第三中央病院303号病室。
病室のベッドで眠り続ける一人の少年。
年は14歳くらいだろうか…。その空洞のような瞳は何も写していない…。
突然病室のドアが開かれると二人の女性が姿を現した。何やら口論しているみたいだ。
「離しなさいよ、マヤ!あたしはもうこんな所に用はないって言ってるでしょう!」
「何言ってるのよ、アスカ。あなたのせいでシンジ君はこんなになってしまったんでしょう!責任取りなさいよ。」
「知らないわよ。こいつが勝手に壊れただけじゃない!」
「…………とにかくもう一度シンジ君をこちらの世界に戻すためにはあなたの力が必要なのよ。お願いだから力を貸して、アスカ。」
マヤがアスカに頭を下げる。だがアスカは冷笑して
「ふん!何度言わせれば分かるのよ。壊れたオモチャに用はないって言ったでしょう!」
「アスカ。あなたシンジ君をここまで追いつめておいて少しは責任を感じないの!?」
「はん!こいつがあたしにした仕打ちに比べればまだお釣がくるくらいだわ。さっさと離してよ。飛行機に乗り遅れちゃうでしょう。」
「アスカ…。あなたって人は……」
マヤはあきらめたようにため息をつくと、アスカの手を放して何も言わずにとぼとぼとした足取りで病室から離れていった。
アスカはトランクをつかむとそのまま部屋を出ようとしたが、ふと思い直したようにシンジの目の前までくると蒼い瞳に蔑む色を浮かべてシンジを見下ろして
「結局、最後の最後まで逃げ出したわね、バカシンジ。何が「一生僕の側へいて欲しい」よ。本当に口先だけの最低な男ね。そんなに傷つくのが嫌ならそこで一生ファーストに優しくしてもらう夢でも見ていることね!」
アスカはそれだけ言うとシンジから離れていった。
そして扉の前で一言
「ロング グッバイ(永遠にさようなら)バカシンジ!」
と告げるとそのまま扉を閉めて病室から出ていった。
無音の病室の中には物言わぬ少年が、一人ベッドの上に取り残された。
何時の間にか少年の空洞のような瞳から涙が零れ落ちていた…。
外伝一 「ある少年の自己肯定に至る軌跡(前編)」
「……………………………!?」
少年は目を醒ました。
起き上がった少年はきょろきょろと首を動かして周りの様子を見てみる。
だがここは病院のベッドではなくマンションの自室のふとんの中だった。
「夢か……。」
先ほど見た夢の内容を思い出して、シンジは鳴咽をもらした…。
「………アスカ…。」
シンジは洗面所で顔を洗って涙を拭ぐうと、鏡に映った寝癖のついた自分の顔を正面から見つめながら今日ここに到るまでの軌跡をたどってみる。
かつて精神崩壊を起こし、つらい現実から逃避したシンジだったが、3ヶ月後には自分の意志で再び現実へ戻ってきた。
だが、その時シンジを迎えいれてくれるはずの蒼い瞳の少女はそこにはいなかった。
『アスカはドイツへ帰ったわよ、シンジ君。』
そのマヤの一言がどれほどシンジの心にショックを与えたことか…。
自分の淡い希望を粉々に打ち砕いたそのマヤの言葉に、シンジはかつて夢の中で出会った時のミサトが忠告した理想と現実のギャップの深さを痛く痛感させられたのだった。
その後、リハビリを終え病院を退院したシンジは、一人暮らしを始めた。
今では第3新東京市立第壱中学に復学して3学年に在籍している。
そしてシンジがかつてミサトやアスカと同居していた、新装されたコンフォート18マンションに住み始めてから2ヶ月が過ぎた。
顔を拭き終わったシンジはかつてのアスカの部屋を開けてみる。
今ではアスカの部屋は空き部屋になっていてガランとしている。
「アスカ……。」
少女の名前を呟いてシンジはため息を漏らす。
このマンションはシンジが一人で住むには広すぎた。
『アスカが一緒にいてくれたら……』
だがそれは儚い夢だった。
シンジはしばらく俯いたまま自分の世界に篭っていたが、すぐに弱気な自分の態度を打ち消すように2・3回自分の頬を思いっきり叩くと
『なにをいつまでウジウジしているだ!こんな情けない男だからアスカは愛想をつかして離れていったんじゃないか!まだ終わったわけじゃない。アスカはきっと戻ってくる!いつかきっと…』
シンジはまだ決してアスカをあきらめたわけじゃなかった…。
かつて病室のベッドの上で自分の無力を痛感して以来、シンジはもう一度アスカを取り戻そうと…今度こそアスカを支えられるアスカに相応しい男になろうと並々ならぬ決意をしたのだ。
そしてその為にまずすべきことは自立すること、すなわち自分で自分を肯定できる…まず何よりも自分自身をしっかりと支えられる強さを身につけることだった。
だから一緒に住まないか…というマヤの好意さえ断ってここまで頑張ってきたのだ。
『もし自分に自信が持てるようになったらその時こそドイツへ渡ってアスカに会いにいこう。けど、今はまだその時じゃない。今の僕にはまだ他人を支えられる強さはない。けどいつかきっと…』
シンジはそう決意するとアスカの部屋の扉を閉めて、自分の部屋へ戻った。
そして制服に着替えて学校へ行く準備をはじめた。
「おはようございます、冬月さん。」
マヤは冬月の執務室を尋ねると冬月に頭を下げた。
「おはよう、伊吹君。例のプロジェクトの方は進んでいるかね?」
「はい。支障はありません。それより気になるのは……。」
冬月とマヤは仕事の話に盛り上がっていたが、突然冬月が
「そういえば、伊吹君。シンジ君の方はどうかね?」
と私事について尋ねてきた。
マヤは嬉しそうな顔をすると
「はい。あれから2ヶ月立ちましたけど、今では以前より見違えるほど元気に生活しています。特に後遺症の方もないみたいです。」
「そうか。」
短い返事だが冬月の言葉には暖かみが篭っていた。
「正直私はシンジ君が目覚めて以後あれほど精神的に持ち直すとは思っていなかったのだよ。これからまた長いメンタルケアが必要かと覚悟していたが本当に嬉しい誤算だったな。」
そう語る冬月にマヤはやや躊躇った後
「はい。確かにシンジ君は良い方向に自分を改革しつつあります。ただ……」
そこでマヤが口篭もった。
「なんだね?遠慮せずに言ってみたまえ。」
「………ただ、その為にシンジ君は今完全に理想を現実に優先させている形です。まあシンジ君はまだ14歳なのだからそれは無理のないことなんですけど。」
「…………………そうだな。確かに一切の援助なしで一人で生きていこうとしていたのは、中学生には無謀だったな。」
「はい。確かに自立しようとしたシンジ君の決意は大変素晴らしいコトなんですが、理想が高ければ高いほど、もし挫折した時のショックもまた大きなモノになります。」
「……………………………………………。」
「けど、逆にこの時期を自力で乗り切れればシンジ君にとってこれは本当に大きな自信に繋がると思うんです。」
