TOP 】 / 【 めぞん 】 / [綾波 光]の部屋

【I'm so happy, may be.】

作・H.AYANAMI 

 シンジはいつもの様に、早朝のジョギングから自宅マンションに帰ってきた。だがここは本来の彼の住まいではなかった。

 彼が”家族”と共に住んでいた屋敷は現在、改築中であった。ここはその間の仮住まいである。

 シンジが息を整えつつ、マンションの門を入って行くと、そこには彼のよく知っている人物がいた。シンジは挨拶をする。

 「お早うございます。かじ、いえ加古さん」

 思わず「加持」と呼びそうになり、シンジはあわてて言い直しながら周囲をキョロキョロと見回す。幸いにも近くには誰も居なかった。

 そんなシンジの様子を見て、加古は微笑みながら応える。

 「お早うございます、会長。ジョギング、よく続きますね」

 会長と呼ばれ、シンジは少し困ったような顔をする。

 「・・・加古さん。ヨシエさんや会社の人がいない時は・・・会長なんて呼ばないで下さいよ・・・」

 元々、”会長”と呼ばれることにある種の気恥ずかしさを覚えるシンジだったが、昔からの知り合いである加古からそう呼ばれるのは何とも居心地が悪かった。

 「だけど、シンジ君は俺にとってはあくまで会長だからな・・・」

 加古もまた少し困ったような顔になる。現在の彼はシンジが会長を務めるIHKS社の社員なのだ。いくら”昔馴染み”だからと言ってもそのスタンスは変えることはできなかった。

 シンジには加古のその考え方が分かった。互いの安全の為にもそれは必要なことなのだ。シンジは話題を変えることにした。

 加古の持っている大きなゴミ袋を見てシンジは言った。

 「・・・今日は燃えないゴミの日でしたね。いつも大変ですね・・・」

 シンジのその言葉に加古は苦笑いを浮かべる。

 「・・・まあね。なにせ家は加工食品が多いからね。その空パッケージだけで大変な量になるんだ・・・」

 シンジも苦笑しながら応える。

 「・・・昔からそうでしたからね・・・ミサトさんが料理をしないのは」

 「・・・それで助かっている面もあるんだがな・・・」

 二人は共に下を向いた。そして期せずして一緒にため息を吐いた。

 「「はあーぁっ」」

 シンジが何かを思いついたらしく、顔を上げた。加古に尋ねる。

 「・・・加古さん、今日は早く帰れるんですか?」

 「・・・うん、特に何も無ければ、6時半には帰って来れますが・・・」

 加古はいつもの”会長”に対する言葉遣いに戻っている。

 「・・・それじゃあ、今晩は家で食事をしませんか?勿論ミサトさんもご一緒に・・・」

 「・・・でも悪いですよ」

 加古は一応遠慮して見せる。

 「構いませんよ。・・・それじゃあ、7時に綾波の方の部屋で、と言うことでいかがですか?」

 「・・・それじゃあ、お言葉に甘えて」

 加古は嬉しそうに言った。実のところ加古は”普通の”家庭の味に餓えていたのだ。

 「何か食べたいものがありますか?」

 シンジのその問いに加古はこう答えた。

 「何でも良いですよ。ただ、できれば普通の家庭料理が食べたいです」

 「・・・分かりました。それじゃあ7時にお待ちしてますから」

 二人は別れた。

 

 

 シンジは自分の部屋にも戻ってくると、そのままシャワーを浴びるためにバスルームに直行した。

 ごく短時間にシャワーを済ませてシンジはバスルームを出た。洗面台の前でドライヤーを使い髪を乾かしていると玄関のインターホンが鳴った。それが誰であるのかシンジには既に分かっていた。

 シンジはバスルームから出てくると、インターホンに応じることなく玄関の扉を開けた。

 そこに立っていたのはレイだった。既に制服に着替えその上からエプロンをしている。

 『・・・碇君、朝ご飯の支度が出来たわ・・・』

 心なしかレイの顔が赤い。何か言いたげにシンジの顔を見た。

 レイの顔を見て、シンジは思い当たる。

 「・・・今夜、だね?・・・」

 その言葉に、レイは嬉しそうに微笑み頷いた。

 『うん・・・』

 シンジもまた少し顔を赤らめている。照れ隠しの笑みを浮かべながらシンジはようやく言った。

 「・・・・・着替えたらすぐに行くから、綾波は先に行ってて・・・」

 『・・・うん』

 レイが隣の、自分の部屋に戻って行くのを見送ると、シンジは着替えの為に自分の寝室に入っていった。

 

 「ウプッ・・・ウゲェ・・・ゲポッ・・・」

 葛城ミサトは洗面台に向かい、嘔吐感と闘っていた。いつもの朝の光景ではある。

 そんな彼女の後ろから、ゴミ集積場から戻ってきた加古が声をかける。

 「葛城ィ・・・もう少し酒を控えたらどうだ。もう若くないんだから・・・」

 言ってしまってから加古は”しまった”と思う。年齢のことはこの家ではタブーなのだ。より正確に言えばミサトに対しては、と言うべきだったが・・・。

 ミサトが振り返る。キッと加古の顔を睨むとこう言った。

 「あんたねー、歳はお互い様でしょ。それに最近はそれほど飲んでないわよ」

 それは確かに事実だった。ミサトの毎晩の酒量は350mlのエビチュに換算して、平均10本→6本に”激減”(ミサトの主観によればだが)していた。

 加古はミサトの口調の、いつもとは違う微妙な違いに気づく。心なしかいつもより声に張りがなかった。見れば、その顔色はいつもに増して青ざめているように見えた。

 加古はミサトに尋ねた。

 「葛城・・・・・どこか具合が悪いんじゃないのか?・・・・・その、二日酔い以外に」

 その言葉にミサトは、ややムキになって抗弁した。

 「そ、そんなこと無いわよ!!大丈夫・・・もう少ししたら良くなるわ」

 「・・・そうか?・・・なら良いけど・・・なんなら今日一日、仕事の方は休ませてもらったらどうだい。なんなら俺の方から連絡しておくから・・・」

 「・・・有り難う。・・・でも大丈夫だから」

 ぶっきらぼうでも常にミサトのことを一番に考えてくれている、ミサトには加古の心遣いが嬉しかった。

 「・・・そっかあ・・・分かったよ・・・・・それじゃあ、俺は仕事に行くから・・・」

 加古は立ち去りかけ、だがすぐに先ほどのシンジの招待のことを思い出した。振り返って言う。

 「ああそうだ。さっきシンジ君に会ってね。夕食の招待をいただいたよ。7時だそうた・・・勿論行くだろ?」

 「ええ、分かったわ」

 「俺もそれまでには戻って来れるから・・・それじゃあ行って来るよ」

 「いってらっしゃい」

 

