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そして・それから



「…だあ,だああ.」

「サツキにはまだ無理だよ.」

まだ一歳と三ヶ月の娘が僕の方に手を伸ばす.娘が手を伸ばした先にはお弁当として持ってきた食べかけのおにぎりがあった.

「だあ〜.」

僕がそのおにぎりを口にすると娘はちょっとむくれた顔をする.娘・・・サツキはいろんなものに手を伸ばしたり掴んだりするのが好きな子だった.

「サツキはこっちよ.」

妻がミルクの入ったほ乳瓶をサツキに差し出す.最初は僕が食べたおにぎりに未練があったのか口に咥えようとしなかったが諦めたのかやがて瓶を口にする.陽光の下,短めの空色の髪を輝かせ赤子を見つめる妻の姿はまさに『お母さん』という感じで僕は見入っていた.

「どうしたの?あなた?」

視線に気づいた妻が僕の方を向いて訊ねる.赤い双眸が僕を見つめていた.

「え?うん・・・レイが『お母さん』してるなって,思って.」

「だって『お母さん』よ.私.」

突然訊ねられた僕は至極当たり前なことを口走っていた.本当に何を言ってるんだろう僕は.

「いや,その,あの・・・」

「ふふっ…ありがとう,あなた.」

しどろもどろになった僕にレイは優しく微笑んでいた.そんなレイが愛しくて僕も微笑み返す.

「(ぷはっ)だあだあ.」

サツキがほ乳瓶を口から離して声を上げる.自分の存在を主張するかのように.そう言えばこの前もアスカが家に来た時,彼女の長い髪を引っ張って驚かせたことがあった.

「シンジとレイがあーんまり仲が良いから『わたしもー』って言ってるのよねーっ.」

髪を掴ませたままアスカはサツキに微笑み語り掛けては僕達二人のことを冷やかしていたっけ.あの時,アスカが言ってたことは案外本当のことなのかもしれない.

「サツキ.」

「(はぐっ ごくごくっごくっ)」

レイに代わって僕がほ乳瓶を支えるとサツキは再びそれを口に咥えては満足気に飲んでいた.

「後の運転,私が代わるわ.」

レイが僕に切り出す.今,僕達は母さんの墓参りとそして父さんに会うために旧第三新東京市に向かう途中のSA(サービスエリア)で早めの昼食と休息を取っていた.

「…うん.お願いするよ.」

レイの申し出に僕は素直に応じた.弁当を片づけて車に戻るとレイが運転席に着いて僕は後部座席に設置したベビーシートの隣に座る.サツキが生まれる前は助手席が定位置だったが今はここに変わっている.

レイと結婚して・・・サツキが生まれて・・・少しずつ変わって行く.今日もまた変わっていくのだろうか.・・・父さんと何を話したらいいのかまだ分からないけれど.

レイが車のキーを捻って僕達は再び旧第三新東京市へと向かい始めた.






















広い・・・一人の人間がデスクワークをするにはあまりにも広すぎる部屋の中で男と女が一人ずついた.男はこの部屋の主で『司令』と呼ばれていた.男は部屋の中にたった一つだけある執務机に両ひじをついてサングラス越しに前を見据えながら女の報告を聞いていた.報告の内容は来客の到着を告げるものだった.

いかつい風貌を持ち,頭髪やあご髭に白いものが混じったその男は姿勢を崩さずに女の言葉を聞いていた.男は罪業深き者だった.多くの者を死地,あるいはさらには死に追いやった.自分の息子を筆頭に多くの人の思いを裏切った.今,男の目の前に立っている白衣に身を包んだ女もまた男にその罪を思い知らしめる者だった.

金髪で左目元の泣きぼくろが印象的なその女はかつて男の愛人だった.だが男にただ利用されているのに過ぎないと完膚なきまでに思い知らされた時,女は男に牙を剥いた.女は男に反旗を翻し男の一人息子を傷つけた.男が憎かったから.「モノ」と思っていた者にすら勝てなかった自分が悔しかったから.

