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その日は晴れていた。
底抜けの青さが天空一面に広がっている。

五月晴れとでも言うのか、最近顔を見せなかった太陽が今日はやけに張り切っている。

昨日の雨で空気が湿っているの為気温の上昇と共に湿度も上がっているようだ。
まとわりつく空気が不快感を誘い、滲み出る汗が鬱陶しい。

身体の新陳代謝が盛んな年代だ、午後から急激に上がった気温のお陰で制服の下のTシャツが汗でぐっしょりしている。

「暑いわね・・・・・」

目の前に広がった校庭では運動部の生徒達が時間を惜しんでグランドを駆け回っていた。

飛び交うかけ声は野球部だろう。
甲高い金属音が響く度に一際大きな声が上がった。

あと二ヶ月もすればすぐ側のプールからも同級生達の声が響きわたる。

ハンカチで額を拭いながらもうすぐ訪れる夏の様子を何となく頭に思い浮かべていた。
もうそんな季節なのだ。

・・・・夏になったら旅行でも行こうかしら・・・・

自分の元に駆け寄ってくる生徒を眺めながら少し早めの夏休みを空想した。
赤いスポーツウエア、同色のスポーツパンツから敏捷性に富んだ長い足が伸びている。
多分その旅行に一緒に行くことになる相手だ。

「リツコー何やってるのよー!部活はサボりー?」
「そう、サボり。こう暑くっちゃぁ・・・・なんてね、今日はちょっと用事があるの」

息を弾ませながら自分の元に駆け寄ってきたのは、特に仲のいいクラスメイトだった。
雑談に寄り道、サボりに遊びにと共に行動する機会の多い少女だ。

活動的なショートヘアが呼吸の数だけ揺れる。
さっきまで陸上部の練習中に帰るリツコを見つけて駆け寄ってきたのだ。

「あ、もしかして今日お母さん帰ってくるんだっけ?」
「うん、まぁね。ここに来る筈なんだけど・・・・時間にルーズな人だから・・・」

校門から眺めた道路にはまだ母親の運転する車の姿はない。

「ドイツだっけ?あれ、ヨーロッパだっけ?」

ヨーロッパを国名と思いこんでいる彼女はさして社会の成績が良くない。

「似たような所よ。別に逢いたい訳じゃないけどここに来るって言うから」
「いいなぁ、何か奢ってもらったら?・・・・・あ、これ飲む?」

保温マットにくるまれた水筒をリツコに手渡す。
中にはよく冷えたスポーツドリンクが入っており、白いシャツが湿り始めたリツコの喉を潤した。

「ありがと、部活大変ね」
「大会近いし。今度レギュラーだからさ、少しやらないとね」

夏の何とか大会・・・・自分にはあまり関係ないのでリツコはその名称を覚えていないが、友人はそこに出場するらしい。
非公式タイムではこの二人の住む埼玉県でトップ10に入るらしいので、今度の大会でもいい成績が取れるだろう。

スポーツと名の付く物に敵愾心すら持っているほど苦手なリツコにとって、この友人はもはや自分とは別の生き物にすら思えることもある。

・・・・・きっと体の造りが根本的に違うのよ・・・・・

県内でトップ10に入る彼女を時折羨望の目で見ることもある。
わずかな差で及ばないなら嫉妬心も湧こうが、三輪車とF1マシン並の違いではそんな気も起きない。
素直に応援できるという物だ。

「まあ、頑張って。一応応援してあげるから」
「へへー、リツコの応援て高く付きそうね・・・・・そうだ、500m一番取ったら角屋のお好み焼きリツコのおごりね!」

一番得意の距離を取引材料にしたようだ。
と言ってもリツコにさしてメリットがあるわけではないがあっさりと応じる。
「ビリだったら香奈のおごりね。デラックスミックスでいいわよ」

リツコには自信がある、奢らされる自信が。

二人の間を風が走り過ぎていく。
爽やか、と言うわけにはいかないが、それでも微かに涼が得られる。

「知ってる?風を涼しく感じるのは皮膚の表面の汗が気化して熱を奪うからなのよ」
「知らなーい、これだから理科オタクはやーねー。っと、そろそろ練習戻るわ、じゃーねー」
「また明日ね」

活動的な友人は陸上部だけあって綺麗なフォームでリツコの元を走り去っていく。
たった数分で話しきれなかったことはまた明日話そう。

そう、また明日だ。

再び風が吹く。
それは止むことなく数秒、そして風が暴風に名を変えるまで30秒。

青い空が白く変わったのに気が付いたのは、リツコが地面に転がり白い制服を土で汚した頃だ。

白い空が南から広がっていった。





「!!」





「赤木博士・・・・大丈夫っすか?」

砕ける音が床で発生して固い壁を跳ね返り、その場にいた数人の耳に鳴り響いた。

「・・・・・驚かせたわね・・・・今片づけるわ」
「いいっすよ、俺やっときますから・・・・少し休んだ方がいいんじゃないっすか?ここんところ徹夜が続いたでしょ?」

シゲルは床に広がった黒い液体と白いマグカップの破片をモップで一気にかき集め、ちりとりで回収していく。

「先輩、仮眠取った方がいいんじゃないですか?あとはあたし達で出来ますから」

気遣わしそうな目でマヤはシゲルを手伝いながらリツコに休むよう促した。
実際赤木リツコ博士は此処数日家にも帰らず泊まり込み状態なのだ。

なまじ宿泊設備が整っている分、どうしても帰り難くなる。

「・・・・・四時か、九時になったら起こして頂戴。三時間目から授業があるのよ」









26からのストーリー


第二十話:白い空





「週の初めの一時間目から指される運の悪い人は・・・・碇君に決定!!てな訳で読んでちょうだい」

教壇から窓際で真ん中辺りに席のある生徒に向かって指が向く。
その前後の生徒は何処かホッとした様子でご指名の碇君に同情半分、ざまあみろ半分の視線を送る。

「えっと・・・・・何ページから?」
「87ページの第三章からでいいわよん」

聞かなければ判らないのは、この生徒が前回の授業をちゃんと聞いていないからだ。

「えっと・・・・『第三章、あの時の風は何色か。それは私がまだ幼かった頃の話だ。かつて住んでいた・・・・・・・」

何時もと変わらぬ授業風景。
使徒の侵攻を退けたご褒美がそれだった。

窓の外に広がる景色はそんな出来事があったことすら疑わしくなるほど静かだ。
飛び回った戦闘ヘリも駆け回った巨人も今はいない。

当たり前の景色が広がるだけだ。

このクラスの中にも欠けた顔はない。
シンジもレイも今自分の目の前にいて授業を受けている。
普通の中学生として。

・・・・いつまで続けさせるのかしら・・・・

幾度も自分に問いかけた質問だ。
いつまで続けさせるのか、いつまで続けるのか。

何もない道をただ歩き続けるような、出口のない迷路に迷い込んだような、先の見えない疲労感がミサトを苛む。

こんな時だ、目の前の彼等のように歩くことだけに夢中になる歳ではない事を思い知らされるのは。

「時間という物は常に・・・・・・・・・」
「うごめいて、よ」
「あ、はい。『時間という物は常に蠢いているのだ。新生、変化、消滅、それらを幾重にも織り交ぜ今という時間を形成していく』」

いつまで続けさせるんだろう、そう言いたげなシンジの顔をミサトは見て取ると片手をあげた。
指されてから何分経過しただろう。

「はいOK。今碇君に読んで貰ったページまでを説明するわよ」

やれやれと言った様子でシンジは自分の席に腰を下ろす。
どうもミサトの様子からすると朗読させたまま暫くその事を忘れていたようだ。

実際その通りで窓の外を眺めたままミサトの思考はしばし停止していた。

「えっと・・・・・そう、筆者が言いたいのは時間というのはいつも変わり続けるという事よ、たとえば・・・そうねえ・・・今となりの席にいる子が数分後には居なくなっちゃうかもしれない。仲のいい友達、好きなあの子・・・・・いつまでも一緒に入れないかもしれない。いろんな理由でね」

ミサト先生は一気に脳味噌を回転させ授業を進める。

「自分の周囲は常に変わり続ける、自分自身もね。今なんて時間は次の時間への通過点、あるいは過去の到着点でしかないのかも。そんな頼りなさを筆者はこの頃感じていた訳よね」
どうやら誰か著名な作家のエッセイが国語の授業内容らしい。
ミサト先生は元来教科書を使った授業は嫌いらしく、図書室から引っぱり出した雑誌のエッセイを教材にしている。

教科書に恨みがあるわけじゃないがそこに載っている題材が面白くない。
よってまだ数回しか教科書を開いていないのだ。

セカンドインパクト前の文部省が聞いたら目を回しそうだが、そんな大昔の人間に構う気はこの教師にはないらしい。

「さてと、みんなはどんなとき変わって欲しくないと思う?えっと・・・・・高根君、運が悪いわねー、ご指名よん」

高根という生徒は慌てて席を立ち上がりポリポリ頭を掻き、考えをまとめる。
何しろミサト先生は出席簿順にとか、日付順とかで指名せず、思いつきと勢いだけで生徒を指すのだから考えなどまとめていられない。

「えっと・・・・・あ!ゲームの発売日は変わって欲しくねーや」

多分他に何も思い浮かばなかったのだろう。
即物的な答えであったがミサト先生は満足したようだ、新たなる獲物を目で探し始める。

「ほい、遠野さん!ごっしめー」
「えーーーーーー!えっと・・・・えっと・・・・・友達と遊んでるときかなぁ。このまま変わらないで居られればいいなって・・・・」

仲のいい友人が数人居るのだろう。

「なるほどね、良い答えねー。じゃあお次は・・・・惣流さん、よろしくぅ!!」

シンジの隣から椅子を引く音が聞こえた。
やはり彼女も唐突に指名されたので戸惑っているようだ。

何の役にも立たないがシンジを見てみる。
ヘラッとした顔で見上げる彼はやはり役に立たなかった。

数秒思考を『過去』へと逆流させ答えになりそうな物を探す。

そしてそれを言葉に変換した。

「・・・・・家にいるとき。家でみんなと一緒にいるとき」








「相変わらず重役出勤ね。そのうち校長から文句言われるわよ」
「なんて言われるのかしら?あっちの仕事よりこっちを優先しろとでも言うつもり?いいわよ、全部ほったらかしてこっちに専念しろって言うならそうするわ。そのかわり向こうであたしの代わり探して頂戴。何十時間も残業出来て何日もの泊まり込みを厭わない人が居るなら是非変わって貰いたいわ、むしろこっちからお願いしたいわね。エラー出しまくりのアナライザーのご機嫌伺ってピンぼけホログラムと何時間も見つめ合って開かずの間になった倉庫から目的の道具探し出せる人が居るならね」

リツコに嫌みを言うのは止めよう、過去何回ミサトはそう誓ったことだろう。
言う度に十倍百倍になって返ってくるのだ、己の学習能力の無さをつい呪ってしまう。

「昨日も泊まりぃ?」

これに言い返したら今度は何を言われるか判らない。
差し障りのない会話に引き戻す。

「そうよ。そっちは倒せばそれでOKでしょうけどあたしはエヴァの面倒から使徒の身元調べまでやらなきゃいけないんだから」
「へへーーーーーーーーーーーーーーーーーっご苦労様っす」

