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寂しくなるのは、嫌。
色々思い出すから、嫌。
だけどお願い、一度でいいから聞かせて。
ねえ、覚えてる?あの時。
言いかけて飲み込んだ言葉。
貴方は、なんて言おうとしたの?
前編
一台の乗用車が、渋滞に巻き込まれている。
夏の休暇を観光地で過ごそうとする車の列が、5Km先まで続いているらしい。
車内のカーナビゲーターシステムに表示される情報は、目的地に着くまでにどう足掻いても1時間は掛かることを伝えている。普通に走行れば、せいぜい20分で行ける距離なのに。
運転している男は、胸ポケットから煙草を取りだし火をつけると、辺りの車がさもいまいましいといった風に煙を吐き出す。そして、助手席に座っている妻を顧みて、
「疲れただろう」
と優しく声をかける。
話しかけられた妻は、本当は車が苦手なのだが、それを口にして夫に余計な心配をさせたくないのだろう、
「ううん。大丈夫よ」
と、細い声で答える。
「そうか、無理するなよ」
妻が無理をしているだろう事は彼には一目で分かる。だが、それには触れずにあくまでも優しいまなざしを向ける。
「ええ」
「姫はどうした?」
そこで、男は後部座席を覗き込む。
後部座席では、チャイルドシートに座った彼等の娘が静かな寝息を立てている。
息をする度に、おかっぱにした黒髪が揺れている。
夫婦は、目と目を見合わせて軽く笑いあう。
「ずっとはしゃぎっぱなしだったもの、朝から」
「ああ。よっぽど嬉しかったんだな」
その時、道が少し流れ始める。
男は暫く話しを止め、前の車との車間を詰めながら運転を再開する。
「このところ、ずっと休みが取れなかったからな」
男が話し始める。
「半年位か?出張も多かったしな」
妻は、ただうなずく。
「たまには、こうやって皆で出かけるのもいいな」
「そうね。でも、」
「何?」
「日曜日位休んでくれないと。身体だってもたないでしょ」
「……」
「あなたに倒れられたら、わたし……」
「分かってるよ、大丈夫」
男は、そう言うと左手で妻の肩を優しく叩く。半ば言い聞かせる様に、
「分かってるよ」
笑顔を向ける。
夫婦の乗った乗用車は、ようやく渋滞を抜け、目的地であるホテルの前に辿り着いた。午後と言うよりは夕方と言った方が近い時間となってしまっている。
ここは、箱根湯元の温泉街。この地方に来るのは、男にとっては約10年振りである。
正面玄関の車止めに駐車すると、
「さあ、着いたぞ、おきろ、寝坊すけ」
男は後部座席のドアを開け、まだ寝ている娘を起こす。
声と共に身体を揺すられて目が覚めた娘は、
「着いたの?やったー!」
車から下りると父親に抱きついてくる。
「こらこら、パパは荷物を出さなきゃいけないから、ママのところへ行ってなさい」
娘を地面にゆっくり降ろすと、妻の方に目をやる。妻は、そんな二人を暖かい目で見つめている。
「ママー。お風呂入るんでしょ?これから」
娘が母親の方に駆けて行くのを見守り、男はトランクから家族の荷物を出す。ボストンバッグが二つ。それを両手に提げ振り返ると、妻と娘が手を取りながら待っている。
小走りでそこへ向かい、
「お待たせ」
三人で並んで正面玄関へと足を向ける。
正面玄関を潜ると、赤いじゅうたんが家族を出迎える。仲居達が並んで新しい宿泊客に笑顔で挨拶をする。娘がいちいち丁寧に挨拶を返している。それを見る男の顔に、思わず笑みが浮かぶ。向かって右側にフロントがある。
「いらっしゃいませ」
フロントの若い男性が笑顔で一礼する。
