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 街はまだ目覚めていなかった。
 早朝と言うにもまだ早すぎる。夜の空は漆黒から深い群青色に変わりはじめているが、人の生活の鼓動はまだ聞こえてこない。耳を澄ませば太陽が昇ってくる音が聞こえてくるような気がするくらい静かだ。
 街の一角に設けられた公園からは、すでに目覚めた鳥達の鳴き声が聞こえてくるが、自然の営みのなかで発せられた音は静寂の一部でもあり、日が昇る音を聞こうとする妨げにはならない。人間が闊歩していない空白の町並みは不思議な美しさに満ちていた。
 けたたましい機械音がする。
 アスファルトとゴムの摩擦によって静寂は引き裂かれる。大型トラックのエンジン音は夜通し走っていたことに腹を立てているかのように不機嫌であった。
 トラックが出した音を合図にしたかのように人の気配がポツポツと見られる。朝帰りのサラリーマン、マンションの前で大量の新聞を籠に入れたまま傾いている自転車、貨物列車が発する鉄をこするような音。人間の作り出したもののみが空気を汚していく。

 ただし人間が汚す物は街や空気だけではなかった。
 塗装の剥げ落ちた雑居ビルの螺旋階段の下にも人間によって汚されたものがあった。それはゴミ捨て用のポリバケツの隣でボロ雑巾のように転がされていた。所々に白濁の汚い液体が付いて異臭を放っている。
 一人の少年はすでに三時間もの間、それをじっと見ていた。見ていたというのは適切な表現ではないかもしれない。少年の網膜にそれは映っていたが、脳までは届いていなかったかもしれないから。
 数時間前までは明日香と呼ばれていた芸術品のような少女は、すでに人間では無くなっていた。呼吸はしているが魂はない。
 少女はだらしなく足を開いてうつろな瞳で空を見上げていた。衣服はビリビリ引き裂かれ、髪型も乱れている。
 少年は数時間前に繰り広げられた惨劇をただ見ているしかなかった。屈強な男達に押さえ込まれ、顔が変形するまで殴られた上、恋人がいいようになぶられるのをただ見ているしかできなかった。 

 少年の名前は真司といった。




めぞんエヴァ250000HIT記念でもなくMEGURUの部屋15000HIT記念でもないけど、とにかく記念短編小説

「HOWEVER」



 真司は唐突に目が覚めた。
 毎日のことだが目覚めは突然やってくる。何の前触れもなく瞼は開く。睡眠には周期があって脳波がどうのこうの言えば説明は付けられるのだが、大多数の人間にとってそんなことはどうでもいいことだ。
 ”眠るは死に似たり”と詠ったのはどこの国の詩人であったか?
 真司は自分以外誰もいるはずのない部屋を見回した後、唐突にテレビのリモコンを探した。たいして広くもない1DKの部屋。ベットもテレビもオーディオもパソコンも全て近くにある。寝る前に読んだ心理学の本と昨日の新聞をかき分け、脱ぎ散らかしたシャツを捲ると掌に収まる小さなリモコンが視界に映った。
 むさぼるようにひったくった真司はスィッチを押す。画面には昔は売れっ子だったアイドルがくだらない英会話をする姿が映し出された。画面の左上に時刻がでている。早朝の番組の特徴だ。

 五時三十四分

 起きるにはまだ早い。
 真司はすぐにテレビを消した。別にテレビが見たかったわけではない。地球上に自分以外の誰かがまだ生きていることを確かめたかっただけだ。
 昨日の夜は自分は生きていても仕方のない人間だと呪いながら浴びるように酒を飲んだが、また朝が巡ってくると生きてみたくなる。真司は今週何十回、いや何百回目かの自己嫌悪をした後、再びベットに倒れ込んだ。

 2回目の目覚めは最悪だった。
 目覚まし代わりにかけた音楽の選曲をよく考えなかったせいだ。朝っぱらから流れるジャズは、気持ちを沈痛にさせる。真司は胸焼けをおさえながら、乱れた髪に手をやりバスルームに向かった。
 肌から火が出るような熱いお湯と身が凍えるような冷水を交互に浴びて身体を無理矢理目覚めさせる。顔を洗い、髭を剃った後バスルームを出た。それ以上の用事はない。
 昨日脱ぎ散らかした服を洗濯機に叩き込み、ベットから汗まみれのシーツを剥がすと同様の処分をする。流し台に埋まっている三日分の食器も目に入ったが洗う気にはならなかった。
 お湯を沸かして安物のインスタントコーヒーを入れ、冷蔵庫に入れっぱなしにしてあったスモークチーズを囓る。食べ終わった後、軽くうがいして着替えを始める。
 最近どうでもいいことがとみに多くなってきたが、今日の用事は絶対にはずせないものだ。真司はクローゼットの中から洋服を引っぱり出し手早く身につける。どれにするかは迷わなかった。今着替えている洋服は一ヶ月に一度、毎月二十三日にしか着ないものなので迷う必要はない。

 八時十五分

 真司は時刻を確認すると出かける準備をした。時計ををはめ、財布と車のキーをジャケットに入れ靴を履いたところで家の鍵を持っていないことに気が付いた。部屋の鍵はキッチン脇の戸棚にある。
 足下を見た真司は部屋の鍵を取りに行くのを止めた。靴はレースアップブーツだ。脱ぐのが面倒だ。もし泥棒に入られたら、ということは気にならなかった。取られて困るようなものはない。テレビやパソコンはそれなりに値がはるものだが、所詮はどうでもいいものだ。
 マンションから少し離れた駐車場に行って白いセダンに乗る。大学の先輩から譲ってもらったボロ車だが、重宝していた。外装だけはやすりで綺麗に錆びを落とした後、ワックスをかけ直した。あとは走れればいい。
 乱暴に扉を閉めた真司はキーを回すと、アクセルを踏み込んだ。車は出勤途中で混雑している反対車線をよそに快適に走り出した。平日の午前中に郊外に向かう人間はほとんどいない。

 「気に障る風だな」

 半開きになった窓から排気ガスをたぶんに拭くんだ風が入ってくる。シンジは細く繊細な眉をひそめたがそれ以上のことはしなかった。アクセルを踏み込み速度を上げる。渋滞している反対側の道とは違ってシンジの行く手を遮る車はない。

 「それではここで音楽を一つ。リクエストは新神奈川県のASUKAさんからです。あすか・・・・、いい名前ですね。実際にはどういう字を書くのでしょうね?インターネットでのリクエストなんですがアルファベットだと余り感じが伝わってきませんね。明日香かしら?それとも飛鳥?あるいは平仮名かな?でもあすかという名前は文字より音にした方が美しいですね。軽やかで春を可憐に舞う風のよう、それも色彩が鮮やかで華やかな香りのする風・・・・・・」