 加古が出ていった後をミサトはしばらく見送っていたが、何かを思いついたらしくキッチンの方に歩いていった。

 キッチンに入ったミサトは、壁に掛かっているカレンダーを見た。

 ポツリと呟く。

 「・・・今日でもう、2週間か・・・」

 再び沈黙するミサト。じっと何かを考えている。やがて何かを決めたらしく、テーブルを離れると端末を使うためにキッチンを出て自分たちの寝室に入っていった・・・。

 

 

 シンジは朝食のテーブルで少し困ったような顔をしていた。隣にはレイが、そして向かいの椅子にはヨシエさんが座っている。ヨシエさんは少しばかり眉をつり上げてシンジの方を見ている。

 先ほど、シンジは加古”夫妻”を夕食に招待したことをヨシエ達に話した。レイはすぐに賛意を示したが、ヨシエさんは困惑の表情を浮かべた。彼女は次のように言った。
 ”碇家がお客様を食事にご招待するのに、ここではあまりに手狭ですわ。食器類もみんな燃えてしまいましたし・・・やはりお呼びするのは、お屋敷が再建されてからの方が宜しいのではないですか?”

 それに対して、シンジはこう説明した。

 ”・・・それほど大げさなものじゃ無いんですよ。・・・ミサトさんは・・・あまり料理が得意じゃないから・・・それで加古さんが家庭料理が食べたいだろうと・・・だがらいつも通りの家の食事を出してあげれば、それで良いと思うんですけど・・・”

 だがヨシエは尚も難色を示した。

 ”・・・いえ、シンジ様はあくまでも碇家の御当主です。その御当主がお客様をお招きしてお食事を差し上げる以上、やはりそれなりのものをお出しするべきです。それには準備の時間が必要です。・・・どうでしょう?お招きするのは3日後にしていただくと言うのは・・・”

 シンジはヨシエをこれ以上説得する言葉が見つからなかった。

 (・・・仕方ないな。加古さんに電話して、来ていただくのは3日後にしてもらうか・・・)

 シンジがそう思ったときだった。レイがヨシエに向かって話し出した。

 『ヨシエさん、もしもこれがお夕食のご招待と言うことでなければ良いのですか?』

 ヨシエはレイの言う意味が分からなかった。

 「レイ様・・・それはどういう意味ですの?」

 レイは答えた。

 『・・・ヨシエさん、私は碇家に来て以来、貴方にいろいろな料理を教えていただきました。・・・碇君やヨシエさんは私の作ったものをいつも美味しいと言って下さるけど、まだお二人以外には私の料理を食べていただいたことはありません。
 だから他の方が私の料理をどう思うか・・・今夜は加古さんやミサトさんに私の料理を食べていただく試食会と言うことにしたらどうでしょう?』

 シンジはレイの、この助け船を心底有り難いと思った。加古への”同情心”から、ヨシエやレイに相談も無く夕食に招待した自分の迂闊さを正直悔いていたからだ。

 少し遠慮がちにシンジはヨシエに向かって言った。

 「ヨシエさん、それなら構わないんでしょう?当主である僕の正式の招待では無くて・・・綾波の作ってくれたものをお二人に試食していただくと言うことなら?」

 そう言ってシンジはじっとヨシエの顔を見た。

 レイもまたヨシエの顔をじっと見ていた。

 二人の視線を受けて、ヨシエは僅かにたじろぐ様子を見せた。しばらくの沈黙の後、彼女は言った。

 「・・・負けましたわ。お二人がそうお望みでしたら、わたくしはもうこれ以上、否は申しません・・・」

 シンジとレイは期せずしてため息を漏らす。

 「『ふーうっ』」

 二人とも息を詰めてヨシエの答えを待っていたのだ。

 だが、ヨシエは続けて言った。

 「但し、レイ様のお作りになるものの御試食会と言う以上・・・私は一切お手伝いは致しません。献立もすべてレイ様がお考えになって下さいまし・・・」

 シンジはヨシエの顔を見、次に頭を巡らしてレイの顔を見た。レイもまたシンジの方を向いていた。

 シンジは不安な視線を向ける。だがレイは静かに頷いて見せた。その瞳は”大丈夫だ”と語っていた。

 シンジも頷きを返した。

 そんな二人の様子をヨシエは目に微かな笑みを浮かべて眺めていた・・・。

 

 

