【はじめに】
この物語は拙作「私立第三新東京幼稚園 A.D.2007」(全二十四話完結)の世界をベースに書かれています.
「TV本編のEVA世界」はもちろんのこと「学園EVA」からもかなり離れてしまった世界ですので(笑)できれば拙作の「幼稚園」正伝を先にご覧になることを推奨しますが,もし正伝を読むのが「面倒」でしたら幼いシンジ・アスカ・レイの三人が子供としてそれぞれそれなりに幸せに過ごしている世界ということだけでも頭に置いてこの物語をご覧ください.
【ゆりかごからのはじめまして】
−A.D.2008年3月某日−
「シンジぃ〜でかけるわよっ.」
ある春の日の午前のこと,マンションの玄関口に幼い女の子の元気な声が響き渡る.その子の年の頃は5・6歳ぐらい,目鼻立ちがはっきりしていて奇麗な青い瞳とつややかな栗色の髪が印象的だ.その長い栗色の髪は後ろでアップにされてまんまるの赤い髪飾りで二つにまとめられている.彼女の名前は惣流アスカ,アスカはお隣の仲良しの子を外に連れ出そうとしていた.
「あ.まってよぉ〜アスカぁ.」
ちょっと頼りなさげな声がアスカに返ってくる.シンジと呼ばれたその男の子はアスカと同い年で,黒髪黒目,奇麗に整えられたぼっちゃんな髪型と中性的な顔立ちが線の細そうな印象を与えている.彼の名前は碇シンジ,シンジとアスカは母親二人が学生時代からの親友でしかも家が隣同士であることから二人で一緒にいることが多く,端から見ると勝ち気の姉と気弱な弟といった印象を与えていた.
「ぐずぐずしないのっ. おばさま!いってきまーす.」
「・・・いってきます.」
靴を履き終えたシンジの右手をアスカが引っ張る.アスカに引っ張られて緑のトレーナーに半ズボン姿のシンジがよろめく.赤系統の厚手の生地の吊りスカート姿のアスカの右手には砂場遊び用のバケツが握られている.アスカは元気良くシンジの母ユイに「いってきます」を告げた.やや遅れてシンジも続く.
「いってらっしゃい.アスカちゃん,シンちゃん.車には気をつけるのよ.」
「「はーい.」」
エプロン姿のユイが二人を送り出す.ユイに声を掛けられてシンジとアスカは同時に返事をする.それから二人はマンションの通路を駆け出していった.
(ピンポーン)
「はーい.あら?キョウコ.おはよ.」
「おはよ.ユイ.卒園式の時の写真,出来上がったわよ.」
子供二人が遊びに出かけてしばらく後,碇家の玄関のインターホンが鳴る.ユイが玄関口に向かって扉を開くとそこにはユイと同年代の女性が立っていた.アスカの母キョウコである.彼女のは写真店の封筒を手にしていた.
「本当?見せて.見せて.さ,上がって.」
「お邪魔しまーす.」
ユイはキョウコを家の中に招き入れる.ユイの夫でシンジの父であるゲンドウは仕事で研究所に出勤していたので家にはユイとキョウコの二人だけであった.ユイは急須と湯飲みを取り出してお茶を煎れる.
「・・・へえ〜よく撮れてるじゃない.これなんかホントにドンピシャだったわねえ.」
「アスカったら困った子ねえ・・・」
ユイは封筒の中から出来上がった写真を取り出してパラパラと眺める.その中の一枚・・・「アスカ・シンジ・レイの仲良し三人が並んでいて,その中でアスカがシンジの頬を引っ張っている」写真を見て感心するようにユイがコメントする.その写真にキョウコは少しばかり苦笑いを浮かべていた.
「早速・・・アルバム,アルバムっと♪」
「今,綴じるの?せっかちねえ.」
「こういうのは思い立ったがでやんないと溜まっちゃうものなのよ.」
一通り写真を眺め終わってユイはアルバムを取りに席を立つ.そんなユイにキョウコは苦笑いを浮かべる.ユイは軽い口調でキョウコに応えた.そして奥の棚から新しめの装丁の冊子を取り出した.
「・・・入園の時の写真,二人共小さかったわねえ.」
「そうね.でも,シンジがアスカちゃんの後についているのは今と変わらないわね.」
「後についているというよりはアスカがシンジ君を引っ張ってると言ったほうが近いけど.」
「すっかり,シンジの“お姉ちゃん”って感じよね.アスカちゃんは.」
「いつからこんな風になったのかしら?幼稚園入った頃には既にアスカ,シンジ君の手を引いてたわね.」
「そうねえ・・・確か・・・」
取り出したアルバムを開いてユイとキョウコは昔の写真に目を留める.写真は,シンジとアスカ,幼稚園入園の時のものでちょっとぐずつき気味のシンジの手をアスカが引っ張っていた.いつからアスカはシンジの“お姉ちゃん”するようになったのだろうか?その疑問にユイとキョウコは昔の記憶をたどり始めた.
− A.D.2002年某月某日 −
「この子がアスカちゃん? かっわいい〜」
「そう?ありがとう.ユイ.」
「青い瞳,ゲンイチロウさんの目の色なんだ.」
碇,惣流両家がまだ第三新東京市に引っ越していなかった昔のこと,ユイはキョウコに抱かれて連れられて来た赤ん坊のアスカと初めての対面をしていた.アスカのぱっちりした青い目とまだ生え揃っていない栗色の髪は,日本人の祖父とドイツ系アメリカ人の祖母のハーフである父親のゲンイチロウからのものであった.
「アスカちゃーん,はじめまちて.」
「…ばばばだぁ」
「あら?アスカちゃん,挨拶してるの分かったのかしら?」
「まさかねえ・・・偶然よ.ユイ.」
ユイは赤ちゃん言葉でアスカに語り掛ける.するとそれに応えるかのように赤ん坊のアスカが声を上げた.