冬月は手を打って
「分かった。我々としてはシンジ君を暖かく見守りながら、シンジ君がつまずきそうな時にさりげなく手を差し伸べてやればいいわけだな。」
「はい、その通りです。私も今、頃合いを見てシンジ君の住居を訪ねるようにしています。」
マヤはその時のシンジの顔を思い出す。マヤが尋ねるといつもシンジは本当に嬉しそうな笑顔でマヤを出迎えてくれた。その時のシンジの顔をみるとマヤは『本当は一人で寂しいのに無理しちゃって健気だわ…。』とホロリと涙腺が緩むのだった。
「そうか、仕事だけでも大変なのにそんなことまで…………」
と冬月が言いかけるとマヤは冬月の言葉を遮って
「いえ、気遣いは無用です。だってシンジ君に会うのは私にとっても本当に良い気分転換なんですから…。」
その言葉は嘘じゃなかった。
というよりもむしろマヤはシンジに会えることを楽しみにさえしていた。
委員会の重職について以来、マヤはネルフにいた時よりも一段と自分が汚れた…という印象を拭えなかった。
サードインパクトの後始末と情報隠蔽。
崩壊した日本全土の復興計画。
そして日本政府との暗闘。
おおよそ奇麗事ではすまない、委員会の数多くの仕事をこなすつど、今更ながら自分が汚れていることを痛く痛感せざるえなかった。
そんなマヤにとってシンジは一服の清涼剤だった。
シンジの邪気のない笑顔を見るつどマヤは自分の中にある決して小さくない良心が癒される思いだった。
潔癖症のマヤにとってシンジのその笑顔は一種の救いでさえあるといえた。
「そうか。では伊吹君。これからもシンジ君の保護者として影ながらシンジ君を支えてやってくれ。」
その冬月の声にマヤは現実に戻った。
「もちろんです、冬月さん。ではそろそろ時間ですので、失礼します。」
マヤは再び頭を下げると冬月の執務室から出ていった。
マヤは廊下を歩きながら、ふと一人の少女のことを思い浮かべた。
『アスカ……。』
かつて絶望に打ち震えていたシンジに再び笑顔を与えたのは彼女であり、そしてシンジから自らの意志でその笑顔を奪い取ったのもまた彼女だった。
正直、マヤにとってアスカは未知数だった。
最後にはどうやらシンジにした仕打ちを反省していたようだが、だからといってそれでシンジにしたことが全て許されるとはマヤには到底思えなかった。
そして何より、アスカがシンジの側にいることがシンジにとってプラスなのかマヤには判断がつきかねた。否、結局最後にはお互いに傷つけあうだけだろう…マヤにはそうとしか思えなかった。
『やっぱりアスカはシンジ君には近づけないのが一番安全ね。』
アスカに対して色々と葛藤がないわけではないが、最終的にマヤはそういう結論に達っした。
かつて一度シンジが精神崩壊を起こした時、マヤはシンジを守ることが出来なかった。だが、
『今度こそシンジ君の笑顔は私が守ってみせるわ。必ず』
それがマヤが自身に課した神聖なる誓いだった。
そして、アスカがシンジと再会することによって、そのシンジの笑顔を奪われる可能性があるのなら、自分はどんな手段を使ってでもそれを妨害する。それが最終的にシンジ君の為になるのなら…。
この時、マヤは自分のその想いが正しいことを心から信じて疑わなかった。
朝の8時30分、第3新東京市立第壱中学の正門の前で登校したシンジに誰かが声を掛けた。
「シンジ、おはようさん!」
シンジが振り向くと、あいかわらず黒いジャージを着たトウジとそれに付き添っているヒカリがいた。
トウジは右腕に松葉杖をついて、左肩をヒカリに借りている。
「おはよう、トウジ、洞木さん。」
シンジも笑って二人に挨拶を返した。
「足の具合はどうなの、トウジ?」
トウジは渋い顔をして
「あかんわ。まだまだだわ。うんともすんともいいよらんわ。これじゃますます委員長に迷惑かけてしまうみたいや。」
トウジが申し訳なさそうにヒカリの方を見ると、ヒカリは精一杯微笑んで
「気にしないで、鈴原。あたしが好きでやっていることだから」
その時、通り過ぎるクラスメートがからかいの声を掛ける。
「ヒュー!ヒュー!お熱いことで!」
「新婚さんカップルのご登場!」
その言葉にヒカリは赤くなって俯いてしまう。
「じゃかわしいわ!!いてもうたるど、おんどれら!」
トウジが松葉杖を振り上げて威嚇すると、
「逃げろ〜!!」
と級友達はからからい半分に四散していった。
「ったく、あいつら。歩けるようになったら覚えとれや!」
いまいましそうに呟くトウジに
「ほら、早くしないと遅刻しちゃうわよ。行きましょう、鈴原」
ヒカリが校舎の時計を指差したので、トウジは
「すまへんな、委員長」
と言ってヒカリの肩を借りると、二人はゆっくりとしたペースで二人三脚のように歩いていった。
最初は暖かい目で、その二人の微笑ましい後ろ姿を見ていたシンジが、やや憂いを帯びた表情をすると心の中で密かにため息をついた。
「僕も逃げないで、最後までアスカの憎しみを正面から受けきってあげられたら、今ごろあの二人のようになれたのかもしれないのにな…」
一瞬そう考えたシンジだったが、すぐにそれが絵空事であることに気がついた。
あの時のシンジにはアスカの憎悪を背負うことなど絶対に不可能だったからだ。
なぜなら自分を支えられない人間が、決して他人を支えられるはずなどないのだから…。
昼休みの時間、昼食を食べ終えたシンジは、屋上でケンスケと何やら密談していた。
「……というわけで、ケンスケ。頼んだものはもって来てくれたかな?」
「ああ、好きなのを選んでくれよ。けど、何で今更シンジが惣流の写真を欲しがるかねえ。」
やや興味深そうにケンスケは尋ねる。
「いや…、実は今、アスカの写真を僕は一枚も持っていないから…。」
そう言ってシンジは口篭もった。
シンジがたった一枚持っていたミサトと一緒に撮った記念写真は宿舎のどこを探しても見つからなかった。
まさかアスカが持っていったとは思えないし、やっぱりなくしてしまったのだろうか…。
そうシンジが考えていると数十枚の写真がシンジの目の前に並べられた。
「よくこれだけ撮ったねえ。」
やや、あきれながらシンジは一枚一枚の写真を見比べてみる。
「まあな、惣流は一番のお得意さんだったからな。けど、惣流がいなくなって最近商売上がったりだよ。」
しばらく写真とにらめっこしていたシンジが
「これいいかな、ケンスケ。」
と言って一枚の写真を取り上げた。
「ああ、いいぜ。なるほどこいつか。確かに私的には惣流の一番いい顔だよな。」
ケンスケの言葉にシンジも頷いて
「そうだね。アスカもこんな険のない笑顔で笑える時があったんだよね。」
シンジは懐かしそうな顔でじっとその写真を見つめている。
その様子をあきれたような目で見ていたケンスケは