人類の未来を決める最後の戦いが終わった後,女にはここを去るという選択肢もあった.だが,女は去らなかった.男との関係は既に終わっていたが彼女の居場所はここにしかなかった.いや,あったかもしれないが結局彼女はここを選んだ.それが男への未練なのか復讐なのかあるいは同じく男の犠牲になった母への思いなのかは彼女自身にも判らなかったがともあれそれから十年もの間,女は男の為すことに付き合っていた.

到着を告げた女の言葉に男はすっと立ち上がった.この十年,男は選択された未来の流れに従って生きていた.唯一の息子に拒絶され手元にいた少女も去っていった.多くの者が彼から離れた中,今でも彼のそばにいるのは己の罪を思い起こさせる女だけだった.男は女に一緒に来るように促す.女は少しためらったが結局,男の後をついていった.

来客は男の息子と妻そして孫娘の三人だった.

出迎えた男と女は二人共,息子の妻に直接会うのは十年振りだった.出迎えた男の方はともかく女の方は「モノ」だと思っていた十年前の少女は今,娘に優しい眼差しを向ける母親になっていた.男の息子が女に微笑みかけながら一ヶ月半振りの再会の挨拶の言葉を発した.





・・・不意に女の目から涙が溢れてきた.それから両の手の平を顔に押し当てながら崩れていき詫びの言葉が口からこぼれる.・・・十年前の少女は「モノ」ではなかった.それにあの時,男が見ていたものは本当に彼女だったのだろうか.本当は・・・.そんな思いと自分に微笑みかける彼女の夫を見て女はとめどなく泣き崩れていた.

「・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい.」

突然泣き崩れた女の肩に最初に手を置き言葉を掛けたのは男の息子だった.おろおろしながらも彼はまず宥める言葉を掛け,続いて感謝の言葉を彼女に告げる.なぜなら,彼が傷つけた友の治療には彼女が大きく関わっていたから.この前は父親とのことで頭が一杯で何も言えなかったから.

彼の言葉を受けて女はさらに泣き崩れる.優しい言葉が痛かった.辛かった.・・・不意に彼女の髪が引っ張られる.彼女が顔を上げるとそこには彼の妻が娘を抱えた状態でしゃがみこんでいた.彼女の髪を引っ張ったのはその赤ん坊で母親が慌てて髪を赤ん坊の手から引き剥がす.その光景を見て彼女は少し落ち着いた.

落ち着いたところで赤子の母親が彼女に赤ん坊を抱くことを持ち掛ける.一瞬の躊躇の後,彼女は恐る恐る母親の手から赤子を抱き上げた.赤ん坊は気をつけないと抱き落としかねないくらい元気に手足を動かしていた.『生きてる』ことを主張するかのように.彼女は再び涙を流していた.

しばらく抱いた後,彼女は赤子を母親のもとに返す.その間,何も語らずにじっと立っていた男はサングラスのずれを直して時間であることを皆に一言告げると外へと歩き始めた.男の息子夫妻と妻に抱かれた娘が彼女に別れを告げた後,男の後に続く.彼女はその後ろ姿を微笑んで見送った.これより先は男とその息子達だけの領域なのだから.






















「・・・・・」

母さんの墓の場所までの移動の間,僕は落ち着かなかった.僕達を見たリツコさんが突然泣き崩れたこともあったけど,僕が父さんに挨拶以外は一言も話し掛けられないでいたことが大きな要因だった.昨日,トウジやレイに励まされた僕だったがそれでも心のざわめきは如何ともしがたかった.

「・・・・・」

ネルフ所属のジェットヘリの中,父さんは一人前部座席に座っている.僕とレイ・サツキは後部座席に便乗していた.前方を見据えて黙ったままこちらを振り向かない父さんを前にして僕は握っていたレイの手に思わず力を入れていた.

