエヴァの中で最期までアスカを見守っていてくれた惣流・キョウコ・シェッペリン唯一人だけだったからだ。

 

しばらく続く沈黙…。

やがてサエコがアスカから手を離した。

アスカは本当に申し訳なさそうな顔をしてサエコを見る。

するとサエコはアスカを気遣うような、そして本当に寂しそうな笑顔でアスカを見つめて

「いいのよ、アスカ。つまらないコトを言ってごめんなさいね。そうよね、あなたにとって母親とは何者にも替えられない大事な存在なんだものね…。けど、これだけは信じてね、アスカ。例え私はあなたの母親にはなれなくても、本当にあなたの幸福を願っていつまでもあなたのことを見守ってあげるから…」

そう言うとサエコはアスカから顔を隠すようにして、やや駆け足で部屋から出ていった。

その時、サエコの目が涙で光っていたのをアスカは見逃さなかった…。

 

 

一人、部屋に取り残されたアスカは激しい喪失感と罪悪感に囚われていた。

『どうして、ママといってあげられなかったのだろう…。嘘でもよかったのに…。あの人は本当にあたしを心配して自分の総てをあたしにさらけ出してくれたのに…。あたしはまた拒絶したんだ。本気で自分を求めてくれた人をまた自分から拒絶してしまったんだ…。』

 

アスカは枕にうつ伏してその夜、一人でずっと鳴咽を漏らしていた。

 

だが、その夜を境にアスカとサエコの仲は急速に縮まっていった。

 

翌日の夜、サエコの部屋をアスカが枕をかかえて尋ねてきた。

「ねぇ、一人で寝るのが恐いの…。一緒に寝てくれる?」

アスカは顔を赤らめて本当に恥ずかしそうに、サエコに尋ねた。

サエコはクスリと笑って、本当に嬉しそうに微笑んで

「えぇ、私でよければいつでもアスカの隣にいたあげるわ。決してあなたが悪い夢をみないように…」

その言葉にアスカははにかんでサエコの隣に潜りこんだ。

そして、その夜以来、アスカはサエコと一緒に眠ることになった。

アスカは本当に少しづつだが、サエコに対して心を開いていった。

最初は積極的に話しかけるのはサエコで、いつもアスカがポツリ、ポツリと受け答えをしていたが、いつのころからかアスカは生来の積極性を発揮しはじめて、自分の生い立ちについて少しづつだがサエコに話しはじめた。

精神崩壊を引き起こし、人形をアスカだと思いこみ最期にはアスカを殺そうとしたアスカの実の母親のこと…

それ以来ずっと一人で生きると無理をしていた幼少のころ…

ただ一人アスカが憧れ、心を許していた加持という男性のこと…

日本に来てはじめた会ったシンジという男の子のこと…

使徒に敗れエヴァとシンクロ出来なくなり廃人のようになった自分のこと…

弐号機の中で母と出会い、狂気に陥り、多くの人間を殺戮した狂った自分のこと…

エヴァ量産機に陵辱され母と一緒に惨殺され、それ以来ずっと無限地獄を彷徨い続けた自分のこと…

その後、シンジを憎んでずっとシンジを傷つけ続けた自分のこと…

そして、罪の意識が生み出した悪夢を見るのが恐くて夜一人では寝れない自分のこと…

 

それらの一部はすでにサエコの知るところだったが、サエコは熱心にアスカの話しに耳を傾け、アスカの過去を正面から受け止めてあげた。

こうしてアスカのサエコに対する信頼感は日増しに増幅していった。

 

それからのアスカはどんどん明るくなっていった…。

そしていつもサエコの側を離れようとしなかった。

食事中でも職場でも以前にもまして積極的に話しかけてきた。

そして何より以前のような他人を拒絶する勝ち気な色はアスカの中から完全に抜け落ちていた。

 

