TOP 】 / 【 めぞん 】 / [Kei]の部屋に戻る/ NEXT



 夏色の陽射しが弱まり、風が秋の香りを運んでくる。
 空の青が深まり、そして高くなる。
 大学のキャンパスの中で、一人の少年が歩いていた。
 癖の無い黒髪や、その整った顔立ち(女顔とも言う)にすれ違う女性達が一瞬振り向く。
 均整の取れた細身の身体を、洗いざらしのジーンズとワイシャツで包んでいる青年。
「…碇君!!」
 そう呼ばれ、青年は振りかえる。
「…なんだい? 柊さん」
 人の良い笑みを浮かべて尋ねる青年に、声をかけた女性は一瞬顔を赤らめる。
 碇シンジ、20歳の秋である。







『願いはかないますか?』
外伝:そして、出逢えた君へ
From "Evangelion" (C)GAINAX/TV Tokyo
Presented by Kei Takahashi









「あ、あの、今夜コンパがあるんだけど…碇君、来ない?」
 同じゼミの柊トウカの言葉にシンジは軽く微笑む。
「悪いんだけど、そういうの苦手なんだ」
 にっこり、と笑い返されトウカがそれに見惚れてしまう。
 はっ、と我に返った時、そこに彼はもう居なかった。
「トウカー、もう諦めようよー」
「碇君、いくら誘っても絶対にあーいうの、出ないって噂だよ?」
 友人がいさめるように言っても、トウカは諦めるつもりは無いようである。
 通算0勝39敗。
 40敗まであと1つ。
「負けるもんですかっ!」
 トウカが叫ぶ。
 それを遠目に見ている青年がいた。
 隣には女性が一緒にいる。長い黒髪に軽くパーマを当てた女性に、青年は呆れたような
声で囁いた。
「相変わらず、柊も諦め悪い奴ゃなぁ」
「…トウカさん、知らないみたいだし…」
「せやけどなぁ、ヒカリ」
「鈴原…トウカさんの事、気になるの?」
 つい、と見上げた女性の視線に含まれた憂いに、青年は呆れた声をあげた。
「そないな訳ないやろ。まあ、あの女がいつ自爆するのか、気にならんでもないけど……」
 その言い方を酷いと思いながらも、女性は同時に思う。
 自分の憂いに気付き、即、否定してくれた事を嬉しく思ってしまう。
「…あたしって…結構ひどい奴なのかな…」
「あ? なんか言うたか?」
「う、ううん、何でも無い」
 慌てて首を振る女性に首をかしげる青年であった。




 碇シンジという青年がいる。
 Nerv学園大学部に所属する青年。
 そして同時に、日本Nervグループという巨大企業の会長も勤めている青年である。
 Nervという呼び名からも分かる通り、この学園の理事にも彼の名は連なっている。
 だが、その事を知るのは学園のエスカレーター制を利用している、古くからいる学生達
だけである。
 そして、彼らの事をよく知っているのは、さらに数名に絞られるのである。




「碇センパイ!」
「…なに?」
 後輩の藤原ノゾムに呼ばれ、女性は振りかえった。
 蒼銀色の髪をボブとウルフカットの中間のようにし、黒のワンピースに身を包んでいる
女性。
 美しい。
 そんな表現を結晶化させたような女性である。
 だが何よりも、その瞳が印象的だった。
 真紅。
 ルビーのような、美しい紅が彼女の瞳にはあった。
「あ、あの、今夜コンパがあるんですけれど…センパイ、行きませんか?」
「……ごめんなさい。そういうの……苦手だから」
 しごくあっさりとかわされ、女性はスタスタと立ち去ってしまった。
「……かわされちったなぁ」
「うるせー」
 横からからかい気味の声をかけられ、取り残されたノゾムは憮然と言い返した。





 レイはスタスタと廊下を歩いていた。
 その姿に気付き、軽く頭を下げて行く青年や女性は、恐らく彼女の事を知る人間達だろ
う。
 彼女が、実はこの学園の非常勤理事である事を知っている、数人。
「レイ」
「…シンジ?」
 不意に表情が和らぐ。
 振り向けばそこにはシンジの姿があった。軽く歩調を速め、シンジがレイの隣に並ぶ。
今度はレイの歩調に合わせ、ゆっくりと歩き出した。
「…どうしたの?」
「ん? ああ、冬月さんに呼ばれてね」
「私も……」
「レイもか」
 そう呟くと、今度はため息をつくシンジである。
「どうしたの?」
「いや、なんとなく用件の予想がついた…」
 頭を抱えるような仕草をするシンジに、レイは小さく微笑む。
「大丈夫よ」
「……どうかなぁ」
 ぼやくような声で答えるシンジに、レイはもう一度微笑んだ。