「(にこにこにこ)」
一方,ベビーベッドの中で微笑む赤ん坊.黒髪黒目の男の子だが,母親似のその顔立ちは笑うと実に可愛らしい.赤ん坊の母親・・・ユイがすたすたとやって来て彼・・・シンジを抱き上げた.
「ほら,シンちゃん.アスカちゃんよ.」
シンジを抱き上げたユイはキョウコのもとに戻ってアスカに引き合わせる.シンジはアスカより約半年早く生まれたとあって彼女より一回りか二回りくらい大きい体格だ.シンジはにこにこと微笑んでいた.
「アスカ.シンジ君よ.」
「あぶぅ〜(ペシッ)」
赤ん坊同士の頭を近づける形でキョウコがアスカに語り掛ける.すると,アスカはもみじのような手を振りまわし始めた.振り回した手の甲がシンジの頬に当たる.アスカの手が当たってシンジは目をぱちくりさせた.
「ア,アスカ!?」
「だぁ〜(ペシッ)」
娘の突然の振る舞いにキョウコが驚きの声を上げる.それに構わずアスカは万歳をする形で手を動かした.その手の先には・・・シンジの頬があった.
「きゃっ きゃっ きゃっ(ペシッ ペシッ ペシッ)」
「ひっ・・・・・ふぇえええーん」
突然の急な事態にユイが,キョウコが二人を引き離す前にアスカは喜ぶような声を上げて“万歳”を繰り返し・・・シンジの頬を手の甲で三回はたく.一つ一つの威力は大したものではなかったが,繰り返し叩かれてシンジは堪らず泣き出した.
・・・以上が,シンジとアスカの初対面の顛末だった.
「情けないぞ.シンジ.」
両腕を組み赤ん坊二人の前で威圧するかのように立ちはだかる大男.シンジの父ゲンドウである.まだこの頃はまだ髭を蓄えてなかったので迫力と言う意味では少し欠けている.もっとも,赤ん坊相手に威圧したところで始まらないだろうし,もしこの場にユイが居れば「また訳の分かんないことをやんないでください!」と怒られてるところだろう.
今日はゲンドウが碇家で二人の面倒を見ている.学生時代から母親同士が親友で結婚後もお互い近所に住んで親しい付き合いの続いていた両家では,親の誰かが子供の面倒を二人まとめて一緒に見ることが度々あった.
「きゃっきゃっ」
「あ.あぶぅ〜」
ゲンドウの目の前で“玩具”を巡って1歳児のアスカがシンジを押え込む光景が展開されていた.先程述べた通り,シンジはアスカより約半年早く生まれている.この年頃の半年の差と言うのはかなり大きなものであるはずなのだが,シンジが大人し過ぎるのかアスカの成長が早いのか,アスカはその差をものともせず“争い”の主導権を握っていた.
「あぶぶぅ〜」
「フッ・・・問題無い.」
アスカに“玩具”を取られてどこか縋るような眼差しを向けるシンジに,ゲンドウはニヤリ笑いを返して取り合わない.もしユイが同じ立場ならシンジを抱き上げて慰めるところなのだろうが,ゲンドウの場合は照れなのか屈折した愛情のせいなのかこの程度のことでは割って入ろうとはしなかった.
「あぶぅ〜」
ゲンドウが何もしてくれないことが分かったのか分からないのか,シンジはちょっといじけた声を上げる.ここで大声で泣き出せばさすがのゲンドウも慌てて動き出すのだろうが,シンジはそういった意味では“大人しい”子だった.
「だぁぶぅ〜う〜」
「あ,あぶぅっ」
そのうちにアスカが手にしていた“玩具”を放り出して,またシンジに掴みかかる.どうもアスカの興味は“玩具”そのものよりもシンジとの“取り合い”にあるらしい.ちなみに“戦績”はアスカの圧勝である.生まれる前は母キョウコの体調が安定しなくてハラハラさせられていたものだが,誕生後は実に順調にすくすくと育って母キョウコを始め周囲の者を驚かせていた.
「きゃっ きゃっ きゃっ」
「あぅあぅあぅ ひっ」
シンジを掴まえて振り回そうとするアスカ.それに対してシンジは抵抗するのだが,見事に力負けする.アスカの力は同じ年の頃の子に比べてかなり強かった.半年年下の子による“おいた”の数々にさしもの大人しいシンジも涙目になっていく.
「ひっ ひっく・・・・・あぶぅ(にこ)」
「だぁだぁあ〜」
涙目になったシンジが大声を上げて泣き出す・・・事態は,ことここに至ってゲンドウが二人の間に介入しシンジを抱き上げて回避された.父親の腕に抱かれて安らいだ顔をするシンジ.その姿は結構らぶりぃである.一方,アスカの方はシンジという遊び相手を取られて不満なのかゲンドウの方に手をばたつかせていた.
「・・・まったく世話の焼ける奴だ.」
目尻を下げながらゲンドウはぼそっと呟く.それに対しシンジは無邪気な笑みを浮かべていた.微笑ましい空気が父と息子の間を流れる.だが,それも長くは続かない.
「だぁ」
・・・というのも,遊び相手を失ったアスカがゲンドウの足元に張り付いて来たからであった.
− A.D.2003年某月某日 −
「だぁばぶぶぅ〜」
「や〜っ」
「ああっ.アスカちゃんっ!」
慌てた声が室内にこだまする.とある託児所では,アスカがその“やんちゃ”振りを如何無く発揮していた.とにかく,部屋の中を動き回るわ,あちこち物を引っ張るわ,他の子にちょっかいを出すわで,大人しいのは寝ている時だけと,とかく百戦錬磨(?)のスタッフをてこずらせていた.
「(すーっ すーっ すやすや)」
一方,同じく託児所に預けられているシンジはアスカとは対照的に大人しく寝入っていた.
