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英雄達の叙情詩
第5話
「黒の斧使い」
それはまるで、降りそそぐかのような星空だった。
天にたゆとう悠久の輝きは、すべてを見透かすようにすべてを見守るようにただ静かに煌めいている。その星空を見上げている少女が一人。
実際には、少女と言うほどには幼くはなかったかもしれない。ただ、茫然自失とした表情と、ぺたりと座り込んだその体勢は、彼女に非常に心許ない幼子のような印象を与えていた。
「ここは……?」
問いに答えてくれる者はない。彼女の表情に、焦りと恐怖が生まれた。旅の仲間たちはどこに行ってしまったのか。自分は残されてしまったのか。自分は独りになってしまったのではないか。
「ゲンドウさん……」
思わず、自分の体を強く抱きしめる。震える声で仲間の名を呟きながら、彼女は夜空を見上げていた瞳を初めてその足下に向けた。
そこは、どうやら何かの遺跡のようだった。すでに完全に崩壊して単なる瓦礫の山と化してしまっているが、所々になにやら魔術的な装飾の跡らしきものも見える。
その瓦礫の陰に見慣れた黒い布を見つけ、彼女の顔は輝いた。転びそうになりながらもそのもとに駆け寄り、黒布の主を揺り起こす。
「ゲンドウさん……無事だったんですね!」
「……ユイ……か……?」
抱き起こされた男は、頭を振りながら彼女の名を呼んだ。ユイの瞳には涙すら浮かんでいる。
「ここは……? どうも、あの鏡で跳ばされてしまったようだな……しかし、一体どこなのか見当も……うわっ!?」
ゲンドウの言葉は途中で遮られた。ユイが思い切り抱きついてきた勢いで、後ろに倒れてしまったのだ。
「ユ、ユイ!?」
「だって、だってわたし、独りになってしまったのかと……ゲンドウさんとはぐれてしまったのかと思って……」
ユイは嗚咽に言葉も切れ切れになりながら、ゲンドウの胸に顔を押しつけてきた。気絶している間に、見知らぬ土地へと連れてこられ、あたりに人がだれも見あたらなかったのだ。不安になるのも当然だろう。
一方、ゲンドウは胸の中で泣きじゃくるユイをどう扱ったものか考えあぐねていた。もともと無口で無愛想で、社交的という言葉からはほど遠い彼は、当然のごとく女性にもてるタイプではなかった。魔法学院でも、女生徒と親しい会話を交わすことなどほとんどなく、女性の扱いというものに関しては全くの無知であった。
(どうする……? こういう場合は、やはり抱きしめてやるべきなのか? ユイも不安だったのだろうし、それぐらいしてやってもいいか……いや、それとも何もしない方がいいのか? 何か優しい言葉でもかけてやるべきか? イルクなら、こういったことはすぐにわかるのだろうが……)
などと悩んでいる間に、いつの間にかユイは顔を上げ、まだ少し目は赤いながらもいつもの表情に戻っていた。
「それにしても……ここは一体どこなんですか? わたしが気を失っている間に、一体何があったんですか?」
ゲンドウは何もしなかったことを少し悔やみながらも、ユイに手短に説明した。ドラゴン(の姿をしたガーディアン)を倒した所から彼女の記憶は途切れている。その後、古代魔法帝国の財宝を探索していた彼らは、見つけた魔法品の魔力を不用意に解放させてしまい、ここに転送されてしまったのだ。
「イルクとキョウコも一緒に跳ばされたはずだが……どうもここにはいないようだな。別の所に跳ばされたのかもしれんな」
ユイの顔が青ざめるのが、ゲンドウには分かった。つまり、あのふたりが別の所に跳ばされたということは、ゲンドウとユイがそれぞれ別の所へと転送されてしまう可能性も十分にあったのだ。そうなると、ユイは本当に独りになってしまったことになる。
「ともかく、こうしていても始まらん。どこか宿を取れるところを探そう」
そう言って立ち上がりかけたゲンドウの動きが止まる。遺跡を取り囲むように鬱蒼とそびえる森の右手から放たれる、針のような殺気に気づいたのだ。
突然膨れ上がった殺気に、ユイも身を固くした。精神を集中させて、風の精霊を呼び出す準備をする。
ゲンドウは殺気の方向に油断なく身構え、相手の出方を窺った。森の闇の中に確かに潜んでいるはずの殺気の正体がつかめない。未だ姿を見せぬ敵に十分に警戒しながらも、ゲンドウは逃げる算段を始めていた。自分もユイも、先ほどの戦いでほとんど魔法力は使い果たしている。今戦闘に入れば、苦戦を強いられることは必至だろう。
どこか逃げ道はないかと首を巡らした瞬間、あたりで次々に殺気が巻き起こった。
囲まれている。
いつの間にか、四方からくまなく殺気が流れてくる。それも、人のものではない。それよりもより荒々しく、より静かで、より鋭い。野生の獣のようだった。
