第二十一話:二色(第二部)
セカンドインパクト後建設された第三新東京市。
この街の北部には東名高速、東海道本線、東海道リニアライン等々主要な交通機能が集中しているが市外南部は事実上手つかずな状態だった。
市街地中央から延びるバイパスを南下すると急激に人口密集度が減少する。
あの厄災以前には国道沿いに伊豆半島への観光を楽しめたが今同じ事をしようとするなら潜水艇が必要だろう。
忙しげに動くワイパーの向こう側に巨大な壁が現れると青い車は法定速度まで速やかに減速した。
仰々しいゲートの脇に設置されている自動ドアが開くと二人の男が胡散臭そうな目で近寄ってくるこの車を眺めている。
カーキ色の制服と手にしている自動小銃が工事現場の警備員ではないことを示していた。
ちょっとした緊張感をはらんでいた彼らだったが車種とナンバープレートを確認すると苦笑にも似た笑みをこぼす。
また来たか、そう言いたげな顔だったかもしれない。
万人を拒むように分厚い鋼鉄の扉で閉ざしたゲートをカード一枚で通り抜けると、灰色の海が眼下に広がった。
『開発区』と地図上に明記された新しい海岸線は、すべてが国連の管轄下に置かれ、一般人では足を踏み入れるどころか目にすることすらできない。
それ故人影もなく、崖沿いに設置されている作業道路を疾駆するルノーを見る者は誰もいなかった。
雨に濡れた路面に時折激しい水しぶきを巻き上げながら、遠慮とは無縁のスピードでカーブを走り抜けていく。
「やっぱこのスピードだとテールが流れるわよねえ・・・・此処は誰もいないから幾らでも飛ばせるのよ。街中じゃこんなことたまにしか出来ないしね、憂さ晴らしにはちょうどいいのよ」
タイヤの絶叫と投げ出されそうなほどの横Gを心地よさそうに堪能しながら、彼女はハンドルを操り続けた。
ダミーノイズに混じって聞こえるモーターの駆動音は一瞬ごとに甲高く吠えたてる。
景色のすべては濁流に呑み込まれたように後方へと流れ去っていった。
やがてミサトの目的地なのだろうか、簡単な鉄柵の備えられているちょっとした空き地が現れると彼女は車を停止させた。
「ミサトさん・・・・此処は?」
「この世の果て・・・・じゃなくて第三新東京市の果てよ」
果て、そんな言葉がぴったりくるような場所だ。
切り取られた様に遙か西まで続く崖、途切れた道路の跡は明らかにこの先にまだ地面があったことをシンジに見せつけた。
絶望的なまでに消え去った大地。
かつて見たことがない断崖はそれを形成したときにどれほどの巨大な力が働いたのか、この少年には想像もつかない。
「この沖が伊豆海溝・・・・2000年に地図に書き込まれた名前。これが現れたとき何人死んだか解る?この先の海岸には毎日のように無数の死体が流れ着いたらしいわ、もっともそれで全部じゃないだろうけど」
半島の消滅、単に陸地だけでなくそこにあった全ての生活をも消滅させた。
「此処だけじゃない・・・・東京都なんて世界有数の大都市が一晩で水没・・・・あの日を境にいろんなモノが無くなっちゃった・・・・・」
フロントガラスに雨粒が落ちてこなくなったのを確認すると頻りに働いていたワイパーを止め、ミサトは車外に降り立った。
漂う潮の匂いが風に運ばれ彼女にまとわりつく。
「何で・・・・こんな所来たの?」
シンジは海を眺める彼女の隣に近寄るとその横顔を眺めた。
ミサトの目に映る海と自分の見ている景色は過ごしてきた時間の分だけ違うモノが見えるのだろうか。
アスカに見えないモノが自分には見られるように。
シンジの視線に気がつき顔を向けたミサトの表情は優しい。
「そうかぁ・・・・シンジ君は見たことないわよねぇ。社会の時間に習ったでしょ、この先には伊豆半島があったのよ。たった一晩で消えちゃったけどね」
セカンドインパクトの際、相模湾沖に発生した閃光はあっと言う間に伊豆半島とそこで暮らす人々を飲み込み、全てを記憶の中だけの存在にしてしまった。
その抜け殻は海面の下で魚の住処になっている。
起きたことの巨大さにその当時誰もが現実感を失った。
「そりゃそうよねえ・・・・日本地図から半島が一つ消えちゃったんだもん。それに消えちゃったのは伊豆だけじゃなかったし・・・・世界中のあちこちでいろんな物が消えちゃった」
以前はこの先まで伸びていたであろう道路の後が、シンジの足下で事も無げに途切れていた。
「この先にずっと地面があったんだ・・・・」
シンジにとっては絵空事のようにしか見えない。
ましてや続いていた筈の地面の上に人の生活があったなど、到底想像できなかった。
去年までは退屈なほど静かな日常の中で生活してきたのだ。
セカンドインパクトも伊豆半島消滅も東京都水没も全ては教科書の中の出来事だった。
「東京都と半島の消滅は隕石落下の影響でって習ってるでしょ?」
鉄柵越しに崖下を眺めながらの問いかけにシンジは訝しげな表情を浮かべ小さく頷く。
シンジの知る事実とミサトの知っている現実には小さくはない隔たりがあった。
「本当はね、隕石の落下じゃないのよ・・・・隕石なんて何処にも落ちてなんかいないわ」
「・・・・・じゃぁセカンドインパクトって・・・・」
誰もが同じ事実を共有していると思い込んでいた少年にとっては衝撃的な言葉がミサトの口から語られた。
「隕石ねぇ・・・・セカンドインパクトの原因は違うのよ、隕石の落下なんかじゃない、南極での使徒の暴走が原因なのよ」
「使徒の・・・暴走?隕石って教わってきたのに・・・・」
「そうよ、南極に出現した使徒・・・・最初の使徒よ。それが発動したとき暴走したらしいわ、周囲にとんでもないエネルギー振りまいてね。そのお陰で人類の半数は死んで地上はガタガタ、人類の文明なんてあんなに脆いとは思わなかったわ」
鉛色の海に当時の光景を描き出す。
その目に焼き付いた映像は普段「忘れている」と口にしていたものだ。
正確には思い出したくない、そう口にすべきだろう。
事の始まりは覚えていなくてもその結果はこびり付いている。
「あたしはね、二つに分かれてるの。記憶の消える前と消えた後。消える前の生活は今のシンジ君と同じ・・・・学校帰り友達と一緒に原宿に行っていろんなお店回って・・・・」
ミサトの描き出した記憶は横須賀に帰港した南極調査船を降りたときから始まる。
崩れ去った建造物、水没した東京都、海に漂う無数の死体・・・・それが今のミサトの始まりだった。
吹き付ける潮風が彼女の黒髪をなびかせる。
街のざわめきもこの場所までは届かず、崖に打ち付ける波の音だけが無言の時を埋めた。
「・・・・・父親に連れていかれた南極から帰ってみれば住んでいた場所は海の中、友達もみんな海の中・・・・お母さんもその時死んだと思う、あの人東京から離れなかったみたいだから。遺体は見つからなかったけど・・・・・たぶんね」
「おかあさん?・・・・ミサトさん・・・・それに・・・」
「時々思うのよ、あの時のことは全部夢だったのかなぁって。でも現実なのよねぇこうやって伊豆半島もなくなってるし」
本来見えるはずのない海が何にも遮られることなく二人の視界を鉛色で埋め尽くす。
一体曇った空とどこが境目なのかにわかには見極められない。
海と空の不明瞭な境界線をミサトは見続けたままだ。
何もない虚空の空間をただひたすら眺めていた。
「ミサトさんて記憶が・・・・?」
「ん・・・・南極に行ったときちょうどセカンドインパクトがあってね、頭打ったらしくってすっぽり抜け落ちてる部分があるのよ。まぁ、大した時間の記憶じゃないんだけどね」
一瞬垣間見せたミサトの表情は自分と同じ年頃の女の子が見せる儚さを纏っていた。
どこかアスカに似ているような雰囲気を感じさせる。
細く頼りない笑みだった。
上空を飛ぶカモメが羽ばたく程度の時間見せた別の葛城ミサト。
「シンジ君・・・・あなたの苛立つ気持ちも解るのよ。まぁ流石にエヴァに乗ってる訳じゃないから全部とは言わないけど焦る気持ちとか・・・・あたしも同じなのよ」
「何が同じなんだよ・・・・事情をみんな知ってるくせに!なのに何も教えてくれなくて・・・・父さんと一緒なんだ」
足下の小石を蹴飛ばすと音を立てながら崖に転がり落ちていった。
その仕草はミサトに苦笑を浮かべさせる。
大人の、女としての笑みだ。
「あたしが事情を知ってる?ご期待に添えなくて悪いけどあたしの知っていることなんてシンジ君と大差ないわ。きっとNERVの誰もがそうよ、何も知らないまま何かに踊らされてるのよ」
「僕も・・・・僕も踊ってるだけなの?」
「さぁね、そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。少なくともあたしは単に踊ってるつもりはないわ。ただ踊らされるのはごめんなのよ、舞台にしちゃあたしの見た景色は血生臭過ぎるもの」
ミサトにセカンドインパクトが起きたときの記憶はない。
だがその直後から日本で繰り広げられた血の演舞を見続けた記憶は、紛れもなく彼女の心に焼き付いていた。
