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 酷く鈍痛がする頭を抱えながら、アスカが目覚めたのはその翌日の事だった。

 起きあがっても抜けない痛みにうんうん唸りながら、喉の渇きを潤すために台所に足を運ぼうとすると、リビングのテーブルの上に書き置きが残っているのを確認する。

「なに……? 『夕食は冷蔵庫に入っているから、起きてきたら暖めて食べるように』……か。

 おさんどんの奴も相変わらずこまめなモンねぇ」

 ノヴァスターの書き置きに従って、冷蔵庫からそれらしき器を取り出したアスカは順次電子レンジを使って食材を暖めていく。誰も居ない静寂の室内に、電子レンジのファンの音と調理完了を示すチャイムが間を伝って響きわたる。

 アスカはその間、頭痛がもたらす無気力感に習ってテーブルに突っ伏している。

(……あれ、そう言えばあたし何時の間に帰ってきたんだっけ?)

 アスカが最後に覚えているのは、イリアと何らかの会話をしていたという漠然とした記憶のみ。

 その後ここに帰ってくるまでの記憶がバッサリと抜けている事に気付いたアスカだが、いくら考えてもその理由に心当たる所は存在しなかった。

 記憶が存在しない、その間に起こったであろう出来事が無性にアスカの不安を掻き立てる。

(ヤダ、あたし一体その間何をしてたんだろ……!?)

 

 まさか、人を一人殺しかけていた、などとは知る由もない。

 

 イリア自身痕跡の残らないような暗示を掛けていた事もあるが、ノヴァスターの器用な払拭術も相成って、あとはアスカがどれだけ唸りながら考え煮詰めても、結論には辿り着けない。

「あーもうイライラするわねぇ!!」

 やがて考えるのも億劫になったアスカがいきり立ちながらテーブルから起きあがり、暖まった食事に手を着け出す。

 だが、いくら料理は温かくとも、一人で食べる虚しさがふとアスカの胸に去来する。

「……ミサトはミサトで降格してから余計仕事が増えて帰って来やしないし。

 おさんどんはおさんどんで、最近は食事だけぱっと作ってとっとと帰っちゃう事が多いし……」

 ノヴァスターの場合はたまたま私事の時間の不都合が重なっただけなのだが、ミサトの事例と平行して考えるとどうしてもおざなりにされている自分を自覚してしまいがちになる。

 ミサトの、そしてノヴァスターの心情を察するという事は、まだこの時のアスカには辛い相談だった。

「…………」

 思い詰めた表情のアスカは不意に立ち上がり、電話機の前まで歩み寄る。その顔は何かを渋っているようであり、また自分自身でもはっきりとしない感覚を抱えているようなどちら付かずの物であったが、やがて思い直して決断したアスカが、とある短縮ダイヤルを探り当てると、少しだけ震えるその華奢な指先で静かにそのボタンを押し込んだ。

 いつしか寂しさに負けそうになる自分の惨めさが憎いのか、強く歯を軋ませながら相手の応答を待つアスカ。

 

 トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル……。

 

 七回ほどコールが鳴った後、相手が静かに応答した。

「……はい、綾波です」

「……もしもし、レイ? あたし、アスカ。

 ねえ……良かったら今から会えない?」

 


 

=悔恨と思慕の狭間で=

 




− 第二十八章 ガラス越しの未来予想図 −

 

 

 一方のネルフ本部では、昨日から引き続いてMAGIシステムの第127次定期検診が行われていた。

 主に技術課の職務ではあるが、何せネルフ本部の中枢であるMAGIの脳幹部の「洗浄」とも言えるこの作業には、他の部署の職務にも支障をきたさないよう、彼等には迅速かつ正確な診断が求められる。

 その各所の期待を一身に背負う……というほどの強い気概ではないものの、マヤは彼女なりに献身的にその作業の係長として努めていた。ホログラフモニターから一時も目を離さず各OSのルーチンチェックをこなし、各部署との連携を把握し、処理する。

 一方リツコは、マヤのその作業光景を後ろから眺めながら、更新状況を静かにファイルに書き込んでいく。一見マヤほどの作業量ではないが、一通り作業を依託しているはずのマヤに時々どうしても小言めいた指南が飛んでしまうので、気苦労に関して無駄に背負っている節もある。だがマヤはマヤで、そんなリツコに喜んで指南されているのだから、極めて「割れ鍋に綴じ蓋」という揶揄のしっくり来る上下関係であるとも言える。

 

「どう、MAGIの診察は終わった?」

 

 昇降リフトに乗って、発令所にミサトが姿を現す。

 リツコはファイルから一瞬だけ目を離して彼女を伺うと、またすぐに作業に戻りながら会話を続ける。

「大体ね。作戦課のご要望通り、今日のテストには間に合わせられそうよ」

 リツコの言う「テスト」とは、エヴァ各機に対応した自動操縦機能の事である。

「だと助かるわ。でないと、またイリア三佐が目をひきつらせるから」

 ミサトは肩を落としながら、先日些細な失敗からイリアに小言を食らった時の事を思い出す。

(あの人、怒らせると碇司令よりしつこく怒るのよねぇ……)

 つくづく苦手な上司を持ったと身の不幸を呪うミサト。何気なくそのミサトの心境を測り知るリツコも、明日は我が身にはならないよう身を粉にするのである。

 その片隅では、一通りのプログラミング作業を終えたマヤが、実行キーに指を掛ける。

 

《MAGIシステム、三基とも自己診断モードに入りました》

 

 自立診断モードに入る事でMAGIは即座に自己検診を始め、「異常なし」の結果が算出される。

「第127次定期検診、異常なし」

「了解、お疲れさま。みんな、テスト開始まで休んで頂戴」

 課長のリツコの一言で発令所の面々から緊張が解け、彼等は各自の休養につく。

 リツコ自身もまた、マヤの耳元に「お疲れさま」の一言を残して椅子を立ち上がった。

 

 

 無駄に広い洗面所の鏡には、フェイスタオルから覗くリツコの青白めいた顔が映っている。

 最近の彼女は顔の皺に加えて、疲れから来る顔色の悪さまで気に掛かってきていた。

「異常なし……か。母さんの形見は今日も元気なのに、私はただ歳を取るだけなのかしら……」

 皮肉めいたその言葉にさえ、憔悴の鱗片が伺える。

「駄目ね、こんなんじゃ。ますます精神的に老けていっちゃうわ……」

 仕事に骨を埋める事に後悔はない。それでもせめて、仕事以外の支えも欲しかったのかも知れないと考えるリツコ。

 

 明日、彼女は三十になる。

 

 


 

 

 ―――話は先週に遡る。

 