 ブチッ

 シンジは乱暴にラジオのスイッチを切った。普段は朝に限らずラジオ番組などを聞くことはない。退屈しのぎに流していただけであった。

 「洒落にならないな・・・・」

 シンジは不機嫌そうに吐き捨てた。まるで自分が今日この時にラジオをつけることが何万年も前から決められていたようだ。荒っぽく息を吐き出すとハンドルをきる。
 車は海岸通りに入り、窓からは潮混じりの風が吹き込んできた。
 海岸通りとは正式な名称ではない。地図には県道18号線と記載されているが、そう呼ぶ人間は真司の知る限りでは一人もいない。なだらかな海岸線に沿って走る道を15分ほど行き、ヨットハーバーの前を左折すると海岸通りの終点にある岬が見えてくる。
 砂浜には一ヶ月前までは繁盛していたであろう海の家の残骸があった。平日の午前中だというのにウィンドサーフィンのカラフルな三角形が所々に見える。
 シンジは海岸の脇に立っている博物館の駐車場に車を滑り込ませた。博物館に用事があるわけではないが、この付近に駐車場はここだけだ。広い駐車場にはもう一台だけワゴンが止めてあった。シンジは車を降りるとうつむきながら歩き出した。晴れ上がった青い空は今のシンジにはまぶしすぎた。




 「早いのね、真司君」

 岬の先端にある十字に組まれた粗末な木の前に座り込んでどのくらい経ったことだろう。何かを考えようとするわけでなく、ただ潮風に身を任せていた真司は生真面目さがにじみでているような声にたたき起こされた。

 「君もだね、ひかり・・・・」

 そう言ってからシンジは時計を見た。

 十二時二十五分

 それが早い時間かどうか真司には判断がつかなかった。ただ自分がもう三時間もここに座り込んでいることだけは分かった。最近に限ったことではないが、真司の体内時計は狂いっぱなしだ。
 正常な時間の感覚などあったものではない。半日以上経ったと思ったらたた三十分、少しうたた寝をしたと思ったら日付が二つ変わっていたなどということは日常茶飯事であった。半年前に心の歯車が永久に抜け落ちて以来、真司には足りなくなっているものがいくつも存在した。

 「もう半年とは時間が経つのは速いわね」

 真司は何も言わずにひかりの言葉を聞いている。ひかりも返事を期待していたわけではなく、持ってきた花を淡々と十字に組まれた木に供えている。

 薄いピンクがかかった白い薔薇

 明日香が好きだった花だ。いつだったかデートに二時間も遅刻した真司が、手がつけられないくらい激怒していた待ち人の機嫌をとるために通りすがりの花屋で買い求めたのが最初だった。それ以来、真司は何かがあるごとにその薔薇を買い求めて明日香に渡してきた。最後に渡したのは半年ほど前のことだ。
 五ヶ月前の二十三日にひかりが初めて同じ事をした時、真司は怪訝な表情をした。

 「ほら、明日香は辛気くさいの好きじゃないでしょ。本当は菊とかを供えるんだろうけど、明日香には華やかなものの方が似合っていると思ったし・・・・」

 その時、ひかりは的外れな答えをした。
 真司が表情を曇らせたのは二人の間でしか知らないはずの花をどうしてひかりが知っているのかということだった。真司は一度聞いてみようと思ったこともあったが、実際に口から外には出さなかった。
 ひかりは明日香の一番にして唯一の親友であったから、聞いたことがあったのかもしれない。もしかしたら偶然であったかもしれないが、一度聞きそびれると何となく言い出しにくくなる。

 「最近は元気にしてる?大学には一年間の休学届けを出したって聞いたけど・・・・」

 「別に」

 ひかりは一度強い眼差しで真司の方を見たが、視線を向けられた当人がすぐに顔をそっぽに向けてしまったのでそれ以上言葉を口にはしなかった。
 言うべき言葉がみつからない。何かよく分からないけど、胸の中にモヤモヤしたことがあるけれど言語化することができない。言い始めてしまえばなんとかなるのかもしれないけど一度口に出してしまったら取り返しがつかないような気がする。
 ひかりには溜息をつくことしかできなかった。


 ヒュゥゥゥー


 気まずい二人の心を風が洗い流していく。ただし一度は清潔になった心もすぐに汚れてしまう。押さない頃は分からなかったが、今の二人には自分の心が汚れていくのが分かる。それが生きるということなのかもしれない。あるいは大人になると言い換えることができるのかもしれない。
 岬に群生している雑草はやや黄色みがかかっていて秋を告げていた。枯れた草と海の潮が入り交じり鼻につく。特徴的な匂いは眠っていた真司の記憶を蘇らせた。四年前に明日香が最初の別れをこの場所で真司に告げた日もこんな風が吹いていた。




 「別れましょう」

 明日香は身を翻すと挨拶でもするかのような軽い調子で言った。
 真司は即答はしなかった。ただ大きく域を吐きだしただけだ。驚きはない。予兆は十分すぎるほどにあった。真司と明日香は昨日も大喧嘩をしていた。

 「なぜだい?」

 揺れ動く心を風に乗せて六十秒ほど旅をさせた後、真司は観念するように言った。どんなに恋愛経験を積んだ人間であっても、別れの時には平凡なセリフしか口にできないという。
 ”上手に別れられるというのは希なのだ。というのも、ちゃんとうまくいっていたら別れるなんてことはない”
 真司は少し前に呼んだ本の一節を思い出していた。たしか題名は「失われた時を求めて」だ。まったく題名まで余計なお世話だ。

 「分かっているでしょう?」

 明日香は冷淡であった。別れの時の女は妙に冷静なのはなぜだろうか?真司の思い過ごしか、世間の勘違いか?ただ明日香が心の整理を付けてからこの場にいることだけは確かなようであった。

 「僕にはよく分からないよ」

 嘘だ。
 本当はよく分かっている。心で分かっていてもうまく言葉にできないだけのことだ。いや、言葉にできないわではないのかもしれない。したくないだけだ。一度言葉にしてしまうと別れが決定的になってしまうようで怖かったのだ。

 「そう、なら分からなくてもいいわ」

 明日香はそれだけ言うと、うなだれる真司の脇を通り過ぎて行った。
 しばらくした後、シンジは振り返った。明日香の背中と茜色の髪はすでに米粒のように小さくなっている。

 (来る時は一緒に車で来たけど、帰るときはどうするんだろう?電車も通ってないし、タクシーを呼ぶにしても時間がかかりそうだな)