アスカはようやく自分を取り戻しはじめた。

アスカは今完全にサエコに対して心を開いていた。

そうして半年が過ぎてアスカは完全に立ち直った。

以前にない明るくそれでいて素直なアスカ。

今では本当にサエコのコトを心から信頼し甘えていた。

だが、どうしてもサエコが望んでいた、そして今ではアスカがサエコに心から言いたかったあの言葉を言うことは出来なかった。

とはいえアスカの心はすでに定まっていた。ただ、それを言うきっかけを欲していただけだった。

こうしてアスカがドイツにきて一年近くが経過し、12月4日のアスカの15歳の誕生日を迎えた。

その時には腰まで届くアスカの髪の色は赤から金髪に映え変わっていた。

ハーフやクォーターには成長期の途中で髪の色が変わる事が希にあるそうだが、アスカの髪の色の変化はその現象だった。

「お誕生日おめでとう、アスカ。」

サエコは自宅で心からの笑顔でアスカを祝福した。

サエコははじめは職場でアスカのバースディパーティーを開こうとしたが、なぜかアスカはそれを拒んでどうしても二人だけでやりたいとサエコにせがんだからだ。

アスカはケーキに並べられた15本のキャンドルを一息で消して、

「ありがとう、あ…あのね…あたし、お誕生日のプレゼントにどうしても欲しいモノがあるの…」

と、アスカははにかみながら言いづらそうにサエコに尋ねる。

サエコはにっこりと笑って

「えぇ、いいわよ。アスカが欲しいモノなら、何だって買ってあげるわよ…」

その言葉にアスカは赤くなって下をむいて

「お……お金じゃ……買えないモノなの……。あ………あたしね…マ……ママが……ママが欲しいの……。だから、あたしのママになって欲しいの……。
ねぇ、ママって呼んでいい?」

サエコは呆然とアスカを見る。

サエコの心臓の鼓動が早くなっていく。

「だ……駄目かな……?」

アスカは期待と不安をこめてサエコを見上げる。

突然、サエコは強くアスカを抱きしめた。

サエコの目から涙がこぼれ落ちている。

アスカも耐えられなくなりサエコに抱き着いて

「マ……ママ〜!ママ〜!ママ〜!!」

と泣きじゃくった。

サエコは泣きながらアスカをさらに強く抱きしめて

「アスカ…本当に…本当にありがとう。いいわよ。私でよければ死ぬまであなたのママになってあげるわ。」

そう呟いて何度も鳴咽を漏らした。

 

二人はしばらくの間、泣きながら強くお互いを抱きしめていた。

こうしてアスカとサエコの間には決して切り離す事ができない強い絆が生まれた。

この夜、はじめてサエコとアスカは本当の母娘となった。

今日は15年間生きてきたアスカにとって最高の誕生日だった。 

 

それからのアスカはサエコと二人で本当に明るく慎ましく生きてきた。

他人を拒絶するコトをやめ、他人を受け入れた少女は今まで欲していたあらゆるモノを他人から与えられるようになった。

こうして、2年の月日が流れた。

今ではアスカは以前からは考えられないような夢のような日々を過ごしていた。

もう意地を張る必要もなく、卑小なプライドを振りかざすコトもなく本当の自分を相手に示すコトで自然に職場でも学校でも他人と打ち解けるコトが出来ていた。

今のアスカはもう自分を偽るコトなく生活するコトが出来た。

一日の総てが本当に充実していた。

 

たった一つのコトを除いては…。

 

今はアスカはサエコの勧めで、かつてサエコが卒業したハーベンブルグ工科大学の大学院に在籍していた。

いずれサエコの仕事を本格的に手伝わせるための修行というコトもあったが、何より職場にいては中々巡り合えない同年代の異性と触れ合う機会が得られるとサエコは考えたからだ…。

アスカも、本当にアスカが欲していたモノはもう二度と手に入らないと思い込んでいたので、別なモノで得るコトで自分をごまかそうとしていた。

だが駄目だった。

 

 

アスカはソファーに腰掛けたままサエコを見上げた。そして

「笑っちゃうでしょう、ママ。あれから何人かの男性と付合ってきたけど、いつも肝心な所でシンジの顔が思い浮かんで、最後までいくどころかキスひとつできはしないのよ…。キスなんてドイツでは挨拶代わりだとずっと思っていたのにね…」