「ゲンドウさん……」
ユイがゲンドウの黒ローブを不安げにつかむ。
ゲンドウも、内心まずいな、と感じていた。どう考えても大ピンチである。先ほどの戦いで大きな魔法を使ってしまった彼としては、これだけの数の獣を相手取る自信はなかった。気絶するまで魔法を使い続けたユイに至っては、彼以上に消耗は激しいはずだ。
(さて……どうするか……)
ゲンドウはちらりとユイを見た。あるいは、残りの魔力を振り絞れば彼女だけは助けられるかもしれない。
その算段を頭の中で整えながらも、同時に彼はそんなことを考える自分自身にとまどいを感じていた。他人を助けるために自らの命を犠牲にしようなどと、以前の彼ならば鼻で笑っていたような馬鹿馬鹿しい行為である。
だが、そうせずにはいられなかった。頭の中でどんな作戦を立てても、常に最優先事項はユイの身の安全だった。
(どうかしている……)
胸中で毒づくが、すでにその作戦を実行することを彼は決めていた。身を沈め、ユイの耳元にささやく。
「いいか。私の後について走れ。私が合図したら私を追い越して、そのままの方向に走れるだけ走れ。決して後ろを振り向くな。いいな」
「え……」
「いいな」
強い調子で言ったゲンドウに、ユイはこくんと頷いた。ゲンドウはよし、と呟くと、もっとも殺気の薄い、突破しやすそうな場所に狙いを定めた。
「……いくぞ」
「はい」
ゲンドウは駆けた。後ろのユイを突き放してしまわない程度のスピードで、音もなく静かに走る。口の中で呪文を紡ぎながら、木々へと突っ込んだ。
その瞬間、両脇の茂みから灰色の影が飛び出してきた!
「<ウィンド・エッジ>」
ゲンドウの呪文と同時、突如現れた光の刃がその影をうち払った。それを確認もせずに、ユイの半歩前を進むようにして走る。
呪文を使ったゲンドウは、自分の消耗が予想以上に激しいことを知った。基礎魔力容量の訓練を怠っていたことを、心の底から悔やんだ。
その間にも、灰色の影は次々と彼らに襲いかかってくる。それらをあるものは魔法でいなし、あるものは素手でうち払って進んでいた。やがて、ユイの呼吸が苦しげなものに変わってくる。影たちの攻撃も、やや間隔が大きくなってきたようだった。
(そろそろか――)
ゲンドウは再び呪文を唱えた。だが、今度は攻撃のための呪文ではない。光の宿った右手を、ユイの背中に添える。
「<トランスファー>」
その瞬間、不意にゲンドウは激しい疲労感に襲われた。それと同時にユイの足取りが軽くなる。
「行け! ユイ!」
胸から声を絞り出すようにして、ゲンドウは叫んだ。ユイの後ろ姿を見送ると、自分の走ってきた方向へと振り返る。
「さて……」
胸の中央で印を結ぶ。彼の今までの人生の中で、もっとも精神を集中させて呪文を唱えた。
その完成と同時、ゲンドウの目の前に障壁が現れる。それは彼の前に広がり、両脇から後ろへと突き抜けていく――ちょうど、ユイの道筋を守るかのように。
ゲンドウの体に、かつて体験したことのないほどの圧力がかかった。これほどまで大きな障壁を展開するのは初めてである。だが、しなくてはならないのだ。
闇の中から、こちらを見つめる無数の瞳が見えた。木々の影から、不気味に光りながら彼を見つめている。障壁に跳ね返されたのか、何度か獣の鳴き声が聞こえた。やがて、障壁を作り出している元が彼であることに気づいたのか、徐々に光は彼に迫ってくる。
一気に襲いかかってこないのは警戒ゆえか、あるいは獲物をもてあそぶためか――どちらにせよ、ゲンドウにとってそれは都合がよかった。そのぶん、ユイの逃げる時間が稼げる。
そのとき、雲の切れ間から月明かりがのぞき、獣の群の姿をうつしだした。
狼だった。無数の狼が、じっと隙を窺うように彼を見つめている。喉笛に食らいつき、一撃でしとめる気か……
(だが、そうはいかん)
ゲンドウは、つばを飲み込んだ。意識が消えるその瞬間まで、障壁を張り続ける覚悟はできていた。印を組んだままでは行動も制約されるが、少しでも長く意識を保っておけるように狼の攻撃をよけなくてはならない。可能な限り、致命傷は受けないようにしなくてはならない。
狼は、じりじりと彼との距離を縮めていた。その中でも一際体の大きい一頭が、最初にゲンドウに噛みつくつもりなのか、ずいと前にでてきた。
体を低くし、今にも飛びかからんとする。
「来い――!」
ゲンドウが叫ぶのと同時、狼が跳躍した。わずかに重心を移動させながら、来るべき痛みに備える。その瞬間。
――ぐぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!
