景色はやけにスローモーションだった。粉雪を吹き上げながら転落していくシンジの視界は、連続写真のように流れていく。空気の粒子が確認できる。恐怖よって頭の回転は止まっていた分、視覚だけが余計に働いているようだった。
果てしない深海にゆっくりと沈降していくような感覚。沈んでいくにしたがって光が届かなくなる。時間の流れに逆行するかのようにゆっくりと流れていくシンジの景色は、段々と色彩が暗くなっていく。
頭上にギラついていた太陽に影がかかり、澄み切った青空がにび色になり、舞い散る雪の結晶が黒くかすんだ時、シンジの意識は途絶えた。真っ暗なスクリーンの先には一条の光がポツンと遠くに映っている。
それが死後の世界への入り口かはシンジには分からなかった。考えもしなかった。消滅していく意識の中で、ただ朧気な光が見えただけだった。
「・・・・・・さいよ」
?
「・・・・・きなさいよ」
え?
「・・・・・シの言うことが聞けないっていうの?」
何?
「・・・・・きなさいって言ってるでしょ!何時だと思っているの?!」
誰?
「起きなさいよ!バカシンジ!!」
(アスカ!!)
シンジは魂で叫ぶと同時に目を覚ました。目の前にはつり上がった蒼い球体が二つ、シンジの方に強い光を放っている。
「学校に遅れるでしょ?!」
蒼い球体の下には筋の通ったものがある。スキーのジャンプ台のような角度がついていて、先っぽはツンと尖っている。
「まったく毎朝毎朝、何度寝坊すれば気が済むの?」
優雅なスロープを持つジャンプ台の下にから音が聞こえる。薄いピンク色をしたものが激しく開口し、綺麗に並ぶ白い硬質な四角形が垣間見える。
「さっさと起きなさい!」
業を煮やした白い手が飛んできて襟首を捕まれると、シンジはようやく意識がはっきりしてきた。気分は冴えない。二日酔いに悩まされた挙げ句、ずっとタチの悪い夢を見てきたような気分だ。胸がムカムカする。胃液が過剰にしみ出してきて腹はズキズキした。
「なんだ、アスカか・・・・」
「なんだとはなんなのよ!それが起こしに来てくれた幼なじみに対する感謝の言葉なの?」
「それじゃ、もう少し寝かせて」
脳に霧がかかったような状態だったシンジには、布団の柔らかな感触が恋しかった。再び瞼を閉じるとクッションのきいた枕に頭を埋める。
「なにやってるのよ、遅刻しちゃうでしょ。幼なじみのアタシが起こしに来てやってるのよ。少しは感謝してとっとと起きなさい」
アスカは問答無用に布団を引っ剥がした。寒風がシンジの肌を刺激する。春の温もりから冬の北風にさらされたシンジはベットから転がり落ちて抗議の声を上げた。
「なにするんだよー、まったく」
アスカからの返答は返ってこなかった。シンジのある一点を見つめたアスカの顔はみるみる紅潮していき、リトマス試験紙ばりの速さで真っ赤になった。
「エッチ!馬鹿!変態!もう信じらんない!」
叫び声と同時に飛んできた右の掌がシンジを吹き飛ばした。一瞬宙を舞ったシンジは派手な音を立てて転がった後、床に座り込む。
「しょうがないだろ、朝なんだから」
シンジの抗議は受け入れられなかった。二回目のビンタが飛んできた。シンジは再び空中を散歩し床にへたりこんだ。目は完全に覚めた。
ガチャガチャガチャガチャッ
台所では陶器の皿が触れ合う音が響いていた。
「まったくシンジったらしょうがない子ねぇ」
いつものやり取りなので、派手な音がしてもユイは振り向きもしない。朝食とはいえ、手を抜かないユイは、朝からかなりの量の洗い物をしなければならない。シンジの分も作られていたがこの日は無駄になりそうだ。
「あなたも新聞を読んでいないで支度してください」
だいぶ前から新聞を捲る音しか立てていないゲンドウにユイは溜息をつく。新聞のどこをみているのだろう、不思議に思うくらいだ。
「ああ」
「ああじゃありませんよ。まったくいい年してシンジと同じなんだから」
ゲンドウの生返事は、まだ新聞を読み終える意志のないことの表明だった。ユイは洗い終えた食器を水切り台にあげ、ふきんを手に取った。
「会議に遅れて冬月先生からお小言言われるのはいつも私なんですからね」
「君はもてるからな」
「何を言っているんですか、まったく」
代わり映えしないゲンドウの誉め言葉にユイは顔色1つ変えなかった。こちらも毎日のように繰り返されるやり取り。言い換えれば幸せの証明。
「君の準備はいいのか」
「ええ、いつでも」
パサッ
ゲンドウはようやく最後のページに到達した。ゲンドウの背後からはシンジとアスカの怒鳴り合う声が聞こえてくる。碇家の親達はどんなに騒々しくても気にとめたりはしない。毎日の決まり切った出来事、永遠に続いて欲しい幸せな喧噪、碇夫妻はシンジとアスカのやり取りをそう解釈していた。
「今日また転校生が来るんだってね」
シンジは走りながら声を掛けた。今日は遅刻ぎりぎりというわけではない。話しながら走っても十分に間に合う時間だ。
「ええ、第三新東京市も来年には正式に遷都されるんですもの。これからはもっと人が増えるわ」
「どんな子かな?かわいい子だといいのにな」
シンジはアスカの言葉を最後まで聞いてはいなかった。視線の角度が少し上がり、目尻がやや垂れ下がる。アスカは長年の経験から、それがシンジがよからぬ妄想に突入した証であることを知っていた。
アスカはきつい視線を送るがシンジは気づいた様子もない。不機嫌な瞳が怒りの形相に変わるまであともう一押し。
アスカの視線が背中を押したのだろうか?半歩だけ前に出たシンジは、通学途中にある十字路にアスカより一瞬早く到達した。
ドンッ
横道からでてきた何かと衝突してシンジは吹き飛んだ。頭の中には星が踊っている。目の前には真っ白なMの字が浮かんでいるようにも見えるが、視界は揺らいでいてはっきりとは分からない。
「シンジ、大丈夫!」
アスカの声が聞こえたような気がした。水中で聞いているみたいで声さえ揺らいでいるようだ。目の前にあるMの字がスラリとした白い足で、かすかに奥に覗いて見えるのが下着だと判断できたのは光が地球を50周ほど旅をしたあとだ。
「ご、ごめんね」
今度ははっきりと聞こえた。耳鳴りは続いていたが鼓膜は正常に震えたようである。シンジはようやく眼前の人物が少女であることに気がついた。
「ごめんね、マジで急いでいたんだ」
少女の頬はほんのりと赤くなっている。チェックのスカートにニットベスト。見たこともない制服だ。少女は照れながらスカートで下着を覆うと燕のような軽快さで立ち上がった。
「じゃ、私は急ぐから」
振り返り際に舌を出してそう言った少女は一足早く駆け出していた。清涼な薫りと淡い下着の色だけがシンジの元に残される。呆然として座り込むシンジの背後には端正な顔を怒りの形相に変化させたアスカが仁王立ちしていた。
「それで見えたんか?」
「ほんの一瞬だけだよ、しかもチラッと」
シンジは目を細めると指を5ミリほど広げた。
「かー、それでも朝っぱらからラッキーなやっちゃで」
朝の喧噪に包まれた教室でシンジの話を聞いていた鈴原トウジは、頭を抱えて心底悔しがって見せた。
「鈴原!馬鹿やってないでゴミ捨ててきなさいよ。週番でしょ」
苦虫を噛みつぶすような表情でシンジの話を聞いていた学級委員長の洞木ヒカリは、ようやく割ってはいる理由を見つけた。シンジとその横にいた相田ケンスケは少し苦笑してみせる。
ヒカリがトウジのことを必要以上に気にしていることは、大半のクラスメイトの共通認識だ。全く気がついていないのはトウジ本人くらいのもので、”恐竜並みの鈍感男”とはアスカがネーミングした。
「わ、わかっとる。まったくもうイインチョには適わんわ」
ヒカリの目尻がいつもに増してつり上がっているのに気がついたトウジはスゴスゴと言われたとおりに動き出した。
「トウジは尻に敷かれるタイプだな」
ゴミ箱を持ったトウジの姿が教室からきえるとシンジは眉をひそめた。誰でも自分のことより他人のことの方がよく分かるらしい。
「アンタもでしょ」
「どうして僕が尻に敷かれるタイプなんだよ」
「見たまんまじゃない」
間髪入れずに言い切られたシンジは不満そうだ。アスカは勝ち誇ったように鼻を鳴らしてさらに追撃を開始する。シンジはアスカの集中砲火に抵抗することができなかった。
「平和だねー」
ケンスケがポツリと言った。若干の嫉妬を込めて。
「よろこべ男子!」
朝のホームルームの鐘が鳴り、2年A組の担任である葛城ミサトが教室に入ってきた。いつもながら威勢のいい声だ。
「噂の転校生を紹介する」
教卓をバンッと叩きミサトは左手をドアの方に向ける。歌舞伎の登場シーンのようにかしこまったやり取りの後、一人の少女が教室に入ってくる。
「綾波レイです。よろしくお願いします」
空色の髪をした少女は天使のような微笑みを浮かべると頭をペコリと下げた。男子生徒が色めき立ち、シンジが思わず立ち上がると少女は顔を上げる。
「なんてことになると思ったの?」
おじぎを終えたレイの顔はぞっとするほど冷たいものに変化していた。まるで別人のようだ。
「これじゃ、まるきりハイスクール奇面組型夢落ちじゃない。こんな終わり方が許されるとでも思っているの?」
シンジの視界は急に真っ暗になった。あれほど騒がしかったクラスメイトの喧噪は消え失せ、照明の落ちた舞台には自分とレイだけが立っている。
教卓にいたミサトも横にいたアスカも、ケンスケもトウジもヒカリも姿を消した。一人だけ虚空に浮かぶ綾波レイは、鋭利なナイフのような視線でシンジを硬直させた。
「さあ、あなたのいるべき世界に帰りなさい」
レイは最後に残酷な笑みを浮かべた。悪魔的な笑みを見せつけられた瞬間、シンジの意識は混沌の渦に巻き込まれ薄れていく。視界は真っ白になり身体は漂流を始めたような感覚だった。
「・・・・持室長!目標が目を覚ましました!」
「シンジ君が?やばいな、もう一度眠らせろ。まだ目標地点に到達していない」
「はっ」
混迷を深める意識の中でシンジの耳にはそんな会話が飛び込んできたような気がした。しかし確かめる術はない。甘い香りが匂ったかと思うと、シンジの意識は再び闇に落ちた。それが前振りが異常に長い最終話の幕開けであることを作者だけが知っていた。
シンジの遺体ではなく、身体は見つからなかった。多目的ゲレンデにいた係員がロッジに連絡を入れ、即座に捜索隊が向かったのだが、崖の下に転落したシンジは行方不明のままだ。
ベルトの切れたSOS用発信器とひしゃげたスノーバイク、所有者を失った耳当てつきの帽子は発見されたがシンジは見つかっていない。探している側がシンジを隠しているのだから見つかるわけはないのだが、格好をつける意味合いで捜索は陽が落ちても続けられた。
「では熊に食べられたと?」
「いえ、まだそこまでは断定できません。血痕も見つかっていませんし」
「しかし、熊の足跡が残されていたんでしょう?!」