「僕はそんな景色を見てないよ・・・・ミサトさんとは違う、ただ言われてエヴァに乗って・・・・みんなに嘘ついて、アスカを騙して、怖い思いして・・・・何も知らないで!!この先どうなるのか、いつまで続くのか・・・・・先なんて見えないじゃないか!!いつまで踊り続けろって言うんだよ!!」
溜め込んだ思いが吹き出していく。
回答を得られない疑問が彼の背中を強く押す。
「何でこんな思いしなきゃいけないんだよ!!何で普通の生活が出来ないんだよ!!」
何も聞けないまま現状を納得しなければならないのが不快だった。
何も聞けないまま自分が苦しまなければならないのが不満だった。
そんな状況にいるのに終わりの見えないことが余りにも不安だった。
シンジの吐き出した言葉は全てミサトに受け止められる。無視されることも、拒絶されることも、かわされることもなく。
「この先普通の生活を送るために今エヴァに乗るのよ。あたしはそのためにあなたとレイの指揮を執って戦わせる。あたしはね、もう二度とあんな思いしたくないしあなた達にもさせたくない」
「じゃあ、僕と代わってよ!!だいたい僕がこんな思いしなきゃいけない道理なんて無いじゃないか!!」
「代われるモンなら代わってるわよ!!あの時エヴァに乗れたんなら・・・・あたしだって守りたい者があったのよ!!」
ミサトの眼光は鋭く、沸騰したシンジの胸を凍り付かせるほどだ。
この少年の倍の時間を生き、倍以上の出来事を見てきた彼女の言葉はシンジの口を閉じさせた。
「あんたがどんなつもりでいるか知らないけど使徒はやってくるのよ!?こっちの都合なんかお構いなしにね・・・・・あたしやシンジ君がどんなこと言っても状況は勝手に動いていくのよ」
苛立つのはミサトがこの少年と同じ思いを抱え込んでいるからなのだろうか。
彼女自身不明と不安の上にいるのだ。
誰にも縋れず、頼ることも出来ずに。
大きく一呼吸付くと片手で風になびく黒髪を掻き上げると後ろ髪を束ねた。
「あたしが此処に帰ってきて何したと思う?新しくできた浜辺でお母さんの死体を探したのよ。気の狂いそうな死臭の中で反吐を何度もぶちまけて数え切れないほど打ち上げられた腐った死体の中から自分の母親を捜したのよ・・・・・シンジ君、あなたもそうやってみる?そこの海岸でアスカやレイ、お母さんやお父さんの死体探しやってみる?」
ミサトはシンジの肩を抱くと自分の身体に押しつけるように引き寄せた。
彼の冷え切った身体は小刻みに震えていた。
さっきまで沸騰するように熱かった胸の奥も濁流が流れ去った後のような静けさを迎えていた。
「この先どうなるかなんて誰にも解らないのよ。だけど今やるべき事をやっておかないと後で辛い思いするわ・・・・その時は今の辛さと同じじゃないわよ」
ミサトには何もできなかった。
何も知らず、何もする力も与えられず、ただ結果だけを押しつけられた。
目の前に広がる海に沈んだ大勢の人々と同じように。
「・・・・・終わりが見えないのにやることばかり要求されて・・・・重いんだよ。守る事が・・・・」
「それはシンジ君にとって大切だからよ。いつだって大事なモノはすごく重いのよね、時々持ちきれなくなるぐらい・・・・・」
だから諦めて落としてしまうか・・・・・
それともどんな思いをしても抱え続けるのか。
「シンジ君、その重さだけはいつも覚えていて。偉そうなこと言う資格なんてあたしにはないけど何も抱えないのも辛いモノよ」
「・・・辛いことばかりだね・・・・どうしようもないんだろうけど・・・・」
自分と自分の立場が何処か可笑しく、滑稽に思えた。
どう選んでも恐らくは何を知っても楽になどならないのだ。
だが他にどうしようもない、何も失いたくなければエヴァに乗り続けるしかない。
「そうね・・・お互いどうしようもない中でいろんなモノ抱えながら生きていくしかないのよ。それか全部放り出して結果を受け入れるか・・・・それが出来なければ今の中でやっていくしかないわよ」
細く小さな肩に回した手が優しくシンジの頭を包む。
笑みとも泣き顔ともつかない表情が区別の付かない空と海の合間にいる二人に浮かんだ。
「さて・・・・明日は晴れますかね?」
第三新東京市を縦断する市内バイパスを一台の大型車が駆け抜けていった。
常に夕方のラジオによる道路情報で渋滞を報告される道だが、今の時間はまだ順調に流れている。
ウィンドウについた水滴は留まる間もなく流れ去っていく。
「いかがでしたか、あそこの様子は?」
車内の後部座席に座る十歳以上年齢差のある二人の男の会話は、この車が走り始めてから一回も成立していない。
質問だけで答えを得られない男は、それでも気を悪くした風でもなく無言の反応に不敵な笑みを浮かべていた。
「マルドゥック機関では候補者を何人まで絞り込んでしたかね?」
「・・・・・問題はない、当初の人数まで済んでいた」
「ほう・・・・結構ですな。今米国で持ち上がってる量産機計画に間に合うよう委員会からせっつかれてましたからね」
不貞不貞しさを絵に描いたような態度ではあったが、それについて何か言われるでもなく再び無言の時間が支配する。
普通に走っている分にはほとんど音のしない電気自動車内にあってロードノイズだけがやけに耳障りだ。
年上の男はこれといった表情を浮かべないまま流れ去る景色に目を向けていた。
「量産機計画が発動すればご子息も少しぐらい楽になりますかね・・・・」
無精髭がポツポツと生えた顎をさすりながら口にした言葉は相手から答えを引き出すことよりその様子の変化を見るためのモノらしい。
彼、加持リョウジが口にしたのはその反応をもっとも引き出せる事項だったはずだが、何の変化もなく第三新東京市を眺めている。
・・・・それも反応か・・・・
失望した風でもなく、加持は手元の煙草に火をつけた。
細く開けた窓と車内のエアクリーナーに紫煙は吸い込まれていき留まることはない。
「ご子息といえば・・・・シンジ君もそろそろ進学の時期ですか。今日も葛城三佐・・・・いや先生か、ご相談なさってこられたんでしょう?」
「戯れ言だ・・・・今はそんなことどうでも良い」
「だがマルドゥック機関に顔を出しただけではないでしょう。それとも抜けていた2ndナンバーの補充でも?」
車内の後部座席は防音ガラスで仕切られており、どんな話題でもこの場から漏れることはない。
「2003年以降空きになってるナンバー、ドイツの弐号機も宙に浮いた形になってますからね。委員会にしてみれば多額の予算をつぎ込んだあの機体を放って置くわけにも行かないでしょうな」
特務機関の指令に表情は浮かばない。
ただ機械的な眼光が眼鏡越しでタイヤが一回転する時間だけ、加持にに突き刺さる。
そして初めて答えらしきモノを口にした。
「あれは量産機のプロトパターンだ、ベースコードが初号機とは違う。パイロットの選定はそれほど難しくない、いずれ見つかる」
「だから余計に委員会も焦る、か・・・・何も選出機関は此処だけじゃない、各国でそれぞれに独自の選出機関を稼働させていますよ」
「ふん、餌に群がる野良犬どもだ。適格者を用意すれば各国への主導権を取れるとでも思い違いをしているに過ぎない」
抑揚のないしゃべり方が陰鬱に響く。
「だがNERVの上位組織、いずれ此処の選出機関にも口を出しかねない・・・・どう対処します?」
「・・・・おまえに話す必要なない、加持調査官」
ことさらに役名を付けた事でそれ以上の質問を遮った。
加持の職分ではこれ以上の事は聞くことが出来ない。
だがまるでそんなことが聞こえなかったように彼は口を開き続けた。
「現在起動待機状態なのが弐号機だけですからね、選出も的を絞ってますよ」
「ご苦労な話だ・・・・・・」
「一歩間違えばサードインパクト、ベースレンジが広げられた分過剰出力の危険性も大きくなっている・・・・第三次候補者を抱えていてはいてもおいそれと名乗りを上げられない」
皮肉な話だと加持は思う。
人類存亡を賭けた使徒迎撃という単純な話に絡みつく複雑きわまりない思惑。
巨大な戦いの裏で繰り広げられる陰湿で見えない抗争、その中心にいる14歳の少年とその父親。
事が起きてからずっと見続けた自分たち。
・・・・・一体誰が一番多くの事実を見ているのか・・・・
セカンドインパクトの時無数に飛び散ったピース、事実というパズルの元の絵など組上がらない。
・・・・・だから都合のいいピースを作って完成させるのか、誰もが・・・・・
それぞれがパズルの欠片を持ち寄って何処に押し込むか虎視眈々と狙っている。
結局元の絵には戻らない皮肉な状況が生まれているのだ。
どんな絵が組上がるのか、加持は見てみたい。
それを見物するだけの代価はセカンドインパクトの時払ったはずだ。
「まぁ、流れるままに任せるって奴ですか。使徒を倒し続けてる間は安泰・・・・っと」
加持は背筋を伸ばすと柔らかなシートに全体中を預けた。