「だぁああ〜っ(どたどたどた)」
「ああっ.誰か止めてっ.」
スタッフの一人の手をすり抜けてアスカが“突進”を始める.まだ2歳にも満たない彼女だがその動きは実に俊敏で,他のスタッフが止める前に“目標”に到達した.
(どーん!)
「ふあ?」
「きゃっきゃっ」
「むーっ むーっ」
アスカの突進した先には・・・シンジがいた.アスカの突進を受けてシンジは目を覚ます.寝呆け声をあげたシンジの服の襟をアスカが引っ張る.嬉しそうな声を出すアスカに対してシンジはちょっと苦しそうだった.
「ひんひーっ」
「むぅーっ」
託児所においてもシンジはアスカにとっての格好の遊び相手で,事ある毎に“ちょっかい”を出していた.
「こんばんは〜.」
「あ.惣流さん.」
日も暮れて外灯の光が道路をはっきりと照らす頃,会社帰りだろうか背の高いスーツ姿の男性が一人で託児所を訪れていた.短めに刈った赤みを帯びた髪と外国人と見間違うばかりの彫りの深い顔立ちのその男性はアスカの父,ゲンイチロウである.手には大きめでがっちりした質感の手提げかばんを提げていた.
「アスカを迎えに来ました.」
「はい.今,連れてきますね.」
ゲンイチロウがスタッフに用件を伝える.彼の言葉を受けて応対に出ていたその女性は慣れた感じですたすたと中に戻っていった.・・・初めて訪れた時は,その外国人とも見間違うばかりの容貌に “Can you speak Japanese?” などが飛び出したりもしたが.
「アスカちゃーん,パパさんですよ〜.」
「パ〜パっ」
数分後,応対に出た彼女がアスカを抱いて戻ってきてゲンイチロウに手渡す.ゲンイチロウの姿を認めるとアスカは声をあげた.
「いつもお世話をかけてしまって,済みません.」
「いいえ.でも,ホントに元気一杯のお子さんですね.」
アスカの“やんちゃ”振りを分かっているのか,ゲンイチロウがちょっと申し訳なさげに語る.それに対してそのスタッフの女性は物腰柔かく応じていた.確かにアスカの暴れっぷりはてこずらされているが,これぐらいの“やんちゃ”をする子は必ず一人ぐらいはいる・・・・・そんな口調であった.
「ははっ.全くちょっと元気が過ぎるくらいで・・・では失礼します.」
「はい.アスカちゃーん,バイバイ.」
「ばぁばぁ」
いつものやり取りといった感じでゲンイチロウが退去を告げる.別れ際,スタッフの女性の“挨拶”にアスカが応える.だが,アスカはまだ「バイバイ」とは言えないようだ.彼女が最初に覚えた単語は「パパ」なのだろうかそれとも「ママ」なのだろうか?
「おぢちゃま?」
「・・・そうだ.“おじさま”だ.」
床にちょこんと座ったアスカがきょとんとした顔で自分の視線の先の屈みこんだ男におうむ返しするかのように声を上げた.屈みこんだ男,ゲンドウは至極真面目そうな表情でアスカに語り掛けていた.どうやら,アスカに自分の呼び方を教えている(?)ようだ.
「なーに,怪しいことやってるんです?あなた.」
「あ,怪しいとは失礼な.わ,私は,ただアスカちゃんに・・・」
「アスカちゃんに?」
「言葉を教えてやってるだけだ.」
屈みこんだゲンドウの背後からユイが話し掛ける.不意を衝かれて驚いたのか,ゲンドウは少しとちりながらユイに応えた.
「ふーん・・・」
ユイはゲンドウの左隣に寄り添うようにして屈みこむ.それから,返答に納得したようなしないような顔をゲンドウに向けた.
「ほ,本当だぞ.」
「誰も嘘とは言ってませんよ.それより・・・」
「?」
「シンジには教えてあげないの?」
「・・・・・・・」
ユイの不審げな顔にゲンドウが念を押すように言う.そんなにユイの顔色が気になるのだろうか.そんなゲンドウにユイは淡々とした口調で尋ねた.ユイの問いかけにゲンドウはちょっと気まずそうに黙り込む.
「・・・シンジにはまだ分からんだろう.」
「あら?シンジは私達の言葉,ちゃんと分かってますよ.」
それからややあってゲンドウが重たげに口を開く.既に「パパ」と「ママ」,それに赤ちゃん言葉ながらもゲンドウ達をも「呼び分け」しているアスカに比べてシンジはその辺りの言葉がまだはっきりとしていなかった.それに対してユイは小首を傾げてゲンドウの返答を否定した.
「そうか?」
「そうですよ.」
ゲンドウはユイからいったん目線を外すと少し離れたところで寝転がっているシンジに視線を向け確認するかのように呟く.ユイは静かにそしてはっきりとゲンドウに応えた.
「・・・そうだな.」
そのユイの言葉にゲンドウは口元を緩ませうなずいた.
「・・・シンジ.」
「(にこ)」
アスカが惣流家に戻った後,ゲンドウは先程のアスカの時と同じような構図でシンジと向き合っていた.ゲンドウの呼びかけにシンジは微笑んで応える.ゲンドウの顔には緊張の色が走っていた.
「“お父さん”・・・だ.」
「(にこ にこ)」
それからゲンドウはアスカの時の様にシンジに自分を呼ばせようとする.だが,シンジはちょっと首を傾げてにこにこと微笑むだけで何も応えなかった.
「“お父さん”・・・」
「(にこ にこ にこ)」
「・・・・・・・」
「(にこ にこ にこ)」
そんなシンジにゲンドウはもう一度呼びかけた.だが,シンジの反応は変わらない.ゲンドウはどうしたら良いのかわからなくなってその場で固まってしまった.沈黙が二人の間を流れる.