「まあ、それはそうなんですが・・・・・」
ロッジに居座り捜索を見守っていたミサトは、煮え切らないネルフの係員に苛立っていた。
「ミサト、少しは落ち着きなさい」
「離してよ、リツコ!落ち着いてなんかいられないわ。私の生徒が熊に食べられたかもしれないのよ!」
ミサトは大声を出すとリツコに向き直った。
「我々ネルフとしても万全の体勢をとるつもりです。会長のご子息は必ず救出して見せます」
「私たちが狼狽してどうするの?生徒達には秘密にしておかなくてはならないのよ。態度からバレたらどうするの?」
係員の熱意は全く伝わってこなかったが、リツコの理知的な声はミサトを静まらせた。
「アスカやレイには話せないわね」
「ええ、あの子達のことですもの。シンジ君が熊にさらわれたなんて知ったら何をするか見当もつかないわ」
「で、どうするの?」
「とりあえず、シンジ君の両親に連絡をいれましょう。生徒達にはまだ見つからないで通すしかないわ」
リツコは不機嫌そうに言って煙草に火を付けた。重たそうに部屋の入り口にあるスチールドアをしばらく眺めた後、ゆっくりと煙を吐き出す。それから部屋の外の廊下を映し出すモニターをチェックしていた係員が頷くのを確認し、疲れたように腰を下ろした。
「あの子達ちゃんと聞こえていたかしら?」
「大丈夫よ、リツコ。話し終わったら飛ぶように走り去ったじゃない」
先程までの緊迫した仮面を脱ぎ捨てたミサトは大欠伸をした。
「迫真の演技とまではいかなかったけどまずまずのできだったわよ、ミサト」
「そう?」
白銀のゲレンデは目を疲労させる。乱反射して増幅された光を一日中浴びたミサトは目頭を押さえるともう一度欠伸をした。
「飲む?」
煙草を灰皿に押しつけたリツコは傍らにあるコーヒーメイカーを叩いてみせた。この日はモカである。リツコは何種類ものコーヒー豆を林間学校に持ち込んでいた。
「そうね、もらうわ。これからおもしろいことが始まるのに眠ってなんていられないわ」
ミサトはイタズラっぽく笑うと差し出されたカップを受け取った。先程ドアに聞き耳を立てていたのはアスカ、レイ、ヨウコの三人。少し離れたところにはカスミ、ヒカリ、トウジ、カオルが確認されていた。
「それにしてもよく熊型歩行輸送機なんて作ったわね」
「しょうがないでしょ、仕事なんだから」
表向きつまらなそうに言ったリツコに、ミサトは含み笑いを堪えながらコーヒーを流し込んだ。いくら足跡を残さないためとはいえ、熊の足の形をした歩行型輸送機器を開発するのは仕事だけではできない。リツコは影では明らかに楽しんでいる。
ミサトは眠気を追い払うようにコーヒーを飲み干すと、口元を奇妙な形に歪ませた。アスカとレイなら今晩中に動き出すだろうし、アスカとレイが動くとなればカスミも追随するであろう。他人の恋の修羅場ほど楽しいものはないと考えるミサトにとって、今夜は眠れない夜になりそうだった。
「遅かったな、キール議長」
「何、レイちゃんに会うためにはそれなりのお洒落をしないとな」
ゲンドウはいつも通りのキールの服装を見て鼻で笑った。よく観察するとサンバイザーがいつもの物とは違う。
お洒落の概念も人それぞれだな、だがコイツのとびきり趣味が悪い。ゲンドウは自分のセンスを棚に上げてキールを一瞥した。髭面に色眼鏡をしたゲンドウの趣味が優れていると思う人間はかなりの少数派だったが、自分だけ棚の上に上がるのは彼の得意技の一つだった。
キールは猫のように背を丸めながらペンギンのように歩いて、ゲンドウの向かい側の椅子を引いた。薄暗い部屋の片側にはモニターが所狭しと並べられ、部屋には円卓が一つ。椅子が六つ。
ゲンドウはモニターを右真横に見る一番奥の席に陣取っている。キールは椅子に腰掛けるとサンバイザーの角度を微調整した。
「さて、状況を聞こうか」
「碇シンジは我々の手で原生林の奥に運んである。妨害電波を流しておるから電子機器での発見は難しいはずだ。惣流アスカと綾波レイには熊にさらわれたという情報を流してある。彼女達は救出に向かう準備を始めている模様だ。なお渚カオルは独力でおおよそのことを掴んでいるものと推測される。優秀な諜報員を持っていて結構なことだな」
「第三者の介入は?」
「暁カスミ一派のことか?おそらく動き出すだろう」
「ネルフの犬が彼女に肩入れしていると聞く」
「相田ケンスケのことだな。それほど目くじらを立てる程のことではないと思うが」
ゲンドウは両肘をテーブルにつくいつもの格好で押し殺すような声を出した。口の前を遮っているにも関わらず重く響きわたる声。同じく重低音のキールの声との会話はコントラバスを連想させた。
「しかし碇。なぜこのようなことをするのだ?スキー場はそちらのテリトリーのはず。わざわざ不確定要素を作り出す真意が読めぬ」
「簡単なことだ。筋書きの分かっている話はつまらん。最後はアドベンチャーで締める
のも定石通りと言うわけだ」
ゲンドウは鼻息と口元だけでニッと笑った。獰猛な爬虫類を思わせるような笑み。キールは不快感を押さえるのに苦労した。
「さて、ではじっくりと見物するとしようか」
「直にユイも来るが構わないだろうな?」
「異論はない。好きにしたまえ」
キールは短く言うと、モニターと相対するように椅子の角度をなおしてゲンドウから目を背けた。モニターの一つにはシンジの捜索準備を進める愛娘が映し出されている。
「レイちゃん、頑張るんだよ。パパは応援しているからね」
ゲンドウは吐き気を催した。
「ほら、相田!しっかりと働きなさいよ!こんな時しかアンタの出番はないんだからね!!」
アスカはミサトとリツコの密談を聞き終わると、ホテルで寝ていたケンスケを電話で叩き起こし、必要な装備を揃えさせた。腹痛も治まったケンスケは四人分の防寒道具と捜索器具を持ってスキー場に残っていたアスカ達と合流した。
「なんでカスミとヨウコの分も持ってきたのよ?!」
アスカは目の前にある四つの特殊防寒具を見ながら怒っていた。ケンスケがジュラルミン製のスーツケースに詰め込んできた装備は四人分。しかもトウジとヒカリの分ではなく、カスミとヨウコ向けに用意された物だった。
「まあいいじゃないか、大人数の方が心強いだろ?」
「そうよ、アスカだけじゃ心もとないわ」
「わ、私が我が儘言ったものだから・・・・、ごめんね相田君」
珍しくヨウコはケンスケの味方をし、カスミはケンスケとアスカ二人に頭を下げた。ケンスケはそれだけで幸福感で一杯になったが、更なるケンスケの幸福を邪魔する者は多かった。
「でも熊がいるんでしょ、私たちだけ大丈夫かな?」
「なら、来なくてもいいわよ」
アスカの声は静かなものだったが、緊迫した緊張を産んだ。アスカはカスミと視線を併せようともせずに黙々とスキーウェアを脱ぎ、装備を調えている。
中に着込んだトレーナーの上から実は装甲繊維を利用した白黒調の特殊防寒具を羽織り、ブーツも軍用の物に履き替える。手袋をはめ、暗視ゴーグルをつけ、通信レシーバーをつけた帽子をかぶる。アスカは物理的な装備を完了させるとともに、心理的な装備も完了させたようだった。
「行きます」
カスミも着替えを始める。アスカに比べて動作のスピードは遅いが、気後れした様子はない。普段が物静かだけに決意の色は鮮やかだった。ケンスケはいつかは眼鏡の奥で嫉妬の炎をたぎらせた。
「熊が出るんでしょ?その点は大丈夫なの?」
「ああ、三笠。心配ない。まかせておいてくれ」
少し心配そうなヨウコを尻目にケンスケは大仰に胸を叩いた。芝居がかってる上に誇張された動作はアスカには眉をひそめられ、カスミには気づいてもらえず、ヨウコには黙殺された。所詮ケンスケは脇役だった。
小一時間前、アスカの電話で布団から引きずり出されたケンスケは、ベットの下から大きなスーツケースを三つ取り出すと考え込んだ。
通常狩りにはボルトアクションのライフルを用いる。命中率の高い銃器で遠くからズドンッ、それが最も安全だ。
”狩りに際して人間が銃器を持つことは不公平ではない。人間は銃器を持って初めて獣と渡り合える可能性を手にするのだ”
高名なスポーツハンティングの名手は過去に語った。道徳的な観念は置いておくとして、言っていることは間違ってはいない。獣と人間とはそれほどまでに基本的な戦闘力に開きがある。中型の犬にさえ、肉体のみで勝てる人間は少数派だ。
ケンスケはネルフから支給された銃器類を眺めながらどれが最も効果的か思案していた。ライフルに関してはケンスケは扱えない。猟銃に近いボルトアクションは勿論のこと、MA16、AK47といったアサルトライフルも実際に扱ったことがない。
反動が大きく重いこれらの銃器は、中学生のケンスケには向いていなかった。使えない物は単なる重荷にしかならない。ケンスケは無意識の内にハンドガンを弄んでいた。
当然のごとく取り出したのはチェコの名銃、CZ75ショートレール。セカンドタイプは材質をけちったので耐久性に大いなる問題が出たが、ファーストタイプのショートレールは未だにプロの間で最高級の評価を受けている。
鍛えに鍛えられた鋼鉄の銃身は蒼く輝き、無駄な肉を極限まで削り落としたボディーは研ぎ澄まされた刃物を連想させる。銃器はいかに効率的に人を殺すかということで作られたものだが、ここまでいけば芸術品だ。
迷った挙げ句ケンスケはH&KMP5を手に取った。世界中の特殊部隊で愛用されているサブマシンガン。ライフルの命中率に期待できず、夜だから視界も悪く、雪山だから足場も悪い。ならば下手な鉄砲数打ちゃ当たるの論理で弾丸をばらまくのが最も効果的であるように思えた。
問題は人質にシンジがいるということである。フルオートで9m弾を乱射するSMGだとシンジにも命中してしまう可能性がある。
だがケンスケは迷わずH&KMP5をとった。主人公といえどシンジは”いつかは刺してやる”ランキングの二位、存在を許すことができない恋敵だ。
別にシンジがいなくなったからといって、ケンスケがカスミをGETできるわけではないのだが、日本一嫉妬に燃える中学生はそんなことは考えなかった。
トゥルルルル トゥルルルル トゥルルルル
ケンスケの妖しい妄想を打ち消すかのように電話が鳴った。しかも非常用の携帯。ケンスケはコール三回で受信ボタンを押した。
「はい、こちら相田」
「ごきげんようケンスケ君、元気になって何よりだよ」
声を聞いただけでケンスケの神経には怒りの炎が宿った。自分に降りかかる火の粉を創り出しているのは全てこの男でないかと思えるくらいだ。
「何のようだ?」
ケンスケから切り出したのは積極的に話す意志があるからではない。一刻も早く電話を切りたいがためだ。
「耳寄りな情報を提供しようと思ってね。勿論見返りは要求しないよ。マリワナ海溝より深い善意からだと思ってくれよ」