突如狼が炎に包まれる。火だるまとなった狼は苦しげに吠えた。地面を転がって、なんとかそれを消そうとするが、暴れ回ることによって味方にまで炎を燃え移していた。
「な……」
突然のことに何が起こったのかわからず、ゲンドウは驚きの声を上げた。はっと気づいて、後ろを振り向く。
そこには、彼のよく知った姿があった。今、彼がもっとも会いたく、そしてもっとも会いたくなかった姿。
「――ユイ!」
悲痛な叫びをあげる。ユイは、呪文を発動させた体勢のまま、ゲンドウに視線を向けた。
足下はふらついていて、今にも倒れてしまいそうである。ゲンドウは狼たちのことも忘れて駆け寄り、その体を支えた。
「馬鹿な! どうして――逃げろといったのに!」
「ごめん……なさい……。でも、どうしても、ゲンドウさんをおいて逃げられなくて……」
「馬鹿な……」
息も絶え絶えなユイ。当然だ。彼女の魔法力はもうほとんど空の状態だったのだ。そんな状態で魔法を使えば、体を動かすために最低限必要な精神力まで使い切ってしまう。
「ごめんなさい……」
ゲンドウは、ユイを抱きしめた。背後からは、殺気が確実に迫ってくる。もう彼の魔法力もほとんど残ってはいない。
万策尽きた。
ゲンドウはユイの華奢な体を自分の腕の中に納め、来るべき衝撃を待った。どうせ死ぬのならば、彼女と一緒に死のう。だが、彼女には、ユイには生きながら食われる苦しみを味あわせたくはない。その前に自らの手で……
ゲンドウは、手刀を振りかぶった。ユイの喉に狙いを定め、それを振り下ろそうとする――
「おっと、ちょっと待ちいや」
ひょいと、彼の手を止める者があった。
「……!」
顔を上げると、黒髪の青年が彼の手刀を受け止めている。その青年はにやりと笑うと、
「まだ諦めるのは早いで。ここはワイにまかせておきいや」
と、腰に下げていた戦斧を構える。ゲンドウは、ただ呆然とそれを見つめていた。
その青年は、長いくせのある黒髪を、腰のあたりまで伸ばしていた。頭髪があちこち好き勝手な方向に飛び出しているため、頭が実際よりもかなり大きく見える。背はあまり高くない。ゲンドウとユイの中間ぐらいか。そして、何より目を引いたのはその顔に大きく走る傷跡だった。額から両目の間を通り、唇の脇を通って顎まで抜けている。
青年は舌なめずりをして、戦斧を上段に構えた。右脇から突然飛び出してきた一頭の狼を、焦る様子すら見せずに一撃で葬る。
それを合図としたかのように、あたりから一斉に狼が襲いかかってきた。
「ひゃっほう!」
青年は心底楽しそうに叫び、身を踊らせた。
青年の戦斧が一度振るわれる度に、確実に狼の赤い血が夜空に舞う。ゲンドウはユイをかばうように抱きかかえながら、黙ってそれを見ていた。
夜の森にはしばらく、狼の断末魔の声と血しぶきのあがる音、そして時折あがる青年の歓声のみが響いていた。
やがて――そこには、返り血で真っ赤にその身を染めた青年と、おびただしいほどの狼の死骸のみが残った。
その凄惨な姿に似合わないほどの人なつこい笑みをこちらに向けてくる青年を見ながら、ゲンドウはようやく自分たちが助かったことに気がついた。
「大丈夫か? 良かったな、たまたまワイみたいな暇人が通りかかって」
と、ゲンドウに手をさしのべた。ゲンドウはそれをつかんで立ち上がった。腕の中のユイはすでにぐったりしている。その規則正しい寝息から、ただ単に昏倒しているだけだと知れた。
「ワイはスズハラ=リュウジや。とりあえず、そっちの嬢ちゃんも心配やから、いったん街に戻ろうか?」
狼の群を一人で全滅させたというのに、全く疲れた様子がない。ゲンドウは、そのイルク以上の体力に半ば感心し、半ば呆れながらも、まだ名乗っていないことに気がついた。
「私はイカリ=ゲンドウ……彼女はユイだ。……礼を言う」
青年は、ただにっこりと笑って答えに代えた。人の警戒心を自然と解くような、そんな笑顔だった。
「はあ……それはまあ、大変やったんやなぁ」
骨付きの肉を頬張りながら、リュウジは感心したように言った。
なぜ口の中に目一杯食い物を入れているのに喋れるのかゲンドウは疑問に思ったが、何となくそれを口にするのははばかられた。
「……あなたが来なければ二人ともあの狼どもの餌となっていたところだ。改めて、礼を言う」