 出張帰りのゲンドウの一言に、リツコは我が耳を疑った。

「そんな!? ダミーシステム計画は中止なさるとこの間おっしゃったばかりではないですか!」

 リツコの剣幕に、ゲンドウの代わりに眉を顰める冬月が答えた。

「当初はそのつもりだった。だが、イリア三佐が赴任した事で事態が変わったのだよ。

 我々ネルフは委員会から、ダミープラグ開発の名目で開発資金の援助を受けている。

 そのパトロンの代表者の前で、開発研究が怠慢であってはならぬのだ」

「理屈は分かります。しかし、何も当初の計画から著しく増産体制を連ねるなど!」

 リツコは半ば投げ出すように、開発書要綱を司令卓に放り出した。

 元々、非人道的な研究ではある。それはいい、今更善人振るほどリツコはお人好しでもない。

 しかし、ゲンドウが何かに追われるようにダミープラグの増産体制を要求するなど、リツコには俄に受け入れがたい事であった。

「それも、イリア三佐の要望なのだ。出資元の意見には我々でも逆らえぬよ」

「冬月。少し席を外してくれないか」

 唐突に、ゲンドウが人払いを申し立てた。

「むう……俺のシナリオにも組めんという事か。分かった、存分に話せばいい」

 リツコより幾分気概に欠ける冬月は、足跡静かに退室していった。

 

 

「私がダミーシステムの開発を差し止めるように言った理由は、分かるな」

「ええ。大方の予想はつきます。『彼』が反対したのでしょう」

「あいつは何も言いはしない。だが、その方が私にとっては針のむしろなのだ。

 幸いシンジの奴が強気になっている、システムの利用性も当分は考える事はあるまい。

 だがあれは補完計画には欠かせないシステムだ。いずれ委員会が突き上げてくる事くらいは分かる。

 ならばせめて、イリアに媚びて置くのも一つの手なのだ。これは我慢なのだよ」

「……言われている事は分かっているつもりです」

 眉が釣り上がり続けているリツコの手前、ゲンドウも心なしか萎縮している。

「……我々は、どうにもあいつの影響を受けているのだな」

「彼は面白い人です。シンジ君も彼には幾らか心を開いているようですし、皆の受けも良いですし」

「だがイリアにとっては面白くあるまい。惣流君もあの女に取り込まれつつあるようだしな。

 まあ、惣流君にはレイがいる、シンジの奴にはあいつがいる。そちらはどうとでもなろう。

 問題は、イリアが目となり耳となっている事で余計目敏くなっている老人共だ。

 当分はあの女に準じてくれたまえ。葛城君や部下達にもそれとなく……な」

「了解しました。代わり、独房のシンジ君には便宜を図ってください」

「そう来たか。分かった、手を打とう」

 

 


 

 

 その時の顛末を思い出しながら、リツコは右手前に見えるイリアの背中を、それこそ穴が開くまで見つめ続けている。研究棟深度施設内部で慌ただしく働いている人員の中、そこだけは時の流れを感じさせない普遍的な感情が渦巻く。

 ディスプレイ画面の向こう側では、先程から全身の洗浄作業を幾度となく強要されているアスカが、何やら我が儘を喚いているが、

「静かにしないかラングレー。日進月歩しているテクノロジーとて、下準備には原始的な作業を必要ともする。

 最新鋭の技術には最新の研究結果が必要となる。君が我が儘一つ押さえてもらえればそれで良いのだ」

 只怒るでもなく諭すでもなく、器用にアスカを言い負かそうとするイリアの言葉には、流石のアスカも反論出来ず仕方なく全身の浄化作業に甘んじる。映像画面は切られているとは言え、裸になってモニターを受けろというのは年頃の少女にとっては辛い命令である。

 一方こちらは同じ年頃の娘でも、文句も言わずに従うレイがアスカの隣に佇んでいる。その姿を黙って見せつけられると、アスカは余計喚き立てる自分が恥ずかしくなって口数も減ってしまう。

 年頃のふくよかな胸と下腹部を手でひた隠しにしながら、アスカはレイと共に恥ずかしげにエントリープラグに乗り込んでいた。

「ラングレー、このテストはプラグスーツの保護無しにパイロットの肉体から直接ハーモニクスを行う事にある。

 これはパイロットとシステムとの相互連動試験であり、

 ゆくゆくは複数のパイロットと複数のシステムとを環状にリンクさせる為の準備実験となる。

 今のところ、君達だけが研究の頼みの綱なのだ。分かってくれるな?」

(……おだて上手な事。)

 リツコは奇妙な皮肉を内心呟きながら、そんなイリアの言葉を鵜呑みにしてしまうアスカに憐憫を感じる。

(だからこそ、シンジ君は独りで戦わなければならないのかしら……ね)

 リツコには、シンジの背負った宿命が今後はより一層彼に負担を強いていくのが分かる。

(そして、その為のノヴァスター君……運命は残酷なのか、それとも都合良く出来た活劇なのか、私には……)

 まだ判断は付かない。だからこそ、自分はイリアではなくノヴァスターに追随していくべきなのだと、リツコは自らの役割を知りつつあった。それは誰にも命令された訳でもなく、いかなる呪縛にも関わらない彼女自身の決断による、彼女の未来予想図。

 

《両パイロット、エントリー準備完了しました》

「よし、テストを始めよ」

《テストスタートします。オートパイロット記憶開始》

《シミュレーションプラグを挿入》

《システムを模擬体と接続します》

 特殊強化ガラス越しにプリブノーボックス内の模擬体を見つめながら、イリアは振り返りもせず命令を下し、順次実験の下準備が進められて行く。

 人間から皮を剥ぎ、更に上半身だけを切り取ったかのような模擬体は、実験体という意味合いが無ければ本来存在させてはならない物質の一部である。それを生理的に視覚で感じるからなのか、それともガラス越しの環境だからなのか、職員達もそのグロテスクにすっかり目を慣らしてしまっている。

 イリアは自分もその一人なのだと感じると、ガラスに映る自分に微かな嘲笑を浮かべた。

 

 本人に数え間違いがなければ、イリア自身もじき齢三十に足を踏み入れようとしている。「老い」という言葉も無縁でなくなり始めてきた彼女にとって、周囲の世界の刻が穏やかに流れているその事象自体が彼女を焦らす。

(皆普遍に慣れすぎたのだ。だが、そうでなければ私の未来予想図にも意味は無いがな。

 旧研究施設跡を荒らし月面基地を荒らし、そして今ではこんなモグラの巣で、研究者の身分で足跡荒らしか。

 フン、私をこんな穴蔵に住まわせてサル芝居をさせている代償はいずれ払ってもらうぞ、ロクブンギめ……)

 彼女の未来地図は既に仕上がっていた。あとは只、確信に基づいた計画を進めるのみ。

 手の上で踊る男達の姿を想像すると、今にも高笑いし始めそうな自分を辛うじて押さえる。

(ふっ、祖父はこんな私を怒るだろうにな)