俺の恨みはマリワナ海溝より確実に深い、ケンスケは心の中でそう毒づいた。自分から善意などというのは、隠された悪意の裏返しだ、顔をしかめつつケンスケは付け加えた。
「それで?」
「熊はいない。シンジ君は生きている。ジャミングがでているから電子機器は使えない。逆に言えばジャミングがでている範囲がシンジ君がいる場所ということになる。以上だよ」
カオルはそれだけ言うと返答を待たずに電話を切った。どうやら余り話したくなかったのはカオルも同じらしい。自分の憎しみで一杯のケンスケは気づかなかったが。
トゥルルルル トゥルルルル トゥルルルル
緊急用の携帯の音が冷めない内に通常の携帯がなった。度重なる電子音にケンスケは胃がむかついてきた。今日は朝から何も口に入れてなかったせいかもしれない。とりあえずそう思うことにした。
「はい、相田ですが」
「ハロー、相田君。元気?」
ケンスケは女性の声を聞いて一瞬狂気し、その後すぐに落胆した。
「なんだ、三笠か・・・・」
「なんだとは失礼ね。可憐な女の子がせっかく電話してあげたっていうのに」
”善意は悪意の裏返し”ケンスケは先程学んだ教訓をすぐに思い出した。ヨウコのゲンドウハ悪意とまではいかなかったが、少なくとも善意ではなく、作為が働いていることだけは間違いない。
「何か用かい?」
なるべく棘がたたないように言った。ヨウコの背中に見えるカスミを思い浮かべて。ケンスケの脳裏に映るカスミはいつも恥ずかしそうに微笑んでいた。
「ちょっとお願いがあるんだけど・・・・」
しばらく話した後、結局ケンスケはヨウコのお願い承知した。わざとと分かっていても女の子の猫なで声の魔力は効果覿面であったし、背後に見え隠れするポニーテイルの少女を思い浮かべた瞬間、ケンスケの思考は停止した。ケンスケはニタニタしながら、ヨウコとカスミの分の雪山装備もジュラルミンケースに詰め込んだ。
(カスミちゃんと雪山ハイキングかぁ。ここでいいところを見せれば・・・・。 きゃ、滑ちゃった。 大丈夫かい?冬の山は気を付けないとダメだよ。 あ、相田君って頼もしいのね。 相田君なんて他人行儀じゃないか。ケンスケって呼んでくれよ。 ケ、ケンスケ君? 呼び捨てでいい。 ケ、ケンスケ・・・・)
哀れな少年の妄想は留まることを知らなかった。そして頭の中の恋がエスカレートすればするほど、現実とのギャップに苦しむことになる。
賢すぎる人間は恋ができない。”過ぎたるは及ばざるがごとし”人間は愚かだから恋に焦がれることができ、恋に焦がれることができるから幸せなのである。
何事にも知性が優先されるタイプは恋に身を捧げることができない。すなわち人生最大の楽しみを知らないということになる。
だが、愚かすぎるのもまた問題であった。電話に頬ずりをしながら妖しい妄想にふけるこの少年のように。
「相田、この手の平サイズのスチール缶は何なの?」
着替えるカスミを半ばうっとりとした表情で眺めていたケンスケは現実に戻された。突きつけられたのはアスカの厳しい視線。ケンスケはまた胃がムカムカしてきたような気がした。
「ああ、それかい。上部レバーにSって書いてある銀色のがスタングレネード。音だけの手榴弾さ。殺傷能力はないけど、轟音で相手を気絶させることができる。ハイジャック鎮圧なんかに使われるやつだよ。Lって書いてあって黄色のが閃光弾。強烈な光で相手の視界を封じる。あ、それからさっき普通の暗視ゴーグルは光を増幅して取り込むから閃光弾との併用はできないんだけど、さっき渡したやつは特殊なゴーグルだから安心して使ってくれ。最後に赤いのは麻酔弾。即効性でこの煙を吸い込んだら熊でも象でもイチコロさ。あ、それからこの錠剤を飲んでくれ。麻酔ガスの効果を中和してくれる。こっちまで眠ったら大変だからな」
ケンスケは得意げに説明した。カスミとヨウコが途中から引いているのにも気づかず。人は誰しも、男はとりわけ、自分の得意分野に入ると語りたがる。回りの目も意識せず。
ケンスケの長ったらしい説明を聞きながら、カスミはなんだかすごく詳しいけど私とは遠い存在の人だなと思い、ヨウコはやっぱりオタクすぎる男だとあきれ果てた。
「じゃ、行くわよ」
一人だけ真剣に説明に耳を傾けていたアスカは最後に非常用食料などが入ったバックパックを背負うと歩き出した。同じ装備のカスミとヨウコがそれに続き、一人だけ大きめのバックパックを背負ったケンスケが殿を務める。
カスミとヨウコも同行することになったので、ケンスケは目立つ銃器類を持っていくことは諦めた。カオルの怪情報によれば熊もいないという。どうせ、碇ゲンドウかキール・ローレンツの陰謀が炸裂した狂言遭難に違いない。
ケンスケはあまり目立たないような装備に変更した。アスカ達には素人でも使える殺傷能力の少ない特殊手榴弾を渡し、自分の銃装備も見た目には分からないようにした。
一目見ただけで武器と分かるのは大型のサバイバルナイフくらいのもので、CZ75はショルダーホルスター、ワルサーPPKSはヒップホルスターで上着で隠した。バックバックの横にはサブマシンガンが仕込んであり、紐を引っ張ると横から飛び出してくるようにしてある。
多分使わないであろうと思いながら、結局はミリタリーマニア的な行動をとってしまうケンスケだった。
その頃、綾波レイも動き出していた。こちらも捜索隊もレイ、カオル、ヒカリ、トウジで四人。ヒカリはカオルに誘われると催眠術にかかったように頷き、トウジはすることがないので渋々したがった。
「私が先頭、あなたとあなたはついてらっしゃい。殿はカオル、いいわね」
レイはてきぱきと装備を整えながら平板な口調で命令した。
「それとあなたはこれを持ちなさい」
レイが片手で投げてよこした物体は10kgはあろうかという筒状の鋼鉄で、引き金とレバーがついたそれは明らかに兵器と呼べるものだった。
「な、なんなんやこれ?」
「ML5よ。NATOが開発した携帯用ロケットランチャー。アメリカ製のスティンガーミサイルや旧ソ連製のカールグスタフに比べれば格段に軽いでしょ?」
「し、知らんわ!」
「なら、今学習しなさい。まぁ、あなたに撃てとは言わないわ。私が合図したら持ってきてきてくれればいいから」
ケンスケはカスミとヨウコのことを考えて銃器類を隠したが、レイの辞書に他人への配慮という言葉はなかった。いつのまにか姿を消したカオルは大きなスーツケースを五つ抱えて戻り、レイは無造作に開けると慣れた手つきで銃器類を取り出した。
「あ、綾波さん。そ、そんな危険な物を持ち歩いちゃいけないわ」
「どうして?」
「ど、どうしてって・・・・、法律でも禁止されているでしょ。それにどこからそんなもの持ってきたの?危ないから返さなくちゃ・・・・」
「熊がいるのよ。これくらいの装備は必要だわ。あ、そうそうアスカが邪魔してきたら撃っても構わないわ」
レイはそういうとベレッタM92Fをヒカリに押しつけた。
「弾室にはすでに一発装填されてるわ。銃底を引くと空になったのが排出されるから。あと左横にある安全装置をかけるの忘れないでね」
無造作に放り投げられた拳ヒカリはお手玉でもするかのように踊らせていた。ベレッタM92Fは手の中を行ったり来たりして、虚ろな視線はその何倍かの速度で往復を繰り返している。
「弾丸はペイント弾だから。殺傷能力も反動も少ないわ。あなたでも扱えるはずよ」
「ほ、本当?!」
「嘘よ」
レイは緋色の瞳だけでニヤリとした。目元以外は微動だにしない。眼球だけを動かしてロケットランチャーを重そうに抱えるトウジと、震えながらベレッタを両手持っているヒカリを交互に見る。
女性の視線は催眠術。レイに射抜かれたトウジとヒカリは身動き一つ取れなくなった。手足が硬直し、思考までもが固まり出す。硬化ベークラフトは脳の中まで侵入してきたようだ。
「さあ、出発するわよ。まずは山裾の沢を伝って崖の下に出てから、シンちゃんの足取りを追うわ」
レイは突入寸前の特殊部隊のように引き締まっていた。顔のある一点を除いて。固く結ばれた口は揺るぎない決意を、彫刻のように張りつめた頬は緊張感を、そして不気味に光る緋色の瞳は妖しい策謀を醸し出している。
一人だけ離れたカオルだけが冷ややかな目をしていた。どんなにくだらない話であっても終わらせないよりまし、表情でそう語っている。
常日頃から未完のまま放置されているネット小説に眉をひそめているカオルは、ここまで妖しくなる前に話を完結させることができなかった作者に軽い軽蔑を感じつつも、終焉の足音に胸をなで下ろしていた。
「ここは何処なんだろう?」
シンジはもう一度声を出してみた。答えが返ってくるはずがないのは分かりつつ。か細い声は夜の闇に消え入るように溶けていく。この世に自分一人しか存在していないと言っているような闇、淡雪のように消え失せた声は心を沈痛にした。
意識は戻っている。
孤独な風が雪を纏った木々を揺らす。山肌をすり抜けた風は、針葉樹の尖った葉にせき止められていた雪を一気に落とす。ドサッとした音と大地から伝わる振動は、深海に沈んでいたシンジの意識を呼び起こした。
頭には霧がかかっている。視界も思考も白い霧で覆い尽くされたシンジは、顔を凍り付かせながら呆然としていた。目は覚めたものの下半身と右腕が動かない。腰から下は麻酔をかけられたようで感覚すらない。立ち上がることもできないシンジは、太い木の幹に身を委ね座り込んでいた。
夜に慣れてきたシンジの目に映るものは、蛍火のように朧気な雪明かりだけだ。立ち並ぶ木々は黒い影のようではっきりとは見えない。シンジの回りには踏み荒らされた雪が散らばっているが、自分がどうしてここにいるのか、ここがどこなのかは皆目見当がつかなかった。
意識が戻った頃には大声をあげて助けを求めたものだが、すでに喉はガラガラ、精神的にも疲れ果てた。
右手につけていた簡易SOS発信器は転げ落ちた拍子に落としてしまったのか見つからない。あろうことか左手のG−ショックは壊れている。かなりの衝撃に耐えるはずのG−ショックのカバーは破損し、中の液晶はひび割れて使い物にならなくなっていた。
「このまま死んでしまうんだろうか?」
そう口にした瞬間シンジは猛烈な吐き気に襲われた。胃壁に硫酸がかけられているようだ。身近に迫っている死がもたらしたものなのか、それとも生への執着心が死に抵抗する心が痛みという形になったのであろうか。
昼前にたべたカレーライスは全て消化されて胃液しか出てこなかった。シンジの口の中は匂いのきつい苦みで一杯になり、意識がはっきりとした。
「あ、そうだ。確か・・・・」
シンジはかろうじて動く左手で腰のポケットを探った。記憶が正しければ今朝カロリーメイトを入れて置いたはずだ。指先には硬質なビニールの棘が刺さった。
「あ、あった」
