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(承前)



 目覚めはサイアクだった。
 じりじりと照りつける太陽の下、延々と続く海岸線の真ん中でなんだか得体の知れないモノと対峙している夢だった。自分はでっかい鉞を持っていてそれをぶんぶん振り回すのだが、いくらその刃に真っ二つにされようとその得体の知れないぐにゃぐにゃしたモノはまったく応えた様子が無くて、その白くて得体の知れないぐにゃぐにゃした触手と思しきものを自分の方へ伸ばしてきた。振り払っても振り払っても触手は何本も何本も伸びてきて、そのうち首に巻き付いてしまった。悲鳴を上げてほどこうとしたがビクともしない。
 ところが触って見ると、その触手は見かけと違って思いのほかスベスベしていた。それにぷにぷにしてなんだかキモチがいい。

 え? なんですって?

 ちょっと待ってよ。なんでこんなものがキモチいいなんて思うのよ? と愕然とした瞬間、目が覚めた。カーテンの隙間から差し込む朝の日差しがまともに顔を照らしていて、その眩しさに思わず眸を瞬く。
 なんて夢、と額の汗を拭おうとしたとき、何かが首に巻きつく感触が今だ残っているのに気付いた。そんなバカな、と首元をまさぐったが、そこには確かにスベスベのぷにぷにな白い腕の重さが存在していた。

 なななななななによぅ、なんなのよぅ、これは?!

 慌てて惣流アスカが横を向くと、淡い色の髪が視界一杯に飛び込んできた。


 綾波レイがすやすやと寝息を立てて眠っていた。


「ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょっとあんた、なんで私の布団にいるのよ?!」
 腕を振りほどかれて叩き起こされた綾波レイは寝トボけた表情で、すっかり混乱している惣流アスカを見上げた。なんでここに弐号機パイロットがいるんだろう、と未だに開ききらない目蓋でほや〜と周囲を見渡す。

 あ、そうか。自分の部屋じゃなかったんだっけ。

 そこは訓練中の惣流アスカと綾波レイの寝室として割り当てられた葛城家の客間だった。絨毯敷きの八畳間は少女二人には決して手狭ではない筈なのだが、どうやらいつもの寝相の悪さを発揮して、惣流アスカの布団に潜り込んでしまったようだ。
 でもだからって、そんなに嫌がることないじゃないのよぅ。真っ赤な顔をして怒鳴っている惣流アスカの顔を見上げて、未だ血圧の上がりきらない綾波レイは半分寝ながらそう思った。そんな顔してると、おサルね、まるで。
 そんなレイの様子に業をにやしたか、惣流アスカが吠えた。
「ちょっとあんた、聞いているの?!」

 その鼻先にすっと白い指が伸び、そして云った。


「赤毛猿」


 惣流アスカの呼吸が止まった。

「なんですってぇぇぇぇぇっ?!」

 密かなコンプレックスである赤い金髪の事を指摘され、惣流アスカは逆上した。掴み掛かろうとしたが、その時には綾波レイはすでにぱたりと布団に倒れ伏し、再び安らかな寝息を立てていた。胸ぐらをひっつかんでいくら揺さぶってやっても、もはや目覚める気配はない。
「むきーっ! この女わーっ!」
「ちょ、ちょっとアスカ」騒ぎに気がついて部屋の扉を開けた帆足マリエが慌てて止めに入った。
「ちょっと離しなさいよ、この体力バカ!」
「アスカ、落ち着いて。綾波さん、血圧低くて寝起きが悪いだけだから」
「そんなことが理由になるわけないじゃない。赤毛猿だなんて云われて黙ってられるもんですか。この世には云っていいことと悪いことがあるってのを骨の髄まで教え込んでやるんだから!」
 なおも荒れ狂う惣流アスカにマリエが手を焼いていると、
「朝っぱらからいったい何の騒ぎ?」思いっきり寝起きの頭に大欠伸をしながら、葛城ミサトが起き出してきた。
「あ、ごめんなさい。ちょっと、アスカと綾波さんが……」だが、マリエに皆まで云わせず、惣流アスカが吠えた。
「ミサトっ! なんなのよ、この性悪オンナは?!」
「なんなのよ、って……」レイの性格が悪いのは今に始まったことじゃなし、とミサトが思っていると、
「どうかしたんですか」と碇シンジがようやく起き出してきた。止める間こそあれ、ひょいと無造作に部屋を覗き込んだが、碧い眸と見合った瞬間彼の思考はそこで止まった。

 惣流アスカの寝乱れた髪。乱れたタンクトップの胸元、そこからのぞく双球の谷間。
 綾波レイの細い形のよい脚。腹までまくりあがったシャツの下は白いちっちゃな下着だけ。

 同級生のあられもない姿ってなんか妙にナマナマしいなぁ、と思った瞬間、その視界を覆って白いカタマリがぼふっと間抜けな音とともにシンジの顔面にヒットした。
「エッチチカンバカヘンタイシンジランナイサイテー!」
 惣流アスカは顔中を口にして叫んだ。

「でてけーっ」





 普段より二人ほど多い今朝の葛城家の食卓は、普段にもましてにぎやかだった。
 手と口を同時に動かし延々と文句を云う惣流アスカ。まったく冗談じゃないわ何で私が、とかなんとか、喋っているのか咀嚼しているのかもはや判別不能な速さでトーストを平らげていく。
 その健啖ぶりに、生野菜サラダのボウルを手にしたまま感嘆の眸を向ける碇シンジ。もう何枚食べたのかな、あんなに細いのにいったいどこに入るんだろう。やっぱり惣流さんはスゴイなぁ。
 我関せず、とつんつんと目玉焼きの黄身をつつく綾波レイ。どうやらカタマリ具合が気に入らないらしい。みんなのの方がちょうどよくできてるわ。どうして。ねぇどうして。
 綾波さんのだけベーコン抜きで別に作ったからちょっと失敗しちゃって、とマリエ。ゴメンね、と云いながら、皆の皿に次のトーストをのせる。綾波さんはマーマレード。アスカはブルーベリー。ミサトさんと碇君はバターだけ、と。
 そんな子供たちの様子を見ながら、ミサトはコーヒーを啜っていた。今朝は早々からちょっちトラぶってどうなることかと思ったが、どうやらその影響は少ないようで、取り合えずはうまくいきそうに見える。
 いや、うまくいってもらわねば困る。そうでなければ今度の週末には人類は滅亡だ。
 シンクロ率も身体能力も高い惣流アスカのことだから、本人一人だけならばこれくらいは余裕でやってのけるだろう。だが、その余裕を周囲に向けられるほど器用なワケでもない。まだたったの十四歳なのだ。それにこれまでは、自分の実力をすべて出しきることを目的に訓練を重ねてきたのだから、それはムリもないことだ。
 だから、誰を惣流アスカと組ませるのかは、大変アタマの痛いところだった。
 当人同士の相性から云えば間違いなく帆足マリエだったが、いかんせんシンクロ率が低過ぎる。逆にシンクロ率で云えば碇シンジが順当なところだが、それはよりによって先日手痛い敗戦を喫した組み合わせでもある。最後の頼みの綱だった綾波レイは、初っぱなから相性のよろしくないことを見せてくれた。なんだかどの組み合わせでもうまくいかないような気がしてきて、ミサトは少々げんなりした。
 とはいえ、技術部からは何の沙汰もないし他に有効な手立てが見つかった訳でもない。今更中止などと云い出せば、子供たちの士気にも関わる。なにより、決断したのはミサト自身だ。もちろん時間の許す限りあらゆる可能性は探っていくつもりだが、今はこの作戦で行くしかない。
 何事も最高など無い。最善を尽くすだけだ。それに、ひょっとしたら意外な組み合わせでうまくいくかもしれない。まだ始まってもいないのに自分が弱気になってどうするのだ。
 だが、ふと見ると、マリエが小首を傾げてこちら見ていた。ミサトの手が止まっているのに気付いたのだろう。
「あ、ごめん。ちょっち考え事」とお気楽な口調で誤魔化してみたが、
「そう……」とマリエは眸を伏せた。見るとならんだ皿のほとんどはもう空になっていて、育ち盛りの食欲の後を窺わせていた。ミサトのものだけが半分も残ったままだ。
 しまった、とミサトは思った。どうやら思いのほか長い時間考え込んでしまっていたらしい。
「ごめん。冷めちゃうね」
 いけない、いけない。自分がこんな調子でどうするのだ。マリエの心配げな視線を意識しながら、ミサトは慌ててトーストにがっつき始めた。