 

「アヤナミ、ラングレー。調子はどうだ? 何か違和感は無かろうな?」

 いつものような、プラグスーツ着衣状態でのハーモニクスとは勝手が違う。観測者側はそれが頭でしか理解できないが、当の本人達にはその特殊な感覚が、脳裏に顕著に感じられる。

「……何かいつもと違うわ」

 不思議そうな顔をして、その言葉を唱えるレイ。

「感覚がおかしいんです。右腕だけはイメージがはっきりしているのに、後はぼやけた感じが……」

 半ば夢心地のような感覚を全身に浴びながら、右腕を動かしつつ首を傾げるアスカ。

「なら少し右手を動かしてみるがいい。二人共だ」

 イリアの命令に習い、二人は右手側のインダクションレバーをぐいと持ち上げる。

 すると模擬体の手が二人のイメージ通りにわきわきとした怪しい蠢きを見せている。

《データ収集、順調です》

「問題はないようだな。よし、概算形式を戻してMAGIに繋げ」

 イリアとて、いくら当たり散らすからと言ってもMAGIに個人的な恨みがある訳ではない。あのスーパーコンピュータがこの施設にとっての脳幹部であるという事くらいは理解できるし、元より当面は表面上だけでもあれに頼って見せるしかないのだから。

(だから余計に厄介なのだがな)

 横目で見る、三基のシステムが互いにジレンマを起こしながら協議しているディスプレイの光景に眉を顰める。本来唯我独尊的だった人格移植OSに「協議」という新たな分野を開発し導入したのが当基の特徴であるのを知りつつ、

「余計な機能を付属しおって。作った人間の性格が知れるな」

 システムアップしたリツコ自身その気難しさは理解している事ではあったが、それを他人の口から聞くのはやはり気分が良くないだろう。あえて聞こえるように一人呟くイリアの後ろ姿が小憎らしかった。

「先輩……」

「実験中よ、マヤ。無駄口は叩かない」

 実際リツコの態度も冷静なものだ。

 だからマヤも、それ以上は何も尋ねない事に決めた。

 

 


 

 

 同時刻、於第一発令所。

 所内各所の定期チェックをしていたシゲルが異常を見つけたのが、今回の騒動の発端だった。

 彼は三日前に建設部棟から搬入されたパーツの表部に浸食らしき物を発見し、上司の冬月に報告する。

 冬月はシゲルの傍らのミサトと三人で、ディスプレイにじっくりと見入る。

「シグマユニットの第87タンパク壁か、確か今シグマユニットは使っているはずだな」

「温度と伝導率が若干変化してます。無菌室の劣化は今回に限った事ではないですが……。

 工期が60日近く圧縮されているとは言え、B棟の工事はずさんですよ」

 シゲルの言葉に同感と感じたのか、冬月の表情も気難しい。

「あそこは、使徒が現れてから突貫で急造された施設だからな。用務員も疲れているのだろう。

 止むを得んな、葛城君、ここは君が明日までに処理を済ませておけ。イリア三佐が煩いだろうからな」

「了解。それと、実験棟のイリア三佐にも連絡は必要でしょうね……」

「赤城博士に連絡しておけばそれでよい。三佐よりかは柔軟に対応してくれるだろう」

 まだ事態の真相を知らない冬月の言葉に、イリアの小言を回避すべくミサトは素直に指示に従った。

 

 


 

 

「また水漏れ?」

 先日もタンパク壁に不都合を起こしていた事例が頭を掠めて、リツコの声がつい上擦った。

 模擬体に目が釘付けのイリアには幸い聞こえなかった事に心の中で安堵して、再度マヤに尋ねる。

「いえ、浸食だそうです。この棟の直上のタンパク壁に……」

「参ったわね……テストに支障が出なければそれで良いのだけど。

 まあいいわ、二課の職員をミサトの所に回して、事後報告書は副司令に直接上げておくように」

「はい」

 

《シンクロ位置、正常》

《シミュレーションプラグを模擬体経由でエヴァ本体と接続します》

「よし、初めは零号機からだ。第二次コンタクト確認の後ATフィールドを微弱展開。波長検査に入れ」

 イリアの指示通り、ケイジに待機している零号機とレイのエントリープラグを直結し、零号機に乗機しているのと同様の状態となるレイ。ATフィールドが本部内で微弱に発生する事によって、それは起こった。

 耳障りな警報と共に画面に踊る「ALERT」の文字。

「何事だ!?」

《シグマユニットAフロアに汚染警報発令!》

《第87タンパク壁が劣化、発熱しています!》

 マヤは「第87タンパク壁」という言葉に動揺しながらも、

「タンパク壁の浸食部が爆発的に増殖しています!」

 報告を読み上げた瞬間、酷く悪い予感が頭を掠める。

「汚染警報だと? 今まで何も気付かなかったのか!」

 覗き窓からコンソールに急いで駆け寄ると、職員を半ば押し退けるように覗き込むイリア。

「むう……実験中断、第六循環パイプを緊急閉鎖! 事故原因を早急に調べよ!」

 一方、イリアの指示とは別にマヤと耳打ちし合うリツコ。

「先輩、何か変です。悪い予感が……」

「私もよ。それよりマヤ、ここは私が受け持つから、Aフロアに駆け付けている筈のミサトを退避させて!」

「分かりました!」

 依頼を受けたマヤは即座に監視塔を退出する。イリアがその光景を一目見かけたが、「使いに回しました」という直後のリツコの言葉に納得して、再びコンソールに向き直る。

(さて……タイムスケジュール通りならば、これは一大事だな。

 しかしここで私が本部から退避する訳にも行かぬからな、ならば……)

「プロフェッサーアカギ! 私は本部内の勝手をまだ知り尽くしてない。

 故にこの件は君が処理したまえ。事後報告書は私と連判で構わぬ」

「了解しました。では技術課と作戦課を一時全権預からせてもらいます」

「む……分かった」

 イリアにしては融通の利いた提案にリツコが応じて、事態の収拾に乗り出した。

 だが、パイプではなく壁自体に浸食が進んでいる事を確認すると、荒療治の駆除を余儀なくされる。

「ポリソーム(施設内溶接作業用レーザー照射器)、用意!

 レーザー出力最大で、プリブノーボックス侵入と同時に焼き払って!」

 命令の片手間に、リツコは既にこれが只の浸食ではない事を確信しつつあった。実際今命じたレーザー処理は、駆除手段ではなく確認の為である。

 浸食が壁を伝ってくる間、実験棟に不気味な静寂が漂う。

 誰かが緊張のあまり唾を飲み込んだ音さえ、リツコには聞こえた気がした。

 

 

 

 

「きゃああああ―――ッッ!!」

 静寂を破ったのは、阿鼻叫喚のようなレイの叫び声だった。

 

 

 

 

「レイ!? 何事なの!?」

 恐らくレイの意識とは関係なく蠢いている模擬体の異常は、奇襲のような出来事であった。

(模擬体の活水システムを侵しているのね! これはマズいわ!)