わずか三袋ではあるが食料は見つかった。謳い文句が正しければ一袋で半日、三袋だから一日半のカロリーが確保されたことになる。水分は雪を口の中で溶かせば事足りた。凍死しないという大前提が存在するが。
シンジはかじかむ手に息を吹きかけながらスキーウケアのチャックを精一杯上まで押し上げた。寒さは感じていなかったが、身体の半分は麻痺して感覚がないので信用できない。自分の着ているスキーウェアがリツコの特製で、250度の高温とマイナス50度の寒さから所持者を守ることなどは知らなかった。
「どうしてこうなちゃったんだろう?・・・・・」
未来のことを考えると悲観的なことばかり思い浮かぶので、シンジは自然と過去のことに思いを馳せていた。
一番最近の過去で思い出せるのは崖から転落していくときの感覚。体中の細胞から力が抜けて背筋を寒気と恐怖が滑り降りていく。シンジはブルリと震えると恐怖を振り払うかのように時間を一気に遡った。
(そういえば、アスカと初めて会ったのはいつだったっけ?・・・・・、そうだ5歳の時だ。ほとんど覚えてないけど蒼い瞳が目の前を踊って「誰よ、アンタ?!」って言ったのだけは覚えてる)
シンジはぼんやりと闇夜を眺めながら回想のアルバムをめくっていた。幼稚園から小学校一年、二年とページは進む。年数が進むに連れ記憶も鮮明になる。
(小学校三年の時だっけ?初めてアスカの泣き顔を見たのは・・・・)
アスカは泣かない子供だった。少なくともシンジと一緒にいるときは泣いたことがほとんどない。男のくせにおままごとに夢中だったシンジがガキ大将にいじめられて泣かされた時も、シンジをかばいだてしたことでクラスの男子からいじめられた時も。
(あの時は通学路に大きな犬が居るから見に行こうってことになったんだよな)
第三新東京市立第一小学校とシンジの家があるマンションの間には、大きな庭を持つ一軒家があった。庭にテラスと藤棚まであるこの家には巨大な犬がつながれていて、シンジのクラスにはそれが人食い犬であるという噂が流れていた。
「シンジ!アタシ達で退治に行くわよ!」
「ど、どうして?」
「何言っているのよ!アタシ達がやらなければ誰が地球の平和を守るのよ?!」
今ではなく、当時のシンジにさえ強引すぎると思う理由だった。それでもシンジはアスカに逆らうことはできないように体にインプットされている。シンジはおっかなびっくりしながら後ろをこそこそと付いていった。
犬はかなり年をとったセントバーナードだった。小学生のアスカとシンジを足しても重さでは適わない。塀を乗り越え忍び込んだシンジとアスカを退屈そうに見た老犬は、大きな欠伸をかくと昼寝を決め込んだ。
「アタシに恐れをなしたのね!降参するなら許してやってもいいわ」
アスカは眠りこけた老セントバーナードに近寄ると高らかに笑った。
「ア、アスカ。もう帰ろうよ・・・・」
「いくじなしね!まだコイツは降参してないわ」
アスカは棒きれを拾うと犬を突っつき始めた。初めはやや腰が引けていたアスカだが、相手が意に介さないのを見て取ると焦れたように背中を叩き始めた。
それまでアスカを無視していた老犬はゆっくりと目を開けた。背後に回り込んでいたアスカには分からなかったが、数メートル離れてアスカの活躍を見ていたシンジには分かった。
「危ない!」
シンジは訳も分からず飛び出すとアスカを突き飛ばして犬に立ちはだかった。
バウバウッ
老セントバーナードは急に立ち上がって吼えると尻餅をついたアスカと、勢い余って膝をすりむいたシンジを交互に見て再び眠りについた。
(あの時だって別にかばう必要はなかったんだよな。犬は吠えただけだったし、今考えるとおとなしい犬だったもんな)
それでも幼いアスカにはシンジが自分のせいで怪我をしたと思ったらしい。シンジの擦り傷の出血が激しかったせいかもしれない。帰り際のアスカはお気に入りのハンカチをシンジの膝に結びつけ、ずっと泣きじゃくっていた。
(次に泣いたのを見たのはアスカのお父さんとお母さんは離婚した時。あれが二度目で最後か・・・・)
アスカの泣き顔を思い出して苦い薬を飲んだような気分になったシンジは軽く頭を振った。勿論頭を振ったくらいでは悪い記憶はかき消されない。シンジは無意識の内に泣き顔を打ち消すものを探していた。
脳内ヴィジョンに忽然と映し出されたのはアスカの笑顔だった。しかも詳しい情景まで目に浮かぶ。最近のことだ。そう、最近の。
一際鮮明なアスカは笑った後、目をつぶった。シンジの視覚による記憶もそこで中断される。しばらくしたあと目が覚えていたのは少し顔を赤らめたアスカと、燃えるような夕陽に染まった町並みだった。
視覚の記憶が途切れた間を埋めたのは触覚であった。それも体の一点だけ。唇だけに残された記憶。
(あの時は確かにアスカが好きだった。今はどうだろう?確かにアスカのことは好きだ。でも暁さんにも、綾波にも同じ様な感覚があるような気がする)
「シンジ君はアスカのことが気になってる、でもそれが好きという感情かどうか分からない、そうじゃないのか?だったらその女の子とデートしてみるのも1つの手だ。アスカと違う女性に接することで、アスカに対する思いがはっきりすることもある。何も難しく考えることはない。恋というのは頭の中でやるもんじゃない。実際に行動してみて、肌で感じ取るのが恋というものだよ」
加持の言葉が鮮明に飛び込んできた。しかも言葉が文字化されて、しかもズームアップされて迫ってくる。3Dになった加持の言葉は脳を飛び出してシンジの回りを埋め尽くした。
「うっ・・・・・」
吐き気が来た。先程とは違う。自分で自分の腹にナイフを突き立てたような痛み。穴の開いた腹部から漏れだしてきたものには傲慢という名がついていた。危機的な状況に追い込まれていたことがシンジの不安を加速させた。
(僕はいい気になっていた。アスカに綾波、暁さん。かわいい子がいきなり周りに来たものだから舞い上がってた。いや、舞い上がっていただけじゃない。迷惑そうなふりをして内心弄んでいたんだ。テレビドラマで繰り返されている恋愛ゲームを演じているつもりで。無意識に僕を取り合っているアスカ達を見下して、自分を中心に世界が回っているように感じて、他人の気持ちを無視して)
「僕、って、最低、だ」
シンジは声に出していった。自分に言い聞かせるようにはっきりと区切りながら。虚空に響いた声は自分が偽善者であることを知らしめているようであった。シンジは顔を伏せた。朧気な雪明かりでさえ、今のシンジには明るすぎた。
シンジの捜索は行き詰まっていた。アスカもレイもシンジをすぐには見つけだすことはできなかった。特殊な妨害電波が出ていて電子機器は鉄塊と化していたし、足取りも掴めない。
シンジを連れ去ったと思われる熊の足音は山を縫うように流れる沢で終わっていた。ここから上流に行くか、下流に行くかが勝負の分かれ目である。偶然にもアスカは上流を選び、レイは下流を選んだ。
二人の判断は別れたが、選択の基準だけは一致していた。それぞれヨウコとヒカリに、どうしてと問われた二人は口を合わせたように答えている。
「女の勘よ」
アスカとレイが全く根拠のないことで意見があった時、ゲンドウとキールの観覧席にはもう一人の客が到着していた。
バンッ!
扉は乱暴に開いた。ユイが到着したことは少し前に連絡を受けていたが、扉が壊れるくらいの大きな音にゲンドウとキールはいぶかしげな視線を向けた。
「遅かったな、ユイ。それにしても・・・・・」
組んだ指に乗せた顎の角度を修正して妻の方を向いたゲンドウは、予定していたセリフを最後まで言うことができなかった。挨拶もなしに上がり込んできたユイは大股で夫に近づくと服の胸元を鷲掴みにした。
「どういうことなの?ア・ナ・タ」
ゲンドウは身の危険を感じた。かなりご立腹のようだ。直径40cmの中華鍋で頭を百叩きされてもおかしくない。ユイの目は連載以来最高潮のつり上がりを見せていた。
「誤解だ!ユイ!!」
とりあえず、そう言った。何も言わないよりはましだと思ったのだが、冴えないセリフには違いない。怒りの奔流を押しとどめる効果は限りなく零に近いというより、きっかり零だった。
「自分の息子をこの寒空の下に放り出しておいてその言いぐさはなんですか?一体何を考えているんです!」
「最終話だから盛り上げなくてはいけないと思ったのだ。このままではフェイドアウトで終わってしまうではないか。緊迫感もないし・・・・」
ゲンドウの声はどんどん小さくなっていった。妻よりも20cmは高い長身を椅子に縮めて弁解に励んでいる。キールは冷ややかに夫婦喧嘩を眺めていた。碇ゲンドウが窮地に追い込まれオロオロしている。キールにとってそれは最高のエンターテイメントだった。
「キール議長、一人だけ我関せずというわけにはいきませんよ。あなたもお嬢さんを雪山に放置しているんです。胸を張れたものではないですよ」
早々とゲンドウを撃沈したユイは矛先をキールに向けた。邪心を射抜くような瞳に圧倒されたのはゲンドウだけではなかった。
「ワ、ワシは何も関与していない。全ては碇が計画したものだ」
「でも楽しんでいるのは確かでしょう?私に詭弁は通用しません」
ざまあみろ、ゲンドウは自分同様うろたえるキールを見てそう思った。だが、ユイは夫の行動にも気を配っていた。すぐさま射抜くような視線にさらされたゲンドウは首をすくめた。
「何がおかしいんです。あなた?」
「い、いや、べ、別に・・・・・」
その名を知るものの大半に畏怖されている、碇ゲンドウとキール・ローレンツが小さくなっている姿は奇跡と言い換えても構わない光景だった。世界を動かす二人の男を屈服させた地上最強の人間、碇ユイは溜息をつくとモニターに映っている息子を見やった。
「すぐに助けなさい。あなた」
「し、しかし、アスカちゃんとキールの娘の捜索隊はすでに出発しているのだ。それに少しずつであるがシンジに近づいている。今、いいところなのだ。シンジの健康状態は特殊なスキーウェアを通して報告されている。体温、脈拍ともに正常だし、まど当分持つと思うのだが・・・・・」
「そういう問題ではないでしょう?」
「それでは話が終わらないのだよ、碇夫人。この話で決着をつけると予告した以上、何とかしなければならない。ルビコン河は渡ってしまったのだよ」
ゲンドウとキールは危険を分担し合うように代わる代わる話した。確かにここで救助隊を出してしまっては、エンディングを迎えることはできない。ユイは深い溜息をついた。
「シンジやアスカちゃんが危なくなったらすぐに中止するんですよ」
「そ、それは勿論だ」
「暁さんと三笠さん、その他の人に危険が及んでも同様の処置をして下さいよ」
「分かっておる」
ユイはもう一度画面に映し出された息子を見た。モニターの中のシンジはうつむき加減で表情は暗い。
(なさけない顔ね。シンジを鍛えるためには少しくらい辛い目に遭わせる必要があるのかしら?)