車内で唯一の話し相手であったゲンドウはすでに加持を無視し始めており、この先どんな話題を振っても何一つ答えそうにない。
窓の外の景色を眺めたまま微動だにしていなかった。
そしてバイパスの分岐点にさしかかると彼らの今日最後の会話がかわされた。
「この先に市電の駅があるからそこで降ろしてやる」
「今日はまだ何かご用時でも?」
「貴様には関係ない・・・・・・降りろ」
「じゃあシンちゃん、此処で降りちゃって」
「うん・・・・」
住宅地に入る路地の前に一台の車が停車した。
ドアが開くと一人の少年が降り立つ。
「まぁ、愚痴でも何でも聞くからさぁもう少しがんばって・・・・って言ってもしょうがないけどね」
「あ・・・・・ん・・・・うん、そうしてみる」
どことなくばつの悪そうな少年の顔に笑みが浮かんだ。
「んじゃぁ、また明日学校でね。バイビーー」
「あ・・・・・今日はありがと・・・・ミサトさん」
照れくさそうなミサトの笑みが夕日に赤く染まる。
さっきまで空を覆っていた雲はようやく半分だけ立ち去り沈む間際の太陽に顔を出す機会を与えた。
磨き込まれた車体に朱色が混ざり昼間見たときとは全く違ったカラーをシンジに見せる。
ウインカーを数回点滅させると住宅地の影へと消えていった。
数秒間彼女を見送っていたシンジだがすっかり覚えてしまったダミーノイズが聞こえなくなると身体を自宅に向ける。
・・・・・アスカ、怒ってるだろうなぁ・・・・
足取りがとてつもなく重く感じる。
学校での言い合いは紛れもなく彼自身の八つ当たりだったのだ。
アスカに悪いところは何もない、全面的にシンジが悪い。
それが解っているだけに180度方向転換してこの場から立ち去りたいとさえ思う。
勿論そういうわけにも行かないのだが。
・・・・・なんて言って謝ろう・・・・・
いろいろな語句を浮かべるがこれといったモノは見つからず、一軒一軒住宅を通り過ぎる。
やがて自宅の屋根が見え、さらには塀が見え始めても何も考えつかなかった。
それでも一応切り札にとミサトに少し出して貰って買ったケーキ数種類を手にしてはいるが、目的が余りにも見え透いてすぐ渡す気になれない。
一歩は半歩に、半歩が三分の一歩に・・・・・亀に追い抜かれそうな足取りで門の前に到着するとそこから一歩も先に進もうとはしなかった。
周囲の家より一際大きい碇家の前で鞄とケーキをぶら下げたまま、見慣れた我が家を眺めた。
いつもより門が高く感じ、玄関の扉が厚いように思える。
こんな錯覚はずっと昔、母親に叱られるのが解っていて帰宅したとき以来だ。
あの時はアスカが庇ってくれたのだが・・・・・・
暫し無意味な時間を過ごしていた彼の前で玄関の扉が勢い良く開いた。
「レイ、早くしないと置いてくわよ!!なんで出先になって着替えるのよ」
腰まで届く長い栗色の髪が大きく揺らし、その少女は飛び出してきた。
そして目の前に突っ立っている少年の姿が視界に映ると、その瞳がこぼれ落ちそうなほどその目を見開く。
「な、何よ!!そんなところで何立ってるのよ!?」
「あ・・・・・・た、ただいまぁ・・・・・」
謝るどころではない。
「帰ってきたんならさっさと家入りなさいよ!・・・・・まさかそこにずっと立ってたわけ?」
「え・・・あ・・・・そんなこと無いよ・・・今帰ってきたばかりだから・・・」
驚いたアスカの表情の中に自分に対する責めの色が見えるように思うのは、引け目のためか。
「あ、あの・・・・・・」
「あたし達買い物行って来るから。それじゃ」
まるでとりつく島もない様子でプイッとシンジに背を向けると門に手を掛けた。
「買い物って今頃?」
「うるさいわね、そんなことあんたには関係ないでしょ!」
やはり学校での事が祟っているらしい。
声にも堅い冷たさが小石のように混ざっている。
「その・・・・・ごめん・・・・」
「何謝ってんのよ。あたしには関係ないじゃん」
「何って・・・・学校で・・・・ちょっと進路相談であったから苛ついてて・・・八つ当たりしちゃったんだ」
結局言い訳も思いつかず一応事実を述べた。
「ちょっとって何よ・・・・・っと、あたしには関係ないんだっけ。とにかく買い物行って来る」
わざわざ関係ないと口にするあたり相当のこだわりが見え隠れする。
背を向けていても数秒に一回の割合で微妙に首が動き背後の様子をうかがっているようだ。
門に寄りかかったまま何かを言いたそうに佇むシンジ。
時を追うごとに彼の表情が険しくなっていく。
無言の時の寂しさを埋めるように栗色の髪が風にそよぐ。
そして何か話そうとアスカが振り向いたとき、それを待っていたようにシンジは口を開いた。
「・・・・・進路相談の時父さんと喧嘩して・・・・ムシャクシャしてたんだ。それでアスカに・・・・・ごめん」
一部を置き換えて事実に似せた言葉。
無理にはめ込んだピースはその辺に転がっている平凡な出来事だ。
「・・・・あんた成績のことで・・・・シンジの成績そんなに悪くないでしょ?」
「うん・・・・・ただ父さんが私立に行ったらどうだなんて言うから言い合いになって・・・・今の成績じゃ無理だし」
昔嘘を付くと更に嘘を付くようになるとユイに言われたことを思い出した。
架空の親子喧嘩の成り行きを説明しようとするが徐々に声が小さくなっていく。
「嘘?おじさまがそんなこと言ったの?珍しい・・・・今まで勉強の事なんて言わなかったじゃない・・・・ふーん」
物珍しそうな目でじろじろとシンジを眺める。
ゲンドウが授業参観に来たのも勉強のことで口出ししたのも珍しいが、父親と喧嘩したシンジというのも珍しい。
今までシンジが喧嘩と言えるほど父親と言い合った事など無かったのだ。
良く言えば大人しいいい子だろう。
アスカの知る限り細々したことはともかく、彼が酷く叱られたり怒られたりしたことはなかったはずだ。
「それで教室に入って来なかったんだ・・・・バァッカみたい!そんな事でこんな時間までウロウロしていたわけ?昼御飯も食べずに・・・・あんたバカァ?」
理由を聞いてみればありふれた話だ、今まで気にしていただけに何となく腹立たしい。
深刻な理由なら良いというわけでもないのだが。
「何いじけてるのかと思ったら下らない、いちいち気にして・・・・ホント、小心者よね」
「悪かったね・・・・どうせ小心者だよ・・・・」
「ほーら、またいじけた。そういうとこって昔と変わんないわよね」
意地悪そうな笑みを浮かべ俯いた少年を覗き込んだ。
控えめながらも文句を言いたそうな顔をしている。
「あたしに八つ当たりなんて100年早いわよ。よーーーーっく反省しなさいね!」
腰に手を当て威張った口調だがそれほど嫌みはない。
夕日に赤く染まった顔にはどことなく笑みも浮かんでいた。
「解ったよ・・・・・・それより買い物って?」
「あ?ん、おばさま今日帰り遅くなるんだって。なんか用事は終わったけどおじさまと食事して帰るって言ってたわよ」
「父さんと?・・・・・ふーん、それで学校に来なかったのかぁ・・・適当だなぁ」
「いいじゃん。ま、それで夕飯買いに行くの。どこかに食べに行ってって言っていたけど材料買ってきて作っちゃおうと思って。今日食べちゃわないと痛んじゃうモンもあるし」
冷蔵庫の中にある食料に関してアスカは賞味期限まで熟知している。
勿論ユイもその辺を承知の上で食べに行くよう言ったのだが。
「・・・・あそこの中華食べに行かない?前トウジに教えて貰った店があるんだけど結構美味しかったし・・・」
「何よ、あたしが夕飯作るんじゃ不安だとでも言いたいわけ!?」
玄関先の庭石に腰を下ろしたシンジはこれ以上何か言えば彼女の逆鱗に触れることを長年の習性により察知すると、賢明にも首を横に振った。
別にアスカの手料理に不安があるわけじゃないが、たまには外食も良いと思っただけだ。
「で、何作るの?」
「うーんと・・・・レイと話したんだけどまだ決まってないのよ。何か希望ある?」
外食するなら中華が良いと思ったが家で作るとなるとまた別らしい。
暫し空き始めたお腹と相談したシンジだが何も思いつかなかったらしく、困ったように辺りをキョロキョロし始めた。
「ちょっと、なんか食べたい物ないの?このあたしが作る料理なんだからいっぱいあるでしょ、遠慮しないで何でも言って良いわよ」
そう、これ以上悩んでいるとアスカの機嫌が悪くなる。
「早く言いなさいよ。何食べたい?黙ってちゃ解らないじゃない、それとも食べたくないの!?」
彼女のつま先が焦れったそうにリズムを刻み始めた。
これ以上黙っていたら目の前の活火山は容易に噴火するだろう。
「えっとえっと・・・・あ、綾波」
シンジは夕飯とは全く別のところに救いを見いだした。
まるで追いつめられた彼を救うかのようにその少女は玄関先から小走りに駆け寄ってくる。
「碇君、帰っていたのね・・・・・」
蒼銀の髪が夕日に透け不思議で微妙な色合いを映し出す。
そして夕日と同じ色の瞳には、なかなか帰ってこない同居人を心配していた様子が浮かんでいた。
「・・・・何処行っていたの?」