『知らないのか、シンジ。そいつは惣流がシンジを見ている時の顔を隠し撮りした奴なんだけどな。』
と心の中だけで呟いた。
放課後、シンジはそのまま真っ直ぐに下校すると、マンションの近くにあるバイト先の定職屋「げんごろう」に顔を出した。
委員会から「パイロット年金」という形で支払われるはずだった生活手当てをシンジは自分で断ったので、生活費は自力で稼ぐ必要があったからである。
さすがに中学生のバイト先はかぎられていたがシンジは一通りの家事と、確かな料理の技術があったので、小さいながらも活気のあるこの店に雇ってもらい平日の放課後はいつもバイトに明け暮れていた。
その夜、8時すぎに帰宅したシンジは、バイトでくたくたになって、自分の部屋へ着いた途端そのままうつ伏して倒れてしまった。
「……………つ…疲れたなあ…。やっぱり、中学生が一人で生きていくのは無理があったのかな…。」
『もしマヤさんと一緒に暮らしていれば…、いや、せめて生活費ぐらい受け取っておけば…、ここまで苦労しなくても済んだのにな…。』
一時的にシンジは弱気になりかけた…。その時
ピンポーン♪
チャイムが鳴ったのでシンジは重い体を起こして玄関へ顔をだすと
「はい。どなたでしょうか?」
「シンジ君。私よ」
「ああ、マヤさんですか!」
シンジもパッと明るい顔になるとすぐにチェーンを外して扉を開けた。
そしてそこには買い物袋を抱えたマヤが立っていた。
「こんばんわ、マヤさん。」
明るい笑顔で挨拶するシンジを見てマヤは
『これよ。この笑顔が見たかったのよ。』
と内心満足しながら
「こんばんわ、シンジ君。今日は仕事が速く片付いたから寄らしてもらったわよ。」
とにっこり笑って挨拶を返した。
リビングに通されたマヤはソファに腰を下ろすと
「シンジ君。晩御飯は食べたの?」
「いえ、まだですけど…。」
「そう、私も実はまだなのよ…。」
「あ、それじゃ今から何か作りますから…。」
と言ってシンジが台所に行こうとすると、マヤがシンジを制して
「今日は私がシンジ君にご馳走したあげるわ。そう思って買い物も済ましてきたのだから。」
と言ってマヤは買い物袋一杯の材料を見せるとシンジにウインクした。
「すいません。それじゃせめて手伝いますから…。」
「いいのよ。シンジ君は料理が出来るまで待っていてちょうだい。」
「で……でも」
歯切れの悪いシンジにマヤはにっこりと微笑みながら
「いいから大人しくそこに座ってなさい。シンジ君も色々疲れているのだろうから無理しなくていいわよ。」
そう言ってマヤはシンジの頭をつかんで座布団の上にシンジを座らせると、軽快なメロディーを口ずさみながら台所へと消えていった。
シンジはマヤらしくない強引さに思わず苦笑を漏らすと、今回はマヤの好意に甘えて待つことにした。
ただ待っていも退屈なので、週刊誌を読んでいるとしばらくして台所からおいしそうなにおいが充満してきた。
マヤの料理の腕はかつてのシンジの同居人だった女性達とは格段の差があるみたいだ。
「おまたせ、シンジ君。」
と言ってマヤは次々に小型のテーブルの上に料理を並べはじめた。
「「いただきます。」」
二人はそう挨拶してやや遅めの夕食に取り掛かった。
「どう、おいしい?、シンジ君。」
マヤが頬杖をつきながらシンジに尋ねる。
「はい。とっても美味しいです。」
シンジは箸で金平ゴボウを摘まみながら心から答えた。
シンジとマヤは食事をしながら、楽しく雑談をかわしている。
「ごちそう様、マヤさん。本当に美味しかったです。マヤさんって料理の方もかなり出来るのですね。」
マヤは瞳に悪戯っぽい光を称えて
「そう、シンジ君からお墨付きをもらえるなんて、嬉しい限りだわ。」
「またまた、マヤさん。からかわないでくださいよ。」
シンジとマヤはお互いを見つめて可笑しそうに笑いあった。
マヤは今、心からこの場の雰囲気を楽しんでいた。
シンジの年相応の少年らしい心からの笑顔。そして裏を考える必要のない会話。
心が温かい波に満たされていく。
それからしばらくたわいのない会話をしていたが、
「ねぇ、シンジ君。」
マヤは突然真面目な顔をしてシンジを見つめる。
「な…なんでしょうか、マヤさん?」
マヤの雰囲気がやや変化したのでシンジも若干緊張しながら答えると
「ねぇ、シンジ君。もう一度、尋ねるけど私と一緒に暮らしてみない?」
「えっ!?」
「シンジ君。自立しようとしたシンジ君の決意は本当に素晴らしいと私は思うのよ。けど、シンジ君。あなたはまだ中学生なのよ。今の年齢から不必要な苦労を背負い込む必要はまだないと思うのよ。」
「……………………………………………。」
「私のところへくれば、バイトする必要もなくなるし、一人で寂しい思いをすることもなくなると思うわよ。それにね。私もシンジ君と一緒にいると楽しいのよ。もし、仕事から帰ってきた時にシンジ君が出迎えてくれたら、最高なんだけどな。」
マヤはやや上目遣いでシンジを見つめながらシンジに尋ねる。
「………………………………………………………。」
シンジは考え込んだ。
正直、マヤの提案は魅力的だった。
シンジにとってもマヤといると楽しかったからだ。
そして、マヤの言う通り、マヤの元に転がり込めば、シンジの生活の負担は大幅に軽減されるだろう。
最近、私生活の疲れが溜まりがちだったシンジは、マヤの提案にぐらつきかけた。
だが、しばらく悩んだ後
「すいません…。マヤさん。」
シンジは本当に申し訳なさそうな顔をしてそう呟いた。
「シンジ君。」
マヤの瞳がやや暗く沈んだ。
そのマヤの瞳を見てシンジは罪悪感を感じて、慌てて
「ご…誤解しないでくださいね。僕もマヤさんといると楽しいんです。それに確かに一人は寂しいですし、辛いです。だからマヤさんと一緒に暮らせたら……って何度か悩んだりもしたんです。」
「だったら、シンジ君……。」
マヤが再び言いかけたとき、シンジはマヤの言葉を遮った。
「けど、そこでマヤさんに頼ったら、きっと僕はまた駄目になってしまう。…………情けないけど本当に自分で良く分かるんです。今度はマヤさんに甘えて依存してしまうと思うんです。」
『私はシンジ君に甘えて欲しいんだけどな。』
マヤはそう思ったが
「だから、マヤさん。マヤさんの気持ちは本当に嬉しいんですけど、きっと今が僕にとって正念場なんだと思うんです。だからもう少しだけ僕の我が侭を通させてください。お願いします。」
そう言ってシンジはマヤに頭を下げた。
「シンジ君…。」
そこまで言われてはマヤはもう何も言えなかった。
これ以上無理に勧めれば、せっかくのシンジの自立しようとした決心をぐらつかせ、スポイルする結果にもなりかねない。
『そうよね。これはいつもあの状況に流されるだけだったシンジ君が、自分で決めたことなんだものね。だったら、私のすべきことは冬月さんにも話したように暖かく見守ってあげることなんだわ。』