「…来たかね」
「何か? 学園長」
 シンジの前には、大きな執務机とその向こう側にある椅子に深く座った一人の老人の姿
があった。
 白髪だが引き締まった体からは、老いなど感じられない。
 このNerv学園の学園長である冬月コウゾウである。
「……さて、今回君達を呼んだのは、他でもない」
「…………父さんからの話でしたら、断りますよ」
 機先を制し、シンジの声が冬月の声にかぶさった。冬月は一瞬息を呑み、そして片手を
眉間に寄せる。
「……シンジ君。君のその人の話に割り込む癖は直すように、と昔から言っているが…さ
っぱり治らんな」
「時と場合によりますから」
 悪びれなく笑い、シンジは冬月を見据える。
「僕は、ともかく冬休みまでは日本を離れる気はありません」
「…だがな、日本Nervグループ会長である君が役員会に出席しないのでは、他の役員に示
しがつかんだろう」
「学生でもありますし、またここの理事でもある僕が、学業をおろそかにするのは、学園
の全生徒達に対して示しがつかない、という考えもありますよ」
 にこやかに笑うシンジ。だがその奥で怜悧な刃物が見え隠れするのを、冬月は感じてい
た。
「レイ。君からも何か言ってやってくれないかね」
「私もシンジと同意見ですから」
 薄らと微笑み返され、冬月は頭を振った。
「やれやれ……。君達は確かにユイ君の子供だな」
「…?」
「彼女も、君らみたいなタイプだよ。まったく」
 苦笑いのような表情をうかべながら、シンジが呟く。
「どちらかといえば、父似だと思うんですけど」
「その面の皮の厚さは碇譲りだな」
 冬月の答えに、今度は本当に苦笑いを浮かべるシンジだった。


「では、このお話はここまで、という事で」
「分かった。ではそう碇に伝えておこう」
「すみません」
 本当に申し訳なさそうに頭を下げるシンジに、冬月は柔らかく頷く。
「ま、学園長としては確かに、学生には学生らしくしていて欲しいというのが本音なので
な」
 行きたまえ、と手で示すと冬月は椅子に深く身体を預ける。
「……あの小さな子供達が、今ではあんなに立派になったか。…私も歳を取る筈だな」
 そう呟くと、冬月は傍らにあったフォトフレームを引き寄せた。
 そこでは、今よりも多少若い冬月と、二人の少年少女の姿が映っていた。




「…あ! 碇くーんっ!」
「……柊さん?」
 遠くから駆け寄ってくる女性の姿に、シンジは足を止めた。と、レイも一緒に立ち止ま
り、トウカが来るのを待つ格好になる。
「どうしたの?」
 目の前まで一息に走ってきた女性。肩で息をして呼吸を直している女性を前に、シンジ
は微かに戸惑っていた。
「あ、あの…ねっ、今夜のコンパなんだけど……」
「ああ。あれ? 僕は断った筈だけど…」
「うん…。そう聞いたけど…、本当にダメ? 今回だけでも出ようよ!」
「いや…僕、そういうの苦手だから」
「いつもそう言ってるじゃない」
 そう言うと、ふと視線を隣に立つレイに向ける。
 そしてレイもまた、トウカに視線を向けていた。
 戸惑ったような、そしてやわらかく見つめるような。
「……たまには、出ようよ」
「そうは言っても……ね」
 言葉を捜すように、一瞬視線を宙に走らせるが、そこに解答が書いてある訳ではない。
 トウカが、ふと思いついたように疑問を口にした。
「碇さんと碇くんって、親戚なの?」
 その問いに、今度はレイが戸惑ったような表情を浮かべる。
 まさか、自分の事を知らぬ生徒がこの学園にいるとは思わなかったからだろう。
 それは良い意味では無く、この目立つ外見を持つがゆえの、意識でもある。
「……え、ええと……」
「奥さん」
 レイが言葉を選ぼうとしているのを見て、諦めたように、シンジが手を額に当てながら
そう答えた。
「へ?」
 途端、トウカの顔が固まる。
「僕の、奥さん」
 とどめを刺すように、そう告げながらシンジはレイの腰へと手を回した。
 ぎゅ、と抱きしめるようにレイを抱き寄せ、トウカへと視線を向ける。
「え? え? え?」
「僕ら、学生結婚なんだ」
 そう言って、シンジは微笑んだ。
 そしてレイはと言えば、唐突に抱き寄せられた事に戸惑っていた。
 頬を染めながら、それでも腰に回された腕を払おうともせずに、シンジの腕の中にいる。
 そんな彼女と彼を見つめ、そしてトウカは呆然としていた。
「…それじゃ」
 そのままトウカの横をすり抜け、シンジとレイは歩き出す。
 二人の姿が見えなくなっても、トウカはまだそこにいた。



