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=悔恨と思慕の狭間で=

 




−第十二章 太陽と月の決意−

 

 

 碇家との深い交流からか、心身回復が著しいと判断されたアスカ。

 その体調を見計らって、退院許可が出たのは一週間後だった。

 

 

「まぁっーたく、この一週間退屈な事と言ったらありゃしない。

 テレビもラジオも置いてくれないしさぁ、こんな押し黙った個室で悶々と、

 こんなのかえって不健康だと思わない!? まったく……ぶつぶつ……」

 数日間話し相手に飢えていた反動からか、捲し立てるように不平不満を並べ立てる様に、レイとヒカリは只顔を見合わせて苦笑するしかなかった。

「大体にして、こんなに痩せ細った育ち盛りの女の子に対して、

 あれっぽっちの食事しか出さないし、それでいて味気はないし、

 柔らかくて噛み応えがなくって、美味しくないったらありゃしない! それに……」

「アスカ! もういいでしょ!」

 半ば呆れ返ったような顔をして宥めるヒカリと、

「ま、それだけ元気なら、入院の甲斐もあったってものじゃない?」

 あくまで口の減らないレイ。

「む〜……」

 言いたい事は数あれど、そんな態度で切り返されては口を尖らせて黙り込むしかなかった。

「拗ねないでもいいじゃない、アスカ。……まあとりあえず、折角の退院なんだから、」

 レイが、傍らに置いていた有名デパートの手提げ袋を、アスカのベッドの上にどっかと乗せた。

「これに着替えて」

 ニコリ、と妖しく微笑む。

「何よこれ?」

「何って、アスカの着替えよ。葛城さんがわざわざ持ってきてくれたの」

「んもーっ! ミサトってば、勝手に人のタンス開けたわねぇ?!

 アタシの部屋に無断で入るなってあれ程釘刺したのにぃ!」

 口では癇癪を起こしながらも、早速袋から洋服を取り出して胸元にあてがっているのが彼女らしい。

「でも、葛城さんは相変わらずお忙しいみたいね。

 私の処に預けて行ったペンペンも、当分引き取れないって言っていたし」

 ヒカリの口から出て来て、初めて同居者のペンペンの存在を思い出す始末のアスカ。

「……アスカ、その顔は、すっかり忘れていたって顔よね」

 ヒカリのジト目に、思わず目を反らす。

「う……まあ、どうせミサトの家が荒れ放題なのは簡単に想像付くし、

 あそこにいるよりはペンペンも…………って、アタシ、あの家に帰るのかぁ……」

 最近はミサトが時折帰宅して寝床にするだけの場所に成り果てている以上、あの無頓着なミサトの事である。どうせゴミの巣窟と化しているのだろうと考える。

 考え直すと気が滅入りそうだと、俯き加減に溜息一つ。

(はあ……今更ミサトと暮らすのが嫌とは言わないけどさ、先を考えるとどうしてもね……)

 気落ちするアスカの横では、何げに顔色の冴えないレイとヒカリ。

「……確かに。あれは非道いわよねぇ……」

 

 

 数日前の事である。

「今度ご飯奢るからね」と担ぐミサトの軽い一言に釣られて、葛城家の掃除を頼まれたレイ、カヲル、ヒカリの三人。カードキーを預かってやって来たのは良いものの、オートドアを開けた瞬間に三人を襲った異臭に耐えかね、「うう……」と呻きながら急いで逃げ出すレイとヒカリ。

 

「……余りに『美徳』からかけ離れた異世界だねここは。

 リリンの感覚は将に摩訶不思議と言った所かな」

 

 スコン!!とレイの拳が飛ぶ。

「こぉの耽美界の住人が! 訳分かんない事言っていないで、始めるから支度するわよ!!

 こうなりゃ泥沼戦だって辞さないんだから!」

 妙に意気込むレイ。

「支度?」

 ヒカリが確認を摂るように、雑巾とモップの入った鞄を掲げる。

「洞木さん、最早これはそんなんじゃ生温いわ!

 強力洗剤と剥離剤、脱臭剤と芳香剤とそれとマスク。

 今から買い込んでくるわよ!!」

 と言うや否や、レイはエレベーターの方に駆け出して行き、

「あ、待ってよ綾波さーん!」

「やれやれ、親身なのは良いけれど、張り切りすぎるのが玉に瑕かな」

 その後を急いで追いかける二人。

 

 

 結局、洗剤代等に自腹を切った三人の不平と、

 三時間掛けて、あの異臭部屋でみっちりと掃除せざるを得なかった三人の不満は、

 ミサトの財布から、あの高名な福沢諭吉氏のご登場とご退場によって漸く収まったらしい。

 

 閑話休題。

 

 

「ここの所、作戦部管轄が急に慌ただしくなって、結局葛城さんも殆ど家に戻っていないらしいの。

 だから、アスカさえ良ければ、暫くの間は私達の家に泊まらないかって、

 お母さんが言ってくれているの。いいでしょ!?」

 あくまで、優しく明るく朗らかに微笑みながら承諾を求めるレイに、何とは無しに抵抗しがたいアスカ。

 それでも、以前カヲルにユイの食事がどうこうと勧められたのを思い出したのと、碇夫妻の優しさに素直に甘えたい自分を認める事にし、

「アタシは別に構わないけど」

 と、やはり口先だけは相も変わらず突っぱねた返答になる。

 

 ―――だがそれでも、少女達の無垢な微笑みが絶える事はなかった。

 

 

 トントン、と病室のドアを二回叩く音がしたかと思うと、

「どうやら話は纏まったようだね」

 と、突如カヲルが病室を訪れる。

「何よ、ノック位してから入りなさいよ!」

 意外と小煩いレイが言って聞かせても、

「ノックならしたさ、申し訳程度に」

「全く……」

 悪そびれた風でもないカヲルに呆れ果てたか、それ以上は何も言えないレイ。

 更にその横でクスクスと笑うアスカとヒカリに気が付いた物だから、殊更具合が悪い。

「なぁーによぉ! 二人してさ!」

「「ゴッメーン」」

 

