TOP 】 / 【 めぞん 】 / / [齊藤りゅう]の部屋 / NEXT

  


Episode 7. A HUMAN WORK



「例のサンプルはどうなっている?」
「すべてNervに独占されているよ。再三再四公開を迫ってはいるが、反応は相変わらずだ」
「で、散々突ついた挙げ句、出てきたのがこれか」
 ばさり、と机の上に投げ出された資料。ほとんどが黒く塗りつぶされ、およそまともに読むに値するとは思えない。
「馬鹿にするにもほどがある。一国を相手にする態度ではないぞ」
「これ以上あの連中の好きにさせるわけにはいかん」
「しかし、奴等は超法規措置で保護されている。迂闊には手は出せん」
「とはいえ、交渉の余地が無いわけではない。少なくとも冬月はそれほど話の分からぬ男ではない」
「なにを云う。それで出来たのがこれか? とても協力的とは思えんな」
「法的整備は進めているが、進捗は思わしくない」
「このままでは、手柄は全部補完委員会に持っていかれるぞ」
 焦りを帯びてきた合議の中、それまで黙っていた男が不意に口を開いた。
「ならば、相手に譲歩させればよろしい」
 長身を窮屈そうに椅子にねじ込み、ぎょろりとした光の強い眸で周囲をねめつける。
「時田君、簡単に言ってくれるな」
 だが時田は事もなげに答える。
「あの適性体を迎撃できる力を持っているのが自分達だけでないことが分かれば、彼らも少しは態度を軟化させるでしょう」
「君のところのアレかね?」
「確かにアレが完成すれば、奴等だけに大きな顔をさせておくこともあるまいが」
「しかし、まだ試作の段階なのだろう?」
「公試運転の計画書は、すでに先の予算委員会で了承されています。完成度からすれば直ちに実戦投入も可能でしょう」時田は胸を張る。
「だがサンプルはどうする」
「そうだ。ATフィールドが手に入らなければ、あのNervの決戦兵器に先んじることはできんぞ」
「御心配なく。サンプルについては、別ルートから近日中に入手できる手はずになっています」
「あの男からかね」あからさまな不信の声。
「どうも胡散臭い。あれもNervの人間なのだろう? 本当に信用に足りる人物なのか?」
「大丈夫です、私が保証しますよ。それに必要とあらばこちら側に引き込むつもりです」
「だが、それではNervを敵に回すことになるぞ」
 その声に含まれた脅えに、時田は表情を変えずに思う。俗物どもめ、と。
 あれだけNervの横柄さを非難しておきながら、それに楯突く勇気も持ちあわせていない。結局利権のことしか頭にない連中なのだ、こいつらは。
「それだけの人物ですよ、彼は。彼の功績は、皆さんもご存知でしょう?」
 数人が唸り、そして沈黙する。
 その彼らに、そしてこの中にいるであろう内通者に、時田は言い放つ。
「人類の存亡は我々自身の手にあるべきです。Nervだけの好きにはさせませんよ」




 このごろ帆足マリエの様子がおかしい。
 いかにもノーテンキそうににこにこしているのはいつものことだが、それに加えて時折漏らす含み笑いが、周囲の人間を気味悪がらせていた。そりゃそうである。ひとりで理由も無くくすくす笑っているという図は、見ていてキモチのいいものではない。幸せ過ぎてどっかイッっちゃってる人か、よからぬ企みを巡らしている小悪党くらいなものだ。およそまっとうな人間のすることではない。
 いきおい、授業も今まで以上に上の空で、毎度のイインチョのお説教も、馬耳東風、糠に釘。その度洞木ヒカリは頭を抱え、山岸マユミは深い深いため息をつく、という光景が日常のこととなりつつあった。

 今日も今日とて、昼休み。いつもの木陰で昼食を広げながら、いつもより当社比三割増しは上機嫌なマリエを挟んで、半ば呆れ顔のヒカリとマユミが座る。
「どうしちゃったの、マリエ。最近ヘンだよ?」いい加減説教疲れしてきて、そろそろ根本的な原因の究明に乗り出そうとするヒカリ。だがその言葉にも
「そう?」と、にこにこ顔のマリエ。「別に何でもないけど?」
「でも、とてもそうは見えませんけど」とマユミ。
 どこかで聞いたようなやり取りだが、大きな体を小さくしていた前回と違って今のマリエは誰がどう見ても幸せそうに見える。もっとも、端で見ていて目を合わせないようにしたくなる類の幸せさだったが。
 とはいえ、一応トモダチである以上目を合わせずに済ますわけにもいかない。洞木ヒカリも山岸マユミも、それくらいのトモダチ甲斐は持ち合わせている。
「なにかいいことでもあったんですか?」まっすぐな黒髪をさら、と揺らしてマユミが首を傾げる。その途端、にまぁぁぁっ、とマリエの表情がとろけた。
 思わず引くヒカリ。三十センチは後ずさったか。さしものマユミも気味悪そうに顔を顰める。
 美人というほどではないにせよ、なまじ整った顔が笑い猫のように崩れるといささか不気味だった。顔立ちに残った幼さでなんとか愛敬にも見えないことはないが、それでも知らない人間が見れば、そそくさとその場から立ち去ることうけ合いだ。
「な、なにかいいことでもあったみたいね」やっとの思いでそれだけ云うヒカリ。
「えー、そうかなぁ」
 丸分かりですよ、と云いかけてマユミはやはり思いとどまる。なんだか何を云っても相手を喜ばせるだけのような気がしてきたからだ。
 みればヒカリも同様な視線を送ってくる。