ユイはやや強引に自分を納得させた。強引に納得させなければ話は進まないように思えた。「Project E」はそこまでしなければ終焉を迎えられないほど行き詰まっていた。あきらめにも似たユイの溜息はそのことを如実に表していた。
「アンタはどうしてシンジのことが好きなのよ?」
アスカは立ちふさがる木々の枝を振り払いながら、少しだけ後ろを向いた。最も体力的に貧弱で、少し山道を歩けば根を上げると思っていたカスミは弱音一つ吐かずに黙々とついてきていた。
「惣流さんこそどうしてシンジ君のことが好きなの?」
カスミのすぐ後ろを歩いていた親友にヨウコはやや小首を傾げた。少し前のカスミならここで言い返したりはしない。顔をうつむかせてお茶を濁すだけだ。
「アタシとシンジは一心同体なの。小さいときからずっと一緒。アタシは誰よりもシンジのことを理解してるし、シンジはアタシのことを一番分かってくれる。勿論それだけじゃないわ。シンジがいると一番心が落ち着く。アタシが一番アタシでいられるところがシンジの側なの。それから惣流さんは止めてくれる?アスカでいいわ」
「私もカスミでいいわよ、アスカ」
「じゃあ、カスミ。改めて聞くわ。どうしてシンジのことをそんなに想うの?お世辞じゃないけどカスミはかなりかわいいわ。別にシンジじゃなくてもいいと思うけど。それに余計なお世話だと思うけど、カスミは一度振られてるんでしょ?ここまでシンジに入れ込む理由が分からないわ」
アスカは初めて足を止めた。歩き始めて二時間余り、少し開けた平らな場所、休憩を入れるシチュレーションは整っていた。
カスミは自分の気持ちを噛みしめるように雪を踏みしめた。アスカが腰を下ろした場所までは五歩の距離。僅かであったが気持ちを整理する猶予くらいにはなった。
「はっきり言って自分でもよくわからない。どうしてシンジ君のことが忘れられないのか。さっきアスカはシンジ君といると自分が自分でいられるって言っていたわよね。私も少し似ているかもしれない。今までの私はいつも一歩引いてきた所があると思う。それで丸く収まることが多かったから。でも本当は違うの。私だって言いたいことはあるし、引いてるだけじゃ駄目だなって思うの。シンジ君といると私は一歩前に出ることができるの。シンジ君は意識していないかもしれないけど、やさしく私の背中を押してくれるの」
アスカとカスミは無言で暗視ゴーグルをはずしていた。サファイヤと黒真珠が二つずつ闇夜に踊る。ほんのりとした雪明かりを極限まで集めた四つの宝石は、夜とは信じられないくらいに輝いていた。
(くそっ!くそっ!!くそっ!!!何で俺はラブコメできないんだよ!!!!)
脇役らしく一番後ろを歩いていたケンスケは怒りと嫉妬が入り交じった炎を燃やしていた。当初の予定ではケンスケもラブコメするはずであったのに、どうして疎外者になってしまったのだろうか。大家さんの告白(?)によって地下活動が発覚したケンスケ哀乞会の請願も作者には届かなかった。
「じゃあシンジと会ったらもう一度告白するつもりなの?」
アスカはバックパックから携帯食を取り出した。アスカが携帯食の一部を手渡すためにカスミのそばに行く。カスミは受け取ると同時に深々と頷いた。瞳の輝きが少し翳ったのは、シンジに振られた時のことを思い出したからだ。
「そう」
アスカは何も言わなくなった。静かに携帯食を食べ終わると地図とコンパスを取り出して現在位置を確認する。寡黙に作業を続けるアスカとうつむき加減に携帯食を食べるカスミはどこか似ていた。
「がんばりなよ」
ヨウコが肩を叩き、カスミは小さく頷く。ケンスケは自分だけ仲間外れになっているような気がした。
疎外感が黒い妬みを産み、嫉妬が妖しい行動の引き金になる。影でコソコソ、意地汚く、蠢いているケンスケは、当然のごとくラブコメからはずされ更なる疎外感を産み出す。
汚れ役の永久循環にはまったケンスケを救う術は残されていない。彼に残された道は脇役としてラブコメを我慢して生きるか、犯罪者としてラブコメを破壊する側に回るかのどちらかだった。
ケンスケを苦しめてきた話も、もうじき終わる。一時ではあるが脇役からも犯罪者からも解放される。しかし次回作でケンスケが救われる保証はどこにもなかった。ケンスケがラブコメしているエヴァ小説の少なさがそれを証明していた。
「カスミも頑張るわね」
至る所に仕掛けられた隠しカメラと集音マイクで話を聞いていたミサトはニンマリとしていた。電子機器は使用不能となっていたが、ネルフ以外の物という例外がつく。シンジを中心とする半径5kmで発生したことはすべてモニターされていた。
ゲンドウ、キール、ユイは奥の部屋で戦況を見守り、ミサト、リツコ、マヤは別室でモニターとにらめっこしている。本来ならマヤは登場するべきではなかったが、朝の職員会議以来リツコにひっついて離れない。
「先輩好きです!」
マヤの唇はそう動いていた。だが、声は発せられない。余りにもうるさいのでリツコがマヤに特殊な薬を打ち込み、一時的に喋れなくしてしまったのだ。
どうせなら動けなくしてしまえば手間はかからないのだが、”マヤをもっと登場させて欲しい”というリクエストが来ていることを知っていたリツコは物言わぬマヤを引き連れていた。
「そんなことをしたら余計マヤファンから抗議メールが来るんじゃない?」
ミサトは苦笑した。
「どうせ、私のところまでは届かないわ。作者のメールサーバーに溢れるだけよ」
リツコは抱きついてきたマヤを蹴飛ばすとコーヒーをすすった。
「ねぇ、リツコ。シンジ君まであとどのくらい?」
「直線距離でアスカ隊がシンジ君まであと735m、レイ隊が1513mよ。しかしアスカの方は高低差15mの崖があるわ」
「じゃあ、まだ結構かかるわね」
ミサトは十数本目のビールの栓を抜いた。種類は様々、いつも愛飲しているエビチュだけではない。食料を持ち込んだのはリツコなので、そっちの趣味が反映されていた。
「ミサト、はしたないわよ。瓶に直接口をつけるのはいい加減止めなさい」
リツコはコーヒーの湯気に顎をくぐらせながら眉をひそめたが、ミサトは気にする様子もない。チェコ産のピルズナー・アークウェルはほんの数秒で空になった。
「もう飲んじゃったの?呆れた」
「ビールをチビチビ飲む人間なんて信用に値しないわ」
「味わいもせずに一気に飲んでしまう人間もしかりよ」
「それって私のこと?」
「それ以外に聞こえたら私の言い方が悪かったんでしょうね」
ミサトは抗議するように今度はアンカースティーム・ビールの栓を抜き、もはや無駄だと悟ったリツコは無視を決め込んだ。リツコが用意したのは海外産の瓶ビールばかり。ミサトはエビチュがない、と怒りながも多様なビールを堪能していた。
ラベルと名前だけが多様で、味は画一的な日本のビールとは違う。日本のビールはほとんどがピルズナー系でのどごしとキレを重視している。最近では個性的な地ビールも出てきたが、いかんせん量が少ない。
ただし桁が一つ多いリットル単位で消費していたミサトには、既に味の区別はつかなかったかもしれない。リツコは冷ややかな視線で親友を見るとなるべく関わらないこにして、モニターに目を向けた。
「不味いわね」
「え、何が?コーヒー入れるの失敗したの?」
「違うわ」
「じゃ、何よ」
リツコは右手にコーヒーカップを持ちながら、左手でコンソールをいじっていた。ちなみに右目はチラリとミサトを見て後モニターに、左目はコンソールパネルに向けられていて、右足はじゃれつくマヤを蹴っ飛ばしていた。
「アスカが崖に向かって直進してるわ。しかもあの箇所は滑りやすいから気を付けないと転落してしまうわ」
「でも下は雪でしょ?大丈夫なんじゃない?」
「それでも林の中を転がり落ちていくのよ。当たり所が悪ければ・・・・」
「悪ければ?」
「即死ね」
割り切った発言にミサトはゲップで返し、顔をしかめたリツコは気を紛らわせるために足元のマヤを踏んづけた。リツコのピンヒールに肩口を踏まれたマヤは、快感と苦痛に悲鳴をあげたが声帯は震えず音にはならない。
「それはチョッチどころじゃなく不味いわよ。アスカが死んだら今度こそ大家さんに追い出されるわ。作者は記念短編で芝居とはいえ、アスカをレイプした挙げ句殺した前科者なんだから」
「イデオン型ジェノサイド落ちへの伏線かもしれないわね。そうなると前話で言及していたZガンダム型クルクルパー落ちとエヴァ本編型セミナー落ちもやる気なのかしら。紙面が足りないわね」
無責任な一応教師三人(マヤも含む)が、表面上は危機感を募らせながらモニターを凝視している間にもアスカは崖に近づいていた。
アスカも知らないわけではない。地形は3Dマップ地図で頭に叩き込んでいた。それでも問題の箇所は足元が藪、前は林で視界が悪い。アスカは着実に滑落へのカウントダウンに突入していた。
「惣流、もう少ししたら崖だから足元気を付けろよ」
ケンスケの声は機械的だった。マシンボイスが本格的に実用化されたら実際に聞けそうなくらいだ。
自分のラブコメがもうないことを自覚しているケンスケは、全てがどうでもよくなっていた。もし世界を破滅させるためのスイッチが目の前にあったら、迷わず押したことだろう。
「アンタに言われなくても分かってるわよ」
シンジが見つからない苛立ちにさいなまれていたアスカは、不機嫌そうに後ろを向いた。アスカが崖の縁にたどり着いたのはそんな時だった。
ズルッ
アスカの足は急に宙に浮いた。右足は地面を捕らえることなく、滑り止めの歯は夜風にたなびく藪の枝を引っかけただけ。代わりに背中が一瞬だけ地面激突し雪を舞わせた。
「きゃあっ!」
悲鳴は雪とともに宙を舞った。崖の一番恥で一度跳ねた悲鳴も体と一緒に転がり落ちていく。崖の角度は正確には78度、見た目にはほぼ直角。アスカの視界には雪と木々と闇夜が代わる代わる映しだされて最後には黒一色になった。
「「アスカ!」」
カスミとヨウコが同時に叫んだ声だけがした。暗転する視界と耳がじんじんするだけの音。アスカの感覚器官は一瞬、視覚の半分と聴覚しか働かなかった。
ドスンッ
固形物の感触が肩に来た。防寒服を通して鋭角的な痛みがアスカを刺激する。瞬き3分の一回分の空白の後、首筋に冷たい粉が侵入してきて最後には背骨がへし折れたかと思った。
崖から転落したアスカの体は、下に生えている木の枝に一度触れた後、雪のクションに突っ込み、体は回転しながら巨木の幹に打ち付けられた。
背中から全身に伝わる鈍痛と嘔吐感。アスカはしたたかに打ち付けられて呼吸困難に陥り、うめき声をあげることすらできなかった。体中の細胞が震えだし、寒気が襲いかかってくる。
(まずい!背骨が折れた?!ヒビくらいはいったかしら?!)