 葛城家のリビングは、実はけっこう広い。カウンターキッチンになっている台所を除いても、十二畳を優に越える。普段食事に使っているテーブルやらソファセットやらを片付ければ、子供二人が思う存分暴れても余裕があるくらいだ。そうして出来上がった急ごしらえの稽古場で、動きやすい服装に着替えた子供たちが体育座りで葛城センセイを見上げていた。
 レオタードはオトコの憧れである、と力説していたのは確か相田ケンスケだったと思う。そのときはそんなもんかと思ったのだが、いざ間近でそれを着た少女たちを見てみると、なんとなく彼がそう云った理由も分かる気がする。プラグスーツだって体の線がしっかり出るのだから余り変わらないような気もするのだが、その伸縮性の高い柔らかい素材に包まれた少女たちの身体はそれとはまた違ってみえて、自分も同じ格好をさせられていることを割り引いても、碇シンジは実はちょっとどきどきしていた。
 綾波レイのスレンダーな脚の線。まだ小粒ながら充分に女性を感じさせる惣流アスカの胸元。帆足マリエの大人びた腰つき。
 九九を最初から勘定してみるとか、歴代米国大統領の名前を並べてみるとか、チェロの楽譜を思い浮かべるとか、そういう手段が必要な経験が一度でもあれば少しは落ち着くのだろうが、たった十四才の少年にそれは無理もないことだ。だからシンジは帆足マリエの誇らしげな胸の膨らみをちらちらと横目で窺いながら、赤い顔をして俯いていた。
 だが当のマリエはそれどころではなかった。もともと物覚えの悪いマリエだから、こういう頭と身体をシンクロさせるような訓練は得意ではないのだ。本当のところ、昨夜渡された振り付け表やテープの内容も満足に憶えきれていない有り様なのだが、これまでの実績からして自分が一番期待されているのも痛いほどよく分かる。
 いつものジャケット姿で四人の前に立つミサト。その視線が自分に止まるたび、マリエは宿題を忘れた小学生よろしく「どうか当たりませんように」とその大きな体を縮こまらせていた。
 だが当のミサトの方はそんなマリエの様子に気付いているのかいないのか、いつもと変わらぬ調子で子供たちに説明する。
「いい? こことそこ、」とそれぞれリビングの隅っこに設置されたモーションカメラを指す。「この二台のカメラであなたたちの動きをトレースします。これはユニゾンの進捗度合いを客観的に評価するためのものよ。画像データは直通回線でMAGIに送られて数値化されるようになってるわ。但し、これは目安程度に考えておいて。実際には私と、あなたたち自身の感覚で決めることになります。いいわね。何か質問は?」
 戸惑いと緊張と無表情とトホホ。返って来た四人四様の表情に、ミサトは頷いてみせる。
「じゃあ、最初は……」その言葉にマリエの体が強張る。
 綾波さん。綾波さん。綾波さんにして。おねがい、ミサトさん。

「マリエ」

 びっ、と自分に白羽の矢が立つ。
 ああやっぱり。ひどいよう、ミサトさん。わたしがこういうのダメなの、よく知ってるくせに。
 だが懇願の眼差しを送っても相手はびくともしなかった。
「じゃあ、始めてちょうだい」
 優しいのか厳しいのか分かりかねる口調の言葉にがっくりと肩を落として、マリエは急ごしらえでしつらえられた舞台に進み出た。





 帆足マリエの場合。

 マリエの背は惣流アスカより頭一つ近く高い。この歳頃の子供がそれほど大柄だとなにか不釣り合いにみえるものだが、マリエの体つきは均整が取れていて既に少女期の後半に差しかかろうかと見える程だった。
 そんなマリエが、白人種にしては小柄だが年齢なりに大人びている惣流アスカと並ぶと、それなりに見栄えがする。すっと背筋を伸ばしている様子は、まだ若い白鳥が翼が広げようとしている様にも見えた。


 そして音楽が始まった。

 惣流アスカ、帆足マリエ。その二羽の美しい白鳥が。

 舞わなかった。

 初っ端から振りを間違えるマリエ。その後はもうガタガタだった。なまじガタイがでかいだけに慌てていると余計にドタバタしているように見えて、終いにはその影響を受けたアスカまで振りを間違える始末。
「なにやってんのよ、あんたはっ」
 曲が半ばまで行かないうちに、惣流アスカがブチ切れた。
「あんた体を動かすだけが取り柄のくせに、なんでこんなことも出来ないのよ!」
「だ、だって、こんなのやったことないし、その…………」
「甘いっ!」有無を云わさず吠える惣流アスカ。伸ばした指先をびっとマリエに突きつける。「レイチェルだったら、こんくらい楽勝だったわよっ」
 ひどいよアスカ。その名にぐしっと目元を潤ませる帆足マリエ。
 だが惣流アスカにしてももちろん分かってやっている。この甘ったれをその気にさせるには、この名前が一番効くからだ。劣等感があろうがなんだろうが、今ここにいるパイロットは帆足マリエなのだ。
 さもなければ、あの性悪オンナか頼りないお子様と組まされることになる、という危機感もアスカを駆り立てる。帆足マリエだって決して最高のパートナーというワケではないが、あの二人に比べれば十倍はマシだった。
「さぁ、もう一回いくわよっ」

 とはいえ、ただでさえ物覚えの悪い帆足マリエがそう簡単に振り付けをマスターできるはずもなく、繰り返すほど焦りが出てしまい、かえって目も当てられない状況に陥っていった。

「これなら犬といっしょに踊った方がマシだわ!」吠える惣流アスカ。
「そう云い方ってないと思う……」しゅんとなるマリエ。
 しかたないわねぇ、とミサトはため息をついた。
「レイ。マリエと代わって」




 綾波レイの場合。

 透き通るような肌、という形容がある。それは確かに比喩であることが多いが、綾波レイの肌の色はまさしく透き通るようなそれだった。白人種とは明らかに異なったその肌は、無表情さと相まって精緻に作り込まれた人形のように見えた。それも只の人形ではなく、そのあまりの精緻さゆえに魂を生じてしまった人形だ。太陽のようにその表情を刻々と変化させていく惣流アスカと並んで立つと、まるで夜の女王である満月のように、それは際だって見えた。


 そして音楽が始まった。

 惣流アスカ、綾波レイ。対照的な二人ではあったが、その舞いはきれいな同調を見せた。

 かのように見えた。

 だが曲の半ばまでも行かないうちに、綾波レイが動きを止めた。よろめいたかと思うとその場にぺたりと座り込んでしまう。
「レイ、どうしたの?」見るからにひ弱そうなのに少々ムリをさせ過ぎたか、と葛城ミサトが慌てて声をかける。
「ちょっと、あんた?!」
 差し伸べられた惣流アスカの腕を、綾波レイの華奢な掌ががっしと掴んだ。無表情ながらも必死の色を浮かべる緋色の眸。只事ではない空気を感じ取って、惣流アスカの顔色が変わった。そしてレイは震える唇を開き、云った。


「ちょっと立ちくらみ」


 ぶち

「あんた、やる気あんの?!」
「ちょ、ちょっとアスカ」
 つかみ掛かろうとしてマリエに抑えられる惣流アスカを尻目に、綾波レイは済まし顔でミネラルウォーターなど口にしている。
 こんなつまんないテに引っかかるなんて大したことないわね。所詮修行の足りない赤毛猿、あたしの敵じゃあないわ。無表情な綾波レイの顔がそう云っているように見えて、惣流アスカは逆上した。いや、ホントにそう云っているかもしれなかったが。
「こンの偏食病弱性悪無愛想娘がぁぁぁっ!」
 だってその通りだもの。これは間違いなくそう思っていた。
「ちょっとレイ、真面目にやりなさい」怒っていいのか呆れていいのか判別がつかず、ミサト。
 だが、その言葉に緋色の眸がちらりと動き、

「それ、命令?」

 白い端正な顔立ちに何の感情も込めずにそういうものだから、なかなかに凄味がありさしものミサトも一瞬ビビった。だがそこは天下の作戦部長、そんなことはおくびにも出さず、
「命令よ」
 重々しくそう宣言する。
 ちっ。とでも云いたげに顔を背けるレイ。だがヤシマ作戦のときの仕返しも、いい加減にしないとそろそろマズそうだった。まだ足りないくらいだけど、仕方ないわね。

 とはいえ、惣流アスカと綾波レイでは基本的に筋力にも体力にも大きな差がある。曲を二度程繰り返すうちに綾波レイの方が先に音をあげた。今度は演技ではなく本当に息が上がっている。