 学校の昼休み、階段の踊り場の隅でシンジとレイは今夜の献立について話していた。

 シンジはレイに尋ねている。

 「綾波は何が一番得意なの?」

 レイは少し考えていたが、やがてポツリと言った。

 『・・・卵焼き』

 シンジは頷いてみせる。

 「うん、綾波の卵焼きは美味しいよ・・・」

 レイはシンジの語尾の微妙な”トーンダウン”に気づく。

 『卵焼きじゃ・・・駄目なの?』

 あわててシンジが言う。

 「そ、そんなことは無いけど・・・でも卵焼きはメインのおかずには・・・少し寂しくない?」

 『・・・そうね・・・・・碇君は何が良いと思うの?』

 「うん・・・・」

 シンジは下を向いて考えていたが、やがて何かを思い出したらしく顔を上げた。

 「この前、作ってくれたお魚の・・・確か鰤の照り焼きだったよね・・・あれはとても美味しかったよ。あれはどうかな?」

 『・・・そうね。でもあの味付けはヨシエさんがしてくれたの・・・』

 「・・・そうなんだ・・・」

 シンジは少し残念そうに言った。せっかく良い案を思いついたのに、と言う思いがしたからだ。

 レイが言う。

 『・・・わたし、多分出来ると思う・・・・・』

 「・・・えっ・・・」

 『・・・ヨシエさんの作るのを見てたから・・・』

 「・・・それじゃあ、メインのおかずは鰤の照り焼きに決めよう?」

 『・・・うん』

 二人は更に、他の献立についても相談した。それが終わるとシンジが言った。

 「学校から帰ったら、一緒に材料を買いに行こうよ」

 レイは少し寂しげに首を振る。

 『・・・駄目。家のことに碇君を手伝わせたりしたら、ヨシエさんに怒られる・・・』

 だが、シンジは尚も言う。

 「・・・それじゃあ、別々に家を出て・・・スーパーの前で待ち合わせることにしようよ・・・それなら良いでしょう?」

 レイの顔が明るく輝いた。微笑みながら頷く。

 『うん!!』

 シンジもまた嬉しそうに微笑んだ。

 ”キン・コン・カン・コン・・・・・”

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。二人は寄り添って階段を降りていった・・・。

 

 

 ミサトは午後の仕事を早退して、ネットで予約した病院に行った。検査を受けるために。

 

 検査の結果はミサトの予想通りだった。そう、彼女は妊娠していた。

 彼女を診察した初老の医師は、形通りのセリフを言った。

 ”おめでとうございます。・・・3ヶ月です”

 ミサトは驚きはしなかったが、しかし殊更に嬉しそうな顔も見せなかった。ただ淡々と、医師の説明を聞いていた。医師はミサトの様子に普通でないものを感じたのだが何も言わなかった。ただ診察が終わり、立ち去ろうとするミサトにいつもと同じことを言っただけだった。

 ”良い子を産むためには。母親の心身の健康が何より大切です。くれぐれも貴方お一人の身体で無いことを忘れないようにして下さい”

 

 ミサトは病院の門を出て、家に向かって歩いていた。その足取りは日頃の彼女とは違い、どこか頼りない感じがした。

 さっきからミサトはずっと下ばかり見ていた。考えごとをしながら歩いていたからだ。

 彼女は自分が妊娠したことを悔いている訳ではなかった。特別な”対策”をとってはいなかった以上、そして愛する男と共に暮らしている以上、それは一つの必然であり、自身もまた半ば期待していた事態ではある。

 ・・・・なのに素直に喜べない。それが何故なのか、ミサトは自分の中で明確な言葉にすることが出来ないでいた。

 子供を産み育てることへの不安・・・それも確かにあった。何しろ初めての経験なのだから・・・だが今のミサトの気持ちを、それだけで説明することは出来なかった。

 仕事を長期間休まなければならないこと・・・それも気にならない訳ではなかった。今のミサトの仕事、それはIHKS社の研修センターで警備部門の社員達に格闘術を教えることである。生き甲斐を感じる、と言うほど仕事に打ち込んでいる訳ではなかったが、とにかく仕事は仕事である。
 時には実技指導で、若い男に抱きつかれて、それを投げ飛ばす、と言う”楽しみ”もあったし・・・。

 ・・・遂に、と言うべきか・・・本当は最初から分かっていたのかも知れない・・・ミサトの中に一つの答えが導き出されていた。

 彼女が自分が身籠もったことを素直に喜びないのは、子供が出来ることで加古との関係をより強固にしようとする意識が自分の中にあったのではないかと言う怖れからだった。

 二人が再会し、そして共に暮らすようになってから約半年。正式な婚姻もせず、いわゆる”同棲”生活を続けていた。それは実を言えば、ミサト自身が望んだことだった。婚姻と言う”制度”に、ミサトはある種の嫌悪を抱いていた。

 ミサトは自分の父母の在りようを思い返す。彼女が物心付いた時には、既に二人の関係は冷え切っていた。それでも二人が離婚せずにいたのは、ミサトと言う子供がいたからに他ならない。そのことに思い至ったとき、自分は絶対にそのような生き方を選ぶまい、彼女はそう思ったものだった。

 (・・・にも関わらず、自分は同じように子供を"言い訳"に、より安定した男との関係を作ろうとしているのではないのか?・・・・・)

 ミサトは、自分の中のそのような思いをどうしても拭いされないでいた。自分はそんな”女”ではない、と何度も自分に言い聞かせても、繰り返しその思いは彼女の心を攻め続けていた。

 

 ミサトがそのような思いに気を取られたままマンションの門をくぐったとき、折悪しく、シンジとの待ち合わせ場所に急ぐレイと鉢合わせしてしまった。レイは冷蔵庫内の”在庫”確認に時間を取られて家を出るのが遅くなってしまい気が急いていた。二人の身体は交錯した。

 「『きゃーっ』」

 二人は揃って黄色い声を上げた。

 衝突の衝撃に倒れそうになるミサト。だが衝撃はレイの方により大きいようだった。彼女はバランスを失い、後ろ向きに倒れつつあった。

 「レイ!!」

 次の瞬間、ミサトは前にのめるようにレイに駆け寄ると手を伸ばし、その後頭部が地上に激突する前にレイの体を抱き留めていた。そのまま二人の身体は路上に転がった。

 「大丈夫!?レイ」

 瞬間何が起こったのかわからないでいるらしく、レイは呆然としている。ミサトは重ねて尋ねる。

 「大丈夫?どこかぶつけたの?」

 『・・・私は、大丈夫です。・・・ミサトさんこそ大丈夫でしたか?・・・急いでいたものですから・・・ごめんなさい』

 ようやく、事態を把握したらしく、ミサトへの気遣いを見せる。

 少しあわてたようにミサトも言った。

 「わ、私は大丈夫よ。ごめんね・・・ちょっち考え事をしながら歩いていたもんだから・・・」

 二人は立ち上がった。

 『・・・それじゃあ。急いでますので』

 レイがそう言って、ミサトの元を辞そうとした時、ふと路上に目がいった。そこにはミサトがレイを抱き留めたときに投げ出したバッグが落ちていて、その中身−コンパクトやルージュ、そして手帳のようなものがバッグから飛び出し散乱していた。