 だめだわ、コリャ。どっかイっちゃってるわね。
 放っておきましょう。ちょっと不気味ですけど。

 ナントカにつける薬はない。眸だけで会話を交わした二人は、心優しき友人の更生を祈りつつも、とりあえず今は目の前の昼食を済ませることに集中した。



 そのやりとりを屋上から見るとも無しに眺める、ジャージ、メガネ、お子様の面々。誰が呼んだか三バカトリオ。
「どないしたんや、帆足のやつ。最近やけにご機嫌やなぁ」
「う、うん……」ジャージ少年の疑問に、曖昧に答える碇シンジ。やけにご機嫌、とはずいぶん控えめな言い方だと思う。学校でのマリエはまだマシな方だからだ。
 さては前回の戦闘で熱にあてられて、もとから緩みがちだった頭のネジが本格的に緩んだか、と思わないでもないシンジ。自分だって同じ目に合っているのだから、それくらいのことは考える権利はある筈だ。さすがに口に出すのは憚られるのだが。
 もっとも実際のところ、碇シンジは帆足マリエの異常なまでの躁状態の理由を知っている。口に出さないのはそれが彼自身にも無関係ではなくて、しかも決して楽しい類の話題ではないからだった。
 考えても仕方ないことなのだが、だからと言って気が晴れるわけでもなく、いつもより鬱陶しさ三割増量な表情で、ご飯と惣菜が別の箱に詰められているという二段重ねの弁当箱を開く。
「おおっ、今日はまた一段と豪華やな」鈴原トウジの文字どおり垂涎の眼差し。
「いつもいつも誰が作ってるんだよ」問い詰める相田ケンスケのメガネが怪しく光る。
 どう見たって手作りの愛情弁当。それもハンパな愛情ではない。俺たちゃ毎日相も変わらず購買のパンだってぇのになんでてめぇだけ、というやっかみがたっぷり入った視線が、厳しくシンジを責め立てる。ここ数日ずっとこうだ。
 そう云われても、その愛情が別に自分自身に向けられている訳ではないのをよぉく承知している碇シンジとしては、とんだとばっちりだった。いやじつはこれこれこういうわけで、と事情を説明したいところだったが、今だなんとか隠し通している半同居の事実がバレた日には、さらに厳しい追及が待っているのが目に見えている。
 しかたなく、ははは、と乾いた笑いで誤魔化しながら箸をつける。だが、どんなに美味だろうと二対の飢えた視線が注視する中ではまともに味わえる訳も無い。
「た、食べる?」
「ホンマか? いつもすまんなァ」全然すまないと思っていなさそうなジャージ少年の言葉と共に、しっかり用意してあった割り箸が、おずおずと差し出された弁当箱へ遠慮無しに伸びる。ひょいぱくひょいぱくと消えていくその素早さに、昨日よりは残ってくれますように、密かに祈るシンジ。漬物だけで食べる海苔ご飯は味気ないことこの上なかった……。
「おー、うまいうまい」
「いつもながらええ味だしとるわー」
 作った本人に聞かせれば飛び上がって喜ぶ台詞だったが、正直に伝えようものなら、「じゃぁ、相田君と鈴原君の分もねっ」と二人分の弁当まで持たされかねない。オカズくらいですむのならガマンしよう、という気にもなる。
 とはいえ、これが続くようだとカラダはともかく神経が持ちそうにない。なんでもいいから早く昔の帆足さんに戻ってよぅ、と内心半泣きな心境の、最近の碇シンジなのだった。




 一方、二人の保護者である葛城ミサトは深刻な事態に陥っていた。
 それはある一連の数値の増加であり、あるいは別な数値の急速な減少である。
 あれほど高カロリーな飲料を毎日大量摂取しているにもかかわらず、じゅうぶん二十代前半で通るその体型は、本部では「奇跡」と呼ばれている。密かなファンも多い。だが、さしものその奇跡の体型も、ここ数日少しずつその牙城を崩されつつあった。
 それに加えて、最近のエンゲル係数の急激な伸びは目を見張るものがある。
 年齢に比すれば高額だが、責務からすると意外に薄給なミサトの懐は、ただでさえペンギンとクルマにかかる費用で心もとなかったのだが、最近は出費リストに碇シンジが追加されたことによって、その涼しさは決定的なものになっている。
 それに追い討ちを掛けるような、食費の増加だ。さすがに帆足マリエの分は父親からの仕送りで賄っているのだが、それにしても最近の使い方はハンパではない。
 本日朝風呂後の体重計の数値に愕然とし、ついでにATMの残高明細にまたしても愕然としたミサトなのだった。

「いいじゃないの、毎日こんなにいい食事ができて」
 だから、そんな他人事な赤木リツコ博士の台詞に、女性のものとしてはいささか多すぎる弁当を憮然とした表情でつつくミサトの眉がぴくりと上がる。本当にそう思ってるんだったら、こっちのオカズに箸を伸ばすのはやめてよね、リツコ。
 昼時を大分過ぎたNerv本部食堂。発令所を交代要員に任せて、正規メンバーは遅い昼食をとっていた。一応は待機中ではあるのだが、だからといって暇な訳でもない。ミサト率いる作戦部は過去の戦闘データを元に数十パターンある戦術の再検討、リツコをはじめとする技術部はエヴァの整備と実験とに追われる。その時間をぬっての食事。こうして皆が顔を合わせるのはそうそうない。筈だった。
「少しは同情してくれたっていいじゃない?」
「あら、私たちはちっとも構わないわよ」ねぇ? と傍らの女性オペレータに同意を求めると、童顔がにっこりと微笑み「すっごくおいしいですぅ」と無邪気な返答を返す。
 やっぱりそれが本音か。ミサトは割り箸をへし折れんばかりに握り締めた。一昨日あたりから妙に皆と食堂で顔を合わせるようになったと思えば、案の定これだ。昨夜の残り物なのだから味だって落ちているし、衛生上にも多いに問題あるはずなのだが、それもかまわず舌鼓をうつ二人。アンタ達、普段ロクな食生活してないでしょう、というのがバレバレだった。
 だが視線を隣に移せば、独り者の視線がやはり広げられた弁当箱に注がれている。青葉君、日向君。欲しいなら欲しいって、素直に言ったほうがいいわよ?
 それにしても人類の存亡をかけてるんでしょう、ココ? なのにこれじゃあ、あんまりにもセコ過ぎると思わない?
「明日からお金とろうかしら」
 自分の方が余程セコい台詞をぼそっと呟くミサト。確かにもてあましがちな量ではあるが、その材料費の大半が自分のなけなしの懐から出ていると思えば、他人の口に入るのは少々シャクだった。
「それにしても、マリエちゃんもよくこれだけ作れますねぇ」
「ま、ね。あの子の唯一の趣味みたいなものだし」そういいつつ、最近レパートリーに追加された里芋煮を仕方なさそうに口に放り込む。むむ、鰹と昆布のダシが絶妙。と舌は喜んではいるものの、掛かった原価を考えると素直には味わえない。
「でも、今までは食堂の定食でしたよね。なんで最近は弁当になったんですか」と眼鏡の男性オペレータが訊く。その言葉にミサトはため息をついた。
「帆足一佐が、ね」
 その名が出た途端、一同の表情に納得と戸惑いとが混じった。
「ああ、もうすぐでしたよね」と女性オペレータ。「でも、それと何か関係があるんですか?」
 ええ、大ありですとも。
 事情を知っていて笑いを噛み殺している約一名に、こっそりテーブルの下で蹴りを入れながら、ミサトは事情を話し始めた。
「実はねぇ……」