「こんな軟弱性悪オンナなんかとまともにユニゾンできるワケないでしょう?!」吠える惣流アスカ。
 あんたにはいわれたくないわよ、この赤毛猿。とは口に出さず、レイ。
 しかたないわねぇ、とミサトはため息をついた。
「シンジ君。レイと代わって」




 碇シンジの場合。

 碇シンジは小柄だった。このくらい年齢の少年は同じ年頃の少女たちにまだ体格的に負けていることが多いが、その中でもひときわ華奢だった。少年にしては優しい顔立ちと線の細さがその印象をさらに強めていて、惣流アスカと並ぶともう一人少女が立っていると見間違えたとしても無理からぬほどだった。
 それでもなんとか背筋をしゃんと伸ばして立つ。碇シンジは男でゴザル。


 そして音楽が始まった。

 惣流アスカ。碇シンジ。最初の腕の一振りは、きれいなシンクロを見せた。

 のは最初だけだった。

 もう何度も繰り返しただけあってムダのない動きの惣流アスカに対して、確かに振りは間違えてはいないのだが碇シンジのそれは妙に落ち着きがない。張りが無いというか迷いがあるというか曖昧というか、なんだか見ているこっちの方が恥ずかしくなってくるような舞い方だった。
 ミサトは困惑して思わず視線を逸らした。だが、やはり困ったような表情の帆足マリエと眸が合ってしまって、どんな顔をしていいのかわからず、えへ、と笑ってみせると、向こうも少々こわばった笑みを口元に浮かべた。どうやらマリエもミサトと同じキモチだったらしい。
 だがいつまでも阿呆みたいに笑っているわけにもいかない。ぱんぱん、と手を打って二人の注意を向けさせると曲半ばで音楽を止めた。
「シンジ君。恥ずかしがってちゃダメじゃない」
「え、でも……」モジモジする碇シンジ。そんなこといったって。モジモジ。恥ずかしいものは恥ずかしいし。モジモジ。
「ああ、もう!」いい加減じれったくなったか、惣流アスカが横から怒鳴った。「ナニがデモよ。ぐじぐじぐじぐじと! オトコなんだったら、もっとしゃっきりしなさいよ!」
「で、でも……、その……」と言い訳を並べようとするシンジ。だが、
「甘いっ!」有無を云わさず吠える惣流アスカ。伸ばした指先をびっとシンジに突きつける。
「人類の存亡がかかってるのよ。恥ずかしいなんて、そんなこと云ってる場合じゃないでしょう?!」
 いやでもそう云われてもそのジンルイノソンボーっていうのがイチバン実感なくて。と云いたいところだったが、惣流アスカの剣幕からしてそんなことを口に出そうものなら恐ろしい結果になりそうだった。やむなく「ゴメン」ととりあえず謝ってみる。
 だがそれが惣流アスカには気に入らないようだった。宝石の碧い眸がぎらりと怒りと軽蔑を映し込んむ。
「ゴメン、じゃないわよ。ホントに悪いと思ってるの?」
「ゴ、ゴメン」
「ホラ、また謝る! まがりなりにもあんたは3rd Childrenなのよ? 少しは選ばれたパイロットとしてのプライドってものを持ちなさいよ!!」

 とはいえ、あいにくそんなものはさっぱり持ち合わせていない碇シンジがそういう自覚に目覚める余裕があるわけもなく、何度繰り返しても状況が好転する兆しは一向に見えないままだった。

「こんなヤツに合わせてレベル下げるなんてできるワケないでしょう?!」吠える惣流アスカ。
 でも。モジモジ。そんなこといったって。モジモジ。恥ずかしいものは恥ずかしいし。モジモジ。と碇シンジ。
 しかたないわねぇ、とミサトはため息をついた。

「十五分休憩。もう一度同じ順番で合わせるわよ」





”で、結局誰との組み合わせになりそう?”
「まだ何とも云えないわ」
 夜の帳をヘッドライトで切り裂き、Nerv本部へ向かうアルピーヌ・ルノー。片手で巧みにそのハンドルを操りながら、ミサトは携帯電話に向かってタメイキを吐いた。子供たちは未だ葛城家で訓練続行中だが、作戦部長としては四六時中張りついているわけにもいかない。決戦当日までにやるべきことが山のように残っているのだ。本部ではあれやこれやの案件を抱えた部下たちが、ミサトが来るのを首を長くして待っている筈だった。
「マリエはまず振りを憶えてくれなきゃハナシになんないし。レイは体力不足に加えてアスカとの相性がねぇ」
”シンジ君は?”
「リズム感は悪くないみたいだから可能性としては一番だけど、問題は本人があのシチュエーションに慣れるかどうかかしら」
”どういうこと?”
「恥ずかしがっちゃって、もう。周りがオンナノコばっかりだから、すっかり舞い上がっちゃってるわ」
”なるほどね”受話器の向こうで赤木リツコが笑いを噛み殺しているのが手に取るように分かった。アンチクショウ、ヒトゴトだと思いやがって。
”でも慣れてもらうしかしようがないわね。それに男の子の候補者は彼一人きりなんだから”
「笑ってないで、リツコも何かいい方法がないか考えてよ」
”お生憎様。児童心理学は、専門外よ”





 目覚めはサイアクだった。
 しとしとと雨が降る中、何処かの墓地で誰かの葬儀に参列している夢だった。まだ小さな自分は手を引かれ、深く掘られた墓に安置された棺を見つめていた。
 ばさり、ばさり、と音がするたび棺は土に隠れていき、やがてすっかり埋もれてしまった。
 どこかで見た事のある女が、目の前でハンカチで目元を押えて泣いていた。
”偉いのね。でも我慢しなくていいのよ、泣いていいのよ”
 へんなことをいう女だ、と思った。どうして泣かなきゃいけないんだろう。ママが居なくなってから、わたしにはもう死んで泣かなきゃいけないひとなんていないのに。
 そのとき、ようやく気付く。
 ああ、そうか。これはあの時の夢だ。ママのお葬式。
 どのくらいぶりだろう、この夢を見るのは。ずいぶん見てなかったような気がする。
 わたしって冷たい娘なのかな。あんなに大好きだったママなのに。
 ばさり。ばさり。背後で土が掛けられる音が続いていた。いつまでやってるんだろう、と振り返った瞬間、見上げた頭上から黒くて恐ろしくでっかいものが自分を飲み込もうとしていた。悲鳴を上げて逃げようとした瞬間、ぱちりというカンジで目が覚めた。
 なんて夢、と思う間もなく、視界が暗くてむわっとしたモノにすっかり被われているのに気付いて、惣流アスカは恐慌に襲われた。ぎゃっと声を上げて夢中で飛び起きると、顔を被っていた毛布と一緒に華奢な身体がごろりと転がった。

 平たいおナカ丸出しで、綾波レイがすやすやと寝息を立てて眠っていた。

 またか、このオンナは。
 思わず拳を握り締める惣流アスカ。昨夜は防護壁代わりにムリヤリ帆足マリエを泊まらせておいたというのに。だが当の防護壁はすでにカゲもカタチもなく、台所のほうから軽快な包丁の音が聞こえてきていた。
 マリエの早起きを失念していた自分の迂闊さを呪ってももう遅い。鳴り出す前の目覚ましを渋々止め、惣流アスカは止む無く寝床から這い出すことにした。



 リビングに足を踏み入れると、不思議な匂いが嗅覚をくすぐった。
「あ、アスカ。おはよう」マリエがエプロン姿で迎える。寝た時間はそうは変わらないはずなのに、綾波レイの寝相に叩き起こされた自分とは正反対のさわやかな笑顔。シャワーまで浴びたようで、その長い髪にはしっとりと濡れた様子すらあった。
「朝ごはん、できてるから」その言葉に食卓を見ると、伏せられた茶碗に惣菜の数々。ほうれん草のおひたし。豆の煮物。シャケと思しき焼いた魚の切り身。漬け物の盛られた皿。それは紛れもなく日本の朝の食卓だった。大皿に盛られた生野菜がようやく昨日の食卓を思い出させるくらいで、生卵の椀を見てアスカは身の毛がよだつ思いがした。
 惣流アスカの視線に気付いたのか、「ごめんね」とすまなそうにマリエ。
「あんたいつから和食党になったのよ?」
「そうじゃなくて、昨日はアスカの好きなものにあわせてたけど、今日は綾波さんの日」
「ファーストの?」
「そ。綾波さん、こういうのが好きだから」
 ふうん、とは返事をしたものの、なんとなく面白くない。付き合いは私との方が全然長いはずなのに、なんであんなオンナの好みを優先するんだろう。まぁ、そういう気の使い方がマリエらしいと云えば云えるのだが。