「(クス)」
そんな二人の様子を台所からちらりと見ていたユイは微かな笑みを浮かべていた.
− 再び A.D.2008年3月某日 −
「・・・赤ん坊の頃からアスカちゃんは元気で.」
「シンジくんは大人しい子だったわね.」
キョウコと二人して昔のことを回想しながらユイは受け取った写真を全てアルバムに綴じ終える.すると今度は戸棚から予めストックしていたと思われるお茶菓子を取り出した.
「・・・あの頃のアスカはシンジ君を泣かしてばかりで.」
手にした湯飲みをテーブルに置いてキョウコが少しばかり眉根を寄せながら話す.アスカとシンジ,早熟のアスカがシンジを振り回す光景は今も昔も変わり無かったがこの頃のアスカに「加減」という言葉は全く存在していなかった.
「そうだったわねえ.」
眉根を寄せたキョウコとは対照的ににこやかに応えるユイ.彼女は湯飲みを一口二口すすると用意したお茶菓子に手を付ける.
「そう言えばここに引っ越す少し前の頃・・・」
落ち着いた口調でユイは回想を続けた.
− A.D.2005年某月某日 −
「出てきなさいっ.アスカ!」
キョウコの怒声がこだまする.アスカが生まれてこの方,キョウコが声を張り上げたのはこれで何十度目だろうか.とにかく,アスカは元気な子でその元気が過ぎることが特にシンジ絡みでは度々あった.
「やっ.」
「うっく,うう・・・」
公園のジャングルジムの中に入りこんでキョウコの手を逃れようとする3歳児のアスカ.彼女の遥か上・・・ジャングルジムの頂上では同じ年頃の半袖半ズボン男の子が身を縮こませながらくぐもった声を上げていた.
「うっ,うう・・・おひはへはいよ〜(おりられないよ〜)」
半袖半ズボン男の子・・・シンジは目から涙を流しながら声を押し殺して泣いていた.言葉からどうやらジャングルジムから降りることが出来なくて泣いているらしい.降りられないのに何故シンジはこうして上に登ったのだろうか?
「またシンジ君に意地悪して・・・いい加減になさいっ!アスカ.」
事態の原因はアスカにあった.今を去ること数分前,二人で一緒に遊んでいたアスカはシンジを追い立てるように上に押し上げると自分はさっさと下に降りたのである.で,取り残されたシンジが泣き出したというわけであった.
「シンジ君.さ,おばさんの手につかまって.」
「うっ,うう・・・」
取り敢えずキョウコはジャングルジムの外側に・・・はいていたスカートがちょっと突っ張るのを感じながら・・・二・三段よじ登って頂上のシンジに手を伸ばす.シンジはよろよろとキョウコの手の元に這い寄って“救出”された.
「もう大丈夫よ.シンジ君.」
キョウコはシンジを抱え降ろすと座り込み,安心させようと声を掛ける.キョウコの慰めにシンジはこくこくとうなずいた.
「アスカっ.」
「(ぷいっ)」
再び,キョウコはアスカに怒鳴る.それに対してアスカはぷいっと顔をそむけて反抗的な態度を取った.様々な意味でアスカは早熟で,特に知育と体育に関しては同年の子よりも遥かに発達していた.スカートのキョウコがジャングルジムの中で思うように動けないことをいいことにアスカはちょこまかと動いては母の手を逃れていた.
・・・キョウコがアスカを捕まえるまでそれから約10分の時間を要した.
「シンジーっ!」
「・・・・・・・」
深緑の中,アスカがシンジの手を引っ張る.二人の後を男女二人ずつの大人四人が続く.休日である今日は碇・惣流一家総出で近くの自然公園まで足を運んでいた.
「・・・いつもずっとああならばいいのに.」
「・・・アスカちゃんは悪くない.はっきりしないシンジがいかんのだ.」
子供二人のほのぼのとした光景を見ていたキョウコがため息まじりに呟く.それに対してゲンドウは自分の息子を突き放した物言いをする.女の子に甘くて男の子に厳しいのは男親の常なのだろうか.
「気に病むことじゃないわ.アスカちゃんもキョウコの言うこと,解るようになるわよ.」
「だといいのだけど.」
「済みません.ユイさん.」
アスカの(特にシンジに対する)“やんちゃ”振りに頭を痛めている様子のキョウコにユイは至って楽天的に話し掛ける.シンジがアスカに結構泣かされているにも関わらず,遠ざけられたりしなかったのはこの両親あってのことなのかもしれない.
「それにもしそんなに非道かったらシンジ,とっくの昔にアスカちゃんから逃げ出してるわよ.」
軽い調子でユイは言葉を続けて前方を指し示す.そこには仲良く手を繋いで歩いている子供二人の姿があった.まあ,本当に四六時中苛められていたらそれこそユイの言う通りシンジはアスカに近寄らなくなっていただろう.普段,二人は仲良く遊んでいるのである.ただ,アスカが遊び方の「加減」をよく知らないだけなのだろう・・・・・恐らくは.
「おはなの・・・」
「わっか?」
「そう.」
辺り一面草花が生い茂った原っぱに座り込んだシンジとアスカがきょとんとした顔で見上げる.子供達の問いに対して同じく座り込んでいたユイがうなずく.ユイの手にはシロツメ草・・・クローバが握られていた.
「つくれるの?」
「作れるわよ・・・このクローバを使ってね.」
「クロ・・・?」
「クローバ.」
アスカが不思議な顔をしてユイに尋ねる.答えるユイの言葉をシンジは復唱しようとしたが,すすっと言えなくて横からアスカが焦れたように後を続けた.
「作るのはちょっとコツが要るんだけど・・・ちょっとやってみる?」
「うん!やる!」
ユイは子供達にクローバで花の輪を作ってみないかと持ち掛ける.それ対してアスカは元気良くユイの誘いに応じた.