 肉視では、模擬体の右肩にまで浸食している「シミ」が確認できる。

「両エントリープラグを緊急射出! 地上に回収班を回してレイに当たらせて!」

 射出直前に二人の無事はモニターで確認できたものの、重要な人材に対する配慮という物がある。ましてここはイリアの面前だ。

 既に浸食されて使い物にならなくなった模擬体を見捨てる形で、レーザーが容赦なく模擬体の全身に連続照射される。だが、そのレーザーを反射する瑠璃色の八角形を確認した瞬間、疑惑は確信へと変わる。

「ATフィールド! まさか……使徒!?」

 分析結果もリツコの確信に相違ない結果を算出している。

「使徒だと! 使徒の本部侵入を許してしまったと言うのか!?」

 リツコは失言だったと感じる暇もなく、イリアの方を向き直って叫んだ。

「プリブノーボックスを破棄します! 全職員はここより退避!」

 

 


 

 

「使徒の侵入を許したというのか!」

 受話器片手に怒鳴る冬月とほぼ同時に発令所に上がってくるゲンドウの姿もまた、受話器を片手に連絡を受けていた。

「セントラルドグマを物理閉鎖! 実験棟からの人員退避を確認の後シグマユニットを隔離しろ!」

 当面の指令を飛ばした冬月は、ゲンドウの座る司令卓に駆け上る。

「まずいぞ碇、イリア三佐の眼前では事態を揉み消すのは不可能だぞ」

「分かっている。委員会にはそれらしく弁明はする、それより目の前の使徒だ」

 語る合間にも、ゲンドウの悪賢い頭脳が事態回避に最も有益な方法を瞬時に編み出す。

「警報を止めろ! 日本政府には、探知機の故障による誤報だと伝えろ。委員会には私が直接話しておく」

「りょ、了解です!」

 一瞬怖じ気づいたようなシゲルの反応は人並みのそれであった。

 その直後、マヤに連れられたミサトと、発令所に戻ってきた二人がコンソールに向き直り、シゲルに手を貸す。

「伊吹二尉、状況を伝えよ」

「は、はい、汚染はプリブノーボックス全域を侵し、更に下降!

 シグマユニット全域へと拡大しています!」

 シミによるシグマユニットの制圧は、すなわちその真下に位置するターミナルドグマの危機を意味する。

 

「……おまけに場所まで悪いぞ」

「ああ、アダムに近すぎる」

「どうする碇、エヴァでの物理的排除はこれでは不可能だ」

「問題ない、他の殲滅手段がある」

 

「汚染はシグマユニットまでで抑えろ。最悪ジオフロントの犠牲も構わん。

 第七ケイジに待機中のエヴァは全機地上へ射出。弐号機、初号機、零号機の順で優先しろ」

 ゲンドウが初号機より弐号機を優先させるのも、イリアに対する体面上のような物であった。

「しかし、エヴァによる使徒の物理的殲滅が極度に難航になりますが!」

 シゲルが抗議の声を上げるが、

「その前にエヴァを汚染されたら全て終わりだ。急げ!」

「は、はい!」

 後部から見下ろす高圧的なゲンドウの鶴の一声に、止む無くエヴァ自体を地上に退避させた。

《セントラルドグマ、完全閉鎖。大深度施設は侵入物に占拠されました!》

「さて、碇、どうする?」

「撃退する方法ならあるのだろう。あいつが此処にいないのが、その証拠だ」

「俺が心配しているのはあれの方だ」

 冬月が顎をしゃくった方向には、カツカツとハイヒールを鳴らして発令所に入ってきたイリアが居た。

 案の定顰めた顔と共に、リフトを上ってくるイリアの顔からはわざと視線を外しつつ、話すべき言葉を脳裏で選ぶゲンドウ。

「ゆゆしき事態ですな碇司令。まさかこれほど地下にまで使徒の侵入を許すとは。

 聞けば前もって気付いていた工事の欠陥を、私に内密で処理し損ねた結果との事。

 どうにも至らない部下ばかりで、頼りがいのある事ですな」

 リツコ同様の白衣の裾を棚引かせながら、優雅に立ちはだかるその姿。

「現場監督の件は君に一任したはずだが」

「秘密裏に欠陥を引き起こすような部下にまで面倒は見切れませんな。

 使徒の対処は私共で引き受けるが、責任は貴公の首に掛かっている事をお忘れなく」

 司令卓に座するゲンドウさえも見下すが如く、何処までも威圧的なイリアの訓戒。

 だが実際、彼女の立場は実質ゲンドウに匹敵する高官なのである。

「心配は無用だ。当ネルフには使徒戦の精鋭を揃えているつもりだが」

「貴公のその言葉が信用に足るのならば、私は此処には居ないのだよ」

 皮肉も二つ揃うと絵になるな……隣に控える冬月が、この状態を言葉で表せばこうなる。

「……まあ良い、責任問題などは事後にでも。今は互いに、生き残る事に力を尽くすとしましょうか」

「期待する」

 どちらともなく鼻をフンと鳴らし、イリアはきびすを返して発令所に下っていった。

 

「碇。あの女の機嫌を損ねすぎるとロクな事にならんぞ」

「構わん。最後に泣く羽目になるのは向こうだ」

「……図太いな、お前は」

 

 


 

 

 

 

 まるで自身が闇その物であるかのように静かに闇に潜み、ひたすら自らの機会を伺う少年が、一人。

「ノヴァスターさん……リツコさん……頼みます」

 神など居ない。そう分かっていても尚、彼は祈るその両掌を離す事は無かった。

 

 

 

 


 

 

「ここを見て」

 指し示されたディスプレイに見入る発令所の面々。イリアだけはやや遠い視線で後ろから眺めている。

 そしてその手には、携帯電話が握られている。勿論市販品などではない、極秘回線で回せるように周波数を攪乱できるイリア自身の特注物だ。

(ネズミ、戻れ。その位置では仕事どころではあるまい)

(了解)

 くぐもった声の返答は加持の声であった。イリアは手短に用件を済ませると、悠長に受話器のアンテナを仕舞う。

「プリブノーボックス内の、重水と純水の境目よ」

 一方リツコは、細菌サイズの使徒が酸素の多い箇所に重点的に増殖の足を伸ばしている事に気が付く。

「青葉君、ここは?」

「無菌状態を保つ為に殺菌用のオゾンを放出している箇所です。ここだけは汚染されていません」

「とすると、逆に言えばそれが使徒の弱点かしら?」

「可能性はあるわね。となればミサト、オゾン用のバルブを総動員してシグマユニットに回して」

「了解っ!」

 赴任間もない割には手際の良いミサトの手の動きで、プリブノーボックスにオゾンが注入されていく。

「読み通りね、効いてるわ」

 実際、ボックス外周部の細菌状の物質は目に見えて減少を続けている。

 手段が効果的と理解したミサトは更にオゾンバルブを緩め、放出を続ける。

(……変ね、ATフィールドを持つ使徒がこれしきの事で死滅するの?)