低身低頭。
ちょっとでも頭を出せばリツコに狙い撃ちされるに決まっているのだ。

「お疲れさんねぇ・・・・でもそんなら今日は休んじゃえば良いのに」
「校長に文句言われるんでしょ?」

どうもリツコの機嫌はさほど良くないらしい。
さして珍しい事じゃないが。

「まったく何グズってんだか・・・・・」

聞こえないように出来るだけ小さな声で呟きながら自分のマグカップを手にすると、空になったことのないコーヒーサーバの液体を満たす。

少し酸味の効いた香りが鼻をくすぐる。

「へー、豆変えたんだ。結構酸味が効いてるのね・・・いいじゃん」
「あ、それ古いのよ、随分前に入れたままだから。でも気に入ったようね」

沈黙と重苦しい空気が理科準備室を席巻する。
それとは逆に休み時間の廊下は話し声が絶えない。
平和な証拠だ。

「命がけの代償は静かに流れる時間か・・・・・」

リツコの城、理科準備室のパイプ椅子に腰を下ろすと窓の外に目を向ける。
薬品とビーカーちょっとした検査機器しかない室内より、変化など無いが風の流れる外の景色の方が目に優しい。

ましてやリツコと顔をつきあわせるより遥かにましだ。

「高い買い物か・・・・・意外と安い買い物なのか・・・・・」
「さぁね、でもあたしはそれだけで結構よ。それ以上の物は要らないわ」

新しく入れたコーヒーを飲み、一息ついた。

「人それぞれよねぇ・・・・・ったく、何処のクラスだろ」

静かな時間だと思っていたのだが数名の生徒が隣の理科室で走り回っているのが聞こえた。
休み時間で広い教室、誰か知らないが騒がないわけがない。

「次の時間はあなたのクラスよ。いつものことだけど」

新しく入れたコーヒーは酸味の少ないブレンドで香りが良く出ている。
それをじっくり味わうように啜りながら壁の向こうで繰り広げられている騒ぎを聞いた。

リツコの言葉通り騒ぎ声の中に何処か聞き覚えがあった。

「シンジ!!この魔球見事打ってみい!!」

ミサトには見えないが想像が付く。
丸めた雑巾が飛び交いほうきのバットが振り回されるのだ。

理科室で。

「ケンスケ!そっち行ったで!」

再び騒ぎ声が沸き上がる。
その声は誰の物か判別できない、クラス全体で騒いでいるのだろう。

鈴原トウジと碇シンジがふざけているところを見ると学級委員長と惣流アスカ・ラングレーはまだ理科室に来ていないようだ。

「ミサト・・・・・・・」
「何よ?」
「後片づけは担任のあなたも手伝わせるわよ」

ガラスの砕ける音がコーヒーを啜っている二人の耳に鳴り響いた。








「さっさと席に着く。さてそこの四人はそこ早く片づけなさい」

四人、鈴原トウジ、碇シンジ、相田ケンスケ・・・・・葛城ミサト。

「他のみんなは実験準備して。今日は気化熱に関して実際に実験してみます」

深緑の黒板にチョークの白い文字が次々とかき込まれていく。

「気化熱とは何か。液体が気化するのに必要な熱量を気化熱というの・・・・・・・」

リズミカルな音が黒板から響く。

「たとえば物質の状態は固体、液体、気体と変化するけどその状態が変化する度に熱量を必要とするの。説明ではわかりにくいだろうから早速実験します。それぞれクーラーボックスから氷を出してビーカーに入れて・・・・・」
リツコの授業方針は「見なきゃ判らない」だ。
故にどのクラスの授業でも実験に要する時間は相当な割合を占め、リツコ自身の講義はさして多くはない。

「今ビーカーの中にある氷は固体の状態ね。これがあと少ししたらどうなるのかしら?碇君答えなさい」

バットだったほうきをちゃんと掃除道具として使用しているシンジは、その場で姿勢を正した。

「えっと・・・・溶けて液体になると・・・思います」
「その際に必要なのは?」

同じように一緒に掃除しているミサト先生がそっと耳打ちする。

(氷と言えば水割りよ)

「えっと・・・・・・・熱が必要です」
「はい、席に戻って良いわよ、では次に鈴原君、その熱は何処から持ってくるの?」
「そないなモンは・・・・・・何処からやろ?」

再びミサトがささやく。

(銀行から借りるのよ)

「その辺から持ってくるんやと思いますわ」
「良いわよ、では席に戻って。液体になった氷は水ね。水の沸点は何度かしら?相田くん」

答えられなければこのまま後ろに立たせて置くつもりだろう。

(リツコの沸点は睡眠不足よ)

「100度・・・・・だったな、確か・・・・そう、100度です」
「じゃあ、自分の班に戻って実験に参加しなさい。三人とも今度此処で騒いだら人体解剖の献体にするからそのつもりで」

スッとズレ掛かったメガネを直すと再び生徒達に質問を投げかける。

「氷が液体、つまり水に変化するのには融点0度に達して水に変化するのね。その際の温度変化をグラフにするとどうなるか・・・・・洞木さん、黒板にかき込んで頂戴。大体で良いわよ」

静かに席を立つとサンバカトリオとは違い余裕のある態度で黒板に向かいグラフを書いていく。
スラスラと淀みなくチョークが黒板を走る。

「さすがぁ。シンジとは偉い違いねえ」
「うるさいなぁ、ちゃんと答えただろ」
「あーーーんな簡単な問題で悩んだ癖に。あんなのは常識よジョーーーーーーーシキ」

勿論突然指名されてスラスラと答えられるほど根性が座ってないことぐらいアスカは良く知っている。
そんなことより自分がいない間にろくでもないことをやって掃除させられる事の方が遥かに問題だ。

「大体何で掃除させられるような事してたのよ!」
「うるさいなぁ!アスカに関係ないだろ。別に自分が掃除やらされた訳じゃないんだし!」

アスカが更に文句を言おうとしたときだった。

「そこの二人、前に来てあたしの隣で授業受けなさい。無駄話して良いなんて一言も言った覚えないわ」

さすがに二人とも声が大きすぎたようだ。
ただでさえ機嫌の悪いリツコがそれを見逃すはずもない。

早速狙い撃ちされたのだ。

賑やかな口笛と冷やかしの声の中、ノートを抱え渋々と教壇の隣に二人仲良く並んで授業を受ける羽目となった。

・・・・みっともない!!・・・・

確かに自分が悪い、それは理解できるが納得は出来ない。

・・・・シンジが悪い!!・・・・

憮然とした表情のまま大人しく授業を受けるアスカ。
左目はその張本人を睨み付けている。
そしてそんな授業の様子を一番後ろから眺めているもう一人の教師がいた。

・・・・リツコもちゃんと教師してんじゃない・・・・

物珍しそうに彼女の授業をしばし見学する。
このクラスのどの生徒よりも彼女との付き合いは長い、腐れ縁という奴だ。

だからこそ『ちゃんと』授業をする彼女が奇異に見えて仕方がない。
興味がなければ何一つ関わろうとしないのがリツコだ。
たとえ目の前で子供が泣きじゃくっても自分の関係者でなければ当然のように放っておく。

そんな彼女が生徒達に注意をしてちゃんと授業を受けるよう指導している、これが奇異でなければ何だというのだ。

スチール棚に寄りかかりリツコとその周囲の生徒達を眺め、何とも言い様のない違和感にどことなく可笑しさを感じている。

「葛城先生。そろそろ職員室に戻っていただけますか?授業の妨げになりますので」
「え?あ??・・・・は、はい。すぐ戻りますんで、じゃぁねぇ」

ミサト先生は一応階段まで静かに立ち去ったが、その下の踊り場で腹を抱え大笑いしてしまった。










秋も深まったというのにまだ夏の残り火があちこちに灯っているようだ。
中華そば屋のメニューから冷やし中華はまだ消えず、かき氷の旗は甘味処で風になびいている。
街ゆく人々は今だ長袖を着る気にはなれない。

そしてそんな街を眺めている彼も夏をまだ捨てきれない一人だった。

「遅いぞ!!何時間待たせれば気が済むんだ・・・これだから女って奴は・・・・」
「書類を全て用意して下されば数分で終わったんですが、生憎と香山一佐は数々の報告書類を未記入のまま提出なされましたので煩雑な手続きを必要とする結果になりました。従って予定終了時刻が30分も伸びました」
「おーい、こちらのオネーサンに冷たいコーヒーを一つ。一番美味い奴な」

街にこびり付いた夏がそろそろ立ち去ろうとしているある日、陸上自衛隊特別第一編成部隊の二人の指揮官とその副官は第二東京市のとある喫茶店にいた。

「本当に・・・・凄い恥かきましたよ、まともに書いてある書類が殆どないんですから。陸幕長も驚いてました」
「へぇ、あのジーサンまだやってるんだ・・・・・トドメさしてやりゃあいいのに。それが親切ってモンだ」
「誰にとっての親切ですか?」
「長生きしちゃった陸幕長とその後がまになりたがってる連中にとってだよ」

第五次使徒迎撃戦の結果報告はわざわざ第二東京市の防衛庁までやって来なければならない。
ファックスや専用回線で送ればいいのだろうにわざわざ呼びつけるところを見ると、担当指揮官に何か言いたいことが山ほどあるらしい。

だが香山一佐がその事を感知すると早速手を打ってしまった。

一人じゃ道中寂しいから付き合え、そんな馬鹿馬鹿しい理由で連れてこられた山科二尉は、滅多に着ることのない儀礼用の制服、通称お出掛け服を着せられて第二東京市で掻かなくて良い恥を掻いたのだ。

美人といえる顔立ちにりりしさが加わると年寄りどもの鼻の下も良く伸びるだろう。
そんな香山の思惑は見事的中したようだ。
大体小言が30分延びた程度で済む書類を出した覚えはない。

アイスコーヒー一杯じゃやってられないと言うのが、その辺りの事情がよく見える山科二尉の正直なところだろう。

「かなり不機嫌そうでしたね・・・・・焦ってるって言うか・・・・」
「ふん、どうせ上から突っつかれたんだろう。5回目の迎撃戦でまだ然したる成果が上がってないんだからな」
「でもアレは倒した・・・・」

何か言いかけた山科の前にウエイトレスの手が伸びてアイスコーヒーを置く。

「倒したあとの問題だよ、あの化け物は何なのか、NERVはそれについて何処まで知っているのか・・・・・連中が『使徒』て呼んでいることぐらいしかまだ判っちゃいない」

香山の前には金色の液体の上に白い泡の乗った飲み物が置かれている。
ジョッキグラスの入れられたそれを何と呼ぶのか山科二尉は良く知っていたがあえて口にしない。

それが親切という物だ。

「あたし達の仕事はNERVを調査することだったんですか?」
「いや、それは本来の役目じゃない、どっちかというとおまけだ。だがな、子供ってぇのは往々にしておまけの方を欲しがるもんさ」