 真司は不思議に冷静であった。別れを告げられた直後だというのに晴れ晴れとした気にさえなってくる。
 ”女への恋が冷める。愛から解放された感情、やすらかな気分、のびのびとした悔恨、その後に来る絶望”
 あるロシアの作家が振られた男の気持ちについてそう述べたことを真司は知っているのであろうか?
 妙に論理的になていた真司はそのまま、少し時間をつぶすことにした。いますぐ岬を降りていったら、タクシーを待つ明日香に会ってしまうかもしれないし、そうなったら自分が何をするか分からなかった。


 「真司!ごめんねごめんねごめんね!!でもこうすることしかできないの!!本当にごめんねごめんねごめんね」


 真司が岬で風に吹かれて時間をつぶしていた頃、明日香は海岸の岩影で肩を振るわせていた。勿論その時の真司は知る由もない。気丈な明日香が泣き叫んでいたことも別れを告げなければならなかった本当の理由も。

 一ヶ月前までは何の問題もなかったのだ。

 真司と明日香は幼なじみだった。共に物心つく前に事故で両親をなくした二人は支え合うように生きてきた。中学校に入った頃からお互いを異性として意識し始め、卒業する直前のバレンタインデーに初めての口づけを交わした。
 そして同じ高校に入学してから少し経った後、真司と明日香は両親共通の知り合いでそれまで二人を養育してくれた銀髪の老紳士を病気で亡くす。二人きりで住むようになった真司と明日香が、お互いの気持ちを確かめ合いながら関係を深めていったのは自然の成り行きというものだ。
 そんな二人に亀裂が走ったのは一ヶ月前のことである。
 真司が車の免許をとった祝いに電車で三十分ばかり行った都心部にあるレストランに出かけた夜に悲劇は起きた。
 真司は物言わぬ人形のようになった明日香を傷ついた体で背負って帰ってきた。明日香は三日ほど死んだように寝込んで真司を心配させたが、その後はいつも通りの明るい明日香に戻った。少なくとも表面上は。
 不幸中の幸いだったのが襲われた場所が真司と明日香が住んでいる町から離れていたことである。学校で噂にもならなかった。
 共に両親をなくし親戚も頼る人も居ない真司と明日香は、失うべきものをお互い以外持ち合わせていなかった。今は気まずい空気が流れていても、ずっとお互いのことを一番強く思っていればその内時間が解決してくれる。真司はそう信じていた。

 「明日香が今日、学校を早退したらしいぜ」

 破局の始まりは何気ない級友の一言であった。隣のクラスに行った真司は明日香が急に早退してしまったことをひかりから聞き出す。

 「明日香、最近顔色も悪いしどうしたのかしら?なんかやつれているようだし・・・。碇君がもっとしっかりしないと駄目だよ」

 真司と明日香が一緒に住んでいることを知る数少ない人間の一人であるひかりは少し怒ったように言った。その瞳は何があったか事情の説明を求めていたが、真司はやんわりと拒絶すると午後の授業をほったらかして家に直行した。
 明日香はいなかった。
 真司は警察に捜索願を出そうとまで考えていたが、事を大きくしてしまってはあの夜のことを蒸し返すような気がして取りやめた。心当たりの場所に片っ端から電話をしながらやきもきしてしていた真司が明日香を見つけたのは夕方すぎのことであった。

 「どこに行ってたんだよ?!心配したんだよ!」

 「そう」

 「そうって・・・・。そんな言い方はないだろ!今までどこにいたんだよ?!」

 「別に・・・・、ちょっと海が見たくなっただけ・・・・」

 明日香は素っ気なくそう言うと部屋に閉じこもって鍵をかけた。真司は眠れない夜をそのドアの前で過ごすことになる。
 その日を境に明日香は急に冷淡になった。同棲していることが学校にばれたらまずいので、二人はマンションの隣の部屋に住んでいることにしていたが、実際の生活も建前通りになった。明日香は真司の部屋に運び込んでいた自分の荷物を持って帰った。一緒に食事をとることもなくなった。
 今は少し距離を置いた方がいいのかもしれない、真司が現実逃避のようにそう考えていた頃ひかりが真司の家を訪ねてきた。

 「ちょっとどうしたの二人とも?このごろ少し変じゃない?」

 「ちょっと喧嘩しちゃっててね・・・・・」

 真司はへたくそな言い訳をした。

 「明日香は何も言ってくれないし、もう本当に何があったの?」

 ひかりの口調はかなり強いものであったが、真司はお茶を濁して誤魔化した。いくらひかりといえどもあの夜のことを話すわけにはいかなかった。

 「そう言えば、明日香が病院から出てくるのを見たっていう話を聞いたんだけど、真司君知ってる?」

 「病院?」

 「うん。中央総合病院から暗い顔をして出てくる明日香をB組の人が見たって」

 真司も初耳であった。明日香が薬を飲んでいるところは見たことがなかった。具合が悪いのは確かだが、精神的なものであろう。真司の記憶が正しければ中央総合病院には精神科はない。あの病院で有名なのは内科と産婦人科だ。特に産婦人科は裏で中絶手術を請け負っているともっぱらの評判であった。