 

 ちゃっかりと荷物一式をカヲル一人に持たせつつ、乙女達はその前を颯爽と歩んでいた。

 勿論、歳相応の談笑が花咲いている。

 炎天下の中でも、日差しの緩いジオフロント。その中に、あたかも三つの小さい灯火が灯っているかのように。

 カヲルは目を細めた。

 

(平和……なんだね)

 

 自分はかつて、ゼーレに心身を弄ばれた存在だったかも知れない。

 でもそんな「昔」も、「今」の暖かさの前には朧気に霞んでしまいそうな感覚さえ覚える。

 自分が、今こうしてここに居る事が出来ると実感出来る事。

 

 カヲルの「今」は平和その物であった。

 

 

 数歩前の少女達は相変わらず、かまびすしく談笑している。

 ふと、カヲルはその右端にいる少女―――碇レイ―――に思いを馳せる。

 

 

 ―――初めて出会ったのは、フロアエスカレーターの降り際だったかな。

     一目見ただけで、インスピレーションとも違う何かが、脳裏を掠めた気がする。

     面食い……じゃないはずなんだけどな。

     それは、確かに綺麗で可愛いとも思ったさ。

     だけど、本当の意味で心奪われたのは、やっぱりその儚くも気丈なその「心」だったね。

 

     僕達が初対面の頃は、みんな心に余裕がなくなって来て、事態は切羽詰まっていた。

     レイも大分心が荒んでしまっていたし、惣流さんは既に複数の精神病に冒されていた程だった。

     僕が訪れる事で事態が好転するとも到底思えなかったけれども、

     ともあれ今ではこうしてみんな本来の笑みを取り戻す事が出来たんだ。

     補完計画様々とは言わないとしても、結果オーライには違いないかな。

 

 

 

 (それが、シンジ君の哀しみの代償だとしてもかい?)

 

 

 

「何だ!?」

 心の中でそっと響いた「相違」。

 冷酷な自分が、自分を戒めるような響きにカヲルは柄にもなく震えた。

「今のは……?」

 

 

「なぁーに一人でシケ込んでんのよっ!」

 ふと意識を現世に戻せば、上目遣いでカヲルの顔を覗き込んでいる、反則気味に可愛いレイの微笑み。

 色白なカヲルの赤面は、あまりに明白であった。

「ふふっ、何赤くなってんのよ」

「べ、別に何でもないさ」

 珍しく照れ隠しなどしてみせ先を急ごうとするが、目一杯に荷物を詰め込んだ手提げ袋のせいで歩みが遅く、即座に隣に追いつかれてしまった。

「片方持ってあげよっか?」

 カヲルの返事を聴くまでもなく、半ば強引に右手の荷物を引ったくる。

 それでいて頗る機嫌が良さそうなのは何故だろうか。

 

(あの儚げで凛然とした表情も良かったけれど、

 やっぱり綺麗な女の子には笑顔が一番だね。

 それを見ている皆も、心地よくなれる……)

 

 自分の方を見つめつつ、いつものあの不可思議な微笑みを絶やさないカヲルに気付いたレイは、自分の顔色を伏せるかのようにそっぽを向いてしまう。

 

(大丈夫、急くくもりはないから。

 僕は気長に待ってるよ、レイ……)

 

 ふと見上げた蒼穹の空が眩しくて、手を翳すカヲル。

 彼の注意が陽光に逸れた隙に、その様相に見とれる少女が一人。

 

 

 中学校は既に一昨日から新学期が始まっているらしい。

 次週の月曜から一緒に登校する約束を手短に取り付けて、ヒカリとは途中で別れた三人。

 そして一行はそのまま碇家へと到着する。ゲンドウもユイも日中は本部詰めなので、今は誰もいない事になる。

 レイはポケットから取り出した鍵で玄関のドアを開け、

「どうぞ、アスカ」

 と真っ先にアスカを玄関に招き入れると、続けて自分が入り、即座にドアを閉めロックする。

 

「……あれ?」

 取り合えず額に冷や汗を一つ張り付け、苦笑いで場を取り繕うカヲル。

「何してんの、レイ?」

「あ、いっけない。ついつい癖でやっちゃった」

 と惚けたかと思うと、急いでロックを解除してドアを開ける。

 

「ごめーんつい忘れちゃってた。アスカの荷物返してよね」

 

 カヲルはどうしても差し出されたレイの手に素直に荷物を返す気になれず、やはり苦笑するしかなかった。

 

 

 その後数分間程玄関先であれやこれやと揉めた後(後々になれば何故揉めたのかさえ忘却しそうな程些細な痴話喧嘩とも言う)カヲルは何とか碇家への訪問を許された。

「そう言えばもうお昼過ぎちゃっているのよねぇ。

 ……ねえ、何か作ってあげよっか?」

 当然、問いかける対象はアスカ一人である。

「さんせーい! レイの手料理なんて初めてだわ」

「そんな気の利いた物じゃないんだってば。それじゃ、着替えてくるね」

 言うや否や二階への階段をパタパタと駆け上がっていく様はまるで無邪気その物だ。

「…………」

 アスカはそんなレイの後ろ姿を眺めつつ、彼女も随分良い方向に変わったな、と実感する。

 

 思えば、自分はレイの出生や生育の経緯は知らないとしても、彼女とて補完計画寸前までは、およそ幸せとは縁遠い人生だったのだろう。だがそんな少女にも、この世界は平等に彼女に幸せを分け与え、年相応の幸せを満喫出来る世界がここに存在するのだ。