 ことの発端は一週間ほど前に溯る。


 夕食後の葛城家の食卓。
 ようやく先の戦闘の後始末の手配やら報告書書きやらが終わり、のんびり晩酌をするミサト。シンジは食後のお茶など啜りながら、ぼんやりとテレビを見ていた。マリエは台所で後片付け。
 リビングの電話が鳴ったのは、お茶をもう一杯、とちょうどシンジが席を立ったときだった。ミサトのビール片手のお願いポーズに促され、シンジは受話器を取った。
「はい、葛城です」ようやく慣れてきた名字を名乗る。
”おっ?”電話の向こうでちょっと驚く気配があり、間違い電話かな、とシンジが思ったとき、
”ああ、君がシンジ君か”
「はぁ?」いきなり自分の名前を呼ばれて戸惑うシンジ。
”ああ、すまんすまん。俺は帆足。娘がいつも世話になってるそうだな”
「はぁ」と答えたものの、お世話している娘ってだれだっけ、と咄嗟に思い出せずにいると、
”すまんが、マリエを頼む”
 あ、そうか。帆足さんのお父さんだ。
 ようやく合点がいく。受話器を保留にすると、台所のマリエを呼んだ。
「帆足さん、電話。お父さんから」
「へ?」ひょこっと顔を出したものの、意外そうな表情。手を拭き拭き受話器を受け取る。
「もしもし?」
 話しながら、ちら、とミサトに視線を向ける。ミサトが頷くのを確認すると、コードレスの受話器を持ったまま、今は使われていない客間に姿を消した。
「珍しいですよね、帆足さんに電話なんて」元の椅子に戻りながら、シンジ。
「そうね。あのコ、電話が苦手だから」そう云ってビールの缶を傾けるミサト。
「そうなんですか?」オンナノコと云えば、ケーキ長風呂長電話。という妙な偏見が出来上がっている碇シンジは意外な思いで聞き返した。
「ま、ね。いろいろあるみたいで」その理由をミサトが知らない筈はないのだが、あえて答えないのならば無理には訊くわけにもいかない。シンジがそう思ったときだった。
 客室のほうから「ホント?!」という叫びが聞こえたかと思うと、どだだだだっ、という足音とともに栗色の髪の弾丸がリビングに駆け込んできた。
「ミサトさんっ!」
「な、なに?」満面に喜色を湛えたマリエに受話器を押しつけられて、ミサトは戸惑った。
「いいからっ」促されて渋々受話器を耳に当てる。
「もしもし?」
 何事か話し始めたミサトを横目にマリエを見ると、両手で頬を覆ってもう今にもとろけそうな笑みを浮かべている。
「何かあったの、帆足さん?」
 シンジのもっともな質問に、緋色の眸がちら、とこちらを向いたかと思うと、次の瞬間にへらぁぁっ、と笑った。
 その異様さに思わず言葉を飲みこむシンジ。
「あのねっ」と弾んだ声。いつもおっとりと微笑んでいるマリエを見慣れているシンジは、妙に子供っぽいその仕草に、何か意外なものを見たような気がして戸惑った。
 でもそうか。考えてみれば帆足さんも僕と同い年なんだっけ。
 そう思ってなんとなく新鮮な気持ちになったシンジに、マリエは明るい声で云った。

「おとうさんが、帰ってくるんだって!」

 予想もしていなかった台詞にシンジの思考が数瞬止まった。
 えーと、帰ってくるということはつまり………。
 そのことに思い当たって、案の定、碇シンジの表情が強ばった。




 その日以来、マリエの料理にはいやに気合いが入っていて、どこから仕入れるのかほとんど毎日片手の指では足りないくらいの新メニューを披露したりする。最近は洞木ヒカリという強力な助っ人も出来たおかげで、その守備範囲を和食にも広げつつあって、種類も量も豊富、味の方も保証付き。
 それはそれでいいのだが、その大量の料理を毎度食わされる方はたまったものではない。いくら美味だからといって、入る胃袋の大きさが拡張されるわけもないのだが、期待に眸を輝かせながら「おいしい? おいしい?」を連発する少女に「もう結構」とは無下には云えず、同居人の二人は窮屈すぎる胃袋を宥め透かしつつ、泣きそうな笑顔を浮かべながら食卓に箸をさまよわせるのだった。
 しかも、努力の甲斐なく余った料理は当然次の日の弁当に反映されるわけで、そのせいでミサトとシンジはもてあますほどの量が詰まった弁当箱を毎日持参することになっているわけなのだった。

 その一方で、碇シンジの顔色の鬱陶しさが割り増しになりはじめたのも、この日からだった。
 無理もない、とミサトは思う。
 考えてみれば、碇シンジはこの家で微妙な立場に居る。今までは、付き合いは長いといえ本来他人のミサトとマリエの間だったからこそ、シンジの居場所があったともいえる。
 だが、帆足マサキが帰国すれば、男寡とその娘、そしてその婚約者、という関係に戻る。そうなれば彼の存在は本当に他人になってしまう。
 もちろん、帆足は今の葛城家の状況は知っているし、それについて異論を持っている訳でもない。もともと面倒見のいい帆足のことだから、きっとシンジのいい相談相手にもなるだろう。
 但し、人見知りの激しい碇シンジが帆足を受け入れてくれれば、なのだが。
 ようやく生活も落ちついてきて、少しずつだが心を開いてくれ始めているし、エヴァに乗ることにも以前ほどの抵抗もなくなってきている時期なのだから、あまり刺激したくないのも事実だ。間が悪いと云えば悪い。

 だが同時に、これは早かれ遅かれいつかは直面する筈の問題でもあった。
 使徒襲来によって、自分達の未来はひどく不安定なものになっている。諸々の事情で先延ばしにしてきた帆足とミサトの入籍だったが、こういう事態になれば形だけでもしておきたいとも思う。
 既に鬼籍に入っているとはいえ、帆足にはかつて配偶者であった女性がいる。その思い出をすべて拭い去れる訳もないが、今の恋人は自分であるというこだわりが、ミサトにはある。もしこのままどちらかが命を落とすようなことがあれば、自分はどっちつかずの立場で終ってしまうことになる。それはあまりにも耐え難いことだった。
 初めて写真を見たときの、あの太陽のような笑顔がどうしても忘れられない。帆足と寄り添って立つほっそりした女。綺麗だと思った。自分の容姿に自信がない訳ではない。だが、それでもかなわない、と思った。彼女の過去を帆足の口から聞いた時から、それはどうしようもなくミサトの心の中に焼き付けられてしまっている。あれほどの過去を持ちながら、どうしてこんなに優しく笑えるのだろう?
 マリエの中にその面影があまりなかったのは幸いだったと思う。そうでなければこれほどまでに自分がマリエと打ち解けることはできなかっただろう。
 それに、自分は帆足の子を産むことが出来る。卑怯だとは思うが、ミサトにとってそれは唯一彼女より勝ることだった。
 だがそのことによって、本来彼女が手にしたかったであろう幸せを、自分は一人占めしようとしている。帆足にとって彼女がどれほど大切な女性であったのかは、ミサトが一番よく知っている。だからこそ、ミサトはそういう自分を醜いと思うし、嫌悪もする。