「…あなた…痛い.」

「あ,ごめん.」

小さな声でレイに指摘されて僕は慌てて手を離す.するとレイは僕の手をそっと包むように握り直してくれた.・・・少しだけ,心が落ち着いた.









IKARI YUI

1977 - 2004









簡素な墓標がずらりと立ち並ぶ墓地の中に母さんの墓はある.墓石に刻まれている文字も母さんの名前と生没年が記されているだけだ.10年前,父さんと二人で来た時にはここは本当の意味での墓ではなかった.今は本当の墓だけれども.

墓石の前には百合の花束が二つ供えられていた.一つは僕達から,もう一つは父さんからのものだった.ここに来るまで父さんと僕達の間では「降りるぞ」とか「ついてこい」とか「ああ」とかばかりで会話らしい会話は何もなかった.

「…あのさ,父さん.」

墓石の前にかがみ込みながら僕は父さんに切り出す.司令服に身を包んだ父さんが後ろで突っ立っている.白のワンピース姿のレイはサツキを抱きながら少し離れたところで控えていた.

「何だ.」

ぶっきらぼうな口調で父さんは応える.父さんがいつもこんな口調で話すことは分かっていたけど実際目の当たりにするとやっぱり話しづらい.

「今日は・・・暑いね.」

「ああ.」

「この暑さ・・・あとどれくらい続くかな?」

「さあな.」

「今年は,父さんと来れて・・・嬉しかった.」

「そうか.」

とりとめのないことを僕は話す.話の中で僕はもどかしい思いをしていた.確かに父さんとここに来ていることは嬉しいこと・・・だと思う.だけど,僕が父さんに話したいこととはちょっと違っていた.レイはと言えばサツキを抱いたまま黙って僕達の成り行きを見守っていた.

「シンジ.」 「父さん.」

話が止まりかけたところで僕と父さんは同時に言葉を発していた.

「…何だ.シンジ.」

「父さんからで・・・いいよ.」

「…そうか.」

「シンジ,レイ.聞いてくれ.」

父さんは僕達の注意を自分の方に向けさせると,一旦僕の肩口の方に視線をやってから空を見上げた.それから僕とそばに寄り添ってきたレイの方に視線を戻す.

「今から言うことが虫の良すぎることはよく分かっている.許してくれとは言わない.だが,これは言わなければならないことだ.」

こぶしを握り固めながら父さんは僕達に語り掛け,一呼吸で言い切った所で父さんは間を置いた.それから絞り出すように続きを口にした.

「…すまなかった.シンジ.レイ.」

僕達への謝罪の言葉と共に父さんは最敬礼で頭を下げていた.

「父さん・・・」

僕は思わず呟いていた.それは僕が心のどこかで父さんから聞きたかった言葉.だのに,その言葉を発した父さんの姿に僕は少しだけ悲しみを覚えた.

「頭を上げてよ・・・父さん.」

僕はすっと立ち上がり父さんに話し掛ける.僕に言われても父さんは頭を上げようとしなかったが,僕が左肩にレイが右肩に触れたところでようやく父さんは頭を元に戻した.

「・・・・・」

「・・・・・」

数秒間,黙ったまま僕と父さんは立っていた.父さんは泣いていなかった.ただ,視線を空に向けていた.僕はちらりとレイの方へ視線を向ける.レイは僕に微笑んでうなずいた.それから僕は再び父さんに視線を戻す.

「父さん・・・」

僕の言葉に父さんは空に向けていた視線を下に戻す.僕と父さんとで視線が絡み合う.それから,僕は今までの様々な思いを込めてこの前伝えられなかった言葉を口にした.

「・・・ありがとう.」

その時,僕はどんな顔をしていたか自分では分からなかった.

「…すまない.」

僕の言葉を聞いた父さんはもう一度,僕達に頭を下げた.

「ね.写真,撮らない?」

レイが何事も無かったかのように提案する.もし,レイが言い出していなければ僕はこの場で泣き出してしまったかもしれない.レイの提案はありがたかった.僕はレイからカメラを受け取ると努めて明るく振る舞ってレイやサツキ・父さんをファインダーに収めた.