 

「……どうしたんだい。また思い詰めたような顔をしてさ」

 カヲルは卓袱台の横にある座布団に腰掛け、

「まあ立ってないで座るといいさ」

 と、ご丁寧に座布団まで勧める。

 アスカも、無言のまま勧められた座布団にそれとなく腰掛けた。

 

 

「まだ、吹っ切れてない何かがあるみたいだね」

 憂鬱とまでは行かなくとも、アスカの様相はどこか陰を背負っているのは明白だった。

「……ここ二、三日、時々思うようになったの。

 本当に、アタシはここにいていいのかなって。

 何か、アタシだけ別次元からやって来たような違和感があって、

 その上皆にこんなに尽くされて。

 ……アタシ、自分が幸せだとか不幸だとか今まで殆ど考えた事、

 そんな物差しで自分を測った事なかったからだけど、

 それでも今は十分に満足出来ていると実感出来るけど、やっぱり何か不安なの。

 

 ……なんでだろう、ってね」

 

「何も今更怖がる事はないさ。

 僕達は皆君の事を好ましく思っている訳だし、

 君自身にも幸せを掴んで欲しいって、みんな願っているんじゃないかな。

 きっと今まで辛い人生を送ってきた反動だろうから戸惑ってしまうのかも知れないし、

 そういう気持ちは実は僕にもあるよ。

 でも少なくとも、君がこの世界で幸せになる権利は絶対にあるさ」

 カヲルが紡ぐ優しい言葉は、決してリツコにメンタルケアを依頼された義務感だけのそれではない。

「……アタシにとっては、レイとこうして仲良く接していられる事自体、

 不思議で仕方ないくらいなの。

 結局、アタシは周囲の人達を理解したいとも思わなかった、

 そんな努力とは無縁のひ弱い子供だった。

 苦労してでも自分の幸せを掴みたいなんて思わなかった。

 幸せなんて、強がって生きていれば後を付いてくる物、程度にしか思ってなかった。

 そんな孤独の殻に自分を閉じこめて、心の拠り所にするしかなかったから」

 

 それも、彼女の生きてきた境遇を考えれば半ば当然の事かも知れない。

 彼女の崩壊も、そして現世への復帰も、考え直せば当然の道標だったのかも知れない。

 

 そんなアスカの神妙な独白を黙って聞き届けているのは傍らのカヲルだけではなかった。

 レイは既に着替えを終えて、階段を駆け下りようとした所で階下の雰囲気を察し、暢気に降りていくタイミングを完全に逸していた。そしてそのまま、半ば盗み聞きする形になってしまっていた。

 

 

「……アタシはミサトも、レイも傷付けた。

 自分自身の心さえ掻きむしるような足掻き、それでいて心の何処かで、

 誰かがアタシのか弱い心を甘受してくれる虫の良い話を期待していた。

 私を見返り無しに、優しく抱擁してくれる人を望んでいたんだと思う。

 

 そしてそれをほんの少しだけ期待していた人達。

 ママ、加持さん、そして……シンジ。

 でも、みんなアタシを分かってくれなかった。

 私もあの人達を分かってあげられなかった。

 

 シンジは特に、憎んだわ。

 憎んで、恨んで、呪って、罵って……そして、想っていた。

 でも、それだってシンジにしてみれば謂れのない苦痛でしかなかったんだろうね。

 それさえも、今になって思い知るの。

 

 ……「補完」なんて言葉は、ホントは好きじゃない。

 でもそのお節介がなかったら、今こうしてアンタ達と打ち解ける事も、こんな前向きになれる事も、

 …………シンジの事見直してあげる事も、きっと永遠になかったのよね」

 

 きっと、その告白は彼女の弱さを晒し出すだけでは終わらなかっただろう。

 かえってそれが今の屈強さの象徴を見たかのように、二人の目に映る。

 

「……強いんだね、君は」

 カヲルが思わず呟いたその一言に、つい苦笑するアスカ。

「司令……おじさまと同じ事いうのね、アンタ。

 でも、やっぱりこの強さはまだ純粋な私の力じゃないもの。

 「補完」に分け与えて貰った慈悲の産物の域、をまだ越えていないもの」

 

 

 カヲルの目の色が俄に変わる。

 優しさと、そう厳しさを程良く織り交ぜたようなその輝き。

 アスカの知り得ない「渚カヲルの本質」。

 その真摯なまでの瞳の輝きに、アスカは訳もなく無意識のうちに飲み込まれて行く。

 

「君は、人生の辛さを十分に知り得た。

 そして今は、その中にも幸せを見いだせる強さを知った。

 幼少時に辛さの余り心に殻を作った事が、

 皮肉にも今の君の強さと純真さを生み出しているんだ。

 

 「補完」は、君の本質を変えてしまったんじゃない。

 君の純粋さを知る者が、君の優しさと強さを潜在意識から引き出す手助けをしたに過ぎない。

 

 「補完」は君の「純心」をずっと知っていたんだ、信じていたんだよ。

 そう信じれば……そう信じてあげなければ……彼は……」

 

 カヲルの、自分の心を射抜くかのように突き刺さる視線が、アスカに有無を言わさない説得力を引き起こさせる。そして、自然と強面になる二人であったが、

「いけないなぁ」

 突如ふやけて頭をこつんと叩いてみせるカヲル。

「時々どうしても知ったか振ったように説教してしまう、

 悪い癖が最近になって付いたみたいなんだ。

 不思議と、タガが外れたように雄弁になるんだよねぇ」

 一転して照れ笑いで誤魔化すカヲル。

 だがそれでアスカの顔色が冴えた訳ではない。

「そうやってアンタもアタシを買い被るのね」

「……そうかも知れない。

 どうやら「僕」では真実を知り得ないようだからね」

 何処か含みのある言葉を口にしながらも、

「可愛い娘に目の前で悄然とされたら、誰だって励ましてあげたくなる、

 まあ健全な少年のサガとでも言おうか……」

 

 ポカッ!