 「今日、明日香が帰ってきたら聞いてみるよ」

 真司は揺れ動く気持ちを押しとどめてなんとかひかりを送り出した。真司が半狂乱になりながら明日香を問いつめたのはその晩のことだ。

 「どうして隠していたんだよ?!」

 「隠しているって何のことよ?」

 「中央総合病院から明日香が出てくるのを見たっていう人がいるんだ。今までちょくちょく学校を早退していたのもそのためだろう?どうして隠していたんだよ?!」

 「そ、それは・・・・・」

 明日香は明らかに狼狽していた。取り乱すことが少ない明日香が返す言葉もなくオタオタしている様子を見た真司は不快な思考を加速させた。

 「妊娠したんだろ?明日香!」

 「ち、違うわ?!」

 「違わないよ!そうに決まってる!あの夜に妊娠したんだ!!」

 「違うわ!」

 「いや、そうに決まってる!!」

 「違うって言っているでしょ!」

 「嘘だ!妊娠したんだ。僕たちはちゃんと避妊していたから大丈夫だったけどあの晩はそうじゃなかった。明日香はあいつらの子供を身ごもってしまったんだ!」

 「違うわ、真司。ねぇ話を聞いて」

 「聞きたくないよ!そんな話は!」

 「し、真司・・・・・」

 「僕の子供ではなくても明日香の子には違いないものな!!」

 「だから違うの、真司!」

 「うるさい!!」

 真司は絶叫するようにそう言うと明日香を無理矢理押し倒した。明日香は違うわと叫びながら懸命に抵抗したが、最後には力無く真司の為すがままにさせておいた。真司が岬で別れを告げられたのはそれから三日後のことであった。
 学校には退学届けが出されていた。明日香の家財道具はそのまま残されていたが、着替えなどの細々したものは真司が学校に行っている間にごこかに運び出されてしまった。明日香の部屋の名義はいつのまにか真司のものに書き換えられていた。
 学校一の美少女の突然の失踪は、様々な波紋を周囲に投げかけた。色々な噂が流れたが、渦中の人である真司がこの世の終わりみたいな昏い顔をしていたのでクラスメイト達もそれ以上は踏み込むことができなかった。そして受験シーズンに突入すると明日香のことを話す人もめっきり少なくなった。
 真司は茫然自失としながら毎日を送っていた。
 学年主席の明日香と同じ大学に行きたかったのでそれまでしていた猛勉強だけが彼を支えていた。もし受験が差し迫っていなくてするべきことがなかったら真司は自殺していたかもしれない。
 明日香はすぐに帰ってくる、その内ひょっこりと帰ってくる、真司はそう思い続けて毎日を過ごした。そういう思い込みも猛勉強もただの現実逃避にすぎないことに気が付くのは、真司が念願の大学に入学してから少し経ってからのことである。
 ただ明日香がいなくなって真司は変えたことが一つだけあった。家の中でもつけていたヘッドホンをはずしたことである。一日に三十分くらいは自分一人の時間を欲しがる真司は、明日香がそばにいるときでもヘッドホンで音楽を聴いていた。
 だが明日香が部屋を出ていってからヘッドホンをつけたことはない。音楽もあまり聴かなくなった。いつかはかかってくると信じていた明日香からの電話を聞き逃すことがないように。
 電話が鳴ったのはそれから三年以上経ってからであった。しかも明日香本人からではなかった。

 「突然で申し訳ありませんが、真司さんはいらっしゃいますか?」

 「はい、僕がそうですけど・・・・」

 電話の主は急いでいるようであった。話の切り出し肩が唐突で性急だ。

 「私は、H大学付属病院で看護婦をしている山城と申します。明日香さんのことでお話したいことがあるのですがよろしいでしょうか?」

 真司は明日香という名前を聞いた瞬間凍り付いた。




 (嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だっ!!!!)

 真司はそう唱えれば世界が変わると念じながら身支度を整え、家を飛び出した。タクシーの飛び乗り、電車を二つ乗り継いで空港に向かう。一番早い飛行機を予約し、胸が張り裂けそうになりながら空に舞うこと二時間余り。真司はH大学付属病院のある来たの大地に降り立っていた。
 空港からタクシーに乗って凍てついた大地を失踪すること一時間余り。真司は雪をいただいた針葉樹林に囲まれたH大学付属病院に到着した。
 入り口でキョロキョロしていた真司を山城看護婦はすぐに見つけてくれた。息を切らして駆けこんだエントランスホールで、狼狽したように動き回っている真司はかなり目立っていて山城看護婦は迷うことなく真司を探しだした。

 「こちらです」

 彼女は真司を落ち着けるように静かな声で言った。心の中は暴風雨に見舞われていたが、静寂に包まれた病院内の雰囲気と山城看護婦の落ち着いた態度は真司を少しだけ静かにさせた。
 真司は遺伝子研究所の隣にある特別病棟に案内された。H大学は日本国内では初めて遺伝子治療が実施された病院であり、この方面の充実度は国内屈指だった。

 「あ、あの、明日香は?」

 長く冷たい廊下を歩いている時に真司は堪えきれなくなってそう尋ねた。しかし山城看護婦な首を左右に振ると真っ直ぐな瞳で真司を見つめた。その生真面目な瞳は「自分の目で確かめなさい」と言っているようであった。


 ガチャリ


 無機質な音がして一際厳重な病室の扉が開く。真司が通された部屋の一角には様々な医療器具が陳列された小部屋があり、ガラスに覆われたその先には幼なじみが横たわる姿があった。

 「明日香!!」

 真司は反射的にそう叫んでいた。ガラスにへばりつくようにして駆け寄るシンジを担当の中年の医師が抱き止める。ガラス張りの小部屋に直接通じる扉はない。真司はどうしたら明日香の元に行けるのか探すように視線を泳がせた。

 「大丈夫です。今は眠っているだけです」

 出雲というプレートを胸に付けた中年の医師は、白髪混じりの髪を震わせて真司にやさしく言った。堅い巌を思わせるような頑強な体躯は真司の体を受け止め、動転した心を少し落ち着かせるのに十分な効果があった。

 「明日香さんは不治の病に侵されています」

 真司にコーヒーを勧めた後、出雲医師はそう切り出した。
 文系でフランス語選択の真司には長ったらしいドイツ語の病名は理解できなかった。分かったことと言えば明日香の病気は遺伝的な物でどうしようもないものだということ、現代医学では手の施しようがないということ、明日香があと一ヶ月足らずの命だということの三点である。
 いずれも真司を絶望させるには十分すぎる内容だった。出雲医師はなるべく気を落ち着かせて話していたが、時折耐えきれないようなうめき声を漏らしていた。強靱な精神力をもっているように見えるこの医者でさえ、明日香の病状に落胆していることがありありとと伺えた。

 「最後に一つだけ付け加えておきます。ここまで話したことがあなたに酷いショックを与えていることを承知でこのことを切り出す私を許して下さい。明日香さんは全身を激痛に見舞われています。四六時中といったわけではないのですが、かなり苦しい時間があるはずです。我々は脊髄に無痛症の手術をすることを強く勧めましたが、明日香さん本人に断れました。自分は死ぬ瞬間まで人間でいたい、両親も大切な人もなくした自分は普通の人間が持っているものを持ち合わせていない、だから痛みもなくしてしまったらもう自分は人間でなくなるかもしれない、私は最後まで人間でいたいとおっしゃっていました」

 出雲医師はそれだけ言うと唇を噛みしめて立ち上がった。そして山城看護婦に真司を殺菌室に入れて明日香の病室に案内するよう指示を出すと力無く部屋を出ていった。その背中は自分の無力さと明日香への哀れみをかみ殺しているようだった。

 「さ、こちらへどうぞ」

 山城看護婦は放心したように出雲医師の背中を見送った真司の肩を軽く叩くと、明日香の病室の隣にある殺菌室に真司を誘った。極端に免疫力が弱っている明日香はいかなる雑菌も受け付けることができない。明日香の病室は厳重な無菌室で最大限の配慮がされていることはわかったが、真司にはそれが牢獄にしか見えなかった。