再びそう決意したマヤはにっこりとシンジに微笑みながら
「わかったわ、シンジ君。色々と迷わせるようなことを言ちゃってごめんなさいね。けど、本当に辛くなったらいつでも私を頼ってね。それは決して逃げることとは違うと思うから。何度も言うようだけど、シンジ君はまだ14歳なんだから、大人に甘えていてあたりまえの年齢なんだからね。」
「はい、分かりました。本当に色々と僕なんかのことを心配してくれてありがとうございました。」
シンジは明るく大きな声で答えた。
マヤはそのシンジの笑顔を見て
『このシンジ君の笑顔が毎日見られないのはちょっと残念だけどね。』
と内心の未練を振り払いながらも
「それじゃ、シンジ君。私は遅くなったから、そろそろ帰るわね。」
「え、もうですか?」
マヤは悪戯っぽく笑って
「それともシンジ君、泊めてくれる?確か部屋は空いてるはずよね?」
その一言にシンジは顔を真っ赤にして
「マ…マヤさん…。」
「冗談よ。本当にからかいがいのある子ね。」
「………………………………………………。」
シンジは玄関の所までマヤを送っていくと
「それじゃ、マヤさん。今日はとても楽しかったです。本当にありがとうございました。」
シンジが嬉しそうに頭を下げるとマヤもクスリと微笑んで
「私も楽しかったわよ。シンジ君。また、機会があったら寄らしてもらうわね。」
「はい、何時でも…………。」
といいかけて突然シンジは黙りこんだ。
「どうしたの?シンジ君。」
シンジはやや暗い表情になると
「………いえ、何かこうして考えてみると都合のいい時だけマヤさんを利用しているような気がして…………………。」
マヤはシンジのふさぎ込んだ様子を見て、シンジを慰めるように暖かく微笑むと
「相変わらず他人にやさしいのね、シンジ君は。けど、本当に気にしなくていいのよ。さっきもいったけどシンジ君といられると本当に楽しいし、それに私はシンジ君のことを本当の弟だと思っているから。」
「えっ!?」
「まあ、私なんかにそう思われてもシンジ君には迷惑かもしれないけど。」
そう言ってマヤはやや顔を背けてみせる。
『私もけっこう卑怯よね。こういう言い方をすればシンジ君は否定してくれる…と分かっていてやっているのだから。』
案の定シンジは慌てながら
「そ…そんな、迷惑だなんて…」
口篭もったシンジにマヤは瞳を輝かせて
「そう、それならシンジ君は私を家族として認めてくれるのね?」
嬉しそうに尋ねるマヤの言葉をシンジが拒絶できるはずもなかった。
「は…はい。」
「そう、だったらさっきのことも気にしなくていいわよ。姉が弟の面倒を見るのなんて本当に当たり前のことなんだから。」
「マヤさん…。」
「だからね、シンジ君。私はシンジ君が自分の意志で決めたことなら、どんなことでも応援しようと思っているの。だから、これからも精一杯頑張ってね。私は一生懸命生きているシンジ君が好きだから。」
シンジもマヤの言葉に瞳を輝かせて
「はい。」
と屈託のない笑顔で微笑みながら答えた。
「分かってくれたみたいね。私たちは家族なんだからこれからも遠慮なしでいきましょうね。それじゃ、また今度ね。シンジ君。」
とマヤは挨拶するとエレベータの下降ボタンを押した。
「おやすみなさい、マヤさん。」
シンジも挨拶するとマヤはエレベータの中に入ってドアが閉まるまで手を振っていた。
シンジは部屋へ戻らずにそのまま地上を見下ろしている。
そしてマンションの駐車場からマヤのMS−6が出ていくのを確認してからシンジは自分の部屋へ戻っていった。
部屋へ戻ったシンジはすぐに風呂へ入った。
そして湯船に浸かりながらさきほどあったばかりのマヤの顔を思い浮かべてみる。
『マヤさん、心配そうな顔をしていたな。それはそうだろうな。僕みたいについこの間までうじうじして生きることに絶望していた奴が、いきなり自立して一人で生きようなんて言い出したら心配しない方がおかしいよな…。』
シンジは無意識のうちに右手を閉じたり握ったりしながら
『強くならなきゃ…。せめてマヤさん達が安心して見ていられるくらいには…。』
辛く単調な日常生活が続くなかで、ややぐらつきかけていたシンジの自立しようとした決意はマヤによってリフレッシュされたようだった。
この時のシンジは気づかなかった。
マヤはあえてシンジが弱気になりそうなタイミングを見計らってシンジを尋ねてシンジを励ましていたことを…。
今まで辛いことがあったら、なんでも途中で投げ出していたシンジが、今のところ、か細くも燃え上がった自身の志を全うできているのは、マヤを始めとした大人達の無言の理解と協力があったればこそだった。
だか今のシンジには自分のことを考えるのが精一杯で大人達の隠れた好意に気づく心のゆとりはなかった。
シンジがその事に気づくほど、周りが見えてくるのはまだ数年先の話である。
風呂から出たシンジは寝間着に着替えて明日の準備をすると、自分の部屋へ戻った。
そして今日ケンスケからもらったアスカの写真をフォットスタンドに入れると自分の机の上に立てかけた。
スタンドの中でにっこりと微笑んでいるアスカの写真を見つめて、
「おやすみ、アスカ」
と呟くとシンジはふとんにもぐりこんだ。
するとみるみると睡魔が襲いかかってきて、瞬く間にシンジは眠りの世界へと誘われていった。
こうして、アスカと別れて以後のシンジの日常の一日が終わりを告げた。
それから1ヶ月の間、マヤの協力もあり、シンジは順調に学業とバイトを両立した生活をこなしていた。
だが、今のシンジにとってバイト以上にきつかったのは、毎週土曜日の放課後に委員会本部の地下にあるトレーニング施設で青葉から受講している護身術の訓練だった。
いや、まだ護身術とは呼べないだろう。
現地点ではシンジは基礎体力向上の為のトレーニングしか受けていないのだから。
青葉の作ったカリキュラムはハードを極め、シンジはトレーニングを受講した翌日の日曜日は全身筋肉痛で一歩も動けないという日々を送っていた。
トレーニングを受けてから2ヶ月近くたって、ようやく少しはましになってきたが、それでもトレーニングを受けた当日はくたくたでマンションへ着いた途端、ぶっ倒れる…というのが日常茶飯事だった。
そんなある土曜日の夕刻、シンジは委員会本部からの帰り道をふらふらになりながら帰路に着いた。
「あたたたた…。こりゃ、また明日も筋肉痛かな?青葉さんも少しは手加減してくれればいいのに…。」
その時前方の曲がり角から「待て〜!!」という子供の叫び声が聞こえてきた。
だが疲れが極限まで溜まっていて早くマンションへ帰りたかったシンジはそのことに気づかずに角を曲がろうとしたその時、
「えっ!?」
ドスッ!!