「なんや堅苦しいなぁ。もうええって。こんだけおごってもらったんや。お釣りがくるわ」
と、リュウジは豪快に笑った。
ここは、よくある街道筋の宿屋だった。二階が宿泊部分となっていて、一階は宿泊客の食堂兼酒場となっている。すでに夜も遅いこともあり、酒場の席はほぼ満席だった。リュウジの前には、ゲンドウが礼として注文した三皿の骨付き肉と大きな木製のコップに入った蒸留酒が置かれている。
ゲンドウは、今までの事情をほとんど隠さずに話していた。すでに疲労困憊していていちいち考えて話すだけの気力がなかったこともあるが、この人の良さそうな青年には、あまり警戒する必要もないように感じられた。
リュウジは、自分のことを各地を放浪している傭兵だと紹介した。戦のある場所を求めながら、武者修行がてらに旅を続けているのだという。今夜も、ちょうど町外れの森に住み着いた狼を退治して欲しいと住民に頼まれて行ってみたら、狼の群に取り囲まれているゲンドウたちを見つけたらしい。
ユイはすでに上の部屋で眠っている。あの後目を覚まさないまま、ここまで連れてきたのだ。つくづく気絶している間に移動させられるな、となんとなく笑みが浮かぶ。
とにかく、助かったのだ。今は安全で暖かい寝床が、何よりの贅沢に思えた。
リュウジは、すぐにゲンドウのおごり分を食べ終わると、今度は自分の金で注文を始めた。酒はあまり飲まないようだが、その分よく食べる。しかも見ているだけで腹が膨れそうなほどにいちいち美味そうに食べるのだ。この男のために料理を作ることになる女性は幸せ者だろう。
それを見ながら、ゲンドウは自分の分の醸造酒を飲み干していた。つまみ程度に食事も頼んであるが、あまり食欲はなかった。
不意に背後で景気のいい音楽が鳴り響いた。何事かと振り向くと、吟遊詩人らしき老人が、客の注文に応えて軽快に手のリュートを弾いていた。独特の調子で、声を張り上げて歌っている。
その吟遊詩人から視線を上にそらすと、まるで音楽に誘われたかのように階段を下りてくる連れの姿が見えた。
「ユイ!」
すぐさま立ち上がり、その元に駆け寄る。
「大丈夫なのか?」
「ええ、もう大丈夫です。それで、一言お礼をしたくて……」
口では強がっているが、まだ足下はおぼつかない。不意にゲンドウがユイの体を抱き上げた。
「きゃっ!」
「無理をするものではない」
ユイは少し抵抗しようとしたが、思い直したようにおとなしくなった。蚊の泣くような小さな声で、ハイと答える。うつむいているため、ゲンドウからはその顔は見えなかった。
ユイを抱いたまま席に戻ると、リュウジが冷やかすような視線を向けていた。もっとも、それはリュウジに限らず酒場のあちこちから向けられていたが。
ゲンドウは気にせず、ユイを席におろした。ユイは真っ赤な顔を隠すように、両手を自分の頬に添えた。そんな動作には気づかず、ゲンドウも先ほどの席に着く。
「もう大丈夫なんか、嬢ちゃん?」
「え、あ、はい! だ、大丈夫です。あの、先ほどはありがとうございました」
頭を下げるユイに、リュウジは少し居心地悪そうに頭をかいた。
「もうええって……それより、嬢ちゃんも食うか? ここの肉は絶品やで」
「え……あ、それじゃあおひとつ……」
少し身を乗り出し、リュウジの差し出した皿から肉を一切れとる。その白い指先に、ゲンドウの視線は吸い付けられた。手に取った肉を口元に運ぼうとして、ユイはゲンドウの視線に気づいた。
「? 何か?」
「いや……何でもない」
視線を逸らすゲンドウを少し訝しげに見たが、すぐにユイは肉に注意を戻した。空腹の方が勝っていたらしい。
一方ゲンドウは、胸の奥でくすぶっている体験したことのない感情に戸惑いを感じていた。
その正体が一体何であるのか。それは今の彼には見当も付かなかったが、その感情を覚え始めた頃から、自分に理にかなわない行動の多くなってきたことも感じていた。
一銭の得にもならない人助け。他人のための自己犠牲。どれもかつての彼ならば下らないと鼻で笑っていたような愚かしい行為である。だが、その愚かしい行為をした自分がいる。しかも、理性的なものではない。ただ、そうしなければならないと思った。衝動にも近い使命感のようなものを感じたのだ。
(私は……変わったのか?)