「…いいの?」
 不意にレイが訊ねた。
「柊さんの事? しょうがないさ。本当の事だし、別に知られても困る事じゃない」
 それとも、イヤだった? そう訊ねるシンジに、レイはただ首を横に振って答える。そ
れを見て、シンジは安心したように微笑んだ。
「……僕なんかにこだわるより、他に目を向けた方が良いよ」
 そしてシンジがそう呟く。
 こういう事を口にする時の彼は、昔のままだ。
 そう思いながら、レイはそっとシンジの手を握る。
「…大丈夫だよ」
 そして、応えるように微笑みを浮かべる彼。
「霧島さん達、元気かしら」
「アスカもドイツに帰ったままだしね」
 結局、エスカレータを登ったのはシンジとレイ。トウジとヒカリだけなのである。
 霧島マナは、両親とともにアメリカへ渡った。
 惣流・アスカ・ラングレーは両親とドイツへと戻った。
 相田ケンスケは、カメラマンの助手として世界中を巡っているらしい。
「みんな、元気かなぁ」
 少々の波乱はあったものの、有意義な高校生活だった。
 だったと思う。
 今はそう思える。
 なによりも彼らとの高校生活が無ければ、今、こうして彼女といる事もなかったのだろ
うから。
「……皆、元気でやっていると思うけど……」
「ま、確かに殺しても死にそうに無いんだけどさ」
 あっさりと、前言を翻すシンジ。それを見て、半ば呆れたような視線になるレイ。
「でも、たまには連絡くらい欲しいよ」
 特に何処をほっつき歩いているのか分からないケンスケには。
 そう締めくくって、シンジはまた歩き出した。
 それに一歩遅れて、レイが続く。シンジの歩調はゆっくりとした物で、レイはすぐに彼の隣に並ぶ。
 いつもの姿だった。




「…ねえ、鈴原君!!」
「…な、なんや。柊」
 ヒカリと一緒に昼食を摂っていた鈴原トウジ。場所は学食のカフェテラスである。だが
彼らのテーブルの上に並んでいるのは、どう見ても学食で売っているような物では無い。
 一つ一つに入魂の出来が見えるそれは、やはり洞木ヒカリの労作なのだろう。
「聴きたい事があるのよ」
 何やら剣呑な雰囲気すら漂わせるトウカに、トウジは思わず一歩引いてしまう。
「…だから、なんやの」
「鈴原君。碇君とは高校時代からの友達なんだよね!?」
 有無を言わせぬ迫力で、トウカが訊ねる。
 うんうんと頷いて見せるトウジに、さらにトウカが質問を重ねた。
「碇君。結婚してるって、本当なの!?」
 このままでは襟首を掴まれそうな雰囲気で、トウカがにじり寄る。
「…誰に聴いたんや?」
「……碇君よ」
「…あいつ、自分で言ったんか」
 感心したような声を上げるトウジを、トウカは睨みつける。
「ホンマの事やで」
 そして、そう付け加えた。
「…本当なの!?」
「本当や」
 うんうん、と頷いてみせるトウジ。
「高校卒業と綾波の誕生日が一緒でな。そいで、結婚」
「…あやなみ?」
「ん? ああ。嫁さんの旧姓や」
「……そんなぁぁ」
 がっくりと肩を落とすトウカを、トウジとヒカリは珍しい物を見るような目で見つめる。
「……せっかくのいい男だったのにぃぃ」
 ふみー、と泣くトウカだった。
「ま、諦めぇ。相手が悪すぎやて」
 トウジの慰めにもならない慰めに、トウカはさらに脱力するのだった。