 「・・・・・明日香・・・・・」

 真司は白衣とマスクをつけて病室にはいると死んだように眠っている明日香の手を取った。真司をこの部屋に導いた山城看護婦はさっき退出していった。様々な医療器具に囲まれたいかめしい部屋には、静かに横たわる明日香とそれをじっと見守る真司だけが残された。

 「来てくれたんだ、真司・・・・・」

 どのくらい時間が過ぎたことだろう。明日香は目を開けると弱々しい声で言った。
 夕方過ぎに病室に入ってきたのは覚えていたが、窓もないこの部屋では今が何時であるか分からない。真司の背後にはいかにも病院らしい時計が時を刻んでいるのであるが、明日香しか目に入らない真司は気が付かなかった。

 「・・・・・どうして?・・・・・」

 真司は泣きながらそう言うことしかできなかった。
 疑問の言葉は今まで連絡してくれなかった明日香だけに向けられたものではない。明日香がこんなになるまで何もすることができなかった自分に、明日香を侵している病魔に、そして何一つ助けてくれることがなかった天に向かって呟いた言葉だった。

 「ごめんね・・・・・」

 明日香はやせこけた顔で無理矢理笑顔を作るとそう言った。落ちる瞬間の牡丹を思わせるようなはかなげな笑顔は真司の胸に突き刺さった。

 「謝るのは僕の方だよ。あの時明日香が急に別れようって言ったのはこのためだったんだろう?それなのに僕は明日香に酷いこと言って、今の今まで何もして上げることができずにただ漠然と生活していて・・・・、今だって明日香に何もしてあげることができないんだ。僕はなんて馬鹿な男なんだろう?!明日香ではなく、僕に病気が降りかかってくればいいのにっ!!」

 真司はそう叫ぶと明日香の胸の上で泣き出した。ベットに身を横たえた明日香の胸の上で子供のように泣きじゃくる真司の髪を、明日香は母親のようになでていた。

 「ねぇ、真司。私は真司に出会うことができて幸せだったわ。あんなことがあったし、もう長く生きられないのは分かっているけど、それでも幸せな一生だと思っているわ」

 「で、でも明日香っ!僕は明日香に何もして上げることができなかった。明日香だけじゃない。僕は誰にも何もしてあげることができない駄目な人間なんだ!」

 「違うわ、真司。あなたは私に色んなものをくれたわ」

 「で、でもっ!」

 「今だって私のために来てくれたじゃない」

 「そ、そんなことで明日香のために何かをしたことなんかにはならないよ!」

 「でも真司は来てくれたわ。私にはそれで十分よ」

 真司はようやく顔を上げると涙を拭って明日香の顔を見た。見る影もなくやせてしまった明日香だが散りゆく花の最後の一瞬のような美しさとそれに宿る穏やかな微笑は真司が見てきたどんな明日香よりも綺麗だった。

 「でも、どうして言ってくれなかったんだい?僕がそんなに頼りなさそうに見えたの?」

 怯えた子供のように言った真司に対して、明日香は首を左右に振った。

 「本当はね。こんな病気だって知らなかったの。先生達も最初は話してくれなかったし。半年くらい入院すればいいものだとばかり思っていた。あんな時だったし、少し冷却期間を置いた方がいいのかなって思ってそれでここで治療を受けることにしたの。でも詳しく調べてみたらどうにもならない病気だってことがわかって・・・・。何度も連絡しようとしたわ。でもそう思ったときには結構時間が過ぎていたから、真司はもう私のことなんて忘れていると思って・・・・・」

 「そんなこと絶対ないよ!部屋だってあのままにしてあるんだ。ちゃんと掃除もしているし、明日香がいつ帰ってきてもいいようにしてあるんだ!!」

 真司は大粒の涙をまき散らすとそう叫んだ。明日香は小さくありがとうと言った後、またはかなげな微笑を浮かべた。

 「眠くなって来ちゃった。真司の顔を見たら何だか安心したみたい。少し眠ってもいいかな?」

 「うん。ゆっくりとお休み、明日香。明日香の目が覚めるまでずっとこうしているから」

 真司は明日香のか細い手をなるべく力を込めないようにしながら精一杯握りしめた。明日香の白く細い手はガラス細工のようで力を込めると壊れてしまうような気がした。

 「うん、じゃ、お休み真司」

 明日香を少し照れたように顔を赤く染めると静かに目を閉じた。




 「どうしたの真司君?」

 「え、ああ、何でもないんだ」

 ひかりは瞑想するように思い出に浸っていた真司が一言も発さないのでもしかしたら、死んでいるのではないかと心配になって声をかけた。

 「大丈夫なの?あまり顔色がよくないよ」

 「ああ、大丈夫だよ」

 だがひかりにはちっとも大丈夫そうに見えなかった。十字組まれた木を見つめる真司の目は穏やかだが、顔色は余り良くない。ちゃんと寝ているのか、食事はとっているのか、ひかりはまるで子供を気遣う母親のような気分になった。

 「ねぇ、真司君」

 「なんだい?」

 「真司君は毎月二十三日に何のためにここに来るの?」

 ひかりの突然の問いかけに真司は右手の中指を眉間のやや下に当てた。それが考え込むときのくせであることをひかりは知っている。

 「生きる勇気をもらいに・・・・かな?」

 風に舞った木の葉がヨロヨロとしながら地面にたどり着いたと時、真司はようやく口を開いた。

 「生きる勇気をもらいに?」

 「まあ、それが明日香の遺言でもあったしね・・・・・」

 真司は感慨深そうにそう言うと秋晴れの空を見つめた。ここに来るときにはまぶしすぎて見上げることのできなかった空だが、今見上げることができた。




 「あの岬に行きたいな」

 明日香がそう言い出したのは、真司が病室に通い詰めてから二日ほど経った夕暮れ時であった。真司は困ったような顔をして診察に来ていた出雲医師の顔を見た。
 免疫力がない今の明日香には、ちょっとした雑菌でも即効性の毒物になる。風邪でも引いたらすぐに肺炎でも併発してこの世からいなくなってしまうかもしれない。真司は判断が付かない困惑した顔をしていた。

 「行って来なさい」

 真っ先に反対すると思われた出雲医師は即答で賛成した。

 (なんて悲しい瞳をするのだろう)

 真司は快く許諾してくれた出雲医師に感謝すると共に明日香の病状の重さに心を痛めた。もう助からないし、長くない、自分のやりたいことをさせてあげなさい。深い色をした出雲医師の瞳はそう言っているようであった。
 明日香の病気は非常に珍しいものなので、言い方は悪いが研究の対象にもなっている。当然、大学病院側の横槍が予想されたが、許可はあっさりと降りた。遺伝病研究の日本での第一人者でH大学医学部学部長を務める出雲医師は思いの外、権限を持っているようであった。
 ただ一般の人に迷惑がかかるような交通手段をとるわけにもいかないので、キャンピングカーを改良した特別病室車を仕立てていくことになった。出雲医師と山城看護婦も同行することになり、ハンドルは出雲医師自らが握ることになった。
 キャンピングカーの調達から改良までわずか一日でやってのけた出雲医師もたいしたものだが、その迅速な行動は明日香がいつ死んでもおかしくないことを暗に匂わせていた。