麦を原料とした『ジュース』をさも生まそうに一気に飲み干した。
このジュースは夏だろうと冬だろうと美味いらしい。

「化け物は倒した、だがそれは俺達じゃない。あのでっかいロボットとそのパイロットだ。しかもそれは俺達日本政府の管轄外の代物と来てる、気になるのも仕方ないさ」

もっともそんな要求にまともに付き合わないから第二東京市くんだりまで呼び出されるのであって香山にとってはその辺りがバカらしい。

日本政府と特務機関NERVはそれほど単純な関係ではない。
国連直轄の組織である以上、一国の政府がおいそれと口を挟めないのだ。

セカンドインパクト直後、国連から復興援助を受ける際「国際法」の施行が条件を受け入れた日本、それ故秘密主義を押し通すその組織に対しても文句一つ言えなかった。

「露骨に調査すれば後が大騒ぎだ。総理の首なんて・・・・総理って誰だっけ?まあ、そのオヤジの首なんて木っ端微塵に砕け散るぜ」

そうなったらそれで構わないし、面白いとは思うがそれで自衛隊内部がガタガタするのは面倒だ。
総理など替えは幾らでもあるし、存在価値など無いに等しい。
だが騒動のきっかけにはなる。
自衛隊上層部には総理の所属する政党と仲のいい者もいるのだ。

飾りに過ぎない首相だがいざ責任問題となれば色々絡んでくる人間もいる。
特に自分の周辺でのゴタゴタはごめんこうむりたい。

自衛隊内部も派閥やら思想集団など色々ある。
それが嫌で陸上自衛隊特別第一編成部隊を独立愚連隊、建前部隊、陸自の恥部たるべく日々精進しているのだ。
下手に精鋭部隊になれば上層部でその指揮権をめぐって争いが起こるだろう。
精鋭部隊と呼ばれるほど手柄を立てれば、その分政府に対する発言力の強化になる。
その発言力を巡り、上層部が肉を奪い合う犬のごとく群がるのが目に見えるようだ。

「・・・・所詮軍隊の構図なんて石斧持って闘ってた頃と何ら変わりはないのさ。山科、お前さんセカンドインパクトの時何歳だった?」

女性に歳を聞くのは失礼だ、そんな礼儀は母親の腹の中に置いてきた。

「十二歳・・・・小学生だったと思いますけど」
「俺は二十歳だ、防衛大で真面目に勉強していた頃だったなぁ」

真面目、それが事実かどうか確かめるすべはない。

「あの時な、空が白くなった途端政府も行政も機能しなくなった。防衛庁も警視庁も上層部も右往左往するだけだったよ」

空になったグラスを名残惜しそうに眺めながらしまい込んだ記憶を引きずり出す。

「それ以前から政府の危機管理がまるで出来ていないことはみんな知っていた、だけど何もしなかった。何とかする方法は幾らでもあったのにな、そのツケは数千万の死体で払ったというわけさ・・・・知ってるだろ?セカンドインパクト直接の被害よりその後の死者の数の方が圧倒的に多いのを」

二十歳だった香山は見てきた。
目の前でやせ細って死んでいった難民、子供に乳房をくわえさせながら腐っていく母親。
日本の海岸線で無数に打ち上げられた死体とそれに群がるカモメ達。

それに対して何もできなかった若き自衛官幹部候補生。

「何もしなかったのさ、誰も何もな。今までと同じだよ、どんな痛い目にあっても何もしなかったことを覆い隠すために虚構の繁栄を纏っちまう」

ガラスの向こうには第二東京市が広がる。
恐らくはセカンドインパクト前と同じだけの繁栄を手にした街だ。

まるで何事もなかったようにすました灰色の顔をしている街。

「日本人だけ取ってみても過去何回も痛い目を見てきた、その度に反省はするが変わろうとはしなかった。今回もそうだよ、またこうして同じ街を作り上げてその中に閉じこもる」
「でもそうしないと生きていけないじゃないですか・・・・・」
「そうだ、そしてセカンドインパクト前と同じ国を作り上げたんだ。また変化を拒否・・・・・ってことはまたツケを払わなきゃいけない」

香山はレシートを掴み用の済んだ喫茶店を出ようとした。
落ち着いていい雰囲気の店だが別にデートに来た訳じゃない、一番嫌で面倒くさい事を先に済ませただけで他にもやることはあるのだ。

一佐と言う地位は決して暇じゃない。
本当なら。

「さてと・・・・お次は何処だっけ?」
「次は海上自衛隊東海方面師団との支援計画会議です。そろそろ時間になりますから急ぎますよ、車の鍵貸して下さい。飲酒で捕まったんではまたあたしが恥掻きますから」










『・・・・・秋雨前線が活発化し午後から小雨がパラつくでしょう。地域別で第三新東京市は夜までに大雨に変わる可能性が・・・・』

TVの天気予報が全て終わる前に玄関の開く音がした。
ほんの一瞬、彼女の表情に警戒心が宿るがすぐにうち消された。

この家の扉を開けられるのは鍵のあるなしに限らず自分を含めて五人だけだ。
子供とは違って軽快さのない一歩一歩踏みしめるような足音。

「帰ってくるなら電話ぐらいすればいいのに」

ユイはテーブルの上に昼ご飯を一人前しか用意していない。
当初からその予定だったし本来ならそれで充分だったのだ。
子供達三人は今頃学校で弁当を食べている。

「出張の帰りにたまたま時間が空いたからな。飯はいい、余所で食べる」

突然の帰宅した夫、碇ゲンドウはそれでも一応遠慮はしているのだろう。
だからといって夫に茶を啜らせて自分だけご飯を食べるのでは少々ばつが悪い。

「時間はあるんでしょ?いま支度するから・・・・」
支度と言っても大したことをするつもりはない。
塩ジャケに漬け物、朝の残りの卵焼き。

「もっと何か食べるの?」
「いや、それでいい・・・・」

ゲンドウの役職から言えば昼食にフルコースでも懐石でも何でも要求できるのだが別にそんな物を食べたいとは思わない。

そんな暇も食欲もない。

「珍しいわね、家でお昼食べるなんて」
「健康診断かねて名古屋の研究所に行った帰りだ。土産にきしめんを買ってきた・・・・」
「あ、そう・・・・・・」

この際きしめんはどうでも良い。
どうしてそんな物をわざわざ買ってきたのか今ひとつ理解できないがゲンドウなりに気を使ったのかもしれない。

やがてゲンドウの前にかなり質素な昼食が並ぶ。
ユイも自分しか食べない昼食に手間を掛ける気がなかったのだろう。

「二人でお昼食べるのって久しぶりね。何年ぶりかしら」
「さあな・・・・・・シンジが生まれてからはない筈だ」

小さいときは必ず足下にシンジが居た。
学校に行くようになってからはゲンドウ自身が忙しくなった。
だからわざわざ家に寄ったのかもしれない。
別にシンジを邪魔だとは思っていないだろうが、たまにはそんな昼食もあって良いと思う。

「この漬け物駅前の物産展で買ってきた物だから味が違うでしょ」
「ん?・・・そうか、違うのか」

改めて言われればそんな気がしないでもない。

「スマン、醤油を取ってくれ」
「塩分取り過ぎよ。その鮭だって充分塩が効いてるでしょ?」
「ああ・・・・・・」

それでも醤油をかけてしまうが、そろそろそういった事に気を使わなければならない年齢だ。

塩分の取りすぎ、脂肪分の取りすぎ、運動不足等々・・・・・
体型的に太っているわけではなくむしろやせ気味だがスポーツマンでは決してない。
単に体質という奴だ。

ユイの夫はタバコも酒もやらないのでその方面での心配はないが、健康に気を使っているわけではないのでどうしてもユイの小言が多くなる。

特務機関の司令だろうが何だろうが身体の構造に変わりがあるわけじゃない。
中学生の子持ちともなれば世間一般と同じように人間ドックのお世話にだってなる。

「健康診断は異常なかったぞ」
「当たり前。ちゃんと家で食べてるんだから」

考えてみれば滅多に外食などしないのだから食事に問題などないのだ。

「少しお休み取ったら?このところ帰りは遅いし・・・・・」
「忙しい。それに冬月が文句を言う・・・・」
「先生怒らせるようなことばかりするからでしょ?ご迷惑ばっかり掛けて・・・・・」
「ふん、奴はその為に居るんだ・・・・・」

一度冬月本人にどう思っているか聞いてみたいものだ。

「それより今日も帰りが遅いんですか?」
「ああ・・・・本部で会議がある」

役職が上がるほど会議と縁が深くなるのは何処でも一緒だろう。
出たくない、そうみんな言いたいところなのだが誰も口にしないので結局みんな出ることとなる。

彼もそうなのかどうかは判らないが、ユイには自分の夫が会議好きとは逆立ちしても思えない。

しばし気まずくない沈黙の中、二人は黙々と昼食を口にする。

まだゲンドウが健康診断や会議とはさほど縁がなかった頃は、こうして良く一緒に食べた。
あの当時は大学の学食や近くの喫茶店、研究所に入ってからはファミリーレストランやラーメン屋などそれなりにバラエティに富んでいた。
結婚し、シンジがこの世に出現してからも暫くそんな日々が続いたが、ある日を境に研究所も退職し専業主婦となってからは、昼食は殆どこの家の中で息子と取るようになった。

新しく増えた家族と共に。

今ではその二人も家で昼食を取るなど滅多にない。

「今度進路相談だそうよ。あたしが行きますね」
「ああ、そうしてくれ・・・・しかし早いものだな」

ついこの間入学祝いを二人に買ってやったような気がする。
後一年ちょっとすればまた何か買わなければならないだろう。

今度は三人分だ。

このまま何も変わらず時が流れれば・・・・・・・

「シンジは・・・・向こうでもちゃんとやってるのかしら?」
「・・・・・何とかやっているようだ、細かいことは葛城三佐と赤木博士に任せてある」

ユイの箸が止まる。
二人の名前はミサト先生、リツコ先生という『息子達の担任』以外に別の意味合いを持つ。
『息子』の上司でもあると同時に葛城博士、赤木博士という名を思い出させるのだ。

「葛城博士が南極で亡くなられてから15年、赤木博士もあんな事になってから・・・・・・リツコさんはお元気なの?」
「優秀だ、役に立つ・・・・二人ともな」

本人の前で言ったことのない台詞だ。
言えば相手の方が困惑することぐらい承知している。

「・・・・あの時関わった親の子供達がまた集まるなんて・・・・・シンジもその一人か・・・・」

因縁や因果などと言ったいい加減な物じゃないだろう。
知るべき物を知るために、憎むべきを憎むために集まったのかもしれない。

あるいは・・・・・・・・・
もしかしたら全てが狂ったのかもしれない。
あの時白い空の下で。

『では各地のニュース、今日は第三新東京市のフリーマーケットの様子をお伝えします。ここテクノプラザでは駅前商店街が中心となって・・・・・』

今と昔が混ざり始めそれが自虐の念に変わる寸前、ゲンドウのつけたTVが引き戻す。

今はまだその時じゃない。

「すまんがお茶をくれ。急須の場所がわからん」
「あ、ええ・・・・今入れるわ・・・・・ほうじ茶で良いわね」

結婚したときから置いてある茶箪笥から普段使う急須を取り出す。
その辺で買った安物だが結構使い勝手がよく、もっとも活躍する急須だ。

「もうそろそろお茶がないわね。買わなきゃ・・・・・後は醤油とラーメンと・・・・減りが速いわねえ」

緑茶、ほうじ茶とあるが碇家ではほうじ茶の方が消費量が多い。
特に拘りがあるわけじゃないがいつの間にかそういう消費状態になったらしい。

ついでに言えばケチャップよりソース、ドレッシングよりマヨネーズの方がそれぞれ早くなくなる。

その他にも買い置きのお菓子、カップラーメン、ジュース、その他細々した物が終わりかかっていた。

「買い物か・・・・・そこまで送ろう。ついでだから気にするな」
「別にスーパーに行くから・・・・・そうね、支度するから待っててくださいな」

スーパーまでは歩いてすぐだ。
だが少し離れたところにもう少し品揃えのある店がある。
わざわざその遠い店に行く必要はないのだが・・・・・たまには良いだろう。

お昼に帰宅した夫が居る、今日はそんな日だった。










通りの脇に植え込まれている街路樹は秋色に葉を染め始める準備をしている。
あと一週間、いや、二週間もすれば目にも鮮やかな黄色の衣を纏うことだろう。
去年もそうだった。

