第十二話
「シンジ君にしか決められないこと」
「碇君ちょっといい?」
教室での冷たい圧力に耐えかねて、碇シンジは購買部にきていた。最もそれは口実でしかない。あの雰囲気から脱出できれば理由は何でもよかった。何か買ってくると言ったのは、購買部に行けばアスカがいると思ったからだ。
しかしアスカはいなかった。代わりに声をかけてきたのは三笠ヨウコである。
「三笠さん、何か僕に用?」
「用事があるのは私じゃないんだけど、ちょっとそこまで来てもらえる?」
ヨウコはシンジにそれだけ告げると、きびすを返して歩き出す。シンジは理由も言わないヨウコの態度を少し不思議に思ったが、何事にも従順でいるのが彼の処世術である。シンジは首をひねりながらもヨウコの背中について行った。
校舎の端にある購買部からは体育館に至る通路が延びている。通路の両側には木が植えられていて、運動場と校舎の隣にある部室棟が通路を挟み込むのを守るようにして立ち並んでいる。
土足禁止と赤くかかれたコンクリートの上を歩くヨウコの足は、唐突に止まった。通路の脇の植え込みに、首を突っ込んだヨウコは、頬を赤らめてうつむいているポニーテイルの少女を引っぱり出した。
「あ、暁さん・・・」
「シンジ君・・・」
2人の会話はそこで停止した。互いに顔を赤くし照れ合っているように見えるが、2人の温度は微妙に違う。
カスミの顔は恋する乙女心が発散する熱でかなりの高熱だが、シンジの顔は気恥ずかしさとカスミの熱気に当てられたくらいの温度しかない。ヨウコは興味深げに2人の表情を交互に眺めたあと、なるべくそっけなく言ってから校舎の方に歩き出した。
「じゃ、私はちょっと用事があるから、先行ってるよ」
「ちょっとお話があるんだけどいいかな?・・・」
カスミはやっとのことでシンジの目を見ると、蚊の泣くような声を全身の力を使って絞り出した。かわいい女の子の懇願するような瞳に逆らえる男はほとんどいない。シンジも勿論大多数の人間の1人だった。
「うん、いいけど・・・何かな?」
「ここじゃ、ちょっと恥ずかしいからそっちにいかない?」
カスミは緊張のあまり、シンジが上履きを履いていることにさえ気づかなかった。シンジは土の上はまずいかなと思ったが、植え込みの周りにある煉瓦を足場にして、部室棟の土台のコンクリート床に飛んだ。カスミは、自分とシンジの身体が通路から隠れるのを確認するように、周囲を見回すと少し安心したような息を吐いた。
もっとも植え込みは通路を挟んでいるだけなので、両端にある購買部と体育館からは角度によっては、距離はあったが2人の姿を見ることは可能だった。
「あのね・・・、その・・・」
事前にセリフは考えてあった。しかし練習と実戦はまるで違う。カスミの口からは用意された言葉は、すぐにはでてこなかった。
シンジはそんなカスミの様子を黙って見ていた。カスミは言いにくそうだが自分に用事がありそうだし、こちらは沈黙しているのが一番いいように思えた。単にシンジのとぼしい恋愛ボキャブラリーから言葉を見つけだせないだけでもあったが。
「この前コンサートのチケットありがとう・・・。それでね、ヨウコに今週末に一緒に行こうって誘ったんだけど、ヨウコ都合が悪いみたいで・・・。それでね、悪いとは思うんだけど、シンジ君一緒に行ってくれないかな?」
カスミの言い回しはたどたどしかった。しかし、それだけに本人の切実な思いが伝わってもきた。
シンジは何を言っていいか分からなかった。アスカとのデートの前に父親に吹き込まれた恋愛の掟36箇条を思い出してみるが、こんな時に限って頭は真っ白、何も思い出せなかった。
カスミにはシンジが黙っている時間が、悠久の時のように感じられた。自分から何か声をかけようとも思ったが、カスミもまた何を言ったらいいか分からなかった。事前に言葉も考えていなかったし、もし用意して合ったとしてもこの状況では何も口にできないかもしれない。