 リツコは減少を続ける使徒の様子をディスプレイに眺めながら、一つの疑問を抱く。

 そしてそれは、数日前のノヴァスターの何気ない言葉を思い出させる事になる。

 

 

「『抗生物質』という言葉を知ってますか、リツコさん」

「勿論知っているわ。それがどうかしたの?」

「いや、それなら良いんです。野暮な質問ですみません」

 ノヴァスターが意味深な視線を、MAGIの脳幹部に横目で注ぎながら呟いていた光景。

 

 

「オゾン止めて! これ以上は無意味よ!」

 言葉よりも早く、リツコの手がミサトのコンソールの上に踊る。

「どうしてよ!」

 いきなり騒がれてもミサトには何が何やら理解しかねる。

 ところが、青ざめた表情をしたシゲルの言葉で事態を知る。

「止めて正解ですよ、オゾンに弱いどころか使徒の奴、オゾンを吸って発熱しています!」

「何ですって!?」

 シゲルの前のディスプレイには、再び爆発的な増殖を始める赤い斑点がびっしりと映っていた。

「先輩、シミの解析結果出ました!」

「マヤ、モニターに回して!」

 今度はマヤの手前のディスプレイを忙しなく振り返る一同。

 そこには、彼女達が未だに見た事もないような幾何学模様が鮮やかに描かれている。

「なんて事……オゾンを自己の進化の糧にしたのよ。まるで細菌その物だわ」

(もし私の予想が当たっていれば、この使徒はおそらく……)

 瞬間、ディスプレイに砂嵐が吹き荒れる。同時に鳴り響く本部内の警報。

「今度は何!?」

「サブコンピュータが、何者からかハッキングを受けています!」

「防壁を解凍します、疑似エントリー展開!」

《駄目です、疑似エントリー回避されました! 防壁も突破されています!》

「何て事だ……人間業じゃ無いぞ、この侵入速度は!」

 

 

「マイクロマシーン……」

 

 

「何? 今何て言ったの、リツコ!?」

 ミサトと、その言葉の意味するところを即座に理解したマヤもまた、リツコを振り返る。

「第五使徒と同じよ、機械状の使徒なんだわ。それも極小サイズの!

 それが群生して、模擬体を母胎として一つの巨大なネットワーク状のマシンを作り上げているのよ!」

「逆探結果出ました……B棟地下、プリブノーボックスです!」

 シゲルの絶叫にも近い声。リツコ以外の全員が彼女の言葉に真相を見いだした瞬間だった。

 ディスプレイの中での使徒は、それまで赤く光っていた光学模様が変化し電子回路状へと変態し続けている。

 より険しくなったリツコの表情が叫ぶ。

「メインケーブルを切断して!」

「駄目です、既に信号を受け付けていません!」

「保安部のメインバンクにアクセスされています……まずい、侵入されました!」

「なんて事! ナンバープロテクトをもう突破されたというの!?」

 早過ぎる敵の対応に、リツコの思考が一時的に引き離されていく。

「メインバンクを読んでます、解除できません!」

「保安部のメインバンクですって……使徒は何が目的なの!?」

 シゲルは見ていた。使徒がデータバンクの中から、ひたすら何か一つだけを探り当てようとしている様子を。そして、それは一つの結論と畏怖を皆にもたらす。

「MAGIのアクセスコードを読まれました! 敵の目的は……MAGIへの侵入です!!」

 その言葉の意味する事態に、発令所全員の顔が一様に青ざめていく。職員達の喧噪さえも殺される。

 司令卓のゲンドウが突然重い口を開いた。

「I/Oシステムをダウン、OSを一時凍結しろ」

 有無を言わさぬ方法もやむを得ないと分かった以上、行動は迅速だった。マヤはミサトと座席を入れ替わり、シゲルとアイコンタクトを合わせて解除用のキーをコンソールにねじ込んだ。

「カウント行くぞ……3、2、1!」

 シゲルのカウントに合わせて二重プロテクトを手持ちの鍵で同時に解くマヤ。だがMAGIに変化は起きない。

「駄目だ、電源が切れません!」

「使徒更に侵入、メルキオールに侵入されました!」

 ミサトが叫んでいる間にも、MAGI・メルキオール基が使徒にリプログラムされる。データ防壁や擬態データ等を全て超高速で回避或いは解読し、その足さえ掴み取る事ができないでしまっている。

 

 突如として、MAGIが起動した。三基のシステムによる「三者協議」を開いたのである。

《人工知能メルキオールより、自律自爆が提訴されました》

 

「自律自爆! ここを自分ごと破壊するつもりなの!?」

 当然、他の正常な二基にしてみれば不自然で理不尽な要求の為に、提訴は即座に否決される。だがそれも、事態がメルキオール一基の占領で済めばの話。

「こ、今度はメルキオールがバルタザールをハッキングしています!」

「駄目です、データ侵入速度が早過ぎて防壁を展開できません!」

 マヤが賢明に防護策を練って対応するが、実行する前に突破されてしまったり、殆ど阻害の意味の成さない脆い防壁しか生成できない。リツコがその横から必死に何かを読みとろうとしている。

 そしてその発令所上部では、何も出来ずにただひたすら見守るだけのゲンドウと冬月。

 ―――イリアの姿は、人知れず発令所から消えていた。

 

 


 

 

「で? この件は黙って見ていろと、そう言うのか」

「はい。ゲオルグ様が言うには、最悪ネルフ本部からの退出も辞さないようです」

「馬鹿な、そんな現場任せな言葉が当てになるか。実際ここの連中の仕事など取るに足りん」

「ですが、あの使徒は本来のそれとは勝手が違います。ゲオルグ様が……」

「……悪い癖が出たな、また『弄った』のか。あれほど止めるように諫めた物を……。

 まあ良い、ゲオルグの言う通り現場指揮はアカギに任せて私は傍観に回ろう」

「では、また戻られるのですな」

「仕方あるまい、体面上とは言え今は私が此処の作戦部長なのだからな。逃げ腰にはなれまいよ」

「やはりイリア殿は気苦労持ちであられる」

「馬鹿を言うな」

 

 


 

 

