私は緑ヶ丘ニュータウンという新興住宅地の、外れの方の団地に住んでいる。新興住宅地の外れというのは、考え様によっては劣等感を誘う立地だと思う。中央部の団地棟に住む人は普段、小さな昔からの家々や田んぼを目にしないで生活しているのだ。
うちのベランダからは田んぼと大きな電線の鉄塔が目の当たりだ。
と、普段そこまで考えてはいない。どうも話が脱線したようだ。
私は小説家になりたいのだ。
母は私の処女作−探偵物なのだが−に目を通すと、「なかなか、面白いじゃない。」と頷いてくれた。私はあるいはマザコンの気があるのか、それで大いにその気になってしまったらしい。
大体、ブスな女が全てに充足して満足な一生を送るのは難しいように思う。それこそ尼さんやシスターにでもならない限り不可能ではないだろうか。完全な整形技術の発達が一刻も速く望まれる所だ。…私の為に。
父はまだ私が幼い頃、浮気をして母と離婚した。それ以来、当然の結果として、私は母と2人で暮らしている。
父とは何度かあった事がある。私にとっては顔も覚えていなかった相手なので、特別感慨もなかった。親戚の叔父とかと同じような雰囲気だった。見た所、特に悪い人には見えないのに、どうして母と別れてしまったのだろう(浮気をしたからなのだが)、と、まるでワイドショーを見る主婦のようなどうでも良い感想しか浮かばなかった。
また話が脱線してしまった。
話を元に戻すと、私の家は緑ヶ丘の、一番外れにあって、自転車通学は認められていないのに、通っている西中まで片道徒歩20分かかるというふざけたロケーションなのである。
だから、私はたまに、たまになら、こういう風に平日の昼間に起きて、パジャマ姿で「ごきげんよう」を見ながらアイスを食べていても仕方がない、と、そういう事だ。
小説家になりたいとか、自分がブスだとか言い切る位の私なので、当然特に友人らしい友人はいない。
と言ったら霧島さんや洞木さんには怒られるかもしれないが、霧島さんはテストの前にノートを借りる為に「友人」になっているのが見え透いているし(直前にだけ急に友人になる人よりは何百倍も増しだけど)、洞木さんの場合、彼女にとってはクラス全員が親友に思えているのだと思う。
自慢するような事ではないが、体育の時間のカップル作りで確実にあぶれている時点で私に友人がいないという事実は確定ずみなのである。
そして、「ごめーん、さっきアイと約束しちゃったからさー。」等という言葉に私は曖昧な笑みで返したりするのである。毎度の事だ。
思うに、「寂しい」という感情はある程度、普段心が満たされているからこそ感じるのであって、最初から乾ききった、からからの人間はそういう事が分からないのではないかと思う。最近話題になったアニメで、主人公の女の子が、−いや、厳密には主人公ではなかったはずだが−そういった、人との付き合いかたを知らない、全く付き合った事がないので「寂しい」という感情が分からないというキャラクターだったのだが、私は多分彼女の気持ちが少し分かると思う。
私の場合あそこまで極端な環境ではないので、別に全く寂しさを感じる事が無い、などと言っているのではない。ただ、自分のおかれた環境に比して、その、そういった感情を感じる度合いが、普通の人に比べて低いのだろうな、と、つまり自分のそういった部分の耐性が強いのだなと感じるという意味だ。
そもそも私は、そのアニメの彼女のような、どうしようもない状態とは根本的に違う。私に友人がいないのは間違いなく愛想の無い私自身の責任であり、私は、彼女のように人との付き合い方を習得する術が無かった訳ではもちろん無かった。
恥かしい話だが、私は小学生の頃まで周囲の「子供」達が幼く見えすぎて、まともに付き合う気にはなれなかったのだ。
だから私は自ら人との付き合いかたを学ぶ事を拒否したのであり、今現在友人がいないという事実は全くの自業自得なのである。
自分を貶める事ばかり書いても仕方が無いような気がしてきた。もうちょっと楽しい事…そう、私の好きな人、について書いてみよう。
と思ったのだが、私は彼の事をろくに知らないのだった。およそまともに見てもいない。ちょっとでも目が合うとコンマ数秒で外すし、向こうは「あの女何て愛想が悪いんだ」位にしか思っていないだろう。
彼を私が好きになった理由は、間違いなく顔なのだろう。自分はブスで損だと言っておいて、結局自分が男子を好きになる理由はそんな事だったりする。自分の頭に植え付けられた差別の根の深さを身を持って…
私はそこまで考えてベッドに再び寝転がった。
そもそもこんな事をすぐ考え出す中2に、友人や彼氏が出来たりはしないのだ。