 

 たまらず飛び出したレイの拳骨。

「どうしてあんたはそう決まらないのよ!」

「痛いじゃないか、レイ。

 ちょっと場を和ます為に戯けて見せただけなのに、

 そう目くじら立てなくとも……」

 目を潤ませて哀願するカヲルは、成る程確かに二分前の彼とは大違いだ。

 

「レイ?」

「御免ねアスカ。話は途中から立ち聞きさせて貰っていたの。

 でもわたしの言いたい事は、みんなカヲルが代弁してくれていたみたいだから、

 特別何か助言してあげられるとも思えないけど、自分の言葉で言い直すなら、

 わたしも今のアスカは、前向きで強くって、

 何より前よりずっと綺麗な明るさを持ってると思う。

 

 もしかしたら、わたしはそんなアスカに妬いていたのかな。

 だから随分意地悪い事しちゃったのかも。

 ごめんね、本当にごめんね……」

 話していくうちに段々としおらしくなって行き、最後には半分泣きべその謝罪になっていた。

「レ、レイ……そんな、泣かないでよ。

 意地悪かったのはアタシの方なんだから、アンタが謝らないで。

 アタシこそ、色々と酷い事ばかり言ってごめんね……」

 

 お互いに肩に手を掛けて、そっと抱き寄せて謝りたいのに。

 宙を彷徨うだけの手の煩わしさ。

 そしてそんな凍り付いた場に介入した少年が一人。

 突然二人の背を押し、密着させる。

「ほらこれで万事解決」

「「って何すんのよっ!!」」

 その報酬は左右揃っての張り手。その勢いに、見事に崩れ落ちる無様なカヲル。

「全く、何考えてんのか知れたもんじゃないわね、こいつ」

「気を付けてよアスカ、こいつ只の軟派だから」

「分かってるわ」

「さっすがぁ!」

 先刻の逡巡も何のその、あっという間に意気投合してしまうお互いの様子に、今更ながら二人揃って互いを見合わせては笑いを隠せない。

 そんな二人の傍らで、茶目っ気な目論見が成功した事に微笑む少年が一人。

 

 

 ―――子供達の補完、もとい心の平癒は順風満帆に運んでいた……かのようでありながら、アスカの心には、微かに苦悩の痼りが芽を残す。

(意地悪い……こっちの世界ではアタシとレイの関係はそう穏和にされているんだ……。

 よくよく考えれば、レイ……ファーストは、意地が悪かった訳じゃないものね。

 アタシが一方的に敵視して、貶していただけだった。

 ファースト自体は、シンジや碇司令にだけは心を開いていたみたいだったし、

 仲の悪い筈のアタシにだって助言してくれた事もあったもの。

 

 

「心を開かなければ、エヴァは動かないわ」

 

 

 あの時のアタシに、それを聞き入れるだけの余裕なんてとても無かったし、

 例え誰の言葉だったとしても、そうシンジや加持さんの言葉だったとしても、

 きっと頑なに受け入れはしない嫌な子供だったものね)

 

 かつての器量の小ささを呪い、恥じるアスカ。自分でも不必要で悪い癖だと自覚はある。それでも、レイを「拒絶」していた事でさえこの世界は寛容に受け止めて、「事象のずれ」は、自分とレイにこうして仲を取り持ってくれた。

 

 でも、やはり素直には受け入れ難いのだ、そんな「過保護」は。

 

 「補完計画」が引き起こした罪過の緩和も、今のアスカにとっては少しばかり過ぎた世話でしかない。

 

(今なら、自力で、誠心誠意で罪を償える、困難に立ち向かえる自分がいるもの。

 だから、こんな肩透かしな平和は少し違うと思う。

 この「補完」は、少し虫が良すぎるの。

 ……本当に「少し」なんだけどね。

 だって、この世界ではみんなが寛容になれる、もっと自分を高めようという強い意志を以て、

 理解し合おうと努める事の出来る理想的な世界がここにある。

 

 

 ―――でもやっぱり、この「補完」は少し違うのよ。

 

 

 なんでだろ、なんでこんなに落ち着かないんだろ。

 いいじゃない。この世界で、今度こそ真っ直ぐに生きて、みんなと

 「調和」出来る為に努力してもいいじゃない。

 

 アタシは今更何が怖いの?

 アタシは今更何を求めているの?

 こんなに力強く生まれ変わった世界なのに。

 どうしてアタシは不安が拭えないんだろう?)

 

 

 限りない深慮の淵からふと抜け出して眼前に意識を向けると、そこにはレイとカヲルの恒例の痴話喧嘩。

「別に心配しなくても、僕は君一筋だよ」

「ばっ、バッカじゃないの!? 自惚れも大概にしなさいよね!!

 前に言ったでしょ! 増長が過ぎるようならば……」

 先日の口約を思い出し、跳ね上がるように狼狽えるカヲル。

「あ、いや、その、ええと……ゴメンよ、レイ」

「な、何よそれ……わ、わたしこそ、言い過ぎてゴメン……」

 何故か謝るのに耳まで赤いレイ。

 

 

 喧噪が絶えた居間に、笑いを押し殺す声。

 

 

「アスカっ!! 一体何がおかしいのよっ!!」

 より一層頬を赤らめて怒鳴り立てるレイ。

「いや、あはは……! やっぱ見てて面白いわ、アンタ達の夫婦喧嘩」

「だ、だ、誰が夫婦よ、誰が!!」

 居間中に響きわたるような叫声に、たまらず耳を塞ぐ……仕草だけして見せるアスカ。

 生憎と、夫婦の片割れはただ笑って見ているだけだった。

「あんたも笑っていないで何か言い返しなさいよ!」

「惣流さん、披露宴のスピーチは任せていいかな?」

「って人の話聞きなさーい!!」

 

 只無邪気で純粋である事が許される、そんな年頃の子供達の一時。

 

 

 ―――でも、やっぱり思い出さずにはいられない。

     アタシとシンジにも、こんな会話が気兼ね無く交わせた刻があった事を。

 

(アタシ達、本当に啀み合うしか、隔たりを作るしかなかったような、

 そんな冷め切った間柄でしかなかったのかな?