 レイは素早くかがみ込むとそれを拾い集め、ミサトに手渡した。

 『どうぞ・・・』

 「あ、有り難う・・・そ、それじゃあ、またね」

 ミサトは自分の持ち物を胸の前に抱え込むと、慌ただしくマンションの玄関に入っていった。

 レイはその後ろ姿をしばらく見つめていたが、やがてきびすを返し、シンジの待つスーパーへと急いだ。

 

 

 スーパーの袋を下げて、シンジとレイは家への帰途にあった。大きな袋はシンジが、そして小さな袋はレイが持っている。
 加古との約束の時間まではあと3時間ほどある。特に急ぐと言うこともなく、二人はゆっくりと歩いた。

 突然、レイはシンジに尋ねる。

 『・・・碇君”母子手帳”って何?』

 シンジは驚く。あまりに唐突な質問であったし、男のシンジには縁の無いものだったからだ。だが彼はそれがどのようなものかを朧気ながらも知っていた。

 「えっ、・・・えーと、確か、赤ちゃんが出来ると病院で渡されるものだと、思うけど・・・」

 『・・・そう』

 レイはそれきり沈黙し、何かを考えている様子だった。

 今度はシンジが質問する。

 「綾波・・・どこかで”母子手帳”を見たの?」

 『・・・うん、ミサトさんが持っていたの・・・』

 「・・・そうなんだ」

 そう答えたものの、シンジにはその意味をすぐに理解できてはいなかった。シンジも黙り込む。

 そのまま二人は歩いていたが・・・やがて、息を合わせたように二人は立ち止まった。二人は顔を見合わせた。

 『碇君・・・もしかしたら・・・』

 「・・・うん、ミサトさんに赤ちゃんが・・・出来たんだと思う・・・」

 シンジには後に続く言葉が見つからなかった。やはり、”あの”ミサトが母親になると言うことが、実感として理解できなかったと言うのが、その最も大きな理由であった。

 『・・・ミサトさん、幸せね』

 「えっ・・・」

 シンジは再び足を止める。今度はレイの方はそのまま行ってしまう。数歩歩いて後、彼女は歩みを止めて後ろを振り返った。

 『・・・碇君?』

 「・・・う、うん」

 シンジは小走りにレイに追いついた。シンジは唾を飲み込む。ドクンドクンと言う自分の心臓の音を、シンジは確かに聞いていた。

 「・・・あ、綾波・・・い、いつか・・・僕の・・・」

 シンジの顔はこれ以上は無いと言うほどに紅潮している。彼にはそれだけ言うのがやっとだった。

 シンジの言葉を聞き、レイは明るく微笑んだ。静かに頷く。

 『・・・うん』

 レイが空いている左手を伸ばす。シンジもまた空いている右手を伸ばした。二人の手の平が触れ合い、そして握りしめられた。

 二人はそうして手を握り合ったまま家路へと就いた。

 

 

 シンジは落ち着かない気分で自分のデスクの前にいた。広げた宿題をやろうとするのだが、問題に集中することが出来ずにいる。
 綾波の方の部屋でのお茶の時間の後で、レイが夕食の支度を始めたとき、シンジはレイを手伝いたかった。だがヨシエがそれを許さなかった。
 せめてレイが支度するのを見ていたいと思ったが、”女の仕事を眺めているなどと言うことは碇家の当主のすべきことでは無い”と言うヨシエの言葉に逆らってまでその場にいることは出来なかった。

 どうにも落ち着かぬまま、シンジは宿題を片づけるのを諦めて、シンジは自分の部屋を出てリビングに入った。

 シンジは床に仰向けに寝転がると、両手を頭の後ろで組み、腹筋運動を始める。そしてここに入居した事情を思い出していた。

 元の屋敷が焼失して、それを再建するまでの間、当然、仮の住居が必要になった。加古は警備上の理由から、IHKS本社に近く、しかもセキュリティに優れたこのマンションを推奨した。だが運悪くシンジとレイそしてヨシエの3人が住むのに十分な広さのある部屋に空きはなかった。

 シンジは心の奥底ではレイと一緒の部屋に住みたいと思っていた。だがここはシンジ達の通う学校にも近く、あろうことか何と同じマンションに、レイと専門課程の同じ女子生徒が住んでいることが判明したのだ。
 いくらなんでも高校生が”同棲”していていることが、学校側あるいは生徒の親たちに知られることになれば、二人は学校にいられなくなるだろう・・・結局、レイとヨシエは隣の2LDKの部屋で、そしてシンジは一人1LDKのこの部屋に暮らすことになったのだった。

 「47・・・48・・・49・・・・・・・・50・・・・・ふーうっ・・・・・」

 ”規定”の回数をやっとこなし、シンジは床にへたばった。空調は動いていたが、彼の身体は汗にまみれていた。
 シンジは寝転がったまま壁にかかった時計を見た。時刻はやっと午後5時を回ったばかりだった。

 「少し早いけど・・・」

 そう呟くとシンジは起きあがった。リビングの一隅にあるチェストの前に立つと、引き出しを開け洗濯済みの下着を取り出す。そして流れ出た汗を流すために風呂場へと向かった。

 

 

 その頃、レイはキッチンで忙しく立ち働いていた。

 テーブルに所狭しと食材・鍋・ボールなどが置かれている。何しろいつもはヨシエと一緒にやっていることを、今日はすべて一人でやらなければならない。動く内にレイの額にはうっすらと汗が滲んでゆく。

 そんなレイの様子を、ヨシエはリビングに正座して取り込んだ洗濯物をたたみながら横目で見ている。朝、行きがかりであんなことを言ってしまった以上、決して手伝うわけには行かないと、知らぬ振りをを決め込んでいるが、密かにレイの様子を窺っていた。

 (あの様子なら・・・多分、大丈夫ですわね)

 ヨシエの思い通り、レイの手際は決して悪いものではなかった。だがレイは、いやシンジもだが、大切なことを一つ忘れていた。

 

 