 惣流アスカからすると、帆足マリエはナゾの人物だ。いや、素性がナゾなのではなく、そのナカミがナゾなのである。
 どうみてもお人好しの体力バカにしか見えない。いつもニコニコしていて、お節介なほどの世話焼き。勉強が苦手で成績が悪いくせに他人の気持ちにはひどく敏感で、気を回すのが上手だ。頭を使うことより体を動かすことが好き。そして家事全般に長けていて、信じられないくらい料理がうまい。
 惣流アスカは料理が出来ない。というより、やったことがない。
 理由はカンタン、かつて惣流キョウコ・ツェッペリン博士が作成したパイロット養成マニュアルの訓練項目に、裁縫躾炊事洗濯掃除の文字が、きれいさっぱりただの一文字も書かれていないからだ。さしもの惣流アスカも、やったことがないものまでその場でホイホイできてしまうほどの才能の持ち主、というわけもない。だいたい惣流アスカは努力型の天才であって、その人一倍優れた集中力と根性を持ってしてその地位を自分のものにしてきたのだ。
 しかも、そんなものは専門のヘルパーなりなんなりに任せてしまうものだ、という認識が頭から出来上がっている。なんで日本人は何でも自分でやりたがるのかしら、と兼ねがね不満にすら思っているほどだった。
 なにより、帆足マリエとは年期が違う。
 帆足家のアルバムには、既に五才にして自分の刻んだ玉葱が目にしみてびーびー泣いているマリエの写真が残されている。なんとなれば、白くほっそりしたその腕や指には、包丁の切り傷や火傷の跡が目立たないなりにも何箇所も残っているのだった。幼少のころから料理に親しんできた洞木ヒカリも同様であろう。ローマは一日にしてならず。料理人への道は、まこと辛くキビシイのである。
 要するに、惣流アスカがパイロットへの道を極めようとしていた間、帆足マリエはずっと料理やら掃除やらの家事にいそしんでいたわけで、これはもうキャリアの差としか言いようがない。そのギャップには埋めがたいものがある。
 なのに、そのマリエが参号機のパイロットに選ばれたことが、惣流アスカの気に障る。あの体力バカにできて、なんであたしにできないのよぅ、というわけだ。もちろん面と向かって云えることではないのだが。

 そんなアスカの思いを知ってか知らずか、マリエは小首を傾げて、
「それより、髪、梳かしたほうがいいよ。ぼさぼさだよ?」
「わかってるわよ」
 不機嫌に云うアスカにくすりと笑って、マリエはいつも通りに編んだ髪を翻して台所へと戻っていった。アスカはふと、柔らかそうに舞うマリエの髪をぼんやりと見つめた。
 もうひとつアスカが気に入らないのは、マリエのその髪だった。
 整ってはいるもののどちらかと云えば目立たない顔立ちをしている帆足マリエだが、その栗色の髪は確かにうつくしかった。緩くウェーブのかかったそれは、いかなる魔法によるものなのか、いつも艶やかなひかりを映していた。柔らかく細い毛を陽に透かせば、透明な七色の光がそこに宿るのが見えるだろう。もっとも、どういうわけだかいつもゆるく一本に編んでいるので、その光景を見られることは滅多にはないのだが。
 自分の少し赤茶けた金髪にコンプレックスを持っている惣流アスカには、それがうらやましかった。容貌の華やかさでは自分の方が数段上だという自負はあるのだが、それでもなんとなく面白くない。それは芽生え始めた女としての嫉妬なのだが、まだその自覚のない惣流アスカには漠然とした羨望としか感じられなかった。
 肩にかかった自分の髪を摘まんでしげしげと見つめたものの、それで何か変わるわけでもない。苛立たしげにぴんと指で弾いて、アスカは身仕度を整えるべく洗面所へ向かった。





 見舞いに行こう。
 最初にそう云い出したのは相田ケンスケだった。
「見舞い云うたかて、ワシらが行ってもなんも出来ることあらへんのやないか?」ジャージ少年はごくまっとうな疑問を口にしたが、相田ケンスケは俯いて細いフレームを、くい、と押し上げてみせた。
「トウジ。お前にはトモダチを思いやるキモチってものはないのか?」そうは云うが、怪しくメガネを光らせている様子からして、彼こそそれを持ち合わせているようにはとても見えない。
「シンジのヤツが学校を休んでもう三日だぞ。ここしばらく避難警報もでていないし、通常の訓練だったらとっくに出てきているはずだろ? きっと何かあったんだ」
 まぁそれは確かにそうなのだが。だが、
「ホンマは帆足が目当てなんとちゃうか?」
「断じて違うっ!」
 バレバレやないか。拳を握り心外だと主張する親友に、ジャージ少年はタメイキをつく。密かな憧れのキミであった帆足マリエが碇シンジと半同棲関係にあると聞いたその日から、相田ケンスケの様子がおかしかったのは、少々鈍感なところのある鈴原トウジでも気付いてはいた。ただ親友の行動力を考えれば、黙っていている筈もあるまいとタカをくくっていたのだが。
 とはいえ、確かに休んでいるのは気になる。それに放っておくと「碇シンジの見舞いに行かなければならない百の理由」を延々と聞かされそうなこともあって、鈴原トウジは親友の提案を受け入れることにした。


 ベルの音とともに扉が開くと、そこには見慣れた顔が二人ほどいた。イインチョこと洞木ヒカリと、「図書館の魔女」こと山岸マユミ。
「あなたたち、どうしてここに?」意外そうなイインチョの問いに、
「碇くんのお見舞い。そっちは?」とケンスケ。
「惣流さんとマリエのお見舞い」
 その名が出ると、二バカは揃ってイヤそうな顔になった。
「あの性悪オンナ、ここに住んどったんか?」
「転校してきたばっかりでよく知りもしないのに、そういうこと云うのは良くないわ」
 それは確かに正論なのだが、転校してくる前から知っていてヒドイ目に合わされたクチとしては、反論の一つもしたくなる。
「イインチョはあのオンナの本性知らんから、そないなこと云えるんや」
 その言葉にヒカリは急にムッとした表情になった。
「鈴原、惣流さんのこと何か知ってるの?」
 しもうた。薮蛇やないか。思い出したくないトラウマが脳裏に蘇って来て、やっぱ止めときゃよかったと密かに後悔したが、もう遅い。
「ま、まぁな」曖昧な答えで誤魔化そうとしたが、ヒカリの眸の色は納得できる回答をしなければ収まりそうもない真剣さを浮かべていた。
 しゃーない、こうなったらワイもオトコや。
 恥を忍んで真実を語ろうとしたジャージ少年だったが、救いの手は思わぬところから差し伸べられた。
「ヒカリさん。鈴原君とお話しがあるようなら先に行きますけど」と山岸マユミ。
「え、ちょ、ちょっと待ってよ」慌てて引き止めるヒカリ。「だって、鈴原が……」
「だから、お話しがあるなら、先に行きますけど?」言い聞かせるように繰り返すマユミ。こく、と傾げた小首とともに長い黒髪が揺れる。
「べっ」べつに、と云いかけたが、存外な自分の声の大きさに驚き、
「別に、私は、そういうつもりじゃ…………」語尾がごにょごにょと口篭り、そして赤くなって俯いてしまう。
 やれやれ、世話がやけますねぇ。
 本当ならタメイキの一つもつきたいところだったが、親友のためにそれはぐっとこらえ、ヒカリの耳元で囁いた。
”ちゃんとお話しするチャンスじゃないですか?”
 だが、
「だっ」だからそういうワケじゃなくて、と云いかけて、またしても自分の声の大きさに顔を赤くし、
「い、いこう、マユミ」俯いたままそそくさと歩き出してしまった。
 その背中に今度こそタメイキをつくと、二バカに「それじゃ」と会釈をし、マユミはヒカリの後を追った。
「なんや、あれ」きょとんとした顔のジャージ少年に、
「さあ」なんとなく想像はついたが、とりあえずケンスケは呆けてみせた。ふーん、イインチョがねぇ。
 だが、他人の色恋より自分のマドンナだ。
「行こうぜ、トウジ」まだ惚けている友人に声を掛け、目的の部屋に向かって歩き出した。




 不意にインタフォンが柔かなチャイムを鳴らした。
 体育座りで惣流アスカと碇シンジのユニゾンを見ていたマリエは、誰だろう、と首を傾げながら受話器を取る。
「はい。どなたですか」
”あ、マリエ?”
 聞き覚えのある声にマリエは面食らった。
「え。あ。ヒ、ヒカリちゃん?」
 なななななななんでヒカリちゃんがここに? 先日たっぷりと絞られた記憶が頭をよぎる。
 マズイ。この状況はゼッタイにマズイ。
 とっさにそう判断して何か言い訳しようとした、その瞬間だった。

「なにマリエ、誰かきたの?」
「帆足さん、あなたの番よ」

 その言葉に、ひっ、とマリエが顔を引き攣らせる。

 惣流アスカ。綾波レイ。

”ちょっとマリエ”はっきり分かるくらいヒカリの声が硬くなる。”今の声って惣流さんと綾波さんじゃないの? マリエ? ねぇ、聞こえてるの、マリエ?!”