アスカは一度骨折をしたことがある。ドイツでスキーをしていた時に勢い余って転倒、手首を軽く折った。その時と同じ寒気、苦しさ、痛み。いや何倍にも増幅されていた。
震える手を伸ばして背中の具合を探ろうと試みる。しかし余りの激痛に身をよじることもできない。汗が大量ににじみ出してきた。
(これじゃ、シンジと同じじゃない!助けに来たアタシまで遭難してどうするの?!しっかりしなさいアスカ!!)
自分自身を叱りつけてみたが体は言うことを聞かない。損傷した細胞はアスカが立ち上がることを拒否していた。
(助けてよ、シンジ・・・・)
心の中で思わずそう呟いた時、アスカは涙をこぼした。雪に埋もれているであろう幼なじみに、身動き一つ取れない自分のなさけなさに。
「アスカ?」
リツコの計測によればアスカから487m53cm離れていたシンジは幼なじみの悲鳴が耳に飛び込んできたような気がした。
「いや、空耳かな?」
人間の脳は神秘に満ちている。アイソレーションハウスという視覚、聴覚が遮断された閉鎖空間に身を置いていれば誰でも幻覚、幻聴を体験できる。隔絶した場所に長時間いると脳は特殊な信号を発して異変を知らせる。夜中、一人で車を運転している時に目撃するUFOなども多くがこの症状に当てはまる。
シンジは脳科学の実状などは知らなかったが、孤独にさらされてきたシンジが空耳だと判断したのは妥当なことであった。
「アスカなら助けに来てくれるかな?」
行動力に溢れ、何事にもポジティブなアスカ。自分でやらなければ気が済まない性格であるし、今までも遠足で迷子になったシンジを探しに来てくれたり、居残りで宿題をしていたシンジをずっと待っていてくれたこともあった。
「で、でも僕は・・・・」
シンジは再び自己嫌悪地獄に陥ろうとしていた。自分は最低の男だからアスカが助けに来てくれるはずがない、助けてもらう価値もない、助かってもしょうがない。
胃がチクチクしてきた。針でつつかれまくっているような感じ。とてつもなく苦い胃液が口の中まで溢れてくる。シンジの肉体は精神のふがいなさに警告を発しているようだった。
「どうせ、動けないんだよ・・・・」
シンジはかろうじて動く左手を雪の中に突っ込むと固く握って不格好な雪玉を作った。手の平の形のがついた細かい雪塊。シンジは握りつぶすと同時に投げ捨てた。
「あっ!」
余りにも勢いよく手を振ったため上半身のバランスが崩れた。下半身と右腕が麻痺した肉体では支えることができない。シンジの体は雪に突っ伏すように倒れた。
雪はサラサラと冷たかった。粒子の細かい雪が鼻の穴に、耳の穴に入り込んでくる。毛穴一つ一つにまで侵入してきたかのように雪はシンジを凍てつかせた。
「あれ?動く・・・・」
シンジは鼻水を垂らしながら左手を地面に突き立て、身を起こそうとした。左半身だけしか動かないシンジは、芋虫が身をくねらせるようにして雪中でもがく。それまで麻痺していた右半身が動いた。
加持が施した麻酔は夜明け頃に解けるようになっている。いつの間にか空は深い群青色に変わり始めていた。夜明けまではまだ時間がある。シンジが動けるようになるまでにはもう少し時間がかかる、はずだった。
シンジの右手は、ほぼ所持者の意志にしたがうようになっていた。まだ下半身はすぐには言うことを聞かない。立ち上がろうとしたシンジは一度は無様に倒れた。
「動けよ!」
口の中に入った雪と一緒に吐き捨てた言葉は、思わず怒声になった。シンジは匍匐前進をするかのように両腕を雪に突き立てると前にはいずり、上半身を反らすと四肢に力を込めた。
「動けって言っているだろ!」
その瞬間、シンジの体に分泌されたアドレナリンは麻酔の量を上回った。足首はジンジン、膝はガクガク、太股はプルプル。足は完全には言うことを聞かなかったが、なんとか大地に体を突き立てることはできた。
息が荒くなる。シンジは首を振ると辺りの様子を見回す。高さが違うだけのような気もするが、立ち上がってみる光景と地面にはいつくばって見る光景は異なっていた。
ザッザッザッザッ
スノーブーツが何時間ぶりかに音を立てる。シンジは考える前に歩き出していた。幼なじみの悲鳴が響いてきた方角に。不思議と迷いはなかった。
「アスカーーーーーー!」
足に感覚が戻り、走ることができるくらいになってからシンジは叫んだ。髪を濡らした雪が解けて雫となり、声に応えるように飛び散る。群青色の空気が震えた。
返答はなかった。張りつめた沈黙に、空耳であったのではないかとう疑惑が脳裏をよぎる。それでも足は止まらなかった。しばらく虚空を睨んだシンジは、深い息を一つ吐くと再び歩き出した。
「シンちゃん?」「シンジ君?」
夜明け前を振るわせたシンジの声は、引き続きシンジの捜索を続けていたレイと崖下に転落したアスカの捜索に入っていたカスミの耳に同時に届いた。カスミ達が崖を降りるため、迂回ルートをたどっている内に両隊の距離の差はほとんどなくなっていた。
レイは冷淡な笑みを浮かべると足を早め、カスミもアスカが落ちた場所と同じ方角から聞こえたシンジの声に胸を躍らせた。
「シンジ?・・・・・」
アスカはようやく蚊の泣く程度の声を出せるようになっていた。大声はまだ無理だ。肺を膨らませただけで背中に激痛がはしる。アスカは大地に口づけをして、痛みに身をよじらせながらシンジの名を呟いた。
「痛っ!」
腰の辺りに手を伸ばしただけでかなり痛かった。肩の筋肉は背中に連結しているから仕方がない。アスカは顔を歪めながら腰につけたスチール缶の色を確かめ、黄色の缶を取り出してレバーを引いた。
投げるだけの気力はなかった。黄色いスチール缶は、五秒余りアスカの体近くの雪中に沈んだ後、閃光を発した。
「「「?!」」」
日の出前、深蒼と漆黒のグラデーションに染められていた景色は、一瞬だけ黄色一色になる。カスミ、ヨウコ、ケンスケ以外は閃光弾であることは分からなかったが、それが何かの合図であることは疑いようがなかった。
特に砂丘で一粒の砂金を探すような気持ちでいたシンジには、またとない道標になった。深い雪に膝まで捕らわれながらシンジは走った。光までは約300m。実際には詳しい距離は分からなかったが、さほど遠くないことだけは理解できた。
シンジは途中で三回転んだ。足にまとわりついてくる雪は邪魔な上に体力を奪う。ただでさえもつれぎみのシンジの足は、酔っぱらいのように不安定だった。
それでもシンジは気にもとめない。顔に付いた粉雪を拭おうともせずに。ただひたすらに足を進める。顔を濡らした雪が熱気で解け、頬を伝ってうなじを濡らし始めた頃、シンジの視界には地面に埋もれる茜色を発見した。
「アスカ!アスカ!アスカ!アスカ!」
シンジの声帯は勝手に声を出していた。荒い息は吐き出される度にアスカという言葉に変わる。もがきながら駆け寄る間、シンジはずっと声を出し続けていた。
(シンジ・・・・・)
アスカは自分の名を叫ぶシンジを待ちながらはにかんだ笑みを浮かべていた。最初に聞こえた時は幻だと思い、二度目には驚き、三度目になってようやく安堵と喜びがこみ上げてきた。
それでも膝まで雪をかき分けて転びながら進むシンジが到着するまでには、まだ少し時間があった。思いがけない待ち時間を与えられたアスカには様々な感情が襲ってくる。
シンジが来てくれたことに対する嬉しさ、助けに来た自分が助けられるという事実に対する皮肉、痛みに動けない自分に対する軽い侮蔑。
アスカはシンジの方を見なかった。ちょうど反対向きに顔を向けてうつ伏せになっていたせいもある。だが、どんな顔をして会えばいいか分からなかった。
困惑に心を委ねていると、自然と顔はほころんだ。何に笑いかけたのかははっきりとしない。自分かもしれないし、シンジかもしれない。もしカオルが一部始終を見ていたら運命に、と表現したかもしれない。
「アスカ!」
「痛いわよ、シンジ。背中を強打しているの」
「あ、ご、ごめん・・・・」
アスカに駆け寄った シンジは即座に上半身を抱え上げ、アスカは笑いながら顔を歪めた。
「あ、じゃ、どうすれば・・・・・」
「膝枕してくれる?」
シンジは引き延ばされたスプリングが戻るような動きで顔を上下に動かした。アスカは背中を地面につけるのはかなりの痛みを伴うかと思ったが、そうではなかった。体勢を変える時はさすがに痛かったが、一度直してしまえば雪のクッションがアスカを守ってくれた。
アスカは瞳を目一杯に開いてシンジを見上げていた。シンジは真っ直ぐな、余りにも真っ直ぐな視線にたじろいだが、顔を背けることはなかった。いや、できなかった。バイカル湖のように澄んだ蒼い瞳はシンジを釘付けにした。
「どうして?・・・・」
しばらくアスカの視線にさらされてからシンジはポツリと言った。どうして、の後に続く言葉は複数ある。どうして助けに来てくれたのか、どうして怪我をしているのか、どうしてそんな真っ直ぐな瞳で自分を見るのか。
「好きだから」
アスカは間髪入れずに返した。シンジがどうしての後に何を続けても答えは同じであっただろう。アスカの口と瞳は痛覚から分離していた。怪我を全く感じさせずにアスカは微笑み、シンジはたじろいだ。
「だ、だけど、ぼ、僕は・・・・」
その瞬間、シンジはアスカの視線に直接さらされなくなった。目をそらしたわけでも、つぶったわけでもない。止めどなく溢れ出た涙が、澄んだ視線を歪めた。
アスカは涙を流すシンジを不思議そうに眺めていた。少しだけ首を傾げ、少しだけ疑問に思い、残りの気持ちで微笑みかけた。世界を救う慈母のように。
「シンちゃん!」「シンジ君!」
頬から流れ落ちたシンジの涙がスキーウェアに付着していた雪の雫と同化した頃、レイとカスミは同時に目的地に着いた。