 ヒュゥーーー


 海岸から吹き付けてくる風は思いの外強かった。出雲医師と山城看護婦はキャンピングカーを止めて駐車場に待機し、真司は車椅子に明日香をのっけて岬の先端まで上がってきた。

 「わぁ、風が強いね。でも思ったより暖かい風だね」

 明日香はひざにかけられたストールを押さえながら言った。外に出ることが久しくなかった明日香ははしゃいだ表情を見せている。
 そのことは真司を沈痛にさせた。ちょっと外に出ただけではしゃぎ回るのだから、今まではどんなに閉鎖された空間で過ごしていたのだろう。そう考えると真司の目頭は熱くなった。

 「ねぇ真司。お願いがあるんだけどいいかな?」

 岬の先端にたどり着いた時、明日香は急にしんみりした口調で切り出した。少し思い詰めたような言い方である。おそらく前々からこの場に来ることができたら話そうと考えていたことに違いない。

 「なんだい、明日香?」

 「私が死んだらね、遺灰の一部をここに埋めて欲しいの。ここは景色もいいし、思い出の場所でもあるし」

 「し、死んだらなんて不吉なこと言うなよ」

 「いいのよ、真司。自分の体のことは自分が一番よく分かっているわ。出雲先生が外出許可をだしてくれたのだってもう長くないからでしょう?」

 真司は何も言えなくなった。もし世界一の賢者が今の明日香を説得しようとしても絶対に無理であろう。生と死を分かつ絶対的な境界線を無意識に越えてしまった明日香は、生き仏さながらであった。

 「他に僕がしてあげられることはないの?何でもいいからさ」

 真司は泣きそうになりながら言った。

 「そうねぇ・・・・、それじゃだっこして。車椅子だと真司の顔もみえないし」

 明日香は顔を上に向けて真司に笑いかけた。
 真司は車椅子を固定レバーで止めると身をかがめて明日香を抱き上げた。明日香は予想していた通り軽かった。真司は明日香を抱きかかえると岬の先端まで連れていって腰を下ろした。

 「ここの景色は本当に綺麗ね。いつきてもその時々の季節の色彩をみせてくれるし・・・・」

 明日香は真司の首にか細い腕を回したままの格好でそう言った。
 真司と明日香は何度もここに来ている。春の午後は風の薫りを匂ぎに、夏の夜は満天の星空を見に、秋の夕方は真っ赤に染まる夕焼けを堪能しに、冬の早朝は日の出に対面するために。二人の頭の中には思い出が走馬燈のように蘇ってきた。

 「し、真司・・・・、痛いよ・・・・」

 真司は明日香をきつく抱きしめていた。痛いと言われて少し手を緩めたが決して離そうとしなかった。二人を永遠に分かつであろう病魔から明日香を守るかのように。

 「ごめんね、こんな貧相な身体になちゃって。抱き心地がよくないでしょ?」

 再会してからというもの明日香は謝ってばかりだ。そして真司は泣いてばかりいる。
 真司は言葉を継ごうとする明日香の唇を塞いだ。このまま時が止まってしまえばいい。真司はそんなありふれた芝居のようなことを考えていた。

 「真司、約束して欲しいことがあるの」

 長い長い口づけの後、明日香はサファイヤのような瞳を潤ませながら言った。

 「何かな?僕にできることなら、いやできないことでもそうして見せるから何でも言っていいよ、明日香」

 「あのね、私と同じくらい好きな人を作って。私以上とは言わないからせめて同じくらい好きな人を作って」

 真司は絶句した。
 今は目の前の明日香のことで頭が一杯で先の事なんて考えてもいなかった。ましてや明日香以外の女性を好きになることなど微塵も考えたことはなかった。

 「私が死んだ後、真司がずっとずっと私のことだけを想っててくれても私はちっとも嬉しくないからね。人はね、死んだ人間に対して何もできないし、しちゃいけないんだよ。私は真司を不幸にするために生まれてきたんじゃないよ。私は真司と出会えてとってもとっても幸せだった。だから真司も私が死んだ後、私と同じくらい好きになれる人を見つけて幸せになってくれなくちゃ嫌だよ。それでも真司が生きる勇気が、毎日がんばれる元気がなくなった時にはこの岬に来て。私はいつでもここで真司を待ってるから。ほら、真司がんばりなさいよ、あなたには私がついているわって勇気づけてあげるから」

 明日香は真司を諭すようにいった。
 真司は聖母マリアに諭される敬虔な信者のように、ただ涙を流して明日香の言葉を聞いていた。明日香を抱きしめているのは真司であるはずなのに、真司は母親に抱かれている赤ん坊のような気持ちになった。
 腕の中の明日香は綺麗な、本当に綺麗な笑顔をしていた。純粋で汚れがなく、水晶のように澄んでいて可憐な笑顔。いくら言葉を連ねても表すことができないようなまばゆいばかりの笑顔がそこにあった。
 まるでこの世の笑い納めでもしているかのように明日香はずっとずっと笑い続けていた。思い出の岬を訪れてから三日後、海岸沿いの貸別荘に一室で静かに息をひきとるその瞬間まで明日香は澄んだ笑顔のままだった。




 「明日香の死に顔はすごく綺麗だったよね。明日香は真司君だけではなく私にも笑いかけてばかりいたわね。周りの人はみんな泣いていたというのに・・・・」

 日が傾き始め、街が暮れなずみ始めた頃、ひかりは思い出したようにそう言った。気が付けばかなり長い間この場所にいる。その間に大した会話があるわけではないのだが、それは心地よい沈黙であった。

 「私はもう行くね」

 ひかりは最後にそれだけ言うと真司に背を向けた。真司はしばらくゆっくりと歩き出すひかりの背中を眺めていたが、思い出したように瞬きをすると声をかけた。

 「ひかり」

 「何?どうしたの真司君」

 「わざわざ訂正する必要もないと思うんだけど、一応言っておくよ。僕は一年間大学を休学するわけじゃない。この前事務局に行って復学届を出してきたから後期にはキャンパスで会うと思うよ」

 そう言うと真司は笑って見せた。
 明日香の笑顔には遠く及ばないとしても、あの綺麗な笑顔に近づけるように笑ってみたつもりだった。ひかりは真司の笑顔を驚いたように見つめて、風にしばらく身を委ねた後、少し顔を赤くしていった。