「そういえばそうよ!こんな時間まで何処うろついていたのよ?」
「えっと・・・・その辺ウロウロしていただけだよ・・・ゲーセンとか本屋とか」
ステレオの質問にシンジは一応自分のやっていたことを答えた。
確かにゲームセンターに本屋等々を廻っていたのだ、それだけではない、ブティックにアクセサリーショップにパチンコ屋等々興味も関係もない場所まで廻っていた。
ミサトに引きずり回されたと言った方が正確だが、話がややこしくなるのでごく断片的な話となる。
「くっだらない、ボウッと街をウロウロしてたなんて。相変わらず無駄な時間過ごしてるのね」
「いいだろう別に・・・・」
どことなく責め立てるような紅と蒼の瞳がシンジの上で交差する。
「ま、とにかく買い物行くから鞄置いてきなさいよ。そこのスーパーに行くから荷物持ちさせてあげる」
アスカの機嫌はすっかり直っていた。
*
「・・・・碇君、それ入れて。あとトマトピューレという物・・・・・そう、それ」
「綾波、こんなに買い込んでいいの?」
夕飯の買い物客で賑わう近所のスーパーマーケットで三人の中学生は二つの買い物かごをぶら下げ店内を巡回していた。
売場を一歩進むたびに様々な食材が何処からか放り込まれ、今ではかごから溢れんばかりだ。
シンジがトマトピューレの瓶詰めを二つ目のかごに入れるとその手を誰かに引っ張られた。
「シンジ、これもお願い。あと何か食べたいものある?」
「もういいよ、第一今夜だけだろ?こんなに食べきる訳無いじゃないか、買い過ぎじゃぁ・・・」
「あとで足りなくなって買いにくるの面倒じゃない!いちいち文句言わないでよ」
軽く腕をつかんでいるアスカの主張にシンジは今ひとつ頷けないでいる。
三人で食べるサラダにしてはレタス2個は多いと思うし、ハム3パックとカニ缶3個も要らないと思う。
そもそも家の冷蔵庫にはいくつかの材料も残っており、買う物は少しで良かったはずなのだ。
「えっと後は・・・・そうそう、バジリコに鰹節にマヨネーズ、そ・れ・に・クレソン」
歌うようにそれぞれを棚から取り出すとシンジの手にしているかごの中に放り込んでいく。
何処か買い物をすることを楽しんでいるように見える。
「レイ、食後のデザート何食べる?」
「・・・・・みかん」
「えー、まだ無いわよ。あ、巨峰にしよう、果物売場からもってきて」
細い顎に指を当て買い忘れがないかかごの中を覗き込む。
レイがデザートを持ってくれば一応これで買い物は終わりだ。
「アスカ、夕飯何作るんだよ。こんなに買い込んで・・・・」
「へへー、イイモノ作るの。さっき食べたい物言わなかったから教えてあげない」
ニンマリとした顔で山ほど買い込んだ材料を眺めた。
鶏モモ肉にジャガイモ、ピーマンにタマネギに調味料各種、ネギに油揚げにサラダ用の野菜各種・・・・・
何となく想像が付きそうだが、買い物の中にはすでに家にあるはずの調味料まで入っている。
「少なくなってるのよ、あんたは気づかないだろうけどあたしは毎日見てるから知ってるの。ほら、それもかごに入れて、粗挽き胡椒のほうよ」
「普通のじゃ駄目なんだ、どっちでも良いと思うけどややこしいね」
「そうよ、色々あるの。シンジって何にも手伝わないからそういうこと知らないのね」
「少しは手伝ってるよ、茶碗運んだり・・・・」
若干声の小さくなった彼にかまうことなく、いつの間にかユイから教わった記憶の中の料理レシピと買った食材を照らし合わせた。
シンジの言うように買い込み過ぎたような気がしないでもないが、余ったら余ったでそのうちユイが使うだろう。
「さてと、これでいいかな。シンジは別に買う物はないわよね」
「うん、別にないな」
シンジはそう頷くとようやく買い物が終わったことを知った。
「・・・・・これでいいの?・・・・」
不意に背後から声を掛けたのは葡萄を抱えたレイだった。
食後のデザートとなるべき巨峰は彼女の白い手に優しく包まれている。
「あ、美味しそうだね。じゃあそれで最後かな」
「後は買い忘れないわよね。あ、ついでだからゴミ袋も買っていこうかな」
普段の彼女の買い物とは違った様子で細々した物を手にしては楽しげにかごに詰め込んでいく。
「シャンプーはあったし歯ブラシはあったし・・・・・」
彼女の買い物は日用品にまでおよび、夕飯の支度とは関係なくなってきている部分もあった。
その内容は普通の主婦が日常する買い物の様で今日だけの夕飯の支度とは違っているようだ。
「レイ、あんた何か要るものあるの?」
「・・・・無いと思う・・・・」
「ムースとか歯ブラシとか・・・・要るもの無いの?」
暫し思案したような様子だったがやはり何も思いつかなかったらしく小さく頷く。
そんな調子で常にリードするアスカの様子がシンジの記憶の中で誰かの姿とだぶった。
「・・・・アスカってさぁ主婦みたいだね。そういう買い物するとさ」
ごく直感的な感想がシンジの口からこぼれた。
「な、なによ、それ。あたしそんなに老けてないモン」
「そういう意味じゃなくてさ、母さんが買い物するときもそうやって色々聞くんだよ」
アスカの顔が何処か赤らんで見えたのは気のせいか。
照れくさそうにシンジから視線を逸らすとそそくさとレジに向かって歩き出した。
「だ、だってシンジ何も言わないから聞かないと解らないんだモン・・・・」
「そう?でもアスカって夫になった人に買い物させそうだね」
「何よそれ!そんなこと無いわよ、こうやって買い物してるじゃない!」
その代わりシンジが山ほど荷物を持たせているので、彼にしてみれば素直に頷けない部分もある。
「もう!さっさと会計済ませちゃお・・・・・・げぇ、レジ凄い並んでるじゃない」
周囲はこの店内に入ったときより更に混雑し始めている。
そんな中にあって自分たち三人の存在はかなり異質だろうとシンジは思った。
主婦や子供を連れた母親、独身のサラリーマンらしい人の姿はあっても中学生だけで
夕飯の買い物をしている姿は他に見あたらなかった。
勿論同じ年頃の子はいてもかごの中はお菓子かジュース、カップラーメンのたぐいで夕飯というわけでもなさそうだ。
考えてみれば自分たちも今日だけの話なので、これがごく普通の光景なのだろう。
夕飯の買い物などユイが昼間のうちにするので彼らが買うことなど無かった。
それだけにこの買い物にどことなく物珍しい感じを受けていた。
そんな感じはアスカも同じらしいが受け取り方は少々違うらしく、どことなく浮かれた陽気さが見え隠れしている。
ちょっと異質な買い物客三人は大人しくレジの列の最後尾に並んだ。
「アスカお金足りるの?」
「カード使うわよ、あたし貯金あるモン」
彼女の手にはいつもお小遣いが振り込まれる銀行のキャッシュカードが踊る。
貯金の額から言えばシンジのカードの数倍になる額が記録されていたが、これは彼が無駄遣いするからで互いの小遣いの額に差があるわけではない。
そんな二人の前にもう一枚のカードが差し出された。
「・・・・碇君、あたしもカードあるわ・・・・あたし払う・・・・」
「あぁいいよ、気にしなくて。アスカお金持ちだし」
軽く笑みを浮かべたシンジに少々不満そうな赤い瞳が向けられたが、あまりに微かな変化なので彼には気づきようもない。
「でも・・・・・」
「いいわよ、本当に。あたしだって立て替えるだけだし」
軽く手を振るアスカを前にそれ以上何も言わず、大人しくキャッシュカードを財布の中にしまい込んだ。
暫し大人しくしていたレイだったがレジの近くに並んでいる商品棚に目を向けるとなにやら漁りだした。
「何してるの?、もう買う物ないよ」
「・・・・これももう無いと思ったから・・・・」
唐突に洗剤を手にシンジに見せつけるように差し出す。
「あ、それならお中元の時貰った奴があるみたいだよ、風呂場の戸棚に詰まってるし」
幾種類もある洗剤なのでお中元に貰った物と同じかどうか正確にはわからないが、台所用という括りで言えば同じだ。
「レイは別にいいわよ。必要な物は全部入れたから」
まるでままごとの延長のような買い物で主婦の役はアスカが演じており、それを譲る気配はない。
「二人ともそっちで待ってて。会計済ませちゃうからそれまでジュースでも飲んでれば」
意識せず余裕ある笑みを浮かべた彼女を目の前に、レイは何か言おうとしたが口を貝のように閉ざしたまま、手にしていた洗剤をもとの商品棚に戻す。
何かおもしろくないのだろう、不満そうな表情で表のラベルを反対側に向けて角の方に放り出してしまった。
*
「そう、じゃあ食べに行かなかったのね。美味くできた?そう、良かったわね。わたし達はまだ遅くなるから先に寝ていて、戸締まりはお願い。それじゃぁよろしく・・・・ん?ええ、ちゃんと買って行くわよ。はい、おやすみ」
黒塗りの古めかしい形状をした受話器を置き、彼女はハンドバックを手にすると背後を振り返った。
自宅より遙かに気を使った内装の施された部屋、その中央に配置されたテーブルには二人の男の姿がある。