この場所に植えられてからずっと繰り返してきた衣替え。
だが今年はまだ夏色の葉を脱ぎ捨てられずにいた。

気温が高すぎるのだ。

日本という国が地図の上に書き込まれてからそんなことは幾度もあったので、今更異常気象とは誰も思わない。

今日の午後二時の気温は30度、10月半ばにしては高すぎるが、毎年『平年を上回る異常気温』と気象庁に言われれば異常な方が正常に思えてくる。

額に浮かんだ汗を拭うサラリーマンが忙しそうに往来する。
そんな中の一人が通りがけに建つ中学校を少しだけ視界の端に映すと、かつての自分を思い起こす。

青く丸い屋根、クリームグリーンの壁。
躍動するために造られた建造物の中からリズミカルな音が聞こえてきた。
自分がその建物の中に入る資格を持っていた頃も同じ音が響いていたのだ。

あれから何年経ったろう、家族を持ち、ネクタイを締めこうして街中を歩くようになるとあの頃がやけに懐かしく感じる。

その場だけの時間を楽しめた少年時代。

「さてと・・・・・次は丸久食品か・・・・」

彼は電子手帳をしまい込むとかつての桃源郷を意識の彼方から消し去り、今という時間の中で再び活動を始めた。






けたたましい笛の音と共に歓声が沸き上がった。
宙に高く舞い上がる茶色のボールをめぐって二本の腕が精一杯伸びる。

そして誰かに弾かれたボールはコートの中に居る少し大人しそうな少年の足下に転がった。

「シンジ!パスや!早うまわせ!!」

よりによってシンジにボールが行くとは、それが彼のチームメイトの偽ざる気持ちだ。
そして彼自身そう思っている。

頭数の内の一人、おまけ、少なくとも主戦力になどなったことはない。
ボールが来たらすぐに誰かに渡す、そうすれば少なくとも自分の責任下に置いて失点する事はない。

スポーツなどと言う物に関わってからそうしてきたし、今もそうするつもりだった。
何も失敗して責められることはない、自分より上手な人間は沢山いるのだ。

「えっと・・・・」

シンジにとっての不幸の種をさっさと渡すべく辺りを見回すが、チェックが厳しくて渡せそうにない。

・・・・まいったな・・・・・

そんな困惑をあざ笑うかのように三人が、彼のボールを奪うべく勢いよく接近する。
渡したいのは山々だが相手に渡しては元も子もない。

シンジの手が軽く動きボールをバウンドさせる。
リズミカルな音が床で響き、それは一瞬ごとに時を短く刻む。

・・・・抜けるかな・・・・

すぐ周りにいる3人の手が四方八方から伸びシンジを取り囲む。

「シンジ!振り切れ!!」

彼と同じチームの人間はそう願いながらも、それが虚しい願いであることを良く知っている。
少なくとも今日のように体育の時間にシンジがドリブルでかわしたのを見た者はいない。

今までは。

・・・・真面目にやってるのか?・・・・・
シンジは怪訝そうな顔で自分を取り囲むメンバーをつい眺めてしまった。
まるでスローモーションだ。

コマ送り画像を見ているような気になる。

・・・・これじゃぁ、ボール取らせる方が難しいよ・・・・

わずか1pの差でシンジに操られたボールは相手の手をすり抜けていく。

・・・・ついてこれないじゃないか・・・・

大きくバランスを崩しよろける有様まで彼の目にはハッキリと映し出された。

そんな手足に重りをぶら下げているような世界の中、自分だけは羽根が生えたように身軽だった。

彼にとっていつもの時間が周りではほんの一瞬だ。

気が付けばゴールのすぐ間近にいる。

・・・・えっと・・・・パス!・・・・

たまたまだろう、ゴールの脇にいたトウジにようやくボールをパスする。
まだ相手は駆け寄ってくる最中でそのパスを邪魔するどころではない。

「!!・・・・・任しいや!!」

気合いと共に宙を飛んだボールは、ぶら下げられた白いネットを通り抜けて板張りの床へと落ちていった。

再び笛の音が響きわたりスコアが一枚めくられた。

「凄いやないかセンセ。わいでもああは上手く抜けんで、何時の間にそないなモン身に着けたんや?」
「本当だな、すぐ取られると思ったのに・・・・・」

ケンスケとトウジの感嘆の声はこの場にいた全員を代弁したようなものだ。

「多分・・・・またいけるよ。トウジはゴールの所にいて、パスするから」
それが自信なのか予感なのかシンジにも判らない。
ただいけそうな気がするだけかもしれない。

今度は相手ボールでスタートした。

背が高く機敏な動きの生徒が一気にボールをドリブルで運んでいく。
バスケット部のレギュラーだけあって他の生徒がどんなに邪魔しようと苦にもせずかわしていく。

シンジなど本来なら目も向けない相手だったろう。

「退けよ、碇」

さっきの様子は目にしたが、たまにはまぐれというのもある。
彼を見下ろせるだけの身長差、部活で育てた技術、それを生かせるだけの体力、どれをとってもシンジを遙かに凌駕し彼など警戒すべき相手ではない。
余裕の笑みを浮かべ、これ見よがしにボールをついてみせるのも無理はないだろう。

・・・・何やってるんだ?・・・・・

シンジは不思議でならない。
これではボールをどうか受け取って下さい、そう言っているように見えてしまうのだ。

ゆっくりと上下するバスケットボール。

・・・・取って・・・・いいのかなぁ・・・・・

今までそんな機会がなかっただけに馬鹿馬鹿しい戸惑いを見せたが、バスケットの大雑把なルールを思い出すとスッと手を伸ばす。

それだけでバスケット部のレギュラー選手からボールを奪うことが出来た。

後はさっきと同じだ。
軽くステップを踏みながら淀むことなくゴールに近づきトウジへのパス。

そして得点へ。

「・・・・・チクショウ!」
プライドをシンジ如きに潰された彼は、その後もシンジとの対決を試みたが一方的な惨敗に終わってしまった。

「ちょっとアスカ、碇君てスゴイじゃん。何かやってたの?彼」

普段目立たないだけに一度注目を浴びるとすぐ話題になる。
シンジはクラス対抗のバスケット大会に向けて練習している2年A組の男子生徒の中では、もっとも多くの視線を集めていた。

「シンジがぁ?何かやってるわけないじゃん・・・・・」

既に練習試合を終えた女子の中にアスカと数人のクラスメイトがその様子を見物していたが、確かにシンジの動きは目立っていた。
技術的なことはアスカにはよく判らないが、移動スピードとボールを奪う早さだけは群を抜いている。

シンジの側にボールが近寄ればすぐに奪われ、その後は彼がずっとボールをキープするのだ。
アスカの知る限りそんなシンジは見たことがない。

「あ・・・・・また取った・・・・」

鮮やか、思わず心の中で感嘆の声を上げた。
すれ違いざまにボールはシンジの手に移っている。

「何か格好いいじゃん、普段あんなに大人しいのに」

アスカの隣で眺めていた女子生徒はいかにも興味深そうな目をシンジに向けた。

普段大人しい、そう、シンジは普段騒いだり喧嘩したりすることは滅多にいない。
他人と争う事が今まで殆どない。
いざこざ程度はあったかもしれないが、それだって大事になる前にシンジがすぐ引いてしまう。

それが今までのシンジだった。
少なくとも理科室で戸棚のビーカーを十個も割るような悪ふざけは起こさなかった。

そして今のように目立つこともなかった。

・・・・なんか違う・・・・

バスケットが上手になった、そんな単純でない変化がシンジから垣間見える。
今までとは少しズレ始めたシンジの映像がアスカの蒼い瞳に映し出されていた。

いくつもの視線がコートの中に注がれる中、レイの目はずっとアスカに注がれていた。

シンジの活躍はそれほど不思議ではない。
無数の触手をかわし間合いを一気に詰めることの出来る彼だ、バスケット部のレギュラー程度では触れることすらかなわないだろう。

いや、誰が相手だろうと同じだ。
集中したシンジの反応速度は常人のそれとは比べ物にならない状態なのをレイは良く知っていた。

彼女にとって何の不思議もない光景でもアスカにとっては奇妙きわまる光景。
その差がレイを何となくくすぐる。

ほんの一瞬、紅と蒼の視線が交錯した。
無数の感情と口に出来ない言葉を織り交ぜた二色の瞳。

今までとの違いを見つけた瞳と見た少女とその違いを当然の様に映した瞳。

「まったくシンジの奴カッコつけて。似合うわけ無いじゃない」

誰に呟いたのか、自分か、それともコートの中の少年か。
すぐ隣で腰を下ろしている少女だろうか。

「この間まで十秒もボールキープできなかったんだから」
「そう・・・・でも今は違うわ」

互いにそれ以上は何も言わず、活躍する同居人の姿を追った。

「綾波さん、向こうのコートであたし達の番よ。行こう」

紅い瞳をこの場から誘い出したのは唯一の友人である洞木ヒカリだった。
クラス全員参加の大会である以上、ヒカリも選手だがあまり得意じゃないのでどちらかというと積極的にはなれない。

「練習だけど勝てるといいね、綾波さんてスポーツ得意なの?」
「別に・・・・苦手じゃない・・・・でも得意じゃない」

靴紐を縛りながら答えた『綾波さん』の様子は端から見ればひどく素っ気なく、愛想の欠片もないように見える。
だがこれでもましな方で、問いかけたのがヒカリじゃなかったら何も答えないのだ。

緩めた紐を結び終えたのか、スッと立ち上がると座ったままのアスカを見下ろした。

「じゃあ・・・行って来るわ」
「うん、頑張ってね。レイってボケボケってしてるから転んで怪我しないでよ」

大人しい=惚けている、ではないだろうがアスカの持っている公式に照らし合わせるとどうもそうなるらしい。
もっともレイはその評価に不満もなくコクッと頷いてヒカリと共にコートへと向かっていった。








夏と呼ばれた時期より太陽の活動時間は短くなっていた。
学校という特殊な空間の上空に既に赤みを帯び始めた空が広がっている。
恐らく此処は特別な時間が常に流れているのだろう。
時にはゆっくりと、時にはあっと言う間に一定しない時が流れるのだ。