「シンちゃんも作ってみる?」
「・・・うん.」
アスカの返事の後,ユイはシンジに問い掛ける.アスカとは対照的にシンジは控え目にうなずいた.
「そう.それじゃ,手を出して.こういう風にして輪を編んでいくの・・・」
シンジの返事を聞くとユイは原っぱに生えるクローバを手に取ってごく簡素な手順で茎をよっていく.簡単にその仕草を一度二人に見せた後,今度はシンジ,アスカ順番にそれぞれ手を取って同じ仕草を行わせた.
「・・・それじゃ,難しいと思うけど今度は一人で作ってみて.大きいのは大変だから小さめにね.」
「はーい!」
頃合いを見てユイは二人から手を離す.アスカはユイの手ほどきを受けるや否やすぐさま輪っかを作り始める.アスカは素早く輪っかを編み上げていく.
「うんしょっ,うんしょっ.」
シンジはユイの手順を忠実に真似て輪っかを作ろうとする.草を編んではユイのを方を見て,ユイの方を見ては草を編むといった感じだ.草を一つ編む毎にシンジの口から声が出る.
シンジとアスカ,二人はそれぞれめいめいのやり方で輪っかを作っていった.
「・・・駄目よ,アスカ.それはシンジ君のなんだから.」
「いやっ.」
「返してあげなさい.アスカ.」
キョウコがアスカを咎める.アスカの右手には小さめで可愛らしく仕上がったクローバの輪が握られていた.で,傍らではシンジがうずくまっている.どうやらシンジが作り上げたそのクローバの輪をアスカが取ってしまったらしい.
「これ,ほしいのっ.」
「ワガママ言わないのっ.」
「いやったらいやっ.」
「アスカ!ママ,怒るわよっ.」
駄々をこねるアスカにキョウコが苛立ちの声を上げる.早熟で他の子よりも力が強いせいかアスカは自分の欲求を力ずくで果たそうとするところがあった.頑ななアスカの態度にキョウコの苛立ちがますます募ってくる.とその時,シンジがキョウコの服を引っ張った.
「ん?どうしたの?シンジ君.」
「それ・・・あげるの.」
「・・・・・・・」
キョウコは怒っていた顔をいったん引っ込めてシンジに向き合う.シンジは少し俯き加減に不安げな顔をして弱々しい声でキョウコに話し掛けた.すると,何かを考えるかのようにキョウコは黙ったままシンジと向き合う.
「・・・ありがとう.シンジ君.でも,これは受け取るわけにはいかないの.シンジ君に返してあげなさい.アスカ.」
少し間を置いてからキョウコはシンジに微笑み掛けその頭を撫でる.気性の激しいアスカに比べてシンジはどこか気の優しい所があった.だが,そのことはアスカにとって必ずしも良いことをもたらしているとは限らなかった.
「・・・・・・・」
シンジがキョウコに頭を撫でられるのを見るや否や,アスカがいかにも面白くなさげにクローバの輪をキョウコに突き出す.輪を突き出した彼女の顔はあさっての方向を向いていた.キョウコは無言でそれを手に取るとシンジに手渡した.
「はい.シンジ君.ごめんね.」
「ありがとう,おばさん.」
キョウコの手からクローバの輪がシンジの手元に移ると,シンジはにっこりと微笑んで彼女にお礼を言った.シンジの可愛らしい笑みにキョウコの頬が緩む.すると,近くにいたアスカが突然シンジの頭をポカリと一発叩いた.
「バカシンジ! べーだっ.」
「アスカっ!」
それからアスカはシンジにあかんべえをするとスタスタとその場を離れてしまった.アスカの行動にキョウコは声を荒げる.キョウコはこのままアスカを捕まえてお尻を二・三発叩きかねない勢いだったが,ゲンイチロウが彼女を宥めて取り敢えずその場は収まった.
「はい.おかーさん.」
「・・・本当にいいの?」
「(こく)」
「そう?ありがとう.お母さん,大事にするわ.」
息子に問いかけをするユイにシンジはうなずく.結局,シンジの手に戻ったクローバの輪は母ユイに渡された.
「アスカ.」
「(ぷいっ)」
「アスカぁ〜.」
「(ぷいっ)」
「うぅっ・・・」
それからずっとアスカはご機嫌斜めでいくらシンジが話し掛けてもそっぽを向くばかりだった.次第にシンジがイジケ虫になっていく.・・・気まずい空気が二人の間を流れていた.
「もっとすごいの,つくるのっ.シンジ!」
「う,うん.」
「みてるのよっ.」
「うん・・・」
アスカが再びシンジと口をきいたのはお昼の後であった.どうやらアスカは自分でまたクローバの輪を作ることに決めたようだ.お昼前にそうしたようにアスカは原っぱの中で作業を始める.シンジもまたアスカに付き合わされていた.
「おおきいの,おかーさんが・・・.」
「つくるのっ.」
肩に力を入れて輪っかを作ろうとするアスカにシンジが話し掛ける.どうもアスカはシンジのそれに対抗して大きいのを作ろうとしているようだ.母ユイが言っていた注意をシンジが言おうとするとアスカは不機嫌そうにシンジの言葉を中断した.
『アスカ,まだおこってる・・・』
シンジは地面の方を見たりアスカの方を向いたりで落ち着きがない.周りの人間の機嫌が悪いとそれだけで不安感を覚える・・・特にシンジはその傾向が強かった.
「ねえ.」
「なによ!?」
「やっぱり・・・」
「うっさーい!」
再びシンジがアスカに声を掛ける.アスカのご機嫌はまだ斜めのようだ.欲張り過ぎがたたっのか,クローバの輪が上手く作れないでいた.再びシンジはユイの言葉を繰り返そうとする.たがそれは,アスカの苛立ちをますます募らせるだけであった.