一人は落ち着いて上品なこの部屋によく似合った老紳士風の男。
もう一人が下品な雰囲気ではないが欧州を意識したこの内装に反発された感じの男だ。
共に身なりはちゃんとしているのだがその差がユイには可笑しい。
「向こうはご飯済ませたそうよ、アスカが晩御飯作ったんですって」
「・・・・そうか、外で食べてくると思ったのだがな」
「作りたかったんでしょ、わたし達の分も取って置いてくれるそうよ」
ユイの微笑みに対して彼の表情は苦笑と取れるものだった。
ただそれが夕飯を自慢げに取っておくアスカに対してか、それを嬉しそうに語るユイに対してか判別は出来ない。
「冬月先生もたまには遊びに来て下さいって言ってましたわ。最近なかなか来て下さらないから」
「こう忙しいとな・・・・こうやって食事をするのが精一杯だ、それにどんな顔して行けばいいのか解らん」
「そう・・・・ならいっそあの子達も此処に呼べば良かったかしら」
「ふん・・・・・騒がしくなるだけだ」
碇ゲンドウは彼の同伴者が席に着いたのを確認するとワイングラスを赤色の液体で満たす。
重厚な香りが彼女の鼻腔を擽った。
「今日授業参観に行ったんでしょ、初めて顔を出した感想を聞きたいわ」
ユイと冬月は興味津々といった顔でワイングラス片手にゲンドウの表情を伺う。
いきなり朝になって「授業参観は俺が行く」と言った夫のお陰で彼女は今日半日さしたる予定もなく何年ぶりかの映画を見たり小さな喫茶店に寄ったりとのんびりした時間を送っていた。
ゲンドウが別に教育熱心になったとは思わないが、かつて無い行動に興味が湧く。
だが予想に反して彼の表情は急速に不機嫌な顔になってユイにではなく冬月に向かって質問が飛んだ。
「・・・・・あの男を迎えによこしたのは冬月か?」
「ああ、お陰で道中退屈しなかったろう?たまにはそういう刺激もあった方が楽しい」
冬月の穏和な顔にどことなく満足げな表情が加わり、その歳を数歳若く見せる。
そしてワインの中に灯った天井から吊されたランプを見つめ、全ての表情を消して語りかけた。
「初号機が起動してから数ヶ月、その間新たなる適格者を出していないのだから補完委員会が疑問を持っても仕方あるまい」
「現在のパイロット構成で今のところ問題はない」
「連中がそれで納得すると思うか?そのうち自分達で候補者を連れてくるぞ」
ユイの手にしたワインが静かに波を打つ。
第三新東京市のざわめきは高層ビル最上階のレストランまでは届かず、店内のあちこちから沸き上がる談笑はこの特別室に聞こえてこない。
そして此処での会話は三人の耳にだけしか届かない。
ブラウンを基調とした室内は三個のランプに灯る柔らかい橙色に包まれ、静寂をほのかに彩っていた。
「・・・・・あの子を使うつもりですか・・・・」
その問いかけは二人の男のうちいずれに向けられたのだろうか。
影の降りた半分の顔には憂いと苦渋を耐えかねたような険しさを帯びている。
「わたしはあの時過ちを犯したわ、その償いはいずれわたしがする。でもあの子にその結果を押しつけないで・・・・」
自分の息子は既にこの戦いに関わってしまった、関わらせてしまった。
そうしなければ誰も助からない、そう思えたから息子の父親を止める事が出来なかった。
「ユイ君、あれは誰かを責めて良い話では・・・・」
「解ってます。だけどわたしに起因したことは事実です・・・・・アスカがこの世に生まれたことも・・・・少なくともわたしは責められなければいけないんです」
赤い波の中に散っていった幻影のランプは時と共に再びその姿を取り戻し、そして静かに揺らめく小さな炎を灯した。
三者三様に思考の海に沈みながら無言の中でワインを揺らす。
「あなた・・・・ もうこれ以上誰もこのことには関わらせないで・・・・」
誰かが関わるたびに自分に突き刺さる棘が増えていく。
自分の息子があの化け物に身をやつすたびにより鋭く、より強大な棘が胸の奥をえぐっていく。
そして帰って来たときにはそんなことは覆い隠して母親としての顔だけを息子に見せる。
時々やり切れなくなるのだ。
「・・・・セカンドナンバーは欠番した、補充はない」
「おい碇、我々に与えられた選出権はフォースまでだ、大丈夫かね・・・・」
「問題ない・・・・・奴らが動かせるのは所詮紛い物だ、全てはまだ手元にある」
表情は全て両手の中に隠し、は虫類にも似た無機質な目だけを冬月に向けた。
「そうか・・・・さて、場所を変えようかね、もうこの話は止めよう。消化に良くないからな」
ゲンドウに対してではなく置物のように動かなくなったユイに対しての気遣いだ。
夫のように全てを無感情で済ませる事が出来ないのは良く知っている。
「ええ・・・・ごめんなさい、せっかくの食事なのに・・・・・」
「構わんさ、碇のそばにいれば多少雰囲気がどうこうしたところで驚かんよ。いい加減慣れているからなぁ」
「・・・・・・本当にスミマセン、ご迷惑ばかりおかけして・・・・」
ユイは小さくなって苦笑いする冬月に頭を下げた。
ゲンドウは今更何も言う気はないらしく、面白くない表情で黒に近い紺色の上着を羽織る。
木枠のはめ込まれた窓はまるで黒一色に塗りつぶされた額縁のようだ。
昼間なら箱根の山々を望める景色も闇の中にとけ込み、いつもなら夜空をにぎわす星々も今夜は地上の星に比べ慎ましやかだった。
恐らくは地上の灯りの一粒が自分の家だろう。
「わたしは・・・・わたしのやったことはあの灯りを守ることになるのかしら・・・」
「さあな・・・・・だがあの時、時計は動き出してしまった。今結果を急ぐな、全てが終わった後その時結論を出せばいい」
ゲンドウの手にした淡いブルーの上着が彼女の肩に掛かる。
「二人とも、車が来たようだ。そろそろ行こう」
振り返ったときのユイは笑みを浮かべていた。
「ええ、冬月先生はどんなお店に連れていってくれるんですか?楽しみですわ」
一応大した失敗もなく「鶏肉のトマト煮込み」と「ベーコンサラダ」は出来上がり、アスカは満足だった。
そしてシンジとレイには意外なほど好評だったのでアスカは有頂天になった。
更に食べ終えた後その二人におかわりを要求されたことでアスカはすっかり舞い上がっていた。
「後はおばさま達の分だからダーメ、また今度作るわよー」
はち切れんばかりの笑顔で彼女はいそいそと踊るような足取りで、後かたづけを始めている。
普段なら他の二人に手伝うよう指示したろうが「そっちで休んでていいわよ、あたし一人で十分!」という浮かれようだった。
お陰でシンジもレイものんびりTVを眺めながら食後の一時を過ごしている。
「碇君・・・・料理作れるの?」
「え?作ったこと無いから・・・アスカって前から母さんに色々教わってるから色々作れるみたいだけど」
ソファの肘掛けに顎を乗せくつろぎきった姿でシンジは答えた。
質問したレイもそのソファに寄りかかり見る気もないままTVを眺めている。
共に胃袋の活動に反比例して思考活動はかなり控えめになっているらしく、それ以上会話が続かない。
だがレイは気怠さにも似たゆっくり流れる時の中に身を置くのが不快ではなかった。
今まで・・・・この家にくるまでは一人で何もすることなく明かりの灯らない部屋の中で過ごしてきた。
ただ一人時の流れを感じ取ることなく昨日と変わらない闇の中で、寂しさを感じることも理解することも出来ずに。
だが今では比べることが出来る。
一人で過ごす時間と過ごしてきた時間、誰かと一緒にいる時間。
冷たい部屋と暖かく安らげる部屋、大切な人と無価値な人。
自分も含めて全てが同一線上にあったレイに起伏が出来、日向と日陰が、暑さと寒さが生まれていた。
彼女の中で一日ごとに起伏はより大きくなり、影は日増しに濃くなり日向はより明るくなっていく。
レイは上半身だけを寝転がっているシンジの隣に寝そべらせた。
蒼銀の細い髪の毛がベージュのソファに広がる。
「・・・・・座る?半分空けようか?」
「このままでいい・・・・・・」
暇そうにしていた白い指はシンジのTシャツの裾を引っ張るとそれを玩んだ。
「シャツ伸びちゃうよ・・・・」
シンジが引っ張り返してもレイはまた引っぱり出す。
シンジにしてみればじゃれつかれるだけの無意味な行為だったが彼女はそうしている自分が心地よかった。
台所から聞こえてくるリズミカルな食器の音とアスカの歌声。
題名は何だったか忘れたが彼女の部屋で聴いたことのあるメロディーだ。
今のアスカの気分を表しているのだろう、明るく軽快な曲をエンドレスで口ずさんでいた。
「・・・・今日何処に行っていたの?」
「・・・・別に・・・さっき言ったろ?その辺ウロウロしていただけだよ・・・・」
「でも・・・・アスカと喧嘩していたわ・・・・」
海辺の夕日のような瞳がシンジを見つめる。
ばつの悪そうな彼の顔を紅い瞳は間近で追い続けた。
シンジが逃げ出さないようシャツをつかんでいた指に力がこもる。
まさかレイにまで釈明しなきゃいけないとは思わなかったろう。