 わかっている。それは嫉妬なのだ。

 かつて恋人だった男がどんなに移り気だったときも、一度も湧かなかった感情。それを死んだ人間に対して抱くなど、滑稽以外のなにものでもない。
 だが、それほどまでに帆足に対して愛情を感じている自分がうれしくもある。こんな自分でも誰かを愛することが出来ることが、ミサトには何よりも大切なものに感じる。その思いを無くしたくはなかった。

 しかし同時にそれは、碇シンジに無用の負担を掛けることになるかもしれない。引き取ったこと自体思慮が足りなかったと云われれば、返す言葉もないだろう。私情と任務とがぶつかり合えば、任務を取らざるをえないのが今の状況なのだ。
 零号機の大破によって、再び稼働可能なエヴァは初号機だけになっている。弐号機の配備にはあと半月以上かかるだろう。それまでは初号機とそのパイロットの状態をできる限り良い状態におくことが最優先事項だ。
  未だその心中を把握しきっているとは云いがたい少年がどのような反応を示すかは、まるで見当がつかなかった。だが少なくともシンジの最近の様子をみる限り、思わしくない結果に終りそうに見える。そうならないよう、帆足がシンジの心を捉えてくれればよいのだが。

 というわけで、恋人が帰国する喜びがない訳ではないのだが、それよりもそれとともにもたらされるであろう山積みの問題と憂鬱に、タメイキをつく毎日を送っている葛城ミサトなのだった。




 ベルの音と共に扉が開くと中にほっそりとした人影を認め、帆足マサキは小さく眉を跳ね上げた。一瞬の躊躇の後、エレベータに乗り込む。
「帰国されるそうですね」
 ぞくりとするような甘く低い声が耳朶を打った。鳶色の眸が帆足の横顔に向けられる。それを感じつつも、
「ああ、おかげさまで。近日中にはこちらを発ちます。ひとあしお先に娘の顔を見に帰りますよ」帆足は視線を返さず応える。帆足はこの女が苦手だった。
 この女の立場を考えればそれも無理からぬこと。E計画責任者として与えられている権限は本部技術部長のそれを遥かに越える。自分の立場など所詮は形だけのものだ。
 E計画。かつての半分に減ってしまい、そして今も減り続けている人類の、新しい未来を担うための計画。
 だがそれ以上のことは帆足の耳にすら入ってこない。徹底的な情報管制が敷かれ、その全容を知るものはほんの一握りだった。この女はその一握りのうちの一人だ。
 碇ユイ博士。
 Nerv本部司令碇ゲンドウの正妻にして、3rd Children碇シンジの母親。第一次適格者選抜計画の責任者でもあり、1st Children綾波レイの育ての親でもある。
 そして唯一無二のエヴァンゲリオン開発責任者。
 現存するエヴァのうち碇ユイ博士以外の手によるものは、独第二支部で建造された弐号機のみ。それも惣流キョウコ・ツェッペリン博士という得難い天才がいたからこそだ。その天才が失われた今となっては、もはやエヴァの建造を指揮できるのはこの女だけだった。
 もっとも苦手の理由はそれだけではないのだが。
 綺麗な顔に氷のような微笑を浮かべ、剃刀のように鋭い言葉を容赦なく投げつけてくる碇ユイ博士は、Nerv本部でもっとも恐れられている人物のうちの一人だった。
 碇司令も恐ろしいが、それは彼が何を考えているのかまるで読めないからだ。碇博士の場合には読めないから恐ろしいのではなく、何を考えているのかよく分かるからこそ、恐ろしいのだった。
 分かりやすい言葉で云うなら、碇ユイはサディストだった。相手を完膚なきまでに叩きのめすことに無上の喜びを感じるクチだ。しかも恐ろしく頭がよく、研究者としても超一流ときては、タチが悪い、というレベルを遥かに越えている。彼女が嬉々として犠牲者を血祭りに上げている様は、さながらささげられた生け贄を貪り食う悪魔、といったところか。実際に彼女の犠牲者のうちの少なからぬ人数が、失意の内にすでにNerv本部を去っている。その後自殺した奴もひとりやふたりではない、というウワサが、本部ではもっともらしく流布されていた。
 彼女を相手にまともに論陣を張れるのは、Nerv広しと云えどもそう多くない。本部で云えば、赤木リツコ博士くらいだった。もっとも赤木リツコ博士も、こちらも負けず劣らず「氷の女」で通っている。この二人の舌戦が始まると、周囲のものは青ざめ、その場に居合わせた我が身を呪い、とばっちりが自分に向けられないことを願いつつ、嵐が治まるのを待つしかないのだった。
 そういうこともあって、帆足は碇ユイが苦手だった。それでも無視するわけにもいかない。努めて気安い口調で、
「碇博士も久々に息子さんの顔でも見に帰国されたらいかがです?」
「息子?」横目で伺えば、頬に手を当て考え込む仕草。だがそこに戸惑いの色はない。空惚けてやがる、この女は。
「ああ、シンジのことですか」
「ずいぶん冷たいんですねぇ」
「あの子は自分から出ていったんですよ。今更戻ってきたからといって、どうして私が気にかけなければならないんです?」世間話でもするような淡々とした口調。苛立ちとも不快さとも無縁なそれには、肉親としての情の欠けらもない。その美貌に湛えられているのは、氷のように冷たい微笑み。
 その表情に、帆足は内心ため息をついた。こんな母親ならば逃げ出したくなるのも無理はない、とまだ会ったこともない少年に同情を覚える。もっともそれを口に出したところで、碇ユイは眉一つ動かさずせせら笑うだけだろうが。
「まぁ、今は葛城んとこで面倒見てるそうですから、本部に戻ったら一度くらいは顔を見に寄ってください」
「考えておきますわ」女性が御断りを入れるときの口調そのままの返事が返る。
「そういえば」と、碇ユイは話題を変えた。「最近お宅のお嬢さんにレイがお世話になっているそうですね」
「え、ええ、まぁ」帆足は言葉を濁す。正直触れてほしくない話題だった。自分自身ですら複雑な気分だというのに。よくもまぁ、赤木リツコが咎めないものだと思う。
「どういうおつもり?」案の定、碇ユイも不服に思っていたらしい。穏やかだが容赦ない言葉が滑り出る。だがまともに答えるわけにもいかない。
「さてね。あの年ごろの娘たちの考えることなんざ、我々の想像の範囲外ですからねぇ」
 気楽な口調でそう云ってから、ちら、と横目でユイを伺うと、冷たい微笑はそのままに、細められた眸が酷薄な光を放っていた。ひんやりとした氷の刃を首筋に当てられたような気分になる。おおこわ。
「あの二人の接触が、予想外の結果を生む可能性があること、お忘れになっていませんか」
 やれやれ、またその台詞か。帆足は内心うんざりする。だが、今はまだマリエが何者かであると思わせておいた方が得策か。
「とんでもない。これでも内心ひやひやしてるんですよ」
「だったらどうしてです?」
 帆足はゆっくり振り返ると、ユイの眸をまっすぐに捉える。
「今の間だけはね」ゆっくりと、云った。「今の間はまだ、あの娘たちの好きにさせてやりたいんですよ。少しの間だけだ。それぐらいは見逃してやってくれませんかね」
 ユイの口元から笑みが消えた。しばしの間、視線がぶつかり合う。だが、先に逸らしたのはユイの方だった。
「後悔しないといいわね」
「お互いにな」
 その言葉に、ユイの唇が歪んだようにみえた。
 そのとき軽い減速感があり、ベルの音とともに扉が開いた。ヒールの音を響かせエレベータを降りると、振り返り、ユイは云った。
「後悔するのは、あなたよ」