そうとは思えない。少なくとも、それ以外に自分自身が特に今までと違う点も見いだせない。自分という人間は、根底の所では何も変わっていないと思う。
それでも、今までの自分とは明らかに違う自分も確かに存在する。いや、今まで表に出ることのなかった部分が出てきたと言うべきか。あるいは、何らかのきっかけで自分に何か新しい因子が植え付けられたのか。
(きっかけ、か……)
手に持っていた木カップの中の蒸留酒を一気に飲み干すと、隣のユイに再び視線を向けた。もしきっかけが存在したのだとすれば、それはあるいは彼女かも知れない。彼女に出会ったことで、自分の中で何かが変わったのだ。何かが壊れたのか。何かが生まれたのか。それすらも分からない。ただ、ユイに関することでは我を失う自分に戸惑っていた。
その感情が何かわかるには、少しばかし彼は偏った人生を送りすぎたのかも知れない。
「ゲンドウさん、これちょっと下さいね」
「うん? あ、ああ……」
不意に声をかけられ、ゲンドウは反射的に生返事を返した。見ると、ユイはゲンドウの前に置かれていた蒸留酒の瓶を取り、自分の木カップに注いでいる。
「……飲めるのか?」
ゲンドウは、初めて彼女と会ったときに彼女が酒場でミルクを飲んでいたことを思い出した。
「飲んだことはないんですが……スズハラさんがおいしいから是非飲んでみろって言うんで……」
と、ユイはおっかなびっくりカップの中の液体を見つめている。向かいのリュウジを見ると、彼は無意味に上機嫌そうに料理を食べていた。酒はまだ2本ほどしか開けていないが、すでに顔は真っ赤になっている。あまり酒に強い方ではないらしい。
「まあ……毒ではないからな」
まだ逡巡しているらしいユイにゲンドウは自分の分を飲みながら言った。彼女に声をかけられてしまったことで思考が途切れてしまったが、再びそれに戻る気もなかった。
「それじゃあ……飲んでみます」
なにやら一大決心をしたような顔で、おそるおそるカップに口を付ける。アルコールの匂いが鼻を突いたのか少し顔をしかめたが、そのまま一気に飲み干した。
「…………」
ゲンドウは黙って、その一連の動作を見つめていた。飲み終わると両手で持っていた木カップを、ゆっくりとテーブルの上に戻す。その表情には特に変化は見られない。
しかし、さらに見ていると、だんだんと頬が紅潮していき、それと同時進行で目が据わってくる。その変化を見ながら――ゲンドウは、何となく嫌な予感がしていた。
「……つい……」
「え?」
蚊の鳴くような小さな声の彼女の呟きに、ゲンドウは思わず聞き返していた。
「……あつい……」
「ユ、ユイ?」
ただごとではないと感じたゲンドウが手を伸ばすより早く――
「暑いのぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
ばばっ――!