「日が落ちるのが早くなったわね・・・・・」
「もう秋だもんねぇ。来年は30か・・・・・リツコォ、時間の止め方知らない?」
「簡単、時計から電池抜いちゃえば簡単に止まるわよ」

理科準備室での不毛で非生産的な会話は幸いにもその当事者以外に聞く者はいない。

「来年じゃないけど来週は進路相談よ、あなたの生徒で受験生は何人?」
「確か十人前後、そのうち市内の私立校へは七人、市外の大学付属に3人。まぁ、例年通りね」

ミサトはこれでも一応学級担任だ。
中学二年の二学期ともなれば進学という話題も多くなり、それなりに調べることもある。
過去の進学率に近隣の高校の情報、それに向けての授業プログラム等々・・・・・

「まあ、他の子は気楽だけど受験する子はもう真剣よぅ。今日みたいに息抜きさせないとねえ」

5時間目は数学だったが担当教師の急病で本来なら自習だった。
彼としてはミサトが生徒に大人しく数学テキストをやらせることを望んでいただろうが、彼女に頼んだこと自体が誤りだ。

「で、クラス対抗勝てそうなの?」
「まーね・・・・シンジ君なんだけどさぁ」
「フィードバックが出てるんでしょう?気にしなくていいわよ」

先回りした回答はミサトの望んだ物じゃない。

「大丈夫かどうか聞きたいんだけどね」
「今は気にしなくていい、そうとしか言えないわね。前にも言ったけどエヴァのパイロットの前例はないのよ。想像外の出来事が起きても不思議じゃないわ」
「NERV技術主任は適当ね。自分の作った物に責任持ちなさいよ」

リツコは今日校内で飲む最後のコーヒーを啜ると手元の書類をまとめた。
さっきまでミサトが広げていた高校入学案内のパンフレットが幾冊も散らばっている。
それらを全て紙袋に押し込むとミサトに押しつけた。

「作った物がちゃんと動くように、その責任は持つわ。勿論パイロットについてもね」
「ならいいけどさぁ」

納得しようがしまいがリツコはこれ以上何も言わないことをミサトは知っている。
ついこの間もそうだったではないか。

「んじゃぁ、あたし帰るわ。本部にも顔出さないからよろしくね」
「あら、珍しいわね。後で文句言われても助けないわよ」

手を振り理科準備室を立ち去るミサトを見送ると、彼女の使ったマグカップと自分のカップ、コーヒーサーバを流しに放り込む。
いつか自動洗浄機をつけてやろうと思っているが大抵は日々の忙しさの中で忘れてしまっている。

今日のように気温の高い日は水仕事も気持ちがいい。

「ちゃんと動く・・・・か・・・・」

自分一人となった理科準備室ではその呟きを聞く者はいない。
リツコにとってそれは望ましいことだった。

・・・・別にパイロットが五体満足じゃなくてもエヴァは動くのよ・・・・

神経接続さえすれば後はイメージだけで操縦できる、その事はミサトには伝えていない。
伝えたところで無意味だ。
誰が何を言おうと碇シンジはパイロットをやらなければならないのだ。

他に代役が居ない。
替われる人間が居ないのだ。
なのに危険性を声高に叫んでも不安を増すだけにしかならない。

・・・・解決策のない問題は当事者だけが知っていればいいのよ・・・・

マグカップはビーカーの並んだ戸棚へとしまい込まれ、ガラスの引き戸を閉じた。








帰路を急ぐ生徒がまるで風のようにリツコの脇を駆け抜けていく。
遊ぶ約束をしているのか、何か買い物があるのか、ミサトの言ったように受験のために学習塾へ通うのか。

「さようならー!」

挨拶も何処か忙しそうに聞こえるから不思議だ。
中にはリツコ先生があいさつを返せないほどの勢いで駆け抜けていく生徒もいる。

ほんのりと赤く染まった校庭の脇でまだ部活に精を出す生徒達を眺めながら自転車置き場に向かった。

「事実の要らない年頃か・・・・・」

汗を流し縦横無尽に校庭を走り回る生徒達。
彼等にエヴァやNERVなどという単語は無縁の物だ。
セカンドインパクトなど教科書の中に書いてあることを知っていればいい。

そうでなくてはいけない。

その為の自分達だ。

「鍵は・・・・・バックに入れたかしら・・・・」

茶色のショルダーバックを探ると自転車の鍵を取り出し、少しさび付き始めた鍵を外す。

「そろそろ買い換えようかしら、音も五月蠅くなったし・・・・」

自転車のあちこちがさび付き始めているのは、普段雨ざらしにされているからで誰のせいでもなく本人の責任だ。

いい加減使い込まれた自転車を手で押し正門に向かった。
校内で自転車に乗ってはいけない、何か理屈があるわけじゃないがそう決まっているのでリツコもそれに従っている。
本当なら鼻の先にもひっかけずそんな規則は足で踏みつけてしまう彼女だが、教師たる身でそれをやってはいけない、と、一応心に留めている。

押しているだけでもキィーキィーと甲高い悲鳴が聞こえているのだ。
今時チェーンを使用している自転車などそうあるもんじゃない。

「リツコせんせー!」

そんな自転車のわめき散らす文句以外に自分を呼ぶ声が聞こえた。

「リツコせんせーってばぁ!」

足音と共に彼女は駆け寄ってくる相手を見つめ、記憶の中から該当する名前を検索する。
呼ばれているのは確かに自分の名前だがわざわざ下校中に呼び止めるような生徒は居ないはずだ。

面白みのない理科教師、それがリツコが自身に下している評価だった。

「今帰るんですか?早いですね・・・・はぁはぁ・・・・走ったら息切れちゃった」

呼吸と共にショートカットの髪が揺れる。

名前も顔も知っていた。
自分の授業を真面目に受けている生徒の顔は良く覚えているらしい。
もっともビーカーを割ったりふざけたり実験中にドジを踏んだ生徒の顔もしっかりと覚えている。

彼女はその両方に含まれている。

「B組の・・・・」
「はい!」

リツコ先生が自分の名前を覚えていたことだけで満足したらしく、大きく返事を返した。

「あの、リツコ先生に聞きたいことあって・・・・・先生って博士号持ってるんですか?」
「え?・・・・・ええ、一応・・・・」
「すっごーーーーい!!あのね、今日ミサト先生に聞いたんです。すっごいなぁ」

あまりに唐突な質問にリツコは思わず一歩引いてしまった。
わざわざ駆け寄って聞くようなことでもないだろうに。

恐らくこの少女は博士号が何たるかを良く知らないのだろう。
それ故その称号が仰々しくまるで勲章のように見えるのだ。

「あたしね、将来カガクシャになりたいの!先生みたいに格好良くなって!」
「・・・・・格好いい?」
「だっていつも白衣来て格好良く歩いているじゃない!あんな風になりたいなぁ」

羨望に近い眼差しがリツコにまとわりつく。
夢見る年頃だ、何に憧れても構わないがまさか自分がその対象になるとは夢にも思わなかった。
いつも白衣と言われても他に着る物がないからだし、格好良くと言ってもミサトに言わせれば『威張って歩いてるんじゃないわよ!』と言うことになる。

「カガクシャって・・・・・・どんなのを専門に・・・・・」
「何でもいいの!ただ先生みたいに格好良くなりたいなぁと思って」

理由付けなどどうでもいい。
リツコの知人には『少しでもうまい漬け物が食べたい』と言って微生物を専攻した者が居るぐらいだ。
『カガクシャ』が何なのか、そんなことはこの少女にはどうでもいいらしい。

ただ、自分と並んで歩こうとする少女の目はリツコの人生の中で初めて見た類の色を持っている。

憧れ、羨望、理想・・・・・・

初めて自分に向けられた生徒からのそれに戸惑いをどうしても隠せなかった。

「別に格好いい訳じゃないわよ・・・・・大変だし・・・・・」
NERVの仕事を思い出すと素直に奨める気にはなれない。
苦笑に近い笑みが彼女の唇の端に浮かぶ。

「やっぱり・・・あたしじゃ無理かなぁ・・・・」
「え?あ・・・そんなことはないわよ。そうね・・・・・月並みな言い方だけど最初は望むことが大切ね、あなたみたいに」

こういう時もっと気の利いたことを言えればとリツコは思う。

「先生ってどうやってカガクシャになったの?」

リツコは今理科担当教師であって別にカガクシャじゃない。
だがこの生徒の頭の中では『白衣』=『カガク』であって『理科』=『カガク』なのだ。

「どうやってって・・・・・えっと・・・勉強して・・・・論文書いて」

普段のリツコを知る者がいれば彼女の戸惑った様子に大笑いしただろう。
特にミサト辺りが。
相手に会話のペースを握られると言うことがどういうことか、リツコは初めてこの時感じたのかもしれない。
しかし決して不快な物じゃ無い、そうも感じている。

「ま、今はいろんな事を見て興味持つ事よ。そうすれば必要なことが生まれてその為に勉強するようになるわ。あたしはそうしたの」

まるでリツコの言葉を噛み締めるように聞き入った彼女は、やがてそれを飲み込んだのだろう。
リツコの元に駆け寄ったときと同じ表情になると満足げに微笑んだ。

「大丈夫!あたし好奇心旺盛だから!」
「そう、なら後は少し落ち着く事ね。特に実験中は」
「へーい!」

少女の細い足が軽くステップを踏み、リツコの元から一歩離れた。
頭の中にこの間の理科の授業が蘇ったのかもしれない。

「先生!あたしヒカリ達と約束あるから先に行くね!じゃあまた明日!」
「ええ、気を付けなさいよ。また明日」

まるで疲れを感じさせない身軽さで、この先に居るであろう友人達の元へ走り去っていく。

そう、また明日だ。

・・・・・・あの時もそう言ったのに!!・・・・・・

「!!」

かつて見た景色、かつて聞いた言葉がリツコの頭の中を駆け巡る。
それはおぞましい恐怖と嫌悪を纏った禍々しい物だ。

また明日、あの時白い空が広がってから明日は来なかったじゃないか。

足をすくませるような既視感。

リツコは怯えたように空を見上げるが2015年の今の空は赤かった。

「・・・・・セカンドインパクトか・・・・・」

彼女の髪を揺らす秋風は緩やかで、すぐに止んだ。
あの時見た光景は蘇らない。

・・・・・二度とあんな思いは・・・・・

その為のエヴァでありNERVであり科学者である自分だ。

遠くから部活にいそしむ生徒達の声が聞こえる。
明日が必ず来る、そう疑うことなく今という時間を楽しんでいる彼等。

そんな彼等が知る必要はないのだ、エヴァの事もNERVの事も。
自分はあの時知ってしまった、碇シンジも綾波レイもその世界に身を置かせてしまった。
だが一人でも関わる人間は少ない方がいいはずだ。