「……お爺様。あなたは敗者なのですよ」
 ゆっくりと、口元に浮かぶ冷笑。
 心の底からわき上がるのは、冷たい、けれども熱い衝動。
「…そう。これが、あなたの望んだ僕の姿だ」
 少年の瞳に浮かんでいるのは、どんな感情でも無い。
 ただ、冷徹な事実を見る瞳だけ。
 そこにいるのは、冷酷な人の姿をした何かだった。


 過去。
 忌まわしいとすら言える過去。
 それを抱えている彼は、周囲の人々が言う程、幸福な人間では無いのだろう。
 ただ、碇シンジがその裡に抱える何かを成長させずに済んだのは、間違いなくある少女
のおかげだったろう。
 碇シンジと綾波レイ。
 従兄妹という関係だった彼ら。
 家族という関係だった彼ら。
 だがシンジにとって、そんなレイは常に心の在処であり、唯一の安らぎとも呼べる物だ
った。
 ただ、それを口にする事は出来なかっただけで。
 己の中の暗闇。
 それを知られる事を恐れるが故に。
 その暗闇が、レイを覆う事を恐れるが故に。
 友人達の力と、偶然とも呼べる契機。
 それが彼の運命を変えた。
 ひた隠しにしていた闇を解き放ち、そして彼女がそんな彼を受け入れた。
 いや。
 彼女は、もうずっと前から、そんな彼を受け入れていたのだ。
 ただそれに彼らが気づいていなかっただけで。



 綾波レイにとって、碇シンジという人間の存在は大きな物だった。
 幼い頃、父を失い、母はその病のためにその傍にいる事ができなかった。
 そんな彼女を受け入れたのは、母の弟である碇ゲンドウとその妻、ユイの二人だった。
 幼いレイにとって、それは劇的な環境の変化だったろう。
 慎ましくも、平穏な生活を送っていた今まで。
 そしてそれが崩れさった後、彼女は運命の出会いを果たした。
 碇シンジ。
 ゲンドウとユイの一人息子である彼。
 だが初めて出逢った時の二人は、まるで現在とは違っていた。
 レイは変わらずほとんど喋る事無く、シンジは家にほとんどいる事が無かった。
 ただ、ある日。
 彼女達の関係は変わる。
 小学校が夏休みだった頃なのだろうか。
 彼女達は、皆で別荘へと出かけた。
 そして、そこでレイとシンジは森の中で両親とはぐれてしまったのだ。
 シンジは最初はほとんどレイに関心を示さず、黙々と歩いていた。レイはその後を、必
死について歩いていた。
 その内、レイが歩き疲れ、ペースが落ち始めた。
 そしてシンジの姿が見えなくなった時、レイは初めて実感した。
 自分が一人だけなのだ、と。
 そう実感した時、レイは初めて泣いた。
 碇家に迎えられてから、レイは一度も泣いたことが無かった。
 それが、何か堰き止めていた物が崩れたように、彼女は泣いた。
 父を失った。
 母は、病魔に蝕まれていた。いつこの世を去るのかも、分からない。幼い心でも、それ
を理解していた。
 自分は、この世にたった一人だけで残されるのだろうか?
 そんな不安。
 それが少女の幼く小さな胸を締め付けたのだ。
 陽が傾きかけた頃、レイの前には人影が立っていた。
 小さな、自分とさして変わらぬ背の影は、シンジの物だった。
 少年はレイが初めて見るような戸惑ったような表情で、彼女を見下ろしていた。
 そして何処か不慣れな様子で、彼女を慰めようとしていた。
 そしてレイは知る。
 彼が、決して自分を疎んでいたのでは無いのだ、と。
 彼はただ不器用なだけだった。
 レイが歩き疲れた事を知り、シンジは彼女を待たせて一人で周囲を探していたのだ。
 彼の足下にたくさんの枯れ枝がある事に、少女はその時初めて気づいた。
 そして彼は謝ったのだ。
 一人にして、ゴメン。と。
 慣れない事をしたように、どこかぎこちなく。

 翌朝、レイとシンジは捜索に入った人々に発見された。
 驚くべき事に、少年達は火を焚き、生木をいぶして自分たちの位置を森の外へと伝えたりもしたのだ。
 そしてゲンドウとユイに、レイは初めて怒られた。ユイは泣きながら、レイを抱きしめ、
そして叱っていた。
 シンジがゲンドウに怒られているのを見て、レイは初めてゲンドウ達に対して必死に彼
が自分を守ってくれた事を伝えた。
 ……それが、家族としての始まりだった事を、今も彼女は憶えている。
 懐かしい、想い出。
 シンジはその後、レイの傍にいる事が多くなった。
 そしてレイは、中学を卒業する頃に、彼が祖父との確執を持つ事を知るのだ。
 だが、それも今はもう無い。
 今の彼女は碇レイ。
 彼の、碇シンジの妻として、ここにいるのだ。彼の心を守るために、そして愛するため
に。彼女は自分の道を選んだのだから。