「予約しています、碇ですが」
傍らのコンピューターを操作した後、
「はい。碇様、うけたまわっております。三名様、でございますね」
「そうです」
「では、恐れ入りますがこちらに御記入を御願い致します」
フロントの男が、そう言って宿泊カードを差し出す。
男は、カウンターにあるボールペンでそのカードに記入し始める。
確かな筆跡で、自分の名前を書く。
ロビーには、何組かのソファーとテーブル、そして中央に植え込みがあり、見事な松の木が枝を張っている。
夕方のホテルのロビーは、到着したばかりの一群と、ゆっくり時間を過ごす長期滞在客、今日一日の行楽から帰ってきた宿泊客の姿などでごった返している。
家族連れ、年配の夫婦、若者のグループなど、この温泉街の中でもかなり名の通ったホテルらしく、その客層は幅広い。
そのロビーを、一人の男の子が走り回っている。
すでにチェックインを済ませて、宿の中を見て回っていたのだろうか、浴衣姿の女性がその後を追いかけている。男の子の髪の毛は、かすかに茶色掛かった微妙な色合いをして、肌の色も幾分、白い。
「待ちなさい。こら、そんなに走ったら駄目だっていつも言ってるでしょ」
母親だろう、その女性が大声で喚きながらその男の子の後を追いかけている。
宿泊カードに記入している男は、その声の方にちょっと顔を向けるが、すぐにカードに目を戻す。その時、娘が足元に走り寄ってくる。
足元の娘に笑顔を向け、
「もうすぐ済むから、ママのところでまってなさい」
「はーい」
娘は、踵を返すと、母親の所へ走り出す、と、数歩も走らないうちに転んでしまう。
男はそれを見て、
「アスカ!」
同時に、ロビーを走り回っている男の子の母親が、
「コラ、シンジ!」
偶然の絶妙なタイミングでそれぞれの子供の名前を叫んだ二人が、はっとして相手を見る。
男は、身長約180cm位。グレーのジャケットの中に白いシャツを着てジャケットと同じグレーのスラックスをはいている。短めの黒髪が線の細いやさしげな顔の上で揺れている。
女性は、身長約170cm位。西欧の血を引いたかの様な造作の美しい顔。赤い髪は肩口でそろえられ、大きな瞳は見る者を魅了して止まないマリンブルーに輝いている。
男が、やっと聞こえるかどうかの声を出す。
「ア、アスカ?」
女性が、独白く様に声を絞り出す。
「シ、シンジ?」
二人の間に様々な想いが去来する。過ぎ去った年月。甘酸っぱい様な、苦いような過去。二人で過ごした激動の刻……
しかし、男の想いは、転んで泣き出した彼の娘の声に消され、
女性の注意は、
「どうした、またシンジがいたずらしてるのか?困った坊主だ」
彼女の夫の声によって、男から逸らされる。
うつ伏せに倒れ込んだまま泣き叫ぶ娘に、男が素早く近寄って行き、抱き上げながら、
「ほら、慌てて走っちゃ駄目じゃないか。さあ、ほら、もう痛くない、痛くない」
娘を立たせ、膝や身体をさすりながら優しく笑いかける。
「ユキ。アスカを頼むよ」
彼は妻に声を掛け、フロントに戻る。
「あ、あなた。こら、シンジ。もうこっちに来なさい!」
ゆっくり近づいてくる夫を見て、女性は息子に一喝する。
息子は、父親も来たのを認めると、すごすごと両親の元へと歩いてくる。
「本当にじっとしていないんだから、アンタは」
「全くお前は、お調子者で困る」
二人の声が遠ざかって行く。三人並んで歩きながらエレベーターの方へ消えて行く。
程なくして宿泊手続きが終わり、一人の仲居が三人に近づいてくる。
「それでは、ご案内致します。どうぞ、こちらへ」
その声に、男は荷物を持ち、妻は娘の手を取り、仲居の後に続く。