前方からすごい勢いで何かがぶつかってきてシンジは尻餅をついた。
「痛たたたた……。」
シンジは衝突した脇のあたりをさすりながら前を見てみる。
どうやらシンジとぶつかったのは小学生みたいだ。
11歳ぐらいの男の子でぜいぜいと息せきがら、シンジとぶつかったショックで腰を抜かしている。
やがてその男の子はふらふらと立ち上がると、中腰になりながら何かを探し始めた。
シンジがよく見るとシンジの脇に眼鏡が落ちていた。
『これを探しているのかな?』
と思ったシンジは立ち上がって眼鏡をつかむと、少年の前まできて
「これ君のかな?」
と尋ねて、少年の手に眼鏡を置いた。
「………………………………………。」
少年は眼鏡を掛けると何も言わずに俯いてしまった。
その少年の態度に
『僕も人のことは言えなかったけど、ずいぶん無愛想な子だな。』
とシンジが思っていると、突然、小学生ぐらいの女の子が後ろから少年の腕を掴まえた。
「ぜぇ…、ぜぇ…。やっ…と捕まえたわよ、マナブ。随分と手間掛けさせてくれたわね。」
「サ…サキちゃん!」
少年は青ざめながら少女をそう呼んだ。
サキと呼ばれた少女はぜいぜい息を切らしながらも、シンジの目の前で2・3回少年の横面を引っぱたくと
「まったく、いつもボーッとしているくせに逃げ足だけは早いんだから。どこまで逃げてきたのよ!、追いかけるこっちの身にもなってよね!」
少女がすごい剣幕で少年を睨むと、少年は脅えた顔をして
「ご…ごめんなさい。」
とすごすごと謝った。
少女は嫌悪の篭った瞳で少年を睨むと、再び少年の頬を思いっきり引っぱたいて
「何がごめんよ。あんた本当に悪いと思っているの!?どうせ悪いと思っていないくせに、揉め事が嫌だから、適当に謝っているだけでしょう!?まったく、そんなんだから学校でも苛められるのよ、わかってるの!?」
「ごめん。」
「だからその癖やめなさい…っていってるでしょう!」
三度、少女は少年を引っぱたいた。
『なんかこの子達、僕とアスカに似てるな…。』
二人のやり取りを見て、そう感じたシンジはつい懐かしくてクスリと笑ってしまった。
そのシンジの態度に少女はようやくシンジの存在に気がついた。そして
「なに、笑ってるのよ、あんた?」
少女はやや敵意をこめた視線でシンジを睨んだ。
「あ…いや、別に何も……。」
シンジは慌てて弁解すると、少女は後ろを振り返って
「ふん、まあいいわ。ほら、マナブ。カスミ先生も心配しているだろうから、さっさと戻るわよ。それにさっきはあたしも少し言い過ぎたわ。もうあんなことは言わないからもう二度と逃げだすんじゃないわよ。分かったわね?」
と言って少女が手を差し伸べたので
「う…うん。」
と俯いて少女の手を取って歩き出そうとしたら
「アイタタタ……!!」
少年は左足の足首を抑えてうずくまった。
「どうしたのよ、マナブ?」
少年は足首をさすりながら
「さっき、この人とぶつかった時、足をくじいちゃったみたい。」
と言って立ち上がろうとしたが、ふらついてしまった…。
「まったくどこまでも世話の焼ける…。」
少女はあきれたように少年を見下ろしたが、突如矛先を変更してシンジを見上げると
「ちょっと、そこのあなた!」
「な…何?」
キョトンとした声でシンジは尋ねる。
「マナブはあなたとぶつかって歩けなくなったのよ。責任取ってよね。」
「せ…責任って?」
何やら強引な少女の理論にシンジが戸惑っていると
「だから、マナブを運ぶのを手伝いなさい…と言ってるのよ。」
「へっ!?」
いきなりご指名を受けてシンジは素っ頓狂な声を上げた。
「そういうわけよ。マナブを背負ってあたしについてきてね。」
少女はそれだけ告げるとシンジの確認も取らずに歩きはじめた。
「あ…あの…。」
シンジは呆然として少女に尋ねたが、少女は振り返らなかった。
シンジは少年の方を見てみる。
少年は一瞬顔を背けたが、やや縋るような目でちらちらとシンジを見詰める。
それをみてシンジは内心で大きくため息をついた。
結局、シンジは少年をおんぶしながら少女の後をついていくことになった。
訓練の直後で疲れがピークに達している時だったので、少年を背負って一歩歩くつど、シンジの全身の筋肉が悲鳴を上げる。
『本当だったら今ごろ自宅でくつろいでいたはずなのに、なんでこうなってしまったのだろう?』
とシンジは自問したが答えは出てこなかった。
どうもシンジも以前に比べて少しは主体性が出てきたとはいえ、その場の状況に流されやすいところは変わっていないみたいだ。
ましてや、小学生の女の子に押し切られるとは……シンジは再び心の中でため息をついた。
その時、少女がシンジに声を掛けた。
「あたしは伊藤サキ。それでこいつは西村マナブっていうの。で、お兄ちゃん、名前はなんていうの?」
「碇シンジ。」
シンジは自己紹介してから二人を見比べてみる。
今シンジが背負っているマナブという男の子は黒髪の平凡な顔立ちをした、メガネをかけた大人しそうな子で、影のある表情と臆病そうな目つきがかつてのシンジを彷彿させていた。
そして赤茶色の髪をしたショートカットのサキと名乗った少女は、整った顔立ちをしたなかなか可愛い女の子だった。
ただ、気の強そうな表情と勝ち気そうな瞳の色がかつてのシンジの同居人を彷彿させるものがあった。
『もし僕とアスカが幼なじみだったら小学生のころはこういう感じだったのかもしれないな…』
とシンジが二人にかつて自分達を重ねながらサキに質問してみる。
「ねぇ、サキちゃんとマナブ君は幼なじみなの?」
「全然違うわよ。」
ぶっきらぼうにサキは答える。
「ふ〜ん。そうなんだ…。」
「碇さんだったわよね。なんで碇さんはあたし達をそういう風に思ったのよ?」
「いや、随分仲が良さそうに思えたから。」
その言葉にサキは本当に忌々しそうに
「冗談でしょ!あたしとマナブはまだ会って半年くらいしか経っていないわよ。だいたいこんなグズとあたしを一緒にしないでよね。いい迷惑だわ。」
「そ…そうなの?」
シンジが再び質問したがサキは何も答えなかった。
『この二人はどういう関係なんだろう?』