「…レイ。今夜は何が良い?」
 歩きながら、シンジが訊ねる。
「……何でも。お肉が入ってなければ」
「…まだ駄目? お肉」
「……もう大分大丈夫だけど……」
 ただ、今日はこれから手術の見学があるから。
 そう続ける彼女に、シンジはようやく合点がいったように頷く。
「なるほど。じゃ、あんまり肉類は食べたく無いよね」
 クスクスと微笑みながら、シンジは頭の中で今夜の夕食の献立を考える。
「…シンジは?」
「僕? 僕は、これといって無いから今日も早いよ」
「…ゴメンなさい。家事をしない奥さんで」
「昔から家事は僕の分担だよ」
 もう一度クスリと笑い、シンジはそっとレイの髪に触れた。
「……なに?」
「ん。それじゃあ、ここでお別れだね」
「…ええ。それじゃあ、また後で」
「うん。家で待ってるよ」
 パタパタとレイが小走りで校舎へと戻っているのを見送り、シンジはゆっくりと自分の
教室へと歩き出した。
 碇シンジにとっての『幸福』とは何か。
 多分、今の彼なら、それを自信を持って答えられるのだろう。
 そう感じさせる表情で、彼は歩いていた。








 朝陽の白い光が、カーテンの隙間から差し込んでくる。
 碇シンジはその朝、数年ぶりに寝坊をした。
 起き上がろうとするシンジの手が、誰かによって押さえられている。
 視線を向ける。自分の腕が肩から伸び、そして自分の手に添えられた白い繊手。
 そしてその繊手から伸びる腕、そしてその先には小柄な女性の姿があった。
 ショートに揃えられた銀色の髪と、白磁のような白い肌。
 閉じられた瞼の中に、綺麗な紅の瞳を持つ女性。
 碇シンジにとって、何よりも大切な女性は、彼の横に眠っていた。
 その姿は、幼い頃に寝物語に聞いた童話に出てくる眠り姫を彷彿させる。違うのは、女
性が自発的に眠っている事だろう。
 そっと指先で額にかかった前髪を払う。彼女を起こさぬように、細心の注意を払って。
 長いまつげや、柔らかそうなくちびる。
 そんな所まで見てしまう。
「……あの時も、こんな風に眠ってたね…」
 シンジは小さく呟いた。
 レイの耳に届かないような囁きを。



 幼い頃、彼は両親とレイと一緒に別荘に遊びにいった事があった。
 だがその頃の彼は、最も精神的に危険な頃でもあった。
 祖父の元で詰め込まれた帝王学。
 それが彼の幼い精神を圧迫していたのだ。
 両親がそれに気づいて、彼を連れだしたのか。それは分からない。
 だが彼は、その時、家に引き取られたばかりのレイの事には、ほとんど興味を持たずに
いた。
 そして二人で森を散策していた時も、シンジは大した興味も持たずに歩いていた。
 二人連れだって出てきたのは、両親にそう言われたからだ。
 理由はそれだけだった。
 だが、いつしか二人は道に迷い、森の奥深くに踏み入ってしまっていた。
 シンジはそれには大した感慨は抱いてはいなかった。
 別に、富士の大樹海に迷った訳でも無いし、日本の避暑地の森だ。
 危険な動物がいるとも思えない。
 最悪一晩の夜明かしをして、それから道を探せば良い。
 そう考えていた。だがむしろ問題はレイの方だったろう。
 彼女は見るからに消耗しているようだった。
 両親からも、彼女の事はきちんと見るように、と言い含められている。
 そしてレイの足が止まったのを見て取ると、シンジはそのまま一人で歩き出していた。
 彼女があそこにいるのならば、自分は自分のペースで行動できる。それはむしろ、この
状況では都合が良かった。
 だが枯れ枝を抱えて帰ってきた時、レイが泣いているのを遠目で見た時、彼は大きなシ
ョックを受けた。
 シンジにとって、レイは幼いながらも感情の起伏の少ない、大人しい少女だとしか見え
ていなかった。父を亡くしたばかりだというのに、泣きもしない。母の元から離れている
というのに、動揺もしていない。
 だから、自分がいなくても彼女は平気だろう。
 そう思っていたのだ。
 だが今、少女が泣いているのを見た時、シンジの胸の中には今まで感じたことの無いよ
うな悔恨が沸き上がっていた。
 自分を責める声が、脳裏に響く。
 ちくちくと、胸を刺す。
「………ゴメン………」
 祖父の教えは、決して人に弱みを見せるな、の一点だった。
 シンジはさらに幼い頃の、両親の教えを思い出す。
『悪い事をしたと思えるなら、まず謝りなさい。そして、それからどうしたら良いのかを
考えなさい』
 そして彼の口をついて出たのは、数年ぶりに口にした謝罪だった。
 レイがそんな自分を見て、泣く事すら忘れたようにぼうっと見上げている。
 そんな少女を見て、さらにシンジは謝ろうとする。
 少女の涙を止めようと、自分の中の知識を総動員しようとし、そしてそれらが全て何の
役にも立たない事を知る。
 それがシンジの中で生まれた、初めての祖父への疑問。
 そしていつしか反撥になる物の、芽だった。
 だが今はそんな事よりも、レイを泣きやませる事の方が先だった。
 彼は幼い、だが奇妙な方向に成長させられた頭脳を総動員して、少女を泣きやませる方
法を探していた。
 そしてようやく一つの言葉を思いつく。
「…一人にして、ゴメン……」
 その言葉に、ようやくレイは泣きやんだ。
 それを見てシンジは、胸に刺さっていた棘が無くなった事に気づく。
「………とりあえず、これで火を焚くよ」
 そう言って、彼はポケットからくすねていたライターを取り出したのだった。