エレベーターに乗り込むと、仲居は5階のボタンを押す。
ふと、彼の胸に、先程の女性の姿が蘇ってくる。
……アスカ、あの頃とちっとも変わってない。いつも僕の側にいて、僕を支えてくれたアスカ。体当りで僕を愛してくれたアスカ。失って初めて気付いたかけがえのない僕のアスカ。僕が愛していたアスカ。
髪の毛切ったんだね、ずっと伸ばしてたのに。やっぱり子育てが大変だからかな。そういえば、ユキも子供が産まれた時は髪の毛をずっと後ろに縛ってたもんな。
ふふ。「シンジ」だって。偶然かな。それとも、自分の子供に僕の名前を付けたのかい?……まさかね。それじゃまるで僕みたいじゃないか。
そういえば、もう何年になるんだろう。アスカが結婚する前……いや、あれは電話で話しただけだったから、高校卒業して、ミサトさんの部屋を出た時以来か。15年?いや、もっとか。随分経つんだな。
懐かしい。やっぱり箱根は僕等の思い出の場所なのかな。こんな偶然に、同じホテルに泊まるなんて。もし、あの時僕がしっかりしていたら、今頃……
いや、僕は何を考えてるんだ?もう、忘れた筈じゃないか……もっとも、吹っ切れるのに10年近い時間が必要だったけど。
ああ、アスカ。君と話しがしたいよ。聞きたい事があるんだ。ずっと、ずっと聞きたくて胸の中にしまっていた言葉。きみは……
「……お客様のお部屋は、5階になります。ちょっとここからだと遠いですが、丁度芦ノ湖が正面に見えるんですよ。お天気がよくてようございましたね。」
エレベーターのドアが閉まり、仲居がこれから彼等が泊まる部屋の説明を始めている。
男はその仲居の声に我に帰る。
「あ、そ、そうですか」
「大丈夫、やっぱり疲れてるんじゃない?」
妻が、心配そうに覗き込む。
「いや、何でもない。大丈夫だよ」
彼は無理やり笑顔を作って妻に答える。
親子は、エレベーターで5階に着くと、部屋へ向かって歩き出す。
息子が、じゃれつく様に父親と母親の間を行ったり来たりしている。
「ほら、後ろ向きに歩くと危ないぞ」
父親がたしなめる。
エレベーターを降りて左に歩く。長い廊下の突き当たりが更に左に折れている。その曲がり角を曲がった3つ目の部屋が、この家族の部屋である。
部屋に入ると、息子は側転しながら床に寝転がる。
呆れた様にそれをみながら、母親はお茶を入れ始める。
ふと、彼女の脳裏に、ロビーで見た家族の姿が浮かぶ。
……シンジ、アンタ全然あの頃と変わってないのね。昔と同じ優しい笑顔。いつもアタシを包み込んで抱きとめてくれたシンジ。アタシの我儘を笑って聞いてくれたシンジ。アタシが愛していたシンジ。
綺麗な奥さんね。笑顔が魅力的な優しそうな女。でも、どことなく、誰かに似てる気がする。誰だろう……そう、ファースト。あの娘の面差しにちょっと似ている。でも子供はシンジ似ね、間違いなく。
ふふ。「アスカ」だって。偶然なの?それとも、自分の娘にアタシの名前を付けたの?もしそうだとしたら、やっぱりアンタ馬鹿よ。馬鹿、まるでアタシみたいじゃない、そんなの。
そういえば、もう何年シンジに会ってないんだろう。アタシが結婚する前……ううん。あの時は電話で話ししただけで会ってないし。そう、高校卒業して、ミサトの部屋を出た時以来。わあ、もう16年になるんじゃない。随分経つのね。
懐かしい。やっぱり箱根はアタシ達の思い出の場所なのね。アタシが初めて日本に来て、暮らした場所。シンジと出会って、別れた場所。もし、あの時アタシがはっきりしていたら、今頃……
ふふっ。なに考てるの、アタシ?もう、忘れた筈なのに。散々泣いて、散々唇を噛んで、忘れたはずだったのに。