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「あ.」
「あ.」
大きいのを作ろうとアスカはクローバをより合わせる.だが,アスカの作ろうとした輪は3歳児にはあまりにも大きすぎてちょっとした弾みでバラバラに崩れてしまった.輪が崩れた瞬間,アスカとシンジは短く声を上げる.
「・・・もういやっ.」
「あ,アスカぁっ!?」
様々な苛立ちが頂点に達したのか,アスカは突然立ち上がって首を横に振る.そして次の瞬間には林の方に駆け出してしまった.突然のアスカの行動にシンジは一瞬呆然とする.
「おとーさん!おかーさん!」
「アスカ!?」
それから間もなく我に返ったシンジは彼にしては珍しい大声を上げた後,おぼつかない足取りでアスカの後を追いかけた.離れた所で二人を見ていたキョウコがいち早く立ち上がって子供達の足取りを追う.他の大人達も後に続いた.
「危ないからちょっと待ちなさーい.シンちゃん.」
「アスカぁ〜.」
先にアスカを追いかけたシンジをユイが引き留めようとする.だがシンジの耳にユイの声は入ってなかったようで,シンジは林の中へと入って行ってしまった.
「シンジ!」
「アスカっ!」
林の中に入った大人達のうちゲンドウとゲンイチロウがそれぞれ自分の子の名を呼ぶ.シンジ達からやや離れてしまったことで出足が遅れたのが災いしたのか,大人達は小さい二人の姿を薮の中で見失ってしまっていた.
「シンちゃーん,居たら返事しなさーい.」
ユイがシンジに呼びかける.3・4歳児の足なら近くに居るはず,ユイはそう確信していた.恐らく大人四人の中ではその時彼女が一番落ち着いていたのかもしれない.
『つまんない・・・』
アスカは膨れっ面になって林の中をずしずしと歩く.自分の思い通りにならない,そのことにアスカは苛立っていた.林の中を歩くアスカの行く先に自分の背丈よりも高い薮が立ちはだかる.
「えいっ.」
アスカは足を振り上げてイライラを薮にぶつける.だが,その事がアスカに思わぬ奇禍をもたらすこととなった.
「アスカ?(ひっ)」
・・・その奇禍に気が付いたのはアスカを除けばシンジが最初だった.林の薮の中で彼女を見つけたシンジはその光景に凍りつく.
そこには大きなクモの巣と何やら粘っこい樹脂みたいなものを頭から被ったアスカの姿があった.お出かけの服はすっかり汚れてしまってしかもご丁寧にその上を毛虫が這っていたりもしている.アスカは今までシンジが見たことの無い怯えきった顔をしてその場で固まっていた.
『ど,どうしよう?』
「ひっ・・・く.シンジぃ〜.」
「・・・アスカ?」
アスカの悲惨な姿にシンジは引きかけた.だがその時,アスカがその青い瞳を潤ませて普段は全く見ることの無い弱々しい声を上げた.そんなアスカの姿にシンジは驚きの表情で呟く.
「・・・・・・・」
それから,シンジは目をつぶり右手を開いたり閉じたりする仕草を何度か行った.
「えいっ.えいっ.」
そして次には,シンジは目をつぶったまま声を上げてアスカにまとわりついたクモの巣やら樹脂みたいなものやらを取り払い始めた.何ともはっきりとしない不快な感触がシンジの手に伝わってくる.すると,シンジは手をぶんぶんと振り回してそれらを手から追い払った.
「いたっ.」
「えいっ.」
「いたっ.」
シンジの振り回した手がアスカに当たって彼女は声を上げる.が,シンジは構わずアスカにまとわりついたものを払い落とした.
「おとーさーん!おかーさーん!」
アスカにまとわりついたものをあらかた払い落としたシンジは大声を上げて大人達に自分達の所在を知らせた.
「不貞腐れるのもいい加減になさいっ!アスカ.」
シンジの声に反応して大人達が集まってからの第一声はキョウコの叱咤であった.その物凄い剣幕と先程の恐怖が抜けきっていないアスカは怯えるように傍らのゲンイチロウの後ろに逃げ込んだ.
「落ち着いてママ.」
「これが落ち着いていられますかっ.シンジ君にも迷惑掛けて・・・」
再びゲンイチロウがキョウコを宥めにかかるが,今度のキョウコの腹立ちはかなりのもののようだ.
「アスカもシンジ君も怖がってるよ.」
ゲンイチロウは自分の足にしがみつくアスカに視線を落としてキョウコを落ち着かせようとする.だが,ゲンイチロウのその言葉はキョウコの中の何かを切れさせた.
「・・・好きで恐い顔なんかしてないわよっ!あなたっていっつもアスカに甘いんだからっ.ゲンイチロウばかりいい顔してずるいわよっ.」
「な・・・」
次の瞬間,キョウコの怒りの鉾先は夫のゲンイチロウに向けられた.その言葉も結婚以来あまり使わなくなっていた“ゲンイチロウ”という呼び名まで出ていた.ゲンイチロウの顔色が真っ青なものとなっていく.
「キョウコ・・・」
「な,何よっ?」
「ごめん・・・」
ゲンイチロウの右手がゆっくりと上がる.彼の体は震えていた.キョウコはぶたれるのを覚悟して体を固くする.だが,ゲンイチロウの右手の上昇は腰の辺りで止まり彼は頭(こうべ)を下げ拳をぎゅっと握りしめて呟くのみだった.キョウコの言葉がかなりこたえたらしい.
「・・・・・・・」
そんなゲンイチロウの反応にキョウコはそれ以上何も言えなくなってしまっていた.気まずさがその場を支配する.キョウコの方も俯いてゲンイチロウから視線を逸らしてしまった.