 その唇に浮かんでいたのは、間違いなく嘲笑だった。


 再び閉じた扉がその姿を隠すと、帆足は長い長い息を吐きだして内壁に寄りかかった。どっと疲労感が襲ってくる。
 いつもこうだ。碇ユイと話していると、心の中を見透かされているような気分になってきて、ひどく疲れる。それでも今回はなんとかうまく誤魔化せたうちだろう。
 それにしても、あんな女を女房にしているなんて、碇司令の気が知れない。これに比べれば葛城の癇癪なんて可愛らしいものだ。シンジ君もこれから大変だろう、あんな母親と対峙しなくてはならないのだから……。

 そう思ったとき、帆足はふと気付いて苦笑した。

 親としての愛情か。
 それについちゃあ、俺も人のことは云えないか。




 相変わらず殺風景な部屋。窓際に置かれたベッドに、Tシャツに下着だけというあられもない格好の少女が横たわる。その形の良い小さな唇から、けふっ、とちいさな息が漏れた。

 綾波レイ、満腹の図。

 最近レイは幸せだった。
 余ったごちそうのおすそ分けを毎日頂けるからだ。しかも洋風一辺倒ではなくなったおかげで肉料理が減って、山菜の天ぷらとか芋の煮物とか青菜の和えものとか、実にレイの好みな献立が展開されているのであった。
 序列の方も、もう入れ替わるとかそういう問題ではなくて、ダントツの一位。また使徒がきたら今度はあたしが盾になってあげるわ、くらい云い出しかねないほど。やっぱり持つべきものはトモダチよねぇ、と少々キツ過ぎるお腹をさする。
 そのトモダチであるところの帆足マリエがシャワーを終らせ、バスルームから出てきた。淡い色の大きめのTシャツに膝丈のスパッツといういつもの格好。色白の肌が上気してほんのり朱い。
 ぽすん、とレイの隣に腰かけ頭に巻いたタオルを取ると、はらりと濡れた髪が広がる。今は編んでいないその髪を丁寧に拭いていく様子を、レイはじっと見つめていた。
 マリエはその視線に気付くと手を止めて「なに?」と微笑んで見せたが、まっすぐに見上げる緋色の眸に、笑みを消して視線を逸らせた。また髪を拭きはじめたものの、ふとその手を止めて口を開く。
「おとうさんがね、明日帰ってくるの。日本に」
 レイは無表情のままマリエを見つめる。帆足マサキ一佐が帰国することはレイも聞いている。それでマリエが最近少々はしゃぎ過ぎなのもの気付いていてはいた。自分も碇ユイ博士が帰国すると聞けば、やはり同様な気持ちになるかも知れない。
 だが、マリエは静かな声で云った。
「うれしくないわけじゃないんだ。でも、ほんとは少し、こわいの」
 その言葉をレイは意外に思った。だから問うてみる。
「どうして」
「わたしは、おとうさんのことが大好き」優しい笑みを浮かべるマリエ。だが、それはすぐに寂しげなものに変わった。

「でもね、おとうさんはそうじゃないかもしれない」

 レイの表情は変わらない。だがほんの少しだけ見開かれた眸が、その内心を表していた。
 それに気付くと、マリエはいつもの笑みを浮かべてみせる。
「ごめん、へんな話ししちゃった。もうこんな時間だし、今日はもう寝よ。ね?」
 そういって隣にその体を滑り込ませると、白い腕をレイの首に巻きつける。
 乾きかけた髪の感触がひんやりと伝わってきて、それを心地よく感じながらも、レイは眸を閉じずただ天井を見上げていた。




 空港の人込みの中にそのころんとした体型を認めると、ミサトは眉をひそめた。
 だが、それを押し込めて、びしっ。と音がしそうな敬礼。
「おう。出迎えご苦労さん」相手はにこにこ顔を崩さない。
 多分私はこの笑い顔にだまされているのかも知れない、とも思う。それくらい邪気の無い、人を引き込む笑み。でも今はそれがたまらなく心地よかった。それがなんだか悔しくて、だからわざと堅い調子で云う。
「また太りましたね」
「ああ、これか」はっきりと目立つ腹をぺしぺしと叩き、「いや、向こうの食い物は、味は大したことないんだが量が多くてな。つい食い過ぎちまうんだよ。おかげでこの半年でまた十キロさ。またマリエに怒られちまうな」悪びれた様子もなく笑う。
「ダイエット、してくださいね」
「そう恐い顔しないでくれ。わかってるよ。麗しき花嫁のためにもな」
 腰が軽く引き寄せられる。ごく自然に体が彼の腕の中に滑り込む。
 ああ、こうして抱かれるのも一年ぶりだ。
 恋人の顔に戻って、ミサトは云った。
「おかえりなさい」