 シンジはシャワーを浴びていた。ある一つの後悔の思いにかられながら。

 ・・・始まりは、加古とミサトを夕食に招待したことだった。そしてヨシエさんの反対。

 レイの機転、シンジは一も二も無く、それに賛成してしまった・・・。

 (今夜は来てくれないかも知れない)

 シンジは自分の”わがまま”から、レイに過分の負担をかけてしまったことを今更ながら悔いていた。

 (今夜は来てくれないかも知れない)

 多分、レイはくたびれ果てて今夜は早く眠ってしまうだろう。それを思ってシンジはひどく情けない気持ちになった。

 (今夜は来てくれないに違いない)

 ここへ越してから、レイは、夜ヨシエが眠ったのを見計らいシンジの部屋を訪れていた。・・・二人だけの時間を過ごすために。

 しかし、この1週間ほどレイは夜にシンジの部屋を訪れることは無かった。レイはその理由を何も言わなかったが、シンジにはそれが女性特有の事情によるものであることを朧気ながらも分かっていた。

 「うん・・・!?」

 自分の身体の変化にシンジは気づいた。足下に視線を動かす。見ればシンジの身体の一部が”欲望”の兆候を示している。

 (ああ、なんで僕の身体は浅ましいのだろう!?)

 シンジは自分の肉体を心底呪った。今夜はレイが来てくれそうもないと考えた途端、彼の肉体は彼の意思とは無関係に、レイを求めて自己主張を始めていた。

 シンジはシャワーのコックに手を伸ばした。冷水モードに切り替え、更に水流を最大にする。

 シンジは叩き付けるような水の落下を顔で受け止めた。酷く痛かった。だがシンジは水を顔で受けることを止めようとしなかった・・・。

 

 

 7時にあと10分ほどと言うところで、レイは予定の料理を作り終え、後はテーブルに並べるばかりとなったとき、彼女は大変なことに気づいた。

 加古達の使う食器が足らないのだ。以前の屋敷とは違い、ここには客用の食器を用意しておく必要が今まで無かった為に、購入を今日まで怠っていたのだ。

 レイはリビングにいるヨシエに向かって言った。

 『ヨシエさん。私、これから加古さん達の使う食器を買ってきます」

 そう言うなり、レイはエプロンを脱ぎ捨て、出かけようとした。その時、玄関のチャイムが鳴った。

 (もういらしたのかしら!?)

 レイがそう思ったとき、扉の向こうで声がした。

 「シンジだけど、もう準備は良いかな?」

 レイは玄関に駆け寄ると扉を開けた。

 『碇君、それがね、食器が足らなくて・・・』

 レイがそう言いかけたとき、後ろからヨシエが声をかけた。

 「レイ様。食器は買いに行かれなくても大丈夫でございますよ・・・」

 レイは振り返った。シンジもまた、事情がよく飲み込めないながらもヨシエの方を見た。

 レイが言った。

 『でも、ヨシエさん・・・おかずのお皿はなんとかなるとしても、加古さん達に使っていただくご飯茶碗やおみそ汁のお椀も無いんです・・・だからすぐに買いに行かないと』

 微笑みながらヨシエは答えた。

 「ずっと以前に私と夫が使っておりました夫婦茶碗と汁碗がございます。古いものですが加古様達にはそれを使っていただくことに致しましょう」

 シンジとレイは驚きの表情を浮かべてヨシエを見た。二人はヨシエが結婚していたことなど、今まで聞いたことが無かったからだ。彼女が碇家に勤めるようになったのは40年近く前のはずであった。一体、ヨシエは何時結婚していたのだろう、とシンジは不思議に思った。

 だが、ヨシエはシンジ達の”驚き”には気づかぬ様子で、

 「すぐに取ってまいりますので・・・」

 そう言いながら、自分の部屋へと消えていった。二人はその後ろ姿を呆然と見送っていた。

 

 

 加古とミサト、シンジそしてレイは、リビングに座り、加古が買ってきたケーキと紅茶を前に談笑していた。

 「レイさん、何度も言うようですけど、とても美味しかったです」

 「ほんと、驚いたわ。貴方がこんなに料理が上手だなんて」

 加古とミサトは口々にレイの料理の腕を褒め称えた。

 『・・・・・有り難う、ございます』

 先ほどから何度も褒められたせいか、レイの顔はすっかり赤くなっていた。

 シンジも言う。

 「綾波には、料理の才能があるんだと思います。なにしろヨシエさんが作るのを見ただけで同じように作れてしまうんですから」

 『・・・そんな、碇君。基本はみんな碇君と、そしてヨシエさんから習ってたから・・・』

 ミサトは言う。

 「レイ、謙遜しなくても良いのよ・・・シンちゃんも幸せね。こんな料理の上手なお嫁さんがいて」

 今度はシンジが赤くなる番だった。

 「ミ、ミサトさん・・・ぼ、僕たちは、まだ、そんな・・・・・」

 「照れない照れない、レイはもうその積もりなんでしょ!?」

 今まで俯き加減だったレイが顔を上げた。ミサトを真っ直ぐに見つめる。

 『・・・はい、私はその積もりです』

 レイは視線を移す。同意を求めるかのように隣のシンジを見た。

 シンジもレイの顔を見た。

 「あ、綾波・・・・」

 瞬間、シンジは後に続く言葉が見つからなかった。

 加古がシンジに向かって言った。

 「レイさんがプロポーズしてるんですから、会長もはっきりとしたお返事をなさったら如何ですか?」

 「加古さんまで、そんなあ・・・・」

 そう言いながらも、シンジはレイに”応える”言葉を懸命に思い浮かべていた。改めてレイの方を見た。レイはシンジの方を見つめたままだった。ようやくシンジは言った。

 「・・・綾波・・・・・いつか僕がちゃんとした男になったら、その時は、ちゃんと言うから」

 とぎれとぎれに、シンジは続けた。

 「・・・だから、それまで、待っていてくれる?」

 レイは微笑みを浮かべ、そして頷いた。

 『・・・うん』

 