「・・・パパ?ママ?」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「パパ?」
「・・・・・・・」
「ママ?」
「・・・・・・・」
いつもと違う,いや今までまったく見たことの無い両親の様子にアスカが首をきょろきょろとさせる.アスカは父親のゲンイチロウを,母親のキョウコを呼ぶが二人とも黙ったまま応えなかった.それから自分がつかまっていたゲンイチロウの足を揺さぶるが反応が全く無い.
「ふぇっ・・・え〜ん〜え〜ん〜 パパ〜 ママ〜 」
「「あ,アスカ!?」」
「え〜ん〜え〜ん〜」
次の瞬間,アスカは大声を上げて泣き出していた.突然のアスカの泣き声にキョウコとゲンイチロウがびっくりして視線を娘に移す.
「・・・キョウコ,ゲンイチロウさん.」
我に返ったユイが何かを促すかのようにキョウコとゲンイチロウの名を呼ぶ.ユイに呼ばれた二人ははっとする.それから,二人はアスカのそばに寄り彼女に優しく声を掛けていった.・・・しばらくの間,アスカは泣きじゃくっていた.
「ねえ,おかーさん・・・」
「大丈夫よ.シンちゃん.アスカちゃんはちょっと怖かっただけなの.」
「うん.・・・?」
事の成り行きにシンジは不安げな顔でユイを見上げる.それに対してユイは穏やかな口調でシンジに応えた.シンジにはユイの言ってることの意味は良く分からなかったが母の表情に安堵感を覚える.ふと,シンジは頭の上に誰かの手が乗っかっているのを感じた.
「おとーさん?」
シンジが見上げると頭に手を乗せていたのは父ゲンドウだということが分かる.シンジと視線が合うとゲンドウは微かに口元を緩める.そしてシンジもまたゲンドウに微笑み返した.
− そしてまた A.D.2008年3月某日 −
「そ,そんなこともあったわね.あの頃は“戦争”みたいなものだったから・・・」
一連の顛末の回想を終えた後,キョウコが少し恥ずかしげに語る.今でこそ聞き分けの良くなっているアスカだが,ここ第三新東京市に引っ越す前の頃まではキョウコ(とまだ国内に居ることの多かったゲンイチロウ)を事ある毎にてこずらせていた.
「あの事件があった後,しばらくの間アスカちゃん大人しかったわね.」
「でも,一週間も経つとまたシンジ君にちょっかい出して.で,また怒鳴って.」
「怒ったり泣いたりの繰り返しだったわね.」
「それにしても,シンジ君はあんまり変わらずおっとりしてるわね.その辺はユイに似たのかしら?」
「さあ?どうかしら?」
「さあって,ユイ・・・」
お茶とお茶菓子に手をつけながらユイとキョウコは話し続ける.アスカがシンジの“お姉ちゃん”するようになったのか・・・何年何月何日というはっきりした時期は結局分からない.シンジとアスカ,一緒に育ってきて幾つかの出来事を経ているうちにいつの間にか今の関係になっていったというのが恐らく真相だろう.
「・・・あの時のクローバの輪,結局どうしたの?ユイ.」
「大事に取っといてあるわよ.」
「取っといてあるって・・・え?どういうこと?」
「ほら・・・ね.」
「ユイってば・・・」
思い出話のついでにキョウコは事件の発端となったクローバの輪の行方についてユイに尋ねる.キョウコの疑問にユイは棚から古い菓子箱を手にして中から透明のアクリルケースを取り出す.そこには,腕輪くらいの大きさのクローバの輪が納められていた.何とユイはシンジからもらったクローバの輪をドライフラワーにしていたのである.
「ただいまっ.」
ユイがクローバの輪を取り出した時,玄関から女の子の元気な声がこだました.アスカである.本当は「ただいま」では無く「こんにちは」なのだが,この辺りはアスカと碇家の関係をよく物語っていた.
「おかえりなさい.シンちゃん.こんにちは,アスカちゃん.あら?レイちゃん.いらっしゃい.」
ユイが玄関に出迎えるとそこにはアスカとシンジ,それにレイが立っていた.レイは青い長袖のトレーナーに白の肩から吊るタイプのズボンと外での遊びに向いた格好だ.
「…こんにちは.」
「はい.こんにちは.」
ユイに声を掛けられてレイはおずおずと挨拶をする.それに対しユイはにっこりと微笑んでレイに挨拶を返した.
「おばさま!シンジったらまたこけてひざすりむいたのよっ.ホントっ,ドジなんだからっ.」
「あら?こっちに来なさい,シンちゃん.お上がんなさい,アスカちゃん,レイちゃん.」
「はーい.」
「…おじゃまします.」
挨拶が終わるとアスカがけたましくシンジのことを喋り出す.シンジは膝小僧を擦りむいていた.ユイはシンジの怪我の具合を診る.怪我の処置の方は一応傷口を水で流したようだが,念のためにもう一度流水で流すことにしてユイはシンジを風呂場に連れて行く.それからアスカとレイには家に上がるよう促した.女の子二人は靴を脱いで碇家に上がった.
「ママ.来てたの?」
「…こ,こんにちは.」
「こんにちは,レイちゃん.お帰り,アスカ.」
「ただいまぁ.ママ!」
洗面所で手を洗った後,ユイと別れたアスカとレイはリビングに向かう.するとそこにはキョウコがソファに腰掛けていた.挨拶の後,レイはふとキョウコが手にしている物に視線を向ける.
「…クローバのわっか.」
「どこでかったの?ママ.」
「え?」
キョウコが手にしていたのは先程ユイが取り出したアクリルケースだった.どこで買ったのかというアスカの問いにキョウコは当惑する.
「・・・・・・・」
「?」
『・・・そっか.アスカ,覚えていないんだ.』
無言でキョウコはアスカを見つめる.そんなキョウコにアスカはきょとんとした顔で見ていた.そんなアスカの表情を見てキョウコはアスカがあの時のことを覚えていないのだと認識する.