 それを対処法と呼べるのかどうか思い付いたリツコ自身疑問だったが、使徒の侵攻を食い止める方法としては一理あった。

「ロジックモードを変更、シンクロコードを十五秒単位にして!」

「「了解」」

 その提案に背を弾かれたように思い立ったマヤとシゲルがコンソールに手を走らせる。

 MAGIのシステム通信全体の機能と思考能力を極限まで低下させる事で、比例して敵の侵入速度をも遅らせるのだ。どの道こちらの人力では防護は間に合わない、ならば一度MAGI自体を鈍らせる事で逆に互いの手足を切り離した状態となる事で対処する。

 幸いこれは功を奏し、こちらが防衛できない代償に敵も侵入速度を著しく低下させた。

 ディスプレイに映る使徒の鈍い浸食状況からして、これでしばらくは持ちそうだと判断した冬月が重い溜め息をを吐いた。

「ふう……赤木君、これでどのくらい持ちそうだ?」

「今までのスピードからすると、二時間がいい所です」

「いずれにせよ、MAGIが敵に回ったとなれば、厄介だな」

「……はい」

 ゲンドウの重い一言がリツコの背にのし掛かる。

 MAGIを一番知る彼女自身、手も足もでないこの状況が辛い責任として自分を苛む。愕然として肩を落とすリツコの脳裏には、常に使徒に対して臆する事なく立ち向かっていた少年の顔が浮かぶ。

 

(ねぇ、シンジ君……あなたならこんな塞がった状況の時、どうするの?)

 

 答えへの道を彷徨うリツコの後ろに、いつの間にかイリアが再び姿を表していた。最も、彼女が一時的に席を外していた事は喧噪のあまり誰も気が付いていなかったが。

「対応協議を開こう。発令所の職員は全員ここに集合せよ」

 

 

 敵の焼却には失敗したポリソームも、偵察カメラとしての機能は健在だった。

 ポリソームから送られてきた映像を卓上のディスプレイに映しながら、第十一使徒「イロウル」と認定された敵に対する対処法が協議される。

「プロフェッサーアカギ。もう一度全体の状況をお浚いした上で説明してもらおう。

 今度こそ隠し立ては無しでな」

 隠し立てとは説明するまでもなく、事の発端となったタンパク壁の欠陥の事である。

「……分かりました。この映像より、この使徒はマイクロマシーン状の生体と考えられます。

 その個体が集まって群を作り、この短時間で知能回路の形成に至るまで、爆発的な進化を遂げています」

「進化……か」

「はい。彼らは常に自分自身を変化させ、如何なる状況にも対処するシステムを模索しています」

 リツコの言葉に触発されて、マヤは物珍しそうな視線を映像に注いでいた。生物系の生態と機械の理想的な融合形態に一種の羨望にも似た感情を抱いたからである。

 生物としてでもなく機械としてでもなく、その中間でもなく。まさに両方の長所だけを生かしきっているかのような生態、それが使徒。人間としてその光景に薄ら寒い物を感じる以上それになりたいとは思わないが、生物として考え得る限り特出しきったその特徴は、誰の目にも物珍しいのも無理はない。

「将に、生物の生きるためのシステムその物なのだな、この使徒は」

「自己の弱点は全て克服し、進化し続ける相手に対処法はあるのか、アカギ?」

 小意地悪く伺うイリアの言葉には、返せる言葉のない技術課一同。

「……いや、ないな。毒をも薬としてしまう相手には対処のしようがあるまい。

 古来より微生物という物は、人間の生成したあらゆる薬剤をも乗り越えてその病害を広めていった。

 ならば使徒に対する新たな薬剤をここで編み出すか、そうでなくばMAGIもろとも炎滅して貰うか、だな」

「そうは参りません。MAGIを切り捨てる事は本部の破棄と同義です!」

「私に意地を張られても困る。どの道自爆提訴が通ってしまえば本部ごと無くなってしまうのだぞ」

 傍目にはイリアの言葉の方に分がある。MAGIを切り捨てる事がもし可能ならば、イリアの提案こそが最も確実な方法だからだ。

「アカギ、そもそも君のミスから発端した事なのだ。その重責を拭える方法、あるのだろうな?」

「……あります」

 俯きがちだったリツコは、精悍な表情を見上げて苦々しく断言する。

(もしイリア三佐の言葉通り、「駆除」に対する効果的な対処法があり得ないのならば、逆に……)

「勝算はあります。使徒の抑制ではなく、進化の促進。極限まで使徒を成長させる事で、或いは……」

「成る程な」

 ゲンドウが感心したように呟く。それは自分のみが知る知識に裏付けされた確信であった。

「使徒のアポトーシス機能を利用する訳か。生物の進化の終着地点は……死でしかないからな」

「はい。使徒が死を効率的に回避しようとするならば、MAGIからの脱出も考慮するでしょう。

 目標がコンピュータその物であるならば、こちらも残ったMAGI・カスパーを使徒に直結して、

 逆ハックを仕掛けて、自滅を促進する為のプログラムを送り込む事ができます!」

 その言葉に、マヤが困ったような瞳で問い掛ける。

「先輩、それではこちらも防壁を全て解放する事になってしまいます!」

「いずれにしても防護壁はもう意味をなさないわ。ならば互いに無防備になって見せるしかないのよ」

「となれば……カスパーの速さと使徒の速さの勝負なのだな?」

「はい」

「その自滅促進プログラムが薬剤な訳か。配合は、間に合うのだろうな?」

 薬剤師を皮肉ったイリアの言葉に、リツコは黙って頷いてみせた。

 技術部課長としての意地もある。MAGIに最も携わっている人間であるという自負もある。

 だが、リツコを最も力付けたのはそんな片意地ではなかった。

(シンジ君の強さを、まるでノヴァスター君のように信頼できれば……そう思っただけ。

 果たすべき目的があるのならば、私はそれに準じてみせるだけ。まるで彼等のように……ね)

 あの常に毅然としているシンジの顔立ちを真似たかのように、リツコの表情は険しく、そして強かった。

「……良かろう。試してくれたまえ、赤木君」

 ゲンドウも、そんなリツコに何処となく息子の気概に似た物を感じ取ったか、その提案を承諾した。

 

 


 

 

《R警報発令、R警報発令、ネルフ本部内部に、緊急事態発生が発生しました!

 D級勤務者は、全員退避してください!》

 自分達とは無縁の館内放送を後目に、リツコは発令所の床部に埋め込まれているMAGI・カスパー基の中枢部をリフトで突出させていく。リツコも含めて発令所の全員が初めて目にする光景だ。

 本来ならば分解してまで点検しなければならないような状況でもない限り、ネルフの最機密であるMAGIの内部を垣間見る事など無いのだが、状況が状況なだけに、リツコ自身初めて踏み入るカスパー基内部の光景に唖然としている。ましてリツコの後ろで作業を見守っていたマヤやミサトは言うに及ばない。

 人一人がようやく身体を潜らせられるような細道を潜っていくリツコとは裏腹に、マヤは脳幹部の至る所に張り巡らされてあるメモ用紙が気になっている。

「な……なんですか、コレ?」

 メモの幾つかに目を通したリツコが、冷めた一言で答える。

「多分、開発者のイタズラ書きだわ」

「凄い、MAGIの裏コードですよ、これ!