 台所から調子っ外れの鼻歌が軽快な包丁の音とともに響く。碇シンジは食卓でそれを聞くともなしに聞いていた。
 すでに何種類かの皿が目の前に並べられていて、その食欲をそそる匂いに気の重さと無関係な腹の虫が先刻から遠慮のない鳴き声を上げている。
 先程ミサトから市街を抜けたという電話が入ったから、あと数分というところだろう。そのとき自分がどんな顔をすればいいのか、シンジは今だに分かりかねていた。
 今更こんなことを聞くのもへんだとは思ったが、
「ねぇ、帆足さん」その声に、鼻歌が止まる。
「なに、碇君?」ぱたぱたと台所から出てきたマリエ。今日のエプロンの下はいつもの部屋着ではなく、初めて会ったときと同じ、白の袖なしのワンピース。
「あ、あの、さ」云い淀んだものの、マリエのいつもの微笑みに背中を押されて、思い切って口を開いた。
「ほ、帆足さんのお父さんって、どんな人?」
 緋色の目が軽く見開かれる。
「どんなひと、って、えっとー……」人差し指を唇にあて、ちょっと考え込む仕草をする。
「本部の技術部の部長さん、ていうのは聞いてるよね?」シンジが頷くのを見て、続ける。「で、本部にMAGIっていうコンピュータがあるんだけど、昔おとうさんがあかぎせんせいってひとといっしょに作ったんだって。それで、今は世界中のNervの基地に同じものを作るお仕事をしてるの」そして小首を傾げると、「でもどうしてそんなこと聞くの?」
「どうして、って、その……」
「会うのが、こわい?」
「えっ、いや、そうじゃなくて……」図星を突かれてうろたえる碇シンジ。マリエはくすっと笑うと、なにげなくその白い腕をシンジに伸ばした。
 柔らかい感触を髪に感じて、シンジはどきりとした。撫でられた、と分かった瞬間、シンジの心臓が跳ね上がった。かぁっ、と顔が熱くなる。
「心配しなくてもだいじょぶ。おとうさん、ぜんぜん怖いひとじゃないから」
 やさしくそう云われても、シンジの心臓はおとなしくならなず、むしろいっそうばくばくと波打ち始める。
 そのときインタフォンが柔らかいチャイムを鳴らした。
 すっ、と髪に置かれていた手が離れ、シンジはほっと安心したものの、同時にかすかな名残惜しさを覚える。
「あ、はい。今開けるね」
 ぱたぱたと玄関へと向かうマリエを見送って、それでもなかなか収まってくれない動悸に、シンジはしばらくは戸惑ったまま食卓の椅子に座り込んでいた。


 ぱしゅっとアクチュエータの音を立てて扉が開くと、マリエの笑顔がミサトを迎えた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「おとうさんは?」
「今、ちょっと部屋によってるわ。すぐくるわよ」
 そう云いながらヒールを脱ぐミサト。
「お、いい匂い」鼻をひくひくさせる。
「今日のは自信作だから」にっこりと微笑むマリエ。
「でも、今までみたいな量はかんべんしてよ」
「ごめんなさい。今日はちゃんと四人分」
「そう願うわ。あの人ったら、また太っちゃって」
「え。」
「ダイエットメニュー、考えといてね」
「それは勘弁してくれ。マリエの料理を楽しみにしてきたんだからな」その声とともに、帆足が玄関に姿を現した。にっと笑ってみせる。
「元気そうだな、マリエ」

 だがその瞬間、少女の顔からすっと表情が消えた。
「マリエ?」
 その声にも応えず、瞬きもせず帆足を見つめた眸から、つ、と滴があふれた。一粒二粒、そしてほろほろと涙が零れ落ちていく。
「ちょっと、マリエ?!」ぎょっとしてミサトがその細い肩を掴んだ。「どうしたの、いったい?!」

「へ?」

 不意に間の抜けた声が返った。きょとんとした大きな眸がミサトを見上げている。
「なに、ミサトさん?」
 ミサトは面食らった。そこにいるのはまるでいつも通りの帆足マリエ。ミサトは慌てて手を放した。
「な、なにって、あなたこそなんで泣くのよ?」
「泣く? わたしが? どうして?」そこようやく自分の頬を濡らすものに気付く。「あ、あれ? へんだな。やだ、いつ泣いたんだろ?」
 いつってアンタ、たった今じゃないの。とはさすがに云えず、慌ててエプロンで目元を拭うマリエに、ミサトと帆足は困惑して顔を見合わせた。
「ご、ごめんなさい、やだ、やっと帰ってきたばっかりなのに、いきなりへんなとこ見せちゃった」色白の頬にうっすらと朱を刷く。「準備、出来てるから上がって。今シャンパン持ってくるね」ワンピースの裾をひるがえしてぱたぱたと台所へ戻っていくマリエを見送ると、ミサトと帆足はもう一度顔を見合わせた。
「なぁ」ぼそっと訊く帆足。「いつも、あんなカンジか」
 口にすべき言葉が見つからなくて、ミサトは呆然とかぶりを振った。


 タヌキ。
 最初見たとき、そう思った。あの御用帳を腰にぶら下げ手に徳利を持った、信楽焼のタヌキ。
 さすがに耳は尖っていないしヒゲも生えていない。腰蓑に編笠なんてあるはずもない。だがきちんとNervの正装をしているとは云え、なんとなく人を食ったような、それでも愛敬のある雰囲気はあの置物にそっくりだった。
 帆足マサキ。
 聞いていた肩書きやらなにやらとはずいぶんその外見に落差があって、碇シンジはなんだか騙されたような気分になってしまった。
 どちらかというと背はあまり高くなく、ころんとした体つきににこにこ顔をのせ、のんびりした空気を纏っている。その隣でやはりにこにこしている帆足マリエと並べてみると、体型はともかく、なるほど親子だわい、と思わず納得してしまうほど、その雰囲気は似ていた。食事の間じゅうその二人を見ていたシンジは、終いにはシヤワセの菌が頭に蔓延りつつあるような錯覚を覚えたほどだ。
 でも、確かに今日のマリエは幸せそうだった。今までシンジが見たことがなかった、年相応の少女の顔をしていた。
 口数が多いわけでもない。これ見よがしにはしゃぐでもない。ただごく自然な甘えのようなものがにじみ出ていて、それがマリエをいつもよりも子供に見せていたのかもしれない。
 また、それを見るミサトの眸もいつよりも優しかったように思う。普段は歳の離れた姉妹のようにしか見えないミサトとマリエだったが、今日だけはちゃんと母親と娘のように見えた。
 これが「家族」というものなんだろうか?
 彼らがこうして食卓を囲むのは、もう半年ぶりだと聞いている。だが帆足たちの様子はそんは空白を感じさせなかった。ごく自然に言葉を交わし、笑みを交わしていた。
 自分の両親もこうだったのだろうか? 記憶の底を探ってみたものの、物心付く前のぼんやりとしたそれではそれらしい光景を思い出すことはできなかった。
 だが、そんなことを考えていたおかげか、危惧していたほどの疎外感を覚えずに済んだことも確かだ。ミサトとマリエの様子がいつもとあまり変わらなかったこともある。なにより、帆足が気を遣うような素振りを見せなかったことが、シンジには有り難かった。
 そんな食事の時間も終わり、後片づけも済み、帆足とマリエは既に隣へ引き上げていて、部屋着に着替えたミサトとシンジは食卓で向かい合ってお茶など啜っていた。
「どうだった、帆足一佐は?」
 未だ少々毒気を抜かれた感じのシンジに、ミサトが訊ねる。
 シンジはミサトをちら、と見上げ、
「まだ、よくわからないです……」
「そう……」
 そのとき、インタフォンが柔らかいチャイムを鳴らした。
 時計を見ると、もう夜も十時を回っている。こんな時間に誰だろう、とシンジとミサトは顔を見合わせた。