だがちょうどお腹の位置から見つめている目は弁解を許してくれそうにない。
「べ、別に喧嘩じゃ・・・・あれは僕が悪いんだ・・・・アスカに八つ当たりしちゃったから」
言い訳など思いつかない。
無言のままレイは少年を見つめ続ける。
無言ではあったが伝えたい言葉は感情の起伏から幾らでもわき出てきた。
目の前のいる少年も台所にいる少女も自分を揺らす。
光はなく風も吹かず何一つ波打つことなく永遠の風景を保っていたレイという名の湖は、今ゆっくりと波立ちその湖面にほのかな二つの明かりを映し出していた。
「碇君・・・・なんで・・・・」
一端閉じた口をもう一度開こうとしたとき。
「ちょっと!TVなんか見てないで二人ともお風呂入っちゃってよ。レイは部屋からは洗濯物ちゃんと持ってきなさいよ。あたしのと一緒に洗っちゃうから」
ユイがいつも着けているエプロンを纏い、長い髪を背中で大きくひとまとめにしたアスカの姿があった。
「ほら、レイから先に入っちゃってよ、シンジも洗濯物まとめちゃって。ついでだから一緒に洗っちゃう」
「いいよ、明日出すから。母さん遅くなるだけで今夜帰ってくるんだし」
「良いわよ、今日洗っちゃえば明日おばさま楽じゃない。レイは早くお風呂入りなさいよ」
アスカは二人を追い立てるように手を振ると忙しそうに台所に戻っていった。
*
食後のデザートは巨峰だった。
そのつもりでレイはかごに入れた筈だしシンジもそう聞いていた。
しかし風呂上がりのシンジがリビングのテーブルで見たものはそれとは大きく違っている。
まさかお風呂に入っている間に発酵したわけでもあるまいに。
「なんでこんなもの出してるんだよ、アスカ」
「飾るために出してると思ってるの?さっさと座りなさいよ、注いであげるから」
華奢なワイングラスが三つに深紅の赤ワインが一本、そしてスモークチーズが一塊り。
「それって・・・・・新潟の帰りに買った奴?まずいよそんなの飲んじゃぁ」
当然のことながら日本国内では未成年の飲酒が禁止されている。
それはセカンドインパクト後も変わっておらず、国連管轄の第三新東京市ですら例外ではない。
「大丈夫よ、ちょっと味見するだけだし。それにどうせおばさまもおじさまも飲まないモン、このまま悪くなったら勿体ないじゃない」
アスカは笑顔でそうシンジを誘った。
彼女の言うように確かに彼の両親は滅多なことではアルコール類を口にしない。
どこかに出かけたときだけほんの少し飲む程度だ。
シンジもアスカもあの二人の酔った姿は一度も見ていない。
「ワインて悪くなるの?良く何十年物とか言うじゃないか・・・・悪くならないんじゃぁ」
「知らないわよそんなの。それにもう栓空けちゃったんだからあんたも少し飲んでみなさいよね」
悪くなったら勿体ない、そう自分で付けた理由をあっという間に放り出し、シンジの手元にあるグラスに注ぎ始める。
アスカは以前からワインの味見をしたかったのだ。
アルコール類の殆ど置かれていない碇家にあって、恐らくは調味料として買ったであろうこのワインは彼女の目に大層魅力的に映っていた。
文字通りのワインレッドは如何にも美味しそうだったし、ラベルの葡萄の絵は彼女の好奇心を大いに擽った。
『良く熟した葡萄から作った芳醇な味わい』なる効能書きはいつか飲んでやろうとアスカに決心させていた。
そんなわけで「おじさま」も「おばさま」も居ない今日、こうして殆ど活用されていないワインセラーからテーブルの上に引っぱり出してきたのだ。
「レイ、あんたも付き合いなさいよ」
返事を返す前に彼女のグラスにも深紅の液体が注がれ、テーブルの上に同じ色の影を落とす。
「ねえアスカ・・・・怒られると思うよ・・・・」
「大丈夫よ、ちょっと味見するだけだモン」
シンジは別に飲みたいと思ったこともないし興味もない、殊更怒られるようなことをしたいとも思わない。
だがアスカやレイだけが怒られるのと言うのも彼としてはあまり後味が良くない。
そしてアスカに対しては昼間の負い目もあり、断りづらかった。
「本当に・・・・味見だけだよ・・・・綾波も飲むの?」
「ええ・・・・二人が飲むから・・・・」
自分の瞳と同じ色の飲み物をじっと見つめ、時折匂いを嗅いだりしていた。
今までこんな物は飲んだことがないので味などは想像も付かない。
「それじゃぁ、まず乾杯しましょ。えっと・・・・何が良いかなぁ」
シンジとレイがグラスを手にすると一度やってみたかった「ワイングラスの乾杯」するためにその名目を考える。
アスカの平凡な日常の中にそうそう乾杯するようなこともなく、シンジに目を向けた。
「え?あ・・・・・そうだね・・・・・平和な毎日が送れますようにってのは?」
「何よそれ、神社の願掛けじゃないんだから!もっと格好いいのはないの?」
どだいシンジに格好いい台詞を期待したのが間違いなのだ。
それでも彼に再度提案させたのはアスカ自身何も思いつかなかったからだ。
「うんと・・・・今までに乾杯ってのは?・・・・そしてこれからに・・・・」
それがシンジにとって乾杯に値することのように思える。
今まで平和に暮らしこれからもその中で暮らせればいい、今まで気にも留めないほど当たり前のことがなぜか頭の中に浮かんできた。
「なんか地味ね・・・ま、シンジならそんなもんか。レイはなんかある?」
紅く染まったワイングラスとずっと睨み合いしていた少女は蒼銀の髪を左右に揺らす。
それがシンジの言うことに賛同したからなのか、何も思いつかなかったのかアスカには見極めかねたがおそらく後者だろうと決めつけた。
「じゃあ、それで良いわ。えっと・・・・・あたしが言うわね。何だっけ、あ、これからのあたし達に・・・・」
「乾杯!」
「・・・・乾杯」
掲げたワイングラスの澄んだ音が部屋に響く。
三人三色の瞳には蛍光灯の明かりを受け宝石のように煌めくワインが映った。
三つのグラスはそれぞれに未知の飲み物を運んでいき、静かにゆっくりと、あるいは恐る恐る口の中に流し込んだ。
アスカは確かにラベルに書かれた説明を読んだ覚えがある。
『芳醇な香りとすっきりした味わい』
そして彼女を魅了してやまないワインレッド。
一体どんなに美味しい飲み物なのか、きっと普段飲んでいるジュースなど足元にも及ばないだろう・・・・・
アスカの舌はワインの一つ一つの味を丁寧にしかも正確に彼女の脳に伝えていき、そして総合的な判断を下した。
・・・・・何なのよ!この味は!!!・・・・・
えぐ味と酸味、妙な辛み・・・・・何れもが彼女の想像外の味覚だった。
形のいい眉が不機嫌そうに歪んでいく。
「・・・・・あ、あんまり美味しくないね・・・・苦いって言うか・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
どうもアスカの感想とシンジとレイの感想は全く同一らしく二人とも妙な顔で見合っていた。
見た目から想像した味とは思いっきり違っていたのだ。
大人っぽいジュース、それがワインに対する彼らの幻想だった。
「シ、シンジもレイも子供だからこの深い味が解らないのよ・・・・うん、結構良いワインよ、これ」
歪んだ眉はそのままに、口元だけは笑みを浮かべる。
此処で同意するのは彼女のプライドが許してくれそうにない。
「あぁ・・・・美味しい・・・・ちょっと水飲んでくる」
そういって席を立つと台所で静かにうがいをする彼女。
口の中にアルコールのえぐ味だけが残って仕方ないのだ。
「アスカ・・・・・大丈夫?」
心配そうなシンジとレイの顔が彼女に気に障った。
「バカ!美味しいって言ってるでしょ!シンジ!!もう一杯注いで」
「止めなよ、味見なら一杯で十分だろ?」
「うるさいわね、美味しいからもう一杯飲むの!!」
どう見ても美味しかったようには見えないが、さりとて逆らうには彼女の剣幕は凄かった。
スモークチーズにナイフを入れ大きく抉り取り口の中に放り込むとシンジにグラスを差し出し目で催促する。
チーズを食べた後なら多少は飲める味になるらしい。
「もう・・・・少しだけ・・・・あ・・・・」
少しだけのつもりが手加減を間違えたのかなみなみとワインを注いでしまった。
蒼い瞳はジッとその揺らぐ表面を見つめ息をのむ。
・・・・この・・・・バカシンジ!!・・・・
恨みがましい目でシンジを睨み付けながら、それでも口元だけは笑みを浮かべているので形容しがたい表情となる。
その笑みさえ消えたのはもう一つのグラスが二人の前に差し出されたときだった。
「碇君・・・・あたしのにも注いでほしい・・・・」
*
味見するだけと言ったのはアスカだったろうか。
狸を模した置き時計が気の抜けた声で夜中の十二時を知らせたがそれに気が付いたのは一人の少年だけだった。
「アスカ・・・もう寝ようよ、十二時だし・・・・イタッ!」
「あーんたはなーに言ってんのよぅ。まだ寝るのは早いわよー」
パジャマと同じ色に染まった桃色の頬、雪解け水の中にサファイアを沈ませたような瞳はそこにあるだけで少年の鼓動を早くする。