ああ、シンジ。アンタと話しがしたい。アタシね、聞きたい事があるの。ずっと、ずーっと聞きたくて、胸の中にしまっていた言葉。シンジは……
「……アスカ、風呂に入りに行くだろう?シンジはどっちが入れようか」
夫が次の間から声を掛けながら、部屋のテーブルに戻り、アスカの前に座る。
湯飲みにお茶を注ぎながら、彼女は我に帰る。湯飲みから、お茶が溢れてこぼれてしまっている。
「あ、ご、ごめんなさい。アタシったら……」
盆の上に置いてある台布巾を手に取る。
「やっぱり、疲れてるんじゃないか?休暇を取る為に無理なスケジュールを続けてたから」
「大丈夫よ、ちょっとぼーっとしただけだから」
妻は無理やり笑顔を作って夫に答える。
エレベーターを降りると、一行は左の方へ歩き出す。可成長い廊下を暫くあるくと、
「こちらになります」
一家が仲居に案内された一室に入る。
仲居が退室すると、
「ねえ、お風呂行こう、お風呂!」
娘がはしゃぎながら母親にしがみつく。
この娘は、すでに4歳にして温泉好きの様子である。
せがまれた母親は、疲れが出たのか少し青ざめている。
男は、妻を背後から抱きとめ、彼女の黒髪に顔を埋めながら、
「大丈夫かい?ユキの方こそ、疲れただろう。馴れないドライブだったし」
「ううん。ちょっと休めば平気だから……」
「そう?無理するんじゃないよ」
妻の頬に手を当てて、その顔色を伺う。
「ありがとう」
妻は、そう言ってお茶を入れる準備をする。
「そういう事だから、ちょっと休憩!」
彼はおどけた様に娘に言うと、ごろりと大の字に横になる。
すぐさま、娘がその腹の上に馬乗りになると、
「やだよーやだよー、パパそうやっていつも寝てるじゃない」
「いったなぁ、こら」
娘をくすぐる夫。ケラケラ笑いながら身をよじって逃げる娘。
そんな光景を、妻は目を細めて眺めている。幸せそうな笑顔で。
彼女にとって、夫は自分の人生の全てなのだ。
そして、その夫との間に産まれた天使。愛らしい娘も、彼女の全て。
でも、夫にとって、自分は?夫にとって自分は彼の人生の全て?
たまに襲う疑問に、彼女は自分でしっかりした答えを出す。
そうよ。彼にとっても、わたしは彼の全て。
夫は、いつも優しい。自分の事を、娘の事を、時には彼自身の事よりも優先させてくれる。そう。彼は、わたしを愛してくれている。この家族を愛してくれている。それは、疑うまでもない。
でも、もしわたしが先に逝ってしまったら、この人はどうなるんだろう。
毎朝、毎晩、彼女は思う。
「まだ、大丈夫。まだ、生きてる」
「今日も生きてた。明日も、大丈夫だろう」
いつか襲ってくるかもしれない「その日」。子供の頃から常に隣り合せだった不安。
自分は、贅沢過ぎたのだろうか。失う事が怖いものを抱え込み過ぎたのだろうか。
いや。それでも彼は選んでくれたのだ。こんな自分を。彼は、きっと私を守ってくれる。娘を産んだ時もそうだった。彼は、わたしを絶対一人にはしない。
だって、彼女は思う。だって、約束したんだもの。結婚を決めた時に、プロポーズされた時に。
「絶対、一生離さない」と。
だから、わたしはそれを信じる。愛するあの人の言葉を信じてる。
彼女は、気持ちを落ち着けると、
「さあ、着替えてお風呂に行きましょう」
テーブルを拭いている母親に、甘える様に息子がしがみついてくる。
「ママ、ねえ、ママ」
「なあに、シンジ?」
「ねえ、ちょっとこっち来てよ、ねえ、こっち」
「なんなのよ、もう」
言葉はぞんざいだが、その顔は笑っている。