 「じゃあまた学校でね」

 「分かった。それじゃまた」

 ひかりは来た時よりかなり軽い足取りで戻っていった。真司はその背中を見送った後、海の方を向いて手を広げ風を抱きしめた。

 (こら、真司!しっかりしなくちゃ駄目だよ)

 秋の静けさと寒さが混じった風は真司を少しだけ叱りとばしていた。長い間瞑想するように明日香と戯れた後、真司はキッと瞳を見開いて歩き出した。絶え間なく真司に愛を注ぎ続けるような柔らかい風がその背中を押してくれた。


 

(あなたには私がついてるわ、真司)



















 「はい、カットーーー!!!」

 「お疲れさま!」

 大きな声とともに拍手が巻き起こる。シンジはスタッフに差し出されたタオルで汗を拭うと地べたに座り込んだ。アスカにつきあわされるようにこの業界に引きずり込まれて数年が経過しているシンジだが、まだまだ精神的スタミナが足りない。
 撮影が終わったと思った瞬間それまで積もり積もった疲労がどっと押し寄せてくるようだ。それでも出来あがったフィルムを初めて目にした時の感動は忘れられない。あの感動を思い起こせばシンジはどんなつらい稽古にも耐えられた。

 「お疲れさま、シンジ君」

 一歩も動くことができないくらいに疲れていたシンジの顔に冷たい感触と共に底抜けに明るい声がかけられる。

 「あれ、マナも来てたんだ」

 「当ったり前でしょ!私が主演のドラマなのよ。最後の撮影に来るのは当然の事よ」

 シンジに冷たいスポーツ飲料の缶を押しつけた霧島マナは、そう言うと茜色の髪を震わせながら胸を反らして見せた。

 「ねえ、シンジ君。今日の打ち上げが終わったらちょっとつきあわない?おしゃれなワインバー見つけたの。ワインベースのカクテルやシンジ君が好きなイタリアワインが揃ってるしおいしい料理もでるのよ。穴場だからレポーターとかにみつかることもないし」

 マナの誘いは非常に魅力的であった。撮影終了後の疲れを癒やすにはおいしい料理を食べ、うまい酒を飲み、ぐっすりと寝るのが一番だ。普通の男なら最後の部分はいい女と寝るのがとなるところだが、シンジにはそのくらいが限界であった。
 「そうだね」と言いかけてシンジはそのセリフを喉で押しつぶした。マナのくれたスポーツ飲料とともに浮ついた心を胸の奥に流し込む。そうさせたのはマナの背後に立っているおにのような形相のアスカだった。

 「ちょっとマナ!アンタ、なにシンジにちょっかい出してるのよ?!」

 マナよりも少し長めの茜色の髪を震わせた美女は、マナの肩越しにシンジを睨み付けていた。

 「ア、アスカなんであなたがここにいるの?」

 「どうでもいいでしょ!それよりシンジに話があるの。ちょっと借りていっていいかしら?」

 アスカはニッコリと微笑みながらそう言った。だが本人は満面の笑みを浮かべたつもりでも眉間にしわが寄っている。不自然な笑顔はある意味において激怒した顔よりも恐ろしかった。

 「お、惣流じゃないか。久しぶり」

 救いの手をさしのべるように話に入ってきたのは、メガホンを首から下げた眼鏡をかけた男だった。顔にはそばかすがまだ少し残っており、年齢よりもかなり若く見える。地方から出てきた学生のような容貌だ。

 「あ、そうか。相田がこのドラマのチーフディレクターだったわね。アンタも出世したわね。アタシがいたころにはまだしがないADだったのに」

 「昔のことだろ。惣流がシンジと一緒に暮らし始めてこの業界を引退したのは3年も前だからな」

 「シンジの演技はどう?」

 「ああ、かなりのレベルまで達しているよ。でも撮り直しが多かったよ、今回は」

 ケンスケはいたずらっぽく片目をつぶるとシンジの方を見た。

 「しょうがないだろ。今までにない役で難しかっただよ。それに僕が真司役でマナが明日香役だなんて、おまけに明日香の親友役の名前がひかりだんなんてぞっとするよ」

 「しょうがないだろ、原作がそうなっているんだから」

 ケンスケはシンジの口調をまねてしょうがないよ、とい言うと少年のように笑いながら頭をかいた。何気ない会話で場を和ませることができるのはケンスケの天与の才だ。

 「惣流もそろそろこっちの世界にカムバックしないか?まだまだ惣流の支持者は多いぜ。眠らせておくにはもったいないよ」

 「アタシは今の生活が気に入っているの。カムバックする気は当分ないわ」

 「そうか、それは残念だね。まあ戻ってくる気になったら声をかけてくれ。惣流のカムバック作は俺が撮りたいからな」

 ケンスケは再び片目をつぶっていたずらっ子のように言うとやや憮然としているマナの方を軽く叩いてともに立ち去っていった。ケンスケの瞳はカメラ小僧だった学生の頃とちっとも変わりがない。あれで業界随一の若手ディレクターというのだから不思議だ。

 「シンジ、ちょっと大事な話があるの」

 アスカはそう言うとシンジの正面に座り込んだ。宝石のような蒼い瞳がシンジの胸をドキドキさせる。毎日見ているはずなのになぜだろう?

 「シンジ、実はね・・・・。アタシにはシンジと同じくらい大切な人ができちゃったの」

 シンジは瞳をこれ以上開かないというくらいに大きく開けてその言葉を聞いた。

 「もうシンジだけを見ていることができなくなったの。ごめんね・・・・・」

 アスカは悲しそうに言って視線をはずす。さっきまでドキドキしていたシンジの胸は張り裂けそうなくらいにしめつけられた。


 「碇さーーん。お電話ですよーー」


 凍り付いていた空気を動かしたのは若いADの声だった。駆け寄ってくる手にはロケバスに置いて有ったシンジの携帯電話が握られている。

 「は、はい。分かりました」

 シンジは動揺する心を抑えるようにして言った。咄嗟に受け答えができたのはこの業界で訓練されたおかげだろうか?