 わあ……こんなの見ちゃっていいのかしら」

 その意味深な言葉の理由が分からないマヤなどは、新たに知り得たMAGIの秘密に素直に驚喜している。

「さながらMAGIの裏技大特集ね」

 ミサトの言葉も言い得て妙だ。

 二人が姦しく後ろで騒いでいる間にも、リツコは奥深くまで進んで行く。

 

 

「碇のバカヤロー」

 

 

 カスパーの奥深くに太いマジックで書かれた、まさに「イタズラ書き」。リツコがその言葉に不可思議な笑みを浮かべた。

 確かに母らしい悪戯だわ……と思うとどうしても口の端が微笑んでしまうのである。

(何も、こんな場所に鬱憤を溜め込まなくてもいいのに、母さんたら)

 MAGIの基礎理論を作り、人格はその母体ともなった、開発者「赤木ナオコ」。リツコはこんな機械の深層部に埋もれた、彼女の生きた証しを知る。

「これだけの裏コードがあれば、意外と早くプログラム出来そうですね、先輩」

「……そうね」

 艶やかな返事で、リツコが頷いた。

「ありがとう母さん……これなら確実に間に合うわ」

 取り掛かる前まで心の片隅にあった不安感が、母の形見によってみるみる消えていく気さえしていく。

(まるで、シンジ君の抱いている不安を取り除く、ノヴァスター君の存在のようね)

 そんな他愛ない揶揄が、彼女を潤す。

 

 作業の様子をミサトが見守る中、リツコはマヤと共に黙々とシステムを再構成していく。

 他愛ない会話の最中にも手を緩める事なく作業を続けるリツコの脳裏には、母赤木ナオコとの複雑な思い出が過ぎる。科学者として一つの頂点にいた女性、リツコが母と同じ道を進むと決めた時、母は心の中で永遠のライバルであり敬愛する師となった。

(逆を言えば、それ以外の面で母さんを見てあげられなかっただけなのね)

 リツコにとって母の面影は三つある。そのうちの二つに目を瞑り、一つだけを見つめる事でせめて母への不義理だけはしないようにと心で割り切っていた。

 それでもリツコには分かっていた。母として、また女としての彼女には敬愛すべき部分は見あたらなかったが、自分は間違いなくその母の足跡を辿りつつある事を。

 母の最期は唐突な物だった。科学者として上り詰めた彼女を狂わせた一人の男。その男への嫉妬だけが彼女を追い込み、死に至らしめた。そして自分もまた科学者として上り詰め、その男に同じく惹かれ、裏切られる事で自分は母の後を惨めに追う羽目になってしまうであろう事……それがリツコには分かっていて、それを回避すべく努力する事をとうの昔に忘れ去っている。

(いえ、呪縛されながらもその呪縛に酔っているのね。

 あの人が私に期待する。そして自分の都合で裏切る。でも私はそれでも良かった、

 あの人の狂った感情さえも、自分一人に向いてくれている時の事を考えれば。

 ただ独占欲に狂わされて、一途な支配欲に流されて、爛れた情欲に溺れて……。

 こんな私の本当の姿を知った時、もし、もし彼だったら何て言うのかしらね。

 軽蔑? 同情? いえ、違うわね。そんな安い気持ちを抱く人なら、ここまで気にしたりはしない。

 ねぇ、ノヴァスター君?)

 ふと考えに煮詰まって、意識を放した瞬間手にしていたレンチを床に落としてしまう。

 ゆっくりとそれを拾い上げながら、掌を見つめるその手元にリツコは不思議な感慨を得る。

(それと、この右手で……そう、シンジ君のように私は私の未来を切り開けないの?

 それとも、そんな物にさえ期待できないほど私は擦れ果ててしまったのかしら?

 だって……私には全てを掛ける価値がある物が、もうこれしか残っていないもの)

 暗く、湿ったカスパー内部を見渡しながら思う虚しさ。

(私がこのMAGIを守ろうとする気持ちと、シンジ君があの娘達を守ろうとする気持ち。

 そして、ノヴァスター君が叶えようとしている願い……一番見劣るのは多分私ね。

 何故なら私は科学者としてこれを守ろうとしているのであって、母さんを守りたいなんて純粋な、

 そう……そんな一途な気持ちはもう私の心にはないから。

 彼等にはきっと、その一途さが何よりの武器なのでしょうね……眩しくて、羨ましい程に……)

 

 突如、発令所内に再び警報が鳴り響く。いつ聞いても生理的に差し障る音だ。

「どうしたの、まさか!?」

 ミサトが見上げたメインディスプレイには、既に使徒の浸食に塗り染められたバルタザールの惨状が表示されている。

《人工知能メルキオールから、自爆決議が提訴されました!》

「マズイ、多数決で可決されるぞ!」

 既に状況を見守る事しか出来なくなっているシゲルが、口惜しそうに呟いた。

《可決……人工知能により自律自爆が決議されました。結果は三者一致の後、0,2秒後に実行されます。

 自爆範囲はジオ・フロントとその周辺2キロメートル》

 最後の砦、カスパー基が全て浸食された瞬間ネルフ本部は跡形もなく吹き飛ぶであろう。人間もエヴァも、あらゆる災厄をも巻き込んで。

「赤木博士! もう持ちませんッ!」

「もう少しよ!」

 発狂するように叫ぶシゲルの言葉に跳ね起きるように、リツコが手元のキーボードに爆発的なスピードでプログラムを構成していく。たちまち組み上がるプログラムに触発されるかのように、傍らのマヤもまた常人級でない速度でプログラム構成を補助していく。

「今度は、メルキオールとバルタザールがカスパーにハッキングを仕掛けています!!」

 二基対一基ではそれだけでも不利なのに、使徒の浸食速度は加えて驚くべき物であり、カスパー基も殆ど無防備のまま敵の侵攻を受け入れているような物だ。

 だが、その時リツコの口元がこの場にそぐわない微笑みを浮かべたのを見逃さなかったミサトは、焦燥を露にして喰いかかった。

「ちょっとリツコ!? 何笑ってんのよ……まさか諦めちゃったんじゃないでしょうね!」

「まさか。一秒近く間に合ったから笑ったまでよ」

「い、一秒!?」

「そう。ゼロでもマイナスでもないわ。正真正銘のプラス一秒よ」

 微笑みと共に勝利を確信したリツコが、エンターキーに静かに右手の指を添えた。

「マヤ! そっちのサブプログラムは!」

「行けます、先輩!」

 二人は互いに自分の分担を完了した事を確認すると、目でタイミングを合わせて実行キーを打ち込んだ。

 一瞬、発令所に水を打ったような静寂が支配した。

 