永遠に続くかとも思えたじれったい時に、終わりの鐘を告げたのはシンジでもカスミでもなかった。
「ちょっとアンタ達!そんなところに隠れて何やってるの?!」
2人が振り返ると腰に手を当ててふんぞり返っている茜色の髪の少女がいた。目を両端につり上げて端正な顔を震わせている。
(怖い・・)
シンジは素直にそう思った。
惣流アスカ・ラングレーの機嫌は、誰がみてもかなりの角度で斜めのようだった。シンジ&アスカ夫婦喧嘩・評論家相田ケンスケが居合わせたらランクCの認定をしたかもしれない。
「まったくこんなところで逢い引きなんて、愛天使ウェディングピーチはとってもご機嫌斜めだわ!」
「ア、アスカ。こんなシリアスな場面でいきなりパロディいれなくても・・・」
「うっさいわね!笑いは取れるところで取っておかないと、誰も読んでくれなくなるものよ!!」
「で、でも愛天使ウェディングピーチなんて読者はしらないかもしれないよ!それに全然笑えないし・・・。何より作者だって2,3回みたことがあるだけでストーリーもろくに知らないじゃないか!」
「利用できるものは何でも利用する。立ってる者は馬でも使えっていうのがアタシのポリシーよ!」
「でも日本人って本当にコスプレ好きだよな・・・。セーラー服に花嫁、怪盗と修道女なんていうのもあったし、看護婦さんが戦うアニメもあったよな・・・。それにミニスカートの婦人警官ネタの深夜番組があるし、あとは女医さんに喪服の後家、それから・・・。は、いけない!それじゃ完全にAVの世界だ!僕は純情な少年の役だったんだ!こんな考えがうかんできたのは、きっとM78星雲からくる怪しい電波のせいにちがいない!ちなみにM78星雲って実在するの知ってますか?」
「説明モード入って誤魔化してんじゃないわよ!理屈っぽいエロ親父は、このアタシが月に変わっておしおきよ!」
腕を肩ごとまわした後シンジに人差し指をつきつけポーズを決めるアスカに、それまで呆然とシンジとアスカの掛け合いをみていたカスミが突然口を挟んだ。
「あ、あの・・・」
「何よ、シンジだけじゃなくてアンタも何か文句あるわけ?!」
「い、いえ・・・そろそろ話を進めないと・・・」
「うっさいわね!世の中には話の進展より大事なものがあるのよ。邪魔しようっていうのなら。シンジだけじゃなくアンタにもおしおきするわよ!」
「そ、そんな!ああ、私たちに神のご加護がありますように」
「暁さんまで・・・。今度はセイントテールか?これじゃエヴァ小説のHPにおいてもらえなくなるよ・・・」
シンジはアスカにおしおきされるであろう我が身を一時忘れて、作品事自体の心配にふけっていた。
キーンコーンカーンコーン
これから始まるであろう修羅場は、チャイムの音とともに中断された。アスカとしては多少授業に遅れても続行するつもりだったのだが、根がきまじめなシンジとカスミは教室に戻ろうとしていた。カスミは別れ際にシンジに、そっと囁くと振り返りもせず走っていった。
「シンジ君、都合が良かったら電話してね。それじゃ」
それは本当に小さな声だった。しかしアスカの耳にはちゃんと入っていた。
「シンジ!あの女とどこかに行くの?!」
「あの女なんていう言い方はやめてよ、アスカ」
「話を逸らさないで!」
アスカの声は鋭く、そして重かった。
「別に・・・、一緒にコンサートに行こうって誘われただけだよ・・・」
「誘われただけってそれはデートの申し込みじゃない!」
「そんな・・・デートなんて大げさなものじゃないよ。暁さんとは音楽教室の人達と一緒に楽器見に行ったり、演奏会にいくことだってあるんだから。それに三笠さんが都合悪いっていうからその代役だよ」
シンジは言い訳をしたつもりだったが、アスカには逆効果だった。
「だったら暁さんと一緒にどこへでも行ったらいいでしょ!アタシには関係ないことだもんね!」
(違う!!アタシはそんなこと思ってない!本当はシンジにどこにも行かないで欲しいの!アタシのそばだけに居て欲しいの!)