知ったところで幸せにはなれない。

「また明日か・・・・・そうね、また明日ね」

自分を慕う生徒がカガクシャに近づける為の明日になればいい。

赤く染まり始めた空の下、リツコは校門を出るとさび付いた自転車に跨りほんの一瞬だけ後ろを振り返った。

あの時とは違って校舎はちゃんと建っていた。








「日が落ちるのが早いな、あっと言う間に夕方か・・・・」
「あたしのせいじゃないわよ、それより珍しいじゃない、あんたが顔出すなんて」

磨き上げられた車のボンネットが夕日を浴び、不思議な色合いを見せる。
目の前に広がる芦ノ湖と同じ色だろうか。

蒼と紅の入り交じった景色は何故か穏やかに見える。

「一区切りついたからな。これでもこの間までは忙しかったんだよ」
「何が忙しかったんだか・・・・」

かなり疑わしげなミサトの目は無精ひげを生やした男に向けられた。
皺だらけのシャツにひっかけただけのネクタイ。
いっそ太々しい程の笑みを浮かばせている。

学校が終わる三十分前に電話してきた男だ。

「この辺は平日だと無人だな・・・・・・」

芦ノ湖ドライブインの駐車場と言えば休日など入れた物じゃない。
だからミサトはこんな場所に近づかなかったのだが、加持は自動車のキーを受け取ると此処に足を向けた。

「相変わらず芦ノ湖ね、ワンパターンも甚だしいわ」
「そう言うなよ、此処が一番まともな眺めなんだから」

加持は頭を掻きながらそう言うが、他に思いつかなかったのも事実だ。

「でっさぁ、夕飯奢ってくれんでしょ?ちゃんとした店?」
「ああ、ルテアって店だよ・・・・・何だ、知ってるのか?」
「チッ、リツコがご贔屓の店・・・・祟りよ祟り、あのアマ何処までも祟りやがる。この間文句言ったことまだ根に持ってんのよ」

加持には今ひとつ話が見えない。
『ルテア』なる店を既にリツコが知っており、ミサトにその店で奢らせたことなど加持の知りようもないことだ。

「本当に奢りでしょうねぇ・・・・土壇場で裏切るのは無しよ」

よりいっそう疑わしげな目が加持を睨み付ける。
信用するには余りにもいい加減な男だ。

「五年前みたいに急にいなくなったら・・・・・呪ってやる」
「大丈夫だって。一応誘ったのは俺だしな」

苦笑いを浮かべタバコに火を付ける。
紫煙はゆっくりと立ち上り運転席側の窓から外へと流れていく。

「処でリッちゃんと何やり合ったんだ?この間の迎撃戦の後しばらくむくれてたぞ」
「はん!むくれたいのはこっちよ。アンニャロー何聞いてもダンマリ決め込みやがって」

皆まで聞かなくても加持にはその時の様子が手に取るように見える。
彼がその場にいなかったのは幸運の女神が加持に流し目でも送ったからだろう。

「何を知りたかったんだ?」
「べっつにぃ、大したことじゃないけどさぁ・・・・・隠されるのって気分悪いじゃん」

実のところ気分が悪いどころの話じゃない。
山ほど抱えた疑惑を押し込んでいるのだから無理もないのだろう。

ドアを開け狭い車内の空気を入れ換えた。
この車の今の持ち主がかつての持ち主に対して見せた嫌みだ。

リツコといい、加持といい禁煙車というのをすっかり無視している。

「この車乗った奴でたばこ吸わないのってシンジ君ぐらいなものねぇ」
「元々禁煙じゃなかったのさ、この車は。それにシンジ君以外にも吸わない子は居たろう?」
「へ?後は・・・・・誰も乗せてないわよ」
「惣流アスカ・ラングレーはタバコ吸わないだろう」

車外に出てみると日中の気温はかなり下がっており、秋らしい乾燥した涼しさがミサトを包む。
軽く背伸びをして駐車場の欄干まで歩み寄り辺りを一望した。
第三新東京市に住んでいながら滅多に見に来ない芦ノ湖は新鮮に映る。

「惣流さんか・・・・あの子・・・・エヴァと何か関わりがあるの?」
「あの子の母親はドイツでE計画に関わっていたよ」

一瞬ミサトの目が険しくなる。
彼女の顔に浮かんだ影は、何も夕日によって作られたわけじゃない。

「ドイツ支部のE計画って確か十年ぐらい前に頓挫したんじゃないかしら?」
「ああ、その後ドイツ支部は閉鎖したらしいが・・・・あの子が碇司令に引き取られたのはその同時期だ」

詳しい経緯をミサトは知らない。
アスカの生い立ちなど調べたこともなかったし調べられるはずもない。
今は碇司令の家族になっているのだ、A級職員であるミサトですら触れることの出来ない事項だった。

司令のプライベートに関わることだから、そう思っていたのだが。

「確か・・・・・此処で初号機の建造が始まったのもその頃・・・・約十年前か・・・・」
「ああ、俺もお前も学生やってた頃だよ。リッちゃんもな」

芦ノ湖に小さな波紋が広がった。
ミサトの手に握られた小石が一個、また一個と湖面に投じられる。
幾つも浮かんだ波紋はやがて消え、何もなかったかのように数秒前の静かな湖面へと戻った。

「始まりはあたし達の知らない時間の中・・・・か。セカンドインパクトは十五年前・・・ねえ、加持君あなたあの時のこと覚えてる?」
「忘れたいがな・・・・・生憎と記憶力は良いらしい。細かいことまで覚えてるよ」
「あたしは覚えてない。だから気楽なのかもしれないけど・・・・知らされないって結構辛いのよね」

向こう岸から秋風が湖面を駆け抜けていく。
夕日色と影色の二色だけで彩られた景色が、闇色に近づいてきた湖を挟んで広がっている。

「波紋はすぐ消えても石を投げ込んだ事実は消えないのよ・・・・・見えないところに何時までも転がってる、誰にも知られずに・・・・」

再び投じられた石は大きく水面を揺らす。
湖面に映った夕日は波紋の中で揺らぎその姿を失うが数瞬後もとの真円を取り戻した。

石など投げ込まれなかったかのように。

「だとしたら・・・・誰が何のために石を投げ入れたんだろうな」
「そう・・・・・誰かが投げ入れたのね・・・・何処からか落ちてきたんじゃなくて」

風が二人の髪を静かに揺らす。
いつの間にか誰にも知られないように夕日はこっそりと山陰に隠れていた。
後数刻で何もかも覆い尽くす闇が広がる。

「今などという時間は酷く頼りない物だ。一寸したきっかけで過去からの結果を崩壊させ、未来への道をねじ曲げる・・・・頼りないから少しでも事実を見ておきたいのよ」

授業でやったエッセイの一文を思い出す。
何も知らないうちに事が起き、それを引きずりながら今を生きている自分達。
白い空に全てが飲み込まれたあの日から、頼るべき物を失った自分達。

確実な物は何もない、そう思い知らされたのだ。

「少しでも今に自信を持ちたいのよ、やってることは無駄じゃないって。シンジ君やレイにやらせていることが無駄じゃない、その補強が欲しいのよ。知らない誰かに踊らされてるなんてゴメンよ!」

不透明な霧の中に埋没した何かから繋がり何かへと繋がっていく接点。
せめてそれが自分達のためにやっている事、そう思えるだけの事実が欲しい。

「必要なら求めるしかないさ・・・・なぁミサト、その時は手伝ってやるよ」

欄干と加持に寄りかかると空を見上げた。
既にいくつかの星々がその存在を淡い光で示し、透けるような月も顔を覗かせている。

かつてミサトは何故星が地面に落ちてこないのか不思議に思っていた。
だがそれは現実の中で答えを見つけた時に当然だと思うようになった。

・・・・・何時かそう思うのかしら、NERVのことも使徒のことも・・・・










ついさっきまで夕日に染め上げられたリビングの窓は、群青色の絵の具を流し込んだようだ。
高層ビルの放つ灯りだけがまるで雲に隠れた星達の代役のように、寂しすぎる夜空を飾り立てている。

『・・・・・す。では日本の打ち上げた多目的衛生からの映像から雲の状況を見てみましょう。日本海側の高気圧により張り出した前線が・・・・』

見た目も喋り方も実に真面目そうなアナウンサーが一生懸命解説するが、生憎とTVを付けた少年はそれどころではないらしい。

「バカアスカ!!や!やめてー!!」
「なーに情けないこと言ってるのよ、オラオラ!」

碇家のリビングではその家の住人である少年が今にも死にそうな悲鳴を張り上げていた。
背中には同じ家に住んでいる少女が馬乗りになって少年の背中のあちこちを手で押しまくっている。

力を込める度に悲鳴が上がるのだから面白いのかもしれない。

「なっさけない!バスケットぐらいで体中痛くなるなんて!この!!」
「ぐえええええ!」

5時間目のバスケットはシンジの大活躍と言う普段では滅多に見られないモノをクラス中に拝ませて終わった。
軽やかにコートの中を駆け回るシンジはみんなの注目を浴び、彼の新たなるサイノウを示した体育の時間。

だが物事必ず代償というモノがある。
店で物を買えば代金が必要なように彼の栄光には『筋肉痛』という代価が必要だったらしい。

「筋肉なんか付いていないのに!ホントバーーーーーーーーーーーーーーーーーーッカみたい!!」

筋肉痛は深刻な疾病ではないのでアスカは殆ど心配していない。
背中と肩と太股とふくらはぎに湿布を貼ってやっただけで十分だ。

拷問に近いマッサージはあくまでもおまけで、苛めているわけでは無かろう。

「アスカ乱暴!もう少しそっと・・・・・うわぁっ!!」
「何贅沢言ってんのよ、殺しはしないから大人しくしてなさいよ」

さっき貼り付けた湿布の痛烈な匂いがTシャツ越しにアスカの鼻を突き抜ける。
不快な匂いではないが何となく痛々しい。

「何でこんなに早く筋肉痛が出るわけ?普通一日ぐらい経ってからじゃない?」
「あつっ・・・・・知らないよ、そんなの。でも今日は凄かったろう?」

少々痛みに歪んではいるがシンジの顔に誇らしげな笑みが浮かぶ。
滅多にないことだ、シンジが自慢するというのは。

「得点はそんなに上げられなかったけど・・・・ドリブル上手だったろ?」
「はん!まぐれよまぐれ!百年に一度あるかないか、惑星直列並のもの凄い偶然で起こったまぐれ!シンジの実力な訳ないでしょーが、勘違いしないでよ。それよりジタバタしないでよね、肩マッサージするんだから」

上半身を起こそうとしたシンジはアスカの手で再び床に押しつけられた。
枕代わりにしていた座布団に顔が埋まる。

アスカとて今日の彼の活躍がまぐれなどではないことぐらい判っている。
彼女の目から見ても動きのレベルがまるで違うのだ。
恐らく自分と一対一でバスケットをやっても勝てるものではない。

昨日までのシンジだったら紛れもなく自分が余裕を持って勝ったろう。
今までと同じように。

・・・・あんなのシンジじゃない!・・・・・

昔から『かけっこ』でも『ボール遊び』でも必ずアスカが勝利をあげていた。
シンジはいつも「アスカは凄いね」と屈託無く笑った。

今のシンジの笑顔は、あの頃とまるで変わったように見えてしまう。

自然にシンジの肩を押す腕に力がこもる。

「・・・ほ、本当に痛いって・・・・・」

掠れるような訴えがアスカの耳に届くがなかなか力は緩まない。
彼女の手のひらに伝わる感触が力を緩めさせなかった。
いつの間にか自分より広くなったシンジの肩幅。
計ってみれば大した違いはないのかもしれない、だが歴然と違うように感じる。