《人工知能により、自律自爆が解除されました》

 

 既に99%浸食されていたカスパー基。だが一瞬後には、使徒は光のような速度で消滅していく。

 極限まで肥大して能力を発揮し続けた使徒に覿面な効果を現した、自滅促進プログラムの勝利だった。

 発令所に、誰からともなく歓声が湧き始めていた。

 

 


 

 

《シグマユニット解放、MAGIシステム再開まで0,3秒です》

《地上の回収班より連絡、チルドレン両名は無事保護、後遺症などは見られず》

 使徒に解放された箇所を復元していく忙しない職員達の合間に挟まって、リツコ達は静かにコーヒーを飲み干していた。ミサトが自分のマグに熱いコーヒーを注ぎながら、労いの言葉を掛ける。

「お疲れさん。ギリギリの所でよく頑張ってくれたわ」

「まあね。お陰でクタクタだわ」

 椅子に背もたれながら、リツコは疲れた表情を隠さずに溜息を漏らす。

「これでまた余計に老け込んだ気がするわ……はぁ、これが我が二十代最後の日とは……」

「ホント災厄ねぇ」

 無礼にもケラケラと笑うミサトを一睨み。

「あら、あなただって来月には人の事は言えなくなるわよ」

「グ……人が気にしている事をっ! いいのよ私はまだ二十代で済むから、誰かさんと違って」

「ふふ、そうだったわね。ミサトが三十になった暁には詰め合わせと一緒に祝ってあげるわ」

「そしたら私ビール缶セットがいいなァ」

「残念、去年のお歳暮の余り物のインスタントコーヒーセットよ」

「ちぇっ、その位自分で飲みなさいよ」

 売り言葉に買い言葉も、気心の知れた旧友同士の交流である。

 

 だが、リツコの胸にふと一抹の不安が去来した。

(……でも本当に、これで終わったのかしら)

 

 


 

 

「で、君は命辛々ここに逃げてきたという訳だ」

 自滅促進プログラムの恐怖に追われ、第十一使徒イロウルがMAGIから逃げまどうように辿り着いたのが、MAGIから本部内にシナプス上に繋がっているあらゆる端末の隅にあった、一機のノートパソコンであった。

 本来ならばリツコのプログラムは100%の効能を発揮出来た筈であり、使徒が逃げまどう暇もなく撃滅できた筈なのだが、あらかじめ「株分け」していた使徒はしぶとく生き残り、MAGIの影響も殆ど及ばないこの端末に這々の体で逃げまどい、棲み着いたのだ。

「で、そんな君に自滅促進プログラムへの耐性を付けた御主人様が存在するわけだ」

 一部始終を目撃していた男は、そのノートパソコンに対してぶつぶつと独り言のように呟き続ける。

 その眼前では、逃げついた使徒がこのノートパソコンをも浸食すべくOS内を暴走し始めていた。

「ところで君、『抗生物質』という言葉は知ってるかい?」

 語りかけながらも、男は既に素手で触る事さえ甚大に危険になっているノートパソコンのスロットに、懐から取り出したMOディスクを躊躇なく静かに挿入する。 

 ノートパソコンがそのMOディスクを認識した瞬間、OSに侵入していた筈の使徒が静かに息を引き取った。彼は、既に第十一使徒の棺桶と化したノートパソコンを無造作に担ぎ上げると、

「ふむ……シンジにでもくれてやるかな。その方があいつも安心するだろうし」

 暗闇の中、静かにその歩みを進めるのであった。

 

 


 

 

《ほう、それで使徒は無事「殲滅した」という訳か》

「私が聞いていた話と、更に話が違うのはどういうわけですかな」

《私は前以て自滅促進プログラムを回避するようにあれに仕込んだのだ。

 それにも関わらずに使徒が滅びたというのならば、それ以上は私が関知できる事では無い》

「しっかりして頂けませんか。お陰で逃げ準備までしていた当方が恥ずかしいではありませんか」

《……まあ良い。当面は六分儀のシナリオと共に踊ってやればよいのだ。

 老人共も今回の一件で肝を潰すだろう。我等はせいぜい六分儀の申し開きに期待しようか》

「ふっ、それで溜飲が下がるのなら私もそうしましょう」

《……お前も、一度戻ってこないか。これで当面使徒は現れまいに》

「それでも良いのですが、例の試験が意外と手間取ってそう暇も無いのですよ」

《なら仕方あるまい、そちらは任せたぞ》

「了解です。全てはゼーレの御名に於いて……フフフ……」

 

 イリアの口元にこの妖艶な嘲笑が浮かぶ時、彼女達の運命は暗転する。

 巨大な脅威と悪意に、たった独りで挑もうとする少年の意志をも飲み込んで。

 そして、更なる運命が流動する。

 

《……そう言えば、戦自が独自に不穏な開発事業を推し進めている。一応念頭に置いておくと良い》

「了解しました。フッ、あの連中も所詮、肩身の狭い哀れな権力依存者ですな」

《税金泥棒は互いに自覚する所よ。各自に能が有るか無いかだけが運命を分けるがな》

 自らの英知を誇示するかのような言葉に、互いに苦笑する二人が居る。

 やがて全世界に限りない畏怖と絶望をもたらす事になる二人の、これは序章に過ぎない。

 

 


TO BE CONTINUED・・・
ver.-1.00 1999_03/29 公開
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 二十八章、お届けしました。

 原作でもそうですが、リツコさん大活躍です(笑)

 果たして私はミサトの時も同様にこれだけの描写が出来るかどうか……。

 

 それにしても、今までで一番書きにくかった章だったと思います。

 シンジは動かないし出番はない、反して妙齢の女二人が台頭している話ってのは本当に書きにくくて。

 おまけにMAGIがどうとか使徒がどうとか、頭の悪い私にとっては何度聞き取れない台詞があった事か。

 それとあとは、……うーん……後書きまで書きにくい章だな(笑)

 

 さて次章ですが、宜しければ手元にサイコロなどをご用意してお読みください。

 ちょっと変わった形式の章にしたいと思います。勿論、サイコロ無しでも読めるんですけどね。

 

 それでは、また次回……。

 

 

 

 

 いや、やっぱりエヴァはスーパーロボットであるべきだと私は思う(爆)






 彩羽さんの『悔恨と思慕の狭間で』第二十八章、公開です。






 うん。リツコさん活躍(^^)



 なんかすごっくひさしぶりに
 シンジもノヴァスターも静かな話だった

  ・
  ・
  ・
  ・
  ・

 最後に出ていたけど(^^;


 でもでも。基本線はやっぱりリツコさんなの〜




 本編ではほったらかしにされてたくさい
 プラグ内のレイ・アスカもここではちゃんとケアされてたし。



 よかよかです☆




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