「シンジも少し飲んでみなさいよ、チーズ食べてから飲むと美味しいんだから」
「いいよ、僕この匂い駄目みたいだし・・・・・美味しくないよ・・・」
「シンジってガキ!つまんないなぁ・・・・レイだって飲んでるじゃない」
チビチビといった表現がぴったりな様子で少し口に含んでは顔をしかめ、そして再び口にする、そんなことを何度も繰り返して今三杯目を空にしたところだ。
顔色は全く変わっておらず、時折チーズを囓りながら無言でグラスを傾けている。
「レイ、あんたもう少し美味しそうに飲んだらぁ?」
「・・・・美味しくないもの・・・・碇君注いで・・・・」
華奢なワイングラスを両手で持ち彼の前につきだした。
「もう二人とも飲むの止めなよ。味見するだけだって言ってたのに半分も残って無いじゃないか」
「ケチなこと言わないでー!ほら早く注いでーー」
まるでだだっ子のようにグラスを振り回して催促する。
初めて味わう『酔い』は彼女からほんの少し理性を取り去ってしまったらしい。
渋々といった表情で彼女の要求に応えワイングラスを紅く染める。
別にワインなど惜しくはないが幾ら何でも飲み過ぎではないか、少なくとも自分達は法的に飲酒が許されるまで後六年ある身なのだ。
見つかれば叱られるに決まっている。
「あん?何心配そうな顔してんのよ、海外じゃ子供だってワイン飲んでるんだから平気なの!」
ソファの上に座り込み飲み始めた頃とは違い半分ほどを一気に流し込む。
酔いが彼女の味覚を麻痺させ、今では苦みもえぐ味も感じなくなり葡萄の香りを楽しむことができた。
そして新たなる発見として普段何の気なしに食べているチーズがワインと一緒に食べると幾重にもまして美味しく感じるのだ。
そんなわけで終始ご機嫌な様子のアスカは六杯目のワインの飲み干すと、焦点の少しズレ始めた目でシンジを見つめた。
「ねぇ・・・・・シンジィ、あんた今日おじさまと喧嘩したんでしょ・・・・アーハハハハッ・・・バーーーーーーーッカみたい」
「うるさいなぁ・・・・おい、いつまで笑ってるんだよ・・・・」
アルコールが廻っているためか、いつもより派手に笑い転げている。
「だってぇ・・・おじさまに苛められて校舎裏でいじけてるなんてあんたらしくって・・・可笑しいぃ・・・・ねぇレイ」
同意を求められた彼女は全く逆に普段より静かと思えるような様子だ。
ただ瞳だけはアスカと同じように潤んでいる。
「・・・・よくわからない・・・・」
「あーん?あんたっていつもわからないとか知らないとかばーっかり!少しは自分の考え言ってみたら?」
困惑するレイをよそにアスカの追求は続く。
「そうやってレイはいつも自分のこと内緒にするんだモン、すっごくズルイ!!」
絡み酒、シンジの脳は普段使うことのない単語を導き出した。
文字通りアスカは細い腕をレイに絡みつかせると顔を近づける。
「一緒に暮らしてるのに内緒にされるなんて気分良くない、あたしもシンジもレイのこと何も知らないのよ、何処に住んでいたのかあんたのご両親のこととか」
普段意識して口にしなかった台詞は理性のタガが外れてついこぼれ落ちてしまった。
「あたしの両親は三歳の時死んだらしいの、あたしは勿論覚えてないけどあたしは自分の母親だった人は大嫌いだったって覚えてる!・・・・その後おじさまとおばさまに引き取られたわ。さぁレイ今度はあんたの番よ、教えて」
アスカがかつて自分の両親のことを口にしたことはなかった。
意識無意識に何十もの鍵が掛けられているのだ。
六杯の赤ワインはそのうちの幾つかを外してしまったのかもしれない。
「・・・・ごめんなさい・・・・・リョウシンて何かよくわからない。ずっと一人だったから・・・・」
「またわからない!?そんなに教えたくないの!?」
紅い瞳が寂しげにアスカから視線を逸らす。
隠しているわけじゃない、隠す物がないのだ。
ただそれを納得できるように説明するには彼女の持っている「嘘」という言葉があまりにも少なすぎた。
「レイ・・・あたしのこと嫌いなんだ・・・」
「アスカ!飲み過ぎて少しおかしいよ。ほら・・・・もう部屋に・・・・」
「離してよ!何よ!シンジだってそうじゃない!!あたしには関係ないとか言ったじゃない、あたしは何も知らないとか言ったじゃない!」
アスカはお昼の八つ当たりを忘れてたわけじゃない。
「だってあれは・・・・・・・進路のことだし・・・・」
「一緒に暮らしてるのにあたしには関係ないんでしょ!同じ学校に通ってるのにあたしには関係ないんでしょ!そうやって二人して内緒にすればいいじゃない!!」
自分でワインを注ぐと一息でそれを煽る。
焼けるような熱が胸の奥に灯り、苦しげに数回咳き込んでしまった。
全てを押さえ込んでいる分、一端吹き出すとどうしても押さえきれなくなる。
まるで氷山が解けだし辺りに溢れ出すように・・・・・・
「あたしも碇君も・・・・・・内緒にしてない・・・・・」
レイのつぶやきは自分でも解るほど白々しく感じる。
「進路のことだってそうじゃない、二人とも何も言わないで・・・・少しぐらい相談したって良いじゃない!それに時々二人は居なくなっちゃうし・・・・・」
その後は咳き込みが酷く続けられなくなったがポロポロとこぼれる涙は咳のためじゃなかった。
*
「頭・・・・痛い・・・・シンジ・・・頭痛い・・・・」
狸の置き時計は誰も聞いてくれ無いことは承知しながらも夜中の一時を知らせた。
付けっぱなしのTVは今日のナイター特報を延々と流していたがやはり誰の興味も引かない。
「調子に乗って飲むからだよ・・・・とうとうワイン一本開けちゃって・・・・」
『飲酒時の服用は絶対しないで下さい』と書かれた頭痛薬しか置いてなかったので、アスカがいかに頭痛を訴えようともアイスシートをおでこに乗せてやることぐらいしかできなかった。
「あんただって止めなかったじゃない・・・・自分は飲まないくせに・・・・卑怯よ・・・」
「止めたよ・・・・ってもういいよ、綾波、水持ってきて」
数秒でシンジの手元にコップ一杯の氷水が届けられるとそれをアスカに手渡す。
無言のままそれを受け取ると喉に流し込む。
張り付くような感じの喉を洗い流すように冷たい水が食道を下っていった。
「・・・・・・ガンガンする・・・・あたしこのまま死んじゃうのかな・・・・」
鉄球を頭蓋骨の中に入れ振り回されるような感覚にアスカの気力は既に底をつき、さっきからずっとシンジに愚痴をこぼしていた。
「・・・・あなたは死なないと思う・・・・・」
レイは聞きようによってはまことに失礼な言い様だったがそれでも心配そうな顔だ
「レイ・・・・あたしが死んだら持ってる洋服とか全部あげるわ・・・・みんなと仲良く暮らしてね・・・・」
アスカとしてはそれぐらい辛い頭痛なのだが、彼女が言うような状態になるには、まだまだアルコールが足らない。
普段全く飲まないアルコールを飲んだものだから肝臓が分解しきれずに彼女に頭痛をもたらしているだけだ。
「アスカ、自業自得って言葉知ってるよね・・・・少し休んだら寝ろよなぁ・・・・」
「やっぱりシンジは優しくなんか無い・・・・ちょっとそこに座りなさいよ・・・・ンショ」
グラスを片づけていたシンジをソファに座らせるとその膝の上に頭を乗せた。
長い髪が彼の太股の上に流れるように広がり、赤くなった顔は少しは楽になったように笑みを浮かべる。
そして大きなあくびを一つ吐くと静かに蒼い瞳を閉じた。
「碇君・・・・あたしコップ洗ってくる・・・・・」
「あ、うん、ごめん、綾波だけにやらせて」
証拠隠滅とまでは言わないが、幾ら何でもワイングラスとワインの空き瓶をリビングに放り出したままではまずい。
幸いなことにシンジの両親が帰ってくる気配はまだ無く、片づけをする時間はまだあるようだ。
レイはお盆の上にテーブルに散らばっている食器を乗せ、ちょっと危なっかしい足取りで流し台に向かう。
いつもと変わらないように見えても足下は正直だった。
「大丈夫?」
「大丈夫なの・・・・まっすぐ歩けないだけ・・・・」
そういうとフラフラしながら台所に消えていった。
「レイは頭痛くなんないのね・・・ずるい・・・・」
羨ましそうに彼女を眺めながらシンジの膝の上でそう呟く有様は、普段から想像できないほど弱々しい。
「体質なんだろ・・・・」
本当かどうか知らないが返答しないと何か言われそうだ。
「ねえ・・・・高校どうするって言ったの?やっぱり公立行くの?」
「・・・・多分、今更受験勉強しても間に合わないし・・・・」
「情けないわね・・・・一緒に行こうって言えないの?」
シンジは頭を掻いて誤魔化すしかない。
実際公立にしても私立にしても受験先については何も考えていなかったのだ。
「あたし私立行きたいからあんたもレイも付き合いなさいよ。成績だけならあの子は問題けどあんたは今からがんばってよ」
「僕はいいよ、公立で。でもアスカは楽勝で受かるんだから私立受ければ?」
シンジにとっては何の気ない一言でもアスカにはそう聞こえなかった。