 もう少しでいいから、傷付け合う事を恐れないで、お互いを知り合って、

 お互いを認め合う事が出来れば良かったのにね。

 

 でも、それが出来なかったアタシ。そしてシンジ。

 だからこうして離れ離れになってしまったのね、きっと。

 

 どうしてだろね、この気持ち。

 今、無性にアンタに逢いたい。

 逢って、もう一度だけ一からやり直したい。

 

 ……でもやっぱり分からない。

 今更何を一から始めたいんだろうね。

 あくまで相手がアンタなのは何故だろうね。

 

 アタシ、何で……)

 

 心の空虚がそのまま表情に出るアスカ。今度こそそれに真っ先に気付いたレイが声を掛ける。

「アスカ、そんなに思い詰めないで元気を出してよ。

 ……あなた一人が悲しい訳じゃないの……

 ふと思い起こしたように顔を上げると、そこにはレイの満面の笑み。

 今までずっと失っていた「微笑み」を取り戻そうとする反動ように、彼女の笑みは初対面以来ずっと輝き続けている、レイの象徴。

 そしてその後ろでも、いつもより幾分「真面目に」微笑むカヲルの表情。

 決して、いつもの場を和ます為のような微笑みではなく、真摯な思いでアスカを見守るそのもので。

 

 

 こんな人達の温もりと、思いやりの中で生きていける―――。

 

 アスカの喜びが、一条の涙となって表れた時、レイは黙ってアスカを胸に抱き寄せる。

 今は只、そうしてあげたいと思ったから。

 

 アスカは、それを享受して無言で泣き腫らした。

 

 カヲルの方もそれとなく気を利かせて数歩離れ、そっぽを向いていた。

 

 

 

     ぐぅ。

 

 締まらない腹の虫が鳴る。

「今の誰ぇ!?」

 この神妙な雰囲気を破る無粋な犯人はカヲルだと確信するレイ。

 

「……あの、アタシ……」

 さもバツが悪そうに白状するアスカに少し驚いたようだったが、

「そう言えば昼食の事すっかり忘れちゃっていたね。

 ゴメン、これから作るね」

 アスカを静かに引き離し、態とらしくアスカの頭を撫でた後、カヲルに一つ目配せをして台所に去っていく。

(後はあんたが気を利かせてやってよね。

 くれぐれも言っとくけど、「ちょっかい」にならないようにね)

(分かっているよ。今日は暑いから涼しい物がいいな。

 レイの手料理かぁ、いい物だねぇ……)

 

 全く通じていなかった。

 

 

 

 二十分もしてから台所から現れたレイの両手には、冷や麦の乗った大笊が一つ。

 添え付けられている薬味類の丁寧さが、いかにも彼女らしい。

「結局手抜きみたいになっちゃった」

「いやいや、この暑い日にはそれもまた風流なのさ」

「カヲルに風流語られてもねぇ」

 悪態を突きつつ、手はこまめに麺つゆを分配している。

 一方アスカの方を向き直ると、

「ゴメンねアスカ、あまり脂っこい物もなんだし、こんな物になっちゃったけど。

 それと知ってる? 

 人間って、ラーメンばかり食べていると栄養が偏って死んじゃうけれど、

 蕎麦はね、意外と栄養あるからこれだけを食べていても一応生きていけるんですって」

「へえ、そうなんだ」

「ま、何はともあれ頂くよ」

 横から箸を入れ、早速冷や麦を啜っているカヲル。

「んもう」

 何が不満なのかは明白だが、頬を膨らませつつもカヲルに続くレイ、そしてアスカ。

 

 

 しばらくは、蕎麦をすする音だけが静かに響く居間。

 

 チリ―――……ン。

 

 風が出てきたか、風鈴が一つ鳴る。

「あれ? レイ、あれも風鈴なの?」

 アスカの風鈴に対するイメージは、釣り鐘型をした青銅色の物だけだ。

「ああ、あれは江戸風鈴と言って、ガラス細工の一種みたい。

 だから手作りの工芸品なの。

 今は伝統工芸がどうのって言って後継者不足らしくて、

 セカンドインパクト以降は殆ど手に入らなくなった、ってお父さんが言ってた」

「へえ、じゃあおじさま達物持ちがいいのね」

「それが違うのよ。こいつがどっからか持ち出してきたの」

 と、箸で人を指す行儀の無さ。尤も、相手がカヲル限定の行儀の悪さだろうが。

「ガラスの繊細さが、絶妙な音色を醸し出すのさ。

 夏は江戸風鈴に限るからねぇ」

「風が強いと煩いだけなんだけどね」

「きっついねーレイ」

 

 

 チリ―――……ン。

 

「ま、まあ、適度になっている分には悪くないわね」

 素直でないのは誰から受け継いだ性格なのか。

 

「やっぱり見ていると面白いわ、アンタ達、うん」

「あのねぇ」「そうかい?」

 二人の合間で、一人高見を決め込んでいたアスカの茶々に、彼女の心の余裕を認めたレイが、カヲルに目配せする。

(何とか立ち直ってくれて良かったね、カヲル)

(だろう? やっぱり江戸風鈴は日本文化の至高の極みだねぇ)

 

 やっぱり通じていなかった。

 

 