 ぱしゅっとアクチュエータの音を立てて扉が開くと、Tシャツに膝丈のスパッツという、いつもの部屋着の少女が立っていた。髪はいつものように編んでおらず、何故か大きな紙袋を下げている。
「帆足さん……」
「お邪魔していい?」大柄な上背を丸めての上目づかいの視線に、シンジは否とは云えず頷くしかなかった。
「マリエ?」リビングに戻るとミサトが驚いた顔をした。「どうしたの、いったい?」
 少女は少しだけ逡巡したが、おずおずと口を開いた。
「おとうさんが、ミサトさんと、少し、話が、したい、って……」
「マサキが?」思わず口をついて出た言葉に、ミサトはしまった、という顔になる。
 だがマリエは構わず、
「わたしも、碇君と、ちょっと、話が、したいから……」だが、言葉の歯切れの悪さは隠せないし、ミサトと眸を合わせようともしない。
 ミサトはしばし迷ったが、「わかったわ」と云って、自室へ上着を取りに戻った。



 インタフォンを鳴らすと、さっきまでの正装はどこへやら、たっぷりの甚平姿の帆足が顔を覗かせた。風呂を浴びたらしく、首から手拭いなど下げている。
「ああ、葛城か」
 その格好にミサトはほんの少し渋い顔になったが、何も云わず玄関を上がった。その脇に少女の姿ないことに気付き、帆足は首を傾げる。
「ん? マリエはどうした?」
「ちょっとシンジ君と話がしたいそうよ」
 その言葉に帆足はちっと舌打ちした。
「あいつ、余計な気を回しやがって」
「あなたが悪いのよ。こんな時間に人を呼びつけて」
「ああ、わかってるよ。だが、どうしても今日話しておきたくてな」そういいながらバカでかい業務用冷蔵庫から茶色い液体の入ったポットを取り出すと、グラスに注ぐ。
「悪いが仕事の話だ。アルコールは抜きでな」麦茶のグラスを手渡すと、ソファにどっかりと座り込んだ。ミサトもその隣りに腰を下ろす。
「わかってるわ。シンジ君のことでしょう?」
「まぁな」そう云って自分の分の麦茶を注ぐ。
「どう、うまくやっていけそう?」
「さぁな。まだわからんよ」
 ミサトは苦い表情になって麦茶を啜った。いい歳をしてシンジ君と同じ台詞を吐くなんて。
「まぁ、そんな顔するな。もう少し腰を据えて話さんといかん、と云ってるだけだ。難しい年頃だしな」
「ずいぶん弱気じゃない」
「慎重と云ってくれ」
 頼りないわねぇ、と云わんばかりのタメイキがミサトの口から漏れる。
「それに彼は繊細過ぎる。パイロットには向かんよ」
「それを云うなら、マリエだってそうでしょ?」
「あいつはガキのころからそれなりの訓練も受けてきてるんだ。今更降ろすってワケにもいかんよ」
「代わりのパイロットがいないから、ではないの?」
「バカ云え。第三次選抜計画の次期候補者はもうじき最終選考に入るそうだ。補充のパイロットなら何とかなる」
「またシンジ君みたいなズブのシロウトじゃないでしょうね」そのせいで今までさんざんな目にあっているミサトとしては、イヤミの一つも云いたくなる。
「彼はイレギュラーだったんだよ。訓練もなしに適格者に選出されるなんて、本来なら論外の筈だ」
「でも彼は選ばれたわ。どうしてだと思う?」
「さぁな。また碇司令がゴリ押ししたんじゃあないのか?」
「あの司令が? なんのために? エヴァに乗ることがどんなに危険なことか、司令が一番よく知っている筈でしょう?」
 碇ユイ。一度はエヴァの起動試験中に事故に遭ったものの、奇跡的にサルベージに成功した。もう十年以上も昔のことだが、それは今でも苦い教訓として語り継がれている。
「実の息子を経験もなしにそんなものに乗せようと思うかしら?」
「じゃあ葛城は、あの両親がシンジ君のことを息子として扱っていると思うのか?」
「そりゃあ、ま、そうだけどさ」と麦茶のコップを傾ける。
「ところで、参号機はどう?」そう云う口調は軽いものの、眸にはいつもの光が戻っていて、その眸に帆足は苦笑してみせた。
「順調だよ。あと一ヶ月も掛からん筈だ」
「もう少し早くならないの?」
「ずいぶんせっかちだな。来週には弐号機も届くんだろう?」
「相手は使徒なのよ。戦力はどんなに多くとも十分とは云えないわ」
 今度は帆足が、しゃーねぇなぁ、というふうにため息をつく。
 ヤシマ作戦の成功は、葛城ミサトに自信とともに新たな危機感を抱かせている。もし次に来襲する使徒があの三角野郎よりも強力な力を持つとすれば、例え制式タイプ一機が追加されたところで心もとないことには変わりない。
「まぁ、確かにそうだがな。ただ、俺がこっちに戻っちまった以上、もう干渉はできんよ。後は碇博士が決めることだ」
「天下のNerv本部技術部長殿でも?」揶揄混じりの口調に、帆足は苦笑を押し上げる。
「技術部長なんて閑職だよ。仕事といえば山のような決裁書類にハンコを押すのがせいぜいだ。慣れりゃあ赤ん坊でも出来る」
「こっちの苦労も知らないで、まったく代わってもらいたいもんね」
「じゃあ、たまには代わってみるか?」にやりとする帆足に、ミサトは大袈裟に肩をすくめる。
「やめとくわ。あなたに任せたら一日で人類が滅びるわよ」
「ま、懸命だな」そしてグラスを飲み干すと、「さて、ぼちぼち休ませてもらおうかな。さすがに今日は疲れたよ」
「マリエはどうするの?」
「どうせ拗ねてるだろうから、すぐには戻らんだろ。適当なところで帰るように云ってくれ」
 拗ねてる、ねぇ。そんなカンジじゃなかったけど。
 ミサトはそう思ったものの、口には出さず立ち上がった。帆足の首に手を回し、軽く頬をすり寄せる。囁くような声で、
「この埋め合わせはいずれ、ね」
「そのとき、お互い生きていればな」
 無粋な言葉に思い切り耳を引っ張ってやる。痛みに顔をしかめる帆足を尻目に、ミサトは笑いながら部屋を辞した。