いや、実は、もう、ちょうど一週間前の話になるのだが、私は告白を受けたのだった。
私が昼休み、いつものように1人図書室で暇つぶしに本のページをめくっていると、ふと横に人の気配を感じた。
「ああ、相田君。」
相田君と言うのは私と同じで眼鏡をかけている。と言っても私と同じなのはその一点だけで、彼は根っから明るい。(余談だが、私は「根は明るい」とか「根は暗い」という言い方を信用していない。仮に「根が」暗くても、明るく振る舞う事が出来るならその人は「明るい人」なのではないだろうか。)彼は普段鈴原君や、私の好きな人とつるんで、楽しそうにしている。
ところが、その時の相田君は妙に神経質で、よそよそしい表情をしていた。今思えば私が普段あの人に見せている表情もこんな感じなのだろう。
「ああ、あのー、邪魔してるかな。」
相田君は(その時の私にとっては)まるで意味不明の言葉を吐いた。
私は多分怪訝そうな表情をしたのだと思う。私は自分の表情のきつさがつくづく嫌いだ。
「あ、いや、その」
「別に、邪魔じゃないですけど。」私は考えうる最も普通の返答を返した。実際邪魔ではないのだし。
「あ、そう。今、本読んでなかった。」彼は幼稚園児でもしないような質問を私にした。
「ええ、読んでましたけど、何か…」
今思い出したが、私はこの時相田君のそわそわした態度といい、私が自分で気付かないうちに何かやらかして、葛城先生に呼び出しをくらっているのか、などと少し思って嫌な感じがしていた。
「あ、うん…それ、何て言う本。」
私は彼の、この(愛想の悪い事で有名な)私にわざわざ話し掛けて来るという勇気に感心しながら、表紙をめくってみせた。
相田君は大げさに頷いた。
「シェークスピア読んでるの。へえー、やっぱり頭の良い人は違うなあ。」
これも贅沢な話だが、私はこういう言い方が嫌いだ。まず第一に私とその人が別人種であるかのような壁を感じるし、こういう言い方は結局相手を理解しようとしていないように思える。私が言えた台詞ではないのだけど。
私が、「頭が良い」という事自体は事実だ。つまり、この学校の中でテストの点数のトップを争う、といった意味においての話だが。この点では、私は綺麗な人同様、「持てる人」の立場になる訳だ。もちろんそういった事と、本当の知性が有無が別であるのは人に言われるまでもない。
そして、「頭の良い」私が「頭が良いんだね」と言われるのを嫌うという事を考えると、美人や美男子の場合は彼等に「きれい」「かっこいい」等と言うとむしろ嫌われるかもしれなくて、「頭が良い」等と言った方が好かれるのかもしれないという推論がなりたつように思う。
また話が脱線したようだ。
その時の私はそこまで考えたりはせずに、適当な愛想笑いを浮かべた。
「別に、暇つぶしで読んでるだけ。大して面白くないし。」
「こいつ自分が頭が良いっていうのは否定しないんだな」と彼が思うかも、と少し思った。
「ああ、そうなんだ。」彼はなぜか笑いながら、向かいの席に腰掛けた。
「で、どうしたの。」
「あ、うん。その…」
相田君の様子に、私はやや顔を上げた。
「その…今、あのー、今さ、ちょっとアンケートをとってるんだけどさ。」
「うん。」
「今、付き合ってるやつっている?っていう、あ、あの、ごめんな、変な質問で。」
「つき…彼氏っていう、意味。」
「あ、ああ。」
「私が?」
「ああ、そうなんだ。」
「私が、」
「いる訳無いじゃない。」と口にしかけて、私ははじめて相田君の肩がこわばっている理由が分かった。
「……うん…いるけど…」
私はほとんど口を開かずぼそっと答えた。
「あ、そ、そうか。へえー。や、邪魔して悪かったな。あ、じゃあな。」
相田君はやたらと微笑んだまま、図書室を出ていった。
という訳で私は男を振ったのだった。
正直な所、私は特に心を痛めなかった。むしろ少し良い気になっていたかもしれない。
昨日、は日曜日だったのだが、私は市の図書館に行っていた。作家志望である以上、私は読めるだけの本を読むのだ。ここは学校の図書室と違ってそれなりに大きいので、推理物や猟奇物をたくさん借りる事が出来る。いや、1回に借りられるのは5冊までだが。
私は新しい本を仕入れ、少し気分良くなりながら鼻歌を歌って、帰りの道を歩いていた。
すると道の向こう側の歩道に、あの人がいた。自転車に跨ったまま、何故か停車中のようだ。
学校以外で見る事は今まで無かったので、あの人がブルーのシャツを着ているのは何だか妙に思えた。
私はここで一大決心をした。
もちろん告白ではない。ただ、声をかけようとした。これは私としては一大決心に値する事なのだ。