 部屋に一歩踏み込むなりイヤーンなポーズをして固まっている少年が約二名。口元に拳を当てて「フケツですぅ」といいたげな顔で睨んでいる少女が約一名。顔を引き攣らせて肩を震わせているイインチョが約一名。
「ち、ちがうよ、これは……」
 今回はさすがに逃げるわけにもいかなくて必死に事情を説明しようとするシンジだったが、一つ屋根の下、レオタード姿の少女達の中にオトコが一人。事情の如何を問わず、十分に誤解と嫉妬と興味を煽るシチュエーションだった。

 この状況下における最も適した簡潔な説明を、山岸マユミがぽそりとこぼす。


「ハーレムですね」


「こ、この裏切りモン……」
「またしてもイヤ〜ンなカンジ……」
 どんな言葉ももはや二人の耳に届く様子も無い。覆水盆に返らず。オトコ同志の友情はこうしてもろくも崩れ去ったのであった。
 一方、
「マ、リ、エ?」みょーにくっきりのアクセントで洞木ヒカリが云った。にぃっこり笑ってはいるものの、額に一筋の血管。
「な、なに、ヒカリちゃん?」引きつった愛想笑いを浮かべながら、マリエ。
「これはどういうことか、説明してもらえる?」にぃっこり笑ったまま、ヒカリ。
 こ、こわいよ、ヒカリちゃん。目がマジなんだけど。
「あ、あははははははは、は、は、は」誤魔化し笑いが尻すぼみになる。もはや言い訳は不可能のようだ。
 こういうのも厄日っていうのかしら。
 できれば知らないでおきたかったその言葉の意味を、再び身を持って体験することになったマリエであった。



「そんならそうと、はよ云わんかい!」
 そんなこと云ったってその説明を聞こうとしなかったのはだれだよぅ、と云いたいところだったが、ようやく解けた誤解をこれ以上こじらせるわけにもいかなくて、碇シンジは仕方なく「ごめん」と答えた。
 丁度三時過ぎだったこともあって、片付けられていたテーブルを持ち出して来ての休憩も兼ねたお茶会が始まっていた。紅茶のポットとコーヒーサーバ、育ち盛りな胃袋のために山のように作っておいた軽食のサンドイッチの皿が並ぶ。
「で、その訓練の方はどうなの?」
 ヒカリにそう聞かれて、マリエは困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「えっと、そのー……」何か云いかけたものの、
「マリエはまず、振りを覚えるとこからでしょ」紅茶入りマグカップ片手の冷ややかな惣流アスカの言葉にマリエはしゅんとなった。
 その隣では、ものも云わず黙々とサンドイッチを頬張る綾波レイ。横からお相伴にあずかろうするペンギンの羽根をぺしっと叩いて止めさせる。当然上がる抗議の声にも顔色一つ変えない。
 その三人の様子に、ヒカリとマユミは思わず顔を見合わせてタメイキをついた。
「うまくいってないみたいですね」とマユミ。
「碇君は?」とヒカリ。
「アレが一番ダメ」ニベもなくアスカ。
「でも、音感は悪くないと思うんだけどな」とマリエ。だがその顔を惣流アスカはじろりと横目で睨みつけ、
「音痴のあんたのいうことじゃ、アテになんないわよ」
 いつもおっとりしているマリエだったが、その言葉にはさすがに気分を害したようだった。ひとが気にしてるのに。アスカったら、もう。
「アスカだって、ひとのこと云えないと思う」
 呟きは小さかった筈だが、惣流アスカの耳はそれを聞き落とさなかった。
「何か云った?」地獄の悪鬼もかくや、という低い声だったが、マリエはすまして、
「なんにも」
 惣流アスカはその応えが気に入らなかったがそれ以上何も云わず、ふん、と鼻を鳴らすとわざとらしくずずーっと音を立てて紅茶を啜った。
「ちょっとファースト。タマゴサンドばっかり食べないでよ。私の分がなくなっちゃうじゃない」
 緋色の眸が意外そうに動いた。なんだ。だってちっとも食べないから、要らないのかと思って。もぐもぐもぐ。
 その綾波レイにも劣らないペースで、ひょいぱく、ひょいぱく、とサンドイッチを口に運ぶメガネ、ジャージの二バカ。
「おー、うまいうまい」
「いつもながらいい味だしとるわー」
 いつぞやの弁当の一件を思い出させるその食べっぷりに、シンジは思わず引きつった笑いを浮かべる。
「しかし、惣流と綾波まで越してきてたとはなぁ」もぐもぐと口を動かしコーヒーで飲み下す合間に、ケンスケが云った。
「別に、越してきたわけじゃなくて、訓練の間だけだよ」
「それにしても、センセも大変やなぁ。いくら訓練や云うても、あんな性悪オンナと四六時中いっしょやなんて」
「鈴原!」
 ぽろりとこぼしたジャージ少年の台詞をすかさず洞木ヒカリが聞き咎める。
「そんな云い方、惣流さんに失礼でしょう?! 謝りなさいよ!」
 ねぇ惣流さん、と同意を求めようとしたヒカリだったが、惣流アスカの様子がおかしいのに気付いた。
「惣流さん?」
 だがその呼びかけから逃れるように、惣流アスカは顔を赤くして視線を逸らしてしまう。
 え? え? え?
 まさか、ホントに何かあったのかしら、と嫌な予感に襲われ、もう一度ジャージ少年を見ると、彼も同様にバツの悪そうな表情で視線を逸らした。
 なななななななんでぇぇ? まさかまさかまさか本当に鈴原と惣流さんって。
 自分の知らない真実を見せ付けられて、洞木ヒカリはパニックに陥った。
「ああああの、ヒカリちゃん、そういうことじゃ、なくて…………」慌ててとりなしに入ろうとしたマリエだったが、
 ぎろり。
(あんた、云ったらコロスわよ)
 手で触れられそうな殺気を孕んだ惣流アスカの視線に、ごにょごにょと口篭もってしまう。まぁ確かに、空母の上でストリップの挙げ句グーで完全に沈黙、などというのは、どちらにとってもお世辞にも誉れ高いハナシとは云えない。
 だがヒカリはその沈黙を自分の妄想への肯定と解釈した。
「ふ、不潔よ、二人ともっ!」
「ご、誤解や、イインチョ」
 十分誤解じゃないと思うけど。頬張る口を止めようともせず、思う綾波レイ。事情は知ってはいるが、止めに入るつもりなど毛頭無い。
「お二人とも、そういう仲だったんですか?」あらまぁ、知りませんでした。とマユミ。
「や、山岸まで……」絶望的な気持ちになる鈴原トウジ。縋るような視線を傍らの親友二人に送る。思わず顔を見合わす相田ケンスケと碇シンジ。でも、そうは云っても……。
(俺はヤだよ)(僕だってヤだよ)
 数瞬、無言の押し付け合いが続いたが、根負けした碇シンジが仕方なさそうに口を開いた。
「えーと、あの、その……」
「シンジ!」惣流アスカから抗議の声が上がる。
「え、でも」
「デモもストライキもないっ。あんたそれ以上云ったらヒドイわよ!」固めた拳をかざして威嚇する。
「そ、そんなこといったって」
「うるさい。黙りなさい。シンジのくせに!」
 だが、さすがのお子様もその言い草にはムッときた。
「なんだよそれ。だいたい惣流が……」
「あー、うるさいうるさいうるさいっ!」声の大きさで圧倒しようとする惣流アスカに、
「だって!」碇シンジは叫んだ。

「だって本当のコトじゃないかぁっ!」


 その瞬間、洞木ヒカリは卒倒した。

 きゃあヒカリちゃんっ、と慌てて駆け寄る帆足マリエ。
 やっぱりそうだったんですかぁ、と口元に拳を当てる山岸マユミ。
 シンジおんどりゃトモダチおもうとったのに、と胸座を掴みあげる鈴原トウジ。
 ゴメン、だから、別に、そういうつもりじゃなくて、と必死に言い訳する碇シンジ。
 ししししらないしらないあたしのせいじゃないそうよシンジが悪いのよ、とアタマを抱える惣流アスカ。
 我関せず、と惣流アスカの分のタマゴサンドをこっそりくすねる綾波レイ。
 そのレイに、皿に伸ばした羽根をまたしてもぺしっと叩かれ抗議の声を上げるペンギン。