筋肉の付き方も骨格も。
それがまるでシンジを得体の知れない別の生き物のように思わせる。
寝転がっている床と同じように堅い感触。

全てが何か変わってきている。

何も知らないうちに。

少しでも強く肩を揉めば元に戻るかもしれない。

自分と変わらない肩幅に、自分と変わらない筋力に・・・・・・・

「バカ!本当に痛いってば!・・・つぅ・・・・非道いよ、手加減してくれたって良いじゃないか・・・」

背中に乗ったアスカを振り落とすようにシンジは身を起こすとさも恨めしげな目をアスカに向けた。
もはや筋肉痛じゃなくても痛くなるような肩の揉み方だったのだ。

「もう!いきなり起きないでよ!!イッタァーー・・・腰打っちゃったじゃない」
「あ、ゴメン・・・・・少し楽になったよ、アリガト」

本当のところそんなに変わった様子はない。
そもそも何の知識もないアスカのマッサージに効果があるはずもなく、単に苦痛を味わっただけなのだがそれを口にすればムキになった彼女に何をされるか判らない。

此処は大人しく感謝すべきなのだろう。

「ハデに動くんならもっと筋肉付けてからにしたら?ホーント、何で筋肉痛になるか不思議なぐらいよ」

アスカは頭の中で呪文を唱えた。

シンジは変わっていない、シンジは変わっていない、シンジは・・・・・

「お風呂・・・・空いたわ。あなたが入ったら晩御飯にするって言ってた・・・・」
「レイ!いきなり後ろで話しかけないでよ!あーーーびっくりした」

アスカの背後には頭からバスタオルを被った少女が自分達を見下ろしていた。
湯上がりのためかいつもは蒼白と言っていい頬がほんのりと赤みを差している。
淡い青色の寝間着を着込んでいるのは、もはやどこかへ出かけるつもりがないのだろう。

後は食事して寝るだけと言ったところか。

そんなレイだったが赤い目は大きく見開いていた。

座ったまま跳ね上がるといった器用なアスカの驚きように驚いたのだろう。

「お化けみたいに驚かさないでよ!」
「あたし・・・・・お化けじゃない・・・・」
「知ってるわよ!」

アスカの足がドスドスッと床を踏みならしながらリビングを立ち去っていく。
そしてレイとすれ違いざまに彼女の頭に乗っていたバスタオルを奪うとさっさと風呂場に駈けていった。

別に不機嫌になったわけではない、レイの言うとおり自分がお風呂に入らないと夕飯にならないようなので急いだだけだ。

更に彼女を急がせるように台所から声が飛ぶ。

「アスカ、早く出てきなさいよ。うどん茹でるんだから」
「えー!?今日豚カツじゃないの?」

こだまのように脱衣所から文句が返ってくる。
期待していた夕飯はアスカの知らない何者かの手によって先へと延ばされてしまった。

「今日はきしめん。豚カツはまた今度作るから早くお風呂入っちゃいなさい」










有るべき物が突然になくなる。
ついさっきまで昨日と同じように流れていた時間は、まるで堰き止められたように何もかもが動かなくなった。

ついさっきまでいつもと同じ光景、いつもと同じ風が吹いていたのにそれは全て消えた。

「・・・・・・・・お・・・・かぁさん・・・・」

彼女の全身に激痛が走る。
肘、スネ、背中、痛くない場所は何処にもない。
だが痛みと共に鼓動も感じ取ることが出来た。

ピントも合わず、ゆらゆらと海草のように揺らいで見える周囲の様子は、普段と大きく違っている。
ざわめく校庭からは人の声が消え、明日学ぶべき校舎は瓦礫の山と化していた。

恐らくは自分と同じように校庭で薙ぎ飛ばされた生徒達が起きあがれないでいる。

「・・・・・何が・・・・一体・・・・」

彼女には理解出来なかった。
自分に、自分の周囲に何が起きたのかを。

意識と視界が明瞭に連れより細かい情報を得ることが出来た。

自分は地面に打ち付けられた。
肋骨に左肩が痛むので骨折程度はしているだろうが命には別状なさそうだ。

他の痛みは打ち身程度だろう。
だが目の前に転がっている彼女の同級生達は違っていた。

強烈な力によって横から飛んできた街の欠片が彼等に降り注いだ。

誰もが白い運動服を赤く染め、全く動く気配もない。

今校庭に立っているのは門柱の影で母親の迎えを待っていたリツコだけだった。

「・・・・・香奈・・・・・香奈!?」

赤いスポーツウエアを着た少女が校庭に転がっていた。

両手を力無く伸ばし全く動く気配がない。

「香奈!!」

少し足を引きずりながらも懸命にその近くへと駆け寄る。
つい数分前まで一緒に喋っていた友人の周りは広い範囲で濡れていた。

それはリツコの胸に不安というシミをより濃く、より大きくしていく。

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

すぐ側まで駆け寄って、しかし彼女には何もできなかった。
何をしろと言うのだ。

ただ立ちすくんだまま、呼吸の仕方も忘れてしまった。

ついさっきまで一緒に喋っていた彼女とは似てもにつかない。
県大会に出るからとグランドを走っていた彼女とは似てもにつかない。

似るべき顔がそこにはなかった。

真っ赤に染まったコンクリートの塊が近くに転がって全てをリツコに語った。
知りたくもないのに、見たくもないのに変わり果てた世界が目の中に飛び込んでくる。

「・・・・・・・・香奈・・・・・・・・・・」

全てが崩壊した中、噎せ返るような暑さだけは変わらなかった。

+++++
+++++

「・・・・・い、・・・・・・ぱい・・・先輩!」
「!!」
「どうしたんですか!?ずっとうなされて・・・・・凄い汗ですよ?」

自分の視界には無数のパイロットランプが点滅しリツコの目覚めを待っていた。
仕事机に覆い被さるように暫くの間居眠りしていたらしい。

「・・・・・悪いわね。しかし何でこの部屋はこんなに蒸し暑いの?」
「エアコン効いてないみたい・・・・あ!先輩の肘の処・・・・」

無造作に置かれたレポート用紙、データ類、DVD等々がリツコの肘の下敷きになっていたがその更に下に小さなグレーのリモコンがあった。

「やだ・・・・知らないうちにスイッチ切ってたのね・・・・・ったく」

改めて机の上の惨状を眺めるとうなされていただけでなく相当動き回ったらしい。
並んでいるはずの文献や鉛筆立て、ひっくり返った灰皿がものの見事に散乱している。
白衣にも倒したコーヒーが大きなシミを作っていた。

そんな中からリモコンを取り出し、早速エアコンを起動させる。
本来なら特に使わなくても暑いことなど無いのだが、アナライザーやコンピュータ類の発する熱が部屋の温度を上昇させているのだ。

エアコンと同時に空気循環器もスイッチが切れるようになっているので、空気が暑いだけでなく淀んでいる。
そんな疎ましさを追い払うべく清浄でよく冷えた空気をエアコンは必死に送り込んだ。

「ふぅ・・・・駄目なときは何やっても駄目ね・・・・能率なんか上がらないわ」
「本当に疲れてるんですよ。今日はもう上がった方が・・・・・」

マヤの顔に心底心配するような表情が浮かんでいる。
普段居眠りなどしない赤木博士だけによけい心配になると言うモノだ。

そんなマヤの背後に掛かっている大きな時計を眺めるとまだ午後七時。
嫌でも疲れていることを自覚させる時間だ。

ふと額に汗が浮かんでいるのを感じ取ると白衣のポケットを探るが、生憎とハンカチはない。
ロッカーに放り込んだハンドバックの中に入れたままだったようだ。

「これよかったら使って下さい」
「あら、アリガト・・・・・今日はもう駄目ね、きっと何やっても上手くいかないわ」

苦笑混じりに悲観的な言葉が零れたが、それでもリツコに帰るという区切りをつけさせる。
確かにこの状態でいつまでやっても終わりはしないし、下手をすれば失敗を繰り返して他部署にまで迷惑を掛けることになるだろう。

いや、それはそれで別に気にしないがミサトにしたり顔で「ほーら、言わんこっちゃない」などと言われるのは悔しい。

「先輩、良かったら一緒に食事行きません?日向さんと青葉さん今駐車場で待ってるんです。今日はそば屋ですけどどうですか?」

NERV本部内食堂の貧困なメニューは今だ改善されないでいた。
職員もいい加減飽き飽きしているので、彼等のように外出して食事をとる物が後を絶たない。
むしろ増加していると言っていいだろう。

「じゃあ、今日はこのまま上がらせて。悪いけど食事終わったら駅まで運んでくれるかしら?」
「ハイ!じゃあ、下で待ってますから。あ、此処はこのままで良いですよ、後で片づけます」

それだけ告げると手にぶら下げていたジャケットを羽織りマヤは駐車場へと向かっていった。
軽やかな足音はエレベーターに乗ったのだろう、途中から途絶えリツコの耳には届かなくなった。

・・・・・あの時もそうだったのよね・・・・・

自分の元から走り去っていく友人、途切れた足音はその後聞こえることはなかった。

・・・・・思い出すこと無いのに・・・・・

着ていた白衣を脱ぎクリーニングボックスに放り込むと、軽く首を回す。
骨の鳴る音が頭の中に響く。
背伸びをしてずっと曲げっぱなしの背骨を伸ばすとやはり同じように骨が鳴る。

「ミサトに見せられないわね・・・・・んんしょっ・・・・・」

体中がすっかり堅くなっている。
以前なら床に手が着くほど柔らかかったのだが、今では遙か手前迄しか降りていかない。
その分科学者として成功している、と言う考えはリツコの単なるゴマカシだ。
運動選手並の基礎体力と柔軟性を持った優秀な科学者だっていっぱい居る。
元々スポーツが嫌いなので純粋に運動不足なだけだろう。

「さて待たせちゃ悪いか・・・・・そば屋ねえ・・・・もう少しハデなところに行けばいいのに」

別にそば屋が年寄り臭いわけでもないが若い彼等が夕食に行く店としては少し物足りないんじゃないかという気もする。
勿論彼等3人が既にその手の店に飽き、気分一新して和食に走り出したことなど知るはずもない。

「まぁ、良いわ・・・・・・」

誰とも無く呟きながら財布の中身を確認する。
ある程度の現金とクレジットカード一枚、後輩達に夕食を奢るにはこれで充分だろう。

椅子に引っかけてあったブラウンのジャケットを羽織りざっと机の上を片づける。
機器類の停止作業はマヤに任せてしまうつもりだ。

実用本位、飾り気の全くない部屋で

ある程度まで机を片づけると室内の電気を消し、早速地下駐車場まで向かっていった。

今日は帰って風呂に入りすぐ寝る、それ以上の予定は彼女の頭には浮かばなかった。








その部屋にいるのは二人だけだ。
だが人の姿は十人ほど見受けられた。

「碇、先だっての使徒、本部に乗り込もうとしたらしいではないか」
「その報告は私も受けている。その事実、よもや余人には漏れて居るまいな・・・・」

重々しい、と言うより情け容赦なく問いつめるような口調が薄暗い会議室をより重々しく感じさせる。

「問題ありません。そちらは手を打ちました・・・・いつも通りに・・・・」

答えた男の声はそんな重さなどまるで気にもしていないようだ。
無視していると言っても良いだろう、機械的な返答だった。

「だが使徒の本部侵攻・・・・軽んずべき事ではないぞ」
「その通りだ、初胎より遥かに目的が明確化されている・・・・時期が進んだ証だな」

深刻そうな彼等の顔とは対照的にゲンドウの表情は全く変化がない。
いや、顔の前で組んだ手が他者の視線を遮っているだけなのかもしれない。

何れにせよ外見からは何も伺いしれない。
「キール議長、我ら補完委員会としてもそろそろ介入すべき時期ではないのか?」
「左様、今後碇君一人の手では余る事態が予想されよう・・・・我らの存在意義を示す時期ではないかね?」