 「いえ、旦那さんの方じゃなく奥さんの方ですよ」

 ADの返事を聞いたシンジは目を丸くした。即座にオロオロとした視線をうつむいて震えているアスカの方に戻す。だがアスカはシンジの視線を避けるように立ち上がるとそそくさと電話を取りに行った。

 「ア、アスカ。さっきのはどういう意味?」

 シンジは電話を取りに行ったアスカにようやく追いつくと動揺を隠しきれない表情でそう言った。アスカが立ち上がった後、すぐに追いかけてきたつもりなのだが、疲労と動揺で揺れ動く足は言うことを聞かなかった。少し離れたところで話し込んでいたアスカに追いついたのは、電話が終わった時だった。

 「シンジ」

 「な、何?」

 「男の子よ女の子どっちだと思う?」

 ショッキングな内容を覚悟していたシンジは面食らってしまった。さっきはこの世の終わりのように昏かったアスカの顔は向日葵のような笑みに変わっている。

 「はぁ?」

 シンジが咄嗟に言うことができたのは、まぬけという言葉が結晶化したようなセリフだった。

 「午前中にね。産婦人科に行って来たの。そしたらおめでただって言われてね。何となくそう思ってたから驚きはしなかったけど。それでね男の子と女の子どちらだか分かりますが、事前に言いますか?って聞かれたの。それで少し時間を下さい、あとで電話して下さいって伝えてシンジの携帯の番号を言って置いたの」

 シンジの疑問を打ち消すようにアスカは一気に喋った。同時に小悪魔のような笑みを作って、硬直したシンジのほっぺたを人差し指でつつく。

 「じゃあ、さっきのは・・・・・」

 「だから言ったでしょう?シンジと同じくらい大切な人ができたって」

 アスカはいたずらっぽくそう言うと大げさにおなかをさすって見せた。それまで凍り付いていたシンジの顔が溶けていく。凍傷にかかったみたいに蒼くなっていた顔が喜びと驚きで赤く紅潮していく。

 「で、どっちだと思う?」

 「はぁ?」

 シンジはもう一度まぬけな声を出した。

 「あ、じゃあ、さっきの電話って?」

 「そ、産婦人科の先生からよ」

 少し頬を赤らめながらそう答えたアスカは暁にたたずむ女神のように綺麗だった。シンジは30秒ほどその美しさに見とれた後、ようやく自分が父親になったことを自覚した。

 「男かな?いやまてよ女かな?初産はどっちの方が多いって言われていたっけ?ええっっとううんと・・・・・」

 シンジはそう言うなり考え込んだ。顔に手を当てた後、意を決したような仕草をとり、その後やっぱり悩み始めて再び顔に手を当てる。シンジがその動作を4回繰り返したとき、アスカは焦れてしまっていた。

 「ああ、もう本当に相変わらず焦れったい男ね!」

 「だって、アスカ・・・・」

 「もういいわ。だったらアタシから言うわね」

 アスカはそう言うと姿勢を真っ直ぐにさせ、シンジの茶褐色の瞳を正視した。シンジはもう少し考えさせてくれ、というようなそぶりを見せたがアスカはそれを振り払うようにして少し前屈みになった。

 「答えはね・・・・」

 「答えは?」


 ゴクッ


 真司はいつのまにかカラカラに乾いていた喉に僅かにあった唾液を飲み込んだ。こんなに緊張したのはアスカにプロポーズした時以来のことだ。


 ヒューーー


 アスカが何か言葉を発した瞬間、唐突な強い風が二人の間に割り込んできた。アスカのセリフは風に飛ばされ、同時に目をつぶってしまったシンジには唇の動きで答えを察することもできなかった。

 (はた迷惑な風だな。まったく邪魔しないでくれよ・・・・・)

 シンジは眉をひそめると風に毒づいた。しかしシンジが機嫌を害したのはほんの一瞬であった。何しろ目の前にはニッコリと微笑んでいるアスカがいたのだから。その微笑みは日本で一番、いや世界で一番、と言うより人類史上一番美しく魅力的な微笑みであった。
 シンジは咄嗟にアスカを抱きしめた。
 今の二人には生まれてくる子供が男でも女でもどうでもいいことだった。シンジは力一杯アスカを抱きしめた後、首をすくめてアスカの顔をのぞき込んだ。幸せに満ちている最愛の人の笑顔を一生忘れないように。








NEXT
ver.-1.00 1997-10/10 公開
ご意見・ご感想・誤字情報などは meguru@knight.avexnet.or.jpまで。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!


 全国3000万人のアスカな人達に対してまず謝意を表しておきます。実はラストシーンだけ考えて書き始めたんです。最後がハッピーエンドだし、どうせ明日香役はマナだからどんなに酷い話にしても最後には格好がつくだろうと思いました。マナの髪の色はアスカよりもやや濃いめであったと記憶していますが、まあおなじような髪の色なので身代わりにしたてました。
 始めての短編ですがどうだったでしょうか?最近感想メールがあまり来ないので困っています。打っても返ってこない鐘の音ではどのくらい相手の心に響いているのか分からないので執筆の進み具合も遅くなってしまいます。まあ更新の速度が急停止に近い勢いで止まってしまった僕に最大の原因があるのだと思いますけど・・・・。
 短編はそのうちまたやりたいと思いますが、いつのことになるかは全く不明です。今度はレイものの短編を書いてみたいです。
 題名はGLAYの歌の題名からもらいました。なかなかしっくりするものがなかったのですが。HOWEVERを聴いている時に、小説のイメージと合っていたような気がしたので拝借しました。よかったら読み終わった後にでも聴いてみて下さい。
 それから、アスカと読者の心を弄んだMEGURUさんに正義の鉄槌メールを送りましょうなんてコメントつけないで下さいね、大家さん。頼みますから(笑)


 MEGURUさんの『HOWEVER』、公開です。
 

 やってくれたな、やってくれたな、やってくれたな!(笑)

 

 私ね、ダメなんですよ、性暴力が絡んだ部分。

 そこからどんなに含蓄のある言葉が生まれようと、
 そこからどんなに素晴らしい物語が発展しようと、
 そこからどんなに深いメッセージが伝えられようと・・・

 そういうシーンがあると冷めてしまう(^^;
 

 格好付けているわけじゃなくて・・
 「”自分の中にある、自分の物である、アスカ”が他人に汚される」
 のが不快なだけなんでしょう・・

 身勝手な男です(爆)
 

 ”する方”に視点がある物だとまだ平気ですが、
 ”される方”に視点がある話だと−−

 今回のように”された方”が苦しんでいる時間が書かれていると
 どうにもこうにも・・・
 

 「恋人の目の前で暴力を受ける女の子」
 本当に苦しい。
 全くなじみのない、
 初登場のキャラでも同じです。

 

 

 救いのラストまで読み進められた「自分を褒めてあげたい」  ←もう死語?(^^;

 

 

 さあ、訪問者の皆さん。

 「打っても返ってこない鐘」に業を煮やして、突き棒を巨大化させたMEGURUさんに
 大音響の感想を送りましょう!





 アスカ人は全国1億です!(笑)
めぞん/ TOP/ [MEGURU]の部屋