 結局その騒ぎは、相田ケンスケの口から真実が語られるまで、十数分に渡って続いた。





「そう、そんなことがあったの」
 笑いを噛み殺すミサトに、マリエは膨れてみせる。
「でもたいへんだったんだよ。ヒカリちゃんはすっかり落ち込んじゃうし、鈴原君は全然機嫌直してくれないし」
 時計はもう夜の十一時を回っていて、ミサトは夜食のお茶漬けをいただいていた。徹夜明けにも関わらず翌日もびっちりのスケジュールで、ようやく一息ついて先刻帰宅したばかりだ。
 他の子供たちは昼間の疲れもあってもう床に就いていて、起きているのはマリエ一人だった。
「でも、いい気分転換になったんじゃないの?」
「それは、そうだけど」確かにその後、惣流アスカと碇シンジの様子が変わったように見える。
「アスカは肩の力が少し抜けたみたい。碇君もちょっと自信が出てきたみたいだし」マリエは思い出したようにくすっと笑った。
「でも、あんなアスカを見るのってはじめて。とっても楽しそう。今までは、意地張ってがんばりすぎちゃてたのに」
「そうね……」またさらさらとお茶漬けを口にするミサト。ふとその手が止まる。
「マリエ?」
「なに?」小首を傾げるマリエ。
「こっちでもいろいろ考えたんだけど」とミサトは一度言葉を切った。「レイとシンジ君の、どちらかに絞ろうと思うの」
 マリエは何も云わなかった。ただ静かにミサトの次の言葉を待っていた。
「最終的には明日の出来を見てから決めるわ。でも、もう時間的な余裕がなくなってきたの。できればもう少し様子を見たかったんだけど…………」
 マリエは自分の手元に視線を落とし「そう」と云った。
「ミサトさんがそう決めたんなら、わたしはそれでいいよ」
 だがその口調にほんの少しだけ混じる色に、ミサトは眸を伏せた。
「ほんとは、そうじゃないかな、って、思ってたんだ」
「ごめんね。参号機が間に合っていれば、マリエに任せたかったんだけど」
「そういう意味じゃないの。だってほら、わたし、ああいうの憶えるの苦手だし」
 でも、もうほとんど憶えたんでしょう。ミサトはその言葉を呑み込む。云っても詮無いことだからだ。
 気まずい沈黙が食卓に降りた。
「ミサトさん」それを先に振り払ったのはマリエだった。
「なに?」
「ミサトさんは、みんなのためにがんばってるんだから、だからなんにも気にしなくていいの。次はちゃんと任せてもらえるように、わたしもがんばるから。じゃないと……」とマリエは俯いた。
「じゃないと、いつまで補欠なのって、レイチェルに怒られちゃうもんね」
「マリエ……」ミサトは一瞬、マリエが泣いているのではないかと思った。だが顔を上げたその眸に、涙はなかった。
 その表情に、また無理をさせてしまっている、とミサトは思う。落胆してないはずがないのに。
 だが今はマリエの気丈さに応えねばならない。だから努めてごく普通の口調で訊く。
「マリエはうまくやってくれると思う、あの二人?」
 ミサトの問いに、マリエは人差し指を唇に当て、ちょっと考え込む。
「まだわかんない。わかんないけど……」
 マリエは静かに笑みを浮かべた。それは見る人を安心させるような、いつも通りのマリエの笑みだった。
「でも、きっとうまくいくと思う。だって、ミサトさんが決めたんだもの。ぜったい、ぜったい、だいじょぶだよ」





 目覚めはサイアクだった。
 何処か知らない操車場を、一人でふらふらと歩き回っている夢だった。暗い空の下、古ぼけた線路が何本も何本も絡み合い、いくつも並んでいる薄汚れた整備棟の中へと消えていた。
 見渡してみても動くものとて無い。遠くで鳴っている風の音を除けば、墓場のような静寂だけが周囲を支配していた。色彩の欠落した風景の中、自分のプラグスーツの赤だけが、不釣り合いに浮かび上がっているような気がした。
 ふとその視界の片隅に影が移った。くすくすと笑う細い声。
 追いかけようとした途端、何かが肩口にぶつかった。気付くと無数の黒い人影が視界を埋めつくして、思わずその流れに押し流されそうになる。それに逆らいながら必死にその影に呼びかける。

 まって。ちょっとまって。
 あなたはだれ? ママ? ミサト? マリエ? それとも――

 どこかでしつこくベルが鳴っていて、ともすればそれに気を取られがちになる。ええい、うるさい。見失っちゃうじゃないの。人並みにもまれながら、短く悪態をついた途端、不意に真正面にどすん、と人影が立った。なによ、コイツ、と押しのけようとした拍子に、深くかぶっていたフードがめくれて、その奥にあった顔があきらかになった。
 短く揃えた淡い色の髪。緋色の眸。

 レイチェル・イコマ。

 だがその表情を見た瞬間、思わず、ひぃっ、と短い悲鳴が喉の奥から漏れた。


 その微笑みは、今まで見たこともない悪意さを湛えていた。


 その自分の悲鳴で、惣流アスカは目覚めた。なんて夢、と思う間もなく、枕元で目覚ましがうるさく鳴り続けていた。それを忌々しげに止めると、すでに部屋に残っているのは自分だけだと気付く。マリエはともかく、あの性悪オンナにまで負けるなんて。自分で自分を責めたい気分にどんよりとなりながら、惣流アスカはのろのろと布団から身体を起こした。


「おはよう、ファースト」
 もの欲しそうに空の食卓に座り込んでいる綾波レイに声を掛ける。台所にいつもの気配が無いのに気付いて、レイに問うた。
「マリエは?」
 だが返ってきたのは餌をねだる仔犬の視線。ひもじい。お腹空いた。ゴハン、あたしのゴハンは?
 情けない色を浮かべるその緋色の眸に、惣流アスカはため息をついた。
「ああ分かった、分かったから」そんな眸で私を見たってしょーがないでしょおお。何にも出てこないってば。
「アスカ、おはよう」洗面所からパジャマ姿のミサトが出てくる。いつもの盛大な寝癖が落ち着いているところを見ると、身だしなみを整えてきたところらしい。挨拶を返すと、アスカは今度はミサトに問うた。
「マリエは?」
 だがミサトも首を横に振った。
「いないわ。部屋に戻ってるみたい」
「あいつにしては遅いわね」寝坊でもしたのかしら。惣流アスカの言葉に、
「かもね。ゆうべ遅くまで私に付き合ってくれてたから」ミサトはパジャマの上から上着を羽織った。
「ちょっと見てくるわ。あの子の父親の着替えも取ってこないといけないし」




 鏡の前に立つ。
 全身が映しこめるほどの大きな鏡。それを挟んで、素裸の少女が対峙する。
 まだ濡れている髪が透き通るような白い肌に別の生き物のように絡み付く。その滑らかな肌を滑り落ちていく水滴が床に落ちて、ぱたり、ぱたりと音を立てる。
 のびやかな肢体。ほっそりとした腕、そして白い首筋。

 それが嫌いだ。

 豊かに実ろうとしている乳房が嫌いだ。女らしい丸みをおびてきた腰が嫌いだ。体つきに釣り合わない童顔も、何もかもが嫌いだ。そして、その眸の色も。
 なにもできないわたし。自分のからだひとつ思いどおりに動かすことができない、こんなわたしなのに。
 どうしてわたしなんだろう。どうしてこんなわたしだけがおとなになっていくんだろう。
 ただ一つ、母親から譲られた栗色の髪。それに指を滑らせる。この髪、これだけがわたしがおかあさんの子供だということを思い出させてくれる。おかあさん。優しい笑み。細く白い指。あの時結ってくれた髪型を、わたしはまだしている。
 でも、それすらもあの母の狂気のしるしだったのかもしれない。幸せであったが故に、幸せ過ぎたが故に、あのひとは狂ってしまった…………。


「マリエ」


 気がつくと、背後にミサトが立っていた。慌てて溜まった涙を拭おうとしたが、優しい手に押し止められてしまう。
「マリエ」
 優しい声だった。その優しさが、今のマリエには辛かった。それを失うときがいつかくるのだと、わかっているから。
 抱きしめてくれるぬくもり。だがそれは本当は父親と、そしてこれから生まれてくるはずの幼子のためのものだ。自分がそれに甘えていい理由など無い。だがわかっているはずのなのに、それに抗えない自分がいる。うそをついて、うそをつきつづけて、それでもここに居たいと思う自分がいる。
 なんてずるいんだろう、わたしは。だって、わたしは、わたしは…………。
「マリエ」
 涙に濡れた眸で見上げると、限りない優しさにあふれた眸が、マリエを見下ろしていた。