 その翌日の朝に見た寝顔と、今のレイの寝顔はとても似ているような気がした。
「……ふふ」
 思わずこぼれる笑み。
 その時、レイの閉じられたまぶたがうっすらと開いた。
「…………ん………」
 まだ寝ぼけているのだろう。
 自分がどこにいるのか。
 何をしているのか。
 それが分からないように、ぼんやりと視線が周囲をさまよう。
 そして、正面にシンジの姿をとらえ、そしてゆっくりと呟く。
「……しん……じ……?」
「おはよう。レイ」
 にっこりと、そう挨拶するシンジに、レイも寝ぼけたままで挨拶を返す。
「……おはよう………」
 そしてゆっくりと身体を起こす。
 と、柔肌の上をシーツが滑り落ちていく。白いふくらみが、微かにシンジの視線にさら
される。
「……きゃっ」
 慌てたようにシーツをかき集め、胸元を隠すレイ。
 そんな彼女をシンジは楽しそうに見つめていた。
「……なに?」
「ん? いや、なんでも。…ゴメン。僕も今起きた所なんだ。ご飯、今から作るよ」
 そしてベッドから抜け出したシンジに、レイが慌てたように声をかけた。
「ま、待って。…私も手伝う…から」
 ごそごそとシーツの下で身支度を整えているらしい彼女を見て、シンジはもう一度クス
と笑う。そしてこう答えた。
「待ってるよ。じゃ、先に行ってるから」
「え、ええ……」
 そのまま、彼の姿がドアの向こうに消える。
 それを見送って、レイはようやくシーツを抜け出した。
 下着をつけただけの裸身が、朝陽に照らされて輝き返す。
 手早く服を身につけ、レイは軽く髪をブラッシングして寝室を出ていく。
 …と、レイが慌てたようにドアを開けて戻ってきた。
 ベッドサイドのテーブルの上に置かれた指輪を手に取り、そっと左手の薬指にはめる。
 鏡の中の自分を見て、そっと微笑んでみせる。
 今でも、ほんの一握りの人間にしか見せない微笑み。
 そして、たった一人にしか見せない、極上の微笑み。
 それを確認するように見て、レイの姿は寝室の外へと消えた。




Fin




 綾波展に合わせて頑張って書いた物。
 メインの話と公開場所が違っていたため、多数の人が「?」と疑問符を持ったとかなんとか。

 拙作、『願いはかないますか?』本編を読後にお読み下さい。


ORIGINAL 2000.2.22
THIS FILE 2001.2.6 Kei Takahashi


ver.-1.00 2001!02/17めぞん公開
ご意見・ご感想、誤字脱字情報は tk-ken@pop17.odn.ne.jp までお願いします。



TOP 】 / 【 めぞん 】 / [Kei]の部屋に戻る