息子は、いたずらっぽい瞳を輝かせ、母親の手を引っぱる。
そして、ベランダへ出て行く。
「あ、あなた、お茶、入ってるから」
部屋の中に声を掛け、息子に従ってベランダへ出る。
「ほら、あれ見て、ママ」
そこからは、このホテルの中庭が一望に見渡せる。
深い植え込みが、充分手入れされているのだろう、地面の芝と調和し、なかなかの景観を形作っている。中央に池が掘ってあり、その池の中央には橋が架かっている。
だが、息子が見せたかったのは、それではなく、彼方を指差し、
「ほら、あれ」
それは、遥か遠くに見える芦ノ湖。湖面に、白鳥を形取った遊覧船が浮いている。
「ねえママ?」
「なあに、シンジ」
「ぼく、あれ乗りたいな」
「ああ、あの白鳥?」
「うん!」
「そうね、明日パパにお願いして連れていってもらいましょ」
「わかった。ぼくもお願いするよ、パパに」
そうして彼女の息子は、その事にけりがついた事に安心したのか、
「ねえママ、見て見て。あそこに鳥がいるよ」
また別の方を指差し、母親に笑顔を向ける。
息子の傍らでしゃがみ込みその話しに耳を傾けている妻を、夫は部屋の中から見ている。
静かに、お茶をすする。
「アスカ」
夫は、妻の名前を呼ぶ。
「あ、なに、あなた」
妻が、息子を一人ベランダに残し、部屋の中へ入ってくる。
「今日は、俺がシンジと風呂に入るよ。アスカも疲れてるだろうから、たまには一人でゆっくり温泉につかって、命の洗濯でもするんだな」
「あなた……悪いわね、なんか」
命の洗濯。どこかで聞いた事がある様な気がする。でも彼女はそれにはこだわらずに夫が自分に気を使ってくれる事に、なんだか嬉しくなる。
「いいさ。どっかの馬鹿が押し付けた仕事で、アスカの所にしわ寄せが来てたんだから」
「どっかの馬鹿、じゃなくて、あなたでしょ、押し付けたのは。高柳宣伝課長殿?」
それに夫は声を出さずに笑う。
「まいったな。バレてたか」
「みえみえよ。発表一週間前になって仕様変更だなんて、あなた達販売部宣伝課のやりそうな事だもん」
「でもあれは販売部長からの命令だったんだぜ」
「それも、分かってる。本当はあなたにはそんな度胸ないじゃない」
「酷いな、それは」
二人は、暫し顔を見合わせると、崩れる様に笑い転げる。
「ねえねえ、なに、どうしたの?」
息子が、両親の笑い声に気付いて部屋へ入ってくる。
「さあ、風呂にいこうか」
息子の頭をなでながら、夫が言う。
大浴場は、地下二階にある。
一家は、エレベーターを降りると、長い廊下を歩き、大浴場の前にたどり着いた。
向かって右側が男性用、左側が女性用である。
「じゃ、あとでね」
妻は、夫と息子に声を掛けると、扉の向こうに消える。
脱衣所で浴衣を脱ぎ、浴室へ向かう。かたわらの鏡に気が付き、そっと自分の姿を写して見る。
子持ちの34歳には見えない、みずみずしい肢体。
ちょっと腰をひねって見て、
「やだ、太ったかしら」
つぶやきながら浴室へ入る。
先客は、二人。母親と、娘。入り口に背を向けてお湯につかっている。
「ママ、ここ広くて気持ちいいね」
幼稚園児だろうか、娘のはしゃぐ声が浴室内に反響している。
湯気のこもる洗い場で軽くお湯をかぶると、彼女はその母子のいるお湯の中へ滑り込んで行く。
気持ちいい。自分の四肢が、お湯の暖かさにゆっくりと溶け出してゆくような感じ。なんだか、久しぶりにゆっくりお湯につかるような気がする。そう、いつもはあのいたずら坊主と一緒だからだろうか。
……そういえば、アタシお風呂好きだったのよね、あの頃は。毎朝入ってたもの。今は子供と入っても、一人で入っても、あんまり丁寧に洗わなくなっちゃったけど。