 その後、三人の取り留めのない会話が、夕方に碇夫妻が帰宅するまで続いた。

 玄関にあがったユイが、早々にアスカを呼び止める。

「事情は大方レイが話してくれたでしょうけど、

 私達の事後処理が一段落するまで、この家でのんびりしてて。

 葛城さんも多忙の身だから、その方がいいと思って了承を貰ったの。

 彼女には、帰る余裕が出来た時にはこちらに寄って貰えるように頼んでおいたから」

 ミサトとアスカの仲も取り持つつもりでいるユイ。

「何から何まで、本当にお世話してもらって……」

 アスカが丁寧に礼を述べようとして、はたと思い起こし踏みとどまる。

「……あの、迷惑ばかり掛けてごめんね、ママ」

 まだ相当恥ずかしいのだろう。耳朶まで真っ赤にしながら言う物だから、聞いている周りまで不思議と小恥ずかしくなって来る。

「いいのいいの」

 アスカの頭を再び撫でて、優しく宥めるユイ。

「それじゃ、早速夕飯の支度しますから、三人共もう少し待っててね」

 と言い残し、着替える為に自分達の部屋に戻る。

 その後ろを黙ってゲンドウが続いた。

 

 

 二人きりの寝室で、呆れた面持ちのゲンドウが一言呟いた。

「……君が何を企んでいるのか分かって来た気がしてきたぞ、ユイ……」

「あら「企む」なんて心外ですわ。

 私は只『大所帯になりそうだわ』って思っただけですのに」

 ご苦労な事だと心の中だけで嘆息をつくゲンドウ。

 

 

「初孫の顔は何時見られるでしょうねぇ」

「……勘弁してくれ、ユイ……」

 

 

 

 碇家の夕食にテレビは不要だ。

 それでなくとも、五人も揃えば話も賑やかになるし、やはり今夜も碇『両』夫婦の痴話喧嘩は健在だからだ。

 そしてそんな喧噪の中、ゲンドウの座る座布団の下には、密かにテレビのリモコンが隠されてあった。

 

 ―――既にここにいる全員に了承は取っている。

     惣流君には、新聞、雑誌、ニュース等の、

     ゴシップ関連の報道メディアへの接触をそれとなく避けさせるように、と。

     今各紙のトップ記事は、軒並み国連とネルフの関係不和疑惑が持ちきりで、

     それに乗じてある事ない事を書き殴る輩が多々いる事。

     しかもその度に疑惑の「要素」が画面に映し出される。

 

     エヴァンゲリオン弐号機。

 

     今はまだいいだろう。

     ゆっくりと彼女の心身を癒してから、それからだ。

 

 ゲンドウの細い瞳が、無邪気な子供達を静かに見据えていた。

 そして、その傍らに仕える女性の瞳もまた。

 

 

 

 翌日は日曜日。

 アスカは、丸一日レイと室内で戯れていた。

 と言うよりはそうせざるを得なかった。

 ユイ達にやんわりと外出を止められたからだ。

 

 レイはそんなアスカの退屈をしのぐ為に、級友達との四方山話に加え、最後にはカヲルが如何に妙なセンスと感性の持ち主であるかを並べ立て、一見愚痴のように聞こえても、アスカ側にとって見ればそれはどう聞いてもおのろけでしかない部類のそれであった。

 アスカはそんな話自体は楽しんでいても、結局は退屈さに耐えかね外遊を求めたが、流石にレイが必死になってそれを説得した。

 表向きは、自分達「元」チルドレンの立場がまだ不安定な事を延べ、

 実情は、アスカに対するマスメディア関連の情報からの保護。

 勿論、テレビやパソコン通信等の類もそれとなく隠匿している。

 

 

 だが一方で、アスカとて一日たりとてエヴァ弐号機の存在を忘れていた訳ではない。

 アスカ自身にとっても、弐号機は自分を貶めた存在であると同時に、もう一度自分を取り戻す事のできる「鍵」であるという認識は、日増しに強くなる一方であったからだ。

 

 

「心を開かなければ、エヴァは動かないわ」

 

 

 ―――ならば、動かせれば、心を開けた証しかも知れない。

     今ならば、あの言葉の真意が分かる気がする。

     今のアタシは、もう自分の弱さに負けたくないから。

     だから、もう一度だけエヴァに乗りたい。

 

     今度、お二人に相談して見よう。

 

 アスカの瞳に強い決意の光が宿る。

 だが、その傍らで何故か渋い表情を見せるレイ。

 レイ本人さえ気付いていない程、それは一瞬の事であった。

 

「どうしたの? また暗い事考えてるんでしょ。駄目だよぉ」

 アスカの憂慮がすぐ顔に出るからか、レイが常に気配ってくれるからか、以前のように出口の見当たらない暗鬱さがアスカの心を苦しめる事は随分減った。

 消極的で非健康的な思考を振り払うのに、レイの垢抜けた笑顔は随分貢献していたのだ。

 たとえアスカが自分を見つめ直す事が悪くないとは言え、一人で悶々と思考に沈むのが良くないのは以前既に経験しているのだから、今度は素直に皆と接しつつ、少しずつ自分を確立させて行けば良いのだから。

 

 

 ―――他人と心を通わせる事。

     そして他人である「皆」を通じて自分を知る事。

     それが願える為の補完。

     緩やかながらも、力強く前進出来る為の世界。

 

     たった一つの点さえ除けば、

     この世界は将に今のアスカにとっては理想その物の世界。

 

「家の中にいると、どうしても湿っちゃうね。

 でも、はっきり言ってしまうと、わたし達の立場じゃあ、

 街に遊びに行くのも楽じゃないの」

 以前とは違って、チルドレンに対する危険性は極度に薄れている。あったとしても民間レヴェルでの話だ。むしろ今はそれ以上に厄介な「マスメディア」関係。アスカがいずれ事実を知るのは当然にしろ、チルドレン達の個人情報に関してはネルフ側が必死のシャットアウトを心掛けていた。

 と言っても「特務機関ネルフ」に対するネックは既に「エヴァ弐号機」の一点だけであり、世間一般に対するネルフその物への悪印象は少ない。

 それも又、補完計画の瑣末な恩恵であったかも知れない。

 

「別にいいわよ。アンタが謝らないでもさ。

 それより、明日からはアタシも復学するのかぁ。

 なーんか懐かしいわ」

 レイの背負った意外に重い役割を解きほぐすかのように、そんな状況背景を何とはなしに悟ったアスカはこれ以上駄々をこねるのは止めていた。

「ふふっ、アスカ勉強だいぶ遅れているんじゃない?」

「笑いながら言う事じゃないでしょっ!