「あの!」
私なりに大声をあげたつもりなのだが、彼はまったく聞こえないようで、少しすねたような素の表情で空を見上げていた。
私は潔く、自分の「大声」では彼には聞こえないと判断して、道を渡って向こうに行こうと思った。そして当然、そういう時に限って交通量が激しくなる。大体そういう物だ。これは断じて、私がそういう風に感じるだけだとかいうような心理的な物ではない。間違いなくこういう時に限って交通量は増えるのだ。誰かこれは研究して理論を発表すべきだと思う。
とにかく車がたくさん来るから、道を渡る事が出来ない。こんな状況では、もう私がどう叫んでも向こうに聞こえそうにはない。バスが来るから向こうの様子が遮られて見えない。
私がそれでも、私としてはありったけの声で叫ぼうとした時、バスが動いて向こうが見えた。
あの人は同じクラスの金髪の人と楽しそうに話しながら、自転車を2人乗りしてすーっと向こうの歩道を走っていった。
金髪の人も含めて、それはやっぱりとってもかっこ良くて、綺麗な、絵になるシーンだった。本人達がそういう評価を聞いてどう思うかは知らないが、私はそう思った。
叫ばなくて良かった、と思った。
困った事に私はそれほど悲しくなっていないように思われた。確かに翌日の今日、学校をサボってこんな時間まで寝てはいたのだが、これは学校に行きたくないというより、昨日の夜、朝の5時位まで夜更かししていたからだ。
一週間の中で日曜日の深夜だけは、テレビもラジオも放送を中止する。私はその後の、どの局にチャンネルを合わせても何も映らない、あの砂嵐がある意味好きだ。あれを見ると、私が見ているのはあくまでテレビという商業放送なのであって、自分にも開かれた世界への窓、等と言ったような物ではないのだという事を確認できる。
そこで私はその砂嵐をぼーっと見ながら、冷蔵庫からくすねた缶ビールを開けていた。
私は飲んでいる内に何だか妙な気分になってきた。厳密に言うと、別にビールを飲んだから酔っ払ってそういう気分になった訳ではなく、むしろ逆で、そういう気分だからビールを飲んだのだ。
私はどうせ明日からも頭の良い優等生の女の子として学校に行くに違いない。私は「頭が良い」。私は勝者だ。
でも、私は道を渡れなかったし、これからも渡れないだろう。
私はふいに、自分のあそこを触ってみた。人差し指を中にいれる。
自分のやっている事の情けなさに私は溜息をついた。
私がオナニーをするのは、必ずお風呂場である。漫画などを見ると普通の人はベッドでやるようだが、あれが私には信じられない。あれではシーツ等が汚れてしまう。仮にティッシュ等で拭き取ってもにおいが残りそうだし、そもそも汚した後でそのベッドで寝るという神経が分からない。それとも私が神経質すぎるのだろうか。
お風呂場でなら、いくら汚しても平気だし、体も少し敏感になる。
もう母が寝静まった午前1時から、私はお風呂場でシャワーを出しっぱなしにし、ずっとあそこをいじっていた。
金髪の彼女を廃虚のビルから突き落とし、彼を椅子に監禁して…
そんな事を考えながら私は自分のあそこをいじり続けた。
基本的に淡白、だと思う、な私が、この日は一日で3度もいってしまった。よっぽどそういう気分だったらしい。
危うくお風呂場で眠りかけた私は(だから皆ベッドでするのだろうか)、強化プラスチックの床のぬめりをシャワーで念入りに流し落すと、そのまま自分の部屋のベッドで眠りこけた。
そして起きたら午後だった。そう言えば今朝、熱があるとか母に言ったような気は確かにした。信用があるのか、母は信じて出勤していったようだ。
平日の団地は静かだ。
相田君は私があんな事をしていると思っているのだろうか。まして、それが理由で学校を休むとか。
私はふと、ここの屋上から飛び降りたら確実に死ねるのだろうか、と考えた。
特に根拠は無いが、ほぼ間違いなく死ねるのではないかと思う。下はコンクリートの駐車場なのだ。
しかしおそらく、屋上へのドアには鍵がかかっていて入れないようになっているだろう。非常階段の方はどうなっているのだろうか。いずれにしても確かめた事はないから分からないのだが。
このベランダは…無理だろう。ここは3階なので、足を骨折する位だろう。
「別に、無理して死にたい訳じゃないんだけど。」
そこまで呟くと、ようやく少し涙が出てきた。私は少しほっとした。
でもさすがにこんな事では、小説のネタなんかにはなりそうもないけど。
私は麦茶を飲みながら、ベランダの手すりによっかかり、目の前に広がる田んぼをながめていた。
麦茶のコップの冷たさは、どんどん自分の手の熱に負けているようだった。