シンジが珍しく他人に興味を示していると
「着いたわよ。」
とサキが声をかけてきたのでシンジはマナブを降ろすと前方の建物を見渡してみる。
2階建ての最近出来たばかりの建物のようだ。表札には「三春学園」と書かれていた。
「ここは…?」
「三春学園。平たく言えば孤児院よ。」
「孤児院!?」
シンジが驚きの声を上げる。
「そ…それじゃ君達は……。」
その時、建物の扉が開いて黒髪の若い女性が姿を現した。
「あ、カスミ先生。」
サキが声を上げる。
先生と呼ばれた女性はにっこりと微笑んでサキの頭を撫でながら
「ご苦労様、サキちゃん。マナブ君を連れ戻してきてくれたのね。」
とサキを誉めると次にマナブの方を向き直って軽くマナブを抱きしめると
「マナブ君。気持ちはわかるけど、いきなり飛び出しちゃ駄目でしょう。みんなマナブ君のことを心配してたのよ。」
「………………………………。」
マナブは何も答えない。
そのマナブの態度を見てカスミが軽くため息をついた。それを見てサキが
「カスミ先生。マナブの奴、足を挫いたみたいだから手当てしてあげてよ。」
「あら、そうだったの。それじゃ急いで手当てをしないと…………………!?」
その時はじめてカスミはシンジの存在に気がついた。
「ねぇ、サキちゃん。こちらの方は?」
「マナブに怪我を負わせた張本人よ。」
サキがあまりに状況をストレートに説明したので、シンジは慌てて
「ち…違います。ぼ…僕は…偶然この子とぶつかって……、そしたら…け…怪我させちゃって…。そ…それで……ここまでこの子をおぶってきたんですですけど……や…やっぱり僕が悪いんですよね。す…すいません。」
支離滅裂な文章を並べて平伏するシンジを見て、カスミはクスリと笑うと
「あらあら、わざわざマナブ君をここまで運んできてくれたんですね。どうもお手数おかけしました。」
と言ってシンジに頭を下げた。
「い…いえ、こちらこそ…。」
つられてシンジも頭を下げる。
「あの、失礼ですけど、お名前はなんというのでしょうか?」
カスミのその質問にサキが
「碇シンジって言っていたわよ。」
「そうですか。碇さんですね。それではあまりお持て成しできませんけど、せっかく来ていただいたのだから、是非あがっていってくれませんまんか?」
「えっ!?」
シンジが驚きの声を上げると
「いえ、月並みですけど、マナブ君を運んでいただいたお礼をしたいので…」
「い…いえ、そ…そんな、おかまいなく…」
シンジが慌てて断ろうとすると
「遠慮なさらないでください。最近来客も珍しいものですから、是非若い方とお話ししたいと思っていたので…。」
「で…ですが…」
熱心に勧めるカスミに対して、歯切れの悪いシンジだったが
「だぁっ…!!もう、うざったいわねぇ!あんた、せっかくカスミ先生が誘っているのだから、さっさと来なさいよ。それともあんたここが孤児院だからって偏見もっているんじゃないの!?」
立腹したサキの態度にシンジは慌てて
「い…いや、そんなつもりは…。」
とシンジが弁解すると
「サキちゃん!お客様に対してそんな言い方失礼でしょう。」
そう言ってカスミがサキを叱ったが、サキはそれを無視して、シンジの手をつかむと
「だったら、問題ないでしょう!男のくせにうだうだしてんじゃないわよ。」
と強引にシンジを引きずるようにして、シンジを建物の中に連れていった。
カスミはその様子を見て、軽くため息をついた。
「あいかわらず、サキちゃんは強引ね。ま…そこがサキちゃんの良いところでもあるんだけど…」
そして次にマナブの手を引くと
「それじゃ、マナブ君。私たちも戻りましょうか。まずは足を手当てしないとね…。」
とマナブを連れてカスミも建物の中に入っていった。
シンジはサキに共用室とプレートの掲げられた大部屋へ通された。
部屋の中には数人のサキよりさらに年少の子供たちがオモチャで遊んでいた。
孤児院というだけあって、小学生から幼稚園くらいの子供が多いみたいだ。
そのうちの何人かの子供は瞳に好奇心を称えてじっとシンジを見つめている。
サキはシンジを中央の椅子に座らせて
「先生が来るまでそこで大人しく待っていなさい。」
と告げた時、周りにいた子供たちがサキに近寄ってきた。
「ねぇ、サキちゃん。遊ぼう…」
「えぇ、いいわよ。今日は何して遊びましょうか?」
サキは笑いながら子供たちの肩を抱きかかえると、シンジの側から離れていった。
そして子供たちと楽しそうに遊んでいるサキの姿を見て、
『随分面倒見の良い娘みたいだな。下の子供たちからも好かれているみたいだし…。』
ふと気づくといつの間にか治療を済ませたらしいマナブもこの部屋に顔を出している。
だが、サキと違いマナブは一人で部屋の隅にうずくまったままじっと俯いている。
他の子供たちもマナブに近づこうとしないみたいだ。
『確かマナブ君だったけ。本当にサキちゃんとは正反対の性格みたいだな…。けど、本当にこの二人ってどことなく僕とアスカに似ている気がするな…。』
あまりに好対照な二人の姿を見てシンジはそう考えた。
しばらく周りの子供たちの遊んでいる姿を眺めながらシンジが待っていると、カスミが盆を持ってシンジの前に現れた。
そしてシンジの前にお茶とお茶菓子を置くとシンジの向かい側の椅子に腰を下ろして
「自己紹介が遅れましたわね、碇さん。私はこの三春学園の園長を務めている三宅カスミといいます。よろしく。」
と言って頭を下げた。
シンジも慌てて頭を下げると、カスミの様子を観察してみる。
年齢は24歳くらいだろうか。
暖かかそうな瞳が特徴で若さの割には母性的な雰囲気を感じさせるような気がする。
黒髪のセミロングの健康美人だと思うが、後ろに束ねた髪とよれよれのトレーナーにジーンズという質素でラフなスタイルが若さの割に所帯じみた印象を与えている。
『マヤさんと同年代だけどタイプがだいぶ違うみたいだな。』
シンジがそう考えていると
「あの、碇さん?」
「あ…はい。いえ、何ていうか…その若さで園長とはすごいですね……。」
カスミはシンジの言葉に軽く舌を出すと