 大丈夫よ……日本語以外なら」

「じゃあわたしが教えてあげるわよ」

「最初からそう言えばいいじゃない……ありがと」

 

 

 

 その夜。

 アスカはレイに内緒で、自分の思いの丈を一気に碇夫妻に申し立てた。

 それは、エヴァを通じて自分を高める事。

 現実から目を逸らさない強さを得る事として。

 

 聞き届けた二人は暫く難しい顔をしていたが、やがてゲンドウが重く口を開いた。

 

「……まさか、君の方から先にその話が出るとはな」

 小難しい表情をしたゲンドウが、卓袱台の上に両肘を突き、口元を手で覆う。

「あなた、家でまでそのポーズを取るのはおよしになったら?」

「別に構わないだろう。今は司令として彼女に接しているのだ」

「小理屈ですわねぇ」

 とりあえず、ユイはそれで引き下がった。

 

「正直な話、弐号機の処遇は確かに微妙な所だろう。

 「戦力」として現存する最後のエヴァ。

 国連安保理事会が、しつこく引き渡しに食い下がっているくらいだ。

 或いは完全廃棄、をな。

 

 ……いずれにせよ、弐号機は処分せねばならぬだろうな」

 

 「処分」と聞いてアスカの肩が震えた。

 

「そう先行き不安になる事はない。

 コアまで奴等の好きにさせるつもりは更々ないし、

 複製するのに足りる情報は絶対に手渡す訳にはいかないからな。

 

 近々MAGIに国連査察団の審査が入る。

 それに間に合うように、今ユイと赤木君達が

 必死にデータのクリーニングに勤しんでくれている。

 

 そして、君にももう一度は弐号機に乗って貰いたいのだ。

 勿論、乗る乗らぬの最終判断は君の一任だ」

 

 何を企んでいる訳でもない。

 アスカを弐号機に乗せようとするゲンドウの意図は、ユイも正しく理解している。

 それに、その方法は必然ではない。「推奨」に過ぎないのだから。

 

「一つ、教えて下さい。

 何故アタシがもう一度乗る必要を、あなた達が感じるのですか?

 いえ、乗る事自体はアタシ自身が希望します。

 でもアタシはあくまで自分自身の為に、

 過去のトラウマに決別を付ける為に乗りたいんです。

 だからアタシにとっては、自分が心を開く事が本当に出来るのか、

 それが適度なシンクロ率に出る事があれば、それで十分なんです。

 

 勝手な言い分と理屈なのは、承知しているつもりです」

 

 真っ直ぐな瞳の力強さが、ゲンドウに有無を言わさない態度で迫ろうとしている。

 

「確かに、それが君自身の躍進に繋がるというのなら、我々は精一杯サポートしよう」

 ゲンドウもユイも、二人揃ってアスカの躍進を見守ろうという気持ちは当然強い。

 既に、この二人にとってアスカは娘同然の存在である。

 

 ―――だが、ユイは知っている。

     彼女の本当の母親の面影を―――。

 

 

「ねえ、アスカ。一つ大事な話があるの」

 ユイは一本指を立てて、ゲンドウに向いていたアスカの注意をこちらに向けた。

「私は赤木さん達に手伝って貰って、

 ここ数日MAGIのデータを一通り閲覧してみたの。

 使徒との戦闘記録から、エヴァの運用、起動実験記録等を。

 私達の記憶と知識と照らし合わせてね。

 

 でも恐らくアスカ自身の記憶や知識のそれとはだいぶ擦れ違うでしょうけど、

 少なくとも私達のそれとは何の違和もなかったの。

 

 結局、私達に理解出来なかったのは、

 あの受精卵と、補完計画の発動者、この二つ。

 でもそれも、あなたの記憶と総合すれば一つの結論が出るわ。

 

 『碇シンジ』

 

 彼が全ての「鍵」なのかも知れないという「仮説」に過ぎないけれど」

 

「シンジ……」

 その響きが何処か遠くに彷徨って行きそうで、急に寒気を覚える。

 

 

「それにね、弐号機に乗るという事は、あなたのママに立ち向かうという事でもあるわ」

 

 今度こそ、アスカの肩が激しく震えた。

 

「今のあなたが母親の死と言う、

 驚愕の事実を乗り越えるだけの力があると言い切れる?