「これはユイおばさんのものなんだけど・・・ここに引っ越してくる前に作ったものをドライフラワーにしたのよ.」
「ふーん・・・おばさまのなんだ.」
キョウコは詳細を端折って簡単に由来を説明する.アスカはキョウコの手にあるそのクローバの輪をじっと見ていた.
「あーっ.おはなのわっか.」
「シンジ!」
アスカがクローバの輪を見ていると背後から声がする.アスカが振り向くとそこには治療を終えたシンジが立っていた.
「どうしたの?それ?」
「おばさまのだって.しらなかったの?シンジ.」
「うん.」
シンジはそのクローバの輪についてアスカに尋ねる.シンジもまたあの時のことを覚えていない様子だった.二人して全く覚えてないことが何だか可笑しく感じられて思わずキョウコはちょっと吹いてしまう.
「なにがおかしいの?」
「な,何でもないわ.アスカ.それよりママ,午後からお仕事だから大人しくお留守番してるのよ.」
「はーい.わかってるわっ,ママ.」
笑うキョウコを見咎めたアスカが不思議な顔をして尋ねる.キョウコは吹き出すのを堪えると話題を午後のことにすり替えた.キョウコの言葉にアスカは素直に返事する.
「・・・お昼だけど,レイちゃんも食べていく?」
「…ううん.おかあさん,つくってまってるから.」
「そう? 残念ね.それじゃ,お母さんによろしく伝えてくれる?」
「(こく)」
シンジと同じくしてリビングに戻って来たユイがお昼ご飯についてレイに尋ねる.ユイの言葉にレイはうなずいた.
「あ.レイちゃん,卒園式の時の写真,お母さんに渡したいから帰る時一緒に行ってもいい?」
「(こく)」
ユイに続いて今度はキョウコがレイに尋ねる.キョウコの言葉にもレイはうなずいた.
「おひるまでなにしてあそぼっか?アスカ.レイちゃん.」
「エバンにんぎょうをだすのよっ.シンジ.」
「…エバンごっこをするの?アスカちゃん?」
大人達の用件が終わって,シンジがアスカとレイに家遊びで何をするか尋ねる.三人はおもちゃ箱のある部屋へと移動していった.
「やっぱり忘れてしまうものなのかしら?ユイ.」
「・・・そうかもしれないわね.」
子供達が部屋に行ってしまった後,キョウコがユイに尋ねた.ユイは苦笑いを浮かべながらキョウコに答える.その口調には少しばかり寂しげなものが混じっていた.
『無理も無いけど・・・覚えてて欲しかったな・・・シンちゃん.』
なぜなら,そのクローバの輪はシンジからユイに贈られた最初のプレゼントだったからである.
公開1998+10/11
ご意見・ご感想等は
qyh07600@nifty.ne.jpにまで.
今回はアスカとシンジがメインの話です.前から幼稚園以前の二人を一度は書いてみたいと思っていたのですが・・・・・“お姉ちゃん”となる前のアスカって何となく “わがままっ子” “やんちゃっ子” “いぢめっ子”(そして“寂しがりやさん” ^^;)のイメージが筆者の頭に思い浮かびまして(^^;)このような展開になりました.その一方で,シンジの方はあまり変わってませんね(笑).
今回はシンジとアスカを動かすのが大変でした.(まったくもって“台詞の力”は偉大です.^^;) また,幼稚園未満の二人(と両親)を描くのは筆者には分からない領域がいつもよりも多くて難しかったです.(・・・もっと描きこまなければならないことが一つ,二つ,三つ,・・・,沢山−汗.)
次回は(また間隔が開くとは思いますが)ミサトがメインの話(の予定)です.
【お・ま・け】(注1)
「やっほーっ,Vくん♪」
(約十分後)
「(ぼそっ)・・・短いわね.前回の約半分じゃない.」
(次も続けるかは未定−笑)
注1:外伝#1【お・ま・け】の続きです.
「あ.お久しぶりです.Mさん(仮名).」
「ほーんとっ,久し振りよね〜っ.一体どこに行ってたのよ?」
「いえ,その,ちょっと・・・ごにょごにょ・・・(自分持ちのHPの方に・・・)」
「・・・ま,いいわ.で,書いたんでしょ?外伝の最新話.」
「ええ,まあ.ここに.」
「どれどれ,見して〜.」
「(ギクッ)そ,そんなこと無いですよっ.大体,前回は“エバン”が入ってたからあの長さになった訳で・・・」
「それを考慮しても二人で一話だから一人あたまではレイちゃんの半分じゃない.」
「うっ.それは・・・その・・・あれ以上回想を続けると,ちょっと散漫な感じになりそうで・・・それに丁度キリのいいところでしたし・・・」
「(きっぱり)言い訳ね.あっさりし過ぎて物足りないんじゃない? “愛”が足りないんじゃないの? “愛”が.」
「ま,まあ・・・幼稚園入園前までに限っても約4年の歳月がありますからそれを約30数KB程度の外伝一話でというのは短いかもしれませんけど・・・・・・・もう一話,書き足しましょうか?」
「(一転して)それは駄目よ.」
「どうしてです?」
「そんなの決まってるじゃない.次はミサト先生の話を書くからよっ.」
「(今,気がついたかのように)あ〜そう言えばそうでしたね.」
「そういうこと.それじゃお約束の口上だけど,この作品に何か思うところがあったらqyh07600@nifty.ne.jpに送るのよ.(ご機嫌に)・・・ふふっ,Vくん,次回は特製の“手料理”を用意するからねん♪」
「・・・いえ,その,料理は結構です(汗).」(注2)
注2:大家さんの小説「めぞんEVA」でのミサトがEVA小説界の通説に従って(?)殺人料理の作り手なのかどうかは不明です(笑).