アスカは心と口とで別々の言葉を叫んでいた。無論女心にたいする理解度が0のシンジには、口から発せられた声しか聞こえない。
「関係ないならいいじゃないか!僕がどうしようと勝手だろ!」
アスカの激しい口調に、珍しくシンジは興奮していた。普段ならここまで売り言葉に買い言葉になることはない。しかし一線を少しだけ超えてしまったことで生じた、微妙な心のすれ違いは事態を加速度的に悪化させていた。
「ええ、そうね!シンジなんて勝手にどこへでも行っちゃえばいいんだから!」
アスカはそう叫ぶと走り出した。アスカの背中を呆然と見送ったシンジには、アイスブルーの瞳から流れ出た液体を見ることはできなかった。
日はすでに落ちていた。
暗くなったアスファルトを街灯が申し訳なさそうに照らしている。空には出番を待ちかねた星々が、自分の存在を誇示するかのように、様々な色の光を放っている。全地球に影響を及ぼしたセカンドインパクトも、星空までには手が届かなかったようだ。
部活動の自主練習をいつもよりかなり遅くまでしていたシンジは、疲れた足を自分の家の方に運んでいる。
足取りが重いのは練習による疲労のせいではない。今日は両親が早めに帰ってくる日だから、茜色の髪の少女も碇家の食卓を囲むはずだった。アスカのことを考えるとシンジの歩みは益々遅くなっていった。
「はぁー・・・」
シンジは溜息をもらすことしかできなかった。なるたけゆっくり歩いたつもりであったが、彼の目の前には自分のマンションがあった。シンジは上を見上げることはしなかった。顔を上げれば、惣流家に電気がついているかどうかが分かる。もし明かりがともっていれば、アスカは碇家にはいないことになる。
アスカがいないのをいいことに、家に入るようなまねだけはしたくなかった。シンジがアスカにできること、しなくてはならないことはそんなことではないのだが、まだまだモラトリアムを脱していないシンジの未熟な精神ではそのくらいが限界だった。
「ただいま」
ドアの前で一瞬躊躇した後、シンジは思い切って玄関に入った。そこにはアスカの靴もなく、両親の靴もなかった。あったのはよく使い込まれた男物の革靴である。頑丈そうなラバーソウルと多少ほこりをかぶっているが、磨き込まれた渋さが残るその靴は父親のものではないようだった。
「おかえり、シンジ君」
そう言ってリビングの方から歩いてきたのは、長めの髪を後ろで縛った背の高い男性だった。
「加持さん・・・。どうしてここに?」
「仕事さ」
加持は短く言うとさりげなく笑った。
「シンジ君のご両親に急な仕事が入ってね。今日は帰ってこられなくなったから俺に様子を見てこいってさ。間違っても出番が少ないから、無理矢理出てきたわけじゃない。そこのところだけは分かってくれよ」
父・ゲンドウの部下加持リョウジは時々碇家を訪れていた。ゲンドウが重要な出張にでかける時とかに、よく車で家まで迎えに来ている。碇家の家族旅行に同行したりしたこともあり、シンジやアスカともかなり親しいつきあいをしていた。
「そんなとこ突っ立てないで着替えてこいよ。食事の用意も一応してあるしな」
加持はシンジの暗い表情を読みとっていたが、そんなことは微塵も感じさせない口調で言うと、リビングの方に向かって歩き出した。ぶっきらぼうだが、何だか暖かみのある加持の背中をしばらく眺めたシンジは、加持がリビングに消えた後自分の部屋に着替えに行った。
「元気がないな、シンジ君」
加持が買ってきた折り詰めの寿司を運ぶシンジの手は、その心と同様に重かった。加持は全てを見透かしたような目をシンジに向けている。
「アスカと喧嘩したんです・・・」
「原因はなんだい?」
「音楽教室で一緒の女の子がコンサートに一緒に行こうって誘ってきたんです。友達が都合が悪くなったからどうかなって・・・」
「かわいい子かい?」
加持の唐突な問いはシンジを困惑させた。言われてみれば確かにカスミはかなりかわいい部類に属する。シンジは知らなかったが、なにしろカテゴリーSにランクされてるくらいなのだ。シンジはアスカ・レイ・ユイといった美しい花に囲まれて生活しているせいか、女性の容姿というものにあまりこだわりがなかった。
「かわいいと思います。かなり・・・。で、でも僕はそんなこと気にしません!」
「シンジ君は気にしないかもしれないがな、女性の容姿っていうのはすごく大切なものなんだぞ。異性にとっても重要だが、同性にとってもな。美しい花は人を魅了もするが、嫉妬の対象にもなりうる」
加持はそこまで言うとシンジに顔を近づけ、ちょっとだけすごんだ表情をつくってみせた。
「で、その女の子はシンジ君の事が好きなのかい?」
「・・・分かりません・・・」
「シンジ君。女性というものは好きでもない男をデートに誘うほど器用にはできていないんだよ。特に中学生くらいの女の子はね」
(暁さんが僕のこと好き?どうなんだろう?さっぱりわからないや・・・)
「で、アスカにやきもち焼かれたわけか・・・」