「そんな大したものじゃないですよ。園長といっても、ここにいる大人は実質、私一人だけなんですから。あとはバイトの学生さんを数人雇っているだけで…。」
「は…はぁ…。」
何とも言えずシンジが言葉を濁していると、カスミは自分とこの孤児院についてシンジに話しはじめた。
この孤児院は意外に歴史が浅く実は出来てから半年くらいしか経っていないこと…。
カスミ自身は去年までは保育園で保母を務めており、半年前に人類支援委員会の助力を得てこの三春学園を開いて孤児を受け入れたということ…。
そして今この施設は小学生以下の26人の子供たちが共同生活を営んでいて、その中では11歳のサキとマナブが最上級生であること。
「そうなんですか…。」
シンジがそう答えると今度はカスミがシンジに対して色々と質問した。
「まぁ、碇さんは今お一人なんですか?若いのに感心ですね。」
「え…えぇ、まあ…。」
言いにくそうにシンジは答える。
正直、同じ親なしでもここにいる子供たちに比べると自分がかつてエヴァのパイロットというだけで委員会からかなり優遇されている気がしてならなかった。
シンジはその事に何となく負い目を感じたが、むろんカスミはそのシンジの内心の葛藤には気づかなかった。
「あ…あの、ところでさっきはどうしてマナブ君をサキちゃんが追いかけていたのですか?」
シンジはちょっとした好奇心からそう尋ねてみた。
するとカスミはやや俯いたまま
「実はサキちゃんとマナブ君でちょっとした口論になって…。」
「口論?」
「えぇ、サキちゃんは自主性をもった本当に良い娘です。自分から進んで小さい子供たちの面倒を見たりして、私としてもサキちゃんがいるから本当に助かっているところがあるんです…。」
シンジはその言葉にちらりとサキの方を見てみる。
サキの周りには数人の幼稚園児が集まっており、サキが読んでいる絵本を楽しそうに聞いている。
『確かにあの娘は下の子達に好かれているみたいだな…。面倒見が良さそうというか…。あの歳で本当に関心だよな。それに比べると…』
さらにシンジはマナブの様子を見てみる。
あいかわらずマナブは部屋の隅で一人で蹲っている。
シンジの視線に気が附いたのか、カスミは
「ただ、サキちゃんに比べると、マナブ君の方は今完全に自閉症に陥って心を閉ざしている状態です。マナブ君もここでは最上級生なのだから、サキちゃんのように小さい子の面倒を見て欲しいのですけど、これはきっと私のエゴなんでしょうね。あくまでサキちゃんが出来すぎているだけなのだから…。」
それはそうだろうと…とシンジは思った。
そして一瞬だがサキとマナブを比べてしまった自分自身に赤面した。
シンジには自分がマナブの自閉した態度を非難できるほどの立派な人間だとは到底思えなかったからだ。
「あ…そうそう…。マナブ君がここを飛び出した原因でしたよね?サキちゃんとマナブ君が口論することはここでは全然珍しくないんです。…と言っても大抵サキちゃんが一方的にマナブ君を打ち負かすだけなんですけどね…。」
「はははっ…………。」
なんとなく既視感(デジャブー)を感じてシンジは渇いた笑いを浮かべた。
「マナブ君は今、完全に自分の殻の中に閉じこもっています。サキちゃんから見れば『自分はこんなに頑張っているのに、こいつは自分の不幸に甘えている。』という風に写るらしくて、事あるごとにマナブ君に絡んでいたんです。さっきも、ちょっとしたきっかけから口論になって、マナブ君の自閉した態度にカーッとなったサキちゃんがつい「そんなことだから両親に捨てられるのよ。」と言ってしまっい、マナブ君は泣きながらここを飛び出してしまって…。」
「………………………………………。」
「『親から捨てられた』という想いが強いトラウマになって、マナブ君は他人に心を開くことが出来ない状態なのです。私としてもどうすればいいのか…。」
と言って再びカスミはため息をついた。
「あ…あの、失礼ですけど、『捨てられた…』ってことはマナブ君の両親はまだ生きているということですか?」
シンジが言いにくそうに尋ねると、カスミは首を振って
「いえ、たぶん生きていないと思います。ただ、マナブ君がそう思い込んでいるだけで…。」
シンジは首をかしげる。
そのシンジの態度を見てカスミは次の言葉を紡ぎ出す。
「実は、マナブ君だけじゃなくサキちゃんも…いえ、ここにいる子供達はみんなサードインパクトで両親を失ったんです。」
「!?」
一瞬だがシンジの脳はその単語を受け入れるのを拒絶した。
だが、次の瞬間じわじわとその言葉がシンジの心の中に染みのように広がっていった。
「サードインパクト…。」
シンジは夢遊病患者のようの口調でそう呟いた。
シンジの心臓の鼓動が早くなる。
膝ががたがたと震え出す。
そして今シンジの顔は死人のように青ざめている。
「どうかしたのですか、碇さん?」
急に顔色が変わったシンジをカスミが心配そうに尋ねる。
「い…いえ、何でもありません…。」
そう答えたシンジの顔は未だ青ざめたままだった。
サードインパクト。
人為的に発生したそれは、いきずまった出来損ないの群体である人間を単体の究極の生物へと進化されるプロジェクトであり、またの名を人類補完計画と呼んだ。
計画は半ば成功し、一度は全ての人類の心を一つにまとめあげたが、最終的には失敗して、人類は再びもとのヒトの形を取り戻したはずだった。
だが、その時補完を肯定し現実への帰化を拒んだ心弱き者は全て帰らぬ人となった。
それゆえ結果として人類はその半数に該当する十億もの人口を失うことになる。
そしてその計画の最終的な引き金を引いたのは他でもないシンジである。
カスミの言葉は生活の忙しさに一時期忘れかけていたシンジの強いトラウマを再び掘り起こす結果となった。
「サードインパクトが発生したために今世界は多くの問題をかかえていますが、世界中に大量に発生した孤児の処置もその問題の一つです。その孤児対策の一環として、人類支援委員会は日本各地に孤児院を増設しているのです。この三春学園もそうして建てられた施設の一つです。」
「……………………………………。」