議長、そう呼ばれた男は数瞬他の者達を眺め、だが何の感情も示すことはない。
視力に問題があるのか大型のスリットバイザーを装着している顔をゲンドウだけに向けた。

「現段階では今だその時期に在らず、エヴァその物もまだ安定はしていない・・・・そうだな、碇。我ら補完委員会が乗り出すのは時期尚早だ、今暫くは彼一人に任せる」

ゲンドウではなく、むしろ「補完委員」に向けての返答だった。
土気色の肌は白人と言うより死人に近い印象を持たせる。
そしてそれは他の委員達の介入を許さないほどの圧力を放っていた。

「我らは軽々しく表には出られん、今までの投資が無駄になろうし今後の予定が大きく変更されかねん・・・・・・時はまだ熟していない・・・・・」

考え込んだ様子で誰もが沈黙を纏う。
だがキールの言に反対すべき理由は誰も持ち合わせていなかった。

「いいだろう、キール議長と碇に一任しよう・・・・碇、しくじるなよ・・・・」
「左様、あの惨劇を再び起こせば人類は最早元には戻れん・・・・判っているな・・・・」

やがて人の姿はTVを消したようにこの場から消え去った。
最初から誰も居ない、此処には存在しなかった、そう感じさせるほど唐突に消えた。

ただ一人を除いて。

「・・・・所詮は臆病者の集団だ、補完委員会の中に幾人『ゼーレ』足りうる者が居ると思う・・・・」

土気色の顔から吐かれた言葉はたった今消えたばかりの彼等に向けられていたが、明らかに毒素を含んでいた。

「目の前の海しか眺められず、その遙か先に大陸があることなど彼等には想像もできんのだ・・・・碇、補完計画無事に進んでいるだろうな」

どれほどの悪意が込められているのだろう、彼を議長と呼んだ者達に投げかけた言葉には侮蔑と失望だけで構成されていた。

「はい・・・・箱船は成長を続けています・・・・・問題なく」
「宜しい・・・・碇、遅滞は許さんぞ。先の迎撃戦はこちらで後処理を行う、ご苦労だった・・・」

この部屋は二人しか居ない筈だった。
だが地理的距離を超え運ばれたデジタルデータは、居ないはずの八人を此処に出現させていた。

そして今それは全て消え去り、本来の人数へと戻った。

「・・・・・補完委員会は何を焦っている?」
「ふん、奴らは自分の存在価値を示したがって大声を上げただけだ・・・・・記憶に留める価値はない」
「・・・・相変わらず下らん連中だな、自分の起こした事に今更怯えるとは・・・・」

NERV司令、副司令共にその語気は冷たい。
かつて起きた、これから起こそうとする事の大きさから見れば彼等の存在など然したる物ではないのだろう。

「セカンドインパクトで何が起こったのか・・・・・彼等には永遠に理解できまい、キールの言う通り先を見ることが出来ないのだな」

冬月の表情に怒りとも憎悪とも付かない陰りが生じる。
普段温厚な上司として評判の高い彼には似つかわしくない表情だった。

「・・・・何れ判る。それまで知らぬままで居ればいい・・・・・何もかも失うまで・・・」

ゲンドウの口元に笑い声の聞こえない笑みが浮かぶ。

禍々しく・・・・そして全ての厄災を歓迎するかのように・・・・・・・・・・










夕方の天気予報は見事的中し、気象庁の面目を保つことが出来たようだ。
激しく降り注ぐ雨は第三新東京市にこびり付いた汚れを洗い流していく。

「ひどい雨ですね・・・・もう、前がよく見えないわ」

この雨の中、駅前のメインストリートを一台の古いイタリア車が走っていた。
白いボディーに赤いラインの入った小さな車だ。
対向車のライトが狭い車内を照らすとショートカットのよく似合う女性が浮かび上がる。
幼い感じを残した瞳は助手席に向けられていた。

「たまには当たるみたいね・・・・天気予報も」
「最近はそうでもないですよ。ほら、この間宇宙開発事業団が多目的衛生上げてからですね」
「時々うちでも借りてるわよね・・・・・たった十五年で人工衛星か・・・・あの時人間はもう駄目だと思ったのに」
「確かジオフロントって着工がセカンドインパクトの翌月からでしたね・・・・15年、人工衛星ぐらい打ち上げても不思議じゃないですよ」

シフトノブを探していた右手はラジオのスイッチを入れた。
マヤの車は相当古い車なのでラジオもAMバンドしか入らない代物でMDやカーナビなどと言った物は何も付いていない。

内装も当時のままで、もう色の褪せたシートを手製のシートカバーでくるんで使っている。
メーター類も流行の賑やかなデジタルではなく針が小刻みに振れるアナログ式だ。

とは言うものの持ち主には何の不便も感じないようで、新しく何かを付けるようなことはしていなかった。

「人類の英知は底なしって感じね、消えた街をもう一度作り直すなんて・・・・」

金色に染め上げた髪に窓ガラスに付いた水滴が不可思議な模様を描く。
通りに煌めく様々な灯りが一瞬の幻のように視界の外へと流れ去っていった。

リツコの言う底なしの英知が作り上げた街は白々しいほどの灯りを放っている。

「底なしの英知ですか・・・・そのうち人類を飲み込んじゃうかもしれませんね」
「本当ね。でもこんな古い車が現役で居られるうちは大丈夫よ」
「やだぁ、これでも一応レストアしたんですよ。まぁ、装備がちょっと心許ないですけど」

握っていたハンドルをポンと叩く。
軽快な排気音はこの車がガソリンで走っていた頃のと同じ音だろう。

「この車なんて名前だったかしら?」
「フィアット・アバルト695SSベルリーナ・アセット・コルサ・シリーズIIです。長い名前でしょ、買ったとき一生懸命覚えたんですよ。中身はさすがにモーターですけどね」
「ミサトのは確かルノー何とかだから違う会社ね」

リツコの豊富な知識の中には車の名前など含まれていないらしい。
そもそも彼女にとって車の識別はトラック、バス、自動車の3種類でメーカー名や車名など気にしたことがない。

「葛城さんのはフランス車ですし・・・・これはイタ車でそれにこれはもっと古い車ですから」
「ミサトのもいい加減古いんだけどそれより古いのね・・・・物好きねえ」
「やっと見つけたんですよ、昔から乗ってみたかったんです」

嬉しげに話す彼女の顔はいつもより幼く見える。

・・・・・加持君もそうだったわね・・・・・

かつて大学にいたとき、錆の浮いたどう見ても屑鉄にしか見えない車を拾ってきた友人二人を思いだした。

タダだったから拾った、直すから手伝え。

色々飾り立てた言葉を何層にも重ねて言っていたが、要はそれを言いたかったのだろう。

華の女子大生二人は小汚いつなぎを着せられ錆とオイルと鉄粉まみれになりながら、屑鉄を車と呼べるようになるまで頑張った。

・・・・・割り引いて考えてもバカだったわ・・・・

バカなことを大まじめで出来た時代。

後先考えず、楽しいことだけを出来た時代。

「先輩、何笑ってるんですか?」
「え?・・・・何でもないわ、昔いたバカ3人を思い出したのよ。それよりその辺で良いわ、ロータリーに入ると出るの大変でしょ?」

雨の日は迎えの車が急増するから駅前のロータリーは混雑していた。
渋滞というほどでもないがそこから抜け出すにはちょっと時間が掛かりそうだ。

マヤは一瞬だけ考えたがリツコの言う通りウィンカーを出すと路肩に車を止めた。
ちょっとしたスペースしか空いていなかったが小さいだけあってごく簡単に止めることが出来る。

「此処ならアーケードがあるから濡れないし、ご苦労様」
「いいえ、こっちこそ夕飯奢って貰っちゃって。ごちそうさまでした」

同じくリツコに夕飯を奢って貰ったシゲルとマコトは既にタクシーで本部に向かっている。

「お粗末様、じゃあ、実験室のほうよろしくね。それと青葉君に射出ゲートの再テストやっておくように伝えて頂戴」
「はい!じゃあ、お疲れさまでした!」

走り去っていくマヤの車は他の車の影にあっと言う間に飲み込まれて見えなくなった。

「・・・・・気化熱か・・・・蒸発するときに熱を周りから奪う・・・・本当ね」

これから帰る自分の部屋には誰も居ない。
わざとらしいほどの街のざわめきも家に帰れば蒸発してしまう。

今更寂しいとは思わないが馴れたわけでもない。

・・・・つまらない人間ね、あたしは・・・・

無数に輝くイミテーションの宝石を纏った第三新東京市がまるで自分と同じに見える。
科学者、NERV技術部主任、赤木博士・・・・そんな名称がその辺のネオンと同じに思えるのだ。

自分一人になるとそんな思いがいつも沸き上がる。


あの時と同じように。

「香奈・・・・・あなたが居なくなった時、とても寒かったのよ・・・・あんなに蒸し暑かったのにね」

続く


Next

ver.-1.00 1998 07/13公開

何かありましたらこちら!!お気軽にどうぞ

随分間が空きましたがみなさんお元気ですか?
ディオネアです。
さて26からのストーリー、「白い空」如何だったでしょうか。

今回子供達は出番が殆どありません。
ですから彼等の活躍を期待した人にはかなりご不満だったのではないでしょうか?

まぁ、たまにはそんな話しもあるという事で(^^;;

次回はちゃんとメインになると思います。

ただ最近身体をぶっ壊して更新ペースが少々落ちています・・・・・・
なるべく一ヶ月一本は守りたいのですが・・・・・


さて次回のサザエさん・・・・じゃない、26からのストーリー『授業参観ねぇ・・・・ウケケケケ(勿論仮題)』。
で、お逢いしましょう(^^)

では今回もお読みいただき有り難うございましたm(__)m



 ディオネアさんの『26からのストーリー』第二十話、公開です。




 神経系統はレベルUPしていても、
 体はそのままなんだね・・・


 EVAなんつーモノの影響でのパワーアップだから、
 体は大変だなぁ


 一気にボロボロ筋肉痛・・・



 でも、マッサージ・・・
 いいなぁ

  このセリフ前にも言ったことがあるような・・(^^;



 筋肉痛に素人マッサージなんですから、
 実際はちっとも”いいなぁ”な状態じゃないんでしょうけどね(^^;;;



 お家の中はまだまだ大丈夫・・じゃなくなってくるのかなぁ・・・




 さあ、訪問者の皆さん。
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