加持は無造作に寿司をつまんだ。中トロを手に取ると少しだけ加減醤油につけて口元に運ぶ。シンジは気さくな加持の様子を見ているとなんだか安心できた。加持は何気ない行動で周りの人間を落ち着かせてしまうという特技を持つ男だった。
「実はこの前アスカともデートしたんです。父さんに強引にデートしてこいっていわれたのが原因ですけど・・・」
「それで・・・その後・・・」
シンジの口調はそこで急に重くなった。加持は興味深そうにしどろもどろのシンジを眺めていたが、やがてシンジに爆弾を1つ落としてみせた。
「Kissでもしたのかい?」
「どどどど、どうしてそれを?!」
うろたえるシンジを尻目に加持は、いたずらっぽい表情を浮かべた。意地の悪い教師を引っかけた生徒のような瞳だった。シンジは自分がカマをかけられたことを悟った。
「アスカが怒るのも無理はない。シンジ君は言ってみれば、その子とアスカと二股かけてるわけだからな」
「ぼ、僕は二股なんてかけていません!」
「アスカにしてみれば同じ事さ」
加持はそっけなく言うと視線をシンジからはずすと、また寿司に手を伸ばし、イクラの軍艦巻きを口の中に放り込んだ。2口くらい噛んでイクラを飲み込むと熱いお茶を一口すすり、加持は言葉を続けた。
「デートしてこいよ」
「え、でも・・・」
「かわいい子なんだろ?せっかく誘われてるのにもったいないじゃないか。そもそもシンジ君、君は他人が羨むような美少女2人から思いを寄せられているんだぞ。もっと堂々としたらどうなんだい?」
場違いなほど陽気な口調で喋る加持に、シンジはとまどいを隠しきれない。
「別にコンサートに行くだけだろ。特にやましいことをするわけでじゃない。それに今からアスカ一本に絞る必要もないしな」
「で、でもアスカは僕の大事な人なんですよ!それにアスカとはKissまでしちゃったのに・・・」
「じゃあアスカが好きなのかい?」
好きという言葉に対してシンジは沈黙した。シンジは好きという気持ちがいまだによくわからない。アスカとKissまでしたのに、アスカを好きかどうかわからない。アスカにどう接したらいいかわからない。
Kissしたんだから好きじゃなくてはいけないのだろうか?でも自分の心ははっきりしない。しかしアスカはシンジに決定を求めるような行動をとる。それでもシンジは自分の気持ちが分からない。
「シンジ君はアスカのことが気になってる、でもそれが好きという感情かどうか分からない、そうじゃないのか?だったらその女の子とデートしてみるのも1つの手だ。アスカと違う女性に接することで、アスカに対する思いがはっきりすることもある。何も難しく考えることはない。恋というのは頭の中でやるもんじゃない。実際に行動してみて、肌で感じ取るのが恋というものだよ」
加持は諭すような調子でシンジに自分の考えを語ると、最後まで残っていたアナゴを飲み込んだ。
「と、人生相談係の加持リョウジ氏は無責任におしゃった。所詮は他人の人生である」
加持はいたずらっぽく片目をつぶってみせた。
「まあ色々言ったが、後はシンジ君が自分で考えて決めろ。誰も強制はしない。というより、これはシンジ君にしか決められないことだからな」
(僕にしか決められないことか・・・)
シンジはその晩、湯船につかりながら物思いに浸っていた。肩までどっぷり少し熱めの湯につかり、湯煙の向こうの天上を見上げる。
(暁さんもアスカも僕のことを好きかもしれないか・・・)
シンジはそう考えると少し気分が高揚してきた。
(ひょっとして僕は案外もてる人間になったのかな?)
シンジは急に自分がいい男になった気分になり、風呂場の鏡を覗き込んだ。水蒸気で曇った鏡を手でぬぐい取り自分の顔を見てみる。
(やっぱり気のせいかな?いつもとかわらないや・・・)
シンジは再び浴槽に入ると、身をかがめて頭まで湯船につけてみた。20秒数えてから顔を出す。湯の温度が少し熱かった分、外はすこしだけひんやりとしていて心地よかった。
(週末暁さんと出かけてみよう。それでアスカへの気持ちも確かめる。アスカが好きなら謝りに行ってアスカに好きだって言おう。アスカのことが好きじゃなかったら?・・・考えないことにしよう!加持さんだって言っていたじゃないか、実際に行動して、肌で感じ取るのが恋だって!)
シンジは今日一番の明るい顔を作ると浴室の窓から月を見上げた。月は心なしかいつもより輝いているように見えた。
MEGURU さんの『Project E』第十二話公開です。
カスミが行動を起こしましたね。
一人でリハーサルを繰り返して、デートの誘い・・・・
誘われたシンジと、それを見ていたアスカとの間に
わき起こる波。
人生と恋愛の先輩である加持のアドバスを受けたシンジ。
カスミとのデートに何が起こるのでしょうか?
目を離せない次回です!
さあ、訪問者の皆さん。
錯綜する恋いを描く MEGURU さんに貴方の感想を届けて下さい!!