 ミサトを見送ると、シンジとマリエはどちらともなく顔を見合わせた。
 今は編んでいない髪がマリエを普段とは違う少女のように見せていて、シンジは否が応でも同い年の異性と二人きりだということを意識せざるをなかった。
「は、話って、なに?」
 その問いに、マリエはバツの悪そうな笑みを浮かべ、がさがさと紙袋の中身を取り出す。出てきたものは、マリエの愛用らしい大きめの枕と、数本のワイン。
「おとうさんのお土産、持ってきちゃった。たぶん、今日はミサトさん、戻ってこないとおもうし。ね?」
 絶句しているシンジに構わず、ぱたぱたと勝手知ったる台所からグラスとコルク抜きを持ち出してくる。
「で、でも、僕たちまだ中学生だし」
「誰が見てるわけでもないでしょ? あ、それともお酒はだめ?」気づかいを含んだ声で聞かれて、シンジは少しだけ虚勢を張る。
「そ、そういうわけじゃないけど....」
「じゃ、飲も? いいロゼだよ、これ」
 手慣れた手つきでコルクを抜くと、二つのグラスに注ぐ。
「じゃ、乾杯」ふれあったグラスが澄んだ響きを立てる。マリエがごく自然な仕種でグラスを傾けるのを見て、シンジも意を決してグラスを口に運んだ。ワインの芳香よりもアルコールの匂いの方が鼻を突く。
 まずくはない。思っていたような苦みはないし、アルコールのきつい刺激もそれほど感じなかった。だが、飲み下した後に胃のあたりで感じる熱さが、シンジには不自然なものに感じられた。
「どう?」
「う、うん。よく、わかんないや」正直なシンジの言葉に、マリエがすまなそうな笑みを浮かべる。
「無理しないでいいよ」
「う、うん」そう答えながらも、シンジは落ち着かない感覚を憶える。グラスから眸を上げれば、アルコールに頬をほんのりと染める少女。
「くあ」
「あ、ペンペンも飲む?」
 床にぺたんと座り込み、リビングの騒ぎに起き出してきたペンギンのためにグラスにワインを注いでいる。伸びやかな肢体とあいまって、その仕種がなんともコケティッシュに見えて、シンジの鼓動を早くする。それを意識しないようにわざとくいっとグラスをあおった。
「だいじょぶ?」気づかわしげなマリエの言葉に、お子様ながらにも芽生えつつあるシンジの中のオトコのプライドが刺激された。
「へ、平気だよ、このくらい」無造作に空になったグラスをマリエに突き出す。
 心配げに注がれた次の杯を飲み下すと、さらにかぁっと胃袋が熱くなる。だがそれを空ける頃には、その熱さが快いものに変わりつつあった。
 なんだ、お酒なんてたいしたことないじゃないか。
 そう思ったものの、ふと目を上げた途端視界がぐにゃぁっととろけた。
 あれ、なんだろ。なんだか目が回る……。
 あ、帆足さんの声が聞こえる。僕を呼んでるみたいだ。でもなんだかよく聞こえないなぁ……。

 それが碇シンジの、その日の最後の記憶だった。




 ぱちり。と駒が盤を叩く音が響く。
 Nerv本部。冬月の私室。
 部屋にそぐわぬ簡素なソファセットに、二人の男が盤を挟んで対峙していた。一人は銀髪の紳士、もう一人はころんとした体を窮屈そうにソファに押し込んでいる。二人の表情は真剣そのものだったが、その雰囲気には緊迫の色はない。
「思ったよりも時間がかかったな」盤から目をあげず、冬月は云った。
「はぁ、あちらさんがなかなか帰してくれなくて」こちらも駒の配置をじっと睨み付けている。
「彼は君があの研究所にいた時の上司だったな」
「僕というより、チエコの、でしたがね」ぱちり、と駒を進める。
「チエコ君、か」冬月の眸がほんの少しだけ盤から逸れる。だがそれも一瞬だった。
「最悪参号機の輸送と同時になることも覚悟したよ」
「いや、僕もひやひやしましたがね。まぁなんせよこの時期に帰国できてよかったです」
「間に合いそうか」
「S2機関の件も含めて、あちらからできることは一通り済ませておきました。だた、やはりあの男とは直に話をつけないといけないでしょうね」じゃらじゃらと持ち駒を弄びながら云う。
「時田かね?」
「接触の手配はしてあります。近日中に例の資料も渡さなきゃなりませんし」
「諜報部には?」
「今のところ伏せてあります。リークはまずないだろうとは思いますが、念のため。委員会に知れるといろいろ面倒ですしね。加持が使えればこんな苦労はないんでしょうが」
「あの男は碇の子飼いだ。たちまち筒抜けになるぞ。それにあの男には今、例のサンプル入手の指示を出してある。おいそれとは動けんはずだ」
「二重スパイも辛いもんですね」
「君だってそうは変わらんだろう?」
「よしてくださいよ」大げさに打ち消す帆足。「僕は一介の技術屋です。時田氏とはそういうカンケイのお付き合いじゃあないんですから」
「昔からスパイには学者が多いことを、知らんわけじゃあるまい?」ぱちり。
「さて、どうでしたっけ?」空っ惚けたものの、冬月の指し手に気付いて帆足はしかめ面でその駒を取った。
「参号機は?」
「チューニングも含めた調整はほぼ完了しています。来月中にはこちらに移送されるでしょう」
「いろいろ済まなかったな」
「いえ、それほどでも。なんだかんだでパイロットがこちらにいることが決定的でしたね。やはり葛城に付いていかせたのは正解でした」
「パイロットか……」
 その言葉に冬月は表情を曇らせた。その意味を悟って、帆足の表情も暗いものになる。
「やはりあのままか?」
「はい」帆足はゆっくりと頷く。
「そうか……」
「容体は相変わらずです。おそらく今後も意識が戻る見込みはない、と」
「またあの娘に辛い思いをさせてしまったな」
「危険性については惣流博士が既に指摘していたことですし、あの娘たちも分かっていたはずです」
「それは言い訳に過ぎん。それを食い止めてこその科学だ」
 吐き捨てるような冬月の言葉。帆足は何も応えなかった。重苦しい空気が辺りを占める。
 それきり二人とも押し黙ったまま、しばらく駒を差す音だけが淡々と続いた。

「冬月先生」不意に帆足が口を開いた。


「我々は、どこで間違えてしまったんでしょうね」


 冬月は顔を上げて帆足を見た。そして、


「最初からだ。だからこそ我々は、その償いをせねばならんのだよ」


 そして最後の一手を、帆足の玉の前に打った。




(後編に続く)

NEXT
ver.-1.00 1998+08/09開
ご意見・ご感想は ryu1@imasy.or.jp
まで






 斎藤さんの『EVANGELION「M」』Episode 7.前編、公開です。





 あ、時田はんだ〜

 怪しい相談の真っ最中のようで・・・


 TVではいいとこほとんどないままの彼−

 その前のシーンではちょっといい感じ・・?



 本編ではあっさりNERVの思惑通りになってしまったようですが、
 ここではどうなのかな。


 諜報・謀略戦が行われるのかな?



 ”あの男””彼”・・これはやっぱり、彼?


 全くの予想外の人物かも??





 とにかく−

 行け行けJA!!

 EVAに一本背負いを掛けろっっっ         (^^;





 さあ、訪問者の皆さん。
 齊藤さんを貴方の感想メールで喜ばせましょう!



めぞん/ Top/ [齊藤りゅう]の部屋