 今だけはまだ、それにすがりたかった。





 そして音楽が終わる。

 並んで立つ二人の最後の腕の一振りが、きれいな弧を描いてぴたりと同時に止まった。

 思わず拍手が漏れる。まだ息を弾ませている二人は、戸惑ったようにお互いの顔を見合わせた。
 これでもう何十回目なのか、もう思い出せないくらい繰り返したユニゾン。その中でそれはようやく初めて、最初から最後まで二人の息がぴたりと合った瞬間だった。
「よくやったわ。アスカ、シンジ君」
 ミサトはさすがに安堵の色を隠さず云った。予想された再侵攻は明日の正午頃の見込みだ。余裕があるとは云えないが、それでも時間的には充分だった。
 そのままへたへたと床に座り込む二人に、マリエが飲み物とタオルを手渡す。それを見ながらミサトは手元の資料をめくった。
「MAGIの評価結果も九十パーセント前後で安定しているし、これでほぼ決まりね」綾波レイは八十に少し足りないくらい、体力不足で十分な回数を合わせられなかったことが祟ったようだ。マリエは昨日あたりから数値を上げてきたが、結局六十を上回れずに終わった。
 ミサトは資料を閉じ、宣言する。
「明日の作戦はアスカとシンジ君、あなたたちに任せるわ」

 綾波レイはいつも通り無表情だった。なにも云わぬまま身じろぎもせず、膝を抱えてじっと前を見据えていた。いつまでも、いつまでも。
 最初に気付いたのはマリエだった。だが言葉をかけることができずに、困惑してミサトに視線を向けた。ミサトもそれに気付いたが、何も云わずに小さく首を振ってみせた。
「十五分休憩。そのあと、アスカとシンジ君でもういちど最初から合わせて問題点をチェックして。いいわね?」

 ベランダに出ると、華奢な少女がじっと外の景色を見つめていた。何が見えるわけでもない。何を見ているわけでもない。ただ食い入るように立ち並ぶ山並みから目を逸らそうとしなかった。
 こちらに気付いている筈なのに振り向きもしない。まぁ、こいつはこういうヤツなんだけどさ。でもちょっとだけ腹が立って、わざと視界に入るようにすぐ隣で思い切り手摺りから身を乗り出してやった。
「なにむくれてるのよ、あんたは」
 緋色の眸がちらりとアスカを見た。むくれてる? このあたしが?
「そんな顔してりゃ、すぐわかるわよ」なんでもお見通しなんだから、とにやりと笑ってみせる。
 いつもと変わらぬ無表情で、綾波レイは視線を逸らした。帆足さんはともかく、なんでこの赤毛猿にまでわかったのかしら。
「取られたら取り返せばいいじゃないの。まだ時間はあるんだから」
 意外な言葉を聞いたような気がして、レイはもう一度アスカを見た。それってどういう意味かわかってるの? あなたとあたしが組むってことなのよ?
「勘違いしないで。私はただ成功する確率の高い方と組みたいだけよ。マリエが外されちゃった以上、あんたかシンジの、どっちかに期待するしかないでしょう?」
「葛城一尉は、碇君って云ったわ」
「そう云われたからって、さっさと諦めるの、あんたは?」
 その言葉にレイは眉をひそめた。ずいぶんな云い方をしてくれるじゃあない、この赤毛猿は。
「そうそう。あんただってそういう顔ができるんじゃないの」惣流アスカは悪戯っ子の表情で云った。
「いい? 私たちは世界中にたった四人しかない、選ばれたパイロットなのよ? 今度のことだって、これっきりってワケじゃない。この先もあんたには頑張って貰わなきゃならないの。だからものわかりのいいフリをして諦めてほしくないの」
 惣流アスカはその碧い眸でレイを見つめ、云った。

「忘れるんじゃないわよ。私たちはチーム。世界中からたった四人だけ選ばれた、世界最高のチームなの。それを、よく憶えておきなさい」





 その夜、ふと目が覚めた。
 シンジはそんなに眠りが浅い方ではないので珍しいといえば珍しい。ひょっとして明日の決戦を控えて、少し神経が高ぶっていたのかもしれない。
 寝返りをうってはみるが、それで去っていってしまった眠気が戻ってくるわけもなく、しばらくの間ただぼんやりと薄暗い天井を見上げていた。
 そのときだった。ふと、リビングの方でなにか物音が聞こえた。なんだろうと思って耳をすますと、とん、とん、ととん、とん、とステップを刻むような音。
 ステップ?
 もしかして、とそぉっと扉に隙間を作って窺うと、やはり月明かりの差し込むリビングで弾むように踊る人影があった。ひらりと身を躍らせるたび長い髪がふわりと舞う。
 惣流アスカだ。
 シンジが戸を開けると、アスカはそれに気付いて踊るのを止めた。息を弾ませながらヘッドホンを外す。
「起きてたの?」
 シンジは首を振る。
「ちょっと、目が覚めちゃって」
「そう」と床のタオルに手を伸ばす。汗を拭きながら、「そりゃそうよね。昨夜もぐぅぐぅ高鼾だったしねぇ」
 イビキ? シンジはちょっと驚く。僕イビキなんてかいてたかな?
「でもなんで知ってるの?」と云ったところで、ようやく気付く。「ひょっとして、昨夜も?」
「そうよ」アスカはこともなげに云った。「後悔したくないもの。できることはなんでもやっておきたいの」
 その真剣な答えに、やっぱり惣流ってスゴイなぁ、とシンジは他愛もなく感心したが、
「なんてね」と小さく舌をだすアスカに、きょとんとした表情になった。
「ホントいうと、なんか眠れなくって。落ち着かないのよ」
「惣流が?」意外な気持ちがして聞き返したが、
「なによ、悪い?」
「い、いや、そういうワケじゃ、なくって……」不機嫌そうな返事にもごもごと口篭ってしまう。
 だがアスカはそれ以上何も云わず、ふっ、苦笑を漏らした。
「あんたって、ホントにハッキリしないのね」
「ゴ、ゴメン」
「ホントに悪いと思ってるの?」だがそれは昼間のそれと違って、からかうような悪戯っぽい響きがあった。
「う、うん…………」
 その曖昧な返事に、あろうことか惣流アスカはくすくすと笑った。
「あんたって、ホントにマリエにそっくり」
「帆足さんに?」
「そ」
「そうかなぁ」
「そうよ」そういいつつ冷蔵庫を開くと、何かの飲み物の缶を取り出した。
「あんたも呑むでしょ?」
 その言葉とともに差し出されたのは、云わずと知れたミサト愛飲の缶ビールだった。いつぞやの醜態の記憶が蘇って来てシンジは躊躇した。
「で、でも、僕たちまだ中学生だし」
「誰が見てるわけでもないでしょ? いいから付き合いなさいよ」さっさとプルトップを引き、ぷしっ、という小気味いい音を立てる。月明かりの中、少女の白い喉がこくんこくんと動くのを見て、仕方なくシンジも缶を開けて一口含んだが、たちまち渋面になった。
「苦い」
「あんた、ひょっとしてビールはじめてなの?」呆れたような声にこっくりと頷く。
「ミサトと住んでて、今まで一度も?」
「この間、ワイン呑んだのが、初めてだったから」
「やだ、早く云いなさいよ」
 自分で勝手に押しつけておいて、と云おうと思ったが、それより先に白い手が伸びて来てシンジの手から缶を取り上げた。
「だったら、わたしがもらうね」
 びっくりして声の方を見る。
「マリエ」
 いつの間に起き出して来たのか、いつもの部屋着に肩からショールを羽織ったマリエが微笑みながら立っていた。
「話し声、聞こえたから」そう云って缶に口を付ける。そのままあおると、こくこくと一気に呑み干してしまった。
「ミサト譲りね」ぼそり、とアスカがコメントする。
 だがマリエは気にしたふうもなく、ぱたぱたと窓際に歩み寄った。
「月が、きれいだねぇ」
 アスカとシンジも、その言葉に視線を窓にやった。窓際ではないからそのものは見えないが、その冴えた光と兵装ビルに映る姿は確かに美しかった。言葉もなく、しばしその光景に見入る。
 不意に、マリエが口を開いた。
「五日間、なんか楽しかったよね」
「なに云ってるのよ、急に」
「でも、アスカも楽しそうだったよ」
 図星を突かれて、アスカは口篭った。
「ま、まぁね」
 窓を背にマリエは振り返ると、云った。