「幸いここは委員会の本部がある区域なので、他の施設よりもいくらか優遇されているのですが、やっぱり苦労するのは子供たちのメンタルケアですね。突然両親を失った子供たちの悲しみは想像を絶するものがありますから。」
カスミは熱心にシンジに自分の苦労を語っている。
どうやら、カスミ自身も傷ついた子供たちの対応に追われてだいぶ精神的にまいっているみたいだ。
そうでなければ、初対面の、ましてやまだ中学生のシンジに対していきなり孤児院の内情を指し示す愚痴のような話しをしたりはしないだろう。
シンジは青ざめた顔で再び周りを見回してみる。
サキやマナブをはじめとしたサードインパクトによって両親を失った子供達。
シンジはここに来てはじめて自分の犯した罪の被害者の遺族と対面した気分だった。
サードインパクト、そして人類補完計画の失敗により永遠に帰らない十億の人々。
今までシンジはその自身の罪を思い悩んだことはあったが、それすら抽象的な遠い世界の出来事のような気がしていた。
そう、あまりにも規模がでかすぎて、そして抽象的すぎて現実感が湧かなかったといってもいいかもしれない…。
いうならば新聞の死亡記事を見た時のような、そんな遠い世界の不幸だと考え逃げていたのかもしれなかった…。
だが、ここに来てシンジは再び自身の罪を正面から突きつけられた。
ここいいる子供たちはみな生きたシンジの罪の証なのだ。
この孤児院という空間はまさにシンジの罪を具現化した姿だった。
『この子達の両親はみんな僕が殺したんだ。』
そう考えたら嘔吐めいた感覚がシンジを襲ってきて、シンジは口元を抑えて立ち上がった。
「あの、碇さん。」
シンジの態度を不審に思ったカスミが声を掛ける。
「………………………………………。」
シンジは何も答えない。
「大丈夫ですか?顔色がよくないようですが?」
心配そうに声をかけるカスミに
「な……なんでもありません。そ…それより、急用を思い出したのでそろそろ失礼してもいいでしょうか?」
「あら、そうなんですか。引き止めてしまってすいません。」
そう言ってカスミはシンジを玄関のところまで送っていった。
「それじゃ、碇さん。今日はわざわざマナブ君を送っていただき、ありがとうございました。もし、また気が向いたら何時でも尋ねてきてくださいね。」
にっこり笑ってそう告げるカスミにシンジはひきつった笑みをかえすと
「そ…それじゃ、また機会があったら…。」
と曖昧に言葉を濁しながら、孤児院からゆっくりと離れていった。
そして手を振るカスミの姿が視界から消えると、シンジは筋肉痛の痛みも忘れて全力で駆け出した。
シンジは逃げた。
一刻も早く自身の罪を刻み込んだこの空間から立ち去りたかった。
必死に逃げ出すシンジの瞳から何時の間にか涙が零れ落ちていた。
つづく…。
けびんです。(^^;
今回はじめて「二人の補完」の外伝なるものにチャレンジしてみました。
さる常連読者の方から「もっと、努力しているシンジの姿を見たい」という話があり、僕個人もシンジが強くなるまでの過程が少し淡泊だったかな…と思ったので、アスカと別れて以後の中学時代のシンジの生活にスポットを当てて外伝を書いてみることにしました。
(その為にアスカが出てこないのにはアスカ人から苦情が出そうなところではありますが(^^;)
ただ、書き始めたら意外に構想が膨らんでしまい、当初の予定より遥かに話が大きくなってしまったので、今回はじめて話を二つに分けて書くことにして、今回の話を前編とすることにしました。(その為に随分と中途半端なところで話をちぎってしまったような気がします。(反省))
後編に関しては、読者の反応を見てから(外伝を書く暇があったら、本編を進めろ…という要望の方が強ければ後回しにしますし)決めたいと思っています。
(どうも最近スランプみたいで筆があまり進みません。困ったものです。)
さて、少し外伝の内容に触れますが、冒頭に出てきたシンジの夢は、マヤの言葉を全て鵜呑みしてしまったシンちゃんが見た勝手な妄想です。(笑)
そして、今回マヤちゃんはかなり「良い人モード」で書き込んでいます。(^^;
どうも14話でのマヤちゃんの活躍ぶりはアスカ人以上に純正マヤちゃんファンにダメージを与えてしまったみたいですが、マヤちゃんが負の感情をもろに示すのはあくまでアスカ一人であって(だからこそ、余計タチが悪いかもしれまんせんが(^^;)他の人(特にシンジには)には「ネルフの良心」と呼ばれていたTV本編のイメージそのままであるということを書きたかったので、外伝ではかなりマヤのシンジへの理解力のある保護者ぶりを比重を高くして書いています。
あと、この地点ではシンジはまだアスカを強く想い続けていたという設定になっています。
(シンジが自分の気持ちを迷いはじめたのは、高校に入学して霧島マナちゃんと再会してからなので…)
そして今回の外伝のテーマはずばり、EOE補完モノのメインテーマの一つといえる、シンジがいかにしてサードインパクトを起こした罪を克服したかに焦点を絞っております。
本編のアスカの方は未だに自身の罪(戦自壊滅による大量殺戮)に悩んでいますが、シンジの方はいかにして自身の罪を受け入れそして乗り越えていったのかをこの外伝で書いてみたいと思います。
そして、その為にまた新しく出てきたオリキャラがサキちゃんとマナブ君の小学生コンビです(^^;
(あとついでにいうならカスミ先生もですけど(笑))
後編ではこの二人とシンジとの絡みがテーマとなるでしょう。
さて、外伝の地点では二人は11歳。…ってことは本編では14歳ということに…。
なんか思いっきり狙っている設定だな(笑)
とはいえ本編でのサキとマナブの出番は未定なんですけどね。(^^;
外伝を書いたのはこれがはじめてなので、果たしてうまく書けたか、はなはだ疑問ではありますが、本編の展開が穏やか(?)なうちにあと2・3本外伝を書いておきたいと思っています。(笑)
では次は後編でお会いしましょう。(本編16話と果たしてどちらが先か…)
ではであ。(^^;