叫ぶと同時、勢いよく上衣を脱ぎ捨てるユイ。その下に隠されていた薄布の下着と、さらにそれに覆われている小さいながらも形の良いふたつの膨らみが露わになった。
「なっ――」
酒場のあちこちからは歓声が上がる。何を勘違いしたのかおひねりを投げる者までいた。
「こ、こらっ! ユイ!」
ゲンドウは慌てて、自分の黒マントでユイの体を覆った。暴れる彼女を無理矢理押さえつける。
「いやあ! 暑い! 暑いぃぃぃ!」
「我慢しろ!」
叫びながら彼女を抱きかかえた。リュウジは、目を見開いてこちらを見ている。
胸中で毒づきながら、ゲンドウは口早に呪文を唱えた。
「砂の小人。海の魔女。時の流れの与えし休息の使者。至福の時を我が友へ。<スリーピング>」
さんざん暴れていたユイの首が、かくんと落ちる。ややあって、規則正しい寝息が聞こえてきたのを確認すると、ゲンドウは静かに息を吐いた。
呆然とした面もちで、リュウジが声をかけてくる。
「いやあ……なんつーか、えらい酒癖やのう」
「私も知らなかった」
憮然とした表情で言い放つと、ゲンドウは腕の中で安らかに眠っているユイをしっかりと抱きかかえたまま、二階へと上がっていった。
下からは野次馬たちの文句が聞こえてきたが、はなからそんなものを聞くつもりはない。
「まさか、ユイに脱ぎ癖があったとは……」
時折マントの隙間からのぞく彼女の白い肌を極力見ないようにしながら、ゲンドウは独りごちた。そもそも他人と酒を飲む経験すらあまりなかった彼である。酒に弱い人間、酒癖の悪い人間というのは初めてだった。ましてや脱ぎ癖のある女性など……
彼はふうと息を付いた。
目覚めても、このことは言わない方がいいだろう。本人には酒を飲むと暴れる癖があるとでも言っておいて、これから飲まないように彼が見張っていればいい。
もう一度嘆息すると、彼はユイを落とさないように気を使いながら、彼女の部屋に入った。部屋の中には光はなかったが、常人よりも夜目のきくゲンドウは部屋の隅においてあるベッドを難なく見つけることができる。
幸せそうな寝顔の彼女をベッドに降ろそうとしたとき、ゲンドウの耳に彼女の声が届いた。
「ゲンド……ウ……さん……」
ゲンドウは少し目を見開いたが、どうやら寝言であるようだった。ユイはすぐにすうすうと寝息をたてだす。
息を付いて、そんな彼女の顔をしばらく見ていると――ゲンドウの胸に、苦い思いが去来した。
「私は……お前を守りきれなかったな……」
彼女を寝かせたベッドに腰掛けたまま、しばらくその寝顔を眺めている。無意識のうちに彼女の髪を手で梳いていることにふと気づき、ばつが悪そうにその手を引っ込めた。
「……風邪を……ひくな……」
ユイの足下にたたまれている毛布を、そっと彼女にかけてやる。
彼はひどく奇妙な気分だったが、それはけして不快なものではなかった。むしろ、あるいは安らぎとはこういうものなのかもしれないとすら思う。
しばらく、闇の中にユイの規則正しい寝息だけが響いた。まるでそこには他に誰もいないかのように。
「……生きていて……よかった……」
その声は闇から生まれ、誰の耳にも届かずに闇に溶け込み消えた。
後には、ベッドの上で静かに眠り続けるユイの姿だけが残った……
これから20年後、彼女の娘にもこの酒癖が遺伝していることが判明してゲンドウが頭を抱えるのは――また別の話である。
レ イ「前回に引き続き10ヶ月のブランク……やる気あんのかって感じね」
アスカ「まあ、忘れてなかったぶんいいんじゃないの?」
レ イ「忘れてたと思うわよ……現に、今回も執筆途中でだいぶ間が空いてるし」
シンジ「まあ、それはこの際いいじゃない。ね?」
アスカ「あんた、いつから作者の手先になったのよ」
シンジ「いや、それは……」
レ イ「どーでもいいけど、次はいったいつ更新されんのかしらねー」
アスカ「年内にはもう1本ぐらい書きたいって言ってたけどね」
シンジ「年内って……まだ4月だよ?」
アスカ「あたしに言わないでよ」
レ イ「……はぁ。こんなペースじゃ一体いつ完結するんだかわかんないわね」
シンジ「え、えと、まあ、そういうわけで、これからもなかなか更新できないかも知れませんが、時々思い出したときに書いていく予定なので、よろしくお願いします」
レ イ「あ、まとめに入ったわね」
シンジ「感想メールなど、もし気が向いたらお送り下さい。それでは」
アスカ「ばいばーい」
レ イ「……次の出番はいつかしら……」