 加古とミサトは二人の様子に少し呆れた様子だった。

 「それじゃあ、そろそろお暇しますか」

 「・・・そうね。いつまでもいたらおじゃまみたいだし・・・」

 二人は立ち上がった。シンジとレイもそれに従う。4人は玄関先で挨拶を交わした。

 「会長、それからレイさん。今日はごちそうさまでした」

 「レイ、本当に美味しかったわ」

 「来ていただいて嬉しかったです」

 『・・・また来て下さい』

 「有り難う。それじゃあ、お休みなさい」

 「それじゃあ、またね」

 「『お休みなさい』」

 二人は帰っていった。

 

 二人を見送った後、シンジとレイは互いの顔を見合わせた。視線が交錯した。二人は頷き合う。

 二人の同じことを考えていたようだ。並んでキッチンへ向かった。

 キッチンではヨシエが、先ほど使った食器を片づけていた。加古達の使った汁碗を丁寧に拭いている。

 シンジ達はヨシエに近づいた。レイが言った。

 『ヨシエさん。今日は有り難うございました。・・・それはヨシエさんにとって大切な物だったんでしょ?』

 シンジも続いていった。

 「今日はご免なさい。綾波にも・・・ヨシエさんにまで迷惑をかけて・・・」

 ヨシエは動かしている手を止めた。シンジ達の方を向く。

 「シンジ様、思いつきで何かをなさると思わぬ影響があるものなのですよ・・・今回のことを良い教訓になさって下さい」

 その言葉にシンジは黙ったまま頷いた。

 ヨシエは次にレイに向かって言う。

 「レイ様。今日はご苦労様でした。先ほどのミサトさんの言葉では無いですけど、料理に関してはもう一人前ですわね」

 『・・・いいえ、まだまだです』

 「ご謙遜なさらなくても良いのですよ。ことレイ様の家事に関して、私はお世辞などは申しません」

 レイはヨシエのその言葉に嬉しそうに頷いた。

 ヨシエは再び、シンジに向かって言った。

 「さあ、シンジ様はもうお部屋にお戻り下さい。いつも申し上げているように、碇家の御当主たる者、女の仕事場に永居なさるものではありませんよ」

 「・・・分かりました」

 シンジは頷いた。本当はヨシエに 聞いてみたいことがあったのだ。だがそのようなことはたとえ親代わりのヨシエに対してであっても、どのように切り出したら良いのか、シンジには分からなかった。

 「・・・それじゃあ、ヨシエさん。お休みなさい」

 「お休みなさいませ」

 傍らのレイにも挨拶をする。その言葉はどこか沈んでいた。

 「あ、綾波も、今日は疲れたよね?本当に有り難う・・・お、お休みなさい」

 『・・・お休みなさい」

 シンジは、隣の、自分の部屋に戻っていった。

 

 

 部屋に帰るなり、ミサトは冷蔵庫からエビチュを取り出した。シンジの所では振る舞われなかったからだ。だがプルトップを開けかけ・・・結局それを思いとどまった。

 ミサトが振り向く。

 「お茶で良いかしら?」

 「うん」

 ミサトはミネラルウォーターを取り出すために冷蔵庫を開ける。持っていたエビチュをそっと戻し、瓶を取り出した。

 瓶からケトルに目分量で水を注ぎ、レンジにかける。お湯の沸くの待つ間に急須に茶を入れ準備をする。

 湯はまもなく沸いた。火を止めると、ミサトは先ず二人の湯飲みに湯を注ぎ暖めた後、湯を急須に移す。1分ほど待ってから茶を注いだ。

 加古はその様子をダイニングテーブルの椅子に座りじっと見つめていた。

 お茶を入れ終わり、ミサトも加古の向かい側に腰を下ろした。

 「お待たせ」

 湯飲みの一つを加古の方に押しやる。

 「おっ、サンキュッ」

 加古は湯飲みを口に運ぶ。

 「ズルズル・・・」

 音を立ててすする。

 「いやねぇ、ちょっと下品よ。少しシンジ君を見習いなさいよ」

 「仕方ないだろ、まだ熱いんだから」

 ミサトも湯飲みを口に運ぶ。熱さの故にミサトも自然にすすっていた。

 「ズルズル・・・」

 「お前もやってるじゃないか」

 「そうね・・・フフフフ・・・」

 「ハハハハハ・・・」

 ひとしきり笑い合った後、加古はふと真面目な顔になった。

 「葛城・・・お前、俺に隠していることが有るだろう?」

 「なに?何を言ってるの、リョウちゃん・・・あたしは何も隠してなんかいないわよ」

 ミサトは否定する。だがそれはどこかぎこちないものだった。

 「そうか・・・それなら今日の午後、仕事を早退してどこへ行ってたんだい?」

 「それは・・・・・それより何で知ってんの?」

 「2時頃、電話したんだよ。どこのケーキがうまいか聞きたくて」

 ミサトは沈黙する。

 「・・・・・・・」

 「・・・・・どうしても答えたくないのか?」

 「・・・・・」

 ミサトは下を向き、何も答えない。加古もまたミサトの不可解な態度に二の句が継げなかった。

 「ウッ・・・・・ごめん」

 急にこみ上げる物があって、ミサトは席を立つ。口を押さえながら洗面所へ向かった。

 「葛城!?」

 

 ミサトは水を流し放しにして、戻していた。

 いつの間にか、加古はミサトのすぐ後ろに来ていた。背中に手を伸ばしてさすってやる。

 「げほっげほっ・・・・はあはあ・・・大丈夫・・・も、もう収まったわ」

 ミサトは鏡に向かい手の甲で唇を拭った。鏡の中の加古はミサトの顔をじっと見つめていた。

 加古のその目はひどく不安そうに見えた。ミサトを本当に心配している者の目だった。

 静かに振り向いて、ミサトは言った。

 「心配しないで、リョウちゃん。別に病気じゃないんだから・・・」

 「病気じゃないって?・・・」

 加古はミサトの言葉の意味をすぐには理解できずにいたが、ようやくそれを悟る。

 「・・・おい、それって!?」

 ミサトは頷いた。

 「そう、妊娠したの。今日病院に行ったら・・・3ヶ月だって」

 「・・・そうか」

 それきり加古は何も言わない。どこか呆然とした様子だ。

 ミサトは不安になる。

 「嫌なの?子供が出来るのが」

 加古は我に還って言う。

 「・・・そんなことはないさ。それよりちゃんと産んでくれるんだろうな?」

 「当然よ・・・・・ちゃんと産む、ってどう言う意味?」

 「いやあ、実はな・・・俺は葛城は子供を産まない積もりだと思ってた」

 「・・・・・何故?」

 加古は再びミサトの顔をじっと見つめる。だがフッと息を吐くと、砕けた調子でこう答えた。

 「お前は妙に頑なところがあるからな。普段の態度はともかく、内心では俺にぶら下がるような生き方は絶対したくないと思ってるだろ?・・・子供ができたりすれば、大きな負担をかけることになる、そんな風に思ってなかったか?」