その日,僕達は初めて父さんとの写真を撮った.






















息子夫婦との面会から数日後,男の手元には十数枚の写真が届けられていた.写真には成長した息子の姿,今では人として生きる空色の髪の女性,そして二人の間に生まれた孫娘が写っていた.孫娘を抱く自分の姿もある.孫娘にあご髭を引っ張られている自分の姿に男はいつの間にか笑みを浮かべていた.

男は何枚か写真をめくっていたが,ふと手を止めた.男の目に止まったのは息子との2ショット写真だった.孫娘は写っていない.写真の中の息子は10年前と異なって精悍な体つきになっていた.だが,顔は少年の時の面影を多く残していた.写真の中の息子は微笑んでいた.

感謝の言葉を口にした時の息子の顔が思い出される.あの時も息子は微笑んでいた.様々な思いを背負った中,精一杯の笑顔を見せて.なぜだか男はその笑顔から息子の少年時代,“14歳の碇シンジ”を見出していた.あの時,少年は誰かに助けを求めていた・・・・・.


男は固く目をつぶった.だが,間に合わなかった.涙が頬を伝っていた.一度緩んだ涙腺は男に涙を止めさせることを許さなかった.涙は止めど無く流れ,ついには鳴咽の声を上げた.

・・・それは最愛の妻の消失以来,二十一年振りに男が流した涙だった.


− “あ・り・が・と・う・そして・それから” 終わり −

(そして・それから おわり)

公開98-01/17
お便りは qyh07600@nifty.ne.jpに!!


1998/01/15 Ver.1.0 Written by VISI.



筆者より

最後までお読みくださり本当にありがとうございました.やっとここまで漕ぎつけました.・・・謝ったからって,泣いたからってゲンドウの所業は「ここでは」本編のそれより親としての思いが強いとは言えそう簡単に許されるものではないと思います.(EOEのゲンドウは・・・殴ってやりたい (- -#).)ただ,それでも「ここの」シンジとレイはそんなゲンドウでも受け入れてしまうのだろうな・・・そう思いましてこのような流れとなりました.「6月6日」の世界,シンジとゲンドウの関係についてはこれでひとまず完結ということにしたいと思います.(でも「あ・り・が・と・う」を書いた時点ではこの2作品,書く予定はなかったんですよね.)

前作「あ・り・が・と・う・そして」にご感想を送ってくださった皆様,暖かいお手紙,本当に嬉しかったです.おかげさまで拙いながらも何とか続きを書き上げることが出来ました.改めて御礼申し上げます.(返書は既に出しましたがもし万が一届いていなかったらご一報をお願いいたします m(_ _)m.)

このSSを書くに当たって本編の「嘘と沈黙」を見直したのですが,レイとシンジで前回のSSと似たようなシチュエーション(シンジが父と会う不安をレイに話す)があったんですね・・・見るまで完全に忘れてました(^^;;).(エレベーターの中で頬を朱に染めるレイが(^^)/.)

今回もまた「ゲンドウの野郎!」とか「僕の知ってるリツコさんじゃない!」の方,多数かと思われます(すみません,繰り返しますがこの物語は筆者自身の劇場版に対する補完も兼ねています−^^;)・・・強引でご都合主義炸裂な物語ですが,ご意見・ご感想をお待ちしております.


誤字・脱字・文章・設定の突っ込み等は,

までお願いします.


 VISI.さんの『そして・それから』、公開です。
 

 

 やっと通じた親子(^^)
 

 許せるって大事ですよね・・。

 リツコさんとも、
 ゲンドウオヤジとも。
 

 サツキちゃんの可愛さは、
 凍った空気・心・人etc
 全部溶かしてくれるようです(^^)
 

 

 

 さあ、訪問者の皆さん。
 連続物を完結させたVISI.さんに感想メールを送りましょう!


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