「ね。わたしたち、これからもうまくやっていけるよね?」

 月明かりの影になって表情ははっきりとは見えなかったが、言葉は確かに届いた。思わずアスカとシンジはお互いの顔を見合わせた。
「あ、当たり前じゃないの」
 だって、と言葉を接ごうとしたが、適当な言葉が思い当たらずアスカは少し口篭った。
「だって、」もう一度惣流アスカは云った。


「だって私たちは、世界最高のチームなんだから」





 目覚めは最高だった。
 静かな湖底から浮かび上がるようにすぅっと意識がもどり、何の抵抗も無く瞼が開いた。眠気は拭い去ったようにきれいに消え失せていて、目覚めた瞬間から体中すべてに漲るような力が溢れていた。
 夢は、見なかった。
 扉を開けると、ここ数日体に馴染んだ朝の匂いがアスカを包む。
「おはよう、アスカ」帆足マリエのいつもの微笑み。
 見ると、食卓にはすでに碇シンジと綾波レイが揃っていた。自分が一番最後だったらしい。でも今日はそんなことは少しも気にならない。
 挨拶を交わし食卓につくと、ふと碇シンジの緊張した眸と視線が合った。自信満々とまではいかないが、それでもその眸はもはや不安げに揺らぐことはない。
 そして綾波レイ。緋色の眸が、負けたら承知しないわよ、と云っているような気がして、惣流アスカはその眸ににっと笑ってみせた。
 分かっている。今日は決戦だ。


 最高にいい気分だった。





”目標、強羅絶対防衛線を突破。現在山間部を本所に対し侵攻中”
 オペレータの報告が響く。その声に、発令所はいつもにもまして緊張の度を高めていた。
「さぁて、おいでなすったわね。今度はぬかりないわよ」
 舌なめずりしそうなミサトの台詞。だがそれには十分過ぎるほどの自信が込められている。何しろ、今回はほぼ相手の手の内が見えているのだ。不確定要素は残っているものの、それでもこれまでの戦いに比すれば圧倒的に有利だった。あとはこちらの戦力が訓練通りの力を十分に発揮してくれればいい。
「アスカ、シンジ君。音楽スタートと同時にATフィールドを展開。最初から出力最大でいくわよ。あとは作戦通りに、いいわね」
”了解”二人の返事がぴたりと重なる。
”目標は市街地に侵入。ゼロ地点”オペレータが作戦開始地点に達したことを告げる。
「外部電源、パージ」ミサトの低い声。モニタの中でアンビリカルケーブルがエヴァの背から切り離される。
「エヴァ両機、発進」

 拘束を解かれた電磁カタパルトが火花を散らしながら凄まじい推力で巨体を弾き出した。

 そして音楽が始まる。

 エヴァ初号機、そして弐号機が射出口から同時に中空に舞い上がった。

 碇シンジ。惣流アスカ。

 その最初の腕の一振りは、見る者にため息をつかせるほどの、きれいなシンクロを見せた。

 中空から放たれた二本のスマッシュホークが、狙い誤たずものの見事に使徒を真っ二つに切り裂いた。だが次の瞬間、使徒は見る間に分離形態に変化する。
 着地した二機のエヴァは、それぞれの着地地点に射出されたパレットライフルとポジトロン砲をひっつかんだ。分離した使徒が急速接近。それを牽制するように兵装ビルで身を隠しながら弾幕を張る。
 接近できないと見た使徒は、その無気味なマスクから光条を放った。着弾に火柱が上がる。とっさにライフルを捨て、一転二転して初号機と弐号機はそれを躱した。
 地面に設置されたスイッチを踏むと、巨大な遮蔽板が地面から射出された。その遮蔽板で使徒の攻撃をやり過ごすと、再びパレットライフルで応射。だが二体の使徒はそれを避けるように地面を蹴って身を躍らせた。着地と同時に遮蔽板をその鋭い鉤爪で引き裂く。左右に逃げる初号機と弐号機。
「掩護射撃! 弾幕張って!」ミサトの鋭い指示が飛ぶ。それに応えて周囲の兵装ビルから無数のミサイルが放たれた。無数の火球が使徒を呑み込み高々と爆炎が立ち昇った。数瞬、二体の使徒の姿がその中に溶け込む。
”今よっ!”マイクから弾けるような惣流アスカの声が響いた。
 寸分わぬタイミングで二体のエヴァは大地を蹴った。中空高く舞い上がり流れるような身のこなしで、紫と赤、二つの矢のように蹴りを繰り出す。
 次の瞬間、爆煙が晴れる。その向こうで二体の使徒が再び一体に戻ろうとしていた。その重なり合おうとする直前の、赤々と光る二つの球体。それに二色の矢の先端が突き刺さった。勢い余った巨体がビルを薙ぎ倒し、凄まじい勢いで周囲の山麓を駆け登っていく。
 滑らかな球体の表面が粉々に砕け散り、そして猛烈な光が辺りを包み込んだ。





 兵員輸送車に乗り込んだところで、シンジは先客に気付いた。赤い金髪が揺れ、碧い眸がシンジを見上げる。
 惣流アスカ。身体をくるむ毛布をくいと胸元に引き寄せ、わざとらしくそっぽを向く。
 やっぱり、怒ってるのかな。そんな気がして迷っていると、
「なに突っ立ってるの。さっさと座ったら」ぶっきらぼうな口調。だが、思いのほか気が抜けたその声に、シンジはおずおずとその隣に腰を降ろした。
 横目でちらりと窺うと、アスカは顔を背けたままだった。やっぱり、怒ってるのかな。そう思った時、
「最後の着地の時、タイミング外したでしょ」
 それは、いつものような責める口調では無かったが、
「ゴ、ゴメン」思わずそう答えてしまう。
 もう、と小さな呟き。「ホントに悪いと思ってるの?」
「うん…………」
 その言葉に、惣流アスカの唇から小さなため息が漏れた。
「まぁいいわ、勝ったんだし。シンジにしては上出来だったし、ね」
 なんだよその云い方、とシンジは思わず言い返そうとしたが、不意にこつんと肩に当たる感触を憶えて戸惑った。
 すぅ、と小さな寝息が漏れる。

 惣流アスカが肩にもたれ掛かって眠っていた。

 シンジは云いかけていた言葉を思わず呑み込んだ。なんだか落ち着かない気分になって、少女を起さないようにそおっと身じろぎする。
 疲れてたんだろうか。多分そうだろう。惣流だけはずっと休み無し訓練してたから。
 そう思った途端、シンジも急に目蓋が重くなってきたような気がした。そうだ、そういえば僕もここ二日、あんまり寝てなかったんだっけ。
 目を閉じるとすぐに穏やかな疲労のベールがシンジの身体を包み込んだ。頬にあたる柔らかい少女の髪の感触が、気持ちいい。
 上出来、か。最後に云われた言葉を反芻しながら、シンジは優しい眠りの淵に意識を沈ませていった。






The End of Episode9.


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ver.-1.00 1999_09/06公開
ご意見・ご感想は
ryu1@imasy.or.jp まで
Next Episode is "MAGMADIVER"

 米第一支部からエヴァ参号機が届く。その圧倒的な力に人々は息を呑む。
 一方、三原山で孵化寸前の使徒が発見される。初の捕獲作戦を敢行するネルフ。
 灼熱の溶岩の中に彼らの見たものは。


第拾話、「マグマダイバー」





Appendix of Episode9.

「で、結局アスカとシンジ君の組み合わせなのね?」
「なぁに? 何か云いたげじゃないの」
「いいえ。ただ、ずいぶん手の込んだことをした割には、あまり意外性のない結果だと思っただけ」
 そう云いながら、リツコはPDAを取り出し何事かを書き込む。
「こんなことなら、もう少し票を分散させておくべきだったかしら。これじゃあ大した取り分にならないわね」
「…………なにやってるのよ、アンタは」
「アスカと誰が組むか、ちょっとみんなの意見をね。あら、ミサトも一口乗ればよかったのに」

「あんたねぇぇぇっ!」





 斎藤さんの『EVANGELION「M」』Episode 9.後編、公開です。







 特訓の日々を経て、
 経て経て経て(^^)

 見事な勝利です〜



 みんな集まっての合宿−−

 争ったり
 話したり
 ふれあったりで

 いい刺激になって・・

 今回の経験は
 この戦闘だけでなく、
 この先ずっと生きるものになりますよね☆








 ハーレム構築に向け、がんばれシンジ(笑)





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