一時的ではあるがアルコールに支配された頭でも彼の今の言葉を受け流すことは出来ない。
「行けるわけ無いじゃない!・・・・・シンジはあたしが何も知らないって言ったけどあんたこそ何も知らないじゃない」
「そんな・・・・・そんなこと無いよ」
「・・・・・あんた私立の入学金て幾らか知ってる?授業料とか・・・・公立の倍以上よ、シンジ・・・・・あんたがそこに行かないのにあたしだけ行けると思う?」
彼の口は動かなかった。
碇家の経済力ならアスカやシンジ、レイが何処に進学しようと全く問題ない。
望めば資金面では幾らでも援助してくれるだろうし、事実ゲンドウとユイはそのつもりだ。
だがそういった事とは別の次元が彼女の中には存在する。
アスカは何の考えもまとまらないままに口を開こうとしたシンジを制した。
「遠慮すること無いなんて言わないでよ、おばさま達の考えはわたしにだって解るんだから。でも・・・・・そういう訳にはいかないのよ・・・・シンジはやっぱり実の子なんだし」
今まで一度だってユイやゲンドウにシンジと区別されたことはないし一緒に同じように育てられてきた。
男の子と女の子という差以外は何一つ違いなく育てられてきた。
だから「この家に来た」という事実を何十にも鍵を掛け心の湖に放り込んだのだ。
そして何十にも『良い子』のアスカをその上に覆い被せた。
しかしその事実が消えたわけではない。
「・・・・なんて言えばいいのか・・・・解らないよ・・・・」
「いいわよ・・・別に誰か悪い訳じゃないモン・・・・・あたしもレイみたいにこの歳になってから一緒に暮らせば・・・・・」
そうすれば納得できた上で、全てを割り切った上で暮らせたかもしれない。
ユイに優しくされればされるほど、シンジと同じように扱われるほどこの家で生まれたように思えてくる。
此処に来てからの十年という時間はいつの間にか自分の出自を忘れさせるのに十分だった。
だが逆にその時間の長さが安易に割り切って考えることを出来なくしていたのだ。
・・・・・あたしはこの家の子じゃない・・・・
そう思うと同時にそれを否定したがっている思いも沸き上がってくる。
二色の思いが複雑に絡み合いより不透明なものにしていきアスカを怯えさせた。
「・・・・・多分今僕が何言ってもしょうがないんだよね・・・・どうしようもないもの・・・」
自分の膝の上で目を瞑っている少女の髪に軽く触れながら、自身の無力感を感じていた。
シンジが思っている以上にアスカは何かを我慢し、何かに耐えていたのだ。
何一つ怒られるようなことをしなかったアスカがどれほどの思いを溜め込んでいたのか、シンジには想像もできない。
・・・・他人のことは表面しか解らない、ミサトさんの言うとおりだな・・・・
そして台所にいる蒼い髪の少女のことも同じように解らないのだろう。
アスカがエヴァのことを知らないように、レイがシンジの苦悩を知らないように。
・・・・誰かを責めても仕方ないんだ・・・・
解り合えないからこそ知らないことが怖いのかもしれない。
漠然とした答えが自分とアスカの秀麗な顔にかぶった。
「アスカの思っていることに何も言えないけど・・・・・アスカと今まで一緒に暮らせて良かったと思う。いつまで一緒にいられるか解らないけど・・・・・アスカが居て良かったと思う・・・・」
アスカが居なければいないでそれなりの生活があったろう。
レイと合わなければ合わなかったでそれなりの暮らしがあったろう。
エヴァに関わらなければみんなと同じだけの事実を知っただろう。
しかしそれは全て別世界の出来事だ、仮定という名の異次元の話だ。
今自分の周りには様々なものが絡んで存在し、切り落とせない綱となって自分に絡みついている。
「・・・・・・バカ・・・・ずっと一緒に決まってるじゃない・・・・あたし頭痛いからもうこのまま寝る!起こしたら承知しないから」
しがみつくようにシンジのシャツをつかんで、そのまま寝入ってしまった。
一人きりで寝るにはアルコールが廻りすぎて余計な考えが浮かびすぎるのだろう。
今の彼女にとってもっとも安心できる場所だったのかもしれなかった。
*
「アスカは・・・・・寝たの?」
「あ、うん・・・・・綾波ももう寝た方がいいよ」
TVはいつの間にか消され狸の置き時計の音だけが部屋の中に転がるだけだ。
「そこ・・・・・座って良い?」
シンジの隣に空いている少しの隙間に身体を滑り込ませると、気持ちよさそうに寝ているアスカの顔を覗き込んだ。
起きていた頃の頭痛に苦しめられていた不機嫌さとは逆に、赤子のように穏やかな寝顔だ。
「綾波は頭痛くない?アスカは痛がってたけど・・・・」
「ええ・・・・・何ともないの・・・・」
だが酔いは消えてないらしく座った目がシンジを見つめる。
「洗い物したの・・・・・」
「うん、アリガト。あのままじゃまずいモンね」
何か物足りなそうなレイ、だがそれが何なのかはシンジには解らない。
彼女一人に洗い物をさせたことに申し訳なさを感じているが、シンジも身動きできない状態だった。
アスカが頭の痛みを訴えているのは自業自得とは言え嘘ではないし、頬は赤かったが全体としてはそれほど良好な顔色でもなかったのだ。
「もう洗い物はないの・・・・」
「う、うん、本当にありがとう・・・・ごめん、手伝えなくて。でもお陰でアスカも寝ちゃったし・・・・僕らももう寝よう」
大きなあくび一つするとシンジはそっとアスカの手をほどいた。
最初はシャツが破れるかと思えるほど握りしめていた手も、熟睡している今は簡単にほどける。
シンジもワインを全く飲まなかったわけではないので気怠さと眠気が入り交じって頭が少し重い。
アスカを起こさないようにそっと彼女の頭を膝から降ろすと大きく背伸びをした。
瞼の重みが相当増しているためか、シンジの目は半分ほど閉じている。
そんな彼を見つめていたレイは静かに口を開いた。
ついさっきの、アスカが起きているときの話だ。
「・・・・・アスカを怒らせてしまったの・・・・・」
「気にしなくて良いよ、ワイン飲んだせいだから・・・・・・八つ当たりなんだ、きっと。原因は僕にあるみたいだし」
苦笑を浮かべながら俯いたレイを慰めた。
少なくともレイには何の責任もないし文句を言われるようなことはしていない。
「・・・・アスカは怒っていたと思う・・・・でも・・・・言えるようなこと何もないの」
「きっと、綾波のこと色々知りたかっただけだよ。一緒に暮らしていて知らないことがあると・・・・寂しいんだ・・・・」
シンジの知らない部分で酷く遠慮して暮らしていたアスカ、その彼女がレイに求めたものが何なのか垣間見えたような気がする。
もしかしたらレイもそのことに僅かだが気が付いたのかもしれない、だから気にしたのだろう。
「・・・・・なぜ碇君はあたしに八つ当たりしないの?・・・・あたしは家族だって言われたわ・・・・なのに・・・・」
そしてレイもまた誰かに何かを望むことがあった。
心の湖面で立つ波は打ち寄せる岸辺を求めていた。
「・・・・・遠慮してるからだと思う・・・・・ごめん、上手く言えない・・・」
「そう・・・・・」
二人ともそれ以上続ける言葉を見つけられないまま、アスカを抱き起こす。
「起こしてごめん、部屋に行くよ・・・・」
右側をシンジが、左側をレイが支え彼女の自室へと連れていく。
階段が難所だったが幸いにも転げ落ちることなく、別途の上に降ろすことが出来た。
アスカは幾度か不満そうに唸ったが目を覚ますことなく、より深い眠りに落ちていった。
「じゃあ僕も寝るね。お休み」
「・・・・・・・・・・・」
レイが無言のままに自分の部屋へと消える直前、彼女を呼び止める声が耳に届いた。
「上手く言えないけど・・・・・今度僕にも綾波の昔のこと教えてよ。何も知らないのは寂しいから・・・・」
二人はその場に立ったまま、秒針が半周するほどの時を過ごした。
そしてそれぞれの思いを記憶の中にしまい込む。
「そう・・・・お休みなさい」
そして昨日とはうって変わって何の遠慮もなく太陽が顔を出した頃。
イスに腰掛けている二人の少女とは対照的に晴れ渡った空から舞い降りる光が眩しい。
「ちょっと目を離すととんでもない事するわね・・・・・」
いつもの様子とは裏腹に頭痛と吐き気と腹痛と寝不足に苦しみ、イスに座って俯いたまま身動き一つしない少女達。
反省しているような表情が浮かんでいるのかもしれないが、あいにくと初めて浮かべた苦悶の色に埋め尽くされていた。
コードレスの受話器を手にしたユイは短縮番号を入力する。
呆れたような、何処か苦笑を無理に押さえ込んで作ったような表情で二人の少女を睨んだ。
「碇ですが2年A組の葛城先生を・・・・・・・あ、おはようございます。碇ですがうちの二人はどうも風邪をひいたみたいで。ええ、二人とも今日は休ませますので、よろしくお願いします・・・・いえ、どうぞ気になさらず明日には行かせますから・・・・ホホホッ・・・・」
続く