 加古はミサトの気持ちをほとんど言い当てていた。

 「重荷でしょ?本当は。私も、それにおなかのこの子も・・・」

 左手を自分の腹に当てつつ、ミサトは尋ねた。

 加古は少し考えてこう答えた。

 「・・・まったく重荷に感じないと言えば嘘になる。だが俺は、多分世の男はみなそうだと思うが、女房子供と言う重荷があるからこそ、生きて働ける。それが無い人生なんて本当は何の意味もない、俺はそう思ってる・・・」

 ミサトは自分の気持ちが軽くなるのを感じた。

 「・・・有り難う。ほんと、有り難う・・・」

 いつしかミサトの目からは大粒の涙がこぼれだしていた。

 加古は微笑んで言った。

 「・・・良い子を産んでくれよ・・・」

 「うん・・・勿論よ」

 ミサトの顔は笑っていた。尚も涙を流しながら、明るく笑っていた。

 加古は両手を広げミサトを抱きしめた。

 

 

 シンジは自分のデスクにじっと座っていた。そして机上のデジタル時計を見つめていた。

 (22:11:07・・08・・09・・10・・11、12、13・・・)

 シンジは無意識のうちに時計の数字をなぞっている。

 (やはり今日は来てくれないんだ)

 シンジは立ち上がった。いつもと同じように、就寝前の部屋の戸締まりを確認をするために。

 先ず今いる部屋の窓の施錠を確認し、次にリビングに移動してその窓を確認する。最後は玄関の施錠の確認である。

 シンジが扉に近づいたとき、ふいに玄関チャイムがなった。とっさにシンジは扉に向かって尋ねていた。

 「綾波!綾波なの!?」

 『・・・そうよ、碇君』

 くぐもってはいたが、その声は確かにレイのものだった。シンジの顔が明るく輝いた。

 「待って、すぐ開けるから!」

 シンジはうわずっている。彼は慌ただしげに扉を開けた。

 扉が開けられると同時に、レイはシンジの胸に飛び込んできた。

 『碇君!!』

 シンジはレイの勢いを支えきれなかった。二人の身体はそのまま床に転がった。

 ・・・今夜のレイは、未だかってないほど激しくシンジを求めた。レイは上に乗ったままシンジに口づける。舌を差し入れる”大人のキス”だった。

 思いもかけないレイの振る舞いに、シンジの中の”動物的”な激しい欲望が甦った。シンジは身体を入れ替えレイを組み敷く。

 「あ、綾波・・・好きだよ」
 シンジはそのままレイに覆い被さろうとした。  

 喘ぎながらレイが言った。
 『・・・はあはあ・・・碇君・・・ベッドに・・・連れてって・・・』

 「・・・・・うん」

 シンジはようやく思いとどまる。二人はもつれ合うようにしてシンジの寝室に向かった。

 

 

 

 

 シンジとレイは、小さなベッドの上で寄り添っている。

 『・・・碇君・・・私を残して、死なないで
 ふいにレイがシンジの耳元で何かを囁く。

 「・・・うんっ?、何、何て言ったの?」
 シンジにはレイが何を言ったのか聞き取れなかった。聞き返す。 

 だがレイは、何故か言い淀んだ。
 『・・・何でもないの』

 「・・・・・そう」
 シンジは頷く。こんな時、シンジは無理に聞き出したりはしない。それはシンジの優しさでもあり、弱さでもある。 

 シンジはずっと思っていたことを改めて口にする。
 「綾波、今日は本当にご苦労様。疲れたでしょ?・・・だから今夜は来てくれないと、そう思ってた・・・」  

 シンジの言葉にレイは頷く。
 『うん・・・でも今夜はどうしても来たかったの』

 「何故?」 

 『・・・1週間ぶりだったし・・・ヨシエさんの話を聞いたから・・・』

 「ヨシエさんの話?・・・ヨシエさんは綾波に、どんな話をしたの?」

 レイはヨシエに、あの夫婦茶碗と汁碗について尋ねた。ヨシエはレイに、それにまつわる話を語った。それは彼女の夫の思い出だった。 

 話は40年ほど前に遡る。もともと彼女の母はご隠居様の実家、綾波家に長年勤めていた。その伝で見合いをして彼女は結婚した。
 彼女の夫は当時の航空自衛隊のパイロットであったと言う。夫は優しい人で、彼女はとても幸福だった。だが結婚して1年を経ずして夫は他界した。訓練中の事故死だったそうで、機体は海中深く沈み遺体さえ戻って来なかった。残されたのはあの食器だけだった。

 最後にヨシエはレイに向かってこう言ったと言う。
 ”人は突然死んでしまいます。愛する人との時間はその一瞬一瞬が貴重なんです”

 レイが話し終えた。シンジはレイの身体を優しく抱きしめた。 

 ややあってシンジが言った。
 「綾波・・・僕は君を残して死んだりはしないよ。・・・もう君を心配させるようなこともしない・・・約束するから・・・」 

 『・・・うん』 

 「もう、眠ろうか・・・疲れてるでしょ?」

 『うん・・・碇君、手を握っててくれる?』

 「うん」
 シンジは右手でレイの左の手を握る。そして言った。
 「・・・これなら、安心でしょ?」
 『うん』

 

 まもなくレイは規則的な寝息をたて始めた。レイの左手は未だシンジの右手を握ったままだった。

 

 シンジは何故か眠ってはいなかった。レイの来てくれた夜はいつも、不思議に安らいですぐに眠ってしまうと言うのに・・・。じっと暗い天井を見つめ考えていた。

 (今日はいろいろなことがあった・・・)