シンジが毎朝お風呂沸かしてくれたっけ。たまに熱すぎるって怒ると、シンジはいつもゴメンって言って。
ああいう所は結局変わらなかったわね。今はどうなのかしら。あの奥さんにも、そうやって謝っているのかな。
まさか、いくらアンタだって成長はするわよね。
ねえ、シンジ。アタシね、今、幸せだよ。夫は優しいし、息子は可愛いし。そうそう、前にも電話で言ったけど、旦那はね、アタシの職場の上司だったんだよ。今は配置転換で違う部署に移っちゃったけどね。でもアタシと同じ年でもう課長なんだよ。凄いでしょ。……って、昔だったら考えられないよね。このアタシが自分より優秀な人間を素直に認められるなんて。でも、それはアンタが教えてくれたんだよ、シンジ。等身大の自分に気付かせてくれたのは、シンジだったんだよ。
ねえ、覚えてる、シンジ?この箱根の温泉。高校1年の時に、ミサトに嘘ついて、二人で来たんだよね、ここ。もちろん、あの頃は使徒戦の影響がこの辺りにもたくさん残ってて、こんな立派なホテルは無かったけどね。初めて二人だけで一晩過ごして、アタシ達互いに愛を誓いあったよね、あの時。アタシ、幸せだ、って、その時は本当に思ってた。一生シンジと暮らして行けたらいいなって、本気で思ってた。
……だから、アンタと別れた後、アタシ結構落ち込んでたんだ。ううん。吹っ切れるのに随分かかったなぁ。お互いに納得して別れたはずだったのにね、あの時は。
シンジ。今、何してるの?少しはアタシの事覚えていてくれたのかな。出会ってからもう20年も経ったけど、思い出のなかのシンジは、アタシの中のシンジは、いつも笑ってるんだよ。いつも、いつでも、優しかったよ……
「ねえママ。この人、がいじん?」
一緒に湯船につかっている娘が、側の母親に小声で声を掛ける。お風呂に入ってきた女性の、容姿の違いをさっきから気にしていたのだろう。だが、静かな浴室内は、その小声でさえ反響してしまう。
娘の母親は、うろたえたように、
「こ、こら、アスカ。よしなさい。そんな事言うの」
娘は、母親の言うことが理解出来ず、大きな目を丸くしている。母親は、気を使うように、
「す、すいません。この娘ったら……」
「いえ、いいんです。そんなの」
彼女は、笑顔を作りながら答える。
ふふ。シンジの奥さんと、娘さんか。
何か話しかけようか。彼女が口を開いた時、
がやがやと話し声が響く。団体客が入ってきたのだ。
それを合図にする様に、
「さ、アスカ。上がるわよ」
「えーっ。もう?」
「早くしないと、パパが湯冷めしちゃうわよ」
「パパ、もう上がってるかな」
母親は、彼女に一礼すると、娘の手を引き、浴室を出て行く。
母親がお湯から立ち上がった時、アスカの視界に、彼女の白い腹部が入る。縦に薄く残る線。帝王切開の痕だと分かる。
だが彼女は、それについては何も考えず、何も言わずに、その背を見つめる。
……パパ、か。アンタもやっぱり成長したのよね。
男は、一人で湯船につかっている。
何故か他に浴室内には宿泊客がいない。
まるで、自分で貸切にしているような束の間の贅沢な気分に、彼は浸っている。
……そういえば、アスカと初めて行ったところは温泉だったな。別に温泉に入りに行った訳じゃなくて、浅間山での使徒の捕獲作戦の後、寄ったんだけど。僕は、あの時生まれて初めてお風呂っていいもんなんだって気が付いたんだ。……まあ、熱膨張のおまけはあったけど、ね。でも、あの時は本当にアスカが心配で、後先も考えずに標準装備のままであのマグマの中に飛び込んだんだっけ。……どうして、僕はあの時つかんだ手を、放してしまったんだろう。それも二度も。