深蒼と漆黒のグラデーションに染まっていた空からは暗い色彩が消えている。陽が昇る寸前に、レイとカスミはようやく目的を達した。
「大丈夫シンちゃん?!」「大丈夫シンジ君?!」
到着したのも同時なら言葉をかけるのも、その内容まで同じだったレイとカスミは一瞬だけ視線を交錯させた。
「ア、アスカが・・・・」
夜明けに響く涙声。アスカが死んだ、という疑惑が緊迫した刹那に乗って駆けめぐった。
「ちょっと、人を死人みたいにいわないでよ!」
すぐに抗議の声が挙がる。アスカの甲高い声には張りと元気さがはいつもの半分くらいは戻っていた。
「背中を打っただけよ」
アスカの言葉にいち早く反応したのはカオルであった。バックパックから携帯用医療分析機を取り出したカオルはすばやく駆け寄ると。手の平大の機械を服の上からはわした。
「大丈夫だ、骨は折れていない。筋繊維をやられているから一週間ほどは痛むだろうけど」
カオルの冷静に言った後、薬のケースを取り出し、鎮痛剤のカプセルをアスカに渡した。カオルが立ち上って一歩引くと同時に、アスカのことに気を取られていたレイとカスミの心にはシンジへの思いの奔流が流れ出す。たちまちシンジの脇では空色、黒、茜色の鮮やかな髪の三重奏が奏でられた。
「シンちゃん。心配したわよ。ジョホールバルで岡野がシュートを撃たずに中田にパスした時と同じくらいやきもきしたわ」
「シンジ君!大丈夫だった?体は平気?怪我はない?」
嬉しさが声質にでないレイとやや取り乱しているカスミ、横たわってじっとシンジを見上げているだけのアスカ。三人三様ながら心の内は同じだった。
「さあ、シンジ君。どうするんだい?」
医療用キットを片づけ終わったカオルの声は大きくはなかったが、ひどく重かった。シンジにとっては。
「選択は君に委ねられているんだよ。どうするんだい?」
カオルの冷たい微笑は最後通告だった。再度付く付けられた言葉の刃。シンジはそばにいるアスカ、レイ、カスミがひどく遠くにいるように思えた。
「ぼ、僕は・・・・」
「僕は?」
シンジは即答できなかった。カオルもそれを承知していたから、せかすように聞き返したのかもしれない。
「断って置くけど、ここでレイが巨大化して全てを飲み込む映画型落ちや、隕石でも落ちてきてのジェノサイド落ち、君の頭がおかしくなってZガンダム型クルクパー落ちや、画面が切り替わってのセミナー落ちなんかはないよ。作者はご都合主義のいい加減な精神構造の持ち主だけどそこまで墜ちてはいない」
カオルは一気にシンジの退路を遮断した。全ての視線がシンジに集中する。
バイカル湖のように深いアスカの蒼
落日の太陽の一欠片を落としたようなレイの緋色
最高級の黒真珠のようなカスミの漆黒
カオルは冷ややかに見下ろし、トウジは退屈そうに欠伸混じりに視線を投げかけ、ヒカリは心配げに見守り、ケンスケは嫉妬に狂った炎をゴーグルの下で踊らせた。
モニターを通して興味津々に凝視する大人達、一話のくせに長すぎるぞと内心飽き始めている読者の目、徹夜で書いているために血走っている作者の視線。シンジは全ての目を一身に集めていた。
「ぼ、僕は誰も選べないよ。そもそも選ぶ資格なんかないんだ。僕は迷惑そうにしていながら心の奥底でドラマの主人公を気取っていた最低の人間なんだ」
カオルはドキリとした。このままでは、僕は存在してはいけない人間なんだ、そんなことないわ、じゃあ僕はここにいてもいいんだ、ありがとう、と連鎖していくセミナー落ちになってしまうと予感したからである。
「そんなことないわ。シンジはアタシにとってかけがいのない人間よ」
「そうよ。シンちゃんを最低の人間なんてけなす不届きなやつがいたら私がおしおきしてあげるわ」
「自分では気づかないかもしれないけど、シンジ君はとってもやさしい人なんだよ」
「で、でも僕は傲慢な人間なんだ。みんなを弄んで悲劇のヒーロー気取ってて。好きになってもらう資格なんてないんだ」
「難しく考えなくてもいいのよ、シンジ。人を好きになるのに資格なんかいらないわ」
「資格なら私があげるわ、シンちゃん。だから私と体も心も一つになりましょうよ」
「誰だって自分本位な面があると思うよ。でもシンジ君は自分でそれに気が付いたじゃない。そんなに落ち込まないで」
カオルは微笑の仮面の下で焦燥感を募らせた。このままではみんなでシンジを取り囲んでありがとう連呼で結末を迎えてしまう。
「じゃ、僕はここにいていいんだね」
顔をほころばせるシンジ。微笑み書けるアスカ、レイ、カスミ。カオルは悲壮感で狂いそうになった。
「駄目だ。許さん」
シンジの言葉をただ一人拒否した男が存在した。ついにラブコメさせてもらえなかったムッツリメガネオタクの執念はカオルにすら止めようがないと思われていた話の流れを断ち切った。
ケンスケは上着を払ってショルダーホルスターに手を掛ける。すなやく抜きはなってシンジをポイントする。撃ち慣れた銃、至近距離、足場はさきほど固めて置いた。はずすわけがない。
シンジに向かって右側にいるカスミをさけて、右脇腹を狙う。神経が集中している箇所。ボクシングで左ボディが重要だと言われるのはここに急所があるためである。
アスカとレイが邪魔だが一緒に撃つ殺してしまえばいい。生きていても自分とカスミのラブコメを阻害するだけだ。ケンスケは絶対の自信も喪ってトリガーに手を掛けた。
ドッキュンッ!!
響きわたる銃声。結末に向かって驀進する話の流れ。ケンスケは満面の笑みを浮かべ、そして倒れた。笑みを浮かべたまま硬直して。トリガーにかけた指は引き金を引ききることなく硬直していた。
ケンスケは最後に口唇だけで”う・そ・つ・き”と言おうとした。だが、ケンスケにはそれを口にする対象が一人もいなかった。叶わぬ夢、散りゆく野望、薄れゆく意識。ケンスケは最後に絶望を感じて自分だけの幕を引いた。
「いやぁ、出番があって良かったよ」
ライフル片手に木の陰から現れたのは長髪で無精髭をはやした男だった。
「大丈夫。強力で即効性の筋肉弛緩弾を撃っただけさ」
加持はケンスケに哀れみの視線を投げかけた。そんな顔をしなさんな、明日があるさ、目でそう言ったつもりだったが、ケンスケには通じていなかった。ケンスケは口も目も動かせない中で加持を”いつかは刺したやる奴リスト”の第三位に付け加えた。
逆恨みを通り越して狂気に近い思考回路に埋め尽くされたケンスケの脳。結局ケンスケはそれ以降のセリフも出番も剥奪されて加持の部下に運び出された。
「さて、シンジ君。話がすっかりそれてしまったね」
加持は無精髭をさすりながらシンジを見た。柔和な視線には明確な棘が含まれている。シンジは無意識の内にその棘を感じ取り、身を震わせた。
「俺は前に言ったよな。自分で考えて決めろと。誰にも強制はできない、それはシンジ君にしか決められないことなんだからと」
加持の視線が途端に鋭くなった。隠されていた棘が表出している。
「で、でも・・・・」
「縮こまるなよ。もっと、堂々としろとも言わなかったかい?」
一転して柔和な顔。加持は山の天気のようにコロコロと表情を変えた。
シンジは軽く首を振る。両手で濡れた髪を鷲掴みにし、固く目をつぶる。心の内に答えがあるのなら出てこい、と叫びつつシンジは目を開けた。
答えは出なかった。自分の心に問いかけても返答はなし。グチャグチャになった精神から、シンジはようやく言葉らしきものを拾い上げた。
「・・・・・やっぱり僕にはまだ決められません。みんな大切な人なんです。アスカも、綾波も、暁さんも・・・・・・」
答えになっていない。答えを出せないのが答えなんて。シンジは自分のなさけなさと節操が1mgも存在しない展開に吐き気がした。
沈黙が走る。ケンスケの暴発は何が何だか分からない内に処理されたので大した傷にはならなかったが、内容のないシンジの言葉は三人の少女の心を少なからず傷つけた。
雪と大気からしみ出してくるような寒さが一層身にしみる。澄んだ空気は言葉を直接心に届ける手助けをしているようにも見える。
「夜明けだな」
加持が声を出せたのは、知性が優れているからでも体力にあふれているからでもなかたった。多くの恋をし、失恋と傷心を経験してきているからこそ言葉を紡ぎ出すことができるのだ。
「ご覧、太陽が昇る」
催眠術に掛けられたように一斉に東の山並みに視線が集中した。
「どんな日でも陽は昇る。こればかりは神という奴に感謝しなければならない。俺達はどんなに辛い夜を過ごそうとも朝日に出会えるんだから」
加持はそれきり何も言わなくなった。誰も言葉を発することなく日の出を眺めている。鮮烈な光は心に直接差し込んできた。この光を浴びるために今ここに居る、そう思えた。
やがて漆黒の山並みに山吹色が走り、深蒼の空に朱が差す。雲の影が山影に更なる影を落とし重なり合っていく。
一陣の風が吹機抜けていった。風は地面に浮かぶ粉雪と傷心の一部を奪い去る。風はどこから来て、どこに去っていくのであろうか、シンジは唐突にそう思った。
「今は答えが出せない、というのが答えか。いかにもシンジ君らしいな」
加持がそう言った頃には、太陽は山並みから身を起こしていた。アスカは少し不機嫌そうに笑い、レイは妖しげな微笑を浮かべ、カスミははにかんだ笑み朝焼けに踊らせた。
シンジは三人の微妙な視線を感じながら朝日から目を離せずにいた。全てを洗い流してくれるわけではない。太陽が昇れば光が満ちあふれるが、同時に影も発生する。シンジの顔の左半分は朝光に、右半分は木の陰に覆われていた。
「さあ、お歴々。そろそろ帰ろうか」
「甲斐性なしねぇ・・・・・」
ユイは深い溜息を漏らした。一部始終を食い入るように見ていたゲンドウとキールは出来は悪いが、異様に気力を浪費させられる映画を見終わったような顔をしていた。