自嘲するような口振りでそう答えた。

サエコは自分を見上げるアスカの顔を見て

「ねぇ、アスカ。もしあなたが一度シンジ君を不幸にしてしまったから、自分にはもう幸せになる資格がないと思い込んでいるのならそれは間違いよ。月並みな言い草だけどヒトは幸せになる権利があって幸せになるわけじゃないのだから…」

「……………………………………………。」

アスカは何も答えない。

「それに今ではもうシンジ君はすっかり立ち直っているんでしょう?
だったら、いつか別な形で償えばそれで済むことだわ。だからアスカ…」

アスカは途中でサエコの言葉を遮り

「ううん、違うのよ、ママ。そんなんじゃないのよ。ママの言うことも分かっているの。けど、あたしは駄目なの……。だって…」

だが、アスカはその先を言わずに口をつぐんだ。

サエコはやや躊躇った後

「シンジ君のコトが今でも好きだから?」

そうサエコは尋ねたが、アスカはビクッと身を震わせただけで、何も答えなかった。

 

サエコは一つため息をついた後、

「もういいわ。今日はもう寝ましょう。アスカ」

と暖かい笑顔でアスカに尋ねると

「うん!」

とアスカは今日帰ってからのはじめての明るい笑顔で、サエコにそう答えた。

 

 

サエコの部屋にはダブルベッドが置かれていた。

そこはサエコとアスカの指定席となっていた。

アスカは寝間着に着替えてサエコの隣に潜り込んだ。

そしてアスカは前からいつも思っていた感謝の言葉をサエコに捧げた。

「ママ…、あたしね…。ママに逢えた事をすっごく感謝してるんだ。あの時あたし完全に自棄になっていて、自分の事本当に汚れていると思っていたから、もしママに出会えなかったらきっと堕ちる所まで堕ちちゃっていたと思う。
きっと、夜の恐怖を忘れるためだけに、好きでもない行きずりの男とでも毎晩寝てしまうような本当に自堕落な女に落ちぶれちゃってたと思う。
けど、ママがあたしに女にとって貞操がどれほど大事なモノか身を以って教えてくれたから、そしてママがあたしの我が侭を聞いていつも一緒に隣で寝てくれているから、あたしは自分を大切にする事が出来たんだと思う。
本当にありがとう、ママ。 ママに出会えたおかげで、あたし本当に今幸せだから」

サエコはアスカの心からの感謝を本当に嬉しく思い、暖かい笑顔で微笑んでそっとアスカを抱きしめた。

アスカはサエコの中で本当に甘えた顔をして猫のようにまるくなっている。

「私はもっと早くアスカに逢いたかったわ。あなたが幼少の時に声を掛けていられたら、もっと早くあなたを救ってあげられたかもしれないのにね…。」

そのサエコの言葉にアスカはやや申し分けなさそうな顔をして、

「ううん、たぶん駄目だったと思う。あの時のあたしには他人を受け入れられる心の余裕なんて欠片もなかったから…。だから、たぶんママが話し掛けてきたとしても絶対に心を開けなかったと思う。
日本に行ってからはもっと酷かった。そこで死ぬほどつらい事があって一時期、本当に狂ってしまったけど、シンジがあたしを正気に還してくれたの…。
本当に自分勝手な言い草だけど、シンジが自分の身を犠牲にして狂ったあたしを正気に戻してくれたから、今あたしはママを受け入れるコトが出来たの。」

アスカはややつらそうな顔をしてそう答えた。

サエコはアスカをさらに強く抱きしめて

「もう、寝ましょう。アスカ。また明日になればきっと今日見つけられなかった答えを見つけられると思うわ。」

そう言ってサエコは電気を切った。

 

 

ドイツに来て三年。アスカはシンジと違い未だに自分で自分を肯定するコトが出来ずにいた。

サエコに自分の存在を肯定してもらうコトでようやく自分を維持することが出来た。

あいかわらずアスカは“母”という存在にすがり付いていた。

だが、血のつながらない他人を家族と認めたコトはアスカにとって前より一歩前進したといえるだろう。

いずれはアスカもシンジのように自分で自分の存在を肯定できるようになれる日がくるのだろうか?