 なにげに、加古を夕食に招待して、レイに迷惑をかけてしまったこと。

 ミサトが妊娠しているらしいことを知ったこと。

 ヨシエが結婚していたこと、そして辛い別れがあったのを知ったこと。

 シンジの思いはやがて一つの言葉に収斂して行く。
 (生きてるのは辛いことも多いけど・・・だけど・・・僕には綾波がいてくれる・・・)      

 シンジは頭を巡らし、レイの横顔を見た。カーテンの隙間から漏れる光がレイの寝顔を白く浮かび上がらせていた。
 その顔は安らかでまるで微笑んでいるようにシンジには見えた。 

 シンジはレイの顔に自分の顔を近づけ、そっとその頬に口づけた。

 シンジは元のように天井に顔を向けた。静かに目を閉じる。間もなく規則的な寝息を立て始めた・・・。

 

 

 

 日課の早朝ジョギングを終え、シンジはマンションの門をくぐった。今日もまた、大きなゴミ袋を手に持った加古と出会った。 

 「会長、お早うございます。夕べはごちそうさまでした」 

 「お早うございます。・・・今日は燃えるゴミの日でしたね」

 「・・・これも習慣で」
 加古はそう言って苦笑する。

 シンジはふと気になっていることを質問する。
 「あの・・・立ち入ったことをお聞きするようですが・・・」

 「何でしょう?改まって」

 「ひょっとしたら、ミサトさんに赤ちゃんが・・・」

 加古は少し驚く。自分でさえ昨日知ったばかりのことをシンジが知っていたからだ。
 「そうです・・・でも、どうしてそれを会長がご存じなんですか?」

 「やっぱり・・・実は、昨日綾波から聞いたんです。ミサトさんが母子手帳を持っていたって」

 「なるほど・・・」

 「・・・おめでとうございます」 

 「有り難う・・・まあ、めでたいような、そうで無いような・・・」
 加古は声をひそめて言った。 

 シンジは不思議に思った。
 「加古さんは嬉しくないんですか?」

 「そりゃあ、嬉しいですよ。でもね・・・」
 言い淀む。

 どこかおどけた口調を造って加古は言った。
 「いつか会長にも分かる日が来ますよ。レイさんに子供が出来ればね」

 たちまちシンジは赤面する。
 「か、からかわないで下さいよ・・・」 

 「ハハハ・・・。そうだね・・・会長にはまだいろんな可能性がありますからね。私にはね、もう葛城しかいませんが・・・」
 尚も加古は冗談めかして言った。

 しかしシンジは、今度は動じなかった。きっぱりと言う。
 「僕には綾波しかいません。他の女の人なんて考えられません」 

 加古はシンジの顔を見つめる。シンジの目には何事にも揺るがない強い意志が現れていた。

 「・・・悪い冗談でした。勘弁して下さい」
 加古は生真面目に詫びの言葉を述べる。

 「・・・良いんです。僕は気にしてませんから・・・」
 シンジは答えた。

 「・・・それじゃあ、また」

 「はい、また」

 二人は別れた。

 

 いつものように、シンジは部屋に戻ると浴室に直行してシャワーを浴びた。

 浴室から出ると、それを待っていたかのように玄関チャイムが鳴った。シンジはいつものように扉を開ける。 

 もちろん、そこに立っていたのはレイだった。

 『お早う、碇君。朝ご飯の支度が出来たわ・・・』

 「お早う、綾波。着替えたらすぐに行くから」

 『うん』

 レイを見送った後、シンジは着替えのために自分の部屋に向かいながら思った。

 (今日も一日が始まった。綾波との大切な一日が・・・)

 

【I'm so happy, may be.END】



つづく ver.-1.00 1997- 11/17
ご意見・感想・誤字情報などは iihito@gol.comまで。

 【懺悔の部屋】

 最後までお読みいただきまして誠にありがとうございます。

 今回は本当に「懺悔」です。特に【2・YEARS・AFTER】を続けてお読み下さっている方には、許されないことをしてしまった、と言う気持ちで一杯です。
 何故ならば、これは無謀にも本編完結前に先行公開する「後日談」だからです。

 作者の書いた短編の中でも、この物語は最も長く、かつ「ベタ」なものになりました。
 それは、ある意味で非常に日常的な題材を扱っているからに他なりません。多少の起伏はあっても、ここではシンジとレイは平穏な日々を送っており、周りの人間も同様です。
 平凡故の幸福・・・作者が描きたかったのは(本当のところ自覚されてはいなかったのですが)案外その辺りだったのかと、今は思っています。そのためアクセントの無い「冗長」な物語になってしまったことは否めません。
 さらになんとかメリハリを付けたいと「悪あがき」をしたものですから、またもや作者らしからぬ「表現」がいくつか挿入される結果となりました。それを取り除いて物語を再構成しようと何度か試みましたが、そうすると物語そのものが成立しないようになり、結局この形に落ち着きました。
 これらは皆、作者の力不足によるものです。どうかお許し下さるよう御願い申し上げます。

  


 綾波さんの『I'm so happy, may be.』、公開です。
 

 あ、綾波さん、い、いいんですか。
 これ発表して?!

 だって・・

 シンジも、
 レイも、

 ミサトさんも、
 加持も、

 みんな無事なのがばれてしまうわけですから・・
 

 ・・・そうですよね、

 なんと言っても綾波光さんですから、
 綾波レイが少しでも辛い結果にするわけないですよね(^^)

 みんなが無事で幸せなエンド。

 綾波光さんの作品を読んでいるとこの事は良く分かりますし、
 そうなるとこういうオチになるのも予想範囲内。
 だからこれは”ネタバラし”ではない(^^)

 

 

 ミサトの妊娠で
 加持もレイとシンジも、

 確認して、学んで・・

 確認しましたよね。

 二人でいること、
 二人がいることを・・。

 

 

 さあ、訪問者の皆さん。
 綾波光さんに感想を送りましょうよ!


TOP 】 / 【 めぞん 】 / [綾波 光]の部屋