でも、アスカ。僕は今幸せだよ。女房は頭が良くて優しくて、実はちょっと生まれた時から体が、……心臓がちょっと弱いんだけど、出産の時だってそれこそ大変だったんだけど、でもいつも僕に心配かけまいとして頑張ってくれる。過ぎた奥さんだよね、僕にしては。それに、娘も可愛いし。
こんな自分に、人並み以上の幸せがあるなんて思いもしなかった。あの時自分が生き残って、アスカの事も、ネルフの事も、綾波の事からも逃げる様に背を向けて、もう、自分は本当にいらない人間なんだって思ってたからね。だけど、それを教えてくれたのは、アスカだよ。こんな僕でも生きて行けるって、生きていってもいいんだって、手を引っぱってくれたのは、アスカだったんだ。
そうだ、アスカ。覚えてるかな?高校1年の時、
「シンジ!一緒に旅行に行くわよ!」
って、アスカに言われて、来たんだよね、ここ。わざわざ、洞木さんやトウジに根回しまでして、ミサトさんに嘘付いて。未成年だからって、チェックインの前にびびってた僕を、
「しっかりしなさいよ。堂々としてれば大丈夫だって」
怒鳴りつけたよね、フロントの目の前で。初めて、アスカと二人っきりで一晩過ごして、アスカ、僕はあの時思ったんだ。アスカを一生離さないって。自分の中で、こんなにアスカの存在が大きかったなんて、あの時まで分からなかったんだ。
「愛してる」なんて、まさか僕の口から出る言葉じゃないと思ってたのに。あの頃は、自然と言えたんだ。相手が、アスカだったから。
……だから、アスカと別れた時は、もう僕の人生はいよいよ終わりなんだ、そう思い詰めてたよ。残りの人生はおまけなんだ、ってね。互いに、納得して決めた事だったはずなのに、やっぱり僕は駄目な奴だったんだよね。それから10年だよ、僕がアスカを吹っ切れたのは。
アスカ、君は今何をしてるんだろう。少しは、こんな僕の事も覚えていてくれたのかな。あれから20年も経ったけど、思い出の中のアスカは、いつも輝いていたよ。僕の中のアスカは、いつでも僕を勇気付けてくれたんだ……
その時。
浴室のドアが音を立てて開き、
「わーい」
男の子が一人走り込んでくる。
その後ろから、その子の父親だろう、
「こら、シンジ。風呂の中で走るんじゃない」
男の子に近寄り、その腕を掴む。
「ごめんなさい」
男の子は、少しばつの悪い顔をする。
そして、父親は、子供の体にお湯を掛け、自分も軽く湯をかぶると、浴槽内に入って来る。
はしゃいでお湯の中に飛び込んだ子供が飛沫を上げる。顔にかかった湯を絞った手拭で拭いていると、
「どうもすみません。こら、シンジ、おとなしくしろ」
父親が丁寧に謝ってくる。
シンジ。そうか、アスカの亭主と息子か。
暫く二人を眺めた後、
男は浴場を後にする。
その顔には、わずかに笑顔が浮かんでいる。
……すっかり、大人になったんだね、僕等。
ishiaさんの『夏の夜の夢』前編、公開です。
大人になった、
それぞれの家族を持った二人・・・。
落ち着いた冷静な態度でいられるからこそ、
一人称で語られる
アスカの思い。
シンジの思い。
16年ぶりの出会いが揺らす二人の心。
16ぶりに交わされる言葉はその心をどの様に・・?
アスカとシンジの会話はどうなるんでしょうね
シンジの奥さん、心臓病なんですね。
これも・・・
さあ、訪問者の皆さん。
大人による大人の物語を書くishiaさんに感想メールを送りましょう!
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