 

アスカはそっと自分の隣にいるサエコを見る。

ママがあたしの隣にいてくれる。

ママがあたしを守ってくれている。

そう思うと、夜に対する恐怖感がみるみると消えていく。

ママが一緒にいてくれる限り、今夜も恐い夢を見ないですみそうだ。

『ありがとう、あたしの二人目のママ』

アスカは心のなかでそう感謝の言葉を述べると心地よい眠りの中に落ちていった。

その夜もアスカが悪夢にさい悩まされるコトはなかった…。

 

つづく…。

 

 

 

 

 

 


NEXT
ver.-1.00 1997-3/19公開
ご意見・ご感想・誤字情報などは itirokai@gol.com まで!!

 

けびんです。

ごめんなさ〜い。

わたくし、確信犯です。前回の後書きで思わせぶりなコト(アスカを支えるオリキャラ)を書いたのは、明らかに、LASな読者がアスカに恋人が出来たのではと勘違いして、悲鳴のようなメールが届くのを期待していたからです。(^^;

(事実けっこう届きました(笑))

どうも僕には読者を焦らして、その反応を楽しむという悪い癖があるみたいです。(前章の第八話もそうでしたし…)

だから僕が後書きで述べる戯言はあまり気にしない方がいいと思います。

(う〜む、自分で言うか?こういうのを盗人猛々しいというのでしょうな…)

さて、今回はじめて“サエコ・ブッフバルト”というオリジナルキャラ(前回作ったオリキャラ達は適当ですので…)を作ってみました。

正直、心の補完をテーマにした作品でこういうアスカにとって受け入れ易いオリキャラを作るのは邪道かなとも思いましたが、なんか放っておくとアスカはマジに堕ちる所まで堕ちてしまいそうでしたし、世の中にはアスカを支えるにたる大人はけっこう存在するもので、ようはアスカがそれを受け入れられるかどうか…だと僕は思っていたので、こういうお話しをつくってみました。

モデルはいません。全て僕の妄想が生み出したキャラです。(こんな酷い過去をもつ女性にモデルがいるなんて言ったら殺されるな…)

さて、サエコの設定で不快感を感じられた読者(特に女性の方)がいらしたら、あらかじめ深くお詫びさせていただきます。

ただ、僕はこの「二人の補完」は完全シリアス(自分ではそう信じている)で一切妥協なしで書き上げるつもりなので、書きたいモノを表現する為だったら、「残酷描写」だろうと「性描写」だろうと辞さない覚悟です。ですから僕の作品を読む方はそれなりに覚悟して下さいね。(もっともAIR編に耐え切った読者ならその心配もないと思いますが。)

さて、11・12話はシンジ・アスカのそれぞれの空白の3年間の紹介編だったので、けっこうなボリュームになりましたが、次からは適当なボリュームに落ち着くと思いますが量が少なくなったと嘆かないで下さいね。(笑)

次回13話はどちらで書くかまだ決めてませんが、いずれにしても遠距離恋愛は僕の趣味ではありませんので、次かその次当たりで二人を出会わせるつもりです。

(最終的な舞台はもちろん日本です。(だって学園エヴァですし(笑))

まあ、今回は予告通り素直なアスカを自分なりに表現できたと思っています。(^^;

ちなみに髪の色の変更(赤毛→金髪)は完全に作者の趣味です。(笑)

(一応、後の伏線にもなっているのですがね…)

 

では次は第十三話でお会いしましょう。

ではであ(^^;

 

 

 




 けびんさんの『二人の補完』第十二話、公開です。



 十一話はシンジ編、
 そして、
 十二話でアスカ編のその後が−−


 ボロボロになっていて、
 さらにさらに堕ちていきそうだったアスカ。



 いい出会いで、いい支えで・・

 ママ。

 ホント、良かった(^^)



 本当に、良かった・・・



 さあ、訪問者の皆さん。
 連続で長編を書き上げたけびんさんに感想メールを送りましょう!


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