「おまえの息子は誰に似たのだ?」
キールは苦虫を噛みつぶしていた。二十四話も費やして結局何も決められませんでしたで終わったことは不本意極まりなかった。
ゲンドウはキールの言葉を黙殺することにした。自分はあれほど酷くはない、人は誰でもそう思う。
「ふん、勝負はまだこれからだと言うことだ。Project Fの発動準備をしなければな」
「なんだそのProject Fというのは?」
「くだらなんことを聞くな。Eの次はFに決まっているだろう」
Project Aから参画している加持がその場にいれば頭を抱えたことだろう。
「小学校の卒業式にファーストキスをさせようとして失敗したのがProject A。夏休みの沖縄での家族旅行で離れ小島にシンジとアスカちゃんを一日漂流させて一線を越えさせようとしたのがProject B。クリスマス大作戦で接近させようとしたのがProject C。バレンタインデーがProject Dで今回がEだ。何か文句あるか?」
ゲンドウは作品の隠された恥部を惜しげもなく暴露して胸を張った。ユイはあきれ果てた表情で溜息を再度つき、キールは二匹目の苦虫を噛みつぶした。
「さあ、シンジ。次の作戦でこそおまえは大人になるのだ」
キールはこの作者の作品には二度と出演するまいと心に決めた。
別室にいたミサト、リツコ、マヤは眠そうだった。ラストの割に盛り上がりに欠ける展開は特にミサトには退屈だったようだ。
「どうせなら、実際に熊と格闘するくらいはしてほしかったわね」
「そうね」
「それにシンジ君のあんな答えで場が治まるなんてつまらないわ」
「そうね」
「アスカもレイもカスミも気合いが足りないわ」
「そうね」
同じ言葉を三回繰り返されたミサトは馬鹿にされたような気分になり、大量の酒気を帯びた息をリツコに吐きかけた。リツコはやや顔をしかめたが、相手にしないと決めているのかマヤを踏みつけて憂さ晴らしをしただけに留まった。
「作者から伝言よ。次のセリフが最後になるって」
「ノーコメント」
リツコは一拍だけ考え、素っ気なく答えた。ちなみにマヤは相変わらず先輩好きです、と言っているようであるが、未だに声はでなかった。
「ふぁああーーー」
ミサトの最後のセリフは大欠伸であった。
「あ、そうそう。言い忘れていたことがある」
救援のヘリコプターが着陸できる少し開けた場所まで一行を導いた後、加持は頭をかきながら振り返った。
「一つ重大な問題が残っているんだ」
「シンジ君が結局相手を選ばなかったことですか?」
カオルは冷たい微笑をシンジに向けた。
「シンジ君がなさけなさすぎるのと、作者に節操がなさすぎることはすでに大問題の域を越えている。いくら対策を立てても直ることじゃない。どうしようもないんだ」
シンジは頭を垂れた。反論の余地はない。何もそこまで言わなくても、と思ったがアスカやトウジが深く頷くのを見ると黙りこくるしかなかった。
加持はおもむろに懐に手を入れると小さな横断幕のような形の髪を取り出した。両手を広げて全員に見えるように掲げてみせる。
「加持さん、それ何ですか?」
アスカはおそらく加持以外の八人、シンジ、レイ、カスミ、ヨウコ、ヒカリ、トウジ、カオルを代表して聞いた。ケンスケはさきほど抹殺されてから登場していない。気にとめてる人物も読者もいなかった。
「これかい?今話の題だよ」
「最後のはなんて読むんですか?りんぶ・・きょく?」
「シンジ君、これはロンドと読んでくれ」
「なんだかどっかのガンダムのOVAみたいな題字ね」
レイはかなり冷ややかだった。ベタベタな題字はレイの感性には合わない。
「まあそう言うなのよ。一応それを目にする前から考えていた題なんだから」
「つまりそれほど前から最終回までの構想がありながら、執筆をさぼり続けるこことによってここまで長引いたということね」
レイの鋭い舌鋒に加持は苦笑するしかなかった。
「加持さん、それ誰が言うんですか?やっぱりシンジ?」
「いや、最後だからみんなで唱和してもらおうと考えているんだが」
加持は確認するように周りを見回した。レイとカオルはベタベタなラストに眉をひそめていたが声に出しては反対しなかった。反論の声は意外なところからあがった。
「ちょっと!待ってくれへんか?」
ほとんどセリフを与えられぬままラストまで来てしまったトウジは静かな決意を秘めていた。顔は紅潮し、口調は熱い。コテコテの関西弁も周囲の目を引いた。
「ワ、ワイと山城先輩のラブコメはどこいったんや?」
反応は一瞬なかった。シンジは目をパチクリさせ、アスカは首を傾げた。ヒカリでさえ呆気にとられ、読者の84%は山城先輩って誰と頭をひねてっていた。
「そんなものは削除されたに決まっているじゃないか、トウジ君」
一人冷静だったカオルは突き放すような口調だ。冷笑しているというよりせせら笑っているいう顔つき。シンジでさえ、中途半端なラブコメしかしていないというのに、脇のトウジがまともに書いてもらえるわけがない。
「な、なんでや?!ワイはそのためだけにここまで我慢しとったのに・・・・」
「しょうがないじゃないか。作者にもいろいろ事情があるんだよ」
「出番を控え、題字をいうのも我慢し、シンジのラブコメも妨害もせずに眺めてきたというのにこの仕打ちはなんや?!」
トウジは悲嘆にくれていた。出番の面では同格であるはずのケンスケにも後れをとっている。完全に汚れ役に徹し、出番を確保したケンスケとラブコメを夢見てでしゃばることを控えてきたのに、結局削除されたトウジ。どちらの方がましかは判断が難しいところだった。
「別に山城ユリカなんていいじゃない。アンタにはヒカリがいるんだしさ」
アスカの素っ気ない一言にトウジはいきり立った。丸めていた体をしゃっきりと伸ばす。声にもはりが戻ってきた。
「そうや!ワイにはイインチョがいたんや!」
トウジは絶叫した。久しぶりのセリフなので力が入りまくっていた。
「イインチョ、ワイと、いやぼ、僕と帰ったらお茶しませんか!」
後ろを振り向きながら、関西弁と共通語の入り交じった無骨な言葉を吐いたトウジは絶句した。永遠の恋人であるはずのヒカリは、視線の先でカオルに抱きつくように立っていた。
「な、なにしとるんや?イインチョ!カオル!」
「無粋なことを言わないでくれよ。愛する二人が寄り添っていても何の不思議もないだろう?」
「おのれは惣流に絡むキャラとして登場したんじゃないんかい?」
「予定は未定なんだよ。それに僕はそういう役割をもらっただけのことであって、自分の意志とは無関係なんだ」
「イインチョもこんなナルシスホモのごこがええんじゃ?!」
ヒカリはその時になって初めてトウジの存在に気が付いたようである。少しうつむき、顔を赤らめ、カオルを見上げ、恥ずかしそうに首を振り、ヒカリが一つの動作をするごとにトウジは意識が遠くなるような気がした。
「カオルのいいところっていったって、困っちゃうな」
「どうしてだい?ヒカリ」
「だって、全部が素敵なんですもの」
耳にした者全員が引いた。アスカ、レイ、カスミですらシンジにそこまで言うことはない。ヒカリは麻薬でも吸っているのかと思えるくらいのろけてハイだった。
カオルとヒカリのやり取りを不思議がらなかったのは当人達だけである。この手の噂には耳が速いヨウコでさえ、顔を強ばらせている。
「なんでや?なんでや?なんでやーーーー」
トウジはこめかみの血管を破裂させて昏倒した。泡を吹きながら、なんだやなんでやと連呼し続けているが声にはなっていなかった。頼みの綱のヒカリはカオルとイチャイチャ、同僚のケンスケは戦死。トウジもまた脇役の悲哀を味わっていた。
「大丈夫かな、トウジ」
「ほっときなさいよ。鈍さは恐竜並み、昏倒した方が頭の中がまともになるかもしれないわ」
アスカはカオルに寄り添うヒカリを複雑な眼差しで見た。幸せそうにもみえるが相手はカオル、心配の種はつきない。ただ、ヒカリに災難が襲いかかるのはまた別の話であった。
「音頭はシンジ君がとってくれ。どんなになさけなくても主人公だからな」
シンジは心の中でホロリと涙を流した。ダイハードのジョン・マクレーンだってここまでなさけないとは言われない。なんで俺が、と常に愚痴をこぼしつつも最終的には悪者退治を完遂させる刑事とシンジを比べるのも酷だが。
ちなみに作者の友人は、最近までダイハードを”激しく死ぬ”という意味だと思っていたらしい。英語では動詞を修飾するのは副詞であるということも知らずに大学生になれた人間も珍しい。
「ほら、シンジ君。はやく」
カスミが微笑みかけてきた。側にはアスカがいて、レイがいて、背後から加持が見守っている。カオルとヒカリがイチャイチャしながら、トウジが卒倒して倒れながらも一応画面には映っていた。
「じゃ、行くよ」
シンジはみんなの顔を確認した。
「いっせいのー」
最終話
「永遠なる輪舞曲」
MEGURUさんの『Project E』最終話、公開です。
MEGURUさんのめぞんデビュー作、
ついに完結です(^^)
途中で完結になりかけて
「ラブラブLASエンド〜」
と思いきあ・・
絡まりまくりましたね。
答えを出せなかったシンジは
情けなくもあり、
彼らしくもあり。
最後まで引っ張られて、
スカされたアスカ・レイ・カスミ・・・
長い戦いはまだまだこれからなのかな?
LAS人
LRS人
LKS人、
みんなひいきキャラに声援を送り続けましょう!
「Project F」で願いが叶うかもしれませんよ?!
さあ、訪問者の皆さん。
「後少しで終わる」と言ってから、
それまでと同じくらいの分量を書いたドラゴンボールオチの
MEGURUさんに感想メールを送りましょう!