 それだけの力がなければ、再びその痛みがあなたを襲う事になるのよ。

 そうなれば、今度こそあなたの精神状態に保証は持てないの。

 でも逆に、キョウコを乗り越えるだけの力があれば、

 もうあなたは大抵の物に負けない強さを得る事が出来るでしょう。

 

 今は無理はしないで、ゆっくりと自分を高めなさい。

 私達ならもう暫く待てるから、だから急がないで、

 自分の納得の出来る強さを得てから、過去に立ち向かいなさい。

 

 私達は、もう二度と大事な人をエヴァで失いたくないの。

 だけど、あなたの真意もまた、エヴァの中で得られるのかも知れない。

 

 今のあなたにとってエヴァが何なのか、もう一度ゆっくり考え直しなさい。

 中途半端な色気を出して、後悔させたくないの。

 

 いいわね、アスカ?」

 

 分かる。

 ユイの言いたい事も、彼女の優しさも、アスカには十分に理解できた。

 そうだ、自分が自分を見つめ初めて、まだ大して日は経っていないのだ。

 自分はまだ弱さを抱えている。

 実際こうして母親の名前を出されただけで狼狽えている自分がいる。

 

 アスカは、一つゆっくりと頷いた。

「分かりました。アタシ、もう少し期間を置きます。

 もっと自分を見つめ直してから、強くなってから、

 ママに、過去に立ち向かおうと思います。

 それでいいですか?」

 

 断る理由など有る筈がない。

 二人もまた、一つゆっくりと頷いた。

 

 

 翌朝。

「アスカー! 準備は出来たのー?」

 玄関先でレイが大声を張り上げる。

「ちょっと待ってなさいよぉ!」

 トタトタと会談を忙しなく駆け下りるアスカ。

 二ヶ月振りに制服に袖を通し、革鞄を下げている。

「待たせたわね。それじゃ行きましょ」

「行ってきまーす!」

 二人の娘の登校を、手を振って見守るユイ。

 

「ほらあなた、早くしないと仕事に遅れますよ!

 また冬月先生に叱られても知りませんから!」

 反転してゲンドウを嗾ける。

「ああ」

 怠けたゲンドウの生返事。

 

 主婦と研究者の二足の草鞋。

 彼女は、良い意味で上手く使い分けているようであった。

 

 

 やがて登校していた二人にカヲルが合流し、続いてヒカリが合流する。

 いつも通りのたわいない会話、それもまた平和の証し。

 

 やがてその輪にトウジとケンスケが加わり、二人は久々に再会したアスカと早速の口喧嘩。

 そしてそれを宥めるヒカリ、苦笑するレイ、涼しい顔のカヲル。

 彼等にとっては、いつも通りの朝がより一層賑わう楽しい朝の一時。

 アスカは、いつの間にかその輪に自然と溶け込んでいた。

 

 自分が知らない筈の世界。でも彼女が望めば、何の違和感もなく溶け込める不思議な世界。

 

「このぉ、三馬鹿トリオがぁっ!!」

 レイがたまりかねて叫ぶ。

 そのいつもの剣幕に、カヲル、トウジ、ケンスケの三人が気圧されるのもいつも通りの光景。

 

 ……の筈であった。

 

(でもやっぱり、この世界にはシンジがいない。

 シンジがいないから成り立つ補完なんておかしいわよ。

 あんなに不器用な少年だったのに。

 アタシが救われて、こんなに寛容な世界を享受して、

 なんでアイツだけが消え去ってしまったの?

 そんなにあいつ一人だけが悪い奴だったの?

 

 それとも、戻って来たくないの、シンジ?

 

 ……でもこの世界なら、アンタみたいな不器用なやつでも、前に進めるのよ。

 アタシが出来るんだもの。アンタに出来ない理由はないわよ。

 

 だから、アンタも……戻ってきなさいよ。

 もし戻って来れない状況にいるというなら……その時は……)

 

 アスカの心の中に、彼女もまだ知り得ない、一つのとてもとても強い決心が沸き起こりつつあった。

 

 

(アンタも見てみなさいよ。

 眩しいんだから、この世界の太陽は……)

 

 ふと見上げた青空。

 晩夏の太陽が、白い肌をチリチリと焼く。

 見上げたその顔に、手を翳す。そして、そっと指の合間から覗いた空は……限りなく蒼く。

 

 それは彼女の無限の可能性のように広がり、透き通り。

 

 

 アスカの英断。

「シンジ、アンタの居所、きっと掴んであげる。

 ……アンタを、連れ戻してあげるんだから!!」

 

 強く、より強く光り輝くアスカの瞳。

 日差しを浴びて、彼女の決意に満ちた表情はまるで向日葵のように輝き。

 

「……シンジ」

 その名前を呟く度に、心に沸き起こる不思議な感慨。

 心の底の真意に気付けるまで、あともう少しだけ。

 

 

 だが、そんなアスカを見つめる四つの紅の瞳は、限りなく憂いに彩られ。

 まるで全てを凍り付かせるような瞳。そしてその決意。

 アスカと対照的な冷たい決心が、二人の心に宿る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……フィフス」

 「分かってるよ、レイ」

 

 


TO BE CONTINUED・・・
ver.-1.00 1998+04/25 公開
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 第十二章、遅ればせながら発表です。

 

 アスカが何度も何度も自分を確かめ、呟き、決意する。

 その筈がしつこい描写に成り下がってしまいましたね(確信犯ですが)

 

 「シンジがいないからこそ調和が取れている世界」の設定の描写は難しいですね。

 でも、第一部のシンジがあれでは、これで当然だと思わないで下さいね(^^;

 シンジを放ってエヴァSS書くつもりはないので。

 

 第一部ではシンジだけ。

 第二部ではアスカだけ。

 第三部で両方出てこなかったら総スカン物ですね(^^;;;

 

 次回で第二部の核心に迫ります。

 宜しければご一読の程を。

 

 それでは。

 



 彩羽さんの『悔恨と思慕の狭間で』第十一章、公開です。




 えらい!

 何が偉いって
 ミサトの部屋掃除をしたレイ・カヲル・ヒカリ。


 よくやったな」としか言えん・・・


 わたしなら、
 掃除どころか、中に入ることさえ出来ない−−


 それを、
 一部屋だけでなく1件丸々。



 このことからだけでも分かるよね

 いかにみんなの心が強くなっているのかかが    こじつけだ(^^;




